西村一孔の情報(にしむらかずのり) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
西村 一孔さんについて調べます
■名前・氏名 |
西村一孔と関係のある人
豊田泰光: 大会では、1回戦で都留高の矢頭高雄-西村一孔の強力バッテリーを打ち崩して5-0と勝利。 西村公一: 阪神で投手として活躍し、新人王を獲得した西村一孔は実兄。 三船正俊: タイガースにおいては、三船以降、ルーキーが開幕投手を務めたのは、三船の3年後、1955年の西村一孔のみである。 矢頭高雄: “猛虎偉人伝2 満開の桜のように散った豪腕 西村一孔 その1”. げんまつWEBタイガース歴史研究室. 2012年11月27日閲覧。 御園生崇男: 1951年に現役引退を表明し、翌年から1958年まで一軍投手コーチ、二軍監督を歴任して渡辺省三、小山正明、西村一孔を指導、育成した。 大石正彦: 甲府商業時代はエースで6番打者として活躍し、2年次の1952年には夏の山静大会決勝戦で矢頭高雄-西村一孔がバッテリーを組んでいた都留高と対戦。 市川治彦: 1952年には夏の山静大会決勝戦で矢頭高雄、西村一孔がバッテリーを組んでいた都留高校と対戦し、延長21回の末に2-1で敗れ、甲子園出場はならなかった。 三林清二: 7月24日には大阪タイガースの西村一孔と投げ合い、初完投を果たすが0-2で敗戦投手となった。 今井雄太郎: また、テイクバックが小さい、典型的な「かつぎ投げ(捕手が送球するような投げ方)」で、一般にかつぎ投げは投手寿命を短くすると言われていたが(例・阪神タイガースの西村一孔)、今井は天性の下半身と地肩の強さで20年以上活躍し続けた。 福嶋一雄: 全藤倉との決勝では西村一孔と投げ合うが、1回に2失点を喫しマウンドを降りる。 矢頭高雄: この時にバッテリーを組んだのは、1歳年下で、後に投手として大阪タイガースに入団し、新人王になった西村一孔であった。 田代照勝: 8月4日に大阪タイガースを相手に初先発、西村一孔と投げ合い、8回を3失点に抑えるが敗戦投手となった。 榎田大樹: 公式戦全体では、西村一孔(1955年)の60試合を上回る球団新人新記録の62試合に登板した。 |
西村一孔の情報まとめ
西村 一孔(にしむら かずのり)さんの誕生日は1935年10月11日です。山梨出身の野球選手のようです。
卒業、現在、引退、兄弟に関する情報もありますね。1999年に亡くなられているようです。
西村一孔のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 西村 一孔(にしむら かずのり、1935年10月11日 - 1999年3月1日)は、山梨県北都留郡富浜村(現・大月市富浜町)のプロ野球選手(投手)。愛称は、名前を音読みした「いっこう」。また、「西村一」とも書かれる。この愛称及び表記は、1955年シーズンに、同姓の西村孜(にしむら つとむ)投手が阪神に在籍していたためである。 初年度の華々しい活躍と、翌年以降の故障による選手生命の途絶から、阪神タイガースファンや関係者の間で『1年で散った伝説の剛腕投手』として語られる選手である。 山梨県北都留郡富浜村(現・大月市富浜町)の出身。山梨県立都留高等学校では、2年次に1952年の夏の甲子園に捕手兼控え投手として出場した。この時バッテリーを組んだのは、1歳年上で後に大毎オリオンズで野手として活躍する矢頭高雄であった。この時は、山静大会準決勝で同年の春の甲子園優勝の静岡県立静岡商業高等学校を、決勝では甲府市立甲府商業高等学校を延長21回に及ぶ激戦の末に破り、甲子園出場を決めている。この甲子園では、豊田泰光・加倉井実を擁する茨城県立水戸商業高等学校に敗れ1回戦で敗退した。この試合で、西村は5番・捕手として先発出場し1安打を放っている。ただし、この時期に捕手として出場したのは、正捕手の選手が故障したためで、急遽西村が捕手として出場したとも伝わる。エースであった矢頭が抜けた後は、西村が都留高校のエースとなったが、甲子園には及ばなかった。 高校卒業後、藤倉電線に就職。藤倉電線の社会人チーム、全藤倉に所属した。