フランツ=リストの情報(FranzList) 作曲家、ピアニスト 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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フランツ=リストの情報まとめ
フランツ=リスト(Franz List)さんの誕生日は1811年10月22日です。
現在、家族、結婚、父親、離婚、事件、病気、映画、兄弟に関する情報もありますね。1886年に亡くなられているようです。
フランツ=リストのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)フランツ・リスト(独: Franz Liszt)、もしくはリスト・フェレンツ(ハンガリー語: Liszt Ferenc、1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリー王国出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家。 自身の生誕地(後述)であり、当時属していたハンガリー王国(当時はオーストリア帝国支配下の版図内)を祖国と呼び、ハンガリー人としてのアイデンティティを抱いていたことから、死後も「ハンガリー」の音楽家として認識・記述されることが多い。その一方で生涯ハンガリー語を習得することはなく、両親の血統、母語、音楽家としての活動名義(フランツ・リスト)、最も長い活動地のいずれも「ドイツ」に属し、当時の中東欧に多数存在したドイツ植民の系統でもある。このような複雑な出自や、ハンガリー音楽を正確に把握していたとは言い難い作品歴から、非音楽大国系の民族運動としての国民楽派に含めることは殆どなく、多くはドイツロマン派の中に位置づけられる。 ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。 オーストリア帝国領内ハンガリー王国ショプロン県(英語版)ドボルヤーン(現在のオーストリア共和国ブルゲンラント州ライディング)において、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人(英語版)(ドイツ系)の父アーダム・リストと、オーストリア人(南ドイツ人)の母アンナの間に生まれた。 ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。 家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語であった。しかし、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生はフランス語のほうを多く使っていた。このほか数ヶ国語に通じながら、ハンガリー人を自認していた彼が生涯ハンガリー語だけは覚えなかったことを不可解とする向きもあるが、時代背景的に生地・血統共に生粋のハンガリー人でさえドイツ語しか話せない者も珍しくなかったという事情から、国民国家の価値観が定着した現代の感覚でこれを疑問視することは適切とは言えない。歌曲は大部分がドイツ語(一部はフランス語)で書かれている。 家名の本来の綴りはドイツ系固有の List で、Liszt はそれをハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では sz の綴りで /s/ を表す)。ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていたことがある。リストのハンガリーのパスポートではファーストネームの綴りがFerenczとなっていたのにも拘らず今日ではFerencと綴られるが、これは1922年のハンガリー語の正書法改革で苗字を除く全ての語中のczがcに変更されたためである。1859年から1867年までの公式の氏名はフランツ・リッター・フォン・リスト (Franz Ritter von Liszt) だったが、これは1859年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によりリッター(騎士)の位を授けられたためであり、リスト自身は公の場でこのように名乗ったことは一度もなかった。この称号はカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインと結婚する際、カロリーネを身分的特権の喪失から守るために必要だったが、カロリーネとの結婚が婚姻無効に至った後、1867年にリストはこの称号を自身よりも年少の叔父のエードゥアルトに譲った。エードゥアルトの息子が法学者のフランツ・フォン・リストである。 父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・チェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事した。ルイジ・ケルビーニとパエールの手助けにより、翌年にはオペラ『ドン・サンシュ(英語版)』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。 