ジャッキー=イクスの情報 (JackyIckx) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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ジャッキー=イクス
ジャッキー=イクス(Jacky Ickx)さんの誕生日は1945年1月1日です。
レースデビュー、フォーミュラなどについてまとめました。父親、事故、引退に関する情報もありますね。ジャッキー=イクスの現在の年齢は79歳のようです。
ジャック・ベルナール・エドモン・マルタン・アンリ・"ジャッキー"・イクス(Jacques Bernard Edmon Martin Henry "Jacky" Ickx 、1945年1月1日 - )は、ベルギー・ブリュッセル出身の、かつてF1で活躍した元レーシングドライバーである。またル・マン24時間レースで6度の優勝経験を持ち、「ル・マンのキング」と呼ばれる。兄のパスカル・イクス、娘のバニーナ・イクスもレーシングドライバーとして活躍した。 1945年1月1日にベルギーのブリュッセル近郊であるブレーンラルードで生まれた。父親のジャック・イクス(Jacques Ickx )はレースである程度の成功を収めた後に著名なモータージャーナリストになっており、自宅で開かれるディナーパーティーにはファン・マヌエル・ファンジオやスターリング・モスが招かれるなどレース業界とは近い環境にあり、8歳年上の兄パスカル・イクスも2輪レースで成功を収めていたが、ジャッキーだけは子供の頃内気かつ無気力で、レースにも、彼らスーパースターにも全く興味を持たなかった。13歳の時、父に連れられベルギーグランプリを見に行ったが、終了後「また来年も見にこなくちゃならないの?」と聞いたという。また学校も勉強も嫌いだった。 レースデビューしかし14歳の時、何の目的も興味も持たない息子を心配した父が「勉強の励みあるいは何か熱中する目標にでもなれば」と50ccのバイクを買い与えたのがきっかけでトライアルに熱中するようになったが、まだ免許が取れないので自宅裏にあった林道で走っていた。16歳で学校を中退、いくつかのロードレースで優勝するようになり、17歳の時スズキのファクトリーチームからテストに参加するよう誘われて合格、ベルギーグランプリとドイツグランプリに出場できるはずだったが国際モーターサイクリズム連盟のレース参加規定には18歳以上という年齢制限があり、出場できなかった。 1961年から1963年までツェンダップの50ccでベルギー国内チャンピオンとなり、18歳の時ツェンダップとBMWを販売していたディーラーから「自分でメンテナンスすること」を条件にBMW・700を貸与されたことを契機に4輪に転向、ヒルクライムに出場するようになった。 デビュー戦はラローシュで行なわれたヒルクライムであった。予選は晴れていたが決勝は土砂降りで、オーバースピードでコーナーに入ってTVカメラの目前でスピン、バンクに衝突してひっくり返ってしまい、これがベルギー全土にTV放映されて有名人になった。その後はロータス・コーティナに乗った。 1964年から1965年にかけてベルギーフォードと契約、フォード・コーティナやムスタングでヨーロッパ・ツーリングカーレースに出場。その間15ヶ月間の兵役に就きAMX-13戦車を操縦しており、除隊時自動的に自動車免許を取得した。 フォーミュラ1965年と1966年のスパ1000kmを連覇したことなどからケン・ティレルの眼に留まり、テストを受けて合格、「結果さえ良ければF2にステップアップもある」という内容でF3の契約をした。ただ実際にはF2で走ることの方が多かったという。自動車はマトラ・コスワースF2。F1との混走だった西ドイツグランプリ予選でF2最速を記録したが決勝はリタイアに終わった。最高位はアルビの4位。 ニュルブルクリンクで行なわれた西ドイツグランプリにおいて、ティレルF2チームから参戦。予選においてジャッキー・スチュワートなど並み居るF1ドライバーを凌ぎ、ジム・クラーク、デニス・ハルムに次ぎ総合3位に相当する予選タイムをマークし注目を浴びた。