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アイルトン=セナの情報 (AyrtonSenna)
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アイルトン=セナの情報(AyrtonSenna) レーシングドライバー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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アイルトン=セナさんについて調べます

■名前・氏名
アイルトン=セナ
(読み:Ayrton Senna)
■職業
レーシングドライバー
■アイルトン=セナの誕生日・生年月日
1960年3月21日
子年(ねずみ年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和35年)1960年生まれの人の年齢早見表

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アイルトン=セナの情報まとめ

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アイルトン=セナ(Ayrton Senna)さんの誕生日は1960年3月21日です。

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F1、死後などについてまとめました。家族、卒業、結婚、引退、離婚、事故、事件、現在、テレビに関する情報もありますね。亡くなられているようです。

アイルトン=セナのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジルのレーシングドライバー。F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。

F1史を代表するドライバーの1人とされ、多くの投票で「史上最高のF1ドライバー」や「史上最も影響力のあるF1ドライバー」に選出されている。計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位の記録であった。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとの熾烈なライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。

異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が名付けた「音速の貴公子」がよく知られている。

アイルトン・セナ・ダ・シルバは、サンパウロのサンタナ地区にあるプロマトレ産科病院で生まれた。セナは地主で工場経営者でもある資産家ミルトン・ダ・シルバとその妻ネイジ・セナ・ダ・シルバの長男であり、姉のヴィヴィアーニと弟のレオナルドという姉弟がいた。

セナは人生の最初の4年間を母方の祖父ジョアン・セナが所有する家で過ごした。優れた運動神経を持った子供であり、体操やその他のスポーツを得意とした。自動車とモータースポーツに興味を持ったのは4歳の時だった。一方で、幼少時のセナには運動協調性の問題があり、3歳になった時点でも階段を登ることが苦手だった。そのため脳波図(EEG)を調べたが、まったく異常が無いことが確認された。両親はセナを「ベコ(Beco)」というニックネームで呼んでいた。

セナが7歳の時、家族が所有する農場で初めてジープを運転し、クラッチを使うことなくギアチェンジすることを覚えた。セナはサンパウロのイジェノポリス地区にあるカレジオ・リオ・ブランコ(ポルトガル語版)を1977年に卒業し、その後は経営学に特化された大学に進学したが、3ヶ月通った後に退学した。

セナに与えられた初めてのレーシングカートは父ミルトンが自作したもので、1馬力の小さな芝刈り機用エンジンを載せていた。セナが13歳の時、インテルラゴス・サーキットで初めてレーシングカートの競技会に参加した。セナは先頭から初レースをスタートし、自分より数歳年上のライバルたちを相手にレースの大半をリードして見せたが、最終的にライバルの1人に接触されてリタイアした。父ミルトンは息子のレース活動をサポートし、セナの才能を認めるルシオ・パスカル・ガスコンがその成長を助けた。

セナは1977年に南アメリカ・カート選手権を制した。その後、セナは1978年から1982年にかけて世界カート選手権に参戦し、1979年と1980年にはシリーズランキングで2位となった。1978年にチームメイトとなったテリー・フラートン(英語版)は、のちにセナによって最も対戦を楽しめたライバルとして名前を挙げられている。また、1978年には当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位入賞した。団体戦では増田二三四・平野晴男とともに5位に入った。1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンと結婚した。

1981年2月、セナはフォーミュラカーレースに参戦するため、妻リリアンと共にイギリス(イングランド)に渡った。1981年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード1600の2つのシリーズに参戦して両方の選手権でチャンピオンとなった。イギリスで成功を収めたにもかかわらず、家業を手伝うように求める両親からのプレッシャーもあり、セナは1981年シーズンの終了後にフォーミュラ・フォードからの引退を発表し、ブラジルに帰国した。

しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く希望した妻リリアンと両者合意の上で離婚し、1982年2月に単身で再度イギリスに渡った。1982年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード2000に転向し、イギリス選手権とヨーロッパ選手権でチャンピオンとなった。1982年のフォーミュラ・フォード2000はF1の前座として開催されることも多く、セナは5月にゾルダーでジル・ヴィルヌーヴの死亡事故を目の当たりにし、数ヶ月後のホッケンハイムでもディディエ・ピローニの大事故に居合わせた。

1983年シーズン、セナはイギリスF3選手権にウエストサリー・レーシングから参戦し、シーズン前半は連勝を続け選手権首位を独走した。しかし後半戦以降はエディ・ジョーダン・レーシング所属のマーティン・ブランドルがセナとの差を縮め、両者の関係が険悪になるほどの激しいタイトル争いとなったが、最終的にセナが僅差でチャンピオンを獲得した。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。

