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YOSHIKIの情報 (よしき)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【5月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

YOSHIKIの情報 (よしき) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]

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YOSHIKIさんについて調べます

■名前・氏名
YOSHIKI
(よしき)
■職業
ミュージシャン
■YOSHIKIの誕生日・生年月日
1965年11月20日 (年齢58歳)
巳年(へび)、蠍座(さそり)
■出身地・都道府県
千葉出身

YOSHIKIと同じ年に生まれた芸能人(1965年生まれ)

YOSHIKIと同じ誕生日の人(11月20日)

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YOSHIKI

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YOSHIKI(よしき)さんの誕生日は1965年11月20日です。千葉出身のミュージシャンのようです。

もしもしロボ

経歴、音楽性などについてまとめました。ドラマ、映画、テレビ、兄弟、現在、解散、卒業、脱退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。現在の年齢は58歳のようです。

YOSHIKI(よしき、1965年11月20日 - )は、日本のミュージシャン、ドラマー、ピアニスト、マルチプレイヤー、ソングライター、音楽プロデューサー、 実業家。本名は林 佳樹(はやし よしき)。

ロックバンドX JAPANのリーダーであり、映画テレビ、アニメなど様々な作品の音楽コンポーザーも務める。主なヒット曲はX JAPANの作品「紅」「ENDLESS RAIN」「Silent Jealousy」「Tears」「Rusty Nail」「Forever Love」など。

世界的に活躍するアーティストとしてこれまで、ボノ(U2)、サラ・ブライトマン、ウィル・アイ・アム(ブラック・アイド・ピーズ)、KISS、ジョージ・マーティン(ビートルズプロデューサー)、ロジャー・テイラー(クイーン)、スコーピオンズなどと共演している。身長175cm。血液型はB型。誕生星座はさそり座。

1989年にメジャー・デビューしたヴィジュアル系ロックバンド、X JAPANのドラマー/ピアニストとしての活動が著名であり、バンドのリーダー、メインコンポーザーも務めている。

ソロとしても3作のスタジオ・アルバム『Eternal Melody』(1993年)、『ETERNAL MELODY II』(2005年)、『YOSHIKI CLASSICAL』(2013年)を発表しており、これまでのソロとしての主な仕事には『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』のための奉祝曲(1999年)、『日本国際博覧会(愛知万博)』の公式イメージ・ソング(2005年)、ゴールデングローブ賞の公式テーマ・ソング(2012年)などがある。

1986年に設立したインディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」は、LUNA SEAやGLAY、ZI:KILLなどを輩出し、ヴィジュアル系ムーブメントのパイオニアの1つとなった。1993年からは他のアーティストのプロデュースも始め、これまでにNOA、GLAY、西城秀樹、北野井子、DIR EN GREY、工藤静香、ぽるん、松田聖子、SixTONESなどの作品を手がけている。

2000年に「日本社会と文化に貢献した人物」として文部大臣表彰を受けている。2010年に米国非営利公益法人501(c)(3)「Yoshiki Foundation America」を設立して国際的な人道支援に取り組み、経済誌『Forbes Asia』により2019年の「Heroes Of Philanthropy」(フィランソロピーの英雄たち)としてアジア太平洋地域の偉大な篤志家30人に選出された。2021年には熱心なチャリティ活動が称えられて紺綬褒章を受章した。

2014年のマディソン・スクエア・ガーデンにおけるX JAPANの公演、2017年のウェンブリー・アリーナにおけるX JAPANの公演、同年のカーネギー・ホールにおけるYOSHIKI単独公演により、彼はアジア人として初めて音楽の世界三大殿堂を踏破した。このような業績により米メディア(Consequence)でYOSHIKIは「日本の歴史上最も影響力のある作曲家の1人」として見なされている。「世界に通用する芸術を生み続けたい」彼の情熱がX JAPANを世界的な成功に導き、彼は多年にわたり音楽の革新者として活動していることが知られている。

YOSHIKIの持つ才能とは、世界中で100年聞かれる曲を作り出す力であり、彼の曲には心を打つメロディと美しい和声があり、それは作曲家の心の震えが直接伝わってくる彼独自の音楽なのであると、主張する者もいる。

2023年9月、日本人としては初めてアメリカ・ハリウッドのチャイニーズ・シアターの前庭に自身の手形・足形(靴形)が刻まれ、音楽、ファッション、映画、慈善活動に貢献した「日本の歴史における最も影響力のあるミュージシャンおよび作曲家」として称えられた。

経歴

1965年11月20日に、千葉県館山市の老舗呉服店を営む家庭の2人兄弟の長男として生まれる。父はジャズ・ピアノ、母は三味線、叔母は琴の演奏を嗜むなど音楽的な一面があった。また、父は先代から家業を継ぐまでプロのタップ・ダンサーであった。現在マネージメントを行っているのは5歳年下の実弟、光樹。

幼少期は仕事で忙しい両親に代わり、主に家政婦が兄弟の面倒を見ていた。4歳になると父からピアノを買い与えられ、自宅そばのピアノ教室でクラシック・ピアノのレッスンを受け始める。この頃、幼稚園でのちにバンドを組むToshlと出会う。日頃から父が購入するクラシック音楽のレコードを好んで聴き、8歳の時にシューベルトの交響曲第8番ロ短調「未完成」とベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調 が収録されたレコードを初めて自分の小遣いで購入した。

