森嶋通夫の情報 (もりしまみちお) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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伊東光晴: 指導教官杉本の急逝に伴い、杉本の同期だった笠信太郎や田中愼次郎から朝日新聞社に誘われたり、森嶋通夫からも大阪大学に誘われたが、東京に留まるため東京外国語大学に着任。 クリストファー=ピサリデス: 1971年からロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにて学び、1973年、経済学者である森嶋通夫による指導の下で経済学の博士号を取得した。 ローレンス=クライン: アメリカで知己となっていた森嶋通夫と市村真一の企画に加わり、新しい『インターナショナル・エコノミック・レビュー(英語版)』の創刊に努力した。 小室直樹: 当時高田保馬が森嶋通夫、安井琢磨、二階堂副包ら日本のトップレベルの経済学者を大阪大学社会経済研究所に集め、阪大ゴールデン時代とまで呼ばれており、小室によれば「正当な学問」を身につけた。 小宮隆太郎: そんな中、小宮と森嶋通夫の間で日本の教育についての論争が繰り広げられた。 篠原三代平: (森嶋通夫・内田忠夫)『新しい経済分析――理論・計量・予測』(創文社、1960年) ポール=サミュエルソン: なお、理論経済学者森嶋通夫はサミュエルソンの業績について、「顕示選好理論以外は独創性がない」と語っている。 クリストファー=ピサリデス: キプロス共和国でギリシャ系キプロス人の家庭にて誕生、1973年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学者の森嶋通夫による指導の下で経済学の博士号を取得した。 |
森嶋通夫
森嶋 通夫(もりしま みちお)さんの誕生日は1923年7月18日です。大阪出身の経済学者のようです。
業績、人物などについてまとめました。卒業、現在、父親に関する情報もありますね。
森嶋 通夫(もりしま みちお、1923年7月18日 - 2004年7月13日)は、日本の経済学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス名誉教授、同校サー・ジョン・ヒックス教授、大阪大学名誉教授。イギリス学士院会員。大阪府出身。 1923年に大阪市に生まれるが幼少期は神戸に在住し、1936年に神戸市の本山第一小学校を卒業する。七年制の旧制浪速高等学校を卒業後、1942年10月に京都帝国大学経済学部に進学する。大学在学中の1943年、学徒出陣により、20歳で徴兵される。1943年12月大日本帝国海軍に入隊し、通信学校を出た後、長崎の大村航空隊へ配属。暗号解読を担当する少尉として赴任した。大村航空隊では、通信将校として、数多くの特攻隊との通信、沖縄に向かった戦艦大和との通信、沖縄戦の通信などを担当した。 海軍中尉で敗戦を迎えた後、高田保馬・青山秀夫について経済学・社会学を学び、1946年に京都大学を卒業する。その後は経済学部の助手を経て、1950年27歳の若さで、京都大学経済学部の助教授となるが、1年後の1951年大阪大学法経学部助教授に転出する。1954年3月、大阪大学経済学部付属社会経済研究室の創設とともに、助教授として併任する。1963年に、40歳で大阪大学教授となる。1966年4月、大阪大学社会経済研究所に改組され、安井琢磨とともに日本における近代経済学研究の中心として広く世界に名を轟かせる存在となったといわれる。その後、研究所内部での意見対立もあって(依田高典は森嶋が日本を飛び出した理由を同僚との喧嘩別れとする)、1968年に渡英しエセックス大学客員教授、1970年からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) の教授として、1988年の定年まで在籍した。 LSEにおいては、1978年に Suntory Toyota International Centres for Economics and Related Disciplines(STICERD - 「スティカード」と発音)という研究所の設立に貢献し、初代所長となる。名前が示す通り、サントリーとトヨタからの寄付金を元に設立された研究所だが、イギリス学界では私企業からお金をもらって研究をすることは伝統的にタブーとされていて、そうした固定観念を変えるべく同僚の教授たちの説得に奔走した(その後、現在に至るまでSTICERDは、公共経済学、開発経済学、政治経済学の分野で多数の研究成果を経済学界に送り出している)。 1965年に41歳で日本人として初めてエコノメトリック・ソサエティー(国際計量 経済学会)会長に就任した(後に宇沢弘文 が1976年に、1994年に根岸隆が会長に就任)。 業績森嶋の業績には3つのカテゴリーがあり、一番目はデヴィッド・リカードの体系に基づく均衡理論の動学化である。二番目は経済学に社会学的アプローチを加味した交響的経済学を提唱したことである。三番目はレオン・ワルラス、カール・マルクス、デヴィッド・リカードの経済学の学説史研究である。数理経済学者としてレオン・ワルラス、カール・マルクス、デヴィッド・リカード等の理論の動学的定式化に業績を残している。最も影響力を持つ研究はワルラス理論だが、マルクス理論を数理化させた「数理マルクス経済学」を手掛けている。弟子の小室直樹によれば、森嶋はノーベル経済学賞の候補として何度か名前が挙がっており、最も受賞に近かった日本人だという。 森嶋の経済学が注目された理由は、アメリカの経済成長理論は一部門または二部門を扱うモデルに過ぎなかったが、森嶋とヒックスは多部門セクターを扱う産業全体に対する一般均衡分析を動学化したことにあった。 人物幼少期から正義感が強く、差別を嫌っていたエピソードとして、高校1年の夏休みに北京に住む父親を訪ねたときの列車の中での出来事がある。 著作も多く、専門的な経済学書の他に『イギリスと日本』『なぜ日本は「成功」したか』などの日本社会論・『自分流に考える』『サッチャー時代のイギリス』などの政策評論など幅広い。1979年には、専門外の分野ではあるが、関嘉彦との間で防衛問題論争を行った(赤旗・白旗論)。 1970年の日経賞受賞を辞退した。価値自由論の立場から、新聞社は報道の自由の原則から、文化の内容に立ち入りその優劣の判定を行うべきではないとの信念からであった。 1976年の文化勲章受章は、名誉はできるだけ受けるべきでないとの考え方から、辞退を考えていたが、年金がつくと知って受けることにした。森嶋はその年金を日本-英国の学術交流に使い、若手社会学者への奨学金にもしていた。 ロンドンの大学では、新入生への「経済学入門」から大学院の「現代経済学からマルクス」まで週6回の講義を引き受けていた。海外で講義を行うことについて、日本と違い縄張り意識がないから「お前がマルクスをやると困る」といったことがない、自由さは良いとして、日本で大学で講義を行う難しさをもらしたことがある。 生涯関西弁を貫いた。 2004年8月には英タイムズ誌が紙面を半ページ割いて追悼記事を載せた。また英インディペンデント紙も追悼記事を掲載した。 2024/05/16 16:18更新
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morishima michio
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