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魁皇博之の情報 (かいおうひろゆき)
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【6月1日】今日誕生日の芸能人・有名人

魁皇博之の情報(かいおうひろゆき) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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魁皇 博之さんについて調べます

■名前・氏名
魁皇 博之
(読み:かいおう ひろゆき)
■職業
相撲
■魁皇博之の誕生日・生年月日
1972年7月24日 (年齢51歳)
子年(ねずみ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
福岡出身

魁皇博之と同じ1972年生まれの有名人・芸能人

魁皇博之と同じ7月24日生まれの有名人・芸能人

魁皇博之と同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


魁皇博之と関係のある人

甲斐よしひろ: 同じ福岡県出身ということで、大関力士の魁皇博之を応援するメッセージを、雑誌『相撲』に寄せたことがある。


栃乃洋泰一: 魁皇博之との対戦成績は通算12勝25敗だが、2003年は大阪場所(3月場所)から九州場所(11月場所)まで5連勝した。


出羽錦忠雄: 16年10ヶ月の在位期間は、年6場所制が定着した1958年以降では2010年に魁皇博之が更新するまで歴代1位の記録であった。


魁皇博之の情報まとめ

もしもしロボ

魁皇 博之(かいおう ひろゆき)さんの誕生日は1972年7月24日です。福岡出身の相撲のようです。

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取り口、エピソードなどについてまとめました。引退、兄弟、卒業、結婚、離婚、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。魁皇博之の現在の年齢は51歳のようです。

魁皇博之のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

魁皇 博之(かいおう ひろゆき、1972年(昭和47年)7月24日 - )は、福岡県直方市出身で友綱部屋に所属した元大相撲力士。本名は古賀 博之(こが ひろゆき)。最高位は東大関。愛称はキンタ、ゴリラ、ゴリライモ。血液型はA型。

得意手は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げ。好物はステーキ。

引退後は年寄・浅香山を襲名し、浅香山部屋を設立している。

3人兄弟の末っ子として生を受けた。出生時の体重が4250グラムの巨体であった。直方市立直方東小学校時代は空手を習っており、小学4年のころから福岡県の相撲大会に出場していた。直方市立第二中学校2年生の時に、友人からの誘いで柔道をはじめ、中学3年生時点で握力は85キロあったという。その巨体から、相撲部顧問の教師に相撲を勧められ、町内の相撲大会に出場していたが、実力的にはまだまだ取り立てて強かったわけでもなく相撲を取るのが楽しかったという思い出もなかったという。

入門前は、元大関北天佑の大ファンだったと言われている。北天佑も魁皇も、共に上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われた。

中学時代、友綱部屋の後援者が相撲大会を観戦しており、勧誘されたことがきっかけで卒業後に友綱部屋に入門した 。進路に迷っていた際に友綱部屋の稽古を見学に行き、ちゃんこを食べさせてもらい本場所のチケットももらった。「なんとなく断れない状況だった。おれって、嫌と言えない性格だから」と後に振り返っている。古賀少年の「俺、九重部屋にでも見学に行こうかな」という何気ない一言を聞いた周囲の大人が、角界入りする意志があるのだろうと早とちりして入門を根回ししたという話もある。

1988年3月場所で、「古賀」の四股名で初土俵を踏んだ。同期には大海(後に64代横綱・曙)、貴花田(後に65代横綱・貴乃花)、若花田(後に66代横綱・3代若乃花)、和歌乃山(後に小結)、力櫻(後に幕内、プロレスラーに転向)など有望な新弟子がおり、「花の六三組」とも称された。貴乃花・和歌乃山・力櫻とは同い年・同学年であった。なお、入門当初は力士の名前をほとんど知らず、勧誘を受けるまで相撲部屋の存在すら知らなかった(当時はインターネットなど存在しなかったので相撲について気軽に知ることはできなかった)。

初めて番付に載った同年5月場所では負け越すなど滑り出しは良くなく、相撲嫌い と慣れない上京生活に苦しみ、入門半年後に脱走を試みたが、脱走先が後援者の家であったためすぐに連れ戻されてしまい、本人も脱走という行為に後悔を感じて部屋に戻る。その後は、花田兄弟や曙のような超特急の昇進とはいかないもののスピード出世を果たし、幕下時代の1991年九州場所で5勝2敗と勝ち越した。