1823年4月13日にウィーンでコンサートを開き、フンメルのピアノ協奏曲第3番やモシュレスのピアノと管弦楽のための変奏曲などを弾いた。その際、コンサートに出席していたベートーヴェンに賞賛され、その様子を描いた石版画なども後世に作られたが、当時の演奏会にベートーヴェンが出席した記録や報道がないことから今日ではこのエピソードは否定されている。 1827年には父アーダムが死去し、わずか15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。この時、教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢と恋愛関係になるが、彼女の父の介入から身分違いを理由に破局となる。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していった。 1831年にニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。1838年のドナウ川の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。 ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。 3児を儲けたものの、1844年にはマリーと別れた。再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。 以前から、リストとヴァイマール宮廷の間には緩やかな関係があってリストは客演楽長の地位にあったが、1848年からは、常任のヴァイマール宮廷楽長に就任した。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマールで作曲に専念した。以後も機会があればコンサートでピアノを弾くことはそれなりにあったし小さなサロンではよく弾いたが、これを機にリストはヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのキャリアを終え、指揮活動と作曲に専念するようになった。リストが最も多産で活発な音楽活動を行ったのが、ヴァイマール時代である。 リストはこの地で、多数の自作を含めて、当時の先進的な音楽を多く演奏・初演したが、地方の一小都市に過ぎず、また保守的だったヴァイマールの市民に最後までリストは受け入れられなかった。実際、リストが指揮するコンサートはガラガラだったという。ヴァイマール宮廷のオーケストラの規模は貧弱で、オーケストラの団員はリストの在任中40名を越えたことは1度もなく、1851年の段階ではオーケストラ団員35名、合唱団員29名、バレエ団員7名という少なさで、その給料の低さもひどいものだった。リストはヨアヒムをコンサートマスターとして招聘したり、オーケストラ団員を増員するなど改革に努力したが、保守的だったヨアヒムは結局リストの先進性を受け入れることができずコンサートマスターを辞任するなどトラブルは絶えず、結果は実らなかった。 それにもかかわらず、リストはこの地でワーグナーの歌劇『タンホイザー』のヴァイマール初演 (1849年2月中旬)、歌劇『さまよえるオランダ人』のヴァイマール初演、歌劇『ローエングリン』の世界初演 (1850年8月28日)、シューマンの劇音楽『マンフレッド』の世界初演 (1852年)、歌劇『ゲノヴェーヴァ』(1855年)、ベルリオーズの歌劇『ベンヴェヌート・チェルリーニ』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』、マイアベーアやヴェルディの歌劇など多くの大規模作品を演奏している。 特に『ローエングリン』の世界初演はエポック・メイキング的な演奏会であり、その初演は、『タンホイザー』のヴァイマール初演の時ほどの成功を勝ち取ることはできなかったにしても、これ以降、ヴァイマールは当時の最先端の音楽の中心と目されるようになった。一方でリストはこれ以外にも保守的な歌劇も多く指揮した他、客演指揮者による歌劇の演奏も多く行われたため、ヴァイマールでは歌劇の演奏は非常に活発だった。また、当時の最新の音楽が演奏されたこともあって、新しい音楽に敏感な音楽家がヴァイマール詣でをするようになった、 一方、リストがカロリーネと愛人関係にあることは保守派に攻撃の口実を与える不利な材料として作用した。カロリーネも市民から快く思われておらず、街中で市民から侮蔑の言葉を浴びせられることもあった。離婚問題に絡んだ政治的な策謀もからまって、カロリーネの社交パーティーにも宮廷の官吏は寄り付かないようになっていた。 1858年には、弟子のペーター・コルネリウスによる歌劇『バグダッドの理髪師(英語版)』で聴衆から激しいブーイングを受ける事件が起こり、これが原因で翌年には音楽長の職を辞すことにした。カール・アレクサンダー大公は友人でもあるリストに翻意するように説得を試みたが、リストの意思は固く復職することはなかった。辞職を翻意しなかった理由は複雑であまり明瞭ではないが、やはり侯爵夫人との結婚問題が大きな要因であったことは否定しがたいようである。 離婚問題を打開するため、カロリーネは現夫との結婚の無効を求め、同時にリストとの結婚をローマ法王ピウス9世に許可してもらうためローマに1人で出かけていった。