病弱で重い小児喘息を患っていたために、小学校中学年になるまで頻繁に入退院を繰り返す生活を余儀なくされた。病室では父が見舞いに持参した子供向けの偉人伝を愛読し、とりわけ若くして難聴となりながらも数々の名曲を残したベートーヴェンの苦難の人生に対して強い興味を抱いた。

9歳頃からピアノで作曲をはじめ、10歳から14歳まで学校のブラスバンド部でトランペットを担当した。また中学から高校まではブラスバンド部と並行してサッカー部にも所属しており、チームの司令塔であるミッドフィールダーのポジションを担当していた。毎年、誕生日には楽器を買い与えられることが恒例で、トランペットを始めたのも10歳の誕生日に父から買ってもらったことがきっかけだったが、その翌年の8月に父が自殺した(享年34)。それまではクラシック音楽しか聴いていなかったが、行きつけのレコード店で偶然目にしたジャケットに惹かれて購入したキッスのシングル「ラヴ・ガン」と、母に頼み連れていってもらったキッスの『ロックンロール・オーバー・ツアー』の日本武道館公演をきっかけにロックに魅了され、11歳でドラムスを始めた。ちなみに、12歳でギターも始めたが、細かい作業が性に合わず早々に手を引いた。

11歳で初めての4人組バンド「DYNAMITE」(メンバーは小学校の同級生2人と幼馴染みでギターが弾けたToshl)を結成。当初はドラムスとボーカルを担当し、近所の貸しスタジオでキッスの楽曲を練習して腕を磨いていたが、声変わりが遅く高声しか出すことができなかったため、中学校に進学後、新たに同級生をボーカルに迎え、ドラムスに専念することとし、バンド名も「NOISE」に改称し、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどの楽曲を演奏した。

より複雑なリズムを叩くため、14歳の誕生日に母に頼んでダブル・ベースのドラムセットを購入してもらい、同じくダブル・ベースを使うコージー・パウエルを手本にレインボーの曲「スターゲイザー」などをカバーし練習を積んだ。中学校の体育館で開かれた予餞会で初めてのステージを踏み、安房高校に進学した後もNOISEとしてレッド・ツェッペリンやUFO、レインボーなどの楽曲を学校の文化祭などで演奏した。

1982年の夏、大学受験に専念するメンバーが離脱したNOISEを解散。当時はアイアン・メイデンのアルバム『鋼鉄の処女』や『キラーズ』に感化されており、ボーカルに転向したToshlと他校の生徒によるツインリードギター編成で、よりハードなロックを指向したバンド「X」(現在のX JAPAN)を新たに結成する。Xでは既存の楽曲の演奏だけでなくオリジナル楽曲の作曲も始め(Xのために初めて作曲した楽曲「I'LL KILL YOU」は、1985年にXの1作目のシングルとしてリリースされている)、演奏のレパートリーを着実に増やしていった。

高校3年から音楽大学を目指して本格的にピアノに打ち込み、受験用のプログラムを通して、ソルフェージュ、和声、楽典などの音楽理論を学んだ。受験勉強の合間にはXとしていくつかのバンド・コンテストに出場。ヤマハ主催のアマチュアのバンド・コンテスト『EastWest』の千葉県大会ではバンドとしての受賞こそ逃したものの、個人でベスト・ドラマー賞を受賞した。Toshlもまた、その後に参加したコンテストでベスト・ボーカル賞を受賞していた。このことにバンドとしての可能性に自信を深め、大学に進学せず東京でバンドを続ける決意を固めたことをToshlに告げられ、これに呼応し音楽大学への推薦入学が決まっていた道を断つ決心をした。

高校を卒業すると、本格的にバンド活動を行うためにToshlと共に上京。ライブ・ハウス時代には、Xが出演していたライブ・ハウス「神楽坂EXPLOSION」の店員がDoomのメンバーであった繋がりから、Doomの初ライブでヘルパーとしてドラムを叩いている。また、Xの活動と並行してLip CreamのNAOKI、ORANGEのACTとともにパンク・バンド「L・O・X」を結成して活動していた。

Xはメンバーが度々変わるバンドであったためメンバーはToshlと二人だけの時代もあった。

Xのレコードをリリースするため、1986年にインディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」を設立。1988年に同社よりリリースしたXの1作目のアルバム『Vanishing Vision』はオリコンの週間チャートで最高19位を記録し、インディーズ・レーベルの作品として日本のメジャー・チャートにランクインした初めてのアルバムとなった。翌1989年にXの2作目のアルバム『BLUE BLOOD』でCBSソニーからメジャー・デビュー。年末には日本有線大賞の最優秀新人賞、全日本有線放送大賞の最優秀新人賞、第4回日本ゴールドディスク大賞の最優秀新人賞などを受賞した。X JAPANの1993年のアルバム『ART OF LIFE』からはバンドのプロデューサーも担っている。

1991年の10月31日にTMNの小室哲哉とともに記者会見を開き、2人で新ユニット「V2」を結成することを発表。12月5日に東京ベイNKホールでV2のコンサート『V2 SPECIAL LIVE VIRGINITY』を開催した。同年、初のソロ名義作として、自身の選曲によるクラシック音楽のコンピレーション・アルバム『Yoshiki Selection』を12月12日に発表。このアルバムは第6回日本ゴールドディスク大賞で洋楽アルバム賞(クラシック部門)を受賞した。