また、初めてF3規格で開催されたマカオGPにセオドールから参戦し、2ヒートを連取して優勝した。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、1990年にミカ・ハッキネンとミハエル・シューマッハが更新するまで、7年にわたりコースレコードであった。

なおセナがイギリスF3王者・マカオGP優勝者となったときのマシンはいずれも、トヨタ・2T-Gエンジンを搭載していた。

この頃から、父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向きに名乗るようになる。

F1

デビュー前の交渉

F1へステップアップする際には、マクラーレン、ウィリアムズ、ブラバムのマシンテストに招かれ交渉し、当初ブラバム入りが有力となるも、当時ブラバムのエースで前年チャンピオンであるネルソン・ピケが反対したため実現しなかったとの説があった。ブラバムのボスだったバーニー・エクレストンによると、1983年オフのテストで何名かの若手をテストし、一番速かったセナをエクレストンも強力に欲していた。しかしメインスポンサーのイタリア乳製品企業「パルマラット」がチームの2名ともブラジリアンになる事へ難色を示し、1人はヨーロッパドライバーにとの要求があったため、エクレストンはイタリア人のテオ・ファビをピケのサポート役に決定。セナのブラバム入りはご破算となった。その後、複数チームとの交渉を経て、デレック・ワーウィックを移籍で失ったトールマンと契約締結しF1デビューが決まった。

トールマン時代

初戦ブラジルGPは前年型のTG183で出場。ターボトラブルでリタイアしたが、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初入賞を達成。しかし前年型マシンはワーウィックやブルーノ・ジャコメリに合わせて作られておりステアリングが重く、腕力を必要としたため、まだ線の細かったセナは体力面で苦労をしていた。第4戦サンマリノGPではチームがピレリからミシュランへとタイヤメーカー契約を変える際の契約トラブルも重なり、キャリア唯一となる予選落ちを喫している。第5戦からニューマシンTG184が投入されると、大雨でハーフレースとなった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。自身とトールマンにF1初の表彰台をもたらすと同時に、自身初のファステストラップも記録した。

第10戦イギリスGP・最終戦ポルトガルGPでも3位に入り、計3度の表彰台を経験。またティレル勢の「水タンク事件」による記録抹消に伴い、7位で完走していた第3戦ベルギーGPが6位に繰り上がったため、入賞は参戦した15戦中5レースとなった。予選最高位は、ポルトガルGPでの3位グリッドだった。

マシントラブルやF1での経験不足から安定した結果は残せなかったが、第8戦デトロイトGPでの予選7位、第9戦ダラスGPでの予選6位から一時4位走行、ドイツGPでの一時5位走行等、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。リタイヤは8回を数えたが、それでもランキングでロータスのナイジェル・マンセルと並び9位に入った。

シーズンの途中で翌年からのロータス移籍を発表するが、トールマンとは3年契約を結んでいたため二重契約として問題になった。結局はロータスとセナがトールマンに違約金を支払い、セナ自身に1レースの出走禁止の処分を課すことを条件に翌年からのロータス移籍は実現した。この影響でセナは第14戦イタリアGPでピエルルイジ・マルティニにシートを明け渡した。実質上の代役はステファン・ヨハンソンであるが、イタリアGP後怪我で出走出来ないジョニー・チェコットの代役の座に移った。そのためイタリアGPのみヨハンソンがカーナンバー19のセナのマシンに乗っている。

また、この年にはF1とスケジュールが重ならなかった6月15日のWEC第4戦ニュルブルクリンク1000kmレースにヨースト・レーシングのNEWMANポルシェ・956(アンリ・ペスカローロ、S.ヨハンソンとのチーム)で参戦し、これがグループCカー及び耐久レースへの唯一となる参戦歴となっている(予選9位/決勝8位)。

ロータス時代

当時名門に数えられていたロータスに移籍し、F1通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得した。豪雨となった決勝でもスタートから終始トップを走行し、2位のミケーレ・アルボレートに1分以上の差をつけ、3位以下は全て周回遅れにする独走でF1初優勝を果たした。しかしシーズン前半は安定感に欠け、入賞レースはポルトガルGPのみだった。一方で、セナの速さはFLや連続PPなどの記録として表れ始めた。

シーズン後半には決勝レースでの結果も安定し、第10戦オーストリアGPから5戦連続で表彰台に立つ。特に、雨となった第13戦ベルギーGPでは、予選2位からスタートでトップを奪い、以後ゴールまで独走というポルトガルGPと類似した展開で自身2勝目を挙げた。マシントラブルやガス欠などにより、予選でのPP7回に対し優勝は上記の2回のみとなったが、シーズン後半に安定してポイントを積み重ねたことで、ロータスのエースだったエリオ・デ・アンジェリスを上回るランキング4位となった。

