バルビーノ=ガルベスの情報(BalvinoGalvez) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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バルビーノ=ガルベスさんについて調べます
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バルビーノ=ガルベスの情報まとめ
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バルビーノ=ガルベス(Balvino Galvez)さんの誕生日は1964年3月31日です。
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選手としての特徴、人物などについてまとめました。兄弟、ドラマ、テレビ、事件、母親、引退、現在に関する情報もありますね。バルビーノ=ガルベスの現在の年齢は60歳のようです。
バルビーノ=ガルベスのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート バルビーノ・ガルベス・ヘレス(Balvino Galvez Jerez、1964年3月31日 - )は、ドミニカ共和国サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 NPBでは1996年から 2000年までの5年間にわたり、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の読売ジャイアンツ(巨人)でプレーし、1年目の1996年にはチームメイトの斎藤雅樹とともに16勝を挙げ、リーグ最多勝のタイトルを獲得している。息子のブライアンも野球選手で、かつてロサンゼルス・ドジャース傘下のマイナーチームでプレーしていた。 1981年にドラフト外でロサンゼルス・ドジャースと契約。 1986年にメジャー昇格を果たしたが、この年以外はメジャーに昇格できずマイナー生活を続けていた。 1994年に台湾のプロ野球リーグ・中華職業棒球聯盟の球団である兄弟エレファンツへ入団(登録名は巴比諾)。1年目から16勝を挙げた。 翌1995年も10勝を挙げ、2年連続二桁勝利を記録していたが、素行不良によりシーズン途中で解雇された。 1996年に読売ジャイアンツの春季キャンプへ参加を志願すると、テスト生として入団テストを受験し、同年2月22日に合格・入団が決まった。過去の経緯から当初はほとんど期待されていなかったが、この年は16勝を挙げ斎藤雅樹とともに最多勝のタイトルを獲得する活躍で「メークドラマ」に大きく貢献した。同年5月1日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)において、5回裏にガルベスの投球が山崎武司の頭付近を通過、これに山崎が激怒しマウンドへ詰め寄り、ガルベスのパンチに対してヘッドロックをかけて応戦、その後両軍総出の大乱闘に発展した。この結果、両者ともに退場処分を受けた。この乱闘劇は「ヘビー級」と評され、後のテレビ番組でも何度も取り上げられるほど大きなインパクトを残した。なお、その次の山崎との対戦は、6月1日の試合(東京ドーム)で1回表1死満塁の場面であり、山崎は「挑発するように本塁寄りに立ち」、「ガルベスもそれにこたえ内角攻め」をし、結果は2球目が手首に当たる押し出し死球であった。 以上の乱闘がきっかけとなり日本酪農乳業協会のCMに出演。「カルシウムブソク、シテイマセンカ?」という台詞で人気を博した。後年は「素行不良」などマイナスなイメージが強くなるが、この当時は明るいキャラクターでファンが多く、スポーツ雑誌「Number」で表紙を飾ったこともあった。 1997年は春先は1勝5敗と負けが先行し苦しいスタートだったが、徐々に復調し最終的には12勝12敗の成績で槙原寛己とならんでチーム最多の勝利数を記録。1998年も7月終了時点でリーグトップとなる9勝を挙げる活躍をみせたが、乱闘事件(後述)を起こしてしまったことで出場停止処分を受け、後半戦を棒に振る結果となった。