工藤幹夫の情報 (くどうみきお) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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斉藤和巳: また、両リーグから20勝投手が出たのは1982年の北別府学・工藤幹夫以来だった。 植村義信: 日本ハムでは、埋もれていた工藤幹夫や伸び悩んでいた間柴茂有らを大化けさせ、木田勇にパームボールを教えた 。 大沢啓二: だが、優勝直前の9月8日にこの年20勝を挙げエースに成長し前期優勝の西武相手に6勝をマークした工藤幹夫が右手指を骨折し、10月の西武とのプレーオフでの登板は絶望的と思われた。 岩本勉: 球団史上初の開幕戦完封勝利で、完封リレーも過去に1983年の後楽園球場の阪急戦で2-0で勝利したのみだった(工藤幹夫→江夏豊の継投)。 バンプ=ウィルス: 初打席・初安打:同上、1回表に工藤幹夫から中前打 宮田征典: 日本ハム時代には岡部憲章・工藤幹夫・川原昭二を育て、岡部には「お前は走ってなんぼ」と言って陸上部のように毎日走らせて鍛えた。 工藤博義: 初打席・初安打:1981年9月27日、対日本ハムファイターズ後期13回戦(阪急西宮球場)、8回裏に工藤幹夫から単打 吉田輝星: 同郷で同じくファイターズに所属した工藤幹夫が立ち上げたスポーツ用品店「クドウスポーツ」に通っていた。 広橋公寿: 初安打:同上、工藤幹夫から 豊島明好: 2008年、オープン戦で好投し、セ・パ両リーグの高卒新人で唯一、日本ハムの高卒新人投手では工藤幹夫以来29年ぶりとなる開幕一軍に選ばれると、同年3月26日の開幕5戦目・対埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)で0-8とリードされた8回に初登板を果たし、1回を三者凡退に抑えた。 |
工藤幹夫
工藤 幹夫(くどう みきお)さんの誕生日は1960年9月30日です。秋田出身の野球選手のようです。
人物、詳細情報などについてまとめました。引退に関する情報もありますね。55歳で亡くなられているようです。
工藤 幹夫(くどう みきお、1960年9月30日 - 2016年5月13日)は、秋田県本荘市(現:由利本荘市)出身のプロ野球選手(投手、内野手)。 本荘市立小友小学校卒。本荘市立本荘南中学校時代には軟式野球で東北大会で優勝。当時のチームメイトには村岡敏英がいる。 秋田県立本荘高等学校では、エースとして1977年秋季東北大会に進むが、1回戦で黒沢尻工業高に敗退。翌1978年夏の甲子園県予選で決勝に進出し能代高と対戦するが、2-3で惜敗し甲子園出場を逸する。甲子園出場経験はなかったものの逸材として注目され、読売ジャイアンツ(巨人)も獲得意欲を示していた。 1978年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから2位指名を受け入団。 入団当初の投球フォームはアンダースローだったが、オーバースローやサイドスローからも投球し「スパイダー投法」と呼ばれた。 プロ1年目の1979年から一軍(パシフィック・リーグ)の試合で登板を果たし、翌1980年は一軍登板はなかったものの、二軍(イースタン・リーグ)では13勝を挙げて最多勝となる。1981年には、投球フォームもサイドスローに固定し頭角を現す。同年は開幕3試合目に先発として起用され好投。大きく期待されたが、なかなか結果を残せず2勝に終わる。しかし、同年の巨人との日本シリーズでは5試合に登板。第1戦では9回に好リリーフ、サヨナラ勝ちを呼び込みシリーズ初勝利を記録する。第3戦でも勝利投手となりシリーズ2勝を挙げた。 1982年は先発として20勝4敗・防御率2.10の成績を収め、最多勝・最高勝率・ベストナインに輝く。この年の9月に右手小指を骨折し、前期優勝の西武ライオンズと対戦するプレーオフは絶望と見られていたが、驚異の回復を見せて10月9日の第1戦に先発。この時は6回0/3を投げて無失点だったものの、打線の援護が無く勝ちはつかなかった。しかし、第1戦から中2日の第3戦に再び先発すると1失点完投勝利、このプレーオフ日本ハム唯一の勝利をもたらした。監督だった大沢啓二によると、医師から「プレーオフには間に合う」と聞き、世間を驚かせようと考えて、ケガの具合は伏せたままひそかに練習をさせたという。なおこの年、レギュラーシーズンでは西武相手に6勝1敗と抜群の相性を見せていた。このプレーオフで無理して投げたことで折れた骨はなかなか治らず、12月になってようやくくっついた。これにより大きな後遺症が残った。きちんと矯正せず、骨が曲がってくっつき、そのうち、肩を痛めてしまう。1983年に8勝を挙げたのが最後の勝ち星となり、1984年は1試合のみの登板に終わる。 1985年以降は一軍での登板はなく、1988年は内野手に転向したが結果を残せず、同年限りで現役を引退した。 現役引退後は秋田へ戻り、秋田市手形山中町でスポーツ店(クドウスポーツ)を経営しながら、社会人野球クラブチームの由利本荘ベースボールクラブの監督兼投手を務めていた。 2016年5月13日、肝不全のため死去。55歳没。 人物1999年、ニッポン放送のラジオ番組『ネプチューンのallnightnippon SUPER!』のコーナーに元プロ野球選手として電話で出演した。 タレントの伊集院光は落語家時代に、野手転向後の工藤の練習風景を目にして奮起したといい、2011年に東北へ旅行した際に秋田の工藤の店を訪ね、謝意を伝えた。また、2016年に工藤が死去した際には、その2日後に弔問している。 詳細情報各年度の太字はリーグ最高 最多勝利:1回(1982年) 最高勝率:1回(1982年) ベストナイン:1回(1982年) 月間MVP:2回(1982年6月、1982年7月) パ・リーグプレーオフ敢闘賞:1回(1982年) 後楽園MVP賞:1回(1982年) 初登板・初先発:1979年4月12日、対南海ホークス前期3回戦(後楽園球場)、5回0/3を4失点 初奪三振:同上、1回表にカルロス・メイから 初完投:1981年4月13日、対阪急ブレーブス前期3回戦(阪急西宮球場)、8回3失点で敗戦投手 初勝利:1981年6月19日、対南海ホークス前期12回戦(後楽園球場)、5回表に2番手で救援登板、3回無失点 初先発勝利:1981年9月16日、対西武ライオンズ後期10回戦(後楽園球場)、6回2/3を2失点 初完封勝利:1982年4月20日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(後楽園球場) オールスターゲーム出場:1回(1982年) 15(1979年 - 1986年) 90(1988年) 2024/05/24 05:13更新
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kudou mikio
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