それが1860年5月のことである。その後しばらくリストはヴァイマールのアルテンブルク荘で1人で自由な生活を送っていたが、結局カロリーネを追いかけてリストは翌年の8月17日にヴァイマールを後にした。途中、ベルリン、パリを経由し、10月21日にローマに到着、以降はローマに定住するようになった。 リストがローマに行った理由は、資料によって説明がばらついていてはっきりしない。ローマに行ったカロリーネを追いかけて行ったという説明もあれば、1859年にリストがドイツで会ったホーエンローエ (Hohenlohe) 枢機卿がリストの教会音楽改革計画に賛同し、後にリスト宛てにローマから手紙を書いて、リストのローマ定住を希望したからだと書くものもある。 リストが1861年にはローマに移住した後、1865年に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』は20世紀の印象主義音楽に影響を与え、ドビュッシーの『水の反映』に色濃く残っている。同時にラヴェルの『水の戯れ』も刺激を受けて書かれたものであると言われている。『エステ荘の噴水』の作曲時、エステ荘にたくさんある糸杉をみた印象をカロリーネ宛ての手紙に書いている。「この3日というもの、私はずっと糸杉の木々の下で過ごしたのである!それは一種の強迫観念であり、私は他に何も―教会についてすら―考えられなかったのだ。これらの古木の幹は私につきまとい、私はその枝が歌い、泣くのが聞こえ、その変わらぬ葉が重くのしかかっていた!」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言したが、シェーンベルクらの十二音技法へとつながってゆく無調とは違い、メシアンの移調の限られた旋法と同様の旋法が用いられた作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。 リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられた。また、弟子のフェリックス・ワインガルトナーはリストを「確実にアルコール依存症」と証言していた。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。 1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対した)。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみだったが、1978年に再建された。 ザルダナパール(英語版) (S.687) - 未完 3人の人物描写によるファウスト交響曲 (Eine Faust-Symphonie in drei Charakterbildern) S.108/R.425, 1854年 [約80分] ダンテの神曲による交響曲 (Eine Symphonie zu Dantes Divina Commedia) S.109/R.426, 1855-56年 [約50分] リストは標題音楽に交響詩というジャンルを確立した。彼は13曲の交響詩を作曲しているが、今日『前奏曲』以外が演奏されることはまれである。 『人、山の上で聞きしこと』(Ce qu'on entend sur la montagne) S.95/R.412, 1848-56年 [約30分]
『タッソー、悲劇と勝利』(Tasso, lamento e trionfo) S.96/R.413, 1848-54年 [約21分] 『前奏曲』(Les préludes) S.97/R.414, 1848-53年 [約15分] 『オルフェウス』(Orpheus) S.98/R.415, 1853-54年 [約11分] 『プロメテウス』(Prometheus) S.99/R.416, 1850-55年 [約13分] 『マゼッパ』(Mazeppa) S.100/R.417, 1851-54年 [約16分] 『祭典の響き』(Festklänge) S.101/R.418, 1853年 [約20分] 『英雄の嘆き』(Héroïde funèbre) S.102/R.419, 1849-54年 [約27分] 『ハンガリー』(Hungaria) S.103/R.420, 1854年 [約23分] 『ハムレット』(Hamlet) S.104/R.421, 1858年 [約14分] 『フン族の戦い』(Hunnenschlacht) S.105/R.422, 1856–57年 [約15分] 『理想』(Die Ideale) S.106/R.423, 1857年 [約27分] 『ゆりかごから墓場まで』(Von der Wiege bis zum Grabe) S.107/R.424, 1881-82年 [約14分] レーナウの「ファウスト」による2つのエピソード (S.110/R.427) 1861年完成 2つの伝説 (S.113a) 1861-63年? 3つの葬送的頌歌 (S.112) 1860-66年 メフィスト・ワルツ第2番 (S.111) 1880-81年 ベルリオーズの『レリオ』の主題による交響的大幻想曲 (S.120/R.453 H2)1834年:ベルリオーズの「レリオ、あるいは生への復帰」に基づく。 