青江三奈の情報(あおえみな) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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青江三奈の情報まとめ
青江 三奈(あおえ みな)さんの誕生日は1941年5月7日です。東京出身の歌手のようです。
卒業、映画、テレビ、兄弟、結婚、子役、ドラマに関する情報もありますね。2000年に亡くなられているようです。
青江三奈のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)青江 三奈(あおえ みな、1941年〈昭和16年〉5月7日 - 2000年〈平成12年〉7月2日)は、日本の歌手(演歌・歌謡曲など)。本名は井原(鈴木) 静子(いはら しずこ)。芸能活動におけるプロフィールでは、生年月日を1945年7月7日としていた。血液型はA型。 東京都江東区南砂出身。1947年区立南砂第一小学校に入学、1953年区立南砂第三中学校に入学を経て、1956年に東京成徳高等学校に進学。1959年に高校を卒業した後、西武百貨店勤務を経てクラブ歌手となり、「銀巴里」などで歌い始める。 「青江三奈」の芸名は、作詞家・川内康範が『週刊新潮』で連載した小説「恍惚」のヒロインの歌手の名前に由来する。 1966年に『恍惚のブルース』でメジャーデビューし、80万枚を売り上げるヒットとなる。特徴的なハスキーな低い声で歌うブルース演歌が評判となった。 1968年に冒頭部分の「色っぽい吐息」が有名な『伊勢佐木町ブルース』が100万枚、『長崎ブルース』が120万枚をそれぞれ売り上げていずれもミリオンセラーを記録。「伊勢佐木町ブルース」で第10回日本レコード大賞歌唱賞と第1回日本有線大賞スター賞を受賞した。 1969年に『池袋の夜』が150万枚を売り上げて自身最大のヒット曲となり、史上初めて2年連続で第11回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。同年の『国際線待合室』も75万枚を売り上げた。1969年度のレコード年間売上金額は青江が全歌手の中で1位、翌1970年度は4位だった。 この頃より、青江と同じくハスキーボイスでビクターレコードから同期デビューの男性演歌歌手・森進一と並んで“ため息路線”と呼ばれた。また1968年に松竹映画の『いれずみ無残』に出演したのを皮切りに、その後1971年までの間に日活の「女の警察シリーズ」や東映の「夜の歌謡シリーズ」など10本以上の映画に脇役として出演した。 1970年代に入るとヒット曲は途絶えるものの、その後1982年発表のシングル『横浜みれん坂』では、第1回日本作曲大賞協会賞を受賞。1984年には初のブラジル公演を開催する。デビュー25周年となった1990年に「レディ・ブルース」で第32回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞するなど、テレビ番組やコンサートなどに精力的に出演し続けていた。 「NHK紅白歌合戦」は1966年の第17回に初出場したのちに、1968年の第19回から1983年の第34回まで16年連続で出場した。1990年の第41回は同年12月に亡くなった「恍惚のブルース」の作曲家浜口庫之助を偲び、7年ぶりに通算18回目で紅白出場した。 1990年に青江三奈名義での歌手デビュー25周年を記念して、初のリサイタルを開催する。1991年にものまねタレントの清水アキラと二人で「ラーメンブルース」のデュエット曲を発表する。1993年に初のジャズアルバム「THE SHADOW OF LOVE」も発表し、ニューヨークでもライブを開催する。1995年に歌手生活30周年リサイタルをNHKホールで開催するなど、1999年1月までコンスタントに歌手活動を行った。 1998年の秋に背中の激痛で受診して膵臓癌と診断されたが、病を隠して仕事をキャンセルせずに歌い続けた。1999年1月23日に渋谷公会堂で催した「青江三奈・魅惑のコンサート」を最後に歌手活動を停止し、1月下旬に都内の病院へ入院し、膵炎による加療と発表された。最後のコンサート当日に痛みを耐えながら熱唱した公演の写真が、追悼の特集の際に公開されることがある。 1999年2月5日に9時間を要した手術が成功し、約3か月の入院生活を経て同年4月24日に退院した。退院後は抗癌剤の点滴のために通院しながら美容院へ通うなど歌手活動の復帰を図るが、2000年2月に体調が悪化して再入院して膵臓癌の転移が発覚する。その後は入退院を繰り返したが、2000年7月2日午後11時40分頃に東京都港区の北里研究所病院で膵臓癌により59歳で死去。