1992年にV2としてシングル「背徳の瞳〜Eyes of Venus〜」をリリース。また、ロサンゼルスに自身のレコーディング・スタジオと自宅を購入し、制作と生活の拠点をアメリカに移した。MIDIやシンクラヴィアなどコンピュータ・ベースの制作環境に関心を持ち、バンドの枠を超えたプロジェクト「Violet UK」を構想する。1992年7月23日に東芝EMIと初めてとなるソロ契約の締結を発表。7月30日に日本武道館で『YOSHIKI TALK LIVE at 武道館』を開催し、1993年にX JAPANの作品としてリリースされた自らの半生を描いた楽曲「ART OF LIFE」をピアノ協奏曲形式で初演した。また、年末にNHKホールで行われた『第43回NHK紅白歌合戦』の全出場歌手で歌う合唱曲「TEARS〜大地を濡らして〜」を作詞・作曲し、会場のパイプオルガンで伴奏した。「TEARS〜大地を濡らして〜」もまた、X JAPANのシングル「Tears」として1993年にリメイクされた。東芝EMIからは、ビートルズのプロデューサーとして知られるジョージ・マーティンとのジョイント・プロジェクトとして、アルバム『Eternal Melody』と、シングル「Amethyst」が1993年にリリースされた。ジョージ・マーティンは日本武道館での「ART OF LIFE」の演奏をビデオを観てプロデュースを快諾した。1993年にはTBS系で10月から放送されたドラマ『徹底的に愛は…』の主題歌としてNOAのシングル「今を抱きしめて」をプロデュースし、第36回日本レコード大賞で優秀賞を受賞した。

1994年にはクイーンのドラマーであるロジャー・テイラーとのコラボレーション・シングル「Foreign Sand」をリリースし、2人は国連UNESCOの呼びかけによりにより催された『GME '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』で共演した。また、キッスのトリビュート・アルバム『トリビュート -KISS MY ASS-』に、ピアノ協奏曲にアレンジした「ブラック・ダイヤモンド」で参加した。同年にメジャー・レーベル「プラチナム・レコード」を設立し、GLAYをメジャー・デビューさせた。同レーベルからは、1996年に自身2作目となるクラシック音楽のコンピレーション・アルバム『Yoshiki Selection II』もリリースされた。

1997年4月20日にボーカリストのToshlがX JAPANを脱退。同年9月22日に都ホテル東京で記者会見を開き、X JAPANの解散を発表した。同年8月6日発売、西城秀樹の76枚目のシングル『moment』の作曲・編曲。2000年に新たなボーカリストを加えた形で再結成することや、自身も日本やアメリカで音楽プロデューサーとして本格的に活動することを予定していたが、1998年5月2日にギタリストのHIDEが急逝したことで精神的に落ち込み、頓挫。北野井子やDIR EN GREYのプロデュースを手がけるものの、表舞台には一切上がらずにいた。そんな中、『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』の奉祝曲の制作依頼を受け、1999年11月12日に皇居前広場で行われた式典で作曲したピアノ協奏曲「Anniversary」を演奏。この時に受けた歓声が再起の契機となった。

2000年6月にメジャー・レーベル「エクスタシー・ジャパン」の設立を発表。Shiroや、BEAST、Revenusなど、レーベル所属のアーティストのデビューに携わった。また1998年2月にロサンゼルスに設立したレーベル「エクスタシー・レコード・インターナショナル」に所属する、アバンダンド・プールズ、ローラ・ドーン、キドニーシーヴスらのアルバムをプロデュースした。Violet UKの制作も再開し、自ら出演し、演出も手がけたセブン-イレブン・ジャパンの企業イメージCFに「Confusion」「The Other Side」「Blind Dance」の3曲を使用した。Violet UKとしては1998年公開の映画『イン・ゴッズ・ハンズ』に楽曲「sane」を提供している。2000年11月1日には、東京国際フォーラムで開催された松任谷由実のコンサート『Brothers & Sisters』にゲスト出演し、「翳りゆく部屋」をピアノで伴奏した。

2002年9月1日、お台場で行なわれたライブ・イベント『a-nation avex SUMMER FESTA 2002』のステージでglobeに加入することを発表(2005年にYOSHIKIを加えての活動の際の名称がglobe extremeになることが発表された)が、今のところ活動の実態は無く、小室流ジョークとも言われている。同年12月に東京国際フォーラムで『YOSHIKIシンフォニックコンサート2002 with 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 featuring VIOLET UK』を開催。弦楽器に比重が置かれた16型編成のオーケストラを藤原いくろうとコンスタンチン・D・クリメッツが指揮したこのコンサートには、Violet UKからドーターとニコール・シャージンガーも参加し、ニコールは「I'll Be Your Love」の英語バージョンを歌った。「I'll Be Your Love」は2005年日本国際博覧会「愛・地球博」の公式イメージ・ソングとして、YOSHIKIが抜擢したハワイ出身の歌手・DAHLIAが歌ったものがシングルとして2003年10月29日にリリースされた。ニコールが歌う英語バージョンは、同年9月26日にリリースされた愛知万博の公式アルバム『「愛・地球博」presents GLOBAL HARMONY』に収録された。