「予選」と「雨」に強さを見せた一方で、車体下面・後方から立ち上がる火花などからマシンのレギュレーション違反が疑われて検査がなされたり(違反項目は見つからず)、ダーティーな走りが問題にされる一面もあった。特に第4戦モナコGP予選では、他者のタイムアタックを妨害したとしてアルボレート、ニキ・ラウダらに苦言を呈され、後にセナが謝罪する事態となった。

シーズン終了後にはデ・アンジェリスがブラバムに移籍し、ロータスのチームマネージャーであるピーター・ウォーはその後継ドライバーとしてデレック・ワーウィックを加入させたいと考えていたが、セナはこれに反対し「チームの資金を補うために1カー体制にすべき」と希望していた。イギリスのチームであるロータスに同国籍のワーウィックが加入した場合に、チーム内での自分の立場が危うくなると感じての行動であったという説もあった。結局後継のドライバーはF1ルーキーのジョニー・ダンフリーズとなった。

前年は名目上セカンド・ドライバーであったが、この年より名実ともにロータスのNo.1ドライバーとなった。シーズン前半は8戦中6戦でポイントを獲得し、第2戦スペインGP・第7戦デトロイトGPでは優勝を記録した。スペインGPでの勝利は、背後に迫るマンセルを0.014秒という僅差で抑えきったもので、完全ドライコンディションでは初の勝利でもあった。

シーズン後半はマシントラブル続きでリタイヤが多く、獲得ポイントは停滞した。マンセル、プロスト、ピケとのチャンピオン争いが佳境に入る中、第12戦オーストリアGPでは、エンジン・トラブルでレース前半にリタイヤ。第13戦イタリアGPにおいては、クラッチ・トラブルでスタート直後にリタイヤ。第14戦ポルトガルGPでは、終盤まで2位を走行していたが、ファイナルラップでガス欠に見舞われ4位に終わり、この時点で2戦を残しドライバーズ・チャンピオンの可能性が消滅した。ドライバーズランキングは4位。

予選では前年を上回るシーズン16戦中8度のPPを獲得したが、優勝は前年同様2勝に留まった。またウィリアムズ・ホンダ勢との争いで苦戦を強いられたことで、ホンダエンジンの獲得を希望するようになった。

セナの要望を受けたピーター・ウォーがホンダエンジンの獲得に成功し、チームメイトにホンダと縁の深いF1ルーキー・中嶋悟が加入。しかし99Tに導入された開発途上のアクティブサスペンションに不具合が多発、この問題はシーズンを通して解決できず様々なトラブルに苦しんだ。それまでの2年間多く獲得していたPPも、この年は第2戦サンマリノGPのみに留まっている。それでも市街地で行われた第4戦モナコGP・第5戦デトロイトGPでは、タイヤの磨耗が少ないというアクティブサスの利点を生かし、タイヤ無交換で走り切り2連勝を挙げた。以後もシャシーやウイングに改良は加えられたが、戦闘力は横ばいで向上しなかった。また、デトロイトでの勝利はチーム・ロータスにとって最後のF1勝利となった。

第7戦イギリスGPでは3位となり、4位に入った中嶋とともにホンダエンジン勢1 - 4位独占の一角を占めるものの、セナは1 - 2位フィニッシュを決めたウィリアムズ・ホンダ勢に周回遅れにされており、ロータスと同じエンジンを搭載のFW11Bとは大きな差があった。第11戦イタリアGPではレース終盤までトップを走行、久々に優勝のチャンスが巡って来たが、残り8周の最終コーナーにてコースアウトしてしまいピケの先行を許し2位に終わる。この時点で5戦を残しチャンピオンの可能性が消滅した。

ウィリアムズ・ホンダによって支配されたシーズンとなったが、16戦中11戦入賞と勝利レース以外でも堅実に結果を残し、ランキングは3位に上昇。また、F1が初めて鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPでは、予選7位から2位でフィニッシュし、ホンダに母国でのF1表彰台をもたらした。

このシーズンはルーキーの中嶋が7ポイントに対してセナは2勝で57ポイントとチームメイトに大差をつけたが、イタリアGP開催期間の9月4日にマクラーレンとホンダが開いた共同記者会見にセナも同席し、翌1988年シーズンからホンダがマクラーレンと提携しエンジン供給パートナーとなる事と、セナがマクラーレンに移籍しアラン・プロストとコンビを組む事が発表された。悲願であるF1ワールド・チャンピオンを獲るためにセナは3年過ごしたロータスを去ることになった。

