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ベーブ=ルースの情報 (GeorgeHerman“Babe”Ruth,Jr.)
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【6月16日】今日誕生日の芸能人・有名人

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ベーブ=ルースさんについて調べます

■名前・氏名
ベーブ=ルース
(読み:George Herman “Babe” Ruth,Jr.)
■職業
野球選手
■ベーブ=ルースの誕生日・生年月日
1895年2月6日 (年齢53歳没)
未年(ひつじ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
不明

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ベーブ=ルースの情報まとめ

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ベーブ=ルース(George Herman “Babe” Ruth,Jr.)さんの誕生日は1895年2月6日です。

もしもしロボ

経歴、人物などについてまとめました。現在、引退、家族、卒業、結婚、映画、再婚、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。53歳で亡くなられているようです。

ベーブ=ルースのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ジョージ・ハーマン・"ベーブ" ・ルース・ジュニア(George Herman "Babe" Ruth, Jr., 1895年2月6日 - 1948年8月16日)は、アメリカ合衆国・メリーランド州ボルチモア出身のプロ野球選手。童顔であったことから「バンビーノ(The Bambino)」「ベーブ(Babe)」の愛称で呼ばれた。

MLBで1914年から1935年まで、通算22年間プレイした。

アメリカの文化において最も偉大なスポーツ界の英雄の1人であり、史上最も偉大な野球選手であるとみなされている。1936年には、最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人のメンバー(英語版)のうちの1人に選出された。

左投げの花形投手としてボストン・レッドソックスでメジャーデビューし、外野手の強打者としてニューヨーク・ヤンキースで最も名声を博した。打者としての生涯通算成績で、714本塁打、2213打点、2062四球、長打率.690、OPS1.164、本塁打王12回など、数々のMLB記録を打ち立てており、うち最後の3つは2024年現在も破られていない。

7歳のとき、セント・メアリー少年工業学校(英語版)という少年矯正施設に送られ、同校の教官でザベリオ教職会員(英語版)の修道士マシアス・バウトラーと出逢い、有能な野球選手でもあった同師に野球の手解きを受ける。

1920年以前のデッドボール時代(いわゆる「飛ばないボール」の時代)において、他に例を見ないほどの離れ業をやってのけ、1916年までには飛距離の長い本塁打を打つ傑出した投手として名声を築いていた。投手としては2度のシーズン23勝を記録し、レッドソックスで三度のワールドシリーズ制覇を経験したが、自身は毎日プレイすることを希望し、外野手に転向することになった。

1919年には29本塁打を放ち、当時のMLBシーズン最多記録を更新した。同シーズン終了後、レッドソックスのオーナーであったハリー・フレイジーは球団経営を巡る論争の最中にルースをヤンキースに売り渡した。このトレードにより、レッドソックスはその後86年間にわたりワールドシリーズチャンピオンの座から遠ざかることとなり、これを「バンビーノの呪い」の所為としたジンクスが、ボストンのファンを中心に広まった。

ルースはヤンキース移籍後の15年間で、7度のア・リーグ優勝(英語版)と4度のワールドシリーズ制覇に貢献した。大きなスイングで通算本塁打数を伸ばし、ファンを球場に引きつけ、野球の人気を高めた。そしてライブボール時代(「よく飛ぶボール」の時代)の到来を告げる形となり、以降、野球は低スコアに抑えて投げ勝つゲーム戦略のスポーツから、本塁打を1つの主要な勝利の要因とするスポーツへと進化した。

1927年には、ヤンキースの「殺人打線(英語版)」の一員として60本塁打を放ち、自身の持つMLBシーズン記録を1本上回り更新した。1934年のシーズンを最後にヤンキースを去り、翌年ボストン・ブレーブスに短期間在籍した後、現役を引退した。

ルースは生涯を通じて、自身の野球の功績からフィールド外での飲酒や女遊びの嗜好まで、過熱する報道と大衆の注目の的であった。引退後は、選手時代の素行の悪さが原因で、メジャーリーグクラブの監督になることを拒否されていた。晩年は公の場に姿を見せることが多く、特に第二次世界大戦においてはアメリカの努力を支持した。

1946年、鼻咽頭癌(英語版)を患い、それが原因となり2年後に死去した。死後もアメリカの文化の一部であり続けており、2018年にはドナルド・トランプ大統領から大統領自由勲章を追贈された。

経歴

生い立ち

メリーランド州ボルチモア市ピッグタウンエモリー通り216番地に生まれた。ドイツ系移民であった両親のジョージ・ハーマン・シニア(George Herman Sr.1871 - 1918)とケイト(Kate 1874 - 1912)は、カムデン通り沿いで酒場を自営しており、家族はその2階で暮らしていた。ケイトはルースを含めて生涯に9人の子供を産んだが、成人期を迎えることができたのはルースと5歳年下の妹マミー(Mamie 1900 - 1992)の2人だけであった。

ルースは後年、自らの幼年期を振り返って「大変だった」と語っている。母は病弱であり(ルースが15歳のときに結核で亡くなっている)、父は酒場の仕事で忙しく、息子の世話に関わっている余裕はほとんどなかった。そのため、両親から適切な教育を受ける機会のなかったルースは大人の手にも余る腕白坊主へと成長し、勉強も完全に疎かになってからは、学校をサボっては通りをうろつき、町の不良たちと喧嘩に明け暮れ、商店の品物を万引きしたり、酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど、様々な非行に手を染めた悪童であった。

セント・メアリー少年工業学校

7歳になった頃には既に両親の手には負えなくなり、セント・メアリー少年工業学校(英語版)という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られた。ルースはその後の12年間をセント・メアリーで過ごすことになる。そこで少年たちの教官を務めていたローマ・カトリックのマティアス・バウトラー神父 (Matthias Boutlier) と出逢い、野球を教わったことが、ルースの人生に決定的な影響をもたらすことになった。以後、ルースは生涯にわたってマティアスを恩師と仰いだ。