決勝グリッドはF1の後ろとなるにもかかわらず決勝でも4周目終了時には12台を抜いて5位を走行、サスペンション故障によりリタイアに終わったもののF1チームのマネージャー達に対する強いアピールとなり、負傷したペトロ・ロドリゲスに代わる形でクーパー・マセラティでのF1ワークスシートを獲得、初戦の9月10日イタリアグランプリで早くも6位入賞を果たした。 この年ティレル・マトラF2で優勝3回、3位2回を挙げてヨーロッパ・F2チャンピオンとなった。 クリス・エイモンのナンバー2としてフェラーリへ移籍。母国ベルギーグランプリで3位に入り初の表彰台を獲得。フランスグランプリで大雨の中初優勝し、以来雨に強いドライバーとされた。ドイツグランプリではポールポジションを獲得する活躍を見せた。23歳と216日は当時の史上最年少ポールポジション記録であった。 9月、第10戦となったカナダグランプリで予選中、エンジンの吸入が悪く改善をしようとチームは変更を加え、イクスは走行してみてスロットル・リンケージが全開時にひっかかり気味になって危険である旨感じてボッサーリ・ジュリオに何度も繰り返し伝えたがノントラブルだと言われ3度目のトライアルに出てスロットルが戻らなくなりコース外に飛び出し左脚を骨折した。このことについてボッサーリ・ジュリオは15年程後に自著で「あのとき、もっと気をくばっておけば良かった」と書いており、またイクス自身も「自分で納得できない異常を感じたらいさぎよくクルマを降りるのも勇気の一つだ」と書いている。この時はアメリカグランプリこそ欠場したものの回復が早く、カナダグランプリから40日後の最終戦メキシコグランプリにはギプス固定しつつ出場している。 ベルギー、イギリス、イタリアで3位、オランダと西ドイツで4位を獲得しランキング4位となった。 ブラバムへ移籍しカナダと西ドイツで2勝、このうち西ドイツでは完全なポールトゥーウィンであった。イギリスとメキシコで2位、フランスで3位、オランダで5位。ジャッキー・スチュワートに次ぐドライバーズランキング2位となった。ポールポジションも西ドイツ、カナダ、メキシコで獲得している。 この年早々にチャンピオンを決めていたスチュワートと第9戦カナダグランプリにてデッドヒートとなり、接触して両者スピンしたがスチュワートはコースアウトしてリタイヤ、イクスは2回転してそのままレースを続行できて優勝となり、「コーナーではじき飛ばして勝利した」と非難されたが、実際にはイクスは表彰台から降りてから謝りに行き、スチュワートはフレンドリーに「もうそんなこと忘れろよ」と言ったという。 ナンバーワンドライバーとしてフェラーリへ戻った。マシンはフェラーリ312B。ランキングトップだったヨッヘン・リントの事故死を受け、非公式ながら「死んだ人物からチャンピオンを奪い取るわけにはいかない」と発言している。しかしながらこれは八百長発言というわけではなく、リントが死亡したイタリアグランプリの前戦オーストリアグランプリ終了時点で45ポイントを獲得してランキングトップだったリントに対して、トップのリントはおろかジャック・ブラバムの25ポイント、デニス・ハルムの20ポイントにも遅れをとる19ポイントを獲得していたに過ぎなかった。状況としてはトラブルでリタイアを余儀なくされたイタリアグランプリを除く最終3戦を3連勝してようやくリントを1ポイント上回るという大差を付けられており、本人の意思にかかわらず元々タイトルを獲れる可能性は非常に小さなものであった。実際にはこの最終3戦を最終戦メキシコグランプリの優勝を含む優勝2回・4位1回で終えこの3戦だけで21ポイントを稼ぐ大健闘を見せているが、この頑張りは「手を抜いた走りをするのはリントに失礼」という思いがあったからである。後に最終戦を優勝したイクスにリント夫人が「カナダグランプリを優勝した時には、このまま全部勝ってしまうのではないかと思った」と言ったという。それに加え、最終的にこの年のランキング2位を獲得できたのはブラバムやハルム、更にオーストリアグランプリ終了時点で同点だったジャッキー・スチュワートがシーズン終盤になって失速したことに助けられた部分も大であった。