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針生一郎
針生 一郎(はりう いちろう)さんの誕生日は1925年12月1日です。宮城出身の美術評論家のようです。
職歴、著書などについてまとめました。卒業、解散、映画に関する情報もありますね。
針生 一郎(はりう いちろう、1925年12月1日 - 2010年5月26日)は、日本の美術評論家、文芸評論家。和光大学名誉教授。 宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。 大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年、軍国少年だったことへの反省から日本共産党に入党したが、1961年、60年安保闘争時の時の共産党の指導方針を批判して除名される。 反権威的な美術評論・文芸評論で活躍、日本藝術院批判の急先鋒でもあった。1970年の大阪万博に反対。第三世界にも目を向けた活動を行った。新日本文学会の活動にも積極的に参加し、2005年の会の解散時には議長の任にあたっていた。 国際美術展などのプランナーとしても活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には、韓国で開催された光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2002年、自由な作品発表・批評の場として来場者による参加型のアートスポット「芸術キャバレー」(主催:JAALA海外交流部)を設立、戦争と芸術のテーマで連続講座を開催するなど積極的な活動を行う。 また、ドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』(大浦信行監督:2005年)へ出演し、話題となった。 多摩美術大学教授、和光大学教授、岡山県立大学大学院教授などを歴任。美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長なども務めた。 2010年5月26日、川崎市で急性心不全により逝去(享年84)。 職歴多摩美術大学教授 和光大学教授 岡山県立大学大学院教授 金津創作の森館長 著書芸術の前衛 弘文堂 1961 われらのなかのコンミューン 現代芸術と大衆 晶文社 1964 現代美術のカルテ 現代書房 1965 針生一郎評論 第1-6 田畑書店 1969-1970 文化革命の方へ 芸術論集 朝日新聞社 1973 現代の絵画 23 今日の日本の絵画 平凡社 1977.8 戦後美術盛衰史 東京書籍 1979.3 (東書選書) 言葉と言葉ならざるもの 三一書房 1982.1 わが愛憎の画家たち 平凡社選書 1983.2 修羅の画家 評伝阿部合成 岩波書店 1990.11 (同時代ライブラリー) 2024/05/13 21:04更新
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hariu ichirou
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2014年東京都知事選挙 新社会党 国民 吉田万三 東京・生活者ネットワーク 日本未来の党 共生新党 維新 緑の党 トクマ
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