マティアスはルースに勉強や洋服の仕立て方を教え、休みの時間には野球のルールや打撃・守備のやり方などを教えた。ルースはその他に学校の吹奏楽部と演劇部にも所属していた。ルースの自伝によると、マティアスは大変な美男で、外の世界に出ればすぐに俳優として活躍できるのではないかと思えるほど見た目が良かった上に、身長6フィート6インチ(約198cm)、体重250ポンド(約113kg)という堂々たる体格の大男であり、ルースは初めてマティアスと対面した瞬間から、それまでに体験したことのない威圧感と畏敬の念を覚えたという。また、マティアスはバットを片手で振るだけで、ボロ布で作った粗末なボールを100m以上も飛ばせるほどの腕力の持ち主であった。

当時、セント・メアリーには800人ほどの少年が収容されており、20から30人ほどのブラザー(神父)が少年たちの教官を務めていたが、その中でもマティアスほど少年たちから慕われていた教官は他にいなかったとルースは語っており、実際にもマティアスはルースの卒業後にセント・メアリーの校長に昇格している。また、ルースがマティアスを尊敬していたエピソードとして、ルースは歩く時に内股にして足を引きずる癖があったが、マティアスの癖を真似たものであり、その癖は生涯治らなかった。

なお、ルースが23歳のとき、ルースの父は自身が経営していた酒場で客同士の喧嘩に巻き込まれて命を落としている。しかし、ルースは母が亡くなったときには非常に悲しんだが、父とは疎遠であり、父が亡くなったときにはそれほど悲しんだ様子はなかったという。もともと酒場で年中働き詰めだった父とは顔を合わせることも少なく、7歳のときからセント・メアリーで実の父よりも長い期間をマティアスと共に過ごしたルースにとっては、マティアスこそが「育ての父」であった。

プロ入り

1913年、野球部のエースとして君臨していたルースの活躍は、偶然試合を見に来ていたジョー・エンジェルの目に留まる。ワシントン・セネターズの投手であったエンジェルは、すぐさまボルチモア・オリオールズ(英語版)のオーナー兼監督のジャック・ダン(英語版)にルースを紹介した。その場でルースの練習風景を30分ほど見たダンは、即座に年給600ドル(現在の金銭価値に換算すると約6万6000ドル)の契約を結ぶ。これは1914年2月14日、ルースが19歳のときのことであった。ルースはこのときのことについて、「もともと仕立て屋として就職する予定であり、手先が大事な仕事だから、(手を痛めることが大いにあり得る)野球はもう辞めようと決意していただけに、感無量のうれしさがあった」と語っている。

外部から隔離された全寮制の矯正学校での生活が長かったためか、世間知らずで子供じみたところのあったルースは、早速チームメイトたちから「ジャック(・ダン)の新しいベーブ(赤ちゃん)」と揶揄されるようになる。このときの「ベーブ」というあだ名は、生涯残ることになり、以後は周りから「ベーブ・ルース」と呼ばれるようになった。なお、オリオールズ時代以降のチームメイトは「ベーブ」と呼ぶことを意図的に避け、「ジョージ」「ジッヂ」「バム」などと呼んでいたりした。

1914年7月7日、ダンはルースを他の2名の選手とセットにして、金銭トレードに出す計画を立てていた。相手チームはフィラデルフィア・アスレチックスであった。しかし、ダンが要求していた1万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)という額により、交渉は決裂。オリオールズが業務提携を結んでいたシンシナティ・レッズとも決裂した。

レッドソックス時代

1914年7月9日にはボストン・レッドソックスのオーナーのジョー・ランニン(英語版)と交渉を成立させる。契約金の額については諸説あり、不明である。

メジャーリーグデビューとなった1914年、ルースは5試合に出場し、そのうちの4試合は投手としてマウンドに登った。デビュー戦となった7月11日には、初登板初勝利を挙げる。しかし、当時のレッドソックスはスター選手を多く抱えていたため、登板機会がさほど与えられないままマイナーへ降格された。ルースが「登板できないなら打撃で貢献しよう」とバッティング練習をすれば、自身のバットを折られるなどの嫌がらせにも遭ったというが、ルースはどこからか古いバットを見つけてきてバッティング練習を続けたという。また、ルースに代打が送られることもあるなど、後に本塁打王と呼ばれる選手には相応しくない処遇であった。ルースの降格先のインターナショナルリーグ所属チームプロビデンス・グレイズは、後の200勝投手カール・メイズも所属しており、見事にリーグ優勝を果たす。シーズン後の1914年10月17日に、ルースはボストンで知り合ったウェイトレスのヘレン・ウッドフォードと結婚した。

1915年、シーズン前の春季キャンプにて、レッドソックスの先発ローテーション入りを果たす。同年、ルースは18勝8敗の好成績を記録し、レッドソックスはアメリカンリーグのペナント(英語版)を制した。また、バッティングでもチームに貢献しており、打率.315に加えて本塁打を4本打っている。レッドソックスは4勝1敗でワールドシリーズを制したが、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロに終わっている。

1916年、若干春季キャンプで苦しむものの、23勝12敗、防御率1.75、9完封を記録する。防御率と完封数はリーグ1位であり、完封数は1978年にロン・ギドリーが並ぶまでの間、左投手としてはリーグ記録であった。同年6月27日のフィラデルフィア・アスレチックス戦では自己最多の10奪三振を奪ったり、大投手ウォルター・ジョンソンに投げ勝ったりするなど、ルースは投手としての実績を着々と積んでいった。一方でチームの攻撃力は、主力のトリス・スピーカーがクリーブランド・インディアンスへ移籍したことでだいぶ弱まっていた。それでもレッドソックスは投手陣の踏ん張りで再度ワールドシリーズに進出。ブルックリン・ロビンスに対し、ルースは14イニング1失点の成績で、チームは4勝1敗の成績でワールドシリーズ2連覇を果たした。

1917年もルースは大活躍を見せ、24勝13敗、防御率2.01、6完封に打率.325の成績を残す。しかし、チームは100勝を挙げたシカゴ・ホワイトソックスの快進撃に及ばず、9ゲーム差の2位に終わった。6月23日のワシントン・セネターズ戦でルースは、先頭打者に四球を与えた後、怒りに狂い、審判を殴ってしまう。これによりルースには10試合の出場停止処分が下された。その後の7月11日の試合は、デトロイト・タイガースに対し、1-0の1安打完封勝利を挙げる。ルースは後年、この試合を「現役生活で一番興奮した試合」であったと振り返っている。