マクラーレン時代

当時すでに2度のワールド・チャンピオンを獲得していたプロストとジョイントNo.1体制でコンビを組む。セナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンは開幕から連勝を重ねた。ジョイントNo.1体制のため、第5戦カナダGP、第7戦フランスGP、第10戦ハンガリーGPなど、2台のマクラーレンによる優勝争いが再三行われた。

2人のポイントが分散し、コンストラクターズ・チャンピオンの獲得が第11戦ベルギーGPで決定したのに対し、ドライバーズ・チャンピオン争いはシーズン終盤までもつれ込んだ。セナはベルギーGP以降一時不調に陥るも、第15戦日本GPではスタートの失敗により14番手に順位を落としたあと挽回して優勝、自身初のワールド・チャンピオンを獲得した。この年の16戦中8勝・13PPという数字は、いずれも当時のF1史上最多記録を更新するものであった。

「ホンダ・RA168E」を搭載した「MP4/4」と2人のドライバーにより、チームは15勝を上げ、10度の1-2フィニッシュを記録。特に第2戦サンマリノGP・第6戦デトロイトGPでは、3位以下を周回遅れにしての1-2フィニッシュを達成するなど、マクラーレンが他を圧倒したシーズンとなった。

しかし、第13戦ポルトガルGPでの幅寄せ行為以降、2人の関係には溝が出来始めていた。

初めてとなるカーナンバー1を付けてシーズンに挑み、予選では前年同様13度のPPを獲得。特に第5戦アメリカGPでの通算34度目のPPは、それまでジム・クラークが保持していた当時の最多記録を、21年ぶりに更新するものであった。

決勝では第2戦サンマリノGPでシーズン初勝利となったが、このレースで「先に第1コーナーに進入した者がレースの主導権を得る」というプロストとの間での紳士協定に反し、赤旗中断を経た再スタート直後、2コーナーでプロストを抜いてしまう事件が発生。これ以後、前年に兆候があった2人の溝が深まり、チームは大きな問題を抱えることとなった。

その後セナは第4戦メキシコGPまで3連勝を記録しランキングトップに立つが、第5戦アメリカGPからは逆に4戦連続リタイヤ(終盤にストップした第6戦カナダGPは完走扱い)となり、セナの勝利時にも確実にポイントを積み重ねたプロストに、大きくリードを許すことになった。

それでも争いはシーズン終盤まで縺れたが、第15戦日本GPにおいて、トップ争いの中で両者はカシオシケインで接触。先にシケインに入ったプロストの右インにセナがつっこみ、両者は接触したままシケイン入り口で直進したまま止まった。プロストはリタイアして車を降り、セナは再スタートしシケインの近道を通過するもレース後に失格処分となり、タイトルは一旦プロストの手に渡った。セナとマクラーレンは失格処分に抗議して民事裁判に持ち込み、最後の可能性を掛け最終戦オーストラリアGPに挑んだが、トップ独走中に周回遅れのマーティン・ブランドルに追突しリタイヤ、裁定を待たずしてタイトルの可能性を失った(日本GPの結果も、結局覆らなかった)。

プロストが4勝ながら13度の入賞(うち2位7回)を記録したのに対し、セナはプロストを上回る6勝であるものの、他の入賞が第10戦ハンガリーGPのみという成績であり、安定度の差が獲得ポイントに現れる結果となった。チームメイト同士の接触という後味の悪いものとなったことに加え、セナは当時、FIAの会長であったジャン=マリー・バレストルから一方的に「危険なドライバー」と見なされ、スーパーライセンス発行拒否の危機に陥る。ライセンスが発行されたのは、年が明けた2月だった。

前述のライセンスの問題から引退危機に晒され、本人も後に「コース以外での論争ばかりで嫌気がさしていた。もう走らないつもりだった」と語る状態だったが、最終的にセナがバレストルに謝罪するという形により、開幕直前にスーパーライセンスの発行が許可され、この年の参戦が決定した。

開幕戦アメリカGPでは、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝では優勝。セナのF1キャリアにおいては、最も後方のグリッドからの優勝であり、前年ティレルでデビューしたジャン・アレジと繰り広げたバトルは、「歴史に残る名バトル」「伝説的なシーン」として各国で後々まで語られることとなる。

この年もタイトル争いは、セナとフェラーリに移籍したプロストとで争われ、3年連続両者の争いとなった。セナは予選で10度のPPを獲得しており、特に第14戦スペインGPでは、自身が目標としていた通算50回目のPPを獲得。決勝でも6勝を挙げ、また前年とは対照的な手堅いレース運びも見せるようになった(入賞計11回)。第8戦イギリスGP以外はポイントリーダーの座を守り、最終的に5勝のプロストを押さえ2度目のチャンピオンとなった。

