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吉村秀雄
吉村 秀雄(よしむら ひでお)さんの誕生日は1922年10月7日です。福岡出身の技術者のようです。
九州時代、東京進出などについてまとめました。兄弟、事故、卒業、家族、結婚、父親、現在、事件に関する情報もありますね。
吉村 秀雄(よしむら ひでお、1922年10月7日 - 1995年3月29日)は、オートバイ部品・用品メーカーヨシムラジャパン創業者。オートバイチューニング技術者。英語で「おやじ」を意味する「POP(ポップ)」あるいは「ポップ吉村」の愛称でも知られる。 車両の製造・販売でなく、性能向上のための加工を行うチューニングをいち早く始め、世界で初めて集合管を開発した。大手メーカーでない事業規模の小さいプライベーターとして活躍し、1970年代当時の耐久レースで「無敵艦隊」と謳われる程の成績を収めていた本田技研工業を相手に勝利するなど、1960年代から1980年代の日本のモーターサイクル発展期において様々な実績を残し、日本人として本田宗一郎と並びAMA殿堂入りを果たした。 以降、個人としての吉村秀雄を指す場合には「吉村」と漢字表記し、ヨシムラモータース、ヨシムラ・コンペティション・モータース、ヨシムラレーシング、YOSHIMURA R&D、ヨシムラジャパンなど、企業名をさす場合には「ヨシムラ」とカタカナ表記をする。 吉村秀雄は筑紫郡那珂村で材木屋を営む父、吉村又平と母フイの間に次男として生まれた。兄、姉、弟の4人兄弟であった。祖父は樵で生計を立てていたが作業中の事故で片脚を切断し、代わって息子の又平が家計を担うこととなるが、村で唯一製材機を導入するなど、事業は繁盛していた。幼少期は二ヵ月半違いの従兄弟である斉(ひとし)と共に遊びやいたずらに明け暮れ、勉強に打ち込むようなことはなかったが成績は優秀であった。小学校高学年になると野球を始め、左利きということもあってピッチャーをつとめた。1930年代の九州では川上哲治のいた熊本工業と福岡工業が野球の名門で、吉村は福岡工業へ進学し野球を続けることを希望していた。しかし、その頃父又平は本業が疎かになるほどに発明に没頭しており、家業は傾きかけていた。700あまりの特許を取得するも大した稼ぎにはならず、家の経済状況悪化のため、吉村は福岡工業への進学を断念して高等小学校へと進学せざるをえなかった。 1936年、高等小学校の卒業が迫るころ、脊振山でフランスの飛行士アンドレ・ジャピーの操縦する飛行機が遭難する事故が発生した。小学生の頃、雑餉隈にあった九州飛行機の工場見学へ行った際に飛行機に関心を持ち、以来空への憧れを抱いていた吉村は、自宅から30キロメートルほど離れていた事故現場まで歩いて見物に向かった。この事故は野球を断念する以前の幼少期に抱いていた空への憧れを甦らせ、海軍飛行予科練習生(通称:予科練)の受験を決意させた。そして、この年の一万数千人の志願者がいた試験を無事突破し、219人の合格者の内の1人となった。 吉村の在籍していた海軍飛行予科練第八期生は、一班が15歳から16歳の少年たち、15、6名で構成されていた。その中で、14歳8ヶ月と年少の吉村にとって日々行われる体力訓練は過酷なものであったが、訓練での失敗には連帯責任が課せられるため、皆に迷惑をかけまいとこれを必死に耐えた。入隊から一年が経ち、専修過程の選別において吉村は操縦科を選択し、霞ヶ浦海軍航空隊へと移動することとなった。霞ヶ浦での操縦訓練を順調にこなしていた吉村であったが、30時間ほどの訓練を消化した頃、訓練中に搭乗した練習機、三式陸上初歩練習機のエンジンから火災が発生し、緊急離脱を強いられた。高度800メートルから離脱したがパラシュートがうまく機能せず、高度100メートルまで落下したのちにやっとパラシュートは開くが、速度が増した状態での作動に胸部を圧迫し、意識を失った。病院のベッドで意識は取り戻したが肋膜炎を起こしており、病状が安定した後の検査では結核菌が検出され、吉村は予科練を除隊となった。そして、除隊手当て700円を手に帰郷を余儀なくされた。 帰郷して2ヶ月ほど療養し、医者から結核の心配もないと診断されると、吉村は操縦士としての道は絶たれても飛行機に関わりたいと考え、福岡市、雁ノ巣飛行場にあった大日本航空福岡支所で整備士として働き始めた。しかし、当時難関であった予科練に合格した実績があるにもかかわらず、日々あてがわれる単純作業に嫌気が差した吉村は、給料の支払われない研究員となる代わりに実務訓練をつみ、独学で国家検定試験を受験して、航空機関士を目指すことを決意した。2年間勉強に専念した結果航空機関士の検定試験に合格、日華航空、満州航空などからも声がかかったが、古巣である大日本航空で航空機関士として働き続けることを選択した。航空機関士免許は9月末に発行されたが、当時年齢制限に満たない18歳であったため一度返却するよう連絡が入り、1941年10月13日、19歳の誕生日を過ぎてから免許証は再び吉村の手元に届いた。日本で398人目の当時最も若い航空機関士であった。 航空機関士として入社後は福岡から沖縄、台湾、北京、上海などを飛び回っていた吉村であったが、1941年12月8日の真珠湾攻撃を境に大日本航空は海軍徴用隊、陸軍徴用隊、大日本航空残留組に三分割され、吉村は日本でしばらく経験をつんだ後、海軍徴用隊として1942年7月にはシンガポールへ派遣されることとなった。シンガポールは比較的安定していたため、現地ではギターを弾いたり、ダンスホールに通う、ハーレーダビッドソンを乗り回すなど余裕のある生活が可能であったが、1943年2月6日、バンコクからサイゴンへの道中、前線であったクェゼリン島で弟、清之が戦死したという一報が吉村のもとに届いた。この頃から不安や恐怖を忘れるために、吉村はたびたび深酒をするようになった。1945年、戦況は悪化の一途をたどり、シンガポールにも危険が及んだため吉村は台北へと移動することとなった。ある夜、海軍参謀に呼び出された吉村は特攻機の夜間飛行を先導するという特殊任務を課せられた。銀河に搭乗し予科練を出たばかりの若者16名あまりを死地へ送り出し、弟や予科練時代の旧友の死を受け、吉村は毎晩酒に溺れるような生活を続けた。その結果、胃腫瘍で大量に吐血し、急遽胃の切除手術を受けることとなった。酒におぼれていた吉村には麻酔が効きにくくなっていたため、ベッドに手足を縛りつけた状態で手術は行われ、胃の3分の2を切除することになった。同期の予科練第八期生219名中、189名は戦死。こうして終戦を迎えた。 終戦直後、シンガポールで暮らしていた吉村は英語が堪能であったため、吉村の周囲には進駐軍のアメリカ兵達が集まるようになっていた。最初のうちは母国にいる家族への土産物などを探して欲しいという注文を受け、それに応えていたが、次第に彼らの要求はウイスキーなどのアルコールへと変わっていった。金銭の代わりに食べ物を要求すると、米兵は軍支給品の缶詰やバター、砂糖、煙草といったものを持ち込み、吉村はこれを闇市で売りさばくことにより多くの利益を得た。吉村は戦時中に結婚しており、妻である直江などは手を引くよう再三忠告するもこれを聞き入れずに闇取引を続けた結果、1946年の年明け間もない頃、吉村のもとにミリタリーポリスが現れた。逮捕された時点で自宅には4tトラック3台分に相当する闇物資が蓄えられていたため、言い逃れはできなかった。1ヵ月ほど留置所で生活した後で釈放はされたが、軍事裁判にかけられ、懲役1年6ヶ月の実刑判決が言い渡された。ちょうどその頃、1946年4月には長女、南海子が誕生していた。日米間に講和条約が結ばれれば刑罰が消滅するため、吉村は入院することによって医師の診断書を手に入れ、家業を行いながら講和条約の締結を待った。しかし講和条約はなかなか締結されなかった。結局まじめに刑期を勤めれば3分の1の期間で出所できるため、吉村は1949年の春、福岡刑務所に入所した。 九州時代予定通りに6ヶ月の刑期を勤め終えると吉村は家業へと復帰した。その頃の吉村家は木工所から鉄工所へと事業転換をしており、両親、兄家族、姉家族と吉村の家族の一族総出で炭鉱で用いられるベルトコンベアの継手などの製造を行っていた。1952年、日本航空が業務を再開すると、吉村の下へも復職の声がかかった。飛行機に未練があった吉村ではあったが、今自分が抜けては実家の家業が立ち行かなくなると考え、鉄工所から離れることはできなかった。この頃の吉村は事業は順調であったものの、空虚感を拭いきれずに没頭できるものを求め花札博打にのめり込んでおり、正月ともなると数人の男を呼んでは数日間博打に興じ続けるという状態であった。 しばらくすると吉村のもとには米兵たちが再び集まるようになっていった。今度は酒などを調達するためではなく、航空機の整備に携わっていた吉村の技術力を見込んで、自分たちのオートバイの修理を頼むためであった。シンガポール駐在時にハーレーダビッドソンに乗っていた経験があり、事業の移動手段としてみづほ自動車製作所のキャブトンを利用していた吉村は、国内の炭鉱が次々と閉鎖に追い込まれていく状況を受け、1954年、雑餉隈の工場の片隅でオートバイ屋を始めることにした。吉村の物怖じしない言動と面倒見のよさは客であるアメリカ人達の心をつかみ、評判が広まるにつれて訪れる米兵の数も増えてゆき、まるで本物の父親のように「POP(おやじ)」と呼ばれ、慕われるようになっていった。 開業して2年が経った頃、1人の米兵が板付基地の補助滑走路で開催されていたゼロヨンのレースに吉村を誘った。キャブトン600で参加した吉村は久しぶりに味わう真剣勝負に魅了され、どうすれば速く走れるのか、エンジンの性能をどう上げられるのかと試行錯誤を始めた。そんな中、代理店業務を行っていたバルコム・モータース、山田次郎の「カムシャフトのベース円を削るとバルブのリフト量が増える」という言葉を受け、愛車BSAゴールデンフラッシュのカムシャフトに加工を施し、テストを繰り返してはドラッグレースに参加するようになっていった。吉村のマシンはゼロヨンで11秒台を記録し、他のマシンより1秒から2秒は速く、強さは圧倒的であった。また、吉村はレースのみならず、KTA(九州タイミング・アソシエーション)というオートバイの組織運営にも協力し、米兵と日本人との親善交流やレースの運営も務めた。安全運転講習を行うなど地域社会に対する貢献が評価され、板付基地の司令官から表彰されることもあった。 1955年、全日本オートバイ耐久ロードレースが初開催。1958年、アマチュアライダーを対象にした全日本モーターサイクル・クラブマンロードレースが初開催。1961年、ホンダがロードレース世界選手権125cc・250cc両クラス制覇。1962年、日本で初めて本格的なサーキットである鈴鹿サーキットが完成と、モータースポーツに対する関心が年々高まる中、「速いマシンを作る男が九州にいる」という評判が広まると、吉村のもとには多くの人が集まりだした。後に2輪と4輪のレースで活躍する高武富久美や永松邦臣もその1人であった。なお、この頃吉村は全日本モーターサイクルクラブマンレースを九州で開催するため、同協会で理事を務める酒井文人へ直訴を行うなど誘致に尽力し、1962年には第5回大会を雁ノ巣で開催することに成功した。地元で開催されるにあたり吉村本人もBSA・650ゴールデンフラッシュで参加し、トップを快走するものの6周目に転倒。脳震とうを起こし、これ以後ライダーとしてはロードレースから身を引くこととなった。 ヨシムラモータースは全日本モーターサイクル・クラブマンロードレースに参戦し、各地で好成績を納めたものの、この頃には進駐軍が板付基地からの撤退を決定。ホームであった板付基地や雁ノ巣飛行場でのレース活動が下火になっていくことは目に見えていたため、何らかの対応が必要であった。吉村には2つの考えがあり、1つはこのまま日本のロードレースの発展と共に活動拠点を東京へ移すこと。立川基地や横田基地には懇意にしていた多くの米兵たちが板付基地から転属になっていたため、当面の仕事に事欠かないという考えもあった。もう1つはアメリカへ帰国していった米兵たちの要望に応えて共にアメリカでレース活動を行うことであった。 結局、吉村は日本でやり残した事がまだあると判断し、ひとまずアメリカ進出を先送りし、東京へ進出することを決定。九州での活動の総決算として1964年に開催されたMFJ鈴鹿18時間耐久レースへ参加することを決めた。出場マシンはホンダ・CB72・CB77・登録ライダーはCB72が高武富久美・倉留福生・渡辺親雄。CB77は松本明・青木一夫・安部田宏一であった。予選走行中にCB77に乗る安部田が転倒を喫しマシンが大破、マシンの修復と緒方政治へライダーを変更するなどトラブルに見舞われはしたもののレースではホンダやヤマハを相手に互角に渡り合った。高武・倉留・渡辺組は終了およそ2時間前までトップを快走していたもののバルブコッターが破損しリタイア。しかし、トップを争っていたホンダもエンジントラブルに見舞われそのままリタイアし、優勝は松本・青木・安部田組が手にすることとなった。 こうして着実に実績を積んでいく吉村の評価は不動のものとなり、仕事の依頼も増えていった。クラブマンロードレース誘致の際に掛け合った酒井文人からはチューニングに関する記事の執筆を依頼され、吉村はこれを快諾し『月刊モーターサイクリスト』誌の1965年2月号から4月号に「私のチューニングアップ」という記事が掲載された。