1918年は20試合を投げ、13勝7敗、防御率2.22を記録する。また、11本塁打を放って生涯初となる本塁打王のタイトルを獲得した。これは長らくメジャー唯一となる「同一年度での10勝かつ10本塁打」でもあったが、2022年8月9日に大谷翔平が10勝かつ25本塁打を達成したことにより並ばれた。この年以降、ルースは主に外野手として起用された。同年は7月に監督と口論になり、一時期チームの帯同から外れていたため、若干成績に落ち込みが見られるシーズンであった。チームはワールドシリーズに出場し、ルースは第1戦と第4戦の先発投手を任された。両試合ともに勝ち星を挙げ、17回を投げて自責点2、防御率は1.06を記録する。ワールドシリーズでの連続無失点イニング数は29.2回を記録し、これはホワイティー・フォードが1961年に破るまでMLB記録であった。なお、この年の右翼席へ打ち返した打球が当時のルールでサヨナラ三塁打と認定されたが、現行ルールではルースは通算715本の本塁打を放っていることになる。

1915年から1917年にかけてルースが投手以外で起用されたのは、たったの44試合であった。1917年のシーズン終了後、チームメイトであったハリー・フーパーは、「ルースは野手として毎日試合に出場した方が価値は上がる」との提言をしている。

ルースが外野を守る回数が増え、登板する機会が減っていったのは1918年からである。かつてのチームメートであるトリス・スピーカーは、「投手でありながら登板のない日に野手として試合に出るのは馬鹿げたことだ」と話し、この転向がルースの選手生命を縮めるかもしれないと見ていたが、ルース自身は打撃の方に関心が移っていき、本格的に野手に転向することになる。この年、ルースは打率.300、11本塁打という記録を、レギュラー野手としては圧倒的に少ない317打数で達成している。

1919年には、130試合に出場するも、わずか17試合しか登板しなかった。同年に放った29本塁打は当時のMLB記録である。当時、本塁打はシーズンで2桁打てば相当なスラッガーであり、最初期の「飛球をワンバウンドで取ってもアウト」というルールの影響から、本塁打自体の評価も低かった。そのため、ルースの29という本数は当時としては驚異的であり、本数を重ねるうちに過去のMLBの本塁打数記録が調べ直され、それまでの最多本塁打記録が1884年のネッド・ウィリアムソン(英語版)の27本(右翼が約60mなど本拠地が異常に狭かった球場での記録)に修正されるなど、文字通り歴史を塗り替える画期的な出来事であった。ルースの登場により、飛ばないボールのデッドボール時代が終わり、本塁打が量産されるライブボール時代が始まった。

ルースの猛打の噂は瞬く間に広がって、プレイを一目見たさに大観衆が詰めかけた。第一次世界大戦終戦による解放感、さらには未曾有の好景気から、大衆は華やかで、派手で、爽快なパフォーマンスを求めており、ルースの特大本塁打はその望みにぴったりだった。ルースの名声が高まるとともに、その胴回りも広がっていき、オリオールズ時代のチームメイトは、ルースの胃袋の大きさに驚いたという。1919年には、ルースの肉体は1916年当時の背の高いアスリートらしい姿から、丸々と太った体型へと変化していた。こうした酒樽のような上半身に対し、筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、シーズン2桁盗塁を5回記録するなど、走者としても野手としても問題はなかった。ルースのライバルといえる大打者のタイ・カッブも、後年にルースを「太っている割には走るのが速かった」と述べている。

また、カッブは、もしルースが最初から野手として起用されていたらもっと本塁打数は伸びていたのではないか、という意見に対し、「ルースは投手だったからあの大振りが許されたんだ。もし野手だったらもっと粘ったり、当てにいく打ち方が求められただろう。大振りして無様な三振をしようものなら、それも奴は若造だったから、大目玉を食らっていただろうよ。だけど奴は投手だったから誰も気にしなかった。だから奴は自分なりの打ち方をいろいろと試すことができて、打者に転向した頃には、確固たるものに仕上がっていたんだよ」と分析している。

ヤンキース時代

1919年12月26日、レッドソックスのオーナーのハリー・フレイジーは、ルースをニューヨーク・ヤンキースへと金銭トレードで放出する。有名な定説によれば、当時劇場を経営していたフレイジーは、「ノー・ノー・ナネット」というブロードウェイ劇の予算を賄うために、ルースを始めとした有力選手を他球団に売却したとされている。しかし、この売却には、ルース自身の高騰する年俸も大きく関わっていた。

1919年シーズン終了後、ルースは前年の給料の2倍である2万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)を要求した。これを拒否したフレイジーに対し、ルースは引退をちらつかせるなどの強硬行為に出た。我慢がならなくなったフレイジーは、結局ルースをトレードに出すことにする。当時、ルースのトレードの交渉相手となってくれたのは、シカゴ・ホワイトソックスとヤンキースの2球団のみであった。他の5球団は、フレイジーをレッドソックスの経営陣から追い出そうとしていたリーグ会長のバン・ジョンソンによる差し金により、そもそも交渉のテーブルに着いてさえくれなかった。ホワイトソックスはシューレス・ジョー・ジャクソンに加えて6万ドル(現在の金銭価値に換算すると65万ドル)を提示するも、ヤンキースのジェイコブ・ルパートとティリンゴースト・ヒューストン両オーナーは金銭のみで10万ドル(現在の金銭価値に換算すると109万ドル)を提示。12月26日にはヤンキースとの交渉がまとまり、その10日後には正式に発表された。

レッドソックスにとっては、これが長らく言われる「失敗トレード」となり、長くワールドシリーズを勝てないジンクスが生まれ、「バンビーノの呪い」と揶揄される原因となった。

ヤンキースに移籍後のルースは、投手から打者へと完全に移行していた。ヤンキースでの15年間で2000試合以上に出場したが、投手としてマウンドに上がったのはそのうちのわずか5回である。そのすべてで勝ち投手となっており、登板は元投手であるベーブ・ルースのデモンストレーションやファンサービスの意味合いが強かった。