1992年初場所で十両昇進。親方の「頂点を極めてほしい」との希望から四股名を「魁皇」と改名。1993年5月場所で新入幕となり、若手の有望株として注目を集めた。

新入幕場所は4勝11敗と大きく負け越し十両に陥落したが、同年11月場所に再入幕し10勝を挙げ、1994年3月場所には対横綱戦初挑戦で曙を下し、初金星を獲得したほか、若ノ花、武蔵丸の2大関を下すなど、初の三賞となる殊勲賞を受賞した。翌5月場所には小結に昇進し、1995年1月場所の新関脇場所から13場所連続で関脇に在位した(豪栄道に次ぐ歴代2位)。

その後も度々三役に上がり、大関候補として期待を寄せられたが、1997年5月場所11日目の貴ノ浪戦で左太股を故障し、怪我の回復が遅れて3場所連続休場するなど、足踏みする時期が長く続いた。大関昇進までに2度の優勝同点、4度の優勝次点、史上3位の15回の三賞受賞などを記録し、強豪力士の一人として曙・貴乃花全盛の1990年代の土俵に在った。1999年5月場所では終盤8連勝で12勝し敢闘賞を受賞したが、次の場所は8勝で終わり、11月場所では終盤9連勝で11勝し敢闘賞を受賞したが、次の場所で7勝と負け越した。この2000年1月場所は千秋楽7勝7敗で、初優勝を狙う武双山を相手に負けて優勝を献上し、自身は負け越しで6場所ぶりに関脇から陥落しただけに、後に本人も「あれほど屈辱的なことはなかった」と悔いている。周囲からもここまで言われるのかと思うほどきついことを言われた魁皇は、それまで全くしてこなかったウエイトトレーニングを導入し、左腕や体の前面の筋肉の弱さを補った。

小結で迎えた2000年5月場所では、14勝1敗で幕内初優勝を果たす。福岡県出身力士としての優勝は1932年3月場所の小結沖ツ海(9勝1敗)以来2人目で、68年ぶりの快挙であった。「賜杯は重い。優勝の重さを感じた。何回も夢に見たんだ」と悲願の初優勝の感想を語った。

次の翌7月場所は通算7回目の大関取り場所となり、横綱・貴乃花に3場所連続勝利するなど11勝4敗とし、場所後の臨時理事会・番付編成会議ではわずか2分の審議で満場一致で大関昇進が決まった。なお魁皇の関脇在位は21場所で、当時長谷川・2代目琴錦(二人共元関脇)と並ぶ史上1位タイの記録であったが、のちに大関となった力士は魁皇のみである。また三役(関脇・小結)在位は32場所で、2代琴錦の34場所に次ぐ史上2位の記録である。昇進伝達式では「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬようけいこに精進します」と口上を述べた。3場所通算33勝で大関昇進の目安は満たすものの、最近の大関昇進の勝ち星数の平均からは劣るという指摘に審判部長の境川(元横綱・佐田の山)は「勝ち星数じゃない。ポカがあってもいい。強いと誰もが認めたんだ」と述べ、力士としての力の「絶対評価」で大関昇進を決めたことを強調した。

大関昇進は千代大海・出島・武双山・雅山らに遅れをとったが、大関としては合計4度の優勝(2001年3月場所、2001年7月場所、2003年7月場所、2004年9月場所)を経験した。しかし、怪我の多さや精神的な脆さが露呈し、途中休場して綱取りのチャンスを無下にしてしまうことも多かった。

32歳となる2004年は、全場所で二桁勝利を記録。9月場所には千秋楽で朝青龍に勝ち13勝2敗で5回目の優勝を遂げた。4度目の綱取りとなる翌11月場所では、2003年3月場所から続く日本人横綱不在に終止符を打って欲しいという期待が集まった。しかし初日に琴光喜に負け10日目に新鋭だった白鵬にも負け2敗、さらに12日目に雅山に負け3敗を喫し優勝争いから脱落。それでも「千秋楽で横綱朝青龍を破っての優勝次点なら昇進の可能性がある」との発言が当時の押尾川(元大関大麒麟)審判部長からあり、千秋楽の結びの一番への期待が高まった。千秋楽では朝青龍を万全の相撲で下し12勝3敗、横綱昇進決定かと思われたが、結局昇進は見送られた。翌2005年1月場所までも綱取り場所とされたが、怪我で途中休場して失敗に終わった。