葬儀と告別式で親友の水前寺清子が歌手仲間の代表として弔辞を読んだ。 死去から約1年後の2001年7月1日に「伊勢佐木町ブルース」の歌碑が神奈川県横浜市中区のイセザキモールに建立された。歌碑は「楽器の王様」と言われるグランドピアノをモチーフとし、青江三奈自身が歌唱している姿のレリーフが刻まれている。台座部分にはスピーカーが内蔵してあり、スイッチを押すと同曲が約1分間流れる。歌碑に刻まれた楽譜は作曲した鈴木庸一が歌碑の為に書いたものであり、題名と青江三奈の名前は花礼二が書いたものである。歌碑の裏面には、二十世紀に親しまれた横浜に因んだ歌の中からアンケートで選ばれた50曲の曲名も刻まれている。 実家は洋品店を営み、5人兄弟の末っ子として育つ。子供の頃から下町育ちらしい気さくでさっぱりした性格だった。兄たちが皆音楽好きだったことから青江も自然と歌が好きになり、小学生時代に地元の合唱団に入った。NHKの番組内で小学生時代の写真を披露している。中学生の頃の修学旅行では門限を守らず、教師に呼び出されたが、ネグリジェで色仕掛けするイタズラで、計画通りにあえて教師から叩き出されて指導を即座に終わらせるなど活発な女学生であった。高校生の頃に将来歌手になる夢を持ち、在学中にミュージック・スクールで歌のレッスンを受けた。しかしデビューのきっかけがつかめず、高校卒業後は西武百貨店池袋本店の化粧品売り場で働き始めた。 その後女友達に誘われて行った湘南での海水浴で偶然作曲家・花礼二と出会い、これが転機となった。花が作曲家だと知った青江は、彼からジャズ、シャンソン、カンツォーネ、演歌など様々な歌を教わり始める。その後花が青江を「銀巴里」に売り込んだおかげでオーディションに合格し、クラブ歌手として銀巴里の他銀座や横浜などの店で歌うようになる。 その後青江のステージを見たビクターレコードのディレクターからスカウトされ、1966年にデビュー。先述の通りデビュー曲「恍惚のブルース」はヒットしたが、その後1年半もの間ヒットが出ず地道な歌手活動が続く。この頃は、新宿区四谷の家賃3万円のアパートで暮らしていた。 「伊勢佐木町ブルース」のイントロの青江による『色っぽい吐息』は、元々楽譜にはなかった。レコーディング時にスタッフから「伴奏のみのイントロがちょっと寂しい」との意見が出た。そこでディレクターが試しに青江にテキトーに声を出してもらった所、別のスタッフから「もっと色っぽくしてみよう」との案が出て『色っぽい吐息』を追加することが決まった。 同曲の発売後、世間では曲の冒頭の「色っぽい吐息」やサビの「ドゥドゥビドゥビドゥビ…」のフレーズが話題となった。しかし当時は「“吐息”は子供向きではない」「お色気だ」の意見もあり、『第19回NHK紅白歌合戦』に2年ぶり2回目の出場時は、カズーの音と差し替えて白組司会の坂本九は「ダチョウのため息」と紹介した。1982年『第33回NHK紅白歌合戦』で2回目に歌唱した際は「吐息」は差し替えられなかった。 その後1970年(昭和45年)から1979年(昭和54年)まで、マスプロ電工のマスプロアンテナのテレビCMへ出演した。その中で同曲の替え歌として「あなた知ってる〜 マスプロアンテナ〜 見えすぎちゃって 困ァるのォ〜」と唄った。サンバイザーにミニスカート姿でゴルフのグリーンでパッティングする際にミニスカートから内側がうかがえる光景が強調され、「お色気コマーシャル」として強い印象を残した。ただし、その後の青江が出演する同社CMは「お色気コマーシャル」では無くなった。 「伊勢佐木町ブルース」の発売後からの数年間はテレビ出演のほか、1時間のステージを日に2回、時には地方を回ってひと月に28日間の公演をすることもあった。結構なハードスケジュールだったが、歌うことが大好きだったため一切泣き言を言わなかった。この頃のステージ1回の青江の取り分は、60~70万円(大卒の初任給が約4万円の時代)だったとされる。 このことから、1970年代前半は長者番付(歌手部門)の常連となった。所得金額は、1970年度は5位で4732万円、1971年度は6位で5164万円、1972年度は5位で5097万円、1973年度は4位で5202万円、1974年度は6位で4882万円だった。 作曲家の花礼二は青江と大井町で同居しながら歌唱指導した間柄で多くの曲を提供したが、2人は私生活においてもパートナーだった。青江は10歳ほど年上の花を“でんさん”と呼び、デビュー前の1965年頃から恋愛関係となった。ただし当時の芸能界では、「女性タレントに恋人がいると芸能人として売れない」とされていたため、二人は籍を入れないままひっそりと交際を続けた。 しかし1981年に青江の方から突然別れを切り出し、16年間に及んだ事実婚にピリオドが打たれた。