ヤンキースでのデビュー年となった1920年には、「もうこれ以上の本塁打記録は生まれないだろう。前年が異常だっただけで、あれほどの本塁打数は期待できない。20本も打てれば上出来だろう」と言われながら、ルースは打率.376、54本塁打を記録し、周囲を驚嘆させる。同年に記録した長打率.847は、2001年までMLB記録であった。この年にルースが放った54本塁打というのは異常な数値であり、2位はセントルイス・ブラウンズの強打者、ジョージ・シスラーの19本と、約3倍の差で突き放す圧倒的な本数だった。また、ルースよりも多く本塁打を打った「チーム」はフィラデルフィア・フィリーズのみ(64本)であった。

1921年から1928年まで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎え、アメリカンリーグで6回優勝し、ワールドシリーズで3回優勝した。その中でルースは、もうこれ以上の本塁打記録は生まれないと言われた本塁打記録をさらに更新する活躍を見せた。1921年、打率.378、59本塁打を記録し、ヤンキースをチーム史上初のリーグ優勝に導く。7月18日には、現役通算139本目の本塁打を放ち、それまでの通算本塁打王だったロジャー・コナーの記録をたった8年のプロ選手生活で更新する。ルースの名前はもはや本塁打の同義語として扱われ、野球というスポーツそのものに新しくパワーの概念を導入した。ルースが打った中で一番大きな本塁打は、1921年7月18日にデトロイトのネビン・フィールドでの一本といわれている。中堅場外に消えていった打球は、175メートルの特大弾であった。

1921年当時は現在とは多少本塁打に関するルールが異なっていたため、もし現行のルールでルースがシーズンを送っていたら、彼はこの年に104本の本塁打を記録していただろうという研究もある。ビル・ジェンキンソンが2006年に執筆した本 “The Year Babe Ruth Hit 104 Home Runs”(和題:ベーブ・ルースが104本塁打を打った年)によれば、1931年までアメリカンリーグではファウルポールに直撃した打球はエンタイトル二塁打扱いであった。また、フェアゾーンでフェンスを越え、ファウルポールを巻いてファウルゾーンに落ちた打球は、現在では当然のごとく本塁打扱いになるが、当時はファウルであった。これらのデータを全て集計すると、ジェンキンソンによれば、ルースは104本塁打を記録していたことになる。それでも、ルースがこの年に記録した総塁打数(457)、長打数(119)、出塁数(379)は、未だに破られていないMLB記録である。

ヤンキースは1921年にワールドシリーズまで進出した際、非常に高い期待を背負っていた。相手チームのニューヨーク・ジャイアンツに対し、最初の2試合は勝利したが、ルースが第2戦で盗塁をした際に肘を故障。結果的にルースは残りの試合を欠場(最終戦のみ代打出場)し、ヤンキースもジャイアンツに敗れた。このワールドシリーズでは、ルースは打率.316、1本塁打、5打点を記録している。

この直後にルースはまた不祥事に巻き込まれることになる。ワールドシリーズ終了後、ルースは地方巡業に参加したのだが、当時はシリーズ出場選手がオフに商業試合に出場することが禁止されていた。選手が勝手に「ワールドシリーズの再戦」と銘打った試合をオフに組むことにより、シリーズ自体の商品価値が下がるのを防ぐのがルールの目的であった。これを受け、当時のコミッショナーのケネソー・ランディスはルースを1922年シーズンの最初の6週間出場停止とした。

なお、この年にルースは打撃に関する研究のため、コロンビア大学に招かれた。その結果、研究者はルースが最も強打できるコースは外角膝上の高さであることを発見した。さらに、完璧な打撃をした場合のスイングスピードは秒速34メートル(120km/h超)で、ボールの飛距離は140から150メートルにまで達するということがわかった。また、異なるサイズの小さな穴に棒を差し込んでいくことで根気を調べる臨床試験では、ルースは500人の被験者中最高位を示した。他にも、ルースの目は暗室で点灯する電球に対して常人よりも20ミリ秒早く反応するなど、いずれも超人的な計測結果を記録した。このことについて、チームメイトのジョー・デュガン(英語版)は「ルースは普通に生まれたんじゃない。奴は木から落っこちて来たのさ」と表現している。

1922年5月20日に処分が解けたルースは、ヤンキースのキャプテンに就任する。しかし、その5日後に、審判に泥を投げて退場処分を受け、さらには観客と乱闘をするという醜態を晒したために、キャプテンの地位を剥奪された。同年、ルースは110試合に出場し、打率.315、35本塁打、99打点を記録する。この年もヤンキースはワールドシリーズに出場し、再度ニューヨーク・ジャイアンツと戦うが、またもチームは敗退。ジャイアンツの監督ジョン・マグローは、自チームの投手に「ルースにはカーブしか投げるな」と指示し、これが功を奏してルースは17打席でわずか2安打という大不振でシリーズを終えた。

1923年にヤンキースは本拠地を、それまでジャイアンツから間借りしていたポロ・グラウンズから、ヤンキー・スタジアムへと移転する。「ルースが建てた家」と呼ばれたこの球場が開場した試合で、第1号本塁打を飾ったのはルースであった。このときのバットは2004年12月2日に126万5000ドルで落札され、最も高価で落札された野球バットとしてギネス世界記録に認定された。1923年シーズンにルースは自己最高打率.393、41本塁打を記録。この年も3年連続でワールドシリーズの組み合わせがヤンキース対ジャイアンツになったが、ルースは過去2年間の鬱憤を晴らすかのように猛打が炸裂、打率.368、3本塁打に長打率1.000を記録した。ヤンキースはチーム史上初のワールドチャンピオンに輝いた。

ルースは1924年も三冠王級の活躍を見せる。打率.378で自身唯一の首位打者に輝くと、両リーグ1位の46本塁打を記録。121打点はグース・ゴスリンの129にわずかに届かない2位であった。この年、ヤンキースはワシントン・セネターズに2ゲーム差でリーグ2位に終わった。

ここまで好成績を残してきたルースではあったが、1925年にはプロ入り後初めての挫折に見舞われる。試合前にホットドッグやソーダ水を飲み続けるなどの不摂生、性病、そしてアルコール過多などにより、高熱や腹痛に悩まされるようになった。正確な病因は現在でも不明ではあるが、この年のルースはヤンキースでの選手生活の中で最低のシーズン(打率.290、25本塁打)を送る。ヤンキースも69勝85敗と大きく負け越した。