2005年1月場所から2006年3月場所までは、途中休場により翌場所大関角番・角番脱出の繰り返しが続き、大関の地位を辛うじて維持するという状況だった。特に9回目の大関角番となった2006年3月場所は、序盤から本来の相撲が取れず負けが先行すると引退を示唆したが、師匠の友綱親方(元関脇魁輝)と相談の上、もし負け越して大関陥落が決まれば引退する決意も固めていた。12日目朝青龍に敗れ5勝7敗と絶体絶命だったが、魁皇はそこから踏ん張って出島・琴光喜に連勝し14日目で7勝7敗に。そして千秋楽では朝青龍と優勝を争った白鵬(当時関脇)を寄り切って8勝7敗、辛うじて勝ち越しを決め角番を脱した。2006年5月場所以降は、千秋楽まで皆勤出場場所が増えたものの、成績は10勝すらままならず勝ち越しても8・9勝と1桁勝ち星がやっとの状態が多く、何度も引退の危機を迎えていた。

2007年9月場所4日目の小結安馬(現・日馬富士)戦で、幕内通算706勝を達成したが、その2日後、右太腿の負傷を悪化させ途中休場となった。翌11月場所は、2006年同様に再起をかける場所となったが、14日目で勝ち越して11度目の角番を脱出、引退の危機から免れた。

2008年8月のモンゴル巡業では、当時の両横綱朝青龍、白鵬などモンゴル出身力士以上の大人気ぶりだった。2008年11月場所前、大関琴欧洲との稽古で右足を痛め、休場が濃厚だったが強行出場した。しかし、3日目に前頭2枚目若の里との取組み中に左腕まで痛めてしまい途中休場した。

2009年頃からは満足な稽古もままならず、千代大海と共に角番を繰り返す状況を見かねた横審が「累積5回の角番で降格や引退勧告」なる具体案まで出すほどの風当たりの厳しさとなった。1月場所は千代大海と並んで1位タイとなる、12度目の大関角番となった。進退を賭けて場所入りし、12日目に前頭3枚目豪風を破って角番脱出、同時に引退危機も乗り越えた。その後3連敗したため場所を8勝7敗で終えた。その場所直後に虫垂炎で緊急入院、手術はせず薬で治療したが協会の公式行事は休場した。

2009年11月場所で幕内在位が98場所となり、元関脇・高見山の97場所を超える大相撲史上第1位の記録を達成した。同場所3日目に関脇・把瑠都を破って史上3人目の通算800勝を果たし、九重親方(58代横綱・千代の富士)は「私の幕内807勝(史上1位)を超えて欲しい」とエールを送った。さらに同場所10日目、大関琴欧洲を押し倒しての勝利で幕内805勝を達成、55代横綱北の湖の804勝を超えて幕内勝利数が単独第2位の記録となった。この年は2005年以降では最多となる年間48勝を記録した(2005年が39勝、2006年が40勝、2007年が44勝、2008年が43勝)。なお、この年は全6場所の成績がすべて8勝7敗であった。

2010年1月場所2日目に前頭2枚目豪栄道に勝ち、19年ぶりに横綱・千代の富士の持つ幕内通算白星807勝に並んだ。3日目にはその千代の富士の愛弟子である千代大海(当時・関脇)に対し、豪快な送り投げで勝利し、幕内通算808勝を達成して史上単独1位になった(千代大海はこの取組を最後に引退)。10日目には引き落としで日馬富士戦の連敗を8で止め、さらに13日目には2006年3月場所以来23場所ぶりに横綱白鵬を破り、白鵬戦での連敗を17で止めた。白鵬はこの敗北の翌日から63連勝を記録している。14日目には稀勢の里を上手投げで破って勝ち越しを決め、千秋楽でも同4枚目垣添を送り倒しで勝利し、8場所ぶりの9勝6敗で終えた。

