もしもし情報局 > 1月15日 > 医学者

黒川利雄の情報 (くろかわとしお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

黒川利雄の情報(くろかわとしお) 医学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

黒川 利雄さんについて調べます

■名前・氏名
黒川 利雄
(読み:くろかわ としお)
■職業
医学者
■黒川利雄の誕生日・生年月日
1897年1月15日 (年齢1988年没)
酉年(とり年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
北海道出身

黒川利雄と同じ1897年生まれの有名人・芸能人

黒川利雄と同じ1月15日生まれの有名人・芸能人

黒川利雄と同じ出身地北海道生まれの有名人・芸能人


黒川利雄と関係のある人

汪兆銘: 医師団は、名古屋帝大から斎藤真(外科)・名倉重雄(整形外科)・勝沼精蔵(内科)・田村春吉(放射線科)・三矢辰雄(放射線科)、東北帝大から黒川利雄(内科)、東京帝国大学から高木憲次(整形外科)という、当時としては各分野のトップクラスが集められた。


汪兆銘: 2月、東北帝国大学の黒川利雄教授が汪公館を訪ねて診察し、名古屋帝国大学の斎藤真教授に応援を依頼、斎藤真教授は診察を終えると、即座に汪兆銘に来日して入院するよう指示した。


黒川利雄の情報まとめ

もしもしロボ

黒川 利雄(くろかわ としお)さんの誕生日は1897年1月15日です。北海道出身の医学者のようです。

もしもしロボ

卒業、病気、家族、現在に関する情報もありますね。1988年に亡くなられているようです。

黒川利雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉2月21日)は、日本の内科学者、医学博士。東北大学医学部教授・学部長、同大学第10代総長。専門は内科学、消化器病学、臨床放射線学、特に消化管のレントゲン診断学。財団法人宮城県対がん協会を設立、日本初のがん集団検診(胃がん)を行った。正三位。勲一等瑞宝章。勲一等旭日大綬章。文化勲章受賞、文化功労者。日本学士院長。仙台市名誉市民。東京都名誉都民。北海道三笠市出身。東京で死去、享年91。子息に黒川雄二。

1897年1月15日、北海道空知郡三笠山村大字幾春別(現:三笠市幾春別町2丁目)で、福井県人黒川利三吉と熊本県人母ツネの5男3女の長男として誕生。幾春別尋常高等小学校高等科を卒業後、私立北海中学(現北海高校)に入学、1914年3月卒業

1914年9月、仙台の第二高等学校第三部医科に入学、浄土真宗道交会の道交寮入寮。同時期入寮生に、内山泰、比企能達、桂重鴻、古沢平作、渋沢敬三、三沢敬義など。1917年7月、東北帝国大学医科大学に入学、1922年7月卒業

卒業後直ちに副手として山川内科教室(山川章太郎教授)に入局。1923年の関東大震災時に、東北帝国大学医学部が上野に設置した救護班(班長、山川章太郎教授)に参加し救護活動を行った。1927年5月、東北帝国大学医学部助教授。学位授与(医学博士)、学位論文「糖質代謝の基礎的研究、ことに血中注入後の葡萄糖の運命」。1932年4月、内科学研究のため文部省官費留学生として渡独、ベルリン着。その後ハイデルベルク大学(薬理学ホイプナー教授)から、同年8月ウィーン大学(生化学フェルト教授)に移り、核酸に関する研究をしさらに同大学臨床放射線学(ホルツクネヒト教授)教室でプレッサー講師の指導により消化管レ線診断学を学ぶ。1934年7月帰国、直ちに消化管レ線診断法の改良に取り組み、瞬間狙撃撮影装置を試作、次いで連続狙撃撮影装置を完成。当時、胃がんの診断は専ら触診に基づいていたが、この装置によりレ線による診断を可能とした。1936年、山川教授との共著「消化管ノ レントゲン診断」を刊行。1939年、日本消化機学会総会で特別講演「レ線像ヨリ分類サルル胃癌ノ型ト其ノ臨床的特徴」を行う。

1941年3月、山川教授逝去により後任教授に選考され内科学第三講座(黒川内科教室)を主宰し、初代尚仁会(同窓会)会長に就任。1942年、日本内科学会総会、日本消化機病学会総会ならびに日本外科学会総会の合同宿題報告「胃及ビ十二指腸潰瘍ノ診断」を行う。1943年11月、汪兆銘(南京政府主席)夫人陳璧君に胃がんの疑いが生じ、陸軍省医務局の依頼で極秘裡に南京に出張、その際汪兆銘の糖尿病などについても診療を行った。1944年2月、背部銃弾摘出手術を行った汪兆銘に両側下肢の運動麻痺が生じ、再度南京に赴いた。名古屋帝大医学部外科斎藤眞教授と共に診察したが診断が確定できず、汪兆銘を名古屋帝大病院に移し詳細な再検査の結果、多発性骨髄腫と診断された。病状は悪化の一途をたどり同年11月10日に死去、その後南京に赴き葬儀に列席した。この間、延べ10ヶ月間、大学を離れて汪兆銘の診療に没頭し、その間の記録を約300枚(400字詰め原稿用紙換算)残している。1952年、約6ヶ月間、ロックフェラー財団招聘の医学教育視察団(草間良男団長ら6名)として米国、カナダの22大学で、アメリカ医学教育の現状を視察。1959年、1か月間、西ドイツ招聘の学術視察団(兼重寛九郎団長ら10名)として渡独し医学教育体制の現状を視察。