1926年は一念発起して、それまでの不摂生な生活を改め、練習に打ち込み、打率.372、47本塁打、146打点と成績を回復させた。ヤンキースはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズへと駒を進めるが、ロジャース・ホーンスビー擁するセントルイス・カージナルスに3勝4敗で敗れた。ルース自身は第4戦に3本の本塁打を放つなど、バットでは貢献するものの、走塁ミスを犯す。2-3とヤンキースが1点差を追っていた第7戦、9回裏二死で一塁走者だったルースは果敢に二塁盗塁を狙うも、呆気なく刺されてしまい、チームは敗退。これはワールドシリーズ史上唯一、シリーズが盗塁死で終わった事例となっている。なお、この1926年のワールドシリーズでは、ルースは病の床にあった11歳の少年ジョニー・シルベスター(英語版)に本塁打を打つことを約束し、実際に約束を果たしている。

1927年のヤンキースは歴史的なチームであり、その打線はあまりの強烈ぶりから「殺人打線(英語版)」と呼ばれていた。チームはリーグ記録となる110勝を達成し、19ゲーム差でリーグ制覇。ワールドシリーズでもピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝でワールドチャンピオンに輝き、見事な形でシーズンを終えた。

シーズン中、チームの順位は早々と決してしまっていたので、国民全体の期待はルースが何本の本塁打を打つのか、というところに注がれた。それまでの記録はルース自身が持つ59本であったが、それを超えるには幾つもの高いハードルがあった。年間59本を達成した1921年当時と比べて、相手投手はまともにルースと勝負しなくなっており、ルース自身も長年の不摂生から来る故障などを抱えていた。だが、60号を達成するにはプラスの要素もあった。強力な打線ゆえに打席がたくさん回ってくること、そして、チームメイトであり、ルース自ら打撃を指導するなどしていたルー・ゲーリッグの台頭である。実際、シーズンの途中まではゲーリッグはルースの本塁打数を上回るなど活躍。9月の1か月間でルースが17本塁打を放つなどして追い抜いて、9月30日には60号を達成するが、後年ルースは、ゲーリッグの存在が大きく、彼がいたから相手投手もルースと勝負せざるを得なくなっていたと述べている。この年は、151試合の出場で、60本塁打に加えて、打率.356、164打点、長打率.772を記録。実に4度目となる本塁打記録更新であった。

1928年もヤンキースにとっては良いスタートとなり、7月の時点で2位のチームを13ゲーム差で突き放すことに成功していたが、その後はけが人の増加に投手陣の崩壊なども重なり、チーム成績は停滞。その間、フィラデルフィア・アスレチックスが快進撃を遂げ、9月に一瞬だけ、ヤンキースから1位を奪取することに成功。しかし、同月の直接対決4連戦でヤンキースが3勝し、首位の座を再び奪還することになる。ルースの成績もチームのパフォーマンスと比例していた。自身もチーム同様、ロケットスタートに成功し、8月1日の時点では42本塁打を放っていた。これは、前年の60本ペースをさらに上回るものであった。ところが、シーズン後半に踵の痛みに悩まされ、最後の2カ月では、たった12本しか本塁打を打つことができなかった。それでも最終的にシーズン54本塁打の記録を残し、自身4度目の50本塁打を達成することとなった。

1928年のワールドシリーズは、1926年の再戦となった。対戦相手のカージナルスはホーンスビーがトレードで退団していた以外は2年前のチームと変わっていなかった。このシリーズでは、ルースが打率.625(ワールドシリーズ史上2位の記録)を記録し、第4戦では再度3本の本塁打を放つ。さらにゲーリッグも打率.545を記録し、ヤンキースはカージナルス相手に3連勝する。ヤンキースはワールドシリーズでの4連勝(スウィープ)を2年連続で達成した初のチームとなった。

1929年には、ヤンキースは4年振りにワールドシリーズ進出を逃した。一方でルースは1929年から1931年にかけて3年連続で本塁打王のタイトルを獲得した。1930年シーズンの途中には、1921年以来初めてマウンドに上がり、完投勝利を挙げている。また、同年にヤンキースは日常的に背番号制を導入した初めての球団となった。当時の背番号は打順を表し、ルースは日頃から3番打者を務めていたため、「3」が与えられた。

1932年には、ヤンキースはジョー・マッカーシー監督の下で、107勝47敗とリーグ優勝を成し遂げ、ルースも打率.341、41本塁打、137打点を記録。ワールドシリーズではギャビー・ハートネット率いるシカゴ・カブスと対戦し、4連勝でカブスを下した。

このシリーズの第3戦で、ルースは球史に残る有名な「予告ホームラン」を放つ。打席に立ったルースは外野フェンスを指差し、その後に放った打球は実際にバックスクリーン一直線の本塁打となった。37歳になっていたルースだが、ボールは490フィート (150 m)は飛んだのではないかといわれている。長年にわたって論争の的となってきたのは、本当にルースはスタンドを指差したのか? という疑問である。対戦相手のカブスの投手チャーリー・ルートは、ルースの予告ホームランを真っ向から否定しており、3球目の投球モーションに移る前に「この野郎、俺を三振させるには、もう1つストライクを投げなければダメなんだぞ」と怒鳴って人差し指を突き出してきた。その後にたまたま、中堅のスタンドに飛び込んだので、あんな話が出来上がってしまったのだと述べている。しかしながら、ルートには投球時にわずかに振り向くという癖があり、他の出場選手は、ルートは単にルースの動作を見逃しただけではないかと証言した。本塁打に関する公式のフィルムはない。スタンドで観戦していた観客の撮影した家庭用フィルムを見ても、真偽は不明である。ただし投手方向に向かって指をさしている姿は確認できる。この予告本塁打について、ルースは自伝の中で、「ブラッシュボールが来て頭にきていたのでよく覚えていないが、スタンドを指差すのはこのとき以外にも時々やって実際に本塁打を打った」と記している。なお、この本塁打はルースがワールドシリーズで放った最後の安打となった。

