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田沼意次の情報 (たぬまおきつぐ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

田沼意次の情報(たぬまおきつぐ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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田沼 意次さんについて調べます

■名前・氏名
田沼 意次
(読み:たぬま おきつぐ)
■職業
政治家
■田沼意次の誕生日・生年月日
1719年7月27日
亥年(いのしし年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
東京出身

田沼意次と同じ1719年生まれの有名人・芸能人

田沼意次と同じ7月27日生まれの有名人・芸能人

田沼意次と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


田沼意次と関係のある人

山村聰: 紫頭巾(1958年) - 田沼意次


岡田英次: 江戸の鷹 御用部屋犯科帖(1978年、ANB・三船プロダクション) - 田沼意次


矢柴俊博: CASE3「被告人は田沼意次」(2011年2月13日) - 平賀源内 役


徳川家重: 郡上一揆では、家重は真相の徹底究明を指示し、田沼意次が評定所の吟味に参加し、老中本多正珍、西丸若年寄本多忠央、大目付曲淵英元、勘定奉行大橋親義らが処罰され、郡上藩と相良藩2藩が改易となった。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。


徳川家治: 近臣が側室を薦めてもなかなか選ばず、遂に田沼意次の薦めで側室を選ぶ代わりに田沼も側室をもつことを条件にした。


徳川家治: 父の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ。


小林健: 八代将軍吉宗(1995年) - 田沼意次


長塚京三: NHK正月時代劇 / 陽炎の辻〜居眠り磐音 江戸双紙〜スペシャル 完結編(2017年、NHK) - 田沼意次


笹野高史: NHK正月時代劇 隠密秘帖(2011年1月1日、NHK総合) - 田沼意次


小澤栄太郎: はやぶさ大名(1961年、東映) - 田沼意次


小沢栄太郎: 剣客商売 辻斬り(1982年) - 田沼意次


河津清三郎: 大奥(1968年 - 1969年、KTV) - 田沼意次


小澤栄太郎: 剣客商売 辻斬り(1982年) - 田沼意次


小澤栄太郎: 剣客商売 誘拐(1983年) - 田沼意次


佐藤B作: 時代劇法廷 CASE3「被告人は田沼意次」(2011年2月13日、時代劇専門チャンネル) - 田沼意次


松平定信: これは、寛政2年(1790年)に一橋治済が尾張家、水戸家の当主に語ったところによると、松平定邦が溜詰への家格の上昇を目論み、田沼意次の助力により田安家の反対を押し切って定信を白河松平家の養子に迎えたという。


松村達雄: 剣客商売(1973年、CX / 東宝) - 田沼意次


秦新二: 2022年 『田沼意次 百年早い開国計画』秦新二著、竹之下誠一著 文藝春秋(1月26日発売)ISBN 978-4-16-009014-9


徳川家治: 一方、「田沼意次を重用した事自体が英断である」として、高く評価する意見もある。


笹沢左保: 『改新派・田沼意次の深謀』1996年12月 祥伝社


小沢栄太郎: 剣客商売 誘拐(1983年) - 田沼意次


松平定信: 改革直前の状況を見てみると、田沼意次の政治により武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していた。


渡辺いっけい: CASE3「被告人は田沼意次」(2011年2月13日)


胡蝶英治: 日本史サスペンス劇場(田沼意次編)徳川家基 役、(戦国の女達 お江与編)徳川秀忠 役、(その後の篤姫編)勝梅太郎 役


松下奈緒: 大奥 Season2「医療編」(2023年10月3日 - 31日、NHK総合) - 田沼意次


徳川家重: 宝暦11年(1761年)6月12日、田沼意次の重用を家治に遺言し、死去した。


蔦屋重三郎: しかし、田沼意次に代わり老中となった松平定信による寛政の改革が始まると、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなり、寛政3年(1791年)山東京伝の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』『錦の裏』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』が摘発され、重三郎は過料により身上半減の処分を受ける。


松平定信: 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。


西沢利明: 闇の傀儡師(1982年、東映) - 田沼意次


秦新二: 2022年1月26日には文藝春秋から『田沼意次 百年早い開国計画』を出版。


田沼意次の情報まとめ

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田沼 意次(たぬま おきつぐ)さんの誕生日は1719年7月27日です。東京出身の政治家のようです。

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財政赤字が続き倹約増税に走る田沼時代、政策などについてまとめました。

