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フリードリヒ=フォン=ハイエク
フリードリヒ=フォン=ハイエク(Friedrich von Hayek)さんの誕生日は1899年5月8日です。
業績、思想などについてまとめました。結婚、事件に関する情報もありますね。
フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(独: Friedrich August von Hayek [ˈha͜iɛk]、1899年5月8日 - 1992年3月23日)は、オーストリア・ウィーン生まれの経済学者、哲学者。オーストリア学派の代表的学者の一人であり、経済学、政治哲学、法哲学、さらに心理学にまで渡る多岐な業績を残した。20世紀を代表する自由主義の思想家。ノーベル経済学賞の受賞者。 1899年、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンの学者の家庭に生まれる。フォン・ハイエク家はボヘミア貴族の家系である。父アウグスト・フォン・ハイエクは植物学者、医師。祖父グスタフ・フォン・ハイエクは博物学者。外祖父フランツ・フォン・ジュラチェックは統計学者。ハイエク自身はユダヤ人ではないが、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは母方の従兄にあたる。 1917年、オーストリア=ハンガリー陸軍に入営し、第1次世界大戦のイタリア戦線において飛行観測手として兵役に従事し、左耳を負傷する。 1918年、ウィーン大学入学。1921年、法学博士号取得。1923年、政治学博士号取得。同年、渡米し、ニューヨーク大学で研究助手として働く。 1924年、ウィーンに戻り、ハーバラー、マハループ、モルゲンシュテルンらと共に私的なセミナーを開く。ミーゼスに見守られ研究サークルを作る。 1926年、ヘレン・ベルタ・マリア・フォン・フリッチュ(Helen Berta Maria von Fritsch)と結婚。 1927年、オーストリア景気循環研究所所長。1929年、ウィーン大学講師。 1931年、ライオネル・ロビンズの要請によりロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)での講演に呼ばれ、これ以降、LSE教授を務める(以後18年間)。教授に就任する。1933年、「貨幣理論と景気循環」を発表。1938年、イギリス市民権を取得。1941年、「資本の純粋理論」を発表。1944年、「隷属への道」を発表した。社会主義、共産主義、ファシズム、ナチズムが同根の集産主義であると批判し、当時のベストセラーとなる 1947年、リバタリアニズムに立脚する学者が集結した組織「モンペルラン・ソサイエティー」を組織し、その初代会長を務めた。 1948年、「個人主義と経済秩序」を発表。 1950年 シカゴ大学社会科学・道徳科学教授。前妻と離婚し、ヘレン・ビッターリッヒ(Helene Bitterlich)と再婚する。 1952年、「感覚秩序」、「科学の反革命」を発表。 1955年、ロンドンの経済問題研究所(IEA、Institute of Economic Affairs) の設立に関与。後のサッチャー革命の理論的拠点となる。 1960年、「自由の条件」("The Constitution of liberty") を発表。 1962年、西ドイツのブライズガウにあるフライブルク大学の経済政策教授となる。 1968年、フライブルク大学を退官。その後、9年間オーストリアのザルツブルク大学で教える。 1973年、「法と立法と自由 Ⅰ」("Law, Legislation, and Liberty") を発表。 1974年、ノーベル経済学賞受賞。田中清玄と親交を結び、ノーベル賞授賞式には唯一の日本人としてメーンテーブルに招待した。 1976年、「法と立法と自由Ⅱ」を発表。 1977年、ザルツブルク大学名誉教授。 1979年、「法と立法と自由 Ⅲ」を発表。 1988年、「致命的な思い上がり」を発表。 1991年、ブッシュ大統領により、アメリカの民間人へ与えられる最高の栄誉賞である大統領自由勲章を受章。 1992年、ドイツ・フライブルクにて逝去する。訃報に際して、ブッシュ大統領は直ちに追悼声明を発表し、「現代の最も偉大な思想家の一人」と称している。 業績ハイエクの初期の業績は景気循環に対する貨幣の影響を分析する貨幣的景気循環理論への貢献としてよく知られている。これはミーゼスなどのオーストリア学派の伝統を受け継ぐだけでなく、クヌート・ヴィクセルの累積過程のアイディアにも刺激を受けたものであった。生産財と消費財の価格比率の中から現れる財市場の均衡をもたらす水準としての自然利子率と、実際の利子率との関係により産出量と雇用量が決定されるというのがその理論の骨子である。具体的には利子率が自然利子率に比して低い場合に過剰な投資が生じバブルを発生させるが、やがて産出水準が投資と消費財への需要の双方に見合わなくなり生産財が不足してバブルが崩壊するというものである。1931年のPrices and Productionはこの方面での彼の代表作である。なお1930年にはジョン・メイナード・ケインズが同じ分野でTreatise of Money(『貨幣論』という邦訳で知られる)を刊行しており、この後両者は景気循環を巡る論争へと突入することになる。この論争はハイエクの当時所属していたLSEとケインズを擁するケンブリッジ大学とのより大規模な論争の一局面であった。 ハイエクは自身の貨幣的景気循環理論を深化させ、投資と資本蓄積のメカニズムについての分析も行った。