ただし、その決定劇は第15戦日本GPにおいて、スタート直後に先行するプロストのインにセナがつっこみ、両者ともそのままコースアウトしリタイアという、2年連続で後味の悪いものとなった。翌1991年の日本GP後に、セナはこのスタート直後の追突が故意によるものだったと認めている。セナは「前年の同GPでの接触後の納得できない失格裁定と、この日本GPにおけるポールシッター(セナ)のスターティンググリッド位置変更を認めなかったバレストル会長に対する報復の意図があった。」と告白したが、大きな批判を受けた。

'89年の鈴鹿で、バレストルが主導したひどいシステムによって僕は勝利を奪われた。僕が表彰台に向かって歩いてるときに、バレストルに呼び止められたんだ。この事は決して忘れない。そして'90年にまた僕とプロストがずっと戦ってきて、鈴鹿ではポールポジションの位置が不利なイン側だった。だから予選前の水曜日からオフィシャルとも話し合って、一度はアウト側への変更が認められていたんだ。すると予選が終わった後で僕がPPを獲得するのを見たバレストルがパリから通達を出して、位置は移動させないと却下したので、僕はそのまま不利な側に座らされた。重要なのは、PPを僕が獲ったからという事だ。完全に頭に来たよ。これでもしスタートで抜かれて先頭じゃなくなったら、その時はもう後先考えずに突っ込んでやるって決めたんだ。そうして現実に、ラバーの乗ったアウト側からスタートしたプロストがスタートで僕の前に出た。そう、その状況になったら僕は突っ込むってことは決めていたんだよ。たしかに'90年のチャンピオンシップの結末として悲しかった。でもそれは政治家(バレストル)がくだらない最低の決断をずっとしてきた結果なんだ。'91年の鈴鹿は幸いにしてマックス・モズレーが立ち上がったことによって政治家がいなくなり、罠を仕掛ける奴がいなくなった。茶番はなくなってプロの仕事ができるよ。もう下らないことは起きないし、誰もバカバカしいことを言わない。僕だけではなくて、現在戦ってるみんな、そしてこれから参戦してくる次のみんなにとってこのスポーツのイメージを高め、協力してやっていくために統括組織のトップが変わったことは良い変化だ。

― 1991年日本GP後の鈴鹿サーキットにて、モータージャーナリスト ハインツ・プルーラー(ドイツ語版)のインタビューに答えて。

当時の新記録となる開幕4連勝を記録。特に第2戦ブラジルGPでは、ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中で、念願の母国初優勝を達成。

しかし、第5戦カナダGP以降はウィリアムズ勢が序盤はセミオートマチックトランスミッションのトラブルに苦しんだウィリアムズ・FW14の戦闘力で巻き返し、マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。

第10戦ハンガリーGPでは、直前に本田宗一郎が死去。喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポールトゥーウィンを果たし、6戦ぶりの優勝となった。続く第11戦ベルギーGPでも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録し、再び苦しいレースを強いられた。だが第15戦日本GPでは、それまでとは異なりマクラーレン勢が優勢で、チームメイトのゲルハルト・ベルガーがPPから先行し、セナはタイトルを争うマンセルを抑えて2位を走行した。10周目、セナに急接近したマンセルは1コーナーでコースアウトしてリタイア。この時点で、セナの3度目のチャンピオンが決定した(レースは2位)。その後、豪雨で大幅短縮となった最終戦オーストラリアGPも制し、7勝でシーズンを終えた。

この年も安定して結果を残し、全戦ポイント制復活初年度において全16戦中完走15回・入賞14回を記録。中盤以降は苦戦を強いられていたが、結局一度もランキングトップは譲らなかった。

一方、前年に続いてウィリアムズから移籍のオファーを受けており、前年にもあったフェラーリやウィリアムズとの移籍に関する交渉はロン・デニスに対してプレッシャーをかける意味合いも強かったとされるが、この年のセナは真剣にマクラーレンを離れてFW14の高い戦闘力も思い知らされていたウィリアムズ・ルノーへ移籍する考えを抱いていた。交渉を重ね気持ちは移籍へと傾いていたが、8月13日にウィリアムズからマンセルとパトレーゼの契約更新が発表された。この発表後に取材陣に対してセナは「ちょっと驚いている。というのは僕とウィリアムズの間には・・・(沈黙)、いや、とにかくびっくりしている。このウィリアムズの発表をハッピーな気持ちでは聞けなかった。今シーズンの結果が全て出る前に決まったというプロセスにとてもガッカリしてるという意味でね。」と述べ、決定の時期がセナの本意でなかったと滲ませるコメントをした。ルノーがセナ獲得のために32億円の契約金を用意していたとも報じられた。その後ホンダ側からの熱心な説得により、翌1992年もマクラーレンに残留することとなった。しかしセナ自身は後に「僕はあの時ウィリアムズに行くべきだった。僕のミスだ」と語っている。