高校時代は無名の選手だったが、全藤倉の監督だった吉田正男の目に留まり、投手に専念することになる。1954年の都市対抗野球には、東京都代表として出場。初戦から3試合連続完封、27イニングス無失点を記録し、注目を浴びる。この都市対抗野球では、チームも準優勝している。同年冬、大阪タイガースに入団が決まる。1954年オフのタイガースには西村を含めて計18人の新人が入団したが、その中でも西村の契約金・年俸はトップであった。 1955年、タイガースでは3人目のルーキーの開幕投手となる。同年のタイガースには、藤村隆男、渡辺省三、小山正明といった好投手が在籍していたが、その中でルーキーの西村が開幕投手に選出された。2019年現在、西村以降のタイガースではルーキーの開幕投手は出ていない。開幕戦の対大洋戦では6回を2失点に抑え、勝利投手となっている。この年は60試合に登板し22勝17敗、防御率2.01の大活躍を見せ、タイガースの選手としては初となる新人王を獲得する。また、同年のオールスターゲームにファン投票で選出されている。同年のオールスターは2試合開催されたが、西村は両試合に先発した。同年に記録した302奪三振は、当時日本プロ野球歴代2位の記録(当時歴代1位は、同年に350奪三振を記録した金田正一(国鉄))で、2012年現在、セ・リーグ歴代10位、日本プロ野球歴代17位の記録である。ルーキーとしては310奪三振(歴代14位)の権藤博(1961年、中日)に次ぐ歴代2位の記録である。また、300奪三振を記録して最多奪三振を獲得できなかったのは、西村に加えて、金田正一(306奪三振、1957年、国鉄)、稲尾和久(321奪三振、1959年、西鉄)の計3名のみであり、西村は300奪三振を記録した投手の中で唯一最多奪三振の経験がない選手でもある。また同年の西村の投球回は295.1回であり、302奪三振は投球回数を上回る数である。規定投球回以上の投手で奪三振が投球回を上回ったのは戦後初の記録であった。加えて、この年に記録した60試合登板は、長らく阪神タイガースの球団新人登板数記録であり、2011年に榎田大樹が62試合登板を果たすまで、56年間破られなかった。 この年の酷使の影響で肩を痛め、翌1956年の開幕には間に合わなかった。肩の状態が回復し、7月頃からようやく一軍の試合に出場するようになったものの、それから間もなく盲腸炎を発症する。優勝争いを演じていたチーム事情もあって、手術を行わず注射で対処していたため、結果的に盲腸炎をこじらせてしまう。シーズンオフに手術を受けたものの、二か月間の入院生活を余儀なくされた。 1957年には、前年に回復しつつあった肩を本格的に痛め、5試合の登板に終わる。結果的にこの肩の故障が、西村の選手生命を断つこととなった。翌1958年は、前年よりも多い12試合に登板したが、平凡な成績に終わっている。 その後は一軍で登板することは無く、1960年オフに現役を引退した。ルーキーイヤーの華々しい活躍から僅か6年(実働4年)、25歳での現役引退であった。『太く短い』と形容される野球人生であったが、西村は自らの野球人生について「悔いはないね」と語っていたと伝わる。 1961年シーズンはタイガースの二軍の投手コーチを務めたが、1年で退団。退団後、レストラン・ビクトリアに入社。最終役職は、専務取締役。1999年3月1日、胆管癌で死去。63歳だった。 向こうっ気の強い投手で、速球が大きな武器であった。特に、外角低めの速球に威力があった。西村より2年先に阪神タイガースに入団していた小山正明は、その速球の印象は今でも強烈に残っていると語っている。また、現代の投手で西村のような速球を投げる投手はいないとも述べている。この威力のある速球に加えて、縦割れの大きなカーブ(ドロップ)も武器としていた。 また、投球フォームに特徴のある選手で、小山正明はその投球フォームを『首を振って変な格好から投げてくる』と表現している。当時の雑誌には、「かつぎ投げ」と表現されており、テークバックが小さく、上体の力で速球を投げ込むタイプの投球フォームであった。この特異な投球フォームから上述の速球とカーブが繰り出され、打者は大いに手こずり、三振の山を築いた。 しかし、武器となった特異な投球フォームは、身体に負担がかかる投球フォームでもあった。