2003年2月1日に放送された、NHKのテレビ放送50周年記念番組『あなたとともに50年 今日はテレビの誕生日』のエンディング・テーマとして、チョ・ソンモと島袋寛子が歌う「君だけだから」を作曲し、番組ではピアノで伴奏した。2004年には宝塚歌劇花組公演『TAKARAZUKA舞夢!』で春野寿美礼が歌う「世界の終りの夜に」を作曲。また、エイベックスを介して依頼を受けた韓国のロック・バンド「TRAX」の日本デビュー・シングル「Scorpio」をプロデュースした。

2005年には愛知万博の開会式でEXPOスーパーワールドオーケストラが演奏する「I'll Be Your Love」のクラシック・アレンジバージョンを指揮した。事前にヘルベルト・フォン・カラヤンや、レナード・バーンスタイン、小澤征爾らのビデオを観てトレーニングを積んだ。また、シェリー・バーグや川本統脩から本格的な指導を受けたほか、佐渡裕からもアドバイスを受けて指揮に臨んだ。同年、2作目となるクラシック・アルバム『ETERNAL MELODY II』と、『YOSHIKIシンフォニックコンサート2002 with 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 featuring VIOLET UK』のライブDVDを、2003年2月に専属契約を結んだコロムビアミュージックエンタテインメントからリリースした。

2006年には、劇場長編アニメーション映画『ベルサイユのばら』の音楽を担当すると発表。同年8月5日にボルチモアで開催されたアニメ・コンベンション『オタコン2006』に特別ゲストとして招かれた。

2007年には、5月25日と26日にロサンゼルスのウィルターン・シアターで『J-Rock Revolution Festival』を主宰。GACKT、SUGIZO、雅-miyavi-とのロック・バンド「S.K.I.N.」の結成と、同年6月にロングビーチで開催される『Anime Expo 2007』において、S.K.I.N.としての初めてのライブを行うと発表した。また、2007年公開のアメリカ映画『カタコンベ』や『ソウ4』の主題歌を制作したほか、2008年公開のアメリカ映画『REPO! レポ』の音楽総監督や製作総指揮を務めた。『ソウ4』の主題歌には、Toshlとの約8年ぶりの再会をきっかけに再結成に向けて動き出していたX JAPANの楽曲「I.V.」が使用され、2007年10月18日にX JAPANは公式ウェブサイトで再結成を発表した。

2008年には、日本テレビ開局55年記念ドラマ『東京大空襲』の主題歌として、秋川雅史が歌う「愛する人よ」を制作したほか、黒澤明生誕100年祭『AK100 Project』の音楽プロデューサーを務めると発表した。2009年には、日本テレビ系情報番組『ズームイン!!SUPER』の天気コーナーに「BLUE SKY HEAVEN」を提供した。

2010年2月24日に、東京の赤坂BLITZでToshlのコンサート『Toshl LAST CONCERT"武士JAPAN"』をプロデュースし、ゲスト・ミュージシャンとしてピアノで参加した。

2011年5月からアメリカの衛星ラジオ局「シリウスXM」のハード・ロック専門チャンネル「ザ・ボーンヤード」で『YOSHIKIラジオ』と題した音楽番組のホストを務め、自身が影響受けた音楽やアニメなどの日本の大衆文化を紹介した。月1回の1時間番組で、1回目の5月27日のみ東部時間20時からが放送され、2回目となる6月5日から7回目の11月6日までは毎月第1日曜日の東部時間21時から放送された。2010年10月10日に行われたX JAPANのニューヨーク公演を見て関心を持ったラジオ局の関係者が、新番組の依頼をしたことがきっかけとなった。

2012年にはハリウッド外国人映画記者協会からゴールデングローブ賞の公式テーマ・ソングの制作依頼を受け、制作した楽曲「ゴールデングローブのテーマ」が第69回ゴールデングローブ賞の授賞式から使用されている。同楽曲は2013年1月にiTunes Storeを通じて、ソロ名義では初めて全世界111ヶ国に配信された。同年8月27日には『Eternal Melody』と『ETERNAL MELODY II』の収録曲に、「ゴールデングローブのテーマ」とX JAPANのワールド・ツアーのオープニングで使用された新曲「Miracle」を加えたベスト・アルバム『YOSHIKI CLASSICAL』をリリースした。アルバムの発売を記念して、前日の26日にロサンゼルスのグラミー・ミュージアムで『An Evening with Yoshiki』と題されたショーケースを行い、その模様はニコニコ生放送とUstreamで生中継された。

2014年2月19日にグラミー・ミュージアムでソロ公演を兼ねた記者会見を開き、ソロとしては初めてとなるワールド・ツアー『YOSHIKI CLASSICAL WORLD TOUR』を開催すると発表。ツアーでは4月25日のカリフォルニア州コスタメサを皮切りに、アメリカ、メキシコ、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、中国、タイ、台湾、日本を廻り、同年公開のアニメーション映画『聖闘士星矢 Legend of Sanctuary』の主題歌として制作した楽曲「Hero (Yoshiki Classical Version)」も披露した。グラミー・ミュージアムでは会見当日から、アジアのアーティストとしては初めて愛用のピアノやステージ衣装などが展示された。

