若いころのドルトンはイーグルスフィールドのクェーカー教徒エリヒュー・ロビンソンに強く影響を受けている。ロビンソンは有能な気象学者で機器製作者であり、ドルトンに数学と気象学への興味を植えつけた。ケンダルにいたころ、ドルトンは Gentlemen's and Ladies' Diaries 紙に寄せられた様々な問題や疑問に答えており、1787年から気象学に関する日記をつけ始めた。その後の57年間で日記には20万以上の気象観測記録が記された。同じころジョージ・ハドレー(英語版)の大気循環理論(ハドレー循環)を独自に再発見している。ドルトンの最初の出版物は Meteorological Observations and Essays (1793) で、後の発見の萌芽がいくつか見られる。しかしその独創的論文に他の学者が注目することはほとんどなかった。2作目の Elements of English Grammar は1801年に出版。
1794年、マンチェスターに移って間もなく、ドルトンは Manchester Literary and Philosophical Society、通称 "Lit & Phil" の会員に選ばれた。その数週間後自らの色覚を題材にした論文を発表し、先天色覚異常が眼球の液体培地の変色によって起きるという仮説を提唱した。西欧近代科学においては、ドルトンが自らの色覚を観察し発表するまで先天色覚異常に関する学術研究が行われていなかったとの定説がある。ドルトンの仮説の誤りは存命中に明らかになったが、研究の先駆性が評価され、先天色覚異常をドルトニズムと呼ぶようになった。ドルトンの死後保存された眼球の組織を1995年に調査したところ、ドルトンの先天色覚異常は中波長の錐体細胞(M-錐体)が働かないもの(2型2色覚)であることが判明した。なお、ドルトンは論文で次のように記している。
1800年、Manchester Literary and Philosophical Society の職員となり、翌年には "Experimental Essays" と題した一連の重要な論文を発表。気体の混合物について、真空または大気中での様々な温度における水蒸気や他の蒸気の圧力について、蒸発について、気体の熱膨張率について論じた。この4つの論文は1802年の Lit & Phil の学会誌 '
2番目の論文は次のような強烈な意見表明から始まる。
原子
ドルトンは相対原子質量(原子量)の表を出版した。最初の表には、水素、酸素、窒素、炭素、硫黄、リンという6種類の元素が掲載されており、水素原子の質量を1としている。この論文では、どうやってそれらの値に到達したのかは説明されていない。しかし、実験室のノートには1803年9月6日付けで、同時代の化学者らによる水、アンモニア、二酸化炭素などの分析からそれら元素の相対原子質量を求めたことがわかった。
気体が全て原子から成ると確信したドルトンは、次に原子の相対的大きさ(直径)を求めるという問題に直面した。そして組み合わせは常に可能な限り単純なものになると仮定し、化学反応が異なる質量の粒子の組み合わせで起きるという考え方に到達した。この点が古代ギリシアのデモクリトスやルクレティウスの原子論と異なる点である
この考え方を物質全般に拡張することで倍数比例の法則が導かれ、実験によってそれが正しいことを確認した。「酸素はある量の窒素またはその倍の量の窒素を化合するが、その中間の量の窒素とは化合しない」という倍数比例の法則の元になったと思われる記述が1802年11月に発表した論文にあるが、この論文が実際に出版されたのは1805年であり、その間に加筆された可能性も否定できない。
1808年の著作 New System of Chemical Philosophy には2原子、3原子、4原子の分子などが化合物を表す最も単純な形態として一覧で描かれている。
彼は化合物の構造が整数比率で表されると仮定した。従って、元素Xの原子1個と元素Yの原子1個が結びついて2元化合物となり、元素Xの原子1個と元素Yの原子2個(またはその逆)が結びついて3元化合物になるとした。New System of Chemical Philosophy に示された化合物の構造は、現代の観点から見て正しいものもあれば、間違っているものもある。
ドルトンが A New System of Chemical Philosophy (1808) で描いた様々な原子や分子
彼は元素記号も発表したが、それは黒く塗りつぶされた丸が炭素を表す、といったようなものであったため広まりはしなかったものの、歴史的な意義はあった。New System of Chemical Philosophy ではその記号を使って元素や化合物を表している。
原子論5つの原則
ある元素の原子は、他の元素の原子とは異なる。異なる元素の原子は相対原子質量によって互いに区別できる。
ドルトンは原子説をトムソンに伝え、トムソンの System of Chemistry 第3版 (1807) にその概要を掲載することに同意し、自身も New System of Chemical Philosophy の第1巻の第1部 (1808) に初めて原子説を記した。同著の第2部は1810年に出版されたが、第2巻第1部が出版されるのは1827年のことである。目新しい部分は付録だけで、本体の内容に目新しさはなかったため、何故これほどまで出版が遅れたのかは不明である。また、第2巻第2部は出版されなかった。
1817年から亡くなるまでドルトンは Lit & Phil の会長を務め、
多数の論文をその学会誌に発表した。ただし重要な論文は初期のものに集中している。1814年の論文では、定量分析(滴定)の原理を解説しており、その分野では最初期のものである。1840年にはリン酸塩とヒ素に関する論文を王立協会に提出して出版を断わられ、激怒して自分で出版した。その後も4つの論文が同様の経過をたどった。中でもそのうち2つ(「様々な塩に含まれる酸、塩基、塩の量について」と「砂糖の新たな容易な分析法について」)はドルトン自身が原子説に次ぐ重要な論文だと考えていた。その中である種のカルボン酸無水物を水に溶かしたとき体積が増えないという現象について、水分子の隙間に塩が入り込むからだと推測している。