小山正明は、西村の入団時から肩を壊すことを予見していたという。実際、西村は3年目に肩を本格的に痛め、その後復活することはできず、僅か6年(実働4年)でプロ野球選手を引退している。 現役晩年は、肩の故障からこの投球フォームを崩してしまっており、ボールをリリースする時に顔が完全に左下を向き、バッター方向を見ない変則的なフォームへと変貌していた。1957年オフにタイガースに入団し、3年間西村とチームメイトだった本間勝は、この頃の西村はかつての剛速球を失っていたと述べている。 1966年の第2次ドラフト1位で阪神に入団した西村公一は実弟。 新人王 (1955年) 初登板・初先発登板・初勝利・初先発勝利:1955年4月5日、対大洋ホエールズ1回戦(阪神甲子園球場)、6回2失点 オールスターゲーム出場:1回 (1955年) 20 (1955年 - 1960年) 61 (1961年 - 同年6月5日) 60 (1961年6月6日 - 同年終了) ^ 1人目は1936年春の藤村富美男、2人目は1952年の三船正俊。1936年春シーズンは日本プロ野球1年目のため、全員がルーキーである。これを除くと、西村は三船に続く2人目のルーキーの開幕投手となる。 ^ 例外として、来日1年目のマット・キーオが1987年に開幕投手を務めている。 ^ ただし、タイトルに制定されたのはパ・リーグが1989年、セ・リーグが1991年からである。 ^ 戦前では1936年秋に内藤幸三が記録。後に、セ・リーグでは金田正一(1959年、国鉄)、江夏豊(1968年、1969年、1970年、1971年、阪神)らが記録している。パ・リーグでは小川博(1988年、ロッテ)が初めて奪三振が投球回を上回り、最多奪三振のタイトル創設のきっかけとなっている。 ^ 藤本定義ヘッド兼投手コーチが、金田正泰監督の辞任を受けて代理監督になった際、背番号を交換した。 ^ 本間勝. “35人目 西村一孔 球団初の新人王の 太く短かった野球人生|本間勝交遊録”. 月刊タイガースweb. 2014年5月24日閲覧。 ^ 小山正明. “西村一孔編 1年で散った豪腕 22勝で新人王”. デイリースポーツ. オリジナルの2010年9月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100902004413/http://www.daily.co.jp/information/feature/0003215061.shtml 2012年8月9日閲覧。 ^ “甲子園ファンが願う“ミラクル市川”復活”. ZAKZAK. (2011年12月11日). https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20111211/bbl1112110850001-n1.htm 2013年4月21日閲覧。 ^ 内田雅也 (2012年3月27日). “猛虎人国記 (44) 〜山梨県〜 桜のように咲き、散った剛腕”. スポーツニッポン. https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002920180.html 2013年8月3日閲覧。 ^ “歴代最高記録 奪三振【シーズン記録】”. 日本野球機構. 2012年11月26日閲覧。 山梨県出身の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 兄弟スポーツ選手一覧 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 佐藤孝夫 1953 権藤正利 1954 広岡達朗 1955 西村一孔 1956 秋山登 1957 藤田元司 1958 長嶋茂雄 1959 桑田武 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 城之内邦雄 1964 高橋重行 1966 堀内恒夫 1967 武上四郎 1968 高田繁 1969 田淵幸一 1970 谷沢健一 1971 関本四十四 1972 安田猛 1974 藤波行雄 1976 