安藤紀三郎の情報(あんどうきさぶろう) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
安藤 紀三郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
安藤紀三郎と関係のある人
高村坂彦: 太平洋戦争の開戦に反対し、開戦後の1943年(昭和18年)から近衛文麿首相の側近グループとともに戦争の終結工作に尽力、また内務書記官在任中の1944年(昭和19年)には当時内務大臣だった安藤紀三郎に戦争終結を訴える上申書を提出している。 |
安藤紀三郎の情報まとめ
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう)さんの誕生日は1879年2月11日です。兵庫出身の軍人のようです。
卒業、事件に関する情報もありますね。1954年に亡くなられているようです。
安藤紀三郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)2月11日 - 1954年(昭和29年)5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。軍人としての最終階級は中将。 太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。戦後、A級戦犯として逮捕された。 兵庫県で旧篠山藩士、鳳鳴義塾長で歌人の安藤直紀(内藤中虚の次男)の次男として生まれ、鳳鳴義塾中学を卒業。 1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、陸軍歩兵少尉となる。1901年(明治34年)台湾守備歩兵第10大隊附となり、翌年、陸軍歩兵中尉となる。1904年(明治37年)10月、歩兵第10連隊中隊長となり、同年11月、陸軍歩兵大尉となる。 1913年(大正2年)8月、陸軍歩兵少佐となる。1918年(大正7年)、アメリカ出張後、陸軍歩兵中佐となり帰国。1922年(大正11年)陸軍歩兵大佐となり歩兵第2連隊長に就任。1927年(昭和2年)陸軍少将に進み歩兵第30旅団長となる。1932年(昭和7年)陸軍中将となり旅順要塞司令官となる。1934年(昭和9年)3月5日に待命、同月24日に予備役に編入。1937年(昭和12年)9月に応召し1939年(昭和14年)3月まで留守第9師団長を務めた。 1939年9月、中華民国新民会顧問となり、さらに同年12月から1941年(昭和16年)10月まで同会副会長と務め、同年同月、大政翼賛会副総裁となり、翌年には大日本翼賛壮年団長にもなる。 1942年(昭和17年)東條英機の腹心として東條内閣の無任所国務大臣となる。大日本翼賛壮年団中央本部長となる。1943年(昭和18年)、東條内閣の内務大臣、さらに防空総本部長官となる。 1943年(昭和18年)9月11日、前日に発生した鳥取地震の被害状況把握のため鳥取県を視察。 1944年(昭和19年)1月、第84回帝国議会で陸士同期の衆議院議員四王天延孝からのユダヤ人に関しての質問に対し、「人種差別の撤廃とは絶対的平等視ではなく安定し、人生の幸福を享有せしむるもの」と答えている。7月、大臣辞任。同月21日、貴族院勅選議員に就任し、1945年(昭和20年)12月13日まで在任した。 1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は内相の経歴を持つ安藤を逮捕するよう日本政府に命令を出した(第三次逮捕者59名中の1人)。同年、A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に収監。1948年(昭和23年)12月、釈放。この間に公職追放される。 1944年(昭和19年)7月1日 - 正三位 陸軍士官学校では東條英機の6期先輩にあたるが、東條政権では一貫して東條の腹心・分身として行動した。特に内務大臣として反東條の動きには強硬で、1943年10月の中野正剛事件における中野正剛の検束にあたっては、「当局としては徹底してやりたい。法の不備を補うは人間である。いわんや戦時中である」と、衆議院議員の身分保障を超えて行なう強い姿勢を示した。 娘婿 中原茂敏(陸軍大佐) ^ 『日本陸軍将官辞典』44頁。 ^ 『日本陸海軍総合事典 第2版』3頁。 ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』159頁。 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 69頁。 ^ 全壊六千戸、死者九百人に(昭和18年9月14日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p224 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 「衆議院予算会議」『第84回帝国議会』議事録、1944年1月26日(日本語)。「人種差別ノ撤廃トハ絶対的平等視デハナク安定シ人生ノ幸福ヲ享有セシムル」 ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、52頁。 ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、53頁。 ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341 ^ 『朝日新聞』1946年2月10日一面。 ^ 『官報』第5309号「叙任及辞令」1944年9月22日。 ^ 「証言ドキュメンタリー 東條を倒せ 戦時下幻の倒閣運動 ~中野正剛と東方会~」(NHK、1984年) 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。
表 話 編 歴 大久保利通 木戸孝允 大久保利通 伊藤博文 大久保利通 伊藤博文 松方正義 山田顕義 山県有朋 山県有朋 西郷従道 品川弥二郎 副島種臣 松方正義 河野敏鎌 井上馨 野村靖 芳川顕正 板垣退助 樺山資紀 芳川顕正 板垣退助 西郷従道 末松謙澄 大隈重信 内海忠勝 児玉源太郎 桂太郎 芳川顕正 清浦奎吾 原敬 平田東助 原敬 大浦兼武 原敬 大隈重信 大浦兼武 大隈重信 一木喜徳郎 後藤新平 水野錬太郎 床次竹二郎 水野錬太郎 後藤新平 水野錬太郎 若槻礼次郎 浜口雄幸 鈴木喜三郎 田中義一 望月圭介 安達謙蔵 中橋徳五郎 犬養毅 鈴木喜三郎 山本達雄 後藤文夫 潮恵之輔 河原田稼吉 馬場鍈一 末次信正 木戸幸一 小原直 児玉秀雄 安井英二 平沼騏一郎 田辺治通 東條英機 湯沢三千男 安藤紀三郎 大達茂雄 安倍源基 山崎巌 堀切善次郎 三土忠造 大村清一 植原悦二郎 片山哲 (臨代) 木村小左衛門 廃止 内事局長官・(内事局官房自治課長・官房職制課長) - 国務大臣地方財政委員会委員長・全国選挙管理委員会委員長・(総理庁官房自治課長) - 国務大臣地方自治庁長官 - 国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣 内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官) 建設院総裁 - 建設大臣 - 国土交通大臣 厚生大臣 - 厚生大臣・労働大臣 - 厚生労働大臣 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官) 文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官) 神社本庁総長(宗教法人化) 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長) 外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官) 内閣総理大臣・(終戦連絡中央事務局長官) - 内閣総理大臣・(連絡調整中央事務局長官) - 外務大臣・(外務省連絡局長) - 外務大臣・(外務省国際協力局長) VIAF 日本 大日本帝国陸軍中将 昭和時代戦前の閣僚 日本の内務大臣 貴族院勅選議員 昭和時代の貴族院議員 太平洋戦争の人物 A級戦犯容疑者 公職追放者 陸軍士官学校 (日本)出身の人物 兵庫県出身の人物 1879年生 1954年没 プロジェクト人物伝項目 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2025/01/23 14:47更新
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andou kisaburou
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