1955年頃から、当時黒川内科在籍の西山正治、長谷川昭衛の協力を得て、胃がん集団検診用機器の製作に着手、1958年に「黒川・西山式がん診断狙撃装置」を作成した。同年8月に日本対がん協会が発足、翌月には都道府県として初の宮城県対がん協会が設立され初代会長に就任。1960年から、大学、医師会、自治体、経済界の協力を得て胃集団検診車「日立号」を用いた日本で最初の「宮城方式」胃がん集団検診を開始、その10年後、宮城県対がん協会は河北文化賞を受賞。

留学時から引き続き日本における消化管レ線診断学の発展に寄与、胃がん、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、慢性腸重積症のレ線診断法を確立した。特に胃がんをレ線診断学的に4分類し、その臨床症状と手術適応及びその予後との関係を明らかにし、手術成績向上に貢献した。同時に、レ線診断に用いる造影剤、撮影装置・方法についても改良を加えた。その他、がん化学療法、糖尿病等に関する研究も行った。1963年、胃がんの研究に関する集大成を日本医学会総会特別講演「日本人の胃癌」として発表。黒川内科からは約20年間に多くの大学教授などが輩出した。。

1948年から1953年まで医学部長二期を勤めた後、1957年、学長選挙により初の東北大学出身者として第10代東北大学学長に就任、学長任期を2期6年とする内規を定め、再選後、1963年退官した。その間、東北大学総合整備計画として、仙台市の「川内・青葉山地区キャンパス移動事業」を立案、開始した。川内地区に関しては、東北大学、宮城県(大沼康知事)、仙台市(島野武市長)の三者協議の結果、それぞれ33.9万平米 (48.6%)、24.1万平米 (34.5%)、2.2万平米 (3.2%) に分割された。東北大学創立50周年事業として、川内記念講堂と松下会館(松下幸之助寄贈)を建造した。一方、青葉山地区(200万平米)のほぼ半分(109万平米)は、既に農地として戦後入植した30戸の開拓者に使用されており、青葉山開拓地解放推進委員会による反対運動が生じ紛糾したが、学長として自ら農家への長期間に渡る説得活動を続けた結果、約2年後に宮城県の斡旋により立ち退きが終わり、東北大学総合整備計画が完了した。

1963年、(財)癌研究会癌研究所所長吉田富三の要請を受け、当時大塚にあった癌研付属病院院長に就任、その後名誉院長として91歳で急逝するまで週二回の外来、回診などを継続した。対外的には、日米医学交流のため、日米科学協力事業(池田・ケネディ会談に基づく)委員会医学部門委員長及び日米医学協力委員会(佐藤・ジョンソン会談に基づく)委員長として度々渡米した。日中医学交流では、日中医学協会会長として、日本医学友好代表団団長、日本医学学術代表団団長として訪中した。国内では、各省庁の委員等を数多く勤めた。文部省では、日本学士院会員に選ばれ、その後第19代学士院長 (1986-88) に就任。田中角榮内閣による「一県一医大構想」において、医科大学・医学部72校設置調査会議長としてその実現に貢献。厚生省では、医療審議会会長、医道審議会会長、中央薬事審議会委員等を勤めた。東京都では、東京都公安委員会委員を15年間務め、名誉都民に選出された。旧制高校への憧憬が強く、旧制二高同窓会尚志会会長を務めた。1987年9月敬老の日にNHKから「百歳までフロンテイア精神で」が放映された。 1988年2月21日午後6時12分、急性心不全のため、三鷹市の杏林大学付属病院にて急逝、享年91。。没後、正三位、三笠市名誉市民称号追贈。1989年、(公財)宮城県対がん協会に「黒川利雄がん研究基金」創設。1991年、宮城県対がん協会および三笠市立博物館に「黒川利雄記念室」開設。

1922年(大正11年)東北帝国大学医科大学卒業、山川内科入局

1930年(昭和5年)ウィーン大学で、消化管レ線診断学研鑽

1941年(昭和16年)東北帝国大学医学部教授、内科学第3講座(黒川内科)担当

1943年(昭和18年)汪兆銘(汪精衛)主席治療のため、中華民国(南京国民政府)出張

1944年(昭和19年)名古屋帝大病院で汪兆銘を診療

1948年(昭和23年)東北大学医学部長。東北大学同窓会長

1954年(昭和29年)日本学術会議委員

1957年(昭和32年)東北大学学長(第10代)