2014年3月14日には、テキサス州オースティンで開催された音楽コンベンション『SXSW』に出演。イベント終了後に行われたアフター・パーティでは会場にピアノを2台設置して、自身のホログラムとの連弾を披露した。同年7月4日、毎年パリで開催されている日本の大衆文化を紹介するコンベンション『Japan Expo 2007』に参加し、ソロ・コンサートを開催。途中、ゲストにイラストレーターの岩元辰郎を迎え入れ、ピアノ演奏と絵画の即興のコラボレーションを披露した。 同年8月15日、16日にグランドハイアット東京にて自身初となるディナーショー「EVENING WITH YOSHIKI IN TOKYO 2014」を開催。同年10月29日にロサンゼルス現代美術館のザ・ゲフィン・コンテポラリーで行われた、サンリオのキャラクター「ハローキティ」のコンベンション『Hello Kitty Con 2014』に出演。会場の特設ステージで、ハローキティのデザイナーである山口裕子から依頼を受けて制作したハローキティの公式テーマ・ソング「HELLO HELLO」(仮タイトル)を初披露した。

2015年3月11日に、バラエティ番組『中居正広のミになる図書館』でのX JAPANに関わる内容が放送された回について、「たまたま見てしまいました。真実と異なる事や、編集等、色々と思う事があり、少し傷つきました」と発言し、さらに「今ファンのみんなをがっかりさせないように世界に向かって命がけで頑張っています」との意思表明を示した。 同年5月30日、31日に開催されたGLAYの東京ドーム公演『20th Anniversary Final GLAY in TOKYO DOME 2015 Miracle Music Hunt Forever』の2日目にスペシャル・ゲストとして登場し、1994年にプロデュースしたGLAYのメジャー・デビュー曲「RAIN」で共演した。 同年8月14日、15日にグランドハイアット東京にて2年目となるディナーショー「EVENING WITH YOSHIKI IN TOKYO JAPAN 2015」を開催。追加公演の「BREAKFAST(LUNCH)WITH YOSHIKI IN TOKYO JAPAN 2015」を合わせ2日間で計3公演を開催。

2016年8月30日、31日にザ・リッツ・カールトン大阪、9月2日、3日にグランドハイアット東京にて3年目となるディナーショー「EVENING WITH YOSHIKI 2016 IN OSAKA & TOKYO JAPAN」を開催。(※BREAKFAST SHOW含む全5公演。)大阪では初開催。 同年10月12日、世界初となったキッス(KISS)のオフィシャル展覧会「KISS EXPO TOKYO 2016 ~地獄の博覧会~」に来場。一般への公開日前日に訪れたYOSHIKIを、ジーン・シモンズ自らがエスコートした。

2017年5月10日、自身のホームページで、頚椎椎間孔狭窄症による首の頸椎の人工椎間板の置換の緊急手術を行うことを公表した。同年5月16日、ロサンゼルスのシーダースサイナイ病院(英語版)にて緊急手術が行われ、手術は無事に成功した。

同年8月26日、27日の名古屋マリオットアソシアホテルでの公演を皮切りに、29日、30日にザ・リッツ・カールトン大阪、9月1日、2日にグランドハイアット東京にて4年目となるディナーショー「EVENING WITH YOSHIKI 2017 IN NAGOYA & OSAKA & TOKYO JAPAN」を開催。(※BREAKFAST SHOW含む全7公演。)名古屋では初開催となった。 。

2018年7月から9月にかけて放送されたアニメ深夜!天才バカボンでは、初回である第1話と最終話である第12話に出演。第1話Aパートでの出演時は声は別人(三木眞一郎)が担当したが、第12回Bパートでの再出演時ではYOSHIKI本人が声を担当した。7月9日、テレビアニメ「進撃の巨人」第3期のオープニングテーマ「Red Swan」を「X JAPAN feat. HYDE」が担当と発表されていたが、7月21日、アーティストの意向により担当アーティストを「YOSHIKI feat. HYDE」へとクレジットの変更と発表された。

2018年7月28日、フジロックフェスティバルのスクリレックスのステージにゲスト参加した。クリスタルピアノで「ENDLESS RAIN」を演奏し、スクリレックスの代表曲「Scary Monsters And Nice Sprites」ではドラムで参戦するなど、EDMサウンドにクラシックとロックを融合させたステージを披露した。なお、今回のサプライズコラボは、スクリレックスからのオファーをYOSHIKIが快諾したことにより実現した。

2018年9月8日、アキタ「きよら グルメ仕立て」の新CMに出演。

2018年12月31日第69回NHK紅白歌合戦に白組で「YOSHIKI feat. HYDE」、紅組で「YOSHIKI feat. サラ・ブライトマン」として出場した。

2019年8月2日、パシフィコ横浜にて行われたRakuten OPTIMISM 2019のビジネスカンファレンスに13:00頃から対談ゲストとして登壇、20年来の友人である楽天創業者の三木谷浩史と5G時代のコンテンツの在り方について対談した。その中で本人は、5G以後に実現されるストリーミング中心の世界に備えて、音楽業界の在り方を変えるような重大発表を行う予定とした。15:00からは同会場にて関係者向けのシークレットライブとしてRakuten YOSHIKI Nightを行った。21:00からはニコニコ動画のYOSHIKI CHANNELで第一弾の重大発表を行う予定だったが、生放送中に関係者との調整が不十分であることが本人に伝えられ、延期となった。イベント出演に合わせて、前日にロサンゼルスから来日していた。