2010年3月場所で幕内通算在位が100場所を迎え、この場所も8勝7敗と勝ち越した。3月30日、幕内在位100場所達成及び幕内通算勝利数を更新した功績を称え、日本政府は内閣総理大臣顕彰を魁皇に授与することを決定し、4月26日に総理大臣官邸で顕彰式が執り行われた。

2010年5月場所で十両以上の関取在位場所数が、史上単独1位である111場所となった。さらに千秋楽にて琴欧洲を破り、大相撲史上二人目となる通算1,000勝を達成した。2010年7月、場所前に大関琴光喜が解雇されたため、大関以上の日本人力士は魁皇のみとなり、同時に幕内最高優勝経験を持つ唯一の現役日本人力士ともなった。翌9月場所に13回目の大関角番を迎えたが14日目に勝ち越して角番を脱出した。

2010年11月場所は初日に安美錦に敗れるも、2日目から12日目まで11連勝の快進撃を続け優勝争いを演じた。13日目に1敗の白鵬、14日目に同じく1敗の同9枚目豊ノ島に敗れ優勝争いから脱落したが、千秋楽に大関把瑠都を破って2004年11月場所以来36場所ぶりの12勝3敗の好成績を挙げた。

2011年1月場所12日目に把瑠都を破って、大相撲史上初となる通算100場所勝ち越しを達成した。2011年5月技量審査場所12日目には、大相撲史上単独1位となる幕内出場回数・1,431回目を達成した。千秋楽では白鵬に右上手を掴んでの寄り切りで勝ち、通算勝ち星を1,044勝とした。

翌7月場所は、千代大海と並ぶ史上1位タイの大関在位数65場所目を迎えた。同場所では初日から3連敗し苦戦を強いられたものの、4日目で千代の富士の持つ通算1,045勝に並び、5日目に2勝目をあげて、通算勝星史上単独1位となる通算1,046勝の記録更新となった。その後は7日目に3勝目を挙げたが、この日の通算1,047勝目が現役最後の勝利となった。

2011年7月場所10日目の琴欧洲戦は、押し出されて3勝7敗となり、負け越しがほぼ確定的となった時点で、10日目の取組後記者懇談で「気力が出なくなった」と漏らし、宿舎に戻り師匠と話し合った末、現役を引退することを決めた。翌11日目の引退会見での魁皇は「最高の相撲人生でした。もう悔いも後悔も一切ありません」と安堵の笑みを浮かべながらインタビューに応えていた。

角番制度を利用すれば大関在位記録を歴代1位の66場所に伸ばすことができたが、戦友・千代大海への配慮からあえてそれをせず大関在位65場所で打ち止めた。

初土俵以来23年以上の長きに渡る現役生活、また2000年9月に大関に昇進して以来、10年以上に渡り関脇に一度も陥落することなく大関の座を守り続けた。また2007年9月場所の番付で、35歳の大関となり戦後最高齢記録を更新、2010年3月場所には昭和以降の最高齢大関在位記録をも更新した(2011年7月場所引退時で38歳11か月、従来は1932年10月場所、能代潟の37歳6か月)。2011年版ギネス世界記録に「幕内通算846勝」「幕内在位103場所」として掲載された。

福岡県知事・小川洋は2011年8月20日に、魁皇の長年の功績を讃えて「福岡県民栄誉賞」を故郷の直方市で贈った。また直方市も魁皇に「特別市民文化栄誉賞」を贈った。

断髪式と引退相撲は2012年5月27日に両国国技館で行われ、同期の貴乃花や曙ら、約340人がはさみを入れた。「正直に言えば、いろんなところでこみあげてくるものがあった。親の時は、がまんできなかった」と述べた。止め鋏の前には、史上単独1位となる通算1046勝目を挙げた取組の実況が再現され、約1万人の観衆でぎっしりと埋まった館内が“魁皇コール”に包まれると魁皇は「鳥肌が立った。最高の一日だった」と涙を流した。

引退相撲後の2013年3月からスポーツニッポン紙上で「我が道」を連載。また2013年2月の日本相撲協会役員改選に伴う人事異動では、地元である九州場所担当年寄に指名された。

2013年10月、2014年中に友綱部屋から独立して、東京都墨田区内に浅香山部屋を創設する意向であることを明かした。2014年1月30日の日本相撲協会理事会で、2月1日付で友綱部屋より独立して浅香山部屋を設立することが認められ、部屋持ち師匠として新たなスタートを切った。