呪い (S.121/R.452) 1830年頃 ベートーヴェンの「アテネの廃墟」のモティーフによる幻想曲 (S.122/R.454 H9) 1849年 ハンガリー幻想曲 (S.123/458) 1852年頃:ハンガリー狂詩曲第14番 ヘ短調 S.244/14に基づく。 ピアノ協奏曲第1番変ホ長調 (S.124/R.455) 1849年 ピアノ協奏曲第2番イ長調 (S.125/R.456) 1839 - 61年 ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 (125a) 死の舞踏 (S.126/R.457) 1849 - 59年:怒りの日(ディエス・イレ)の主題に基づく。 さすらい人幻想曲 (S.366/R.459):シューベルトのピアノ独奏曲に基づく。 ハンガリー様式の協奏曲:ゾフィー・メンターの作品をチャイコフスキーが協奏曲として編曲とされているが、メンターの作品ではなくリスト作曲もしくはリストの手を含むメンターの曲とする説も存在することから、リストの作品として演奏されたりCDに書かれている例もある。 ピアノソナタ ロ短調 (S.178/R.21) 超絶技巧練習曲 (S.139/R.2b)
第5曲「鬼火」 パガニーニによる大練習曲 (S.141/R.3b)(編曲の部類に入る)
第6曲「主題と変奏」 3つの演奏会用練習曲 (S.144/R.5)
2つの演奏会用練習曲 (S.145/R.6) 巡礼の年
巡礼の年 第2年:イタリア (S.161/R.10b) 巡礼の年 第2年補遺:ヴェネツィアとナポリ(初稿:S.159/R.10d, 改訂稿:S.162/R.10c) 巡礼の年 第3年 (S.163/R.10e) バラード第1番変ニ長調 (S.170/R.15)、第2番ロ短調 (S.171/R.16) 慰め(コンソレーション) (S.172/R.14) 詩的で宗教的な調べ (S.173/R.14) 2つの伝説 (S.175/R.17) ハンガリー狂詩曲 (S.244/R.106) - 全20曲。第2番が最も有名。 スペイン狂詩曲 (S.254/R.90) 大演奏会用独奏曲 (S.176/R.18) スケルツォとマーチ (S.177/R.20) バッハの名による幻想曲とフーガ (S.529/R.22) バッハのカンタータ『泣き、嘆き、悲しみ、おののき』(Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen BWV 12)とロ短調ミサ曲の『十字架につけられ』の通奏低音による変奏曲(バッハの動機による変奏曲) (S.180/R.24) 愛の夢、3つの夜想曲 (S.541/R.211) 即興曲(夜想曲) (S.191/R.59) 4つのメフィスト・ワルツ 4つの忘れられたワルツ (S.215) 二つのポロネーズ 暗い雲 (S.199/R/78) 悲しみのゴンドラ (S.200) R.W.(リヒャルト・ワーグナー) - ヴェネツィア (S.201) 無調のバガテル (S.216a/R.60c) 即興円舞曲(S.213, 改訂稿:S.213a、簡易稿s213b) 半音階的大ギャロップ (S.219)、その簡易稿 (S.219bis) ベートーヴェン:交響曲(9曲) (S.464/R.128) ベルリオーズ:幻想交響曲 (S.470/R.134, 136) ベルリオーズ:ヴィオラとピアノによる『イタリアのハロルド』(S.472)- オーケストラ・パートをピアノに編曲したもの。 J.S.バッハ:前奏曲とフーガ(6曲)BWV543-548(S.462/R.119) サン=サーンス:交響詩『死の舞踏』 (S.555/R.240) - リスト自身の「死の舞踏」とは別の作品である。 ワーグナー:『さまよえるオランダ人』より「紡ぎ歌」 (S.440/R.273)、『タンホイザー』序曲 (S.442/R.275)、『トリスタンとイゾルデ』より「イゾルデの愛の死」 (S.447/R.280) シューベルト:『白鳥の歌』 (S.560/R.245)『冬の旅』 (S.561/R.246)『魔王』『アヴェ・マリア』『糸をつむぐグレートヒェン』 (S.558/R.243)など多数の歌曲 シューマン:歌曲集『ミルテの花』から『献呈』(S.566/R.253) 「ドン・ジョヴァンニ」の回想 (S.418/R.228) (原曲:モーツァルト) リゴレット・パラフレーズ (S.434/R.267) (原曲:ヴェルディ) 「ノルマ」の回想 (S.394/R.133) (原曲:ベッリーニ) オペラ『ファウスト』より ワルツ (S.407/R.166) (原曲:グノー) オペラ『預言者』による挿絵 S414/R223〈祈り、勝利の賛歌、戴冠式行進曲/スケートをする人びと/羊飼の合唱、軍隊の召集〉(原曲:マイアベーア) オペラ『悪魔のロベール』のカヴァティーナ S412a(原曲:マイアベーア) オペラ『悪魔のロベール』の回想 S413/R222(原曲:マイアベーア) 『ユグノー教徒』の回想(オペラ『ユグノー教徒』の主題による劇的大幻想曲)S412/R221(原曲:マイアベーア) オペラ『アフリカの女』の挿絵 S415/R224〈船乗りの祈り/インド風行進曲〉(原曲:マイアベーア) 『夏の夜の夢』より 結婚行進曲と妖精の踊り (S.410/R.219) (原曲:メンデルスゾーン) 「ラ・カンパネッラ」で有名な『パガニーニによる大練習曲』はパガニーニの原曲によりながらも独創性の強い作品とされ、サール番号での分類をはじめ、通常は編曲とは看做されずオリジナル作品に分類される。