2019年8月3日、パシフィコ横浜にて、YOSHIKIファンクラブ会員と楽天会員向けのRakuten YOSHIKI Nightに出演した。ライブ後の囲み取材ではアルバム関連の発表を近い将来に行うことと、製作中のドキュメンタリー映画が7割程度出来上がっていることなどを公表した。

2019年8月9日、グランドハイアット東京でのディナーショーでカーテンコールへ登場した際、押し寄せてきたファン達に何度か手を強く握られて右手首と左手薬指を捻挫し、激しい痛みが続いた。また、医師からは「手首のじん帯が100%完全に切れている状態」と診断され手術を勧められているがショーを強行した。

2019年9月18日に後述の事情により、今まで非公表だった出身地を公表。

2019年12月15日に第70回NHK紅白歌合戦に「YOSHIKI feat. KISS <YOSHIKISS>」として出場することが決定した。

2020年1月22日、SixTONESのデビュー曲「Imitation Rain」の作詞・作曲・編曲を手掛ける。ジャニーズ事務所所属グループへの楽曲提供は自身のキャリア初。

2020年5月18日、自身のInstagramにおいて頸椎椎間孔狭窄症の手術から3年が過ぎてもなお左手の感覚が戻っていないことを明かした。

2020年3月、YOSHIKIはボノ、ウィル・アイ・アム、ジェニファー・ハドソンと「#SING4LIFE」の曲でコラボ。 2020年8月、YOSHIKIのアレンジによりSt.Vincentのヒット曲「New York」が全世界でリリース。

2020年9月、YOSHIKIがファッション誌「Numero」の表紙を飾る、「Disney マイ・ミュージック・ストーリー - YOSHIKI」ドキュメンタリーが日本のDisney+で配信され、「ライオンキング」や「アナと雪の女王」の名曲をアレンジで披露。

2020年10月、講談社からロスのパラモア・エステートで撮影された写真集[XY]を発売。

2020年12月31日、第71回紅白歌合戦に出演。曲はENDLESS RAIN。

2021年10月、フランスの高級クリスタルメーカー「バカラ」は、2022年のパリ・ファッション・ウィークで、YOSHIKIがデザインした180周年記念バージョンの「アルクール・グラス」を披露した。 同月、YOSHIKIはBMWジャパンの40周年記念イベントで「Miracle」をバーチャルピアノで演奏した。

2022年3月、日本テレビと共同でボーイズグループオーディション『YOSHIKI SUPERSTAR PROJECT X』を始動。 同年5月13日にSNSで母が死去したことを報告。同年7月に日本テレビ系列音楽特番「THE MUSIC DAY 2022」にてサラ・ブライトマンと「Miracle」、 SixTONESと「Imitation Rain」を披露。なお、 SixTONESとはこれが初のテレビ共演及び初のコラボパフォーマンスとなった。

2022年11月11日に緊急記者会見を行い、 "日本から世界に挑戦する最後のチャンス" という名目でHYDE・SUGIZO・MIYAVIの3人と「THE LAST ROCKSTARS」の結成を発表。

2023年2月28日、『YOSHIKI SUPERSTAR PROJECT X』でYOSHIKIら審査員に選抜されたオーディション合格者13名が朝の情報番組「スッキリ」の火曜日コーナー「WEニュース」にYOSHIKIと生出演。デビューメンバーが13人であることとグループ名が「XY(エックスワイ)」に決定したことを正式に発表、その4日後の3月4日に東京・代々木第一体育館で行われたファッションイベント「第36回 マイナビ 東京ガールズコレクション2023 SPRING/SUMMER」でデビューを果たす。同年6月30日にYOSHIKI自ら作詞・作曲・編曲を手掛けたデビュー曲「Crazy Love」がリリースされ、 7月1日に放送された音楽特番「THE MUSIC DAY 2023」にてXYと共に「Crazy Love」を生パフォーマンス。また、 この特番ではXYとのコラボ以外にも亡き母に捧げたソロ新曲「Requiem」と8年ぶりにリリースされたX JAPANのニューシングル「Angel」もこの日限りのスペシャルバージョンで披露された。

2023年4月21日に開催されたSixTONESの東京ドーム公演『慣性の法則 in DOME』にスペシャルゲストとして登場。前年の音楽特番以来、 2度目となる「Imitation Rain」のコラボパフォーマンスを披露した。きっかけは2022年5月放送の『SixTONESのオールナイトニッポンサタデースペシャル』に出演した際、SixTONESがドーム公演をする時はゲスト出演するというメンバーとの約束を守り、この日のために日本に帰国して東京ドームへ駆け付けたとのこと。

新型コロナウイルスの世界的流行の間にYOSHIKIが世界各国のミュージシャンとコラボレーションをした映像が2023年9月5日に音楽ドキュメンタリー映画『YOSHIKI: UNDER THE SKY』として公開された。この作品によりYOSHIKIは初めて映画監督を務めた。

音楽性

「作詞には作曲と同じ、もしくはそれ以上の時間を僕は割いている」とし、自身の歌詞については「『とても抽象的な表現をしているようで、実は核心に突き刺さっている詞』『結論・到達点のない詞』が好きでその表現ができる様にする」「死について語っている詞が多いと思う」と語っている。