ニューマシンMP4/7Aが第3戦に投入されるも、ウィリアムズのアクティブサスペンションを実用化させハイテクを搭載したFW14Bが圧倒的な戦闘力を発揮。マンセルが開幕から5連勝するなど、マクラーレンはウィリアムズに対して劣勢となった。エンジンパワーに頼ったマシンから、空力とパワーとのトータルバランスが重要なマシン作りに変わった転換期であったが、マクラーレンはこの対応で後れを取った。そんな中でも、第6戦モナコGPでは、6連勝目前だったマンセルの予定外のタイヤ交換の隙にトップに立つと、そのまま押さえ切り同GP4連覇を記録。第10戦ドイツGPでは、終盤にリカルド・パトレーゼの追走を抑え2位を得るなど、存在をアピールした。

しかし、優勝3回・PP1回に留まり、リタイヤは7回を記録(F1参戦中、デビューした1984年に次ぐ2度目の多さ)。得意とする雨のレースでも結果を残せず、第5戦スペインGPでは、2位走行中の終盤にスピンでストップ。第12戦ベルギーGPでは、雨が強くなる中スリックタイヤで走行を続ける賭けに出たが失敗し5位に終わっている。

第13戦イタリアGPでは多くの出来事が重なり、セナに6年間エンジンを提供してきたホンダが同年最終戦をもってF1参戦を休止すると発表。この時期はマンセル、セナ、プロストの誰が翌年「最強の」ウィリアムズ・ルノーに乗るかの椅子取りゲームが盛んに報道されていたが、セナが「契約金なしでもウィリアムズに乗りたい」とカメラの前で発言して以降、ウィリアムズがマンセルに(チャンピオンを獲得したにもかかわらず)契約金の引き下げ提示をしたことで、マンセルは態度を硬化。イタリアGPスタートの数時間前に突如インディカー転向を表明した。この2つのニュースでもちきりの中、決勝レースは1-2体制のウィリアムズ勢に終盤揃ってトラブルが発生しストップ。セナは自身最後となるホンダエンジンでの優勝(シーズン3勝目)を挙げた。レース後の表彰台で隣は2位のマーティン・ブランドルだったが、セナが他に聞こえる人間がいない一瞬に口の動きも観衆から見えないようにして、「マーティン、僕たちは来年ウィリアムズでチームメイトになるらしいよ。」と小声で話しかけた。ブランドルは、「とても興味深い瞬間だったよ。セナは、これ以前の交渉でフランク(ウィリアムズ)から私が候補の一人だと聞き出していて、なおかつ'93年からウィリアムズにセナ自身が行くことを確信してたってことだからね。こちらはフランクからセナと交渉してるとは聞いてなかったよ(笑)。フランクがとても欲しがっていたミカ・ハッキネンは同じ週末にロータス残留発表(後に破棄)があったし、リカルド(パトレーゼ)は前の月にベネトンに行くサインをした後だ。でも、実際にはセナも僕も2人とも翌年ウィリアムズにいなかった。あの日の表彰台ではチームメイトになると明確に思ってたんだけど。」と30年後に当時の2人の会話を紹介している。

ホンダの母国ラストレースである第15戦日本GPでは、ヘルメットに小さな日の丸をペイントした他、コクピット内にも日の丸の小旗を用意してチェッカー後に地元の日本人ファンとホンダへの感謝を示すべく準備しての決勝だったが、わずか3周目にそのホンダエンジンにトラブルが発生しS字セクション先でスローダウン、最初のリタイア車となってしまった。最終戦オーストラリアGPでは、予選から好調だったが決勝ではトップ争い中にマンセルに追突して両者リタイア。ホンダでのラスト2戦を好結果で締めくくることはできなかった。

結局、ランキングはウィリアムズの2人に加え、ベネトンのミハエル・シューマッハにも敗れ4位に終わった。シーズン中1度もランキングトップに立てなかったのは、1985年シーズン以来のことだった。望んでいたウィリアムズ・ルノーへの移籍はこの年も結局成立せず、1年休養中だったプロストのウィリアムズ入りとF1復帰が発表された。ウィリアムズの契約書に関して、アラン・プロストとのドライバー契約が成立している期間は、ウィリアムズがアイルトン・セナと契約を結ぶことは出来ないとする条項の存在を報じるメディアもあった。