1958年(昭和33年)(財)宮城県対がん協会会長(初代)。日本内科学会総会会長。日本消化器病学会会長。

1961年(昭和36年)日米医学協力事業医学部門委員長。日本癌学会総会会長

1963年(昭和38年)東北大学学長退官、東北大学名誉教授、(財)癌研究会付属病院長

1964年(昭和39年)仙台市名誉市民

1965年(昭和40年)日本学士院会員。日米医学協力委員会委員長

1967年(昭和42年)講書始の儀、「胃ガンについて」ご進講。勲一等瑞宝章

1968年(昭和43年)文化勲章、文化功労者

1972年(昭和47年)宮城県県政功労者

1973年(昭和48年)(財)癌研究会付属病院名誉院長。東京都公安委員

1974年(昭和49年)勲一等旭日大綬章。医道審議会会長

1976年(昭和51年)尚志会(旧制第二高等学校同窓会)会長

1983年(昭和58年)東京都名誉都民

1985年(昭和60年)財団法人日中医学協会会長

1986年(昭和61年)日本学士院長

1988年(昭和63年)正三位追贈

出典:

座右の銘。「山上在山山又山;(山上に山あり山また山」(北海中学浅羽靖校長)。「愚公移山」、「大珠小珠落玉盤」(東北大学山川章太郎教授)。「夕日の西に沈むとき、今日はあだとの恨みなく」、「此のことさえも過ぎてゆく」(土井晩翠)。「富士詣で箱根は知らず知らず越し」(米田和一;歴史家)。「金玉富にあらず」(長與專齋)。「不惜身命、但惜無上道」(朝比奈宗源)。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(親鸞、歎異抄)

医師になった動機は、母と姉を結核で失ったことで患者の「慰め手」になりたいと思ったこと

東京帝國大学医科大学を受験するよう周囲から薦められたが、桂重鴻の強い説得により、東北帝国大学医科大学に決め入学した

木下杢太郎の胃潰瘍治療の主治医を勤めたことが、「木下杢太郎日記」に記されている

胃がん集団検診を始めるに当たって、「マホメットは山よ来たれと言って山を近づけたが、我々は山を近づける訳には行かないので、自ら出かけるのだ」と語っている

黒川内科出身者を終生決して「弟子」という呼び方はせず、親鸞聖人に倣い常に「同門・同学の士・徒」と呼んでいた

寒い場合の診察時には、ポケットに懐炉を入れておき手を温めてから触診していた

臨床家にとって、剖検台上の死体が最大の教師である

「鶴の足、長しと言えどもこれを切らば、悲しまん」、即ち、癌治療の究極のかたちは、薬物治療である

癌という病気は、無症状である。従って、胃がん集団検診が必要である

病気を診ることより、患者を診ることが大事だ

患者を診るときには、自分の家族だと思って診療するべきである

大学生への訓示などで、「金縷の衣は再び得べし、青春は再び得べからず」、「教育というものは、教わったことが全て忘れ去られた後に残るものだ」と述べている

尊敬する人物として、フレミング、シュヴァイツァーを屡々取り上げている

もし私が同じ話を三度も繰り返すことがあれば、公職の全てを辞退する

1897年(19世紀)生まれなので、「何とか2001年まで生きて、3世紀に渡って生き延びたい」と晩年よく語っていた

「消化管ノ レントゲン診断」山川章太郎・黒川利雄 金原書店 1936

「模範看護学 上中下」黒川利雄 南山堂 1937

「レントゲン学的にみた胃ガン診断」山川章太郎・黒川利雄 克誠堂出版 1939

「消化管のレントゲン診断」黒川利雄 中山書店 1949

「下痢と便秘」黒川利雄等 診断と治療社 1955

「レ線像による消化管診断集成 上・下巻」黒川利雄 中山書店 1956

「臨床病態生理学大系」黒川利雄、荒木千里、久留勝、吉田富三監修 中山書店 1957-58

「消化器の臨床」黒川利雄 医歯薬出版 1958

「消化器癌、医学シンポジウム第23集」黒川利雄 診断と治療社 1958

「現代内科学大系」黒川利雄、沖中重雄、田坂定孝監修 中山書店 1959-69

「消化器病学」黒川利雄 南山堂 1959

「肝臓をめぐる最近の諸問題」黒川利雄 文理図書出版社 1960

「生誕百年記念 晩翠先生と夫人 資料と思い出」黒川利雄編 私家版 1961

「現代診断・検査法大系」黒川利雄 上田英雄監修中山書店 1962-77

「理学的診断の要点」黒川利雄等 診断と治療社 1963

「新陳代謝疾患の治療並びに適応処方」黒川利雄、増田久之 金原出版 1964

「新しい診療(1965年版)」黒川利雄、武藤完雄監修 金原出版 1965

「早期胃癌診断集成」黒川利雄、梶谷珠貴、太田邦夫 中山書店 1966

「Carcinoma of the Stomach in Early Phase」 Kurokawa T., Kajitani T., & Oota K. Nakayama Pub .Co. Ltd., 1967

