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マイケル=ジャクソン
マイケル=ジャクソン(Michael Joseph Jackson)さんの誕生日は1958年8月29日です。
来歴、パフォーマンスなどについてまとめました。兄弟、映画、家族、現在、事故、脱退、テレビ、結婚、離婚に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
マイケル・ジャクソン(Michael Jackson、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、ダンサー。本名はマイケル・ジョセフ・ジャクソン(Michael Joseph Jackson)。インディアナ州ゲーリー出身。「キング・オブ・ポップ」と称されている。 1958年8月29日、アメリカ合衆国・インディアナ州ゲーリーの貧しいアフリカ系家庭に生まれ、幼い頃から兄弟たちとともに音楽の才能を発揮。1970年代に兄弟グループ「ジャクソン5」の天才リードシンガーとして、一世を風靡した。 ソロ活動を中心に据えた1980年代、クインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えた三部作『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』『バッド』で、前人未到の成功を手にし、名実ともにポピュラー音楽界の頂点に立つ。 1990年代以降も、『デンジャラス』『ヒストリー』といった大ヒット作を生み出し続けたが、一方で私生活や容姿に関するゴシップや数々のスキャンダルがメディアに取り沙汰されるようになり、心労による鎮痛剤や睡眠薬への依存に悩んだ。 2009年、大々的なカムバックとなるはずだったツアー「THIS IS IT」の開催を発表するも、公演開始1ヶ月前の6月25日、急性プロポフォール中毒により死去した。 ポピュラー音楽に多大なる影響を与えた人物の一人である。全世界での総売上は5億枚を超え、史上最も売れた音楽家の一人。これまでに13のグラミー賞(ノミネートは38回)を受賞。「人類史上最も成功したエンターテイナー」として、ギネス世界記録に認定されている。 来歴1958年8月29日、アメリカ合衆国・インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街の家庭に五男として誕生する。 父・ジョセフはクレーン操縦士、母・キャサリンはデパートのパートタイム従業員として、家計を支えていた。ジョセフは、当時彼の実弟が始めたバンド「ファルコンズ」の一員として音楽活動もしており、音楽家として成功する夢を抱いていた。音楽好きな両親の影響で、マイケルは他の兄弟と共に音楽と接する機会の多い環境で育った。 マイケルの兄・ジャッキー、ティト、ジャーメインは、よく父のギターを隠れて演奏していたが、ある日、ティトが弦を一本切ってしまう。張り替える間もなくジョセフに見つかってしまい、いつものようにジョセフは、暴力を振るおうとするが、ティトは「僕にだって弾けるんだ」と、抵抗を示し、必死に演奏してみせたという。これを見て、なかなかの上手さに気づいたジョセフは、自身の音楽経験を生かして、子どもたちに音楽を教えることを決意する。こうして三人は、音楽グループとしての活動を始め、リーダーであったジャーメインを筆頭に、地元での人気を獲得していった。 1963年、兄弟のグループに加入。キャサリンが、ジョセフに「この子は歌えるのよ」と助言したことがきっかけであったという。この頃、グループは「ジャクソン5」と名乗るようになった。 1967年には、ニューヨークのアポロ・シアターへの進出を果たす。マイケルは、そこでジェームス・ブラウンやジャッキー・ウィルソンのパフォーマンスを見て学んだという。 1968年1月、スティールタウン・レコードより、シングル「ビッグ・ボーイ」でデビュー。この頃、ライブの前座でボビー・テイラーに出会う。ジャクソン5の素質を見出したボビーは、モータウン・レコードと契約させるべく、ジャクソン・ファミリーを無理矢理デトロイトに連れていく。それが功を奏し、同年7月にモータウンとの契約に成功する。 1969年10月、シングル「帰ってほしいの」でメジャーデビュー。