一方で歌詞の悲観性や自虐性については、「ポジティヴなエネルギーってネガテヴィティによって引き立つと思うんですよ」「悲しみなり毒をずっと表現したときにポッと美を出すと、それがすごいポジティヴに感じる」と、肯定的なエネルギーを引き立たせるための逆説的なアプローチであると説明している。最初に作詞をしたのは高校時代で、Xの「I'LL KILL YOU」であった。作風によって作詞のクレジットで「五十嵐美由姫」「橘朋実」「白鳥瞳」「白鳥龍」などのペンネームを使うこともある。

表現方法の面では澁澤龍彦、村上龍、コリン・ウィルソンの方法論に影響を受けた。特にコリンの精神病理学をテーマにした「現代殺人百科」には「本作の様に感情を表現する上で、自分のテーマ・喜怒哀楽・人間の感情に触れる様なメロディを作りたい」と語っている。

X結成の時から既存の楽曲のコピーから、段々とオリジナルの楽曲を描く様になっていく。

最初はギタリストがリフを作ってきても、YOSHIKIがギターを弾けなかった為に代わりにピアノでギターのパートを作っていた。しかし「難しいコードがあるからわからない」「そういうのは普通はやらない」と指摘されてから、「自分がギターのリフを作ればいいんだ」と思い、ギターの練習をする。それ以降、ピアノとギターの両方で曲作りをする様になる。

1曲が300小節あるとして、その内のサビの16小節を考えて、その時は「素晴らしい曲ができた」と思ってもすぐに「違う曲を作ってしまった」とその都度思う。それを回避するために全体を見回すようにやっても、いつも1,2小節に嵌り込んで行く。所属レーベルから「一刻も早く何とかして欲しい」と製作費・スケジュール等を指摘されても、客観的に見られない。そもそも「どの様に作ったらファンが喜び、数字を稼げるか」より、「どんなメロディだったら自分とメンバーが喜び、惹かれるか」ありきで作曲している。プロモーションの段階では、どんなに筋の通っていない矛盾したコンセプトでも「このアルバムの中の曲はこのテーマで行く」と周囲を言い負かせるようにできる準備をする姿勢で行っている。

クラシック、ロック、ポップなどのジャンルに関わらず、作曲をするときは楽器を使わずにベース・ストリングス・ドラム・ピアノ・ギターを別々にした全てのパートを直接譜面に書いている。1991年の小室哲哉とV2での活動以降は「"電気の音"も鳴るようになった」と語っている。

基本は待つ姿勢で臨み、玄関も開けずカーテンも閉じて外の天気もわからない部屋に閉じこもりながら、机の上に譜面を置いて、ペンを持ちながら呆ける。その理由として「頭の中のイメージを音にする時は音が邪魔なときがある。自分を極限まで追い込むことで、『自分が作っている』という気持ちの状態から生まれてくる自分の音が好き」「譜面だけで書くと制約がないんです。ピアノで作ると、指グセがあったりと制約ができてきちゃう。それはギターも一緒ですけど、譜面だとそれが無いんです。だから逆に譜面の方が自由にできる」と語っている。大学受験の際にソルフェージュをやっていたため、絶対音感を持っており、ペンと譜面さえあれば作曲ができるため移動中に飛行機の機内で作曲することもある。

譜面を感覚優先で書いた後、YOSHIKI本人でも「叩くのは不可能なのではないか」と思うような難しいフレーズを書いてしまう。その為、「後から自分で苦労してやっと叩ける」様に直していく。その後「このパートはどこから入るか」「ボーカルが入る2小節前にパンチ・インして」等YOSHIKIの意向をわかりやすくエンジニアに伝えるために、YOSHIKI自ら打ち込みでデモテープを制作する。バンドメンバー達が譜面が読めずに弾けないことが多いため、対策としてピアノ・ギターで目の前で弾いて説明する。ソロ活動の時にも「運指と違う」と指摘されて、運指を0から覚え直す場合もある。

作り上げても、「この曲聴かせるのは恥ずかしい」と10曲作ったら、8曲は没にしてしまう。

インディーズ時代にライブ・ハウスで曲と曲の合間に冗談のつもりでピアノでクラシックを弾いたところ、その意外性が思いのほか受け、それをきっかけにピアノとギターやドラムなどを絡めようと意図的に作曲するようになった。X JAPANの楽曲にピアノを取り入れたのは1作目のアルバム『Vanishing Vision』の収録曲「ALIVE」が最初で、ベートーヴェンの「月光ソナタ」のフレーズが使われている。ハードなサウンドの中にピアノを取り入れる手法はX JAPANの楽曲の特徴の1つになっている。

1992年からジャズ・ピアノとオーケストレーションを学びを始め、ディック・マークスやシェリー・バーグに師事。ストリングスへの理解を深めるためにヴァイオリンにも挑戦した。ジョージ・マーティンとのジョイント・プロジェクトとして1993年に発表したアルバム『Eternal Melody』の制作では、オーケストレーションについて詳密に理解していなかったために自分の意見が説明できず悔しい思いをしたが、「真のレジェンドからオーケストレーションについて多くのことを学んだ」とし、ジョージ・マーティンとの仕事が大きな影響になったと語っている。キッスの1994年のトリビュート・アルバム『トリビュート -KISS MY ASS-』に収録された「ブラック・ダイヤモンド」のピアノ協奏曲アレンジでは、初めて1人でオーケストレーションを全て手がけた。「オーケストラと仕事をするようになって以降は、X JAPANなどのロック・バンドにおいても「小規模なオーケストラ」という視点で作曲するようになった」と語っている。

