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石村善助
石村 善助(いしむら ぜんすけ)さんの誕生日は1924年9月14日です。福岡出身の法学者のようです。
略歴、エピソードなどについてまとめました。家族、卒業に関する情報もありますね。
石村 善助(いしむら ぜんすけ、1924年(大正13年)9月14日 - 2006年7月30日)は、日本の法学者。専門は、民法・法社会学。学位は、比較法修士(Master of Comparative Law (M.Comp.L.))、法学博士(東京大学・論文博士・1961年)。東京都立大学名誉教授。2003年4月、勲三等瑞宝章受章。 福岡県福岡市生まれ。誕生日(9月14日)がオイゲン・エールリッヒと同一である。実家は福岡市の土産菓子として知られる鶴乃子などを製造販売する石村萬盛堂。 東京帝国大学在学中の勤労動員で静岡県の山村に滞在時、学生の状況を知るため巡回していた教授陣の一員であった川島武宜と出会う。農山漁村を実態調査したばかりだという川島の話に魅了された石村は、戦後、指導教授として川島に師事する。 民法、とりわけ婚姻や養子など家族法を研究の出発点としたが、偶然見学した小炭鉱の実態に驚き、その調査を始めることを端緒に法社会学の領域に入る。 それ以来、エールリッヒに影響された当時の一般的傾向に従い、日本社会の法慣習(家族、土地、林野、入会、温泉、鉱山等)の調査、その後、法現象、中でも裁判・弁護士研究、立法や法意識といった問題に関心を向け、計量的方法を応用するなど、一貫して「実証研究」を主とする研究を行う。 他方、「生ける法」の探求に傾斜した研究法に対して「法会学は何をなすべきか」、また、古典法社会学に関する石村自身の理解への疑問に、 シカゴ大学ロー・スクールに留学した時に、マックス・ラインシュタインやニコラス・ティマーシェフから学び、示唆されて志した「固有の法社会学」、すなわち、川島の「法の社会制御モデル」を膨らませ、さらにエールリッヒやマックス・ウェーバーなどの古典家に対する理解をも付加した「システムとしての法」として理論的再構築を行うことを以て答えた。 モットーはラインシュタインの言辞でもある「Challengingであれ」。 略歴1924年9月 - 福岡県福岡市に生まれる 福岡市立福岡商業学校(現:福岡市立福翔高等学校)入学後、福岡県立福岡中学校(現:福岡県立福岡高等学校)に転校、卒業 1943年10月 - 東京帝国大学法学部政治学科入学 1946年9月 - 同上卒業 1947年4月 - 東京帝国大学法学部助手 1950年4月 - 東京都立大学人文学部専任講師 1954年10月 - 東京都立大学人文学部助教授 1957年4月 - 東京都立大学法経学部助教授 1959年4月 - 東京都立大学法経学部教授 1962年9月 - シカゴ大学・ロー・スクールに留学(1963年12月まで) 1964年
8月 - カリフォルニア大学バークレー「法と社会」研究センターおよびコロンビア大学社会学部滞在( 1965年8月まで) 1966年4月 - 東京都立大学法学部教授 1970年9月 - 第七回「国際社会学会」(ブルガリア・ヴァルナ市)出席およびコーネル大学滞在(1971年8月まで) 1979年10月 - カリフォルニア大学バークレー「法と社会」研究センター滞在( 1980年7月まで) 1985年
4月 - 専修大学法学部教授 6月 - 東京都立大学名誉教授 1991年4月 - 専修大学大学院法学研究科長( 1993年3月まで) 1995年
8月 - 第31回国際・法社会学学術大会(東京大学) 2003年4月 - 勲三等瑞宝章受章 2006年7月 - 東京都内の病院で逝去。享年82 エピソード若き日、農山村調査に熱中していた頃、原田慶吉から「それで学問になりますか?」と問われショックを受けた一方で、研究を続けて行くための励みになったという。 2024/05/16 09:42更新
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ishimura zensuke
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