ヤン=レツルの情報(JanLetzel) 建築家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png?)
ヤン=レツルさんについて調べます
■名前・氏名 |
ヤン=レツルと同じ出身地の人 |
ヤン=レツルの情報まとめ
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
ヤン=レツル(Jan Letzel)さんの誕生日は1880年4月9日です。
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
作品、その他などについてまとめました。卒業、父親、家族、現在、ドラマに関する情報もありますね。
ヤン=レツルのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)ヤン・レッツェル(Jan Letzel, 1880年4月9日 - 1925年12月26日)は、明治末期から大正にかけて主に日本で活動したチェコ人の建築家。 広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)の設計者として有名。ヤン・レツルとも表記。 1880年(明治13年)にオーストリア・ハンガリー帝国(現チェコ共和国)のボヘミアの町ナーホトに生まれた。実家はホテルを経営していた。高等専門学校で建築を学び、1899年にパルドゥビツェの学校の土木課の助手の職を得る。 1901年には奨学金を得、プラハの美術専門学校(College of Applied Arts in Prague(チェコ語版))に入学しチェコの近代建築の重鎮の一人であるヤン・コチェラ教授(チェコ語版)に師事する。1902-3年にかけて、研修のためボヘミア、ダルマチア、モンテネグロ、ヘルツェゴヴィナを訪れた。彼はコチェラから石やコンクリートによるシンプルな近代建築の手法の影響を受けたほか、ユーゲント・シュティールやアール・ヌーヴォーの影響も吸収した。 1904年に卒業し、Quido Belsky設計事務所でプラハのヴァーツラフ広場のGrand Hotel Evropaの外装、プラハの北西約40kmにある温泉地ムシュネー(en:Mšené-lázně)のHall of Msene Springsの設計に携わった。1905年にはエジプト・カイロのPascha設計事務所に勤める。 1907年(明治40年)に横浜のゲオルグ・デ・ラランデの設計事務所で働くために来日する。 1908年(明治41年)、ゲオルグ・デ・ラランデのドイツへの帰国(結果的には一時帰国であった)に伴い、これまで勤務していた設計事務所、「G. DE LALANDE」から、ゲオルクの父親で、建築家のオイゲン・デ・ラランデ(Eugen de Lalande)が横浜に設立した新会社「E. de Lalande Co」にKarl Horaと共に移籍し、レッツェルは、東京支店マネージャーとして、当時の四谷区東信濃町29にあった洋館を借りて引っ越した。ここには、当時、東大教授で物理学者の北尾次郎(1854〜1907)が設計した、子息の北尾富烈が所有する洋館があり、ゲオルクが再来日後は、レッツェルに代って、ゲオルクが1914年8月に急死するまで居住した。この洋館は、2014年に、江戸東京たてもの園に、デ・ラランデ邸(三島邸)として、移築復元された。なお、レッツェルの出身地、ナホトと、デ・ラランデの故郷、ヒルシュベルクは、リーゼン山地を挟んで近接しており、二人は国籍こそ異なるものの、「お互いが懐かしい同郷人そのものであった」という。 1910年には同胞の友人Karl Horaとともに独立し、会社を設立した。事務所を横浜と東京に置き、15件以上(約40とも)の建物の設計をした。この時期事業は順調に進み、1913年に共同設立者のKarl Horaが帰国した後は、単独で事業を始めた。同年開業の松島パークホテルの設計を担当し、その発注者であった宮城県知事の寺田祐之に気に入られ、寺田の広島県知事転任に伴い1915年には広島商品陳列所(現・原爆ドーム)の設計を手掛けた。 1915年には第一次世界大戦およびその後の不景気のため、事務所を閉鎖しチェコスロバキアへ帰国した。事務所閉鎖後について本国では以下のように言われている。 