江島巧の情報(えじまたくみ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
江島 巧さんについて調べます
■名前・氏名 |
江島巧と関係のある人
香川正人: 初奪三振:同上、8回表に江島巧から 葛城隆雄: 1969年には江島巧らが台頭、主に一塁手として起用されるが出場機会は減少した。 広瀬宰: 1972年オフに江島巧との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。 菱川章: 翌1972年は大島康徳、江島巧の台頭もあって出場機会が減る。 森友哉: 高卒新人の3試合連続本塁打は、1968年に江島巧が記録して以来46年ぶり史上3人目、プロ1号から3試合連続となった高卒新人では江島に次いで2人目となった。 池島和彦: 同23日の中日戦(中日)では伊藤幸男の2番手で登板したが、江島巧に本塁打を浴びて降板し敗戦。 門野利治: また1年下には右翼手の江島巧がいた。 |
江島巧の情報まとめ
江島 巧(えじま たくみ)さんの誕生日は1949年11月24日です。和歌山出身の野球選手のようです。
引退、テレビに関する情報もありますね。江島巧の現在の年齢は74歳のようです。
江島巧のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 江島 巧(えじま たくみ、1949年11月24日 - )は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。 那智中学校から進学した平安高校では甲子園に3回出場、4番打者として活躍し主将も務めた。2年次の1966年には1年上のエース門野利治を擁し、3番打者、右翼手として春の選抜への出場を果たしたが、準々決勝で土佐高の上岡誠二に完封を喫した。同年の夏の選手権でも、準々決勝で荒武康博を打の主軸とする報徳学園に敗退。恵まれた体格ながら力に頼らずシャープに振る打撃で、長い伝統を持つ平安の2年生で3番を打ったのは戦後江島だけである。3年次の1967年は文句なしに主将に選ばれ、1年下の池田信夫がエースとなる。春の選抜では中堅手に回るが、2回戦で原秀樹のいた新居浜商に敗れる。前年9月からの打率.465は大会の出場選手のうち4番目の成績で、各チームが敬遠策を取るため、無理して打つことが多い中でも15打点もマーク。打球のスピードは前年よりも速くなり、カウントがつまっても余裕をもって打った。弱かったシュートも球を呼び込んで打てるようになって、こなせるようになった。15盗塁の記録した俊足でもあり、甲子園通算8試合で13安打7打点と超高校級の折り紙つきのスラッガーであったが、同年夏は京滋大会決勝で守山高に敗退し、夏の甲子園出場を逸する。 同年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団し、1年目の1968年から一軍に上がり、中堅手として32試合に先発出場。打率は低かったが、プロ1号から3試合連続で本塁打を放つなど活躍。第1号は6月4日の広島戦(中日)で白石静生からのソロ本塁打を放つが、この時の試合は0-2とリードされた3回裏に1番に起用された江島が適時打、6回裏にはまたも江島が左翼へのソロ本塁打で同点とした。7回表に中日先発の小川健太郎が広島打線に捕まって、古葉竹識の適時打に山内一弘の2ラン本塁打で勝ち越され、その裏に徳武定之の2ラン本塁打で1点差に追い詰めたもののリリーフ3番手の安仁屋宗八に交わされ4-5で敗れたが、その中で江島はこの日4打数3安打2打点の猛打賞を獲得。2年目の1969年は右翼手に定着して13本塁打を放ち、5月5日の広島戦(福井)では本塁へかなりの強風が吹く中、バットを真っ二つに折りながら91mのスタンドを越えるソロ本塁打を記録。この試合では1回表に山本一義の適時打で先制を許したが、2回裏にはルーキー島谷金二の2ラン本塁打で逆転すると、5回裏に江島がソロ本塁打で1点を追加。投げてはルーキー星野仙一が1回の失点の後は0点に抑え、7回表に一死満塁のピンチの所でリリーフに伊藤久敏を送って後続を断ちそのまま3-1で逃げ切り、星野はプロ入り初勝利で島谷、江島ともども水原茂監督の起用に応えた。守備では11補殺を記録するなど強肩でも知られたが、プロの変化球に対応できず、その後も打率の低迷に苦しむ。 1972年11月には広瀬宰との交換トレードで、ロッテオリオンズへ移籍。当初は主に外野の守備固めとして起用されたが、打撃も向上し徐々に出場機会が増える。1974年の古巣・中日との日本シリーズでは5試合に出場し、最終第6戦では3番・左翼手として先発で起用され、1安打を放ち日本一に力を添えた。1975年には30試合に先発出場、4番打者としても10試合に起用され打率.276を残す。その後も長く準レギュラーとして活躍し、1979年は自己最高の打率.293を記録。同年6月21日の近鉄戦(川崎)では近鉄との前期最終戦となったが、2回表に羽田耕一の2ラン本塁打で先制され、4回表には梨田昌崇のスクイズで追加点を与え、打線も近鉄先発の村田辰美の前に無得点と苦しい展開が続き近鉄の勝利が見えてきた8回裏二死、走者2人を置いて白仁天が左翼席へ飛び込む同点3ラン本塁打を放つ。さらにはレオン・リーが安打の後にこの日3三振と元気の無かった江島が左翼へ勝ち越し2ラン本塁打を放ち、9回表をロッテ先発の奥江英幸をリリーフした村田兆治が締め5-3で逆転勝ちするが、近鉄は残り4試合でマジック4と崖っぷちに立たされた。1983年には出場機会が減り、同年限りで現役を引退。 引退後はロッテ二軍打撃コーチ(1984年 - 1985年)を務め、退団後はテレビ埼玉「ライオンズアワー・ヒットナイター」解説者(1986年)を経て、1987年にはKBOリーグの青宝ピントゥスコーチを務めた。 各年度の太字はリーグ最高 初出場・初先発出場:1968年4月19日、対大洋ホエールズ3回戦(福井県営球場)、1番・中堅手で先発出場 初安打:1968年5月8日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、江夏豊から単打 初本塁打:1968年6月4日、対広島東洋カープ9回戦(中日球場)、3回裏に白石静生からソロ 1000試合出場:1979年7月1日、対南海ホークス前期13回戦(大阪スタヂアム)、6番・中堅手で先発出場 ※史上209人目 37 (1968年 - 1969年) 12 (1970年 - 1971年) 6 (1972年) 4 (1973年 - 1978年) 9 (1979年 - 1983年) 82 (1984年 - 1985年) 和歌山県出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、89ページ ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 西武森3戦連発!高卒新人46年ぶり快挙 日刊スポーツ 2014年8月17日 ^ クラシックSTATS鑑賞 江島巧、全本塁打一覧|本塁打大全 ^ クラシックSTATS鑑賞 江島巧、チーム別&投手別&球場別本塁打数|本塁打大全 個人年度別成績 江島巧 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1位:土屋紘 2位:江島巧 3位:若生和也 4位:村上真二 5位:皆木敏夫(入団拒否) 6位:工藤真(入団拒否) 7位:佐々木辰夫(入団拒否) 8位:星野秀孝 9位:金博昭 日本の野球選手 龍谷大学付属平安高等学校出身の野球選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 野球解説者 日本の野球指導者 和歌山県出身の人物 1949年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/21 20:02更新
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ejima takumi
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