この年限りでの退団が確実視されていたが、一転してシーズン終了後に巨人と再契約を結び残留が決定した。この再契約にNPB審判団は猛反発し、連盟に対して抗議文を送り契約を取り消すよう求めたが、契約は撤回されなかった。 1999年は開幕投手に予定されていた桑田真澄の調整遅れもあり、オープン戦で好調だったガルベスが巨人史上初の外国人開幕投手を任せられた。ガルベスは期待に応え、9回1失点の好投で勝利投手となっている。この年から打線の援護に恵まれない試合が目立つようになり、防御率は3.66とリーグ7位の数字を残しながら9勝12敗と初めて負け越した。シーズン終盤には4連敗を記録している。また、走者を気にしすぎるという弱点もなかなか改善されなかった。 2000年は阪神から移籍してきたダレル・メイや2人の韓国人投手(趙成珉・鄭珉哲)で外国人投手2枠を争うことになったが、開幕ローテーションの座を確保する。しかし、前年以上に打線の援護のなさや守備のミスが目立ち、開幕から6試合先発して自責点は毎試合3点以下ながら全て敗戦投手、1999年終盤からの通算では10連敗となった。この6連敗を受けて5月に二軍降格して調整を続けていたが、一軍に上がれない不満から代理人を通じて球団に自由契約を要求する騒動が起きた。結局ガルベスが要求を取り下げることで決着はついたが、夏場に痛めた膝の治療のため帰国。9月に再来日し、日本シリーズを見据え調整していたが、シリーズ前の10月5日に戦力外を言い渡され、同月7日に帰国した。 2001年はピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、メジャー復帰を目指す。投手陣に故障者が続出していたこともあり先発ローテーション入りの候補になっていたが、開幕を控えた3月下旬の練習中に突然行方不明となり(チームメイトとトラブルがあったとされるが、詳しい理由は不明)、解雇された。 その後、不振により解雇されたサロモン・トーレスの代役として、シーズン途中の5月に韓国プロ野球の三星ライオンズと年俸20万ドルで契約し、のちに巨人へ入団する李承燁とチームメイトとなる。初登板で韓国球界初勝利を挙げたが、観光ビザで投げていたことが発覚して大問題となる。対戦相手のハンファ・イーグルスから提訴される寸前になるほどの問題となったが、最終的には不問とされ、ガルベスも早急に就労ビザを取得した。 その後も胸元への速球を武器に前半戦だけで9勝をマーク、オールスターにも出場した。後半戦早々に10勝目を挙げてタイトル争いでも上位につけていたが、優勝が目前となった8月下旬に母親が病に倒れたため、その看病を理由に突然帰国した。球団は6度にわたって復帰要請するが、ガルベスは何かと理由をつけて帰国せず、レギュラーシーズン終了まで戻らなかった。チームのリーグ優勝が決まった後の10月上旬に、韓国シリーズ出場のためようやく復帰する。韓国シリーズ(対斗山ベアーズ戦)では第1戦・第4戦の2試合に先発登板するが、タイロン・ウッズに2本塁打を浴びるなど2試合で計10失点と大きく精彩を欠いた。特に第4戦では3回途中7失点と大きく崩れ、シリーズ敗退の最大の戦犯となってしまった。レギュラーシーズンでは10勝4敗、防御率2.47と好成績だったが、相変わらずの素行不良が原因で契約更新はされなかった。この年限りで現役を引退。 その後はドミニカへ帰国し、2019年の報道によると、ベースボールアカデミーを経営して未来の大リーガーの育成に力を入れているとのことである。 選手としての特徴球種は主にストレート、チェンジアップ、シュートの3つのみであり、他にはスライダーも投げられたがガルベス本人があまり好んでおらず、投げる機会は少なかった。一方でシュートについては絶大な信頼を寄せており、捕手の村田真一が「スライダーをもっと使えば抑えられる」と説得しても「(スライダーで)打たれたら後悔する」「俺はシュートで飯を食ってきたんだ」などと言って納得せず、一切妥協しなかったという。ガルベス在籍時に1軍投手コーチおよびヘッドコーチを務めていた堀内恒夫はこのシュートを絶賛しており、「いまでいうツーシームみたいなもので、スピードが落ちない。球もある程度速かったから勝てた」と評している。 投手ながら打撃も良く、本塁打も通算で10本放っており、登板の少なかった2000年以外は毎年本塁打を打っていた。