ただしその前身である『パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲』 (S.420) は編曲作品とみなされる。 コラール「アド・ノス、アド・サルタレム・ウンダム」による幻想曲とフーガ〈Fantasy and Fugue on the chorale "Ad nos, ad salutarem undam"〉(S.259/R.380)- マイアベーアのオペラ『預言者』に基づく バッハの名による幻想曲とフーガ (S.260/R.381) バッハのカンタータ『泣き、嘆き、悲しみ、おののき』とロ短調ミサ曲の『十字架につけられ』の通奏低音による変奏曲 (S.673/R.382) オルガン・ミサ (S.264/R.384) レクイエム (S.266/R.385) オラトリオ「聖スタニスラウスの伝説」 (S.688) - 未完成 オラトリオ「聖エリーザベトの伝説」 (S.2/R.477) 1862年 [約1時間40分] オラトリオ「キリスト」 (S.3/R.478) 1867年 [約2時間50分] 荘厳ミサ曲 (S.9) 1855年[約55分] 戴冠式のミサ曲 (S.11) 1867年[約45分] レクイエム (S.12) 1868年 詩篇第13篇 (S.13) 1855年 [約25分] おお、愛して下さい、愛しうる限り長く (ピアノ曲『愛の夢』の原曲)(S.298) - 原詩『O lieb, so lang du lieben kannst』 ペトラルカの3つのソネット (S.270) ローレライ (S.273) 三人のジプシー(三人のツィゴイナー/Die Drei Zigeuner) メフィスト・ワルツ第4番 (S.696) - 不明者が完成 モーツァルトの「フィガロの結婚」と「ドン・ジョヴァンニ」の主題による幻想曲 (S.697) - フェルッチョ・ブゾーニの改訂で普及、レスリー・ハワードによる補筆完成版あり ドーリア音階によるメロディ (S.701d) - 死の舞踏 (S.126) のスケッチ ベネディクトゥス (S.706) - 偽作? リナルド (S.708) 交響的大幻想曲 (S.716) 葬送行進曲 (S.745) アンダンテ・マエストーソ (S.746) ポコ・アダージョ (S.747) ロッシーニのオペラ「ノネットとモーゼ」の主題による幻想曲 (S.751) - 紛失したが、恐らく未完のまま放棄? オルガン交響詩 (S.758) コジマ・ワーグナー - 娘 ハンス・フォン・ビューロー - 義子(コジマの1番目の夫) リヒャルト・ワーグナー - 義子(コジマの2番目の夫) ジークフリート・ワーグナー - 孫(リヒャルトとコジマの息子) フランツ・フォン・リスト - 従弟(刑法学者) 『ショパン : その生涯と芸術』(亀山健吉・速水冽訳、宇野書店、1949年 NCID BA32869109) 『フレデリック・ショパン : その情熱と悲哀』(八隅裕樹訳、彩流社、2021年 ISBN 9784779127656) ヴィルヘルム・フォン・レンツ『パリのヴィルトゥオーゾたち : ショパンとリストの時代』(Die grossen Pianoforte-virtuosen unserer Zeit aus persönlicher Bekanntschaft Liszt, Chopin, Tausig, Henselt) マリー・ダグー『巡礼の年 : リストと旅した伯爵夫人の日記』(Mémoires, souvenirs et journaux de la comtesse d'Agoult) アウグスト・ゲレリヒ(英語版)『師としてのリスト : 弟子ゲレリヒが伝える素顔のマスタークラス』(Klavierunterricht von 1884-1886, dargestellt an den Tagebuchaufzeichnungen von August Göllerich) ブダペシュトのフェリヘジ空港は2011年に、リストの生誕200年記念として、リスト・フェレンツ国際空港に改名した。 1988年9月16日、E. W. エルストにより発見された小惑星(3910) Lisztは彼の名前にちなんで命名された。 プログラミング言語LISPの系統の1つであるFranz Lisp(開発終了)もまた、彼の名前にちなんで命名された。この言語のコンパイラも彼の名前にちなんで、Lisztと呼ばれる。この言語のサポートを当初の目的として設立された企業にフランツがある。 ^ 例えば、ヴァイマールでのリストの私邸だったアルテンブルク荘ではしばしばサロンが開かれており、そこではリストはよくピアノを演奏している。 ^ ワーグナーは仕事の都合がつかなかったため『タンホイザー』のヴァイマール初演に立ち会えなかったが、『タンホイザー』のヴァイマール初演は成功で、その後すぐに再演、更に5月にも演奏された。しかし、5月の時には、ワーグナーはドレスデン革命の失敗により、逃亡犯として追われる身になっていた。