花と別れた後それまで以上に歌に打ち込み、先述の通り歌手として新しいことに挑戦したり海外公演なども行った。1990年頃から時々雑誌の対談などで「今考えると、“別れ”っていいんじゃないかと思えるの。人生観とか季節感とか全てにおいて深みが増した気がする。別れを経験していないとこの味わいがないんじゃないかしら」と語っていたという。 しかし2000年2月に膵臓癌の転移が判明した後、青江が花に直接連絡して「戻ってきて」と頼んだことで再会。19年ぶりによりを戻した2人は、青江が死去する約2か月前に病床で婚姻届に署名して結婚した。青江の死後は、青江の兄弟と花の間で相続について訴訟するなどして耳目を集めた。 その後、花は青江の一周忌を終えた頃に熱海市の借家に移住。生前に青江が暮らしていた目黒区の自宅は売却した。彼の自宅には青江がかつて着用したステージ衣装が数十着ほど運び込まれ、大切に保管されており、花の知人の証言では「(花は)いずれ、青江の記念館をつくって彼女の遺品を展示したい」と語っていたという。花は2021年の夏に89歳で逝去した。青江との死別後は一人暮らしで、葬儀は花の親戚が営んだ。 1978年に目黒区柿の木坂にプール付きの豪邸を構え、最晩年までここで暮らした。1981年に花と別れた後から2000年に復縁するまでの間は、この家でお手伝いさんと二人暮らしだった。 「伊勢佐木町ブルース」がヒットしたことで町の名が全国区になり、その後青江は町の名誉会員になった。 休日には、よく麻雀やゴルフをしていた。生前本人はゴルフの腕前について「調子が良いとハーフで40台前半」と言っていた。 旅好きで国内旅行の時はゴルフと温泉を楽しむのが定番だった。また正月にはハワイ、夏休みにはパリを主に旅行していた。 北海道内で主に活動する歌手・明江三奈のことを、「私の妹分、“北海道の青江三奈”として頑張って」と応援していた。 一部を除き、ビクターからリリース。 1976年9月13日から19日までの1週間、浅草国際劇場にて収録。 恍惚のブルース 銀座ブルー・ナイト 昭和おんなブルース 伊勢佐木町ブルース 雨のブルース 星の流れに かりそめの恋 港が見える丘 別れのブルース 九段の母 岸壁の母 明治一代女 奴さん 木遣りくずし すみだ川 木屋町の女 札幌ブルース 新宿サタデー・ナイト 池袋の夜 ある恋の物語 タブー Tabu(Taboo) その名はフジヤマ Se llama Fujiyama 七色の恋 青い月影 Luna Llena (Blue Shadows On The Trail) 国際線待合室 長崎ブルース 小樽の灯 1995年9月23日から25日まで、ニューヨーク・レインボールームにて収録。 Moanin' - 伊勢佐木町ブルース 長崎ブルース 池袋の夜 国際待合室 New York State Of Mind 上を向いて歩こう Love Is Forever - いつかまた 白樺の小径 淋しい時だけそばにいて 恍惚のブルース 女とお酒のぶるーす - Moanin' 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 いれずみ無残(1968年、松竹) - 女役 新 いれずみ無残 鉄火の仁義(1968年、松竹) - 歌手役 夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース(1968年、東映) - 青江三奈役 女の警察(1969年、日活) - 小金井蓉子役 殺すまで追え 新宿25時(1969年、松竹) - あづさ役 夜の歌謡シリーズ 長崎ブルース(1969年、東映) - 銀子役 夜の歌謡シリーズ 悪党ブルース(1969年、東映) - 青木ナナ役 夜をひらく 女の市場(1969年、日活) - 青江三奈役 女の手配師 池袋の夜(1969年、日活) - エリ子役 女の警察 国際線待合室(1970年、日活) - 美奈役 女の警察 乱れ蝶(1970年、ダイニチ映配) - 美穂役 三人の女 夜の蝶(1971年、ダイニチ映配) - 美奈子役 水曜ドラマの花束・存在の深き眠り(1996年、NHK総合) - クラブのママ 役 コンビリンス 大日本除虫菊-ファーブルおばさん害虫記シリーズ マスプロ電工(1970年 - 1979年) 三共(現・第一三共)-メルビオラーメン。清水アキラと共演。 タカラブネ(1993年) 1968年度
第1回日本有線大賞・スター賞「伊勢佐木町ブルース」 第1回全日本有線放送大賞・優秀スター賞「伊勢佐木町ブルース」 1969年度
第2回日本有線大賞・GOLDENスター賞「池袋の夜」 第2回全日本有線放送大賞・金賞 「池袋の夜」 1970年度
第3回日本有線大賞・優秀賞「国際線待合室」 1973年度
1978年度
1984年度
1990年度
2000年度