「晩翠先生校歌集」黒川利雄私家版 1967

「胃と胃ガンを語る」黒川利雄 主婦の友社 1969

「ガンを語る」黒川利雄 民主教育協会 1969

「晩翠先生と夫人」黒川利雄私家版 1971

「わかりやすいガンのはなし」黒川利雄、古江尚 同文書院 1972

「医聖名言集」黒川利雄、小川鼎三、高橋功 メジカルビュー社 1973

「現代診断検査法大系 主要症候鑑別」黒川利雄 中山書店 1973

「汪精衛氏を想う」黒川利雄 学士会会報 1973

「X線像による消化管診断学」黒川利雄、山形敞一、増田久之 中山書店 1977

「長生きしよう」黒川利雄(株)マルホ 1978

「中年からの健康管理」黒川利雄 にっかん書房 1980

「消化器疾患の治療薬剤」黒川利雄監修 クリニックマガジン 1981

「がん制圧のとき」黒川利雄 産報出版 1981

「癌の研究」黒川利雄監修 同文書院 1983

「よくわかる脳死・臓器移植一問一答」黒川利雄監修 合同出版 1985

「わかりやすいガン教室―正しい知識と予防・治療のすべて」黒川利雄 同文書院 1987

「現代病理学大系1 病理学序説;疾病とは」黒川利雄 飯島宗一編 中山書店 1995

「山川先生追悼録」山川内科同窓会 1941

「消化器病臨床のために 黒川利雄教授記念論文集」黒川教授退官記念会 昭学社 1964

「尚仁会誌 16 黒川教授退官記念特集号」尚仁会 1965

「十年の歩み」宮城県対がん協会 1968

「黒川利雄 その人と思想」松岡英宗編(社)生命科学振興会 1975

「ともしび求めて ガンとの戦い」河北新報社編集局報道部 河北新報社 1976

「消化管多方向撮影の基礎と実際」西山正治 新興医学出版社 1977

「山上に山あり 医道62年 黒川利雄自伝」河北新報社 1979

「艮陵百十年」東北大学医学部同窓会 1983

「艮陵の教授たち 東北大学における医学教育の源流」桜井実 金原出版 1986

「宮城のお医者さん」読売新聞社東北総局編 宝文堂 1986

「第二高等学校尚志同窓会;黒川会長追悼特集号」尚志会報 第33号 1988

「黒川利雄先生追悼集」尚仁会(東北大学医学部第三内科同窓会)編 1988

「いのち尊し 創立30周年記念誌」(財)宮城県対がん協会 1988

「がんけん」財団法人癌研究会 No.2 1988

「いのち尊し 黒川利雄先生の生涯」NHK・東京尚仁会編 VHSビデオ カラー90分 1990

「黒川利雄先生 追悼特集号」道交 第7号 財団法人道交会 1990

「仙台市名誉市民事績書」仙台市 1995

「艮陵同窓会百二十年史」東北大学医学部艮陵同窓会 1998

「慈心妙手 黒川利雄先生のご業績 その回顧と現代における意義」黒川利雄先生業績集編纂委員会編 中山書店 1999

「春華秋実 糖尿病と消化器病」豊田隆謙 私家版 2000

「山嶺は彼方に」真田松郎 私家版 2001

[木下杢太郎日記から}黒川雄二 尚仁会誌 2001

「随処に主となる」神津康雄 国書刊行会 2006

「東北大学創立100周年記念事業 東北大学100年 学び究めて」河北新報社編 東北大学出版会 2008

「東北大学入学式告辞 昭和36・38年度」CD 東北大学史料館 2008

「東北大学卒業式告辞 昭和33・34年度」CD 東北大学史料館 2008

「東北大学記念講堂落成式式辞 昭和35年10月」CD 東北大学史料館 2008

「がんと闘って 創立50周年記念誌」財団法人 宮城県対がん協会 2008

「東北大学100年 学び究めて」東北大学創立100周年記念事業東北大学出版会 河北新報社編著 2008

「胃集団検診を始めた男たち」長谷川昭衛 私家版 2012

「東北大学病院100年 第1部 医師団 日本初がん集団検診」読売新聞宮城版 2015.7

「黒川さん」新谷史明艮陵同窓会会誌14号 2016

「東北大学をつくったひとびと 黒川利雄」豊田隆謙 東北大学広報誌 まなびの杜 2017

「人間の好時節」石岡国春 艮陵同窓会会誌 東北大学医学部 第16号 2018

「田舎の開業医3代」大里祐一 New Medical Essay 私と医療 2020

