石破二朗の情報 (いしばじろう) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
石破 二朗さんについて調べます
■名前・氏名 |
TOPニュース
石破二朗と関係のある人
遠藤茂: 石破二朗 遠藤茂: 特にアメリカ軍美保基地の日本返還後における自衛隊の配備を巡って自由民主党と対立、その結果1958年の知事選挙において自由民主党は建設事務次官の石破二朗を擁立した。 平井伸治: これにより平井は石破二朗、西尾邑次の4回を越える鳥取県知事最多当選記録を更新した。 安孫子藤吉: 1980年12月から1981年11月まで病気で途中辞任した石破二朗の後任として鈴木善幸内閣の自治大臣兼国家公安委員長を務め、1986年に政界を引退。 西尾邑次: 石破二朗 石破茂: 父は、建設事務次官、鳥取県知事、参議院議員、自治大臣などを歴任した石破二朗。 石破茂: 1958年に父石破二朗が鳥取県知事に就任した為、鳥取県へ転居。 平林鴻三: 石破二朗 西尾愛治: 石破二朗 |
石破二朗
石破 二朗(いしば じろう)さんの誕生日は1908年7月29日です。鳥取出身の政治家のようです。
人物像、受章歴などについてまとめました。卒業、事件に関する情報もありますね。
石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29日 - 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の内務・建設官僚、政治家。正三位・勲一等瑞宝章。 参議院議員(2期)、鳥取県知事(第39代)。鈴木善幸内閣において、自治大臣(第28代)兼国家公安委員会委員長(第38代)を務めた。 自由民主党幹事長や農林水産大臣などを務めた石破茂の父。 1908年(明治41年)
1921年(大正10年)
1925年(大正14年)
1928年(昭和3年)
1932年(昭和7年)
5月 - 内務省社会局属保険部勤務 11月 - 警視庁属保安部健康保険課勤務 1933年(昭和8年)
1935年(昭和10年)
1936年(昭和11年)
7月 - 従七位 1937年(昭和12年)
1938年(昭和13年)
7月 - 高等官六等 8月 - 学務部教育課長兼社会教育課長、正七位 12月 - 厚生事務官失業対策部勤務 1939年(昭和14年)
1940年(昭和15年)
7月 - 高等官五等 8月 - 従六位 11月 - 紀元二千六百年祝典記念章 1941年(昭和16年)
1942年(昭和17年)
9月 - 高等官四等 12月 - 正六位 1943年(昭和18年)
3月 - 陸軍司政官 昭南軍政監部 1944年(昭和19年)
11月 - 従五位 1947年(昭和22年)
7月 - 総理庁事務官、戦災復興院総裁官房勤務 8月 - 戦災復興院特別建設局業務部総務課長。業務部長心得 9月 - 業務部物資課長兼務 12月 - 特別調達庁勤務 1948年(昭和23年)
7月 - 契約局次長 1949年(昭和24年)
1950年(昭和25年)
7月 - 建設事務官建設省監察官 1951年(昭和26年)
1952年(昭和27年)
8月 - 建設大臣官房長 1955年(昭和30年)
11月 - 建設事務次官 1958年(昭和33年)
12月 - 鳥取県知事に就任 1962年(昭和37年)
1964年(昭和39年)
12月 - 日本赤十字社鳥取県支部長 1966年(昭和41年)
11月 - 鳥取県知事に再任 1967年(昭和42年)
1970年(昭和45年)
1974年(昭和49年)
7月 - 参議院議員当選 12月 - 国土開発幹線自動車道建設審議会委員 1979年(昭和54年)
1980年(昭和55年)
7月 - 自治大臣、国家公安委員会委員長就任 12月 - 癌手術のため、自治大臣、国家公安委員会委員長を辞任。 1981年(昭和56年)
11月3日 - 鳥取県八頭郡郡家町(現・八頭町)の墓地に納骨。 人物像清貧と努力の人である。 農本思想の持ち主である。 儒教精神を尚ぶ。 故郷を忘れず義と理に厚い。 古武士的性格である。 元鳥取県八頭地方農林振興局長の井上正太郎によると、 元鳥取県農林部長の福政實によると、 元衆議院議員の山本幸雄によると、 太宰治、永井荷風の著作物を好む。 宗教は浄土宗。 田中角栄元首相は友人である。安田貞栄境港市長(第3代)が石破に「あなたは元気である限り、本県県政を担当願うことが県民のためになると思う。それほどあなたを高くかっておるが東京では(自民党の)田中派に属しておることが釈然としませんね」と言った時「君は田中という人を知らんからだ。実は自分が初めて鳥取県知事に立候補して現職知事(遠藤茂)との一騎討ちのきびしい選挙を戦い当落の決まる夜娘2人が東京の家でラジオの報道をはらはらした心持ちで聞いておるときに田中さんは心配だろうと娘たちと一緒に炬燵にあたって一喜一憂してくれたのだ。当選がきまったら「これでお二人とも安心だね」と言って帰ったそうだ。これに心を打たれるではないか。付け焼刃でできることではない」と述べた。 1955年(昭和30年)に自由党時代の田中から東京都知事選挙に出馬するように請われたが、「東京都知事にはならない、鳥取県知事に請われればなる意志がある」と答えた。田中は「何故日本で一番小さい鳥取県の知事を望むのだ」とたずねると「私は鳥取県人である、鳥取に生まれ育ち、そして死ぬのである。小さくとも我が県は鳥取県である」と明快に答えた。田中は「君が郷土を思う至情に打たれた」と述べている。 受章歴1940年(昭和15年)4月29日 - 勲六等瑞宝章 1943年(昭和18年)2月9日 - 勲五等瑞宝章 1981年(昭和56年)9月16日 - 勲一等瑞宝章 2024/05/16 15:10更新
|
ishiba jirou
石破二朗と同じ誕生日7月29日生まれ、同じ鳥取出身の人
石破二朗と近い名前の人
話題のアホネイター
話題の芸能人・有名人
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「石破二朗」を素材として二次利用しています。