本楽曲は、全米チャートで1位を獲得した。可愛らしさ溢れるマイケルの歌声や、ベリー・ゴーディ・ジュニア率いるプロデューサー群による秀逸な楽曲群に加え、ダイアナ・ロスが発掘したという架空の設定も話題となり、グループは全米で人気を博すようになる。この頃からやっと「ジャクソン5」と名乗るようになる。 1970年2月、2ndシングル「ABC」が、ビートルズの「レット・イット・ビー」に代わり、1位を獲得。その後、続く「小さな経験」と「アイル・ビー・ゼア」もチャートを制し、デビューから4曲連続で全米チャート1位を獲得するという偉業を成し遂げた。 1971年10月、シングル「ガット・トゥ・ビー・ゼア」でソロデビュー。ソロでも堅調なヒットを重ね、1972年7月発表のシングル「ベン」は、ソロでは初となる全米チャート1位を獲得した。 しかし、この頃から次第に、ジャクソン5とモータウンの方向性の違いが、少しずつ露呈し始める。同じモータウン所属のマーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーが、自身で作詞・作曲からプロデュースまで手掛ける中、いつまでもアイドル路線を続けさせられている状況に、メンバーやジョセフは強い不満を示すようになった。しかし、モータウンは、一貫して彼らに曲の自作を許可することはなく、その軋轢は次第に大きくなっていく。全米2位に輝いた「ダンシング・マシーン」(1974年)の成功を除いては、無理矢理なアイドル路線による人気低迷が否めず、彼らは移籍を決意することとなった。 1975年、エピック・レコードに移籍。移籍後は「ジャクソン5」の名前の使用継続が認められなかったため、グループは「ジャクソンズ」として、昔に使われていた名前を再び使うことになった。 ジャクソンズは、1976年、アルバム『ザ・ジャクソンズ・ファースト〜僕はゴキゲン』をもって、正式にデビューを飾るが、活動初期は、モータウン時代同様、自主プロデュースをすることが許されず、2作目『ゴーイン・プレイシズ〜青春のハイウェイ』までは、ギャンブル&ハフをプロデューサーに迎え、制作された。マイケルは、このことに再び強い不満を抱いており、特に、2作目については「オージェイズの古い曲『ラヴ・トレイン』みたいで、必ずしも僕達のスタイルじゃない」「アイデンティティを失いつつあった」と、当時の幻滅ぶりを明らかにしている。 初めてメンバーがプロデュースに関わったのは、3作目の『デスティニー〜今夜はブギー・ナイト』で、本アルバムは、R&Bチャートで3位を獲得するなど、前作を大きく上回るヒットを記録した。マイケルとランディの作詞・作曲によるカットシングル「シェイク・ユア・ボディ」も、全米チャートで7位まで上昇した。 同じく自主プロデュースの4作目『トライアンフ』も、全米チャートトップ10入りを果たすなど、ヒットを記録し、批評家からも高い評価を受けた。特に、マイケル自身のペンによる収録曲「キャン・ユー・フィール・イット」について、アンディ・ケルマンは「この曲の超自然的でスケールの大きなリズムは、単なるシングル曲という小さなスケールに収まらず、むしろ花火の演目のフィナーレ的だ」と絶賛するなど、ここにきて、ようやく作曲家やプロデューサーとしての彼らの力量が認められるようになった。 1978年、ミュージカル映画『ウィズ』でダイアナ・ロスと共演。本映画の制作現場で、その後3枚のアルバムを共に制作し、マイケルの音楽人生を変えることになる音楽家、クインシー・ジョーンズと出会う。同年、映画のサウンドトラックからのカットシングル「ユー・キャント・ウィン」で、エピックからソロデビュー。 1979年6月、移籍後初のソロアルバム『オフ・ザ・ウォール』をリリース。家族やレーベルの反対を押し切って、そのままクインシーをプロデューサーとして迎え、制作された本アルバムは、70年代のディスコブームやブラック・ミュージックの集大成ともいえる内容に仕上がり、全米で800万枚を売り上げるなど、大ヒットを記録。批評家からも高い評価を受けた。また、ソロでは初の自作曲となる先行シングル「今夜はドント・ストップ」をはじめ、「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」「あの娘が消えた」の合計4シングルが、全米チャートトップ10に入るという史上初の偉業を成し遂げた。 