田尾安志 1977 斉藤明雄 1978 角三男 1979 藤沢公也 1980 岡田彰布 1981 原辰徳 1982 津田恒美 1983 槙原寛己 1984 小早川毅彦 1985 川端順 1986 長冨浩志 1987 荒井幸雄 1988 立浪和義 1989 笘篠賢治 1990 与田剛 1991 森田幸一 1992 久慈照嘉 1993 伊藤智仁 1994 藪恵市 1995 山内泰幸 1996 仁志敏久 1997 澤﨑俊和 1998 川上憲伸 1999 上原浩治 2000 金城龍彦 2001 赤星憲広 2002 石川雅規 2003 木佐貫洋 2004 川島亮 2005 青木宣親 2006 梵英心 2007 上園啓史 2008 山口鉄也 2009 松本哲也 2010 長野久義 2011 澤村拓一 2012 野村祐輔 2013 小川泰弘 2014 大瀬良大地 2015 山﨑康晃 2016 髙山俊 2017 京田陽太 2018 東克樹 2019 村上宗隆 2020 森下暢仁 2021 栗林良吏 2022 大勢 2023 村上頌樹 表 話 編 歴 1936春夏 藤村富美男 1936秋 若林忠志 1937春 景浦將 1937秋 若林忠志 1938春 御園生崇男 1938秋 青木正一 1939 若林忠志 1940 木下勇 1941 若林忠志 1942 若林忠志 1943 三輪八郎 1944 若林忠志 1946 渡辺誠太郎 1947 若林忠志 1948 御園生崇男 1949 若林忠志 1950 内山清 1951 内山清 1952 三船正俊 1953 藤村隆男 1954 小山正明 1955 西村一孔 1956 小山正明 1957 西尾慈高 1958 渡辺省三 1959 小山正明 1960 村山実 1961 小山正明 1962 小山正明 1963 小山正明 1964 村山実 1965 G.バッキー 1966 村山実 1967 村山実 1968 村山実 1969 江夏豊 1970 江夏豊 1971 江夏豊 1972 古沢憲司 1973 江夏豊 1974 江夏豊 1975 江夏豊 1976 古沢憲司 1977 江本孟紀 1978 江本孟紀 1979 江本孟紀 1980 小林繁 1981 小林繁 1982 小林繁 1983 小林繁 1984 野村収 1985 池田親興 1986 池田親興 1987 M.キーオ 1988 仲田幸司 1989 仲田幸司 1990 中西清起 1991 野田浩司 1992 葛西稔 1993 仲田幸司 1994 湯舟敏郎 1995 湯舟敏郎 1996 藪恵壹 1997 川尻哲郎 1998 藪恵壹 1999 藪恵壹 2000 星野伸之 2001 星野伸之 2002 井川慶 2003 井川慶 2004 井川慶 2005 井川慶 2006 井川慶 2007 下柳剛 2008 安藤優也 2009 安藤優也 2010 安藤優也 2011 能見篤史 2012 能見篤史 2013 R.メッセンジャー 2014 能見篤史 2015 R.メッセンジャー 2016 R.メッセンジャー 2017 R.メッセンジャー 2018 R.メッセンジャー 2019 R.メッセンジャー 2020 西勇輝 2021 藤浪晋太郎 2022 藤浪晋太郎 2023 青柳晃洋 2024 青柳晃洋 日本の野球選手 山梨県立都留高等学校出身の人物 全藤倉及びその前身チームの選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 セントラル・リーグ最優秀新人 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 20世紀日本の実業家 山梨県出身のスポーツ選手 胆管癌で亡くなった人物 1935年生 1999年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/14 14:59更新
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nishimura kazunori
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