また、1967年4月号から8月号には「四サイクルのチューニング - CBチューニング」という連載記事が掲載され、これらの連載はチューニングという行為が一般的でなかった時代に大きな反響を呼び、CB72開発陣も参考にするほどの傑出した内容であった。 そして、鈴鹿18時間耐久レースで競い合ったホンダからは、翌年新設される市販車ベースによるジュニア・クラスでのマシンの開発の依頼が届いた。当時のホンダは1962年には四輪の開発を開始し、1964年からのF1参戦を発表、WGPでは有力チームとして確たる地位を得ていたが、市販車ベースのレースにまで手が回らなかった。吉村はこの依頼を引き受け、高武富久美や和田将宏の所属するテクニカル・スポーツを担当することとなった。ホンダは依頼にあたり、当時のグランプリマシン開発の拠点であった「GPガレージ」を吉村に対して開放したことからも、その評価と信頼の高さがうかがえた。 その後、高武は1966年にMFJ全日本250ccチャンピオンに輝き、レーシングチーム「チーム高武」を主催した。そして、同チームは1990年代以後玉田誠や宇川徹、加藤大治郎などロードレース世界選手権で活躍するライダーを輩出した。高武は吉村に対して以下のように語っている。 東京進出1965年4月、ヨシムラモータースは東京都西多摩郡福生町(現在の福生市)に移転し、ヨシムラ・コンペティション・モータースと名称を改めた。福生の工場は横田基地のすぐそばにあり、1階に15坪ほどの作業スペースと2階に6畳と4畳の居住スペースをもつ、風呂無し共同トイレの小さな建物であった。1965年シーズンを順調にこなしていくと、10月にロードレース世界選手権、日本グランプリと併せて開催されていた第3回ジュニアロードレース大会で快走する和田将宏の走りが、日本グランプリを視察に訪れていた本田宗一郎の目に留まった。自陣営のマシンより速い吉村のマシンに驚いた本田宗一郎は研究所で一度マシンを計測させてもらうよう、現場の人間に指示した。和光研究所にマシンは移送され、シャシダイナモにかけてみると、ノーマルエンジンが24ps、ホンダワークスのエンジンが27psを発揮するところ、吉村の手がけたそのCB72のエンジンは32.7psを発揮していた。この性能の高さには息をのむ者もいたが、ワークスチームが手掛けたマシンがプライベーターに圧倒されているという不甲斐なさを本田宗一郎はワークスチームに対し厳しく叱責した。このような事件から、ホンダ内部には吉村に対して疎ましく感じるものが現れ、そのせいで十分なバックアップが得られない事態になっていった。レースで結果を出すほどにバックアップが得られなくなる不可解さに吉村は本田宗一郎への直談判を決意。自ら和光研究所へ赴き、初めて本田宗一郎と会うことになった。吉村が円滑な部品供給が図られるよう頼むと、そのような事態に陥ってる事を知った本田宗一郎は再び激怒。しかし、吉村に対して一度敵対心を抱いたホンダ内の一部の人間との軋轢は容易には解消せず、1966年にはRSC(Racing Service Center)を設立し、モータースポーツでのカスタマーサービスを一元管理する方針がとられた事や、鈴鹿サーキットと富士スピードウェイの間でのレース開催の誘致合戦、富士での30度バンクにおける安全性の欠陥を理由とするホンダ勢によるボイコットと、それに対する和田将宏の造反行為など、様々な要素が複雑に重なりあい、一時はヨシムラへの部品供給停止、和田のカワサキへの移籍というところまで事態は悪化した。 船橋サーキットや富士スピードウェイなどの幅員の大きい四輪のモータースポーツ開催に適したサーキットが関東圏に完成し四輪レースの人気が高まると、東京に進出した吉村の下には四輪のエンジンに関する依頼も増えていった。九州で活動していた時期にも鈴鹿サーキットでGT1クラスにエントリーしていた永松邦臣にカムシャフトを作るようなことはあったが、一般のユーザーを相手に四輪の仕事を引き受けることはまだ無かった。そうした中には寺田陽次郎や舘信秀、鮒子田寛といった有力ドライバー達が含まれており、四輪のチューニングに対してとくに違和感やこだわりを持たなかった吉村は依頼を了承し、1966年5月3日に富士スピードウェイで行われた第3回日本グランプリ、T-Iクラスで見崎清志が優勝したことを皮切りに、吉村の手掛けたマシンはT-IクラスやGT-Iクラスで脚光を浴びるようになった。 自動車のチューニングも手掛けるようになると福生市の工場では手狭になってきたため、ヨシムラ・コンペティション・モータースは東京都秋川市へ移転することとなった。新工場は30坪ほどの大きさに従業員用の宿舎を備え、シャーシダイナモも導入されたことにより作業環境は向上した。この頃のヨシムラには松浦賢や、後に長女・南海子の夫となる森脇護といった面々が加わり、長男・不二雄も高校を卒業するなり上京し、共に働き始めた。 順調に戦績を重ねる森脇護は1969年のセニアクラスで3位に入賞し、上位入賞者が辞退したことから、翌年のシンガポールグランプリへの海外招待を獲得した。ヨシムラにとっては初の海外遠征であり、こうして吉村は戦時中を過ごしたシンガポールを再び訪れることとなった。レース車両の運搬は現地のホンダ代理店である文秀有限公司を通して行われ、出発する直前に吉村は偶然にも鈴鹿サーキットのレストランで本田宗一郎と居合わせた。吉村は「今度シンガポールに行くことになりました。」と挨拶をすると本田は「向こうの店はちゃんとしておくから心配するな。」と伝え、そして「向こうに行ったら女は怖いぞ。気をつけろ。」と笑顔で吉村一行を送り出した。レースは予選ではトップだったものの、本戦では燃料タンクの容量に関するレギュレーションの誤解からピットインを余儀なくされ、2位に終わった。 この頃にはRSC内部で吉村に対して理解を示していた木村昌夫による尽力や、RSCの人事異動などもあり、ホンダとの関係は概ね修復され、バックアップも再び得られるようになっていた。1971年にはRSCとヨシムラが共同でマシンを開発し、高武富久美と菅原義正の体制で臨んだ全日本富士1000kmレースではホンダ・H1300がクラス優勝を果たした。この時のヨシムラとホンダとの関係をRSCに勤めていた木村昌夫は以下のように語っている。 1960年代後半から1970年代前半にかけてレースにおいて2ストロークエンジンを搭載したオートバイの躍進により、4ストロークエンジンを搭載した車両は徐々に劣勢に立たされつつあった。そのため、吉村が2ストロークエンジンに関心を示さなかった事もあり、当時のヨシムラの引き受ける仕事は四輪の比重が増していた。 吉村が初めてCB750Fourを見たのは、ホンダ和光工場に勤める太田耕治から、自身の所有する車両のカムシャフト製作を依頼された時であった。当時日本国内ではまだ正規発売は開始されていなかったものの、ホンダ社内のオートバイチームにはCB750Fourでレースに参加する者が少なくなく、なかでも朝霞研究所内チームの「ブルーヘルメット」に所属する隅谷守男と菱木哲哉は1969年の「鈴鹿10時間耐久レース」にCB750Fourでエントリーし、1-2フィニッシュを飾るなど市販に先立って活躍していた。同様に太田もCB750Fourで出場するために福生時代から懇意にしていた吉村にチューニングを依頼したのだった。 ホンダは1970年のデイトナ200(英語版)にCB750Fourで参戦し、ディック・マン(英語版)のライディングで優勝を果たしていたが、翌年の参加は見合わせていた。そのような状況で、アメリカでの販売戦略としてレースでの実績を求めたロン・クラウスは、板付基地時代に吉村の世話になっていた米兵から吉村の話を聞き、独自に吉村のチューニングしたマシンでデイトナ200マイルに参加することを考え、吉村にマシンの製作を依頼した。当時JAFによる四輪レギュレーションがプライベーターにとって不利なものに変更されたため、四輪から二輪へ立ち戻ることを検討していた吉村はこの依頼を快諾し、東京へ移転する前に考えていたアメリカ進出を本格的に検討し始めた。 デイトナへ送り込まれたヨシムラのCB750Fourはノーマルの67psに対し97psを発揮し、ゲイリー・フィッシャーのライディングで10周にわたってマイク・ヘイルウッドやディック・マンの駆るマシンを押しのけトップを快走した。しかし、途中でカムチェーンが破断したことによりリタイアを喫した。優勝はBSAへ移籍した前年度王者のディック・マンだった。優勝は逃したもののアメリカでの知名度を得ることには成功し、特にCB750Fourのカムシャフトやピストンの注文は生産が追いつかないほどに増加した。ロン・クラウスからの評価も上々で、ヨシムラ・チューンのCB750Fourはアメリカでのレースに引き続き参戦することが決定し、整備士に吉村不二雄、ライダーに森脇護を送り込んだ。 2024/05/16 07:13更新
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