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中田瑞穂
中田 瑞穂(なかた みずほ)さんの誕生日は1893年4月24日です。島根出身の医学者のようです。
脳神経外科医、俳人などについてまとめました。現在、卒業に関する情報もありますね。
中田 瑞穂(なかだ みずほ、1893年(明治26年)4月24日 - 1975年(昭和50年)8月18日)は、日本の脳神経外科医・俳人。新潟大学名誉教授。俳号はみづほ、瑞翁、穭翁。島根県津和野町生まれ。 日本における脳神経外科学の権威で、その数々の功績から「日本脳外科の父」とも呼ばれる。 日本初の脳神経外科学講座を新潟大学に設立し、新潟大学脳研究所の設立と発展に貢献した。また、てんかんの治療法として現在も行われている大脳半球切除手術に日本で初めて成功したことでも知られる。ホトトギス派の俳人。主著に『脳手術』、『脳腫瘍』等。 1893年:島根県津和野町の生まれ 1913年:東京帝国大学医科大学入学 1917年:東京帝国大学医科大学卒業 1917年:東京帝国大学医科大学副手 1919年:東京帝国大学医科大学助手 1922年:新潟医科大学助教授兼新潟医科大学附属医学専門部教授 1925年:新潟医科大学在外研究員 1927年:新潟医科大学教授 1952年:新潟大学医学部教授兼新潟医科大学教授 1956年:新潟大学退官 名誉教授 1957年:新潟大学医学部附属脳外科研究施設長 1967年:日本学士院会員 1975年:新潟市西大畑町にて死去(享年82) 脳神経外科医東京帝国大学医科大学を卒業後直ちに同大学の近藤次繁教授の外科教室に入局し、4年間の勤務の後新潟医科大学の外科教室に助教授として赴任した。 新潟医科大学に赴任した当初の外科は外表と消化器を担当し、脳疾患を扱っていなかった。1924年から1927年のドイツ留学の際にEugen Enderlenの外科手術を見学し、同氏を後述のクッシングと共に「心の師」であると著書において述べている。ただし、他に見学した脳神経外科手術は「到底信頼の置けないもの」と述べており、1度目の視察ではあくまで外科一般の領域における影響を受けた。 後に日本で脳神経外科を発足させるきっかけになったのは、2度目の欧米視察であるといえる。1936年に米国イェール大学で脳神経外科医のハーヴェイ・ウィリアムス・クッシング(クッシング症候群の発見者)やウォルター・ダンディの手術を見学したことにより、クッシングの緻密な手術態度に感銘を受け、その手術法に共感を覚えた。クッシングの手術見学の際は、長時間の手術のために途中で次々と見学者が帰っていく中、最後の1人になっても熱心に見学を続け、クッシングはその姿を見て「肩につかまってもよいからよく見なさい」と述べた。 (なお、1932年に中田は初めて脳腫瘍(髄膜腫)の手術を行っている) 帰国後、1938年に新潟神経学研究会を発足し、第1回では「てんかんの外科的療法」と題した講演を行った(なお、この研究会には後の京都大学総長である平澤興教授も参加している)。1947年に「脳手術」を、その2年後に「脳腫瘍」を出版した。 1948年、第1回日本脳外科研究会(現在の日本脳神経外科学会)が新潟医科大学で開催された際、「前頭葉切除術乃至前頭葉白質切離術の効果の限界に就て」という題で講演を行っている(前頭葉切除術はロボトミーを指す)。1953年に第二外科学講座として脳神経外科学を独立させた。 1953年4月30日にワーレンベルグ症候群を発症。自身の症状を観察記として著し、病巣分布を推定した論文を発表した。神経内科学者の豊倉康夫(1923-2003)はこれを「未だかつて前例のない記録」と評価し、この分析をさらに解析した論文を発表している。 1955年にてんかんの治療法である大脳半球切除手術に日本で初めて成功した。 1956年に新潟大学医学部教授を退官する際、当時の医学部長であった伊藤辰治(1904-1985 神経病理学者)によって「新潟大学脳研究室」(現在の新潟大学脳研究所)が設立され、その室長となる。伊藤は病理学教室教授として、中田による脳手術の全症例の病理診断を担当していた。 研究室は設立の翌年に文部省により正式に認可され「新潟大学医学部脳外科研究施設」となる。退官後も施設長として脳神経疾患に関する研究を続け、1959年に退職。生涯で著した論文数は423に及ぶ。 俳人代表的な句(制作年順) 刻々と手術は進む深雪かな あたためよ越後の酒もわろからず 学問の静かに雪の降るは好き 東京帝国大学の学生時代から俳句に通じ、東大俳句会にも参加している。 新潟大学医学部構内にヒポクラテスの木が植樹された際、「やがて大夏木になれと植ゑらるる」の碑文を揮毫している。 新潟大学旭町キャンパスには「学問の静かに雪の降るは好き」が刻まれた句碑がある。この句碑は1992年に中田の生誕百年に伴う偲ぶ集いの賛同者により建立されたもので、書体は1968年に中田が茂野録良(第9代新潟大学学長)の教授就任に伴い贈呈した掛軸を複製したものである。 1958年に句集「刈上」を出版した。これ以来自身の俳号を「みづほ」から「穭翁」とした。(穭とは稲の刈上後に伸びる芽のこと。) 新潟医科大学には一時期、高野素十(与巳)法医学教授、及川周(仙石)衛生学教授、濱口一郎(今夜)内科学教授を含む4人のホトトギス派の俳人が在職していた(括弧内は俳号)。1929年に俳誌『まはぎ』が創刊され、みづほは雑詠の選を担当した。俳誌の命名は高浜虚子。なお、まはぎは1975年に終刊し(通算533号)、1977年に後継誌として『雪』が刊行された(発行人:渡辺信一、選者:村松紅花)。 2024/05/17 01:23更新
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nakata mizuho
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