田沼意次のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主(相良藩田沼家初代)。第9代将軍徳川家重と第10代家治の治世下で側用人と老中を兼任して幕政を主導し、この期間の通称である「田沼時代」に名前を残す。

享保4年(1719年)7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は龍助。意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ。

意行は息子を授かるために七面大明神に帰依し、そして意次が生まれた。そのため、意次は七面大明神に感謝し、家紋を七曜星に変更したといわれている。

元文2年(1737年)、従五位下・主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。寛延元年(1748年)に1400石を加増され、宝暦5年(1755年)にはさらに3000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。

宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、その子の第10代将軍徳川家治の信任が厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)には御側御用取次から板倉勝清の後任として側用人へと出世し、5000石の加増を受けた。さらに従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。安永元年(1772年)、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増でわずか600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。順次加増されたため、この5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡にわたり、東海道から畿内にまたがる分散知行となった。

この頃より、老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。

吉宗時代の質素倹約は、幕府の財政支出の減少のみならず、課税対象である農民にも倹約を強制し、それによって幕府財政は大幅な改善を見たが、この増税路線は9代将軍家重の代には百姓一揆の増発となって現れ、破綻した。そして、幕府領における一揆ではないものの、意次は郡上一揆の裁定を任されたことから、農民に対する増税路線の問題を目の当たりにする立場であった。

宝暦期に起こった郡上一揆などの民衆の反発の激化と天災地災の多発から、幕府幕閣は米以外の税収入を推し進める。内容は株仲間の推奨、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売、下総国印旛沼や手賀沼の干拓に着手するなど、田沼時代の財政政策は元禄時代のような貨幣改鋳に頼らない、さまざまな商品生産や流通に広く薄く課税し、金融からも利益を引き出すなどといった大胆な財政政策を試みた。

しかし、田沼時代の政策は幕府の利益や都合を優先させる政策であり、諸大名や庶民の反発を浴びた。また、幕府役人の間で賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来の士風を退廃させたとする批判が起こった。都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、いわば大山師的な政策だった。この時代、利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。だが、その収入増加策の立案、運用は実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多発していた。そして幕府に運上金、冥加金の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れ、町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。同時に田沼時代の代名詞である賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、負担を押し付けられた民衆との間に深刻な矛盾も生じさせた。このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られた。しだいに利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立つ田沼意次の政策に対する批判が強まっていく。天明4年(1784年)、意次の世子のまま若年寄を勤めていた田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機とし、権勢が衰え始める。

天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去した。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。意次は8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格した。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。

その後、意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。相良城は打ち壊され、城内に備蓄されていた8万両のうちの1万3千両と塩・味噌を備蓄用との名目で没収された。長男の意知はすでに暗殺され、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥下村1万石に減転封のうえで、辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった。

その2年後にあたる天明8年(1788年)6月24日、意次は江戸で死去した。享年70。

田沼意次は御側御用取次であった宝暦8年(1758年)に、第9代将軍家重から呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の大名となった。この時の相良は郡上一揆で改易となった本多忠央が前領主であったが、城はなく陣屋のみあった。明和4年(1767年)には第10代将軍家治より神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、さらに築城を許可されて城主格となった。翌年から相良城の建設を始め、完成までに11年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、1780年(安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。特に天守を築くことを許されており、縄張りを北条流軍学者の須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守閣を築いた。出世を重ねた意次の所領は、最終的に5万7千石にまで加増された。

意次は江戸定府で幕政の執務に勤めていたため、国元の藩政については町方と村方の統治を明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。上記の築城の他、城下町の改造、後に田沼街道(相良街道)と呼ばれる東海道藤枝宿から相良に至る分岐路の街道整備、相良港の整備、助成金を出して瓦焼きを奨励して火事対策とするなどのインフラに力を注いだ。意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、年貢増徴政策だけでは経済が行き詰まることを知っていたので、家訓で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残された。殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕や櫨栽培の奨励、製塩業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させた。

財政赤字が続き倹約増税に走る田沼時代

田沼意次の財政政策は、世間の通説では積極財政だと言われるが、実際の政策は享保の改革の緊縮路線を引き継ぎ、緊縮増税を行っていた。

財政赤字が頻発したため、田沼時代はひたすらに幕益を追求していった時代だった。天明7年(1787年)に老中となった松平定信に提出された植崎九八郎上書の中で、田沼時代の諸役人は次のように批判されている。