「三笠山大観 皇紀二千六百年版」由良新聞 1939

「日本名醫傳」杉村顕道 1953

「徳川夢声対談集 問答有用第12巻」朝日新聞社 1961

「日本の名医」永松正夫 ぺりかん社 1964

「誤診百話 第三巻」杏文堂 1965

「苦心した診断体験集」佐々簾平編 南山堂 1965

「NHK放送 人生読本 1」国民思想社 1966

「カイコだけが絹を吐く」扇谷正造 雷鳥社 1970

「医学を考える」水野肇 潮出版社 1972

「天は東北」河北新報社編 1977

「水野肇対談集 明日の医学」水野肇 クリニックマガジン 1978

「荒城の月 私記」大泉きよ 宝文堂 1979

{木下杢太郎日記]第三巻 岩波書店 1980

「胃を切った人の養生学」熊谷洋 三洋パブリケーション 1981

「わが師わた友」高橋功 玉川大学出版部 1982

「日本の名医たち」水野肇 新潮社 1983

「名誉都民小伝」東京都生活文化局 1984

「旧制中学物語 さっぽろ文庫30」札幌市教育委員会 1984

「続々遍歴」桂重鴻 日本医事新報社 1984

「生涯現役」梅田幸雄 協和企画 1985

「対談 いのちと心」日野原重明 中央法規 1987

「21世紀への直言 地球人にとどけ尚志のこころ」二高尚志同窓会 講談社 1987

「長寿のこころ」社団法人エイジング研究センター ぎょうせい 1988

「癌研究会七十五年史」財団法人癌研究会 1989

「我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実」下巻 上坂冬子 講談社 1999

「一語一会」保坂正康 清流出版 2000

「戦い好まば国亡び戦い忘れなば国危うし」三浦朱門編 光文社 2001

「続 新三笠市史」三笠市史編纂委員会 三笠市 2001

「吉田富三先生 人とその思想」吉田富三生誕100年記念事業委員会 2003

「癌研究会百年史」財団法人癌研究会 2008

「昭和の名医15人 現代につなぐ医の心」水野肇 リベルタス・クレオ 2010

「吉田富三先生の想い出」菅野晴夫 吉田富三顕彰会 2016

^ 「山上に山あり 医道62年 黒川利雄自伝」河北新報社 1979

^ 「黒川利雄 その人と思想」松岡英宗編(社)生命科学振興会 1975

^ 「艮陵同窓会百二十年史」東北大学医学部艮陵同窓会 1998

^ 「黒川利雄先生 追悼特集号」道交 第7号 財団法人道交会 1990

^ この間、母が結核のため亡くなり落胆の余り退学を考えた、NHK朝の随想、1978

^ 「消化器病臨床のために 黒川利雄教授記念論文集」黒川教授退官記念会 昭学社 1964

^ 「尚仁会誌 16 黒川教授退官記念特集号」尚仁会 1965

^ 「汪兆銘夫妻と黒川先生」松永藤雄 尚仁会誌 1965

^ 「汪精衛氏を想う」黒川利雄 学士会会報 1973

^ 「我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実」下巻 上坂冬子 講談社1999

^ 「汪兆銘が消えた」中生加康夫 名古屋朝日新聞社会部連載記事 1994

^ 「汪兆銘に関する黒川利雄の記録について」斎藤達雄 黒川雄二 尚仁会誌 44号 2004

^ 「汪兆銘診療記録」黒川雄二 艮陵同窓会誌19;34-39,2021

^ 東北大学史料館便り,36,2022

^ 「いのち尊し 創立30周年記念誌」(財)宮城県対がん協会 1988

^ 「山嶺は彼方に」真田松郎 私家版 2001

^ 「東北大学病院100年 第1部 医師団 日本初がん集団検診」読売新聞宮城版 2015.7

^ 「黒川利雄先生追悼集」尚仁会(東北大学医学部第三内科同窓会)編 1988

^ 「慈心妙手 黒川利雄先生のご業績 その回顧と現代における意義」黒川利雄先生業績集編纂委員会編 中山書店 1999

^ 「レ線像による消化管診断集成 上・下巻」黒川利雄 中山書店 1956

^ 「早期胃癌診断集成」黒川利雄 中山書店 1966

^ 戦後日本の放射線機器発展史 8、牧野純夫 http://www.jira-net.or.jp/vm/data/x_tv/file/155_hitachim5010.pdf