Pure Theory of Capital(1941年)はPrice and Productionの延長線上に資本蓄積の理論を構想したものである。彼の資本理論は後にアバ・ラーナーやトリグヴェ・ホーヴェルモによって検討され、ジョン・ヒックスの晩年の業績にも影響を与えた。なおラーナーとヒックスはLSEにおいてハイエクに師事したものの、後にケインズの『一般理論』を巡ってハイエクと袂を分かつという経緯の持ち主である。 ハイエクは1920年代から40年代にかけて盛んになった経済計画論争、或いは経済計算論争と呼ばれる論争に積極的に関わった。この論争は社会主義経済の実行可能性を巡るものであり、生産手段の私有(私有財産)を認めない社会主義経済の下では生産財に価格をつけることが出来ず、価格の存在しないところでは効率的な資源配分は達成されえないとするミーゼスの主張に端を発している。これに対してオスカー・ランゲやラーナーは、潜在的な交換の可能性があればシャドウ・プライスという形で擬似的、便宜的に価格をつけることが可能であると主張した。その上でランゲはワルラス流の一般均衡理論の枠組みに則って多財の需給の連立方程式の解を求めることで、効率的な価格付けと資源配分を達成することが出来ると考えた。一方ハイエクの立場はたとえそのような計算が技術的に可能であるとしても、この計算を実施する中央計画当局は計算に必要な需給に関する膨大な情報を収集せねばならず、そのような情報の収集は不可能であるというものであった。これはその情報量の膨大さもさることながら、計算に必要な情報は主として経済主体にとって自身しか知らない私的情報であり、現代流の言い方をすれば個々の経済主体が情報を正しく伝達するインセンティヴを持つとは限らないからである。ハイエクは必要な情報の収集に成功し効率的な価格付けと資源配分を行えるのは分権的なメカニズムとしての市場メカニズムだけであるという展望を示したのである。この経済計算論争や論争におけるハイエクの情報に着目するアプローチは後にレオニード・ハーヴィッツを刺激し、メカニズムデザインと呼ばれる分野の1つの源流となった。ハーヴィッツは1960年の論文で任意の経済主体がその主体の情報のみを用いて意思決定を下すことが可能であり(情報分権性)、最小限度の情報の交換だけで済み、かつ資源配分の効率性を満たす性質を情報効率性と定義した。そして1972年の論文で競争的市場メカニズムが情報効率性を満たすことを示した(情報効率性に関する厚生経済学の第一基本定理)。さらにジェイムズ・ジョーダンが1982年に情報効率性を満たす資源配分のメカニズムは競争的市場だけであることを証明した。(情報効率性に関する厚生経済学の第二基本定理)ハーヴィッツらのこの結果はある意味ではハイエクの主張を定式化し立証したものであると言える。 ハイエクは1976年の著作『貨幣の脱国営化論』(英語版)において、貨幣の脱国営化(Denationalization of Money)を提唱した。通貨の自由市場が許可されるべきであり、市場における通貨間の自由競争によって、最も健全で安定した通貨が発展するとするアイデアを提唱した。 ハイエクは中央銀行は不必要と主張している。ハイエクやラルフ・ホートレイ (Ralph Hawtrey) (英語版)は「中央銀行の不安定な信用の拡大(縮小)は、在庫投資・産業構造といった実体経済に不均衡・不調整をもたらす」と指摘している。 思想ハイエクはフォークランド戦争でサッチャーのイギリスを支持してアルゼンチンから批判を浴び、イランアメリカ大使館人質事件に対してアメリカは弱腰姿勢であるとしてイランへの爆撃も主張した。アメリカのロナルド・レーガン大統領は自らの思想に最も影響を与えた一人としてホワイトハウスでハイエクを歓迎した。 「自由主義」と「保守主義」が混同されるのは、両者が反共産主義だからであるが、共通点はただそれだけであるとしている。保守主義は現状維持の立場であり、進歩的思想に対する「代案」を持たず、たかだか「進歩」を遅らせることが望みであるとしている。貿易についても保護主義を主張し、「強い政府」を求めるとしている。 ハイエクとケインズとのやり取りは有名である。ただし経済政策の違いによる論争以前に、「理性主義」批判の項で触れたようにハイエクは理性主義者ほどではないにしても古典的自由主義者としての我の強い価値観を持っていたことから、財政出動という政治観からもうかがえるように消極的自由を軽視し国家統制を主張するケインズとはそもそもそりが合わなかった。このためハイエクの不機嫌な意見はケインズによって寛容に受け止められ自説に反映させられてしまうといった構図が長く続いたようである。 ケインズの没後、ハイエクはケインズの妻であるリディア夫人に「私が知っている中で唯一、真の偉大な人物であり、限りない尊敬の対象だった。彼のいない世界中は、はるかに色褪せたものになってしまうだろう」と手紙を送っている。その後「うぬぼれた考えと思われるだろうが、私は自分を論争している二大経済学者のうちの一人だと知られていたと思う。しかし、彼は亡くなって聖人となり、私は『隷従への道』を出版し評価を落とした。この本によって状況は変わってしまった」と述べている。 晩年のハイエクは「私が一番後悔しているのは、ケインズの貨幣論への批判を再開できなかったことではなく、ミルトンの危険な方法論(理論による予測)を攻撃する機会が得られなかったことである」と述べていた。 2024/05/25 05:21更新
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Friedrich von Hayek
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