1981年3月、モータウンでの最後のアルバム『フォーエヴァー・マイケル』から「想い出の一日」がシングルカットされ、『オフ・ザ・ウォール』との相乗効果もあり、全英1位を記録した。1982年7月には、映画『E.T.』に「サムワン・イン・ザ・ダーク」を提供。ストーリーブックのナレーションにも参加し、2年後にグラミー賞を受賞した。 1982年12月、移籍後から2作目のソロアルバムとなる『スリラー』をリリース。10月には、ポール・マッカートニーとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」が先行シングルとしてリリースされた。 再びクインシーがプロデュースを担当した本アルバムは、推定約7,000万枚を売り上げたとされており、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されている。また、収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての楽曲が、全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられた。その価値は批評家にも認められ、2年後の第26回グラミー賞では、史上最多となる7部門を制覇する。 本アルバムの発表では、付随する革新的なミュージックビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなった。後に自身最大のヒット曲となった「ビリー・ジーン」のミュージックビデオは「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破り、放映が解禁され、ミュージックビデオブームの先駆けとなった。エディ・ヴァン・ヘイレンをギター奏者に迎えたシングル「今夜はビート・イット」のミュージックビデオでは、ロスの本物のギャングとの共演が実現し、集団でダンスを披露した。そして、何より世界に衝撃を与えた「スリラー」のミュージックビデオは、14分にも及ぶ長さのホラー映画風のショートフィルムとして制作され、その後、現在に至るまでミュージックビデオの最高傑作として、名を残している。 1983年5月、兄弟たちと「モータウン25周年記念コンサート」に出演。ジャクソンズのステージの後、ソロで「ビリー・ジーン」を歌い、後にマイケルの代名詞となるムーンウォークを初披露した。 同年10月、シングル「セイ・セイ・セイ」を英・パーロフォンからリリース。ポール・マッカートニーとのデュエットが再び実現した本楽曲は、全米チャートで1位を獲得し、マイケルのキャリアでは「ビリー・ジーン」に次ぐ2番目の大ヒットとなった。本楽曲のミュージックビデオは、後にマイケルが邸宅として購入することとなるサンタバーバラの渓谷で撮影され、姉のラトーヤも出演した。 1984年1月、ペプシのCM撮影において、事故で頭部に火傷を負う。和解金によってペプシとの関係悪化は避けられたものの、頭部の皮膚の深くにまで至る傷を残したこの事故は、後にマイケルが鎮痛剤中毒に陥ってしまうきっかけとなり、その後の人生を大きく狂わせることとなる。なお、事故で受け取った和解金は、すべて病院に寄付された。 同年7月、5枚目となるジャクソンズのアルバム『ヴィクトリー』をリリース。『スリラー』のヒットも影響して、本アルバムは成功を収め、全米チャートでは最高4位を記録した。アルバムのリリースに際して、最後のコンサートツアー「ヴィクトリー・ツアー」も行われた。同年末、ツアー終了を機に、マイケルはジャクソンズを脱退した。 1985年、アフリカ飢餓救済のための慈善企画「USAフォー・アフリカ」に参加。マイケルとライオネル・リッチーによる楽曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、クインシーの指揮のもと、ハリウッドを代表する45人のスターが集まって録音され、最終的に全米で750万枚を売り上げた。 1986年9月、主演を務めたディズニーランドの3Dアトラクション『キャプテンEO』が公開。劇中では「ウィ・アー・ヒア・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド」と「アナザー・パート・オブ・ミー」が、オリジナル曲として披露された。 