^ 水前寺によると「手術の後の入院中に私が見舞った時、いつものようにお互いに冗談を飛ばしました。けれど突然『チータ、私何か悪いことした?なんでよ!人一倍体に気をつけていたのに、なんで!』と言って泣き出したんです。彼女が悔し涙を流すのを初めて見ました」と回想している。 ^ 台座のスイッチを押すと同曲が1分間流れる仕組みになっている。 ^ 男ばかりの兄弟か姉がいる兄弟なのかは不明。 ^ 実際には花の友人が池袋で青江の友人と知り合い(今で言うナンパと思われる)、お互いの同性の友達数人を誘って海水浴に行くことになり、青江と花はそれぞれの友人から誘われた。 ^ 1位は北島三郎の7901万円、2位は三波春夫の7727万円、3位は美空ひばりの6215万円、4位は水前寺清子の5352万円。 ^ 1位は美空ひばりの1億3781万円、2位は三波春夫の9024万円、3位は北島三郎の8886万円、4位は水前寺清子の7308万円、5位は森進一の5896万円。 ^ その後花は、『このままでは私はあなたの分身で一生終わってしまう』と言われた」と、ある雑誌のインタビューで打ち明けたという。 ^ また、デビュー当時からの青江をよく知る衣装デザイナーによると、「それまでの青江さんは歌だけでなく、服やヘアメイクなど何でも花先生の言う通りにしていた。花さんと別れる時、青江さんは人生に目覚めたというか、私には子供が親離れしたように見えました」と回想している。 ^ 青江の当時のマネジャーは後年、「彼女自身もう長くないと悟っていたのか、入籍前に『“青江三奈”を作ったのはでんさんだから、でんさんに全部あげたい』と言っていた」と回想している。 ^ 共演:マハロ・エコーズ。 ^ 関種子の同名曲のカバー。 ^ 淡谷のり子の同名曲のカバー。 ^ デュエット:清水アキラ。 ^ “ブルースの女王、青江三奈さんが死去 すい臓がん、54歳”. ZAKZAK. (2000年7月3日). オリジナルの2004年8月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20040812065052/http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2000_07/g2000070309.html 2019年12月19日閲覧。 ^ “青江三奈”. 映画DB. 2022年6月16日閲覧。 ^ 週刊現代1月22日号「昭和の怪物」研究その151・青江三奈「ブルースの女王」p25-32 ^ “夢の紅白|2014/12/28(日)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年12月28日閲覧。 ^ “青江三奈さん逝去から21年…親族と遺産バトルの作曲家夫が孤独死していた”. 女性自身. (2021年12月26日). https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/2053981/ 2022年6月16日閲覧。 ^ “夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース”. 映画.com. 2022年6月16日閲覧。 ^ “夜をひらく 女の市場”. 映画.com. 2022年6月16日閲覧。 川内康範 清水アキラ - 青江のものまねをレパートリーとしており、「ラーメンブルース」で青江とデュエットし、CMでも共演した。 木梨憲武 - 青江のものまねをレパートリーとしている。 栗田貫一 - 同上。 コロッケ (タレント) - 同上。 GOLDEN☆BEST 青江三奈 青江三奈|プロフィール(ビクター) ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data アメリカ MusicBrainz 日本の女性歌手 演歌歌手 日本の女性ジャズ歌手 ビクターエンタテインメントのアーティスト NHK紅白歌合戦出演者 川内康範 西武百貨店の人物 東京成徳大学高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 1941年生 2000年没 膵癌で亡くなった人物 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事
2024/11/15 11:28更新
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aoe mina
青江三奈と同じ誕生日5月7日生まれ、同じ東京出身の人
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