ホンダが撤退したため、マクラーレンはカスタマー仕様のフォードHBV8エンジンを搭載。マクラーレンはフォード・コスワースに対しワークス仕様の供給を求めたが、先にフォードとの独占ワークス契約を結んでいるベネトンのフラビオ・ブリアトーレがこれを拒絶。最新仕様はベネトンにのみ供給され、マクラーレンは旧スペックの使用となった。このため、マクラーレン勢は1年間の休養から復帰したプロストを擁するウィリアムズ・ルノー陣営に対して1992年以上に不利な状況と見られ、開幕前からセナはタイトル争いにおいて苦戦することが予想された。

開幕戦南アフリカGPでのMP4/8は、予選ではPPのプロストから僅差の予選タイムで2位となり肉薄出来たが、決勝レースでは一時トップを走行するもロング・ディスタンスでの戦力差がウィリアムズ・FW15Cに敵わず、モチベーションが低下したセナはレース終了後に1993年中の休養もほのめかすようになる。前年チャンピオンとなったマンセルがインディカーへ転向したことに続き、セナもまた転向を検討しシーズン前には同郷の先輩エマーソン・フィッティパルディのペンスキー・PC22(英語版)をテストドライブしていたという事実もあった。結局は開幕直前にマクラーレンと1戦ごとに契約を結ぶ異例の契約方式でF1に残留した。第7戦カナダGPまでは1戦ごとの契約で走った後、第8戦フランスGPにて正式にシーズン契約を結び、全戦出走に至った。セナのF1参戦が未確定だった開幕前には、ロン・デニスがセナ休養となった場合に備え、ウィリアムズと一旦契約した後に諸事情で白紙となりロータス残留かと思われたミカ・ハッキネンと駆け込みで契約締結していた。

第2戦ブラジルGPではペナルティにより一旦は4位まで転落するが、レース途中の豪雨によるプロストのリタイア、セーフティーカー導入などを味方につけて母国2勝目を挙げた。第3戦ヨーロッパGP(ドニントンパーク)でも、大雨の中オープニングラップで4台抜きを見せてトップに立ち連勝を果たした。第6戦モナコGPでは、PPのプロストがフライングスタートによるペナルティストップ時にエンジンストール、更に代わってトップに立ったミハエル・シューマッハがマシントラブルでリタイアしたことからグラハム・ヒルを上回るモナコ6勝目を達成し、1989年からのモナコGP連勝記録を5に伸ばした。

しかし、これ以後雨のレースが訪れなかったこともあって、セナは表彰台すら届かないレースが続く。プロストとのポイント差を広げられ、更にはシューマッハやプロストのチームメイトであるデイモン・ヒル相手にも苦戦。序盤のセナによる3度の優勝歴とロン・デニスの交渉により第9戦イギリスGPよりベネトンと同じ最新スペックのエンジンを手に入れることに成功したが、ベネトンは序盤戦に未搭載だったアクティブサスペンションやTCSなどハイテク装備を実装することで戦闘力を向上させたため、セナの順位は相対的に変わらなかった。第13戦イタリアGPでのリタイアによりセナはタイトル獲得の可能性が消滅し、続く第14戦ポルトガルGPでプロストのタイトルが決定した。このポルトガルGPでは、予選ではマイケル・アンドレッティに代わり同レースからチームメイトとなったハッキネンに敗れ、決勝ではリタイヤにより、表彰台未登壇の自身ワースト記録を更新(8戦連続)してしまう出来事もあった。

プロストの引退表明により、直接対決が残り2戦となった第15戦日本GPおよび最終戦オーストラリアGP(後者はこの年初にしてウィリアムズ以外のチームでは唯一となるPPを獲得)では連勝を果たした。結果的にオーストラリアGPでの通算41勝目が自身最後のF1勝利となった。

同年シーズンオフにはプロスト、翌年からチームメイトとなる事が決まっていたデイモン・ヒル、そのほかアンドレア・デ・チェザリス、フィリップ・アリオー、ジョニー・ハーバート、オリビエ・パニスらと共にパリでのチャリティ・カート大会に参加、これが最後の「セナプロ対決」となった。

ウィリアムズ時代

6年間在籍したマクラーレンを離れ、かねてから望んでいたウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たす。マスコミなどはセナがシーズンを圧倒するのではないかと予想する者までいた。

しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテクがこの年のルール変更により禁止され、新車FW16は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常に神経質なマシンに仕上がっていた。テストにおいても最速ではあったが、前年までの圧倒的な速さが消えていた。

特にアクティブサスペンションはニューウェイの作りだすマシンの空力的に神経質な部分を補っていたため、その禁止はウィリアムズにとって大きな打撃となった。 空力にも手を加えられていたが、低速コーナーではベネトンのマシンが優勢で、1994年第3戦サンマリノGP前にはセナはベルガーに対して「ゲルハルト、マシンをドライブするなんて事はできないよ。FW16は空力的にドライブが難しい部分があったみたいだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせてないしね」と漏らしている。

開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイア。第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタートで出遅れた上にハッキネンとニコラ・ラリーニに追突されてリタイア。開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。

事故

迎えた第3戦サンマリノGPは、開幕戦、第2戦共にノーポイントでの結果で終わったセナは「ここが自らの開幕戦」と誓い、レースに臨んでいった。しかし予選からそんなセナの気合に冷水をかける重大事故が多発する。まず予選1日目、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送された。結果的には鼻骨骨折というクラッシュの規模からすると軽傷で済んだが、一時は安否を心配される大きな事故であった。そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。

これら一連のアクシデントの中でセナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。ただし、夜には落ち着きを取り戻し、「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」と話していたという。

セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープして直後にミハエル・シューマッハを従えたが、後方グランドスタンド前での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、高速左コーナー「タンブレロ」において時速312kmでイン側を走行中に、3つ目の舗装の継ぎ目で突然不安定となりグリップを失ったままアウト側に向かい、そのまま直進してコースアウト、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km-220kmまで急減速していた)、マシンはボディー右側が大破し、セナは頭部に致命傷を負った。

セナは意識不明のままコース上に降りたヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分、34歳で帰らぬ人となった(以後、ジュール・ビアンキが2014年日本グランプリ決勝での事故により翌年死亡するまで20年間F1ドライバーの死亡事故は発生しなかった)。

事故直前の車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るものの、路面の舗装が変わる部分で突然車両がグリップを失い、そのままコンクリートウォールに激突する様子が記録されている。事故原因として当初疑われたパワーステアリング故障は否定された(コントロール喪失後もテレメトリーによる操舵トルクおよびパワーステアリング圧が持続していることから)。現在ではステアリングコラムが壊れた、またはわずかな路面の不整から車両が不安定となりコントロールを失ったことが原因と考えられているが、事故原因の確定的な結論には至っていない。

検死の結果、セナの死因はクラッシュ時に「車のサスペンションの一部が、ヘルメットを貫通した」ことであると結論付けられた。

死後

ブラジル国内の反応

セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去のアナウンスを優先し、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していた現地のテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞・雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、国葬が行われた。

セナの亡骸がイタリアから母国に搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラス MD-11のファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。

母国の政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。多くのドライバーがセナの葬儀に出向いたため、FIA会長のマックス・モズレーはセナの葬儀ではなく、5月7日にオーストリアのザルツブルクで行われたローランド・ラッツェンバーガーの葬儀に出席した。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ人への手紙8:39)」に因む。

ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を祈念した。その他、リオデジャネイロ市がネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称。サンパウロ地下鉄では、彼が生まれ育った地域にある駅名「ジャルジン・サンパウロ駅」に彼の名前を付けて変更を行う(Estação Jardim São Paulo-Ayrton Senna)など、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。

また、同年に行われた1994 FIFAワールドカップではサッカーブラジル代表が1994 FIFAワールドカップ・決勝で4度目の優勝を果たし、「SENNA...ACELERAMOS JUNTOS, O TETRA É NOSSO!」(セナ、共に走ろう。4度目の優勝は我々のものだ)という横断幕を掲げた。

日本国内の反応

その他

1994年の第4戦モナコGPでは、前戦で事故死したセナとラッツェンバーガーを悼むために、レースに際してグリッドの最前列をあけ、PPのグリッドにセナの母国ブラジル国旗が、セカンドグリッドにはラッツェンバーガーの母国オーストリア国旗がペイントされた。

セナを偲んでニキ・ラウダは「去年、セナがドニントン(1993年第3戦ヨーロッパGP)で勝った時、すぐ彼に電話したんだ。私は『これまで見た中で、君の最高のレースだ。F1史上最高のレースかもしれない』と言ったんだ。セナは本当にマジックだよ。私が一番印象深いのは、彼のモチベーションだ。常に自分の能力の限界を求め続けた。そして過去に誰も成しえなかった技術と完璧さを持った、最高のドライバーだった。それを我々は失った。今後、彼のようなドライバーが出てくるかどうかは分からない」と語った。

セナの死から24年後となる2018年、マクラーレン・オートモーティブよりセナの名を冠した新型スーパーカー「マクラーレン・セナ」が発表された。

2024/07/19 03:01更新

Ayrton Senna


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