2014年4月に発表された新たな職務分掌では委員に昇進し、審判部に配属された。

2019年7月場所後の番付編成会議で魁勝旦祈が浅香山部屋初の関取昇進を果たした。奇しくも元魁皇の47歳の誕生日に発表された。

2020年1月場所12日目には幕下の取組における勝負審判の職務中に土俵下に落下した幕下力士に直撃して右の股関節付近を痛め、車いすで両国国技館内の相撲診療所に直行した。「足を開いていたのを閉じようとしたら、その上に落ちてきた。右の股関節。音がしたので切れたと思う。右はやったことない。紋付きで(診療所に)行くなんて」と本人は痛みをこらえながら苦笑い。

2021年3月31日、照ノ富士春雄の大関復帰昇進の伝達式では、同じ一門の高島理事に同行し、使者を務めた。また同年7月21日、照ノ富士の横綱昇進の伝達式でも、高島理事に同行して使者を務めている。横綱に昇進した照ノ富士を指して「諦めなければこうなれる」と祝福した。

2023年2月1日付で審判部副部長に昇格。委員から役員待遇委員となり、理事会に出席する立場となった。2024年1月26日に、2月2日に開催される理事選が無投票となることが決定したため、立候補した浅香山は改選により理事に新任することが決定。同年3月25日の評議員会で理事就任が承認された。

2024年1月場所の職務は、体調不良のため12日目から休場。

貴闘力が2024年3月場所中に公開した談話によると、宮城野部屋閉鎖が決定的となった情勢で、同場所中に元白鵬の宮城野が協会が処遇を再考するように協会を説得してほしいと浅香山に頼んだという。

取り口

握力・腕力が非常に強く、入門して2年で、握力は90キロに到達。全盛期では110キロを記録し、入幕した頃には既にリンゴを握りつぶせたほどであった。左四つ右上手が絶対の形。右四つになることはまずないが、大関挑戦時に身につけた右からのおっつけで脇の固さも特徴である。

最も得意としたのは右からの豪快な上手投げ、小手投げで、魁皇の代名詞となった。一度右上手を取れば230kgを超える曙や武蔵丸ですら転がり、貴乃花に至っては土俵中央から土俵外へ吹っ飛んだほどである。小手投げに関しては、手繰りを活かして相手の肘を極めながら両手で抱え、力任せに横へ向かって打ち、浪之花、栃乃洋、琴龍、栃東、玉乃島、豪栄道、豊ノ島ら多くの力士がこれを受け、それぞれ左の肩、肘を負傷した。中でも浪之花は引退の直接的な原因となるほど深い負傷であり、玉乃島は怪我をして以降左腕が泣き所となってしまい、長期に渡り苦しんだ。数々の力士の腕を怪我させたことから、四股名をもじって「破壊王(魁皇)」と呼ばれ、重戦車と比喩されることも多かった。

1995年頃はまだ相撲の技術も発展途上で力任せで粗削りな取り口であった。取りこぼしが多かったのもまだ技術的に未熟な為であった。右上手を狙うといってもガバっと脇を開けて横から取りにいくため、体が右に傾き、相手に付け込まれる隙があった。

強引な投げで鮮やかな勝ちを収める相撲スタイルの代償として、大関昇進後は腰痛など怪我に悩まされることが多くなった。場所ごとの好不調の波が激しく、好調な時は横綱をも負かしてしまうが、不調な時は平幕にあっけなく負けることもあった。また、若いころには精神的に脆い面があり連敗癖があって、上位に定着しながら大関になかなか上がれなかった理由の一つでもある。ことに小心さは大関昇進前から広く知られていて、「気が優しくて力持ち」と言われる反面、「怪力だが気が弱い」「蚤の心臓」と揶揄されることもあった。

現役最晩年では怪我や加齢による衰えも顕著となり、立合いの鋭さ・重さに欠け、握力も70キロ台にまで落ちていた。左四つに組むことが難しくなり、組んでも左四つ得意の若手(稀勢の里、琴奨菊など)や、もろ差しがうまい豊ノ島には分が悪くなっていた。太ももの故障を抱えてからは、左右の動きが激しい相手に対処できずあっけなく土俵を割ることが増え、また上手投げが難しくなり叩きが増える相撲も多かった。

