寺村友和のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
寺村 友和(てらむら ともかず、1974年4月22日 - )は、千葉県千葉市稲毛区出身の元プロ野球選手(投手)。台湾での登録名は山崎 友和(やまざき ともかず)であり、山崎は現姓。
小学校時代は軟式野球のヤングジャイアンツに所属。中学時代は硬式野球の千葉ジャガーズに所属し、高橋由伸は1年後輩に当たる。
千葉商業高等学校卒業後は本田技研に進み、1996年にチームが第67回都市対抗野球大会で優勝したが、入来祐作や補強の大塚晶文らがいたため、登板機会はなかった。
1997年のプロ野球ドラフト会議にて千葉ロッテマリーンズから2位指名を受けて入団。
プロ入り後は球威はあるものの制球難に苦しみ、サイドスローに転向したもの、大きな結果には繋がらなかった。
2000年オフに山﨑貴弘との交換トレードでヤクルトスワローズへ移籍。移籍1年目に先発や中継ぎとして2勝をマークしリーグ優勝に貢献。チームも日本一になったが日本シリーズの登板はなかった。
2003年に金銭トレードで大阪近鉄バファローズへ移籍したが、1年で退団。
2005年に台湾・誠泰コブラズに入団したが、開幕してすぐ戦力外通告を受けた。
引退後は様々な職業につき、松永浩美が主催する埼玉県三郷市の野球教室「松永浩美ベースボールアカデミー(M.B.A)」の投手コーチを務め、2011年11月に大東文化大学の野球部のコーチに就任。また、小学生を対象とした野球教室を開校。
2015年に創部した社会人野球・深谷組硬式野球部の指導に3年間携わったのち、2021年より投手コーチとして再度指導に携わっていたが。2022年2月にチームは休部した。
2023年より、埼玉県川越市を拠点とする社会人クラブチームであるINVENTIVE41の監督を務める。
人物
イースタン・リーグで1球勝利投手になったことがある。
ロッテ時代の1999年8月31日(対ダイエー戦)で、村松有人の強烈なピッチャー返しを捕球した際にボールがグラブに挟まって取れなくなったため、グラブごとそのまま一塁手の初芝清に投げ、打者をアウトにするという好プレーを見せた。
ヤクルト時代の2001年8月15日の対横浜ベイスターズ戦(神宮球場)で4-0の時に石井一久に代わって登板、試合を三振で締めくくったが最後の1球で思い切り転倒してしまった。
現役時代に肩痛に悩まされた経験から、整体師の資格も取得しながら8年間の研究の末、肩関節トレーニングの理論を構築し、さらにこの理論を実証するために2年かけてトレーニング器具を開発した。この器具を「KATALOGGY_tr」(カタロギートレーニング)と名付け、2023年現在特許出願中である。
詳細情報
初登板:1999年5月16日、対日本ハムファイターズ8回戦(千葉マリンスタジアム)、5回表1死に2番手で救援登板、1回無失点
初奪三振:1999年5月23日、対西武ライオンズ9回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に原井和也から空振り三振
初先発・初勝利:2001年6月27日、対横浜ベイスターズ13回戦(明治神宮野球場)、5回1/3を1失点
16 (1998年 - 2000年)
13 (2001年 - 2002年)
45 (2003年)
99 (2005年)
寺村 友和 (てらむら ともかず、1998年 - 2003年)
山崎 友和 (やまざき ともかず、2005年)