5月の再演の際、リストがワーグナーに、ヴィートマン博士に発行されたパスポートをパリにいたワーグナー宛に送り身分を偽ってヴァイマールに入国できるように手配したので、ワーグナーはリハーサルに立ち会うことが出来た。しかし、リハーサルまでが限界で、本演に立ち会うことは無理だった。 ^ ヴァイマール郊外のアルテンブルクにリストが構えていた私邸の通称。 ^ ジプシー固有の音楽でもない。そういった音楽はまた別に存在しており、バルトークは民俗音楽研究の中で取材している。 ^ ただしこの論文については、中欧・東欧の音楽史及び民族音楽学を専門とし、バルトークの研究家でもある伊東信宏が自著『バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家』の中で指摘しているように、生前のリストに対する周囲の評価を批判をすることで、その時点での自身との共通性を想起させることが主目的だったという捉え方をされることもある。 ^ モーリス・ラヴェルも1912年に「リストの小品、あるいは全作品についてまわる欠陥こそが、ワーグナーを含めたドイツ、ロシア、フランスのまるで違った個性を持つ音楽家達に大きな影響を与えたのだ」とバルトークと似たような主張をしている。 ^ 『師としてのリスト』では全編にわたり、編集者ヴィルヘルム・イェルガー (Wilhelm Jerger) の姓を「イェーガー」と誤って表記している。 ^ Franz Liszt Hungarian composer Encyclopædia Britannica ^ ウルリヒ・ミヒェルス編 『図解音楽事典』 角倉一朗日本語版監修、白水社、1989年、447頁。ISBN 978-4-560-03686-0 ^ 福田 2005, p. 7. ^ 福田 2005, p. 8. ^ 福田 2005, p. 11. ^ 福田 2005, p. 16-17. ^ 福田 2005, p. 17. ^ 福田 2005, p. 18. ^ 福田 2005, p. 14. ^ 福田 2005, p. 19. ^ 福田 2005, p. 20. ^ ヘルム 1996, p. 130. ^ ヘルム 1996, p. 138. ^ ヘルム 1996, p. 131. ^ ヘルム 1996, p. 180. ^ ヘルム 1996, p. 181. ^ ヘルム 1996, p. 183. ^ ヘルム 1996, p. 132. ^ ヘルム 1996, p. 184. ^ ヘルム 1996, p. 142. ^ ヘルム 1996, p. 139. ^ ヘルム 1996, p. 195. ^ ヘルム 1996, p. 196. ^ ヘルム 1996, p. 197. ^ F.Liszt Missa Cholaris, Via Crucis, Hyperion CDA67199, ライナーノーツ ^ 「大音楽家のなさけ」(『美談教室 3年生』金の星社、1959年刊、p.7-15) ^ 「大音楽家のなさけ」(『小学校道徳の指導資料 第1集 第4学年』文部省、1964年刊、p.83-89) ^ 野村胡堂『楽聖物語』1987年(原著1941年)。https://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/55088_55377.html。「ピアノの巨匠リスト」 (青空文庫) ^ Béla Bartók Rhapsody for piano, Sz. 26, BB 36a (Op. 1) - allmusic.com ^ Marcel Carrières “Franz Liszt en Provence et en Languedoc en 1844” (Beziers, 1981) and Alan Walker, Franz Liszt: The virtuoso years, 1811-1847. Cornell University Press, 1987 ^ Alan Walker, Franz Liszt: The Weimar years, 1848-1861. Cornell University Press, 1987 ^ Adrian Williams. Franz Liszt: Selected letters. Oxford University Press. p.572. From a letter to Xavier Boisselot. January 3, 1862. ^ Klassik Stiftung Weimar, Flügel, Kopie von Paul McNulty ^ Alan Walker, Franz Liszt: The Weimar years, 1848-1861. Cornell University Press, 1987; www.bechstein.com. ^ “A repülőtér története – az elmúlt 70 év dióhéjban” (ハンガリー語). Budapest Airport. 2022年2月28日閲覧。 ^ “(3910) Liszt = 1954 GC = 1974 RP1 = 1977 DK4 = 1977 GF1 = 1979 WX4 = 1984 WD2 = 1988 SF”. MPC. 2021年9月23日閲覧。 