1933年にもルースは、打率.301、34本塁打、103打点の好成績を残し、リーグ最多の114四球を記録。この年、初めてのオールスターゲームがシカゴのコミスキー・パークにて開催され、ルースはオールスター史上第1号となる本塁打を飾る。このときに打った2点本塁打により、アメリカンリーグはナショナルリーグを4-2で下した。

1933年シーズン終盤には投手として1試合だけマウンドに上がり、完投勝利を挙げる。これが投手としての最後の登板となった。ヤンキース時代における投手としての出場は5試合であり、主にファンサービスのためではあったが、そのすべてで勝ち投手となっている。ルースは通算成績で投手として94勝46敗という記録を残している。

1934年、打率.288、22本塁打を記録し、2年連続でオールスターに選出される。オールスターゲームではカール・ハッベルが5連続奪三振を成し遂げ、ルースは不名誉にもその一人目の打者であった。1934年シーズンはルースがヤンキースの一員としてプレイした最後の一年であったが、ヤンキー・スタジアムでの最終戦では、たったの2000人しか観客がいなかった。ルースはこの時点で、個人的な目標だった700本塁打を達成しており、いつでも引退する用意はできていた。

この後、ルースはメジャーリーグ選抜軍の一員として極東遠征に出る。22試合のうち、ほとんどは日本開催であった。選抜軍にはルースのほかにも、ゲーリッグ、ジミー・フォックス、レフティ・ゴメス、アール・アベリル、チャーリー・ゲーリンジャーなどが参加していた。野球は既に日本でも人気を博しており、ルースも各地で歓迎を受けた。この極東遠征は日本における野球人気の形成に大きく寄与したと考えられており、1936年には日本初のプロ野球リーグが設立された。

この頃になると、ルースは自身の選手としての終わりが近づいていることを悟っていた。既に心はヤンキースの監督になることに決めており、マッカーシー監督の後任になる希望を隠しきれずにいた。しかし、オーナーのルパートはマッカーシーを辞めさせる気はなく、逆にルースとマッカーシーとの間に大きな軋轢を残した。

ルパートはルースに、ヤンキース傘下のマイナーリーグチームのニューアーク・ベアーズ(英語版)の監督にならないか、というオファーを出し、ヤンキースの監督になるならマイナーで監督経験を積んでくるように言った。その場合はマイナーの指揮をとるため、選手としては引退しなければならなかったが、ちょうど引退を考えていたルースは検討することにした。しかし、ルースの妻であったクレア・メリット・ルースと彼のマネージャーはオファーを蹴るように、とのアドバイスを出す。そのため、選手としてもう1年ヤンキースでプレイするつもりでいたが、ヤンキースの年俸提示はわずか1ドルというものであり、これを受けてヤンキースを退団することを決めた。

ルースを雇うことを真剣に考えているチームは、フィラデルフィア・アスレチックスとデトロイト・タイガースの2チームのみであった。アスレチックスのオーナー兼監督のコニー・マックは、ルースのために監督の座を降りることを検討していたが、後にルースが監督になれば実質的な覇権を握るのは彼の妻になると考え、撤回した。同時期にはタイガースも撤回し、ルパートは真剣にルースの引き取り手を探すことになる。

ブレーブス時代

そこで名乗りを挙げたのが、ボストン・ブレーブスのオーナーのエミル・フックス(英語版)で、ようやくルースを引き取ってもらうことで合意した。ブレーブスはそれなりのチームとして結果を残していたが、フックスは負債に悩んでおり、本拠地ブレーブス・フィールドの賃料を支払えない状態であった。そのため、集客力のあるルースはちょうどよい補強であった。

電話に文書に会議を重ね、ヤンキースはようやく1935年2月26日にルースをブレーブスにトレードした。ルースは選手としてだけではなく、チームの副代表として選手の獲得や人事に関する権限を握ることになる。また、ブレーブスのビル・マケシュニー監督に仕える助監督にも就任した。さらにフックスは、ルースに球団の利益の分け前を与えると同時に、副社長への就任の可能性や、さらには早くて1936年シーズンから監督就任の可能性も伝えていた。

メディアの注目の中で、ルースは本拠地としてのボストンに16年ぶりに帰ってきた。ニューヨーク・ジャイアンツとの開幕戦には2万5000人の大観衆が集まり、4-2でブレーブスが勝利。ルースは全得点に絡む大活躍を見せた。ボストンはレッドソックスの牙城であったが、ルースの存在により、ブレーブスにボストン市民の注目が集まりつつあった。

しかし、それ以降はチームが低迷。5月20日の時点で7勝17敗と、ほとんどシーズンは既に終わったも同然であった。ルースはシーズン序盤は多少打ってはいたものの、怪我と不摂生のため、守備と走塁の衰えは著しく、ベースをノロノロ歩き回るのが限界であった。フックスに契約前に「空いている外野に入ってもいい」と言われていたが、守備の衰えはあまりにもひどく、ブレーブスの投手陣は「ルースがラインアップにいる以上、マウンドに上がることはできない」とボイコット寸前の姿勢を見せていた。マケシュニー監督もチーム運営に際してルースの助言を受け入れることはほとんどなく、助監督と副代表としての役職は名ばかりであったということにルースは激怒。フックスがルースにしていた「球団の利益の分け前を与える」という約束も嘘であった。それだけではなく、フックスはルースにチームに資金を投じることさえ望んでいた。

5月25日にピッツバーグのフォーブス・フィールドで行なわれたパイレーツ戦で、ルースは4打数4安打、3本塁打、6打点を記録するも、チームは7-11で敗戦。現役最後の本塁打となった一本は、フォーブス・フィールドの場外に消える特大アーチとなった。その5日後の5月30日、ルースはフィラデルフィアで行われたフィリーズ戦に臨む。初回表に三振した後、その裏の守備の際に膝を痛めてそのまま途中交代となった。これがルースの現役最後の姿となった。