理想は「いいサビが出来上がり、それに肉付けされて、前後が出来上がる」「速い曲はリフから出来上がる」「歌詞が先に出来上がり、そこからイメージで出来上がっていく」としている。

生成AI利用の音楽に警鐘を鳴らしている。AIに指示するだけで曲を作れる状況は「行き過ぎだ」と問題視し、指示した人がそれを独自の作品と主張することに疑問を呈している。AIにより「ヒット曲を作りたいというインセンティブが弱まる」「法整備が進んでいない」と述べ、良質な作品を生み出せる環境作りが必要だと訴えた。

必ずしも自分の頭の中の完成形に拘らずに、他のメンバーのイメージやアイディアを尊重し、ドラムパートだけでも7,8パターン制作した後にどれが良いかを聞く。音色もフレーズやタイミングと同列に重視しているが、言葉で伝えるのは難しいため、絵を描いて指定する場合もある。ただ、事前に「誰が弾くのか?」「あの人のあの曲のイメージは?」と楽器を担当するメンバーの本質を考慮することは全く無く、メロディを制作した後に「寧ろ自分が担当できたら着きたい」と思うものを選定する。それ故にメロディが先にできることもあれば、アレンジされた音色が出てくることもあり、いざ完成すると「全編ストリングスのみで構成されていた」「X JAPANでやることすら意識していなかった」出来上がりになっていたケースが多い。

元来、別々の楽曲に向けて作ったメロディを結合させることもある。楽曲によっては通して録って、ダメだった部分をパンチ・インし直したりすることもある。少なくとも1テイクでOKだったのは「滅多になく、あっても1割」とのこと。

「ドラムの録音が始まる時が、アレンジが完成している時」としているが、「もっとこうしたかったのに…」と思ったら0からやり直す。ミキシングの時に編集してしまう時もある。

ドラムの音に対しては、「ミキシングの段階で幾らでも音色を変えられるけど、生音は生ものだから、良い音でないと自由が利かない。特にスネアとキックは慎重に選んでいる」とこだわりをみせている。

産経新聞のインタビューで、最も影響を受けたアルバムを聞かれ、キッスの『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』、レッド・ツェッペリンの『レッド・ツェッペリン IV』、アイアン・メイデンの『キラーズ』の3作を挙げた。アイアン・メイデンに関しては初期の作品のパンク性に影響を受け、その後パンク・ロックに「もともと聴いていた音楽に戻れないぐらい」のめり込んでいくきっかけになった。1984年に上京してXのバンドのメンバーを探していた時期は、エクスプロイテッドやカオスUK、ディスチャージ、G.I.S.M.、GAUZEなどイギリスや日本のパンク・バンドに傾倒していた。影響を受けたドラマーにはキッスのピーター・クリスを挙げ、11歳の時にキッスの日本武道館公演でクリスを見てドラマーを志したと語っている。そのほか、好きなドラマーとして村上秀一、青山純、PILL、湊雅史、樋口宗孝、ジョン・ボーナム、コージー・パウエル、ラーズ・ウルリッヒ、ニール・パート、サイモン・フィリップス、ジェイ・ワインバーグ、ザ・レヴ、ポール・クック、ニコ・マクブレインを挙げている。

初めて購入したレコードであるシューベルトの交響曲第8番ロ短調「未完成」とベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調「運命」が収録されたアルバムには、ロック・グループと同じぐらいの影響を受けたという。自身の半生を描いたという楽曲「ART OF LIFE」では、そのシューベルトの「未完成」のフレーズが使われている。

影響を受けた作曲家にはバッハを挙げ、あえて影響を匂わせた作品を入れたり対旋律などの手法を引用していると語っている。X JAPANの1989年のアルバム『BLUE BLOOD』に収録されている「ROSE OF PAIN」では、バッハの「小フーガ」のフレーズが随所で使われている。1997年のインタビューではシェーンベルクなどの近現代の作曲家に最近は影響を受けていると語っており、自身の人生に大きな影審を与えた曲を中心に選曲したクラシック音楽のコンピレーション・アルバム『Yoshiki Selection II』(1996年)には、シェーンベルグの弟子にあたるベルクの『抒情組曲』も収録された。最も好きなクラシックの作曲家としては、チャイコフスキーとモーツァルト、交響曲ではベートーヴェンとシューベルト、ピアノ協奏曲ではラフマニノフ、ピアノ独奏曲ではショパンを挙げている。好きなピアニストとしてジョージ・ウィンストン、キース・ジャレット、ホロヴィッツ、三柴理を挙げている。キース・ジャレットに関しては1975年のライブ・アルバム『ザ・ケルン・コンサート』に影響を受け、ジャズの理論やインプロビゼーションを学び始めるきっかけになった。

ダンス・ミュージックにおいて最も影響を受けたのはトリップ・ホップで、Violet UKにおいてダンス・ミュージックの要素が強まるきっかけとなったと語っている。特に影響を受けたトリップ・ホップのアーティストにマッシヴ・アタック、トリッキー、ポーティスヘッドを挙げている。

2024/05/16 02:53更新

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