Walker, Alan (1984). Franz Liszt, The Virtuoso Years 1811-1847, New York: Alfred A.Knopf. Walker, Alan (1989). Franz Liszt, The Weimar Years 1848-1861, London: Faber and Faber Limited. エヴェレット・ヘルム 著、野本由紀夫 訳『〈大作曲家〉リスト』音楽之友社、1996年。ISBN 4-276-22162-5。 NCID BN15157351。 福田弥『リスト 作曲家 人と作品シリーズ』音楽之友社、2005年。 ロベール・ポリー『ベートーヴェン : 目でみるドキュメント』武川寛海訳、音楽之友社、1970年 NCID BN03831476 わが恋は終りぬ - 1960年の映画。リストを扱った伝記映画。 ラスベガス万才(英語版) - 1964年の映画。エルヴィス・プレスリーが、リスト作曲の「愛の夢 第3番」をアレンジした「恋の讃歌」を挿入歌として歌う。アン=マーグレットとのデュエット・バージョンもある。 ベーゼンドルファー - リストの激しい演奏に耐えたことで名声を得たウィーンのピアノフォルテ製造会社。 リストマニア(英語版) - 1975年の映画。ケン・ラッセル監督、ロジャー・ダルトリー主演、リック・ウェイクマン音楽監督でリストを扱った伝記映画。
フランツ・リストの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト フランツ・リスト - ピティナ・ピアノ曲事典 フランツ・リスト「リスト全語録」(原田光子・柿沼太郎・高野瀏訳) - ARCHIVE リスト本人による発言録・資料集 フランツ・リスト「リストとワーグナーの全記録[書簡・自叙伝・証言]」(高野瀏訳) - ARCHIVE ワーグナーとの関係にまつわる資料集 フランツ・リスト「ベートーヴェンの思い出」(原田義人訳) - ARCHIVE リストが幼少期にベートーヴェンを訪問したときの回想 表 話 編 歴 ボヘミアニズム 反啓蒙 総合芸術 オシアン ナショナル・ロマンティシズム ワレンロッディズム 科学におけるロマン主義 アンデルセン バーボールド ベルトラン ブレイク ブライアント バーンズ バイロン シャトーブリアン コールリッジ クーパー ディアス アイヒェンドルフ エスプロンセダ フォスコロ ガレット ゲーテ グリム兄弟 ホーソーン ハイネ エルクラノ ホフマン ヘルダーリン ユーゴー アーヴィング ジャン・パウル キーツ クライスト クラシンスキ ラマルティーヌ ララ レオパルディ レールモントフ マルチェフスキ マンゾーニ ミツキェヴィチ ミュッセ ネルヴァル ノルヴィト ノヴァーリス エーレンシュレーヤー ポー プレシェーレン プーシキン シラー スコット M.シェリー P. B.シェリー シェフチェンコ スウォヴァツキ ド・スタール スタンダール ティーク ワーズワース ジュコーフスキー ソリージャ アダン アルカン オベール ベートーヴェン ベッリーニ ベルリオーズ ベルワルド ショパン フェリシアン・ダヴィッド フェルディナンド・ダヴィッド ドニゼッティ フィールド フランク グリンカ アレヴィ カルクブレンナー リスト レーヴェ マルシュナー マサルナウ メユール メンデルスゾーン マイアベーア モシェレス パガニーニ レイハ ロッシーニ シューベルト シューマン スメタナ タールベルク ヴェルディ ヴォジーシェク ワーグナー ウェーバー コールリッジ フォイエルバッハ フィヒテ ゲーテ ミュラー シラー A.シュレーゲル F.シュレーゲル シュライアマハー ティーク ヴァッケンローダー ブレイク ブリューロフ コンスタブル コロー ダール ドラクロワ デュッセルドルフ絵画派 フリードリヒ フュースリー ジェリコー ゴヤ ギューデ アイエツ ハドソン・リバー派 リューツ マーティン ミハウォフスキ ナザレ派 パーマー ルンゲ ターナー ファイト ウォード ヴィールツ ゴシック・リヴァイヴァル ナショナルロマン様式 FAST
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スイス歴史辞典 RISM SNAC
IdRef フランツ・リスト ハンガリーの作曲家 ロマン派の作曲家 フリーメイソンの作曲家 ハンガリーのクラシック音楽のピアニスト プール・ル・メリット勲章平和章受章者 ベルギー王立アカデミー会員 ハンガリー・ドイツ人 オーストリア系ハンガリー人 ウィーン国立音楽大学出身の人物 ブルゲンラントの人物 1811年生 1886年没 出典のページ番号が要望されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ 2025/01/28 19:02更新
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Franz List
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