そして2日後の6月1日、ジャイアンツとの試合が終わった後、ルースは新聞記者をロッカールームに集めて現役引退を表明した。本当はルースは5月12日の時点で引退したがっていたが、フックスが「まだすべてのナショナルリーグの球場でプレイしていないじゃないか」とルースを説得していたため、この日になった。最後となった1935年シーズンのルースの成績は、打率.181、6本塁打という現役最低の成績だが、72打数で本塁打6本という数字を残している。しかし、チームは38勝115敗で終わるひどい有り様であった。このチーム成績は、MLB史上3番目に悪い記録である。このシーズンをルース本人は「消してしまいたい1年」と語っている。シーズンオフにはコーチや監督としてのオファーを待っていたが、結局どこからもなく、ルースは「もしも『君が必要だ』と言われていたら、どこへでも喜んで行った」と振り返っている。

引退

現役を引退した翌1936年、アメリカ野球殿堂の最初期メンバー5名のうちの1人に選ばれる。その2年後の1938年、ブルックリン・ドジャースのゼネラルマネージャーだったラリー・マクフェイルのオファーを受け、ドジャースの一塁コーチに就任する。打撃の指導などのほかに、若い選手にファンへのサービスが悪いことを注意していた。しかし、わずか1年で辞任してしまい、これがMLBにおけるルースの最後の仕事となった。

第二次世界大戦中の1943年、ヤンキー・スタジアムで行われたチャリティー試合で、ルースは代打として登場し、四球を選ぶ。1947年には、退役軍人の会であるアメリカ在郷軍人会(英語版)の少年野球プログラム担当に就任した。

1946年、ルースは左目に強い痛みを感じるようになった。同年11月にニューヨークのフランス病院(英語版)を訪れた際、首に腫瘍があるのが発見される。腫瘍は悪性であり、左内頸動脈を取り囲んでしまっていた。放射線療法による治療を受けるものの、1947年2月に退院する頃には36kgも体重が落ちていた。しかしこの当時、化学療法が飛躍的な発展を遂げていたことが、ルースにとっての救いであった。ルースは激しい頭痛や嗄声に見舞われていたが、テロプテリン (Teropterin) と呼ばれる新薬が投与されたことにより、一時的に症状は緩和することになる。頭痛は回復し、体重も9キロ戻った。現在では、ルースの病名は鼻咽頭癌(英語版)の一種であったことが分かっている。

1947年4月27日、古巣ヤンキースはヤンキー・スタジアムにて「ベーブ・ルース・デー」を開催した。健康状態は依然不安定であったものの、ルースは6万人を超える観客の前でスピーチをした。ゲーリッグの「私は世界一幸運な男です」という有名なスピーチのように特別な名言があったわけではないが、ルースは心を込め、野球と次世代を担う子供たちに向けて愛情を込めて話した。後にルースはベーブ・ルース財団を設立し、恵まれない子供たちへのチャリティー活動を行う。このチャリティーの募金活動のため、1947年9月にヤンキー・スタジアムにてベーブ・ルース・デーが再度開催された。

1948年6月13日には、ヤンキー・スタジアム開場25周年記念のイベントに参加し、この日、ルースがヤンキース在籍時につけていた背番号『3』が永久欠番に指定されることとなった。ルースは存命中の1923年当時のヤンキースのメンバーとのしばしの再会を楽しんだ。しかし、ルースはもはやバットを杖代わりに使わざるを得ないほど衰えていた。このとき、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)紙のカメラマン、ナット・ファイン(英語版)が撮影した、セレモニーでのルースの写真 “The Babe Bows Out” は、野球史上最も有名な写真の一つとなり、この写真でファインは1949年度のピューリッツァー賞を受賞している。

ヤンキー・スタジアムでの同イベントに参列した後、再び入院生活を送る。ルースはハリー・トルーマン大統領(当時)からの電話を含め、3万通もの見舞いの手紙を受け取った。その大部分はルースが愛してやまなかった子供たちからのもので、それらの処理を手伝ったのが、クレア夫人である。

死去

1948年7月26日、ルースは自伝映画『ベーブ・ルース物語(英語版)』の試写会に参列する。これが、ルースが公式の場に現れた最後の姿となった。その直後から入院生活に戻ったが、既にほとんど喋れないほどに衰弱していた。ルースの病状がますます悪化していることが周知の事実となる中で、病院の外には記者やカメラマンが殺到し、数人の者しか面会できないようになっていた。許されたうちの一人であった当時のナショナルリーグ会長フォード・フリックによれば、「ルースは信じられないくらい細くなっていた。彼は大男であったのにもかかわらず、腕はほとんど骨と皮のみになっており、顔も痩せこけていた」と証言している。

1948年8月16日、ルースはがんのため、ニューヨーク市内の病院で死去した(満53歳没)。検死によれば、ルースの死因となったガン細胞は鼻と口から発生しており、それらが急速に体全体へと拡がっていったことが示されている。

遺体はヤンキー・スタジアムに2日間安置され、このときにルースに別れを告げるべくスタジアムを訪れた一般人は2日間でおよそ15万人を数え、そのうちのほぼ半数は子供たちだったといわれる。安置後、遺体はニューヨークのセント・パトリック大聖堂に移されて葬儀が行われた後、ニューヨーク郊外のホーソーン(英語版)にあるゲート・オブ・ヘブン墓地(英語版)に埋葬された。同所にあるルースの墓への献花は今も絶えない。

ルース死後の翌1949年、ワールドシリーズで最も顕著な活躍をした選手に贈られるベーブ・ルース賞が制定された。

人物

家庭生活

ルースは1914年にヘレン・ウッドフォードと結婚するも、ヘレンはルースが浸る華やかな生活が好きになれず、1926年あたりから別居生活を送っていた。1929年1月11日の火災によりヘレンは焼死。ルースは「彼女には可哀想なことをしてしまった。私が悪かった」と死を悲しんでいた。

ルースには二人の娘、ドロシー(英語版)とジュリアがいたが、二人とも養女であった。ドロシーはルースとヘレンとの養女であったが、後年その著書『わが父、ベーブ』の中で、自らをルースのガールフレンドであったジュアニータ・ジェニングスの実子であると主張している。ジュリアは、ルースが再婚した妻で、女優・モデルのクレア・メリット・ホジソンの連れ子である。ジュリアは現在アリゾナ州に住んでおり、2008年9月21日に行われたヤンキー・スタジアムの最終戦にて始球式の役を務めている。