^ 「癌研究会七十五年史」財団法人癌研究会 1989

^ 「吉田富三先生の想い出」菅野晴夫 吉田富三顕彰会 2016

^ “仙台市名誉市民”. 仙台市. 2022年6月8日閲覧。

^ 東京都名誉都民顕彰者一覧(令和3年10月1日現在) (PDF) 、2022年6月8日閲覧。

^ 「いのち尊し 黒川利雄先生の生涯」1990

^ 木下杢太郎日記第三巻 岩波書店 1980

^ 黒川雄二 木下杢太郎日記から 尚仁会誌 2001

^ 「マホメット換山説話の東西伝搬」、杉田英明、Odysseus (17), 1-18, 2012

^ 「田舎の開業医3代」、大里祐一、New Medical Essay、私と医療、2020

^ 実際の誕生日は、1896年12月25日だが、年末の多忙、深い積雪のせいで届出が年を越したという

^ 校長浅羽靖、教頭戸津高知

^ 父は商人にさせるため小樽の北海商業に入学させようとしたが、どうしてもその気になれず無断で北海中学に願書を出し入学した

^ 特待生・首席

^ 二高を受験したのは、北海中学で私淑していた英語担当の佐々木哲郎先生の勧めによる

^ 医科を選択したのは、母と姉が結核だったことと小学校の校医に憧れたのが理由と語っている

^ 慶應義塾大学教授、内科学

^ 2年時に腸チフスに罹患し大学付属病院に1か月半入院、その後鳴子温泉で療養し、このため1年留年した

^ 本来、病理学を専攻したかったが、最も親友(心友と言っていた)の内山泰(岩手医科大学病理学教授)も病理学志望なので競争を避け内科を専攻した

^ すでに1925年にインスリンを家兎に注射し、血糖と無機リンを測定し報告している

^ ウィーン時代には、岡正雄(民俗学者)、荻生矩久雄(京大教授、薬理学)、有馬大五郎(国立音大学長)、浜崎幸雄(岡山医大教授、病理学)、遠藤慎吾(俳優)、小河原四郎(日本医大教授、解剖学)、佐藤秋夫(慶大皮膚科、春夫弟)、尾高朝雄(法学者)、尾髙尚忠(指揮者)、田中路子(声楽家)、井上園子(ピアニスト)、古沢平作(精神分析学者)らと交流した。

^ 東北帝国大学医学部出身者として初めての医学部教授

^ 東京帝大教授、東大生産技術研究所所長、航空技術研究所(現航空宇宙技術研究所)初代所長

^ 西山正治 (1922-1993)、東北大学医学部1948年卒、青森県八戸市で開業。日本対ガン協会賞、国際医学放射線学会賞、日本医師会最高優功賞、河北文化賞を受賞。

^ 長谷川昭衛 (1928-2021)、東北大学医学部1953年卒、群馬県伊勢崎市で開業。

^ 当時の武藤完雄外科教授とは特に公私ともに親しく、「MKコンビ・ライン」と称されていた。MKとは、武藤Muto・黒川Kurokawaとドイツ語のMagen Krebs(胃がん)を意味する。

^ 石館守三、吉田富三らによって研究開発されたナイトロミンの臨床応用を日本で初めて行った。

^ 松永藤雄(弘前大学教授、都立駒込病院院長)、山形敞一(東北大学医学部教授)、斎藤達雄(東北大学抗酸菌病研究所教授、癌研付属病院院長、杉山尚(東北大学医学部附属温泉医学研究実験所教授)、神津康雄(日本医師会常任理事)、海藤勇(岩手医科大学教授)、二階堂昇(宮城県立がんセンター長)、天木一太(日本大学医学部教授)、増田久之(秋田大学医学部教授)、後藤由夫(東北大学医学部教授)、石川誠(山形大学医学部教授)、大柴三郎(大阪医科大学教授、宮城県対がん協会会長)、涌井昭(東北大学抗酸菌病研究所教授)、若狭治毅(福島県立医科大学学長)など(1936年-1956年、入局順)

^ 昭和32年(1952)6月、決選投票結果、黒川利雄282票,渡辺寧220票

^ 最終的には、青葉山地区200万平米は、ゴルフ場(88万平米)、宮城教育大学(19万平米)、東北大学(76万平米)に分割された。なお、農学部は土質、排水等の点で実験場地に不適だとして当初から移転に反対だったが、2017年に青葉山新キャンパスに移動を完了した。

^ 墓所、東京都八王子市上川霊園

^ 主として、東北大学医学部関係者に聞いたガンの最新情報を72回連載したもの。黒川利雄は序文の他、木村国立がんセンター副院長、佐分利厚生省公衆衛生局長との座談会をしている。