1987年8月、クインシーとの最後の作品となる第3作『バッド』をリリース。シンセサイザーの多用が生んだ、より先鋭的なサウンドに加え、「マン・イン・ザ・ミラー」に代表される世界平和や世相批判などをテーマにした楽曲が、本アルバムの大きな特徴となった。また、表題曲「バッド」のリリースに際し、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話を基にしたマーティン・スコセッシ監督による18分の大作ショートフィルムが制作され、前作『スリラー』に続いて、ミュージックビデオにおける革新性を示した。最終的に、本アルバムの売上は、多く見積もって3,500万枚に達したとされており、売上では、前作『スリラー』は超えなかったものの、先行シングル「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」から5曲連続で全米チャート1位を獲得するという初めての快挙を成し遂げた。 同年9月、ソロとなるワールドツアー「バッド・ワールド・ツアー」をスタートし、初演の地に日本が選ばれた。横浜公演が日本テレビで放映され、日本では「マイケル旋風」と呼ばれる大きなマイケルブームが巻き起こった。最終的に、本ツアーは、1989年初頭まで続けられ、4つのギネス記録を打ち立てることになる。 1988年1月、自伝「ムーンウォーク」を出版。生涯で唯一の自伝の日本語版は、田中康夫の翻訳で同年11月にCBSソニー出版から出版された。2009年には、河出書房新社から再刊された。 同年5月、推定3,800万ドルで購入した豪邸「ネバーランド・ランチ」に引っ越す。10月には、マイケルが主演、および原案・製作総指揮を務めた映画『ムーンウォーカー』が公開。劇中では「スムーズ・クリミナル」や「リーヴ・ミー・アローン」などの楽曲が披露された。 1989年、BREアワーズにおいて、ポップ・ロック・ソウルの3部門を制する。この時、エリザベス・テイラーが、マイケルを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と称したことがきっかけで、マイケルは、現在に至るまで「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるようになる。1990年には、アーケードゲーム「マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー」が発表される。 1991年11月、4年ぶりとなる新作アルバム『デンジャラス』をリリース。3作品を続けて手掛けてきたクインシーに代わって、ニュージャックスウィングの先駆者であるテディ・ライリーをプロデューサーに迎えた本アルバムでは、これまで以上にソリッドなサウンドを目指して、新境地に挑戦した。本アルバムの売上は、前作『バッド』を上回り、前作同様、多くのシングルヒットが生まれた。特に、先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は、人種の壁を乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20の国のチャートで1位を獲得した。マコーレー・カルキンと共演したショートフィルムも話題となり、劇中の演出では、モーフィングと呼ばれる映像技術が使用された。 1992年2月、ガボンの名誉勲位・メリット勲位が贈られる。1992年6月、2度目のワールドツアー「デンジャラス・ワールド・ツアー」をスタート。収益金は、すべてヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。 同年7月、シングル「ジャム」のショートフィルムにて、マイケルとともに「MJ」のイニシャルを持つNBAの選手、マイケル・ジョーダンと共演。 1993年1月、スーパーボウル・ハーフタイムショーに出演。当時、低迷していた「スーパーボウル」の視聴率が、マイケルの出演によって大きく改善したため、以降は、有名音楽家のハーフタイムショー出演が恒例となった。 同年2月、オプラ・ウィンフリー・ショーに出演。インタビューでは、さまざまな疑惑に答え、肌が白くなってしまう尋常性白斑に罹患していることを初めて明かした。後に、マイケルの子供であるプリンス・ジャクソンもこの病気に罹った。 1993年8月、ジョーダン・チャンドラーに性的虐待の訴訟を起こされる。これを受け、11月、開催中であった「デンジャラス・ワールド・ツアー」の中止を余儀なくされた。裁判では、ジョーダンの父・イヴァンによる恐喝があったことが明らかとなり、ジョーダンの証言にも、多数の矛盾が発覚する。ところが、裁判が推定7年近くかかることや、マイケルが精神的に危険な状態にあったことなどにより、音楽活動への多大な影響を懸念して、マイケル側は和解金を支払うことを選択した。ここで和解を結んでしまったことで、世間からは偏見の目を向けられることとなり、この問題は後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引いてしまった。 1994年5月、エルヴィス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーと結婚。 1995年6月、2枚組のアルバム『ヒストリー パスト、プレゼント・アンド・フューチャー ブック1』をリリース。1枚目が『HIStory Begins』と銘打たれたベスト盤、2枚目が『HIStory Continues』と呼ばれる未発表曲集という特異な構造を持つ本アルバムでは、全米に蔓延る社会問題の数々や、1993年の訴訟以降より強まることとなった世間からのバッシングに対するマイケルの怒りや悲愴が、これまでにないほど直接的に表現された。先行シングルとして、妹・ジャネットとのデュエット「スクリーム」がカットされ、そのショートフィルムは「史上最も費用の使われたミュージックビデオ」として、ギネス世界記録に認定された。同年8月にシングルカットされた「ユー・アー・ナット・アローン」は、全米チャートで初登場1位を記録するという前人未到の快挙を成し遂げ、こちらもギネス世界記録に認定された。環境問題を扱った10月リリースのシングル「アース・ソング」は、アメリカでは受け入れられなかったにもかかわらず、イギリスでは自身最大のヒット曲となった。1996年1月、リサと離婚。 同年9月、3度目のワールドツアー「ヒストリー・ワールド・ツアー」をスタート。10月には、主演・製作総指揮・脚本を務めた短編映画『マイケル・ジャクソン 「ゴースト」』を公開。劇中では、表題曲「ゴースト」や「イズ・イット・スケアリー」などの新曲が披露され、本映画は、カンヌ国際映画祭にて上映された。11月には、デビー・ロウと結婚。 1997年5月、ジャクソン5として、ロックの殿堂入りを果たす。同月、リミックス・アルバム『ブラッド・オン・ザ・ダンス・フロア: ヒストリー・イン・ザ・ミックス』をリリース。前作『ヒストリー』収録曲のリミックス集に、新たな未発表曲が5曲加えられた形でリリースされた。ほとんどプロモーションは行われなかったにもかかわらず、リミックス・アルバムとしては史上最高となる600万枚の売上を記録した。 1999年6月、有志の友人たちと共にチャリティコンサート「マイケル・ジャクソン & フレンズ」を開催。収益金は、赤十字社、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。同月、デビーと離婚。 2001年3月、史上最年少でのロックの殿堂入りを果たす。同年9月には「マイケル・ジャクソン 30周年記念ソロ・イヤーズ」を開催。ジャクソン5の再結成が行われたほか、次のアルバム『インヴィンシブル』の先行シングル「ユー・ロック・マイ・ワールド」も披露された。 2001年10月、生前最後のスタジオ・アルバムとなる『インヴィンシブル』をリリース。本アルバムでは、ロドニー・ジャーキンスをはじめとした若手プロデューサーの起用で時流に乗りつつも、自身の声を主体としたバラードの制作により精力が注がれた。全米1位は獲得したものの、最終的な売上枚数は、1,000万枚足らずと、従来の作品に比べて伸び悩んでしまったことで、1990年代後半に始まったソニー戦争と呼ばれるマイケルとソニーとの確執が表面化するようになる。 同月、アメリカ同時多発テロの被災者支援のため、ワシントンD.C.・RFKスタジアムにてチャリティコンサートを開催。新曲「ホワット・キャン・アイ・モア・ギブ」も披露され、約300万ドルの収益を集めた。2002年4月には、民主党全国委員会によるパーティーにて、「ヒール・ザ・ワールド」を含む3曲を披露。本公演が、彼が踊った最後のコンサートとなった。 2003年11月、ベスト・アルバム『ナンバー・ワンズ』をリリース。先行シングルとして「ワン・モア・チャンス」がリリースされた。 同月、ギャヴィン・アルヴィーゾへの性的虐待疑惑で逮捕される。1993年の訴訟とは違って、今回は刑事裁判にかけられ、マイケル・ジャクソン裁判として、全世界の注目を受けることとなる。 2004年11月、ボックス・セット『マイケル・ジャクソン: アルティメット・コレクション』をリリース。往年の代表曲に数々の未発表音源を織り混ぜたCD4枚と、「デンジャラス・ワールド・ツアー」ブカレスト公演を収録したDVD1枚が収録された。 2005年6月、裁判のすべての起訴事実に関して、無罪が言い渡される。同年7月、ライブDVD『ライヴ・イン・ブカレスト』をリリース。なお、内容は『マイケル・ジャクソン: アルティメット・コレクション』に収録されたものと同じものである。 2006年5月、訪日。無罪判決後、初めて公の場に姿を表す。MTVジャパンのレジェンド・オブ・ミュージック・アワードを受賞した。訪日の際に、フジテレビ系列のバラエティ番組『SMAP×SMAP』にサプライズゲストとして出演し、SMAPと共演。結果として、これがマイケルにとって生涯唯一のバラエティ番組出演である。 2008年2月、企画盤『スリラー 25周年記念盤』をリリース。『スリラー』収録曲のリミックスが収められ、エイコン、カニエ・ウェスト、ウィル・アイ・アム、ファーギーなどが参加した。 同年8月、生前最後となるベスト・アルバム『キング・オブ・ポップ』をリリース。本アルバムは、マイケルの生誕50周年を記念して企画され、インターネット上で行われた投票で各国独自に収録曲が決められた。完全生産限定盤としてリリースされ、全ての国のバージョンにボーナストラックとして「スリラー・メガミックス」が収録された。 2009年3月、ロンドンにて記者会見を開き、O2アリーナで自身最後のツアー「THIS IS IT」を開催することを発表。チケットが売り出されると、4時間で50公演分が完売した。 2009年6月25日、自宅にて心肺停止状態に陥り、死去。主治医であったコンラッド・マーレーは、過失致死罪の有罪判決を受けている。死因は、いろんな説があるが、薬の過剰摂取が一番有力とされている。 2009年10月、予定されていたO2アリーナでの公演のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』が公開。翌年リリースされたBlu-rayは、オリコンにおいて、歴代4位の売上を記録している。同年、Googleの検索ワードランキングで1位になった。 2010年6月25日、1周忌であるこの日にドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔』が公開。 2010年12月、死後初のスタジオ・アルバム『MICHAEL』をリリース。本アルバムは、『スリラー』制作段階で収録候補となっていたイエロー・マジック・オーケストラ「ビハインド・ザ・マスク」のカバーをはじめ、生前に録音された10の未発表音源が集められた作品として、注目を集めた。しかし、プロモーションの時点から、一部の収録曲の歌唱に関して「マイケルによるものではないのではないか」という疑惑が、プレスや家族からかけられることとなる。ソニーは、一貫してその疑惑を否定してきたものの、2018年8月にようやく「モンスター」「ブレイキング・ニュース」「キープ・ユア・ヘッド・アップ」の3曲が、他の歌手によって歌われたものであると、正式に認めたことが報じられた。 2011年1月、ドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン ライフ・オブ・アイコン 想い出をあつめて』が公開。ホイットニー・ヒューストンなど、生前の友人やマネージャー、アーティストたちが、マイケルとの想い出を語っている。 同年11月、リミックス・アルバム『イモータル』をリリース。シルク・ドゥ・ソレイユによる同名のトリビュート・ツアーのサウンドトラック盤としてリリースされた。 2012年9月、『バッド25周年記念盤』をリリース。2012年版リマスターの施されたオリジナル盤の他、同時期に録音された未発表音源、最新リミックス、および1988年のロンドン公演の模様を収めたDVD『ライヴ・アット・ウェンブリー』を同梱している。記念盤のリリースに合わせて、スパイク・リー監督によるドキュメンタリー映画『BAD25』も公開された。 2014年5月、生前の未発表曲を集めたアルバム第2弾となる『エスケイプ』をリリース。ビルボード・ミュージック・アワードでは「スレイヴ・トゥ・ザ・リズム」のホログラムパフォーマンスが話題を呼んだ。8月には「ア・プレイス・ウィズ・ノーネーム」がシングルカットされ、ショートフィルムは、Twitterで先行公開された。 同年11月、イギリスのロックバンド・クイーンのコンピレーション・アルバム『クイーン・フォーエヴァー』に、フレディ・マーキュリーとのデュエット曲「生命の証」が収録。2019年3月3日、記事にて純資産が約5億ドルとなったと報道。 2022年11月18日に『スリラー 40周年記念盤』をリリース。未発表のデモ音源やレア音源を含む全10曲が収録され 『MICHAEL』に収録されたイエロー・マジック・オーケストラの「ビハインド・ザ・マスク」のデモ版や、「スリラー」の原型となった「スターライト」などが収録された。 2025年4月18日、伝記映画『マイケル』が公開予定。マイケル役は、甥のジャファー・ジャクソンが務め、監督はアントワーン・フークアが務める。 パフォーマンス4オクターブもの音域を持つといわれるマイケルは、その独特な歌声で人気を博してきた。ジャクソン5時代から、『オフ・ザ・ウォール』の頃までは、声のよく通るソウルフルな歌唱法が見られるが、『スリラー』以後は、よりポップやロック色が強まり、年を重ねるごとに深みを増していった。 マイケルは、キャリアを通じて歌唱力を維持するための努力を欠かさなかった。2001年リリース『インヴィンシブル』収録の「2000ワッツ」では、デジタル処理で声を加工したのではないか(実際は加工されていない)と囁かれたほど低い声で歌っていた一方で、同アルバム収録の「バタフライズ」では、驚くほど柔らかなファルセットを披露するなど、その多彩なボーカルレンジは、晩年まで健在であった。 ボイスパーカッションも得意としており、楽曲を思いついたときには、まずそれをテープレコーダーに録音していたという。1993年のオプラ・ウィンフリー・ショーにて「フー・イズ・イット」をボイスパーカッションのみで披露しているほか、1995年リリースの「タブロイド・ジャンキー」では、曲の基本ビートとして、ボイスパーカッションを導入している。 「ビリー・ジーン」のパフォーマンスで必ず披露される「ムーンウォーク」をはじめ、爪先立ち、スピン、足で蹴る動きなど、マイケル・ジャクソンのダンスは、フレッド・アステアなどに強い影響を受けており、キャリアを通じて彼を象徴する代名詞となっていった。アステアについて、「最も影響を受けた人物の1人」「幼い頃から真似をしていた」と発言している。また、アステアとマイケルは、個人的に親交があり、80歳を超えた晩年のアステアに請われて、マイケル自身がムーンウォークのレクチャーをしたこともある。 「スムーズ・クリミナル」の振付に登場する、体全体を斜め45度に傾くパフォーマンスは「ゼロ・グラヴィティ」と呼ばれ、行うのに必要な特殊な靴の開発において、特許を取得している。また、マイケルは、パントマイマーとしても知られる。「パントマイムの神様」と称されるマルセル・マルソーは「マイケルは生まれながらのパントマイム・アーティストだ」と語っていたという。 1986年の『キャプテンEO』以降、マイケルの衣装は、マイケル・ブッシュとデニス・トンプキンスが担当している。ブッシュによると、マイケルは、衣装が会場の最後尾の観客にも見えるよう考慮したため、衣装の多くは、ラインストーンで覆われたものにしていたという。ルーズソックスにもラインストーンが散りばめられていたが、ブッシュの高度な縫製技術をもってしても、マイケルの激しいパフォーマンスには耐えられず、コンサート終盤には、ラインストーンが落ちてしまう。そのため、ブッシュは夜通し修復を行っていたという。「ゼロ・グラヴィティ」の特許を開発したのもブッシュである。仕掛けが成功したとき、マイケルは感動の涙を流したという。 2024/05/26 03:04更新
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