このような幕益優先の緊縮増税が田沼時代に行われた理由は、当時相次いだ天災・飢饉によって引き起こされた幕府財政の悪化だった。

田沼時代は最初期から天災や飢餓が続出し、宝暦・明和期は大旱魃や洪水など天災が多発し、江戸では明和の大火にて死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。その後も天災地変は続き、天災・疫病、三原山・桜島・浅間山の大噴火、そして天明の大飢饉が起こった。そのため全国で一揆や打ちこわしが各地で激発した。通算で数えると、田沼時代の宝暦から天明期の38年の間に発生した一揆の数は600件近くあり、都市騒擾も150件以上にのぼる。

明和9年(1772年)、変事が続いたため年号を安永に変更し、安寧を願った。当時の落首でも「明和九も昨日を限り今日よりは 壽命久しき安永の年」と書かれている。明和年間の1764年から1772年の8年の期間は、うち6年が米・金ともに赤字を記録し、赤字のない年は明和8年(1771年)以外ないという、赤字が多い時期であった。その明和8年は、不作を理由に7年間の倹約令と経費削減、拝借金の制限を命じた年だった。さらには禁裏財政にまでメスを入れ、支出削減に力をいれた。そのかいあって、安永年間は明和年間にくらべて小康状態に落ち着いた。安永元年(1772年)から6年(1777年)までは、米収支こそ毎年赤字だったが、金収支はなんとか黒字を維持し続けた。しかし、次の天明年間に天明の大飢饉がおこり、膨大な赤字が連続することとなる。最終的な幕府備蓄の推移を見てみると、明和の時期の幕府の備蓄金は300万両あったが、田沼時代の終わりには81万両までに急減するという結果に終わった。

田沼時代とは、家重の代までに貯えた備蓄を食いつぶして、天災地災が多発する危機を乗り切った時代だったといえる。田沼時代の各種政策は、それらの幕府財政状況を踏まえて考えることが重要である。

政策

諸経費削減

田沼は吉宗時代に倣った経費削減を行った。大奥を縮小し、将軍の私生活を賄う御納戸金の額を1750年に2万4600両だったものから1771年には1万5000両に削減した。1746年に幕府諸役所経費の2年間節減を命じ、1755年に役所別定額予算制度を採用、1764年には役所で使う筆墨、灯油などの現物支給を停止し、役所経費での購入に変更するなど、経費削減に取り組んだ。

御手伝普請

さらに1757年、田沼は吉宗時代に停止されていた国役普請を再開した。幕府普請よりも国役普請の方が、私領での公儀普請時の領主負担分の立替金をきちんと徴収すれば、幕府負担は工事費の10分の1の負担で済んだからである。国持大名や20万石以上の大名にも御手伝普請を行わせることで、幕府の負担の軽減を図った。命じられた大名たちは財政難の中で、自分の領国統治には無関係で年貢増加にもつながらない手伝い普請を行うことで、多くの借金を背負うこととなった。命じられた藩の中には藩政改革中の藩などもあったがかまわず命じられ、回復した藩財政は再び借金の中に沈んだ。特に仙台藩は、1767年に利根川筋の御手伝普請を命じられたが、これによって22万両もの巨額の借金を抱えることとなり、それまで以上に藩の利益を追求することを余儀なくされたことで、天明の大飢饉の被害を広げたのではないかと言われている。

倹約令の発布

宝暦元年(1751年)から11年(1761年)の毎年、米は赤字のときもあったが金は黒字続きだったのが、宝暦12年(1762年)から次の明和では米・金ともに赤字が続いた。明和元年(1764年)に米5万石、金5万両の赤字になり、以降明和6年(1769年)まで金方の収支は毎年赤字、米も明和4年(1767年)以外は毎年赤字になっていた。このように明和期以降、幕府財政は赤字基調になっていた。そのため、明和8年(1771年)に7年間の倹約令を発布した。明和の倹約政策をやめるとまた黒字は減っていき、天明の大飢饉による大赤字が起きた。それに対応するため、天明3年(1783年)に7年間の倹約令を発布し、さらに厳しい倹約政策を実施した。また天明3年には大飢饉の最中、諸役人へ年貢量は維持、冥加・運上は増額、堤防や道路、橋の工事費は減額すると命じている。

拝借金の停止

明和8年(1771年)拝借金を制限した。拝借金とは、凶作や自然災害などによって経済的苦境におちいった大名・旗本を救済するため、無利子、年賦返済で融資するという制度だった。これは幕府が大名や旗本たち武士身分の者たちを保護する「公儀」であることを、金融面で示す制度であり、将軍・幕府への求心力を維持するための制度であったが、財政難を理由にこれを制限した。さらに天明3年(1783年)にはとうとう拝借金を全面停止するに至った。

上知令

利益の大きい産業のある藩領を幕府領に編入するべく、上地を命じようとした。

秋田藩領 阿仁銅山

    宝暦14年(1764年)貿易用の銅の直接確保のために5月に上知令を出したが、秋田藩の反発が激しく翌月撤回。

    尼崎藩領 摂津・西宮

      明和6年(1769年) 灯油の原料である菜種の生産地域1万4千石の村と都市を代替地と引き換えで上地を命じた。

      蝦夷地

        松前藩から蝦夷地そのものを上地しようとしたが、田沼失脚とともに頓挫した。

        株仲間の推奨

        田沼時代は、享保の改革で公認された株仲間が推奨された。

        株仲間を公認した享保期の幕府の意図は、問屋商人たちの力を利用し、物価の安定や操作に利用することだった。しかし、田沼時代の幕府の意図に関しては、冥加金を上納させることによる財政収入増加策なのか、株仲間による流通統制や物価安定策だったのか、と評価が分かれている。田沼時代は同業者組合である株仲間を奨励し、真鍮座などの組織を結成させ、商人に専売制などの特権を与えて保護、運上金、冥加金を税として積極的に徴収した。だが、この冥加金などの上納は基本的にどれも少額であり、幕府の財政収支に与えた影響はあまり大きかったとは考え難く、中井信彦などは冥加金は少額なため財政上の意義は不明として冥加金の財政収入増加説に否定的である。

        長崎会所の健全化

        長崎貿易を担っていた長崎会所は、享保8年(1723年)にはその運上を5万両に定められていた。だが享保18年には3万5000両に減額し、寛保2年(1742年)にはとうとう廃止、以降は借金がかさみ、延享3年(1746年)には拝借金21万両にまで膨れ上がった。そのため、勘定所は寛延元年(1748年)から22年間勘定奉行が長崎奉行を兼任することで管理統制を強め、最終的には借金返済、運上金もかつての5万両の3分の1以下だが1万5000両を上納させることに成功した。長崎貿易は俵物の増産が目指され、銀も輸出から輸入へと切り替わった。

        なお、一般には田沼意次の積極的な貿易政策で輸出を増やしたといわれているが、鈴木康子の著書『長崎奉行の研究』によると、海舶互市新例で定められた貿易総量を超えて貿易を始めたわけでも、銀を輸入する見返りに銅の輸出量を増加させたわけでもなく、貿易総量に変化はなかったことがわかり、一般に言われているような積極的な貿易政策による輸出増加政策などしていないこともわかる。藤田覚は、田沼時代の積極的な貿易政策というこれまでの評価は再考を求められているとしている。

        通貨政策

        財政支出補填のため、五匁銀・南鐐二朱銀、寛永通宝四文黄銅銭といった新貨の鋳造を行った。南鐐二朱銀に関しては、法定比価で金1両分だと元文銀104gに対し南鐐二朱銀8枚79gと設定したので、元文銀を材料に南鐐二朱銀を鋳造すれば通貨発行益が発生することになる。寛永通宝四文黄銅銭は一文青銅銭に比べ、額面上の額は4倍だが銅の量は1.3倍でしかなく、これもまた発行すれば通貨発行益が発生した。財政補填のために発行された南鐐二朱銀だったが、その発行に関しては通貨発行益以外に、金貨単位の計数銀貨の誕生によって通貨単位が金貨への統合を促された。南鐐二朱銀は田沼の在任当時はなはだ評判の悪い通貨だったが、田沼末期には定着した。

        これらは時代に先駆ける政策であった。それに反し、時代に逆行する政策もしている。紙幣発行については、吉宗の時代には紙幣の通用が解禁されていたが、それを逆行させ1759年に金札・銭札の通用を禁止し、また銀札も新規発行を禁止した。しかし、それらの法令を無視して藩札・私札は発行され続けた。

        蝦夷地開発

        松本秀持の蝦夷地政策で、蝦夷地を開発し金銀銅山を開き、産出した金銀でロシアと交易し、利益を得ようという試みがあった。

        この数十年、ロシアは日本との交易を望んでいたので、これを放置していては密貿易が盛んになると危惧していた。そこで公式に貿易を認めれば、ロシアは食料がほしいので、俵物だけでも交易になるので利益になるだろうと考えた。蝦夷地の金銀銅山を開発し、ロシア交易にあてれば、長崎貿易も盛んになると試算した。

        蝦夷地を調査するために幕府が派遣したメンバーには、青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六などがいた。また、蝦夷地の調査開発をすすめる事務方には、勘定奉行松本秀持、勘定組頭土山宗次郎などがいた。蝦夷地調査で鉱山開発やロシア交易の実現性を調べ、蝦夷地開発の可否を決定することとなった。調査隊は天明5年(1785年)4月29日に松前を発ち、東から国後、西から択捉の2隊に分かれて進んだ。翌天明6年(1786年)2月、佐藤玄六郎による調査報告があがった。調査の結果、危惧していたのと違い、ロシアとの間の密貿易は交易といえるほどの規模では存在しなかった。ロシアは日本と交易をしたがっているので、正式に交易を始めればかなりの規模になるだろうが、外国製品は長崎貿易で十分入手できている現状、無理にロシア交易を始めても長崎貿易に支障をきたすことになり、そのうえいくら禁止しても金銀銅が流出することになる。結果、最終的に田沼は蝦夷の鉱山開発、ロシア交易を放棄した。

        蝦夷地の鉱山開発・ロシア交易の構想が頓挫したことで、松本は新田開発案に転換した。松本の構想は非現実的なもので、

        と記している。

        田沼失脚後、蝦夷地開発はいったん中止となった。しかし、この政策は老中を含む幕府の大多数に支持されていた。開拓反対派である松平定信も、早急な開拓に反対しているだけで、将来的な蝦夷の開拓自体は肯定派だった。定信が失脚した後の寛政11年(1799年)、幕府は東蝦夷地を直轄とし、中止されていた蝦夷地開発を開始した。文化4年(1807年)には松前藩から領地を取り上げ、全蝦夷地を直轄した。田沼が提唱した幕府による蝦夷開発計画は、その後は紆余曲折はあったものの、文政4年(1821年)に中止されるまで継続していくこととなる。

        御用金令

        大坂西町奉行の佐野政親を担当とし、天明3年(1783年)、大名への融資の財源として、大坂の豪商に対し14万5千両もの「御用金令」を命じた。この金は実際に幕府の金蔵に収めるわけではなく、商人たちの手元に留めておき、大名から融資の申し込みがあれば大坂町奉行所が返済保証をつけ貸し付けるというものだった。年利8%であり、そのうち幕府は2.5%、商人は5.5%の利益を得るというものだった。しかし、大名からの返済が滞っていることから商人たちは貸し渋ったため、天明5年(1785年)に改めて大名側からの年貢を担保として設定し、同様の仕組みで利息7%、うち1%を上納する御用金令が出される。当時、天明の大飢饉により大名の資金繰り問題がより深刻化しており、そこから大名の救済、幕府財政支出の削減、新財源創出という3つが達成できる施策であったが、結局商人たちの融資そのものに対する強制力がなかったため、またまた貸し渋りが起こり、実効性がないまま天明6年(1786年)に中止となった。

        貸金会所

        御用金令の失敗を受けて、天明6年(1786年)、新たに構想されたのが貸金会所の設立である。これはある種の「政府系銀行」「国債」ともいえる先進的な試みであった。天明の大飢饉により資金繰りに困窮している諸大名への融資を行うため、諸国の寺社・山伏は、その規模などに応じて最高15両を、全国の百姓は持ち高100石につき銀25匁を、諸国の町人は所持する家屋敷の間口の広さ1間につき銀3匁を、この年から5年間毎年幕府に対して支払うように命令した。貸金会所を通じて年利7%で大名に貸し出され、5年後以降7%の貸付利息から事務手数料を引いた利息をつけて出資者に返済されるという仕組みである。ほぼ全国民に対する強制的な徴収である一方で、5年後に利息がついて返ってくる仕組みであり、現代にも通ずる先進的な試みではあったが、負担を求められる側にとってはたださらなる負担を強いられるだけにしか見えず、しかも天明の大飢饉の真っただ中での「増税」案ということもあって反発が大きかった。また借り手である大名の方も、確かに市中金利よりも低金利で借りられるメリットはあるが、原資は領民でもある百姓・町人から取り立てた金であり、幕府の「貸金会所」を通じて借りるということは藩の内情を幕府に知られてしまうことになる。この点で大名たちからも反発が大きく、結局発令の2ヵ月後には早くも関東の大水害などを理由に御用金令は撤回された。

2024/06/24 17:34更新

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