30代も半ばを過ぎた2007年7月場所から2010年9月場所まで20場所連続で二桁勝利を上げられず、休場と角番が増えた。この頃には、両差しから体格を利して一気に寄るという相撲も見せてはいるが、一方で立合いの駆け引きや変化・引き技に頼り、長年の経験と勝負勘の貯金で取っている相撲も増え、「勝っても首を捻る」光景がしばしば見られた。それでも守勢に回った際、手繰りや小手投げでしのぎつつ、時折左四つや突き押しを放ち豪快な相撲も見せていた。右上手を掴んだ際に沸き起こる観客の声援は非常に大きく、魁皇の相撲の型が広く知られていることを示していた。

朝青龍には12勝25敗と相性がやや悪かったが、朝青龍戦の12勝は白鵬(13勝)に次ぐ勝星である。そのうち2回は2連勝していた。白鵬には全盛期を過ぎたせいもあって全く歯が立たず、対戦成績は6勝27敗と大きく負け越していた。特に白鵬が大関に昇進してからは連敗が続き、大関時代の取組では1勝も出来なかった。白鵬の横綱昇進後も長らく勝てないまま17連敗していたが、ようやく2010年1月場所に白星を挙げた。2011年5月技量審査場所の千秋楽、7場所ぶりに白鵬を寄り切って勝利し、これが横綱白鵬との現役最後の対戦となった。

土俵上で制限時間一杯になると、最後の塩を撒いて締め込みを3回叩いた後、柏手を打って、もう1回叩いて仕切っていた。

エピソード

四股名に入っている「皇」の文字は出身の直方市がかつて「皇方」と表記されていたことに由来し、これをとって師匠の友綱がつけた。

現役当時の力士の中では、高見盛(最高位・小結)を凌ぐほどの、一番人気の高い力士の一人であった。福岡県出身だけに、福岡市で開催される九州場所での館内での声援は絶大で、11月場所(九州場所)での声援は他の力士を圧倒していた。

モンゴルでも人気が高く、白鵬の父であるジグジドゥ・ムンフバトが魁皇の大ファンで、白鵬を通じて魁皇に薬膳料理の食材を贈ろうとした。魁皇は、仕切り中に咳をすることが多いが、それを見た白鵬の父が魁皇を心配してのことで、白鵬は当時まだ関脇で、「大関の魁皇関に対して、関脇の分際でそんなことをすれば失礼になる」と言って、難色を示した。「平成の大横綱」となった白鵬は、魁皇の引退に「まさかだよね。場所前はそういう雰囲気ではなかった」と驚きながらも「名大関と対戦した事を誇りに思う。一番横綱に近い大関だった」と振り返っていた

魁皇の現役時代、地元の直方市では魁皇が勝利した場合、取り組みが終わった直後に花火が打ち上げられていた。当初は花火の打ち上げ免許を持つ男性が花火の打ち上げを担当していたが、2011年1月にその男性が亡くなってからは、地元の魁皇後援会の若者たちが花火の打ち上げを引き継いでいた(最後には、魁皇が引退した翌日の2011年7月20日に、魁皇と花火の打ち上げを行っていた男性に向けた感謝の花火打ち上げが行われた)。また、直方市の銘菓「成金饅頭」でも、地元出身の力士である魁皇を応援するため、11月場所の時には魁皇の焼印を押したものが販売されることもあった。

2014年には地元直方市の直方駅前に銅像が設置され、同年10月26日に除幕式が行われた。この銅像は除幕2日後に落書きが見つかり、同年10月から11月にかけてにさがり2本が計7回折られるなど相次ぐいたずらに見舞われ、これを受けて市は被害届を提出し、12月に防犯カメラ2台を設置するという対応に追われた

2001年10月に九州旅客鉄道(JR九州)筑豊本線・篠栗線(福北ゆたか線)博多駅 - 直方駅間で運行を開始した特急列車の名称「かいおう」にも採用された。人名、しかも存命中(さらに言えば、運行開始時に現役で活動中)の人物の名前がJRグループの列車名に採用されることは極めて異例で、出発式には魁皇本人も出席し、テープカットを行った。「かいおう」の運行決定は、魁皇が3度目の優勝をした2001年7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。魁皇の引退後も、JR九州は「かいおう」の名称について「(現時点では)改称の予定はない」とコメントしている。