1999年には満塁本塁打を2本(1本は横浜スタジアムでの場外本塁打)打っているが、NPBで投手として登板中に満塁本塁打を2本打った選手、および満塁本塁打を打った外国人投手は現在に至るまでガルベスのみである。 前述のように、走者を気にしすぎるといら立つなどマウンド上で落ちつかなくなることが多かったが、堀内恒夫はガルベスの特性について「たまに走者に揺さぶられても審判の判定に納得がいかなくても冷静に投げていられたときはあったが、そのときは決まってコンディションが悪く、むしろ『ちょっと』カッカしてるときの方が調子がよかった」と評していたうえに、この性格と風貌に似合わず投球スタイルは打たせて取る技巧派だった。 真中満はガルベスのストレートをシュート回転する球だったと証言しており、川上憲伸は「送りバントを失敗したら罰金」というチームの制度のなか、ガルベスとの対戦でビーンボールに対する恐怖と戦いながら送りバントをするのが嫌だったと引退後に振り返っている。 人物前述の山崎武司との乱闘劇や、後述の審判に対する前代未聞の暴挙などが原因で「問題児」「素行が悪い」などと評されることが多かった一方で、試合以外の場面においてはとても人当たりがよく、一部チームメイトや関係者の評判も決して悪くはなかった。以下がその例。 堀内恒夫はガルベスの性格について「普段は紳士的でいい奴だが、マウンドに立つと別人になってしまい、直情型ですぐにカーーーっとなる」とブログ内で綴ったことがある。ガルベスとの関係自体も良好であり、堀内が巨人の監督に就任した際はガルベス自ら「再びチームに入れて欲しい」と売り込みに来たことを明かしている(ただし、ガルベスがこの時点で高齢だったため堀内自ら断りを入れている)。 当時チームメイトだった斎藤雅樹と村田真一もガルベスに対して上記の堀内と同じ印象を抱いており、試合以外では「普通のお兄ちゃん(斎藤)」「シャイでいい奴(村田)」だったと評している。また義理堅い一面もあり、ガルベスが先発していた試合で村田が顔面に死球を受けて戦線離脱し、その約2ヶ月後に復帰を果たしたが、合流直後にガルベスに呼び出され通訳を介して「あの試合に勝てなくてすまなかった」「(村田に)謝りたくてずっと来るのを待ってた」などと真摯に謝罪されたことを後年村田本人が明かしている。 1997年から1999年までチームメイトだった石井浩郎はロッカールームでガルベスと隣同士だったことから会話をする機会が多く、そのガルベスからは「イシさん」と呼ばれ慕われていた。石井はガルベスについて「普段は凄くいい奴、優しい」と温和な人柄であったことを明かしている。ただし、石井によれば当時ガルベスは興奮剤などを服用して試合に臨んでいたといい、「コーヒーと一緒に飲んで、カッカ、カッカして。それで試合になると一変してしまう」と後年になって明かしている(当時はMLBにおいてもまだ明確なドーピング規定が存在していなかった)。さらに後述の審判に対する暴挙の際、石井はガルベスの右腕を抑えてベンチに連れ戻したが「次に乱闘になったときに俺を止めたら、まずお前をヤッてから行く」と言われたことも明かしている。 川相昌弘はガルベスに対し「無茶苦茶なようにやっているイメージがあるけど、実はすごくチームプレーに徹するというか、チームの勝利に貢献する、チームメイトのことを思ってやる、そういう優しさがあった」とその人柄を高く評価している。 1999年から2年間チームメイトだったドミンゴ・マルティネスは同じくドミニカ共和国出身であるガルベスを兄のように慕っており、ガルベスもマルティネスに対して真夜中に母国料理をふるまうなどしてか可愛がっていたという。 スポーツライターの赤坂英一は「僕個人は穏やかにピッチング談義を聞かせてもらった思い出もあって、そんなに乱暴でおっかないばかりの人物だったという印象はない」とブログ内でガルベスについて綴っている。 2024/06/27 01:00更新
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Balvino Galvez
バルビーノ=ガルベスと同じ誕生日3月31日生まれの人
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