もしもし情報局 > 1921年 > 10月12日 > テニス、アイスホッケー

ヤロスラフ=ドロブニーの情報 (JaroslavDrobny)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

ヤロスラフ=ドロブニーの情報(JaroslavDrobny) テニス、アイスホッケー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

ヤロスラフ=ドロブニーさんについて調べます

■名前・氏名
ヤロスラフ=ドロブニー
(読み:Jaroslav Drobny)
■職業
テニス、アイスホッケー
■ヤロスラフ=ドロブニーの誕生日・生年月日
1921年10月12日
酉年(とり年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
不明

ヤロスラフ=ドロブニーと同じ1921年生まれの有名人・芸能人

ヤロスラフ=ドロブニーと同じ10月12日生まれの有名人・芸能人

ヤロスラフ=ドロブニーと同じ出身地の人


ヤロスラフ=ドロブニーの情報まとめ

もしもしロボ

ヤロスラフ=ドロブニー(Jaroslav Drobny)さんの誕生日は1921年10月12日です。

もしもしロボ

4大大会優勝、参考文献などについてまとめました。結婚に関する情報もありますね。

ヤロスラフ=ドロブニーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ヤロスラフ・ドロブニー(Jaroslav Drobný, 1921年10月12日 - 2001年9月13日)は、チェコスロバキア・プラハ出身の男子テニスおよびアイスホッケー選手。左利き。最高ランキングは世界1位。

グランドスラムシングルス優勝3回・ダブルス2回。1983年国際テニス殿堂入り。アイスホッケーではオリンピック銀メダル・世界選手権で金メダルを獲得。

第2次世界大戦でテニス経歴の中断を余儀なくされ、終戦後共産主義国となったチェコスロバキアから亡命してエジプトに渡り、テニスでも全仏選手権やウィンブルドン選手権で何度も準優勝の壁を乗り越えるなど、波瀾万丈の人生を生きた人であった。

全仏選手権では1951年と1952年に大会2連覇、ウィンブルドン選手権では1954年に11度目の挑戦で優勝を果たし、4大大会男子シングルス「3勝」を挙げた。テニスと並んでアイスホッケーでも優れた技量を発揮し、1948年のサンモリッツ五輪でアイスホッケーの チェコスロバキア代表(英語版)として銀メダルを獲得したこともある。アイスホッケーでのけがで早い時期に視力を損なったため、いつも濃い色の眼鏡をかけてプレーしていた。

ドロブニーは「プラハ・ローンテニスクラブ」のコート整備係の息子として生まれ、5歳からテニスを始めた。1938年に16歳でウィンブルドン選手権に初出場し、1回戦でアルゼンチンのアレホ・ラッセル(1916年 - 1977年)に 8-10, 4-6, 9-7, 3-6 で敗れた。この頃には、すでに彼の故国チェコスロバキアはアドルフ・ヒトラーの侵攻下にあった。1939年のウィンブルドン選手権で、ドロブニーは第1シードのヘンリー・オースチンとの3回戦まで勝ち進んだが、腕の故障で試合を途中棄権した。この年に第2次世界大戦が勃発し、彼のテニス経歴も中断を余儀なくされる。幸いにも、ドロブニーはナチスの強制収容所への移送を免れ、戦時中はアイスホッケー選手として生活することができた。戦時中の生活について、ドロブニーは「生き続けることが最も重要だった」と語っている。

1945年に第2次世界大戦が終結し、1946年からテニス4大大会も開催が再開された。ヤロスラフ・ドロブニーは終戦後最初の全仏選手権で決勝に進んだが、最初の決勝戦では地元フランスのマルセル・ベルナールに 6-3, 6-2, 1-6, 4-6, 3-6 の逆転で敗れた。7年ぶり3度目の出場となったウィンブルドン選手権では、4回戦で当時の世界1位だったアメリカのジャック・クレーマーを倒した後、ジェフ・ブラウン(オーストラリア)との準決勝まで進んでいる。終戦直後の期間、ドロブニーは冬季になるとアイスホッケーをプレーし、テニスとアイスホッケーの2つのスポーツで優れた成績を挙げた。テニスでは1946年から1949年まで男子テニス国別対抗戦・デビスカップのチェコスロバキア代表選手を務め、チームは1947年と1948年の2年連続でオーストラリアとのデ杯「インターゾーン」決勝に進んだ。アイスホッケーでは1947年にチェコスロバキアを「世界アマチュア選手権」優勝に導き、1948年のサンモリッツ五輪で銀メダルも獲得した。この年は全仏選手権で男子シングルス・男子ダブルス・混合ダブルスの3部門に決勝進出を果たし、男子ダブルスと混合ダブルスの2部門で優勝したが、男子シングルス決勝ではフランク・パーカー(アメリカ)に敗れて2度目の準優勝に終わっている。

1949年、ヤロスラフ・ドロブニーは共産主義国となったチェコスロバキアから亡命する決断を下した。戦時中の苦難からチェコスロバキア亡命へ-ドロブニーの人生はさらに波瀾に満ちたものとなる。亡命までの間、ドロブニーはチェコスロバキアからウィンブルドンへ出発する際に身体検査を受けたが、本人の話によれば「裸にさせられて、履いている靴下の中まで調べられた」という。ドロブニーは世界各地を渡り、ようやくエジプトに落ち着いた。亡命した年、1949年のウィンブルドン選手権でドロブニーは初めて決勝進出を果たし、アメリカのテッド・シュローダーと対決することになった。このウィンブルドン決勝戦でもドロブニーはシュローダーに 6-3, 0-6, 3-6, 6-4, 4-6 で敗れ、またもや準優勝で止まる。(シュローダーはこれが唯一のウィンブルドン出場となった。)1950年の全仏選手権決勝ではバッジ・パティー(アメリカ)に敗れて3度目の準優勝になり、ドロブニーはテニス界で「成功から最も遠い選手」と言われるようになった。ようやく1951年の全仏選手権で、ドロブニーは4度目の決勝進出でエリック・スタージェス(南アフリカ)を 6-3, 6-3, 6-3 のストレートで破り、宿願の4大大会初優勝を達成した。

1952年の全仏選手権とウィンブルドン選手権は、2大会連続でドロブニーとフランク・セッジマン(オーストラリア)の決勝対決になった。全仏選手権ではドロブニーが大会2連覇を達成したが、ウィンブルドンではセッジマンに 6-4, 2-6, 3-6, 2-6 で敗れ、2度目の決勝戦でまた準優勝止まりに終わる。(セッジマンが4大大会で唯一獲得できなかったタイトルは、全仏選手権の男子シングルスのみであった。4大大会で男女シングルス・男女ダブルス・混合ダブルス=12部門すべてに優勝することを、テニス用語では「ボックス・セット」 <Boxed Set> というが、セッジマンのボックス・セットを阻止した選手がドロブニーである。)1953年のウィンブルドン選手権では、ドロブニーは3回戦でバッジ・パティーと4時間20分に及ぶ長い試合を戦った。ドロブニーが 8-6, 16-18, 3-6, 8-6, 12-10 で勝った試合は、ウィンブルドン史上に残る名勝負の1つに数えられてきたが、ここでも彼の奮闘は報われず、準決勝でデンマークのクルト・ニールセンに敗れ去った。1953年、ドロブニーはイギリス人の女子テニス選手であったリタ・アンダーソン(Rita Anderson)と結婚した。

苦難の多かったドロブニーの人生がようやく報われたのは、1954年のウィンブルドン選手権で初優勝を飾った時である。ドロブニーは第11シードの低位置で、ウィンブルドン選手権への挑戦も11度目になっていた。2年ぶり3度目の決勝戦で、ドロブニーはオーストラリアの新星ケン・ローズウォールと顔を合わせる。2時間37分を要した決勝戦で、32歳のドロブニーは若き19歳のローズウォールを 13-11, 4-6, 6-2, 9-7 で破り、ウィンブルドン初優勝を達成した。しかし1955年のウィンブルドン選手権では、準々決勝でトニー・トラバート(アメリカ)に 6-8, 1-6, 4-6 であっけなく敗れてしまう。結婚から6年後、1959年にドロブニーはイギリス市民権の取得を認められ、その後はロンドンで暮らした。ウィンブルドン選手権での優勝後、ドロブニーは“Champion in Exile”(亡命したチャンピオン)という題名の自伝を出版した。

ドロブニーは1983年に国際テニス殿堂入りを果たし、1997年には国際アイスホッケー連盟殿堂(IIHF Hall of Fame)にも選出された。2001年9月13日、ヤロスラフ・ドロブニーは80歳の誕生日を迎える1ヶ月前にロンドンで逝去した。

4大大会優勝

全仏選手権 男子シングルス:2勝(1951年&1952年)/男子ダブルス・混合ダブルス:1勝(1948年) [準優勝3度:1946年・1948年・1950年]

ウィンブルドン選手権 男子シングルス:1勝(1954年) [準優勝2度:1949年・1952年]

参考文献

Jaroslav Drobný, “Champion in Exile” (亡命したチャンピオン) Hodder & Stoughton Ltd., London (1955)

2024/06/23 02:54更新

Jaroslav Drobny


ヤロスラフ=ドロブニーと同じ誕生日10月12日生まれの人

菊地 創_(俳優)(きくち はじめ)
1983年10月12日生まれの有名人 東京出身

菊地 創(きくち はじめ、1983年10月12日 - )は、日本の俳優、演出家。東京都出身。血液型はB型。 身長171cm。特技は英語、ダーツ。 1991年TOKYO FM少年合唱団に入団し数々の…

大仁 邦彌(だいに くにや)
1944年10月12日生まれの有名人 兵庫出身

大仁 邦彌(だいに くにや、1944年10月12日 - )は、兵庫県神戸市出身 の元サッカー選手(DF)・サッカー指導者、サッカー解説者。 日本サッカー協会第13代会長、現・名誉会長。 3人兄弟…

太田 雅英(おおた まさひで)
1975年10月12日生まれの有名人 東京出身

太田 雅英(おおた まさひで、1975年10月12日 - )は、NHKのアナウンサー。 学習院中等科・高等科、学習院大学法学部卒業後、1998年入局。主として大相撲を中心としたスポーツ中継を担当し…

滑川 和男(なめかわ かずお)
1969年10月12日生まれの有名人 千葉出身

滑川 和男(なめかわ かずお、1969年10月12日 - )は、NHKのシニアアナウンサー。 千葉県銚子市出身。銚子市立銚子高等学校を経て、慶應義塾大学法学部卒業後、1993年4月に入局。 響き…

中村 千怜(なかむら ちさと)
1977年10月12日生まれの有名人 東京出身

中村 千怜(なかむら ちさと、1977年10月12日 - )は、日本のタレント、女優。スタッフ・アップに所属し、PRの企画とイベントの運営にも携わっていた。 東京都出身。國學院大學経済学部卒業。 …

田中 梨乃(たなか りの)
1991年10月12日生まれの有名人 大阪出身

田中 梨乃(たなか りの、1991年10月12日 - )は、大阪府出身のタレント・レポーター。舞夢プロ所属。 1991年10月12日、大阪府に生まれる。関西学院大学社会学部卒業。 2015年12…

芹沢 まりな(せりざわ まりな)
1996年10月12日生まれの有名人 千葉出身

芹沢 まりな(せりざわ まりな、1996年〈平成8年〉10月12日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル、レースクイーン、ラウンドガール。千葉県出身。株式会社R・I・P所属。愛称はせりちゃん。 …

乙黒 えり(おとぐろ えり)
1982年10月12日生まれの有名人 神奈川出身

乙黒 えり(おとぐろ えり、1982年10月12日 - )は、タイ・バンコク生まれ、神奈川県横浜市育ちの女優、タレントである。 タイ、英国、日本の混血。横浜雙葉小学校、横浜雙葉中学校・高等学校、青…

伊藤 綾香(いとう あやか)
1988年10月12日生まれの有名人 東京出身

伊藤 綾香(いとう あやか、1988年10月12日 - )は、第25期圭三塾出身の圭三プロダクション所属のタレント。 田園調布雙葉小学校附属幼稚園、田園調布雙葉小学校、田園調布雙葉中学校・高等学校…

秋山 真凜(あきやま まりん)
1996年10月12日生まれの有名人 福岡出身

秋山 真凜(あきやま まりん、1996年10月12日 - )は、日本の元アマチュア女子ゴルファー、タレント、スポーツキャスター。福岡県福岡市出身。生島企画室所属。父はプロ野球ソフトバンクホークス元監督…

相沢 ゆりか(あいざわ ゆりか)
1999年10月12日生まれの有名人 神奈川出身

相沢 ゆりか(あいざわ ゆりか、1999年10月12日 - )は、日本の女性タレント。チャーム所属。 神奈川県出身。血液型 B型。洋服 150cm。 好きなスポーツ アイススケート。趣味 音楽鑑賞…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


ヤロスラフ=ドロブニーと近い名前の人

ヤロミール=ヤーガー(Jaromir Yagr)
1972年2月15日生まれの有名人 出身

ヤロミール・ヤーガー(Jaromir Jagr、1972年2月15日 - )は、チェコスロバキアのクラドノ生まれのチェコのプロアイスホッケー選手。ポジションはフォワード。 地元クラドノのジュニアチ…

ジャロン=ラニアー(Jaron Lanier)
1960年5月3日生まれの有名人 出身

ジャロン・ゼペル・ラニアー (英語: Jaron Zepel Lanier [ˈdʒeɪrɪn lɪˈnɪər]、1960年5月3日 - ) はアメリカの計算機科学者、視覚芸術者、計算機科学哲…

ヤロスワフ=カチンスキ(Jaroslaw Kaczynski)
1949年6月18日生まれの有名人 出身

ヤロスワフ・アレクサンデル・カチンスキ(ポーランド語: Jarosław Aleksander Kaczyński、1949年6月18日 - )は、ポーランドの政治家。現在、同国副首相。同国首…

ヤロスラフ=サイフェルト(Jaroslav Seifert)
1901年9月23日生まれの有名人 出身

ヤロスラフ・サイフェルト(Jaroslav Seifert, 1901年9月23日 - 1986年1月10日)は、チェコスロバキアのノーベル賞作家、詩人、ジャーナリストである。 オーストリア=ハン…

ロザリン=ヤロー(Rosalyn Sussman Yalow)
1921年7月19日生まれの有名人 出身

ロサリン・サスマン・ヤロー(Rosalyn Sussman Yalow, 1921年7月19日 - 2011年3月30日)は、アメリカ合衆国の医学研究者で、放射免疫測定技術の開発により、ロジェ・ギルマ…

ヤロスラフ=ルイバコフ(Yaroslav Rybakov)
1980年11月22日生まれの有名人 出身

11月22日生まれwiki情報なし(2024/06/23 04:44時点)

ヤロスラフ=ヘイロフスキー(Jaroslav Heyrovsky)
1890年12月24日生まれの有名人 出身

ヤロスラフ・ヘイロフスキー(Jaroslav Heyrovský, 1890年12月20日-1967年3月27日)はチェコプラハ出身の分析化学者。ポーラログラフィーの原理を発見したことで知られ、その功…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
ヤロスラフ=ドロブニー
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

HEADS Travis Japan カスタマイZ BABYMETAL まなみのりさ FLAME 放課後プリンセス WEST. A.B.C-Z 猿岩石 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ヤロスラフ=ドロブニー」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました