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ニーノ=ロータ
ニーノ=ロータ(Nino Rota)さんの誕生日は1911年12月3日です。
主な作品などについてまとめました。映画、趣味、卒業、結婚、事件に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
ニーノ・ロータ(Nino Rota, 1911年12月3日 - 1979年4月10日)は、イタリアの作曲家。クラシック音楽と映画音楽で活躍した。本人は「本業はあくまでクラシックの作曲であり、映画音楽は趣味にすぎない」と言っていたが、映画音楽の分野で多大な業績を挙げており、死後クラシックの作品も注目を浴びるようになった。 北イタリアのミラノ出身。11歳でオラトリオ、13歳でオペラを作曲し、ミラノ音楽院、サンタ・チェチーリア音楽院で学んだ。その後米国に渡り、カーティス音楽学校に学んだ。帰国後ミラノ大学に入学し、文学と哲学を並行して専攻。 大学卒業後は音楽教師となり、その傍らクラシック音楽の作曲家として活動を開始。1942年以降、映画音楽の作曲も始めた。1951年、当時新進映画監督として注目を集めたフェデリコ・フェリーニと出会い、その後自身が亡くなるまで、フェリーニの映画音楽を数多く手がけることになった。 フェリーニ監督以外の映画音楽も多数手がけ、1968年にはフランコ・ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』の音楽を担当した。同作品の「ワット・イズ・ア・ユース」はグレン・ウェストンが歌っている。フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』の音楽はロータの代表作となり、「愛のテーマ」は多くの人々に親しまれた。 1975年と1976年の2回来日しており、1976年の来日時には、国内11か所で自作を取り上げたコンサートを開催し、自ら指揮棒も振った。 67歳のとき心臓発作によりローマで死去。生涯結婚はしなかったが、娘が1人いる。 南イタリアのモノーポリに音楽院(イタリア語版)を設立するため尽力し、1971年の開校時より院長を務めた。同音楽院は2004年に彼を記念して「ニーノ・ロータ音楽院 Conservatorio Nino Rota di Monopoli」に名称を改めている。 主な作品交響曲第1番ト長調(1935年 - 1939年) 交響曲第2番ヘ長調 交響曲第3番ハ長調 オペラ『フィレンツェの麦わら帽子』(1946年) 木管五重奏のための『小さな音楽の贈り物』(1943年) オーボエとピアノのための『エレジー』(1955年) 弦楽のための協奏曲(1964年 - 1965年) トロンボーン協奏曲 ハ長調(1966年) ファゴット協奏曲(1977年) 白い酋長(1951年) 青春群像(1953年) 道(1954年) 崖(1955年) カビリアの夜(1957年) 甘い生活(1959年) ボッカチオ'70(1962年) 8 1/2(1963年) 魂のジュリエッタ(1965年) 世にも怪奇な物語(1968年) サテリコン(1969年) フェリーニの道化師(1971年) フェリーニのローマ(1972年) フェリーニのアマルコルド(1973年) カサノバ(1976年) オーケストラ・リハーサル(1979年) アンナ(1951年) 2ペンスの希望(1952年) 夏の嵐(1954年) 戦争と平和(1956年) 白夜(1957年) 海の壁(1957年) 若い夫たち(1958年) 戦争・はだかの兵隊(1959年) 太陽がいっぱい(1960年) 若者のすべて(1960年) 好敵手(1961年) ボッカチオ'70(1962年) ※ルキノ・ヴィスコンティ版 山猫(1963年) じゃじゃ馬ならし(1967年) ロミオとジュリエット(1968年) ワーテルロー(1970年) ゴッドファーザー「愛のテーマ」(1972年) ナイル殺人事件(1978年) ハリケーン(1979年) 2024/05/18 20:43更新
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Nino Rota
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