1918年にチェコスロバキアが独立すると商務官に任命され、極東における同国の通商代表として日本へ赴任後は在日大使館に駐在した。 1920年にチェコへ一時帰国し、商務官として再来日した。 日本人の5歳の女児を養子に迎えた。ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれた棄児であったという。 1923年9月1日の関東大震災では自身も被災し全財産を失い、設計した多くの建物が被災したことを目にする。同年11月に失意の内にプラハへ帰国したが、健康が優れず設計の仕事をすることもなく入院生活を送る。1925年にプラハで病死した。45歳であった。晩年には家族友人から見放され、遺体は公共墓地へ埋葬された。レッツェルが最期を迎えた病院は、彼が4歳の時に死去したベドルジハ・スメタナの収容先と同じプラハの新市街の著名な精神病院であり、部屋も同室であった。死因についてもスメタナ同様、梅毒によるものとされている。 レッツェルの建築家としての活動の大半が日本におけるものであり、チェコでは本国での経歴の短さからかほとんど知られていなかったが、『原爆ドームの設計者』という事から、再認識され始めている。1991年にはNHKとチェコ放送の共同制作によるレッツェルに関する番組が作られた。 2000年には出生地のナーホトで生誕120年祭が催された。 2009年にモラビア地方の町ブルノの墓地で神社の鳥居を模した墓石が見つかり、それがレッツェルの初期のデザインであると判明した。 作品レッツェルが設計を手がけた日本国内の建造物は、廃墟として姿を止めている広島県物産陳列館(原爆ドーム)を除き、ほとんどが地震・戦災・火災により消失し現存していない。 オリエンタルホテル(3代目、1907年頃、デ・ラランデとの共同設計):1945年、神戸大空襲により焼失。 聖心女子学院校舎(1909年竣工):関東大震災で倒壊。正門のみ現存。 上智大学旧1号館:関東大震災で倒壊。 雙葉高等女学校、現学校法人雙葉学園校舎(1910年竣工):東京大空襲により焼失。 大日本私立衛生会会館(1911年竣工):現存せず。 宮城県営松島パークホテル(1913年竣工):1969年3月、火災により焼失。 広島県物産陳列館(1915年竣工):現在の原爆ドーム。 宮島ホテル(1917年竣工、広島):1952年8月31日、当時同建物を使用していたBCOFによる失火で焼失。 この他には、東京ステーションホテルの内装(現存せず)を手掛けたと言われる。
![]() 原爆ドーム
![]() 広島県物産陳列館(大正年間)
![]() 施工中の広島県物産陳列館
松島パークホテル、レッツェルとHoraによる設計。
![]() 雙葉高等女学校 (1910)
聖心女子学院 (1909)
![]() 聖心女子学院正門
![]() 上智大学旧1号館
![]() 3代目オリエンタルホテル 兵庫県神戸市、デ・ラランデとの共同設計
![]() 大日本私立衛生会講堂
![]() 宮島ホテル
その他原爆ドームとよく似ているといわれるプラハのヴルタヴァ川河畔にあるチェコ通産省庁舎(右の画像)は、ジョセフ・ファンタ (チェコ語版)の設計によるもので1928年施工、1932年竣工。 藤森照信『建築探偵奇想天外』によればチェコの温泉地ムシュネーにレッツェルの作品(1905年)が残っており、アール・ヌーヴォー風の壁画が描かれているという。 1991年には、NHKとチェコ放送との合作により、ドラマ「ヤン・レツル物語〜ヒロシマドームを建てた男〜」が制作された。作品内においては、アジアの果ての国に心酔するおかしな人物と周囲から見做され、手がけた建物が災害により次々と崩壊するのを目にして死んだ、悲劇的な人物として描かれている。 2024/06/23 08:28更新
|
Jan Letzel
ヤン=レツルと同じ誕生日4月9日生まれの人
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
ヤン=レツルと近い名前の人
話題のアホネイター
![ヤン=レツル](https://if2.info/geinou/logo/ヤン=レツル.gif)
最近追加された芸能人・有名人
りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ヤン=レツル」を素材として二次利用しています。