^ 黒川利雄記事、「マホメットをも招く-名医と呼ばれるには-」

^ 著者は、宮城県対がん協会の事務局長として、長年黒川利雄会長を支えこの自伝中でその人間に触れている。

^ 著者は、東北大学医学部卒、黒川内科医局員、その後東京で開業し東京尚仁会幹事として長年の親交があった。

^ 著者は、東北大学医学部卒、黒川内科出身、群馬県伊勢崎市で開業。

^ 著者は、東北大学医学部卒、福島県いわき市医療センター院長

^ 東北大学医学部同窓会発行

^ 著者は、東北大学医学部卒、黒川内科出身、がん細胞診の開拓者として知られる。

^ 著者は、東北大学医学部卒、秋田県鹿角市で開業

^ 佐々廉平(さっされんぺい)、杏雲堂病院院長を長く務めた

^ 「天命と寿命」と題して三回に渡り放送した。

^ 黒川利雄記事、「最後の瞬間まで臨床医でありたい」

^ 黒川利雄記事、「21世紀へ贈るわが人間観」pp.157-167

^ 長寿をとげた人々との懇談会記録で、黒川利雄の「無理をせず生きる」を含む。

^ 黒川利雄のインタビュー記事を含む

^ 防衛大学校の卒業祝辞集で、黒川利雄の「人間の英知は人名の尊重から」(1980) を含む。

^ 著者は、黒川利雄と生前親交が極めて深く多くの著書で触れている。

(公財)宮城県対がん協会

三笠市立博物館

北海高等学校

職務代行者 佐藤昌介 1907-1910

事務取扱 岡田良平 1911

初代 澤柳政太郎 1911-1913

第2代 北条時敬 1913-1917

事務取扱 小川正孝 1917

第3代 福原鐐二郎 1917-1919

第4代 小川正孝 1919-1928

第5代 井上仁吉 1928-1931

第6代 本多光太郎 1931-1940

第7代 熊谷岱蔵 1940-1946

第8代 佐武安太郎 1946-1947

第8代 佐武安太郎 1947-1949

第9代 高橋里美 1949-1957

第10代 黒川利雄 1957-1963

第11代 石津照璽 1963-1965

事務取扱 元村勲 1965

第12代 本川弘一 1965-1971

事務取扱 水野弥彦 1971

第13代 加藤陸奥雄 1971-1977

第14代 前田四郎 1977-1983

第15代 石田名香雄 1983-1989

第16代 大谷茂盛 1989-1990

事務取扱 吉永馨 1990

第17代 西澤潤一 1990-1996

第18代 阿部博之 1996-2002

第19代 吉本高志 2002-2006

第20代 井上明久 2006-2012

第21代 里見進 2012-2018

第22代 大野英男 2018-2024

第23代 冨永悌二 2024-

学部長/主事 山形仲芸 1888/1888-1894

山形仲芸 1894-1901

心得/校長 山形仲芸 1901/1901-1912

山形仲芸 1912-1918

吉村寅太郎 1887-1894

吉村寅太郎 1894-1897

澤柳政太郎 1897-1898

菊池謙二郎 1898-1900

中川元 1900-1911

三好愛吉 1911-1915

武藤虎太 1915-1921

岡野義三郎 1921-1928

玉虫一郎一 1928-1932

阿刀田令造 1932-1943

野口明 1943-1949

事務取扱/校長 萩庭三寿 1949/1949-1950

中川謙二郎 1906-1910

事務取扱/校長 中川元 1910-1911/1911-1912

神谷竜彦 1912-1915

心得/主事 新保徳寿 1915/1915-1921

新保徳寿 1921-1934

鶴見一之 1934-1944

鶴見一之 1944-1945

田中正三郎 1945-1948

事務取扱/校長 内田黍郎 1948-1949/1949-1951

雀部顕宜 1926-1933

三矢英松 1933-1944

事務取扱 飯野哲二 1944-1945

羽生隆 1945-1949

高柳真三 1949-1951

近藤正二 1939

石川哲郎 1939-1941

八木精一 1941-1944

佐武安太郎 1944

佐武安太郎 1944-1946

佐藤彰 1946-1947

佐藤彰 1947-1948

黒川利雄 1948-1952

カテゴリカテゴリ

コモンズメディア

東北大学

テンプレート東北大学

テンプレート源流・前身諸機関

一覧記事人物

初代 黒川利雄 1963-1963

第2代 鈴木廉三九 1963-1976

第3代 河上房義 1976-1983

第4代 山口格 1983-1989

第5代 矢澤彬 1989-1995

第6代 斎藤正三郎 1995-2000

第7代 四ツ柳隆夫 2000-2007

第7代 四ツ柳隆夫 2000-2007

第8代 宮城光信 2007-2009

福澤諭吉 1879

西周 1879-1880

加藤弘之 1880-1882

西周 1882-1886

加藤弘之 1886-1895

細川潤次郎 1895-1897

加藤弘之 1897-1906

加藤弘之 1906-1909

菊池大麓 1909-1917

穂積陳重 1917-1925

岡野敬次郎 1925

桜井錠二 1926-1939

長岡半太郎 1939-1947

長岡半太郎 1947-1948

山田三良 1948-1961

柴田雄次 1961-1970

南原繁 1970-1974

和達清夫 1974-1980

有沢広巳 1980-1986

黒川利雄 1986-1988

脇村義太郎 1988-1994

藤田良雄 1994-2000

市古貞次 2000-2001

長倉三郎 2001-2007

久保正彰 2007-2013

杉村隆 2013-2016

塩野宏 2016-2019

井村裕夫 2019-2022

佐々木毅 2022-

VIAF

WorldCat

アメリカ

日本

日本の医学者

日本の内科医

腫瘍医

文化勲章受章者

勲一等旭日大綬章受章者

勲一等瑞宝章受章者

名誉都民

日本学士院会員

日本学術会議会員

癌研究会の人物

東北大学総長

東北大学の教員

東北大学出身の人物

旧制第二高等学校出身の人物

北海高等学校出身の人物

北海道出身の人物

1897年生

1988年没

VIAF識別子が指定されている記事

WorldCat Entities識別子が指定されている記事

LCCN識別子が指定されている記事

NDL識別子が指定されている記事

2024/11/20 10:19更新

kurokawa toshio


黒川利雄と同じ誕生日1月15日生まれ、同じ北海道出身の人

上野 純輝(うえの じゅんき)
1997年1月15日生まれの有名人 北海道出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 上野 純輝(うえの じゅんき、1997年1月15日 - )は、北海道北広島市出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)。 東海大四高在学時…

佐藤 龍世(さとう りゅうせい)
1997年1月15日生まれの有名人 北海道出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 佐藤 龍世(さとう りゅうせい、1997年1月15日 - )は、北海道厚岸郡厚岸町出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。埼玉西武ライ…

柴田 繁雄(しばた しげお)
1922年1月15日生まれの有名人 北海道出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 柴田 繁雄(しばた しげお、1922年1月15日 - )は、台湾出身のプロ野球選手。 嘉義農林から1946年にセネタースへ入団。19…

原田由佳(原田 由佳)
1970年1月15日生まれの有名人 北海道出身

原田 ゆか(原田 由佳、はらだ ゆか、1970年1月15日 - )は、日本の女性シンガーソングライター。有限会社ギルドBの代表取締役(代表者)。身長は165cm、血液型はO型。 Angel Note…

渡辺 惣蔵(惣藏)
1907年1月15日生まれの有名人 北海道出身

渡辺 惣蔵(惣藏、わたなべ そうぞう、1907年(明治40年)1月15日 - 1985年(昭和60年)1月25日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。 北海道札幌郡札幌村大字苗穂村(現:札幌市…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


黒川利雄と近い名前の人


黒川 大聖(くろかわ たいせい)
1998年5月3日生まれの有名人 福岡出身

黒川 大聖(くろかわ たいせい、1998年5月3日 - )は、日本の俳優、モデル。福岡県出身。ミシェルエンターテイメント所属。 2018年から映画24区に通い冨樫森監督に師事。 2019年からミシ…

黒川 芽以(くろかわ めい)
1987年5月13日生まれの有名人 東京出身

黒川 芽以(くろかわ めい、1987年5月13日 - )は、日本の女優。愛称は、めいてぃー、meimei。東京都出身。Breath所属。既婚。2児の母。 1993年 - 手延そうめん「揖保乃糸」のC…

黒川 智花(くろかわ ともか)
1989年8月1日生まれの有名人 東京出身

黒川 智花(くろかわ ともか、1989年8月1日 - )は、日本の女優。本名、黒川 智子(くろかわ ともこ)。血液型はO型。 東京都出身。研音所属。 2001年、『りぼん』モデルグランプリに選ばれ…

黒河 貴矢(くろかわ たかや)
1981年4月7日生まれの有名人 愛媛出身

黒河 貴矢(くろかわ たかや、1981年4月7日 - )は、愛媛県周桑郡丹原町(現:西条市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。 市立船橋高校では高校総体や選手権で優勝するなど数…

黒川 敦彦(くろかわ あつひこ)
1978年9月6日生まれの有名人 愛媛出身

黒川 敦彦(くろかわ あつひこ、1978年〈昭和53年〉9月6日 - )は、日本の実業家、政治活動家。政治団体「つばさの党」代表、市民団体「今治加計獣医学部問題を考える会」共同代表。元政治家女子48党…


黒川 万由美(くろかわ まゆみ)
9月21日生まれの有名人 福井出身

黒川 万由美(くろかわ まゆみ、9月21日 - )は、日本の女性声優。福井県出身。2010年4月よりリマックス所属。2009年1月までアトミックモンキーに所属していた。 ケロロ軍曹(2008年、双子…

黒河 奈美(くろかわ なみ)
1980年1月25日生まれの有名人 大阪出身

黒河 奈美(くろかわ なみ、1980年1月25日 - )は、日本の女性声優、ナレーター、舞台女優。ぷろだくしょんバオバブ所属。大阪府出身、福岡県在住。「黒川奈美」と誤記されることもある。 幼稚園の時…

黒川 なつみ(くろかわ なつみ)
1972年7月6日生まれの有名人 東京出身

黒川 なつみ(くろかわ なつみ、1972年7月6日 - )は日本の女優。劇団テアトル・エコー劇団員。エニープロダクション所属。東京都出身。 今日、悲別で(富良野塾全国ツアー) 歸國(富良野塾全国ツア…

黒川葉月(くろかわ はづき)
【NMB48】
1998年8月5日生まれの有名人 大阪出身

NMB48(エヌエムビーフォーティーエイト)は、日本の女性アイドルグループである。秋元康のプロデュースにより2010年10月に誕生した。大阪市・難波にある専用劇場「NMB48劇場」を拠点とし近畿地方を…

黒川 博行(くろかわ ひろゆき)
1949年3月4日生まれの有名人 愛媛出身

黒川 博行(くろかわ ひろゆき、1949年3月4日 -)は、日本の小説家・推理作家。愛媛県今治市生まれ。大阪府羽曳野市在住(2014年時点)。京都市立芸術大学美術学部彫刻科卒業。妻は日本画家の黒川雅子…


黒川 裕一(くろかわ ゆういち)
1972年3月17日生まれの有名人 熊本出身

3月17日生まれwiki情報なし(2024/11/04 09:05時点)

黒川 紀章(くろかわ きしょう)
1934年4月8日生まれの有名人 愛知出身

黒川 紀章(くろかわ きしょう、本名:くろかわ のりあき、1934年(昭和9年)4月8日 - 2007年(平成19年)10月12日)は、日本の建築家(一級建築士)、思想家、実業家、政治活動家。株式会社…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
黒川利雄
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

アイドルカレッジ asfi Especia ALLOVER 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「黒川利雄」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました