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増田章の情報 (ますだあきら)
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【5月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

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増田 章さんについて調べます

■名前・氏名
増田 章
(ますだ あきら)
■職業
格闘家
空手
■増田章の誕生日・生年月日
1962年5月22日 (年齢62歳)
寅年(とら年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
石川出身

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増田章と関係のある人

アンディ=フグ: 空手時代のライバルであった増田章は「踵落しよりも下段回し蹴りが強烈だった。


松井章圭: 決勝の相手は増田章


緑健児: (決勝) 増田章 ○ 延長2 体重測定


緑健児: 1991年の第5回全世界空手道選手権大会では、身長165cm、体重約70kgという体格ながら、体重無差別のトーナメントで黒澤浩樹、増田章ら強豪選手を破って優勝し、小さな巨人と賞賛された。


数見肇: 2日目の3回戦で増田章と対戦。


緑健児: (決勝) 増田章 ● 延長2 0-5 技▲


アンディ=フグ: その後、ヨーロッパ最強の男ミッシェル・ウェーデル、松井章圭、増田章のライバルとして活躍するなど若くして頭角を現した。


緑健児: (準々決勝) 増田章 ● 0-5 技1


増田章

もしもしロボ

増田 章(ますだ あきら)さんの誕生日は1962年5月22日です。石川出身の格闘家
空手のようです。

もしもしロボ

来歴、組手スタイルなどについてまとめました。引退、事故、テレビ、現在に関する情報もありますね。増田章の現在の年齢は62歳のようです。

増田 章(ますだ あきら、1962年(昭和37年)5月22日 - )は、日本の武道家。石川県金沢市出身。NPO法人国際武道人育英会理事長、IBMA極真会館増田道場主席師範。 フリースタイルカラテ拓真道(タクシンドー)の創始者。段位は八段だったが、段位を授与する立場の人間として自らの段位は必要ないと考えて八段位を返納した、と宣言している。

1980年代から1990年代前半に極真会館が主催するオープントーナメント全日本空手道選手権大会とオープントーナメント全世界空手道選手権大会で活躍した空手選手である。瞬発力を生かした爆発的な攻撃力と選手生命も長く、一時代を築いた強豪であった。学年が同級になる松井章圭・黒澤浩樹と共に三強ともいわれた。「組手の天才児」「城西の爆撃機」とも呼ばれ、師匠の一人である山田雅稔も増田を「天才的なので細かいチェックをするだけ」と語るほど、天分に恵まれていた。

その反面、悲運な判定負けを多くしたことで一時期、「無冠の帝王」とも呼ばれていたが、後述の通り全日本選手権で優勝したことで「孤高の帝王」という異名に変わり、また、年月が経つごとに殴打技、蹴り技とオールラウンドに使いこなすようになったことで外国人選手から「Over-all excellent fighter(全面的に優秀な選手)」と呼ばれていた。全世界選手権には日本人では最多記録の4度出場している。

来歴

石川県金沢市出身。小・中学生時代に和道流空手を学ぶ。星稜高校では柔道部に入部するが、後に転校し陸上部に属する。1978年(昭和53年)、高校在学中に浜井識安が管轄する極真会館石川支部へ入門。浜井は入門当時の増田を「気の強さ・天性のバネ・スピード・身体全体から漂う狂気を孕んだ雰囲気など、どれをとっても一級品の風格があった」と観察していた。先輩には水口敏夫がいた。北信越空手道選手権大会など地方大会に出場しながら、オープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場を目指す。

第14回全日本選手権後、大学進学を断念した増田は、浜井識安に1年間の契約で当時、浜井が開設した岸和田市にあった大阪南支部の師範代を務めた。この時大西靖人と一緒にトレーニングを積み、大西が得意としていた奥足の下段回し蹴りの攻撃を見て、防御の仕方を研究したりと自分が奥足の下段回し蹴りを使いこなせるよう練習したり、ウエイトトレーニングにも本格的に取り組み、練習を重ねていた。

その後、周囲は増田の才能を惜しんだが、増田は選手を引退する事を決意。写真を学ぶために上京した。とはいうものの完全に空手を止めたのではないので、山田雅稔が管轄する東京都下城西支部へ移籍して、選手としてではなく、空手を続けながら写真の専門学校に通った。増田は写真学校で学んだ事で自分の浅薄な考えや性急な性格の再確認をしただけでなく、思考の柔軟性を持つ事ができるようになったという。

1984年(昭和59年)第16回オープントーナメント全日本空手道選手権大会には参戦せず、カメラマンとして会場にいた増田は、ファインダーを通して選手が懸命に戦う姿を見て、「空手も芸術の一つではないか」と捉えながら、試合をしたいという欲求も出ていた。写真の専門学校は最後まで通うが、競技に復帰する事を決意し、翌年の第17回全日本選手権に備え、練習を再開した。首都圏交流試合に参加して試合勘を取り戻すなど、専門学校に通う傍ら、少ない練習時間を有効に使って調整していた。

1986年(昭和61年)は石神井に東京都下城西支部の分支部を開設し、選手と道場主を兼務するようになっていた。第18回全日本選手権の直前に増田は、交通事故で右手首を負傷してしまう。テーピングをして参戦したが、幸いな事に殆どの対戦相手が増田の怪我に気付いていなかった。増田は初日の1回戦を左上段回し蹴りで一本勝ち、2回戦を前蹴りと下段回し蹴りで合わせ一本勝ちして終えた。2日目は決勝まで5試合しなくてはならない。増田自身は手負いの状態だったので一瞬でも気を緩めたら、負けると思い、異常な集中力を喚起していたという。準々決勝では七戸康博、準決勝では小井義和と共に100キログラム前後の体格を持った両名を本戦でそれぞれ判定勝ちして初の決勝進出を果たした。相手は松井章圭と3度目の対戦となった。本戦で増田は勝ったと思ったが判定は引き分けであった。呆然としたまま、延長戦に入り、松井の左上段回し蹴りを顔面にヒットされた。増田は正気に戻り、再び攻めるが一進一退のまま、試合が終了。顔面にヒットされた事が決め手となり、5対0の判定負けで準優勝に終わった。それでも翌年のオープントーナメント全世界空手道選手権大会の代表に選出された。

1987年(昭和62年)は、オープントーナメント全日本空手道選手権大会は開催されず、第4回オープントーナメント全世界空手道選手権大会と兼務扱いになっていた。

増田は表向き「ライバルはいない」と公言したが、その一方で松井章圭の対戦相手の情報収集、特に弱点探しの上手さに感心していた。松井の合わせ技は、カウンターに類似していて、特に相手がフェイントもなく普通に構えた後ろ足(奥足)の手の正拳突き、奥足からの上中下段蹴り、大技(後ろ回し蹴り・後ろ蹴り・かかと落としなど)を出してきたときに、小さい攻撃(構えたときの前足で軸足を刈るように蹴ったり、押すような前蹴り、前足と同じ側の手で順突きなど)で相手の攻撃が自分に届く前に当てるもので、ボクシングのカウンターほど、KOを意識したものではなく、バランスを崩すのを目的とした技である。増田は松井が使用する下段回し蹴り対策に、蹴り足の膝で相手の合わせ下段回し蹴りを押さえるようにして蹴る事を身につけていた。さらに前傾気味に体重をかけ、相手に倒されないように蹴ることも考え、会得していた。松井を意識したトレーニングと練習は、体の硬い増田を上段回し蹴りの使い手に変え、松井の得意技であった合わせ下段回し蹴りをも、増田の得意技とした。後年、増田は松井をはじめとした強豪と戦うことで相手の良さを吸収していた事が自分をいかに成長させたか、そのような存在こそ『ライバル』という事を認め、今では彼らに感謝しているという。

同年11月全世界選手権が開催され、4回戦にジェラルド・ゴルドーと対戦。ゴルドーは身長196センチメートルの巨漢でオランダではミッシェル・ウェーデルに次ぐ実力者であった。全世界選手権での入賞経験はないが、間違いなく上位入賞できる実力を持っていると増田はみていた。ゴルドーとの対戦は延長2回で、増田が勝利を得たが大変な試合であった。ウェーデル同様ゴルドーも突きの威力が日本人とは比較にならないほど強烈で特に左の突きは強かった。しかも懐が深く攻撃を当てづらい。ゴルドーはウェーデルと違い、若干間合いをとるような戦い方をした。増田は相手の間合いで戦えば不利だと考え、序盤から積極的に攻めた。速攻により本戦で決めてしまおうと思っていた。早く決着をつけたい増田のあせりは、ゴルドーとの戦いを力と力のぶつかり合いともいえるラフファイトにした。ゴルドーには、ウェーデルと増田の試合が脳裏に合ったに違いない。増田は彼が自分の力をかなり警戒していたので、それが自分に有利に働いたと思っていた。その一方で増田は自分が無名の選手でゴルドーの全盛期にヨーロッパで対戦したら、自分が勝てたかどうかどうかわからないとも思っていた。選手権大会後、ゴルドーは増田に敬意を抱いた。ゴルドーは後に極真会館を離れ、キックボクシングの選手を育成するようになっていたが、教え子を連れて来日した時には必ず増田の所に訪問してくれた。増田にとってウェーデル同様、対戦相手が自分の所にやってきてくれるのは彼にとって、とてもうれしい事だった。

続く5回戦ではアンゴラ代表のジェフリー・セベクルと対戦した。セベクルは変則的な蹴りを使った。普通に蹴ってくるかと思うとその蹴りが寸前で止まり、フェイントが入り、タイミングを外して蹴りを出していた。セベクルは自分の蹴りを相手の頭部寸前で、自分の手を使って押さえていたのだ。そこからタイミングを見計らってその手を外して蹴ってくるのである。実にユニークな戦法だが、事前に情報収集をしていた増田は合わせ下段回し蹴りを使うなど、相手の蹴りを一発も貰わず、本戦で増田が勝利した。準々決勝では七戸康博と延長2回の末、体重と試割り共に増田が上回っていたので、増田が準決勝に上がった。

準決勝では優勝候補の一人であったブラジルのアデミール・ダ・コスタを破ったアンディ・フグとの対戦。アンディはそれまであまり効果的な技でないと思われていたかかと落としを革新的に実用化し、破竹の勢いで勝ちあがってきた。前回の全世界選手権でウェーデルと激闘を経験した事から、アンディを軽く見ていた増田は、その考えが大変な後悔を生む事になったと吐露している。本戦ではラッシュ攻撃で場外に出し、勝ったと思われたが引き分けにされてしまう。テレビ解説をしていた盧山初雄は「今大会はよほどの差がない限り、判定は引き分けにされてしまう。大山総裁が『ホームタウンデシジョンをなくし、外国人にも平等にする事』と訓示した事が、それまでの全日本選手権とは違った判定基準になってしまっている」という状況の為、一本か技ありを取らない限り、対外国人選手との対戦が判定で勝つ事が困難になっていた。

第20回オープントーナメント全日本空手道選手権大会にも出場したが、4回戦を本戦で旗が2本増田に上がったが、引き分けにされ体重判定迄もつれ込み、敗退してしまう。増田自身も調子が良くなかった事は認めているが、微妙な判定であった事は事実である。増田はメンタル・トレーニングもやり始め、今の局面から打開を図ろうと試みだした。

1989年(平成元年)、モチベーションの探求、練習方法もマンネリ化していたので、新たにボクシングやキックボクシングの練習も取り入れた。また、モチベーションの強化の一環として選手権大会に臨むにあたり、テーマを定める事にした。第21回全日本選手権では「闘志」をテーマにした。勝ち残る為の高い集中力を維持するには「闘志」が必要だと考えたのである。このテーマで練習を再開していた。第21回全日本選手権の組み合わせを見て、増田は驚いた。増田のブロックには重量級のチャンピオンクラスがひしめいていたのである。外舘慎一を延長2回、七戸康博を延長3回戦い、それぞれを体重判定で破った。増田は自分より大柄な体格の相手にも力対力の戦いを挑んだ。本選手権大会は「闘争心の喚起」をテーマとしていたからだ。城南支部の坂本恵義には下段回し蹴りで一本勝ちするなど、戦いにはいつもと変わらぬスピードと破壊力が備わっていた。

第22回オープントーナメント全日本空手道選手権大会は12月に開催され、増田はそれまで「必ず勝つ」「一本を取る」と考えていたのに対して、今回は「防御を固め、着実に相手を攻めれば勝機が訪れる」という慎重な心構えに変わっていた。延長戦でもいいから僅差でも勝とうという意識に変わっており、周囲は「増田は不調だ」「もう選手としてのピークは過ぎた」という声が囁かれていた。しかし、2日目から徐々にペースを上げていき、4回戦では城南支部の木浪利紀を下段回し蹴りで合わせ一本勝ち、準々決勝では白蓮会館の南豪宏、準決勝では外舘慎一をそれぞれ延長2回で試割り判定で破り、決勝に進出した。

相手は緑健児であった。前蹴りから得意の上段回し蹴りへと繋いでいく緑に対して、増田は対戦相手の足をことごとく破壊した、下段回し蹴りを連打していく。緑はフットワークを使って距離をとろうとするが、増田は体ごと押すように前進し、緑の大技の間合いをとらせない。増田は緑のスピードあるヒット・アンド・アウェイを封じないと勝ち目はなく、延長2回までもつれると、体重差で負けてしまう。試合はまさに一進一退。増田が前に出て下段回し蹴り、下突きを連打すれば、緑も上段回し蹴り、突きのラッシュで押し返す。延長1回は増田が左下突きの連打でリードしたかに見えたが、終盤に緑も突きのラッシュで挽回し、引き分け。続く2度目の延長戦、増田がここでポイントを奪わなければ、体重・試割り共に緑が有利な為、勝利はない。ここで緑の中段突き連打を下がって避けた増田は、練習をしていたというカウンターの右上段回し蹴りを緑にヒットさせた。緑がバランスを崩したところ、増田はすかさず「決め」の動作を取った事で技ありになった。この後、緑は胴回し回転蹴りなどで反撃したが増田はブロックして決めさせない。そのまま試合は終了し、判定5対0で念願の初優勝を遂げた。増田は「夢を最後まで信じて良かった」と喜びを語った。

優勝後、チャンピオンとしての責任、立場を感じていた。そんな時、浜井識安が再び百人組手をやってみないかと言ってきた。一度はやる意義が見い出せなくて断ったが、原点に還ろうと考えていた時に百人組手の修行が最適ではないかと考え直し、増田は行う事に決めた。約3か月の準備期間を経て、1991年(平成3年)5月19日15時30分から始まった。総本部で行う百人組手で支部からの挑戦者は増田が初めてであった。公明正大を期するために対戦相手も同門の城西支部の門下生は全員除外された。開始前に大山倍達は「対戦者は真剣に戦え。全日本チャンピオンに一本勝ちしたら、次の昇段の時の得点にします」と対戦者に発破をかけた。この修行を一目見ようと遠く北海道や関西からも応援の見学者が駆けつけた。1人2分、50人目終了時に20分休憩を取る事で、開始した。

増田は20人目終了時点で所要時間29分と、それまでの挑戦者たちよりも遥かに早いペースで進み、圧倒的な強さを誇示する。技も突き技・蹴り技どちらかに偏らずバランス良くバラエティに技を繰り出し、一本(合わせ一本含む)勝ちを重ねていく。大山が思わず「挑戦者はもっと気合を入れて!! ダンスを踊っているのか!」と活を入れるほど、増田の強さが光っていた。大山は「強いな、増田は。だが、これからがヤマだ」とつぶやいた。ハイペースで進んでいた百人組手が45人目のアジア選手権(1990年)王者の阿部清文と引き分けしたあたりから、ペースも下がり、引き分けが増えてきた。

91人目に入り、残り10人。全身の痛みに耐えながら相手に必死に打ち返す。時には打ち返せず、相手の攻撃に防御に必死になる状況もあった。95人目では後退しながらも左右の回し蹴りを必死の形相で連発する。残り3人になって大山が増田に「あと3人だ!!」と大声を発した。99人目に相手の前蹴りが金的に入り、プロテクターを付けていなかった増田は仰向けになり、断末魔のような呻き声を上げて悶絶した。介抱されて立ち上がった増田に道場内には「マスダ、マスダ」のコールが鳴り止まない。見学者の中には涙を流している者もいた。100人目は石川支部時代の先輩である水口敏夫が相手をした。18時53分、百人組手は達成。増田は「自分の弱さをつくづく感じた。限界に挑戦しようと大それた事を考えたが、それはできなかった。達成できたのは周囲が励ましてくれたお陰です。本当に皆さんに感謝しています。ただ単に、身体を動かすだけの持久力なら残っているみたいだけど、全身打撲のような状態で痛みがひどく、技が出ない・・・」と語った。

百人組手を完遂したものの、全身打撲の対処のために近くの大学病院で点滴を頼んだが、断られた。当日、何もケアができず翌日、血液検査で別の病院に行ったら、腎機能に異常がある事がわかり、緊急入院。猛烈な吐き気にも襲われ、再度血液検査を行った結果、急性腎不全と診断され、人工透析の可能性も示唆された。一度、人工透析を行うと一生行う事になるので増田はそれだけではどうしても避けたかった。2日間点滴を続けた結果、腎臓の数値に回復の兆しが見え、人工透析をせず、治療を続ける事となった。1か月間入院する事になると言われたが、半年後に第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会も控えており、寝たきり状態が1か月続くと身体機能が平均30%落ちることから、無理して増田は退院した。

退院後1か月は自宅療養であった。立ちくらみをし、歩く事もできず、体重は10キログラムも落ちていた。焦りの気持ちもあったが、何とか身体を戻す事だけを考え、日々過ごしていた。百人組手後、2か月間は練習をできなかった。そのうち1か月は寝たきり状態である。途中、日本代表の合宿にも本意ではないが、参加した。体調が回復していなかったが、普段マイペースの増田にも年齢と共に責任感が出てきていた事や「お前が全日本チームの主将なんだぞ」と言われた事により、無理をして参加した。選手権大会直前までには体調は回復していたが、血液検査ではヘモグロビン量が普段より2割減少しているといわれ、それが少ないという事はスタミナに影響する事であった。対戦相手とのシミュレーションをイメージトレーニングして、稽古不足のカバーにすることで、全世界選手権へ臨んだ。

1991年(平成3年)11月2日の初日、朝食を戻しそうになり飲み込んで試合に臨んだが、今までとは違い1回戦から強豪と当たらなかったので、無事勝ちあがれた。2日目の3回戦にイランのダグーラミ・モーセンと戦っている最中にモーセンが頭を下げて前へ詰めて来るのでバッティングを受け、目の上が切れてしまったが、医者にテーピングを施してもらった後、試合再開。モーセンはあいも変わらず増田に突っ込んでいったが、増田は相手の攻撃を捌き、突き・蹴りを返していた。バッティングの減点と試合内容から判定は増田の勝ちとなった。

3日目は4回戦に第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会で三瓶啓二の肋骨を骨折させた正拳突きを持つオーストラリアのマイケル・ヤングと対戦。ヤングは突き、右の掛け蹴りで攻めてきたが増田はそれらを捌き、右中段回し蹴りから突き、左上段回し蹴りを顔面に入れ、逆襲。増田が間合いを取り直して右中段回し蹴りを出し、一本勝ちした。5回戦ではニュージーランドチャンピオンのステファン・タキワと対決。タキワは突きと下段回し蹴りで突進してきたが、増田は左上段回し蹴りから、突きから左中段回し蹴りを多用し、技ありを奪った。その後も左中段回し蹴りから突きにつないで技ありで、合わせ一本勝ちをした。ベスト8に進出し、準々決勝では石井豊を5対0の判定で降し、ベスト4に進出。準決勝ではカナダのジャン・リビエールと戦う。延長2回までもつれ込んだが、増田はフットワークを使い、間合いを一定にせず、ヒット・アンド・アウェイでリビエールを攻めた。増田は右中段回し蹴りで腹部を攻め、左上段回し蹴りや右上段後ろ回し蹴りを顔面に入れたり、フェイントから正拳突きをみぞおちに決め、リビエールの動きが止まるなど、終始自分のペースで試合を進めた結果、判定は1対0ながら、体重差40キログラムで増田が勝ち、決勝に進出した。

決勝の相手は前年と同じ緑健児との再戦となった。増田の下突きラッシュに緑が素早いフットワークを駆使して蹴り、下突きを返した本戦。互いの上段回し蹴りが激しく交錯した延長1回。2回目に入って上段、下段の回し蹴りで攻める増田に緑は右中段回し蹴り、下突きを放つ。激しい死闘2分間の終了を告げる太鼓が鳴り、体重判定15キログラム差で緑の勝利となり、増田は惜敗して準優勝で第5回全世界選手権を終えた。

1992年(平成4年)、増田は第24回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に参戦していた。トレーナーの岡田稔は増田から「このままでは終われない」と聞かされながら、練習のサポートをしてきていた。初日は無難に勝ち進み、2日目の3回戦でまだ20歳だった数見肇と対戦。この頃の数見は同年FTV杯東北大会で優勝をしてはいたものの、全く注目されておらず。増田もノーマークだった。ところが延長2回までもつれ込むほどの激戦となる。増田は数見に突きを効かせていたが 、それ以外では互角の戦いを展開し、試割り判定で増田に勝つ大金星を上げた。増田は「こんなに強いんだったら、もっと研究をしておくべきだった」と悔恨の情をあらわした。数見はその勢いで他の歴代オープントーナメント全世界空手道選手権大会代表を撃破していった。4回戦では三明広幸、準々決勝で石井豊、準決勝で七戸康博らを破り、数見は決勝迄進出した。この活躍で数見は「超新星」と呼ばれた。

その後、増田は練習は続けていたのだが、選手権大会直前にケガをしたりしたので、第25・26回全日本選手権には無理せず欠場し、第6回全世界選手権出場を目論んでいた。しかし、極真会館は大山倍達の死後、わずか1年で組織が分裂する騒動が勃発する。増田は大山派(大山智弥子館長)が主催する全世界選手権に推薦で出場した。準々決勝に進み、塚本徳臣と対戦。再延長の末、判定4対0で敗退した。「完敗です」と増田は一言だけだった。最後のチャンスに賭けていた増田だが、一連の分裂騒動で政治活動もしていたので、コンディションを整える事は容易な事ではなかった。塚本は183センチメートル、95キログラムの体格ながら軽快なフットワークを使い、突き・下段のオーソドックスな組手に入る前にかかと落とし・ステップバックして増田が前に出るとカウンターで放つ跳び膝蹴りを出していたので接近する事ができず、自分の最も得意とするパターンに入れない増田であった。延長1回では右前蹴りを顔面にクリーンヒットされ、延長2回には左中段回し蹴りの蹴り合いに負け、終盤には跳び膝蹴りを食う増田。もし、全盛期の増田であったら、塚本を詰める事もできただろう。全盛期でなくても、政治活動に関わらず充分な練習ができていれば、また違った展開になっていたかもしれない。塚本はこの勢いを持続し、準決勝の谷川光を前蹴りと中段突きで、決勝の鈴木国博を左前蹴りと右中段振り打ちでそれぞれ合わせ一本勝ちで優勝を収めた。そして塚本も「革命児」と呼ばれた。