ルースとクレアはオフシーズンをフロリダ州で過ごし、ゴルフなどを楽しんでいた。引退後、ルースはセントピーターズバーグから程近いフロリダ州トレジャーアイランド(英語版)に別荘を購入し、冬場はそこで過ごしていた。

映画などへの出演

ルースは様々なメディアに出演した。1930年代から1940年代にかけては頻繁にラジオ番組に出演しており、自身の番組を持ってもいた。1934年4月16日から7月13日にかけては、週3回『ベーブ・ルースの冒険』という15分番組が放送され、その3年後の1937年4月14日から7月9日にかけてはCBSで週2回『ベーブ・ルースは俺だ』が放送された。その他にもNBCなどでレギュラー番組を持っていた。

ルースが映画に初出演したのは『Headin' Home』という無声映画であった。また、1928年のハロルド・ロイドの映画『ロイドのスピーディー(英語版)』など、幾つもの無声時代の映画に出演しており、そのどれもが、大体は野球選手役もしくは本人役であった。その中の一つに、ゲーリッグの死後に作られた映画『打撃王』がある。ルースの声はクラーク・ゲーブルの声に似ていたとされている。

子供好きのルース

ルースは私生活でも派手好きで粗暴な性格ではあったが、その反面、子供が大好きで、ファンサービスに熱心だったことでも知られている。ルースの打ったファウルボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たって、あとでその子犬を見舞いに行ったことがあった。

また、ジョニー・シルベスター(英語版)という野球好きの少年が落馬し、それが原因で瀕死の状態であった。両親が、ジョニーが好きだったルースに励ましてもらおうと、無理を承知でヤンキースに連絡をとると、ワールドシリーズの最中に、ヤンキースのメンバーのサインボールと、ルースが「水曜日の試合で君のために本塁打を打つ」と書いたボールが送られて来た。結果、3本塁打を放っている。このエピソードは「約束のホームラン」か、それに類するタイトルで、ほぼすべてのルースの伝記で取り上げられている。映画では直接会いに行ったことになっているが、それは史実とは異なる。もっとも、翌年のシーズン終盤にジョニー少年の叔父と名乗る老紳士が、その後のジョニーが順調に回復していることを報告して礼を述べた際に、ルースは「それは良かった」と喜んでみせたものの、紳士が帰った後にそばにいたチームメイトに「ジョニー・シルベスターって、聞いたことのある名前だけど誰だい?」と尋ね、呆れたチームメイトが「君が去年見舞って約束の本塁打を打った少年じゃないか。」と教えると、「そういや、そんなこともあったっけな。」と平然としていたという話が残っている。その後、ジョニーとルースが再会したのは、ルースが晩年に病気のために入院していたときで、かつての病弱な少年はたくましく成長し、海軍に入隊するまでになっていた。

ルースが子供たちに優しかったのは、貧しい下町の不良少年だった彼自身の生い立ちと深い関係があり、彼はファンの子供たちを幼い頃の自分と重ねて見ていたといわれる。実際、ルース見たさにヤンキー・スタジアムへ来るものの、お金がなくて入場券を買うことができず、外に立ち尽くしている貧しい子供たちの姿を見て、ルースは彼らを気の毒に思い、係員に札束を渡して、「これであの子たちに入場券を買ってやれ」と促したこともあった。また、友人と共にゴルフ場に行ったときには、入口付近でルースを見つめる2、3人の子供の姿を見て、「君らも来いよ。今日はいいプレイができそうだぞ」と誘い、子供たちと談笑しながらラウンドを回り、休憩時にはお菓子とジュースを振る舞ったという。

ルースはいかなる有名人に対しても頭を下げず、むしろ挑戦的・尊大な態度を示していたが、子供たちの話題には弱かった。ルースが暴飲暴食、不規則な生活で練習を怠け、成績不振の状態が続いていた1922年の11月、そんなルースを励ますパーティーの席上で一人の議員(後にニューヨーク市長になったジミー・ウォーカー)から「国中の子供たちがラジオに耳を押し付けて、君を英雄のように思いながら君のプレイを楽しみにしているんだ。その英雄がこんな体たらくで、子供たちを失望させていいのか」と詰問されたときには、ルースは涙を流して反省し、それまでの生活態度を改めて再び練習に打ち込むようになったという。

後世の評価

引退時までの通算本塁打714本は、当時においては彼に続く記録が、かつての同僚ルー・ゲーリッグや、そのライバルとされたジミー・フォックスの約350本であったことからも、その圧倒的な存在感がうかがい知ることができる。ルースが今日に至る大リーグ観の形成に果たした影響は極めて大きい。

通算本塁打714本は不滅の記録と讃えられたが、のちにハンク・アーロン、バリー・ボンズの両名に破られた。しかし、通算長打率.690と通算OPS1.164は現在も破られていない世界記録である。また、シーズン本塁打60本というのは当時の記録であり、試合数の都合上、量産ペースとしてみると、記録を破ったロジャー・マリスよりも早い。さらに、その後もマリスの記録を破った選手に薬物疑惑が絶えない点や、ルースの現役時代に使われていた球場のサイズは現在の球場よりも大きく、本塁打を出しにくい環境であった点を考慮すると、ルースの記録は今でも決して価値が下がってはいない伝説的な記録といえる。現在、薬物汚染によってMLBの本塁打に対する疑惑が深まる反面、ルースの純粋な力によって生み出された本塁打記録は改めて評価されている。また、通算本塁打数のうち10本がランニング本塁打で、1試合3本塁打はレギュラーシーズンでは生涯で2度しかなく、現役最後の本塁打が出た試合で2度目の1試合3本塁打を記録しており、ワールドシリーズでは1試合3本塁打を2度記録している。

現在、ボルチモア・ダウンタウン(英語版)のエモリープレイス216(カムデン・ヤードの北西2ブロックのところ)にベーブ・ルース記念館があり、生前のルースの遺品や資料が保管されている。

九十三回目の誕生日に当たる日に、ルースが生まれた家にファンが集まる感謝祭が開かれた。小さい家ではあったが、中はファンで一杯だったという。

2024/06/06 16:06更新

George Herman “Babe” Ruth,Jr.


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ベーブ=ルース
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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ベーブ=ルース」を素材として二次利用しています。

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