妻は元プロレスラーの西脇充子。出会いは充子が卵巣がんの闘病生活を送る頃、「力士と会うと元気になるから」と病状を心配する知人に紹介されたのが、当時小結の魁皇だった。魁皇は充子との初対面の印象を「どんなに弱々しい女性が来るかと思ったら、美容師の友人が染めてくれたという金髪の頭で、すごい元気なんですよね。おまけに後輩のアジャ・コングまでいるし(笑)。『騙された~』と思ったくらいでしたよ」と振り返る。意気投合した二人はやがて交際を始め、魁皇が大関昇進前の1999年6月に結婚している。充子のほうが5歳年上の「姉さん女房」で、「ミッちゃん」「ヒロくん」と呼び合う仲だが、当初より「奥さんのほうが強そうだ」「(魁皇は)酒に強く妻に弱い」と評されるほどで、なかなか大関昇進がかなわない魁皇を叱咤激励し続けた。結婚式で充子は「浮気をするなら私にばれないように、責任をもって。自分でケツがふけるならばどうぞ」とくぎを刺し、魁皇は「絶対しません」と答えるしかなかった。夫妻の間に子供はいない。

西脇は現役時代の魁皇の身体のケアが大変だったと魁皇の引退後に振り返っており、現役終盤は腰痛が悪化していたためおちおち電球の交換も頼めなかった。「魁皇を買い物なんかに連れだしてんじゃねぇ」と相撲ファンに反発されるのを恐れ、当時は買い物もろくに一緒に行ったことが無かった。2人のデートも治療院と病院の2パターンのみであった。魁皇の引退後、引退相撲開催を巡る労力的負担が原因で2回ほど離婚危機があった。

高砂部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった皇牙(元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身でしかも出身中学校(直方第二中学校)の5学年後輩であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、鳴戸部屋出身の元前頭・力櫻が、プロレス転向後「力皇」と改名したきっかけも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものと言われた。

2015年6月20日、先輩大関だった貴ノ浪こと19代音羽山親方が43歳で急病死。学年は魁皇が1年後輩で、幕内では51回対戦した(魁皇の24勝27敗、優勝決定戦で1敗)。青森県出身の貴ノ浪は、かつて現役時代の九州場所について「魁皇にとってはホームゲーム、こちらはアウェーゲームみたいなものだ」と発言していた。一方魁皇は貴ノ浪を「スケールが大きくて豪快」と振り返り、「明るく周りを和ませてくれる人柄だった」とコメント。「心臓が悪いと聞いていたが、最近は元気だと思っていたからまだ信じられない。体調が悪くても人に見せなかったから、本当はしんどかったのかも。これからお互い協会の為に頑張ろうと思っていたのに…」と早過ぎる死を惜しんでいた。

さらに1年後の2016年7月31日、「昭和の大横綱」こと千代の富士・13代九重親方が61歳で逝去。「九重親方の1000勝は私と比べるものではない。あの体で大きな相手を倒したのは凄いしレベルが違う。本当に悲しい」と追悼のコメントを述べていた。

また、20代佐ノ山(2011年当時・現九重)の千代大海も「古い戦友としてお疲れさまと言いたい。この日の一番と雰囲気を見て最後になると感じたが、ファンのために一日でも長く土俵に上がる姿勢には感動していた。今まで本当に立派だった」と称賛している。なお千代大海と幕内での取組は通算で54回も対戦したが、これは当時で大相撲史上2位 の記録だった。対戦成績は魁皇の34勝20敗(内1勝は不戦勝)。2010年1月場所、大関から関脇に陥落した千代大海は、同場所の3日目で魁皇に敗れたこの一番(魁皇の勝利で史上最多の幕内808勝を記録)が現役最後の相撲となり、翌4日目に千代大海は引退を表明した。魁皇も取組前から千代大海とはこれで最後と感じ取っており、勝ったにも関わらず悲しそうな顔をしていた。幕内最多勝記録達成という事もあってNHKのインタビュールームに呼ばれたが、魁皇は「俺と千代大海の関係を知ってるだろう。今日で引退するかもしれないのに、勝利者インタビューなんて行けるわけないじゃないか」と拒否した。