奇しくも増田は、後に松井派の数見、大山派の塚本という団体を代表するエースとなった両選手と戦い、世代交代という形で試合場を去っていった。

1997年(平成9年)に大山派を離れ、極真会館増田道場として独自に活動を開始した。その後、設立された全日本極真連合会に加盟していたが、現在は極真カラテにレスリング・柔道・関節技と極真会館草創期に使用された技術などを取り入れ、「フリースタイルカラテ拓真道」という新しい武道の完成を目指し、日々修練している。また、それを国際武道人育英会傘下で選手権大会を開催し、現在に至る。

組手スタイル

増田の組手スタイルは、長い選手生活の中で常に変化し続けてきた。選手には大きく分けて自分の攻撃パターンに拘るタイプと、攻撃バターンを変更していくタイプと二通りいる。前者の典型的な選手が黒澤浩樹であるが、増田は後者のタイプである。

浜井識安直伝の前蹴りと左下突き

松井章圭の合わせ技と上段回し蹴りと後ろ回し蹴り

大西靖人の奥足への下段回し蹴り

ミッシェル・ウェーデルのカウンター

アンディ・フグのかかと落としとヒット・アンド・アウェイ戦法

など、いっしょに練習したり、対戦した相手からそれぞれの良い技を吸収していた。

松井章圭が増田のカラテを

と評する所以である。

増田にはパワーもあるのだが、瞬発力を活かした攻撃は「爆撃機」と称されるほどのラッシュ力であった。その瞬発力は、客観的な体力テストでも証明されている。去る1986年(昭和61年)5月8日に現役極真会館のトップ選手の体力測定が、早稲田大学体育局の主催で行われた。参加者は増田の他に、松井章圭・小笠原和彦・緑健児ら、オープントーナメント全日本空手道選手権大会ベスト4経験者を含む17名の選手であった。測定項目は、筋力・筋持久力・脚パワー・柔軟性・敏捷性・平衡性であったが、増田は脚パワー(垂直跳び:75.5センチメートル/平均:61.91センチメートル)、敏捷性(反復横跳び:56回/平均:47.1回)で優れた値を出している。ちなみに一般人(24歳男性)の平均はそれぞれ57.5センチメートルと44回であった。一般人を上回るのは当然だが、増田の場合、体重が85.5キログラムありながら、上記の結果を出した。これらが増田の爆発的攻撃力の源の一因であるといえよう。

2024/05/23 23:53更新

masuda akira


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増田 誓志(ますだ ちかし)
1985年6月19日生まれの有名人 宮崎出身

増田 誓志(ますだ ちかし、1985年6月19日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロサッカー選手。元日本代表。ポジションはミッドフィールダー。主にボランチ(セントラルMF)、トップ下としてプレーする。…

増田 忠俊(ますだ ただとし)
1973年12月25日生まれの有名人 静岡出身

増田 忠俊(ますだ ただとし、1973年12月25日 - )は、静岡県庵原郡蒲原町(現 静岡市清水区蒲原)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。PRI…

増田 俊樹(ますだ としき)
1990年3月8日生まれの有名人 愛知出身

増田 俊樹(ますだ としき、1990年3月8日 - )は、日本の声優、俳優、歌手。広島県呉市出身。トイズファクトリー所属。 声優になったきっかけは高校生の頃に観ていたテレビアニメ『天元突破グレンラ…

増田 一樹(ますだ かずき)
1954年11月3日生まれの有名人 兵庫出身

増田 一樹(ますだ かずき、1954年11月3日 - )は、毎日放送(MBS)所属の元アナウンサーで、現在はコンプライアンス室勤務。 愛称は「マスリーナ」。「毎日放送の森田健作」とも呼ばれている。 …

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増田章
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