この年がキャリアの中でも最もチャンピオンに近づいた年となった。 マシンはフェラーリ312B2。チャンピオン候補のナンバーワンに挙げられていたが、オランダグランプリとノンチャンピオンシップのリントメモリアル・ホッケンハイムで勝利したに留まった。 この年もフェラーリをドライブした。しかし西ドイツグランプリで1勝したに留まった。 フェラーリのエースとして開幕を迎えたがチームとの関係は悪化しており、更にニューマシン312B3の開発が難航しフェラーリはイギリスグランプリの後F1を休止、その間ドイツグランプリで3台目のマクラーレンM23を駆り、2台のティレルに次ぐ3位表彰台を獲得。再びフェラーリに戻ったが、オーストリアグランプリ用の新型B3はセカンドドライバーのイタリア人、アルトゥーロ・メルツァリオのみに委ねられた。結局シーズン終了を待たずしてフェラーリを離脱。最終戦アメリカグランプリで、フランク・ウィリアムズ率いるイソで出走し、7位に入り意地を見せた(メルツァリオはリタイア)。 エマーソン・フィッティパルディの抜けたロータスに加入。手始めにブランズハッチで行われたノンタイトル戦「レース・オブ・チャンピオンズ」で優勝を挙げる。この年ロータスはニューマシン76をデビューさせたが、後に車の出来が期待はずれであることが判明、結局僚友、ロニー・ピーターソンがモナコグランプリで優勝した後に開発中止となり、その後は76のパーツを流用した72Eで戦うこととなる。チーム内では1年の経験があるピーターソンの方に分があったが、彼が後退した2レースで表彰台を獲得し、ドイツグランプリでは得意のニュルブルクリンクを舞台にピーターソンの0.8秒差(このレースのタイム計測は1/10秒単位であった)でフィニッシュするなど、時折光る走りを見せた。 ピーターソンとともにロータスを駆ったが、時代遅れの72Eにもはや勝つための能力はなく、人身事故のため29周で中断したスペイングランプリでの2位が唯一の入賞となった。結局イギリスグランプリ前にロータスを去ることとなる。 1973年最終戦以来となるウィリアムズに移籍。しかしアメリカ西グランプリ、ベルギーグランプリ、モナコグランプリ、イギリスグランプリで予選落ちを喫するという散々な成績の末ウィリアムズを去ることになる。この年は、スウェーデングランプリを欠場する代わりにポルシェ・936を駆りル・マン24時間レースを制しており、この頃からスポーツカーレースを活動の中心に置くようになったようである。その後ドイツグランプリで起こったニキ・ラウダの事故にて、安全管理に不満を示しF1を引退したクリス・エイモンに代わり母国オーストリアグランプリを走ったハンス・ビンダーを引き継ぐ形でエンサインに移籍しF1復帰。イタリアグランプリ、カナダグランプリで完走するも世界のトップドライバーに見合うパッケージとは程遠かった。 クレイ・レガッツォーニに代わり、エンサインのワークスカーでモナコグランプリのみスポット参戦して10位。 引き続きエンサインでモナコグランプリ、ベルギーグランプリ、スペイングランプリ、スウェーデングランプリに参戦したが、好成績を得られぬままデレック・デイリーにシートを託した。 もはやモナコグランプリにも母国ベルギーグランプリにも出走しなかったが、フランスグランプリ前にリジェのパトリック・デパイユがハンググライダーの事故で負傷して空いたシートに収まった。この年リジェは3勝を挙げており、再び勝利を窺える千載一遇のチャンスだったが、不運にもシーズン中頃から低迷、5位と6位それぞれ1回ずつの入賞に留まった。最終戦アメリカグランプリはグリッド最後尾24番手でかろうじて決勝に進出したものの決勝レーススタート2周目アクシデントでリタイア、更にその次の周ではチームメイト、ジャック・ラフィットまでもアクシデントでリタイア。この年を最後にF1を去り、リジェのシートはディディエ・ピローニに引き継がれた。 2024/05/21 16:46更新
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Jacky Ickx
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