石原照夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
石原 照夫(いしはら てるお、1929年11月28日 - 2006年3月16日)は、千葉県成田市出身のプロ野球選手(内野手)。
兄は戦前投手として、東京セネタースや翼軍、大洋軍、大和軍に所属した石原繁三。1960年代に東映フライヤーズ、1970年代にロッテオリオンズの球団代表を務めた石原春夫とは別人。
旧制成田中学校では、エースとして戦後初の開催となった1946年夏の大会では、球史に残る1回戦最初の試合で京都二中と対戦するが0-1で惜敗。
立教大学へ進学し、野手転向。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、リーグ通算86試合出場、338打数101安打、打率.299の成績を残す。
大学卒業後は、社会人野球の藤倉電線に入社。1954年の都市対抗野球に全藤倉として出場。決勝に進むが八幡製鐵に敗退。この大会では準決勝で本塁打を放つなど活躍した。
1956年に東映フライヤーズ入団。開幕直後から遊撃手、二番打者として起用され、シーズン後半には三塁手に回る。同年は規定打席(22位、打率.250)にも達する。その後は三塁手に定着、1957年から3年連続パシフィック・リーグ最多犠打を記録。守備面でも1957年に142守備機会連続無失策で当時の日本記録をマーク。さらに翌1958年には自ら記録を更新する154守備機会連続無失策の日本記録(当時)を達成した。1960年に現役を引退。
引退後は、東映のコーチとなった後に1982年から1年間、ロッテオリオンズの取締役球団代表を務めた。
2006年3月16日、胆管癌のため死去。享年76。
詳細情報
各年度の太字はリーグ最高
3 (1956年 - 1960年)
63 (1961年 - 1965年)