2022年に千代大海が語ったところによると、魁皇は千代大海の涙腺を2回崩壊させたという。1度目は千代大海を破って千代大海の師匠である千代の富士の幕内白星記録(807勝)を破った後に、歴代最多勝のインタビューを断ったという話の後で前述の言葉を聞いた時に風呂場で、2度目は千代大海への配慮で前述のように敢えて大関在位記録を破らず引退した時である。

2003年9月場所5日目の高見盛戦、左差しを使われ、あっさり土俵外へ出されてしまう(決まり手は押し出し)。魁皇は同年5月場所に11勝(次点)、7月場所に12勝(優勝)を挙げており9月場所に綱取りをかけていたが、結果的には7勝8敗で終え、綱取りから一転角番に追い込まれた。魁皇は高見盛が普段から稽古場で手抜きをしていることに対して批判している立場であったため、この結果に激怒。敗戦の直後憮然としながら土俵を下り、直後のインタビューで「けいこ場では力を出さないのに、こんな時だけ力を出す。あいつは相撲取りとして、許せない」という意味のコメントを、声を荒らげながら口にした。

大関昇進前、優勝決定戦にも2度出場(いずれも敗退)しているが、5人の決定戦と、4人の決定戦であった。ここに記した貴乃花、曙、武蔵丸、若乃花、貴ノ浪という横綱大関陣は古今有数の強力布陣との評価もあり、千代大海がチャンスをうまく掴んで大関に昇進したが、魁皇・武双山・栃東らはこの5人衆+千代大海の影響で大関昇進に苦労した。

引退記者会見で魁皇は思い出の取組に、2000年1月場所千秋楽で当時関脇の武双山(現・藤島親方)に敗れて7勝8敗と負け越し、また武双山の幕内初優勝も献上した一番を挙げ「その時の悔しさがあったから、自分も大関に上がれた」とコメント。さらに「意識した対戦相手は?」との質問には「武双山は年も近いしライバルと言われていたので、常に負けたくないと思っていた。最近では千代大海(現・14代九重親方)。同じように怪我で苦しんでお互い引き際を無くして、どうしようかと話したこともある」と語っていた。

1998年7月場所の第66代横綱・若乃花勝以来、2017年3月場所に日本出身力士として19年振りに誕生した第72代横綱・稀勢の里は、新横綱の場所13日目の第70代横綱・日馬富士戦で、左肩周辺の筋肉を部分断裂する大怪我を負いながらも優勝。だがその後も相次ぐ故障に泣かされて、横綱昇進以降途中休場5回・全休4回も繰り返し、進退を掛けた2019年1月場所も初日から3連敗の成績不振で現役引退を表明。その報道に関して浅香山親方は「けがは(力士にとって)付き物で、皆すること。ケガとどう向き合うかでその先の人生が変わる」と指摘した上で、「稀勢の里は負傷の直後から徹底的に治して、稽古をしっかり出来るように成ってから本場所に出るべきだった。試す場もないまま、延々と中途半端に場所へ出たように見える。横綱だから番付は落ちないし、半年位堂々と休めば良かった」と、結局在位12場所の短命横綱に終わった事を悔やんでいる。

35歳の時に買った愛犬は病弱なため日頃からいたわっていたが、その経験から親方になってからは弟子にも体調が悪い時にはすぐに病院へ行くよう促すようになった。本人は「おかげで丸くなったかな」と笑っている。2023年の1月頃に愛犬は死去しており、その後も「夢でも良いから会いたい」と思うことがある。2023年9月時点で飼っているのはその愛犬の息子。「失うのはもう辛いからね。飼うのはこれが最後かな」。

弟子に学生相撲出身者や外国人力士がいないことについて、そもそものルートがないと前置きしたうえで「あとからすごい人が入って、あっという間に番付を抜かれると、コツコツ頑張っている子のやる気に影響してしまう」とコメントしている。浅香山部屋は2024年2月に表面化した不祥事により閉鎖する宮城野部屋の受け入れ先と報じられていたが、受け入れ先とならなかった要因の一つともみられる。

2007年(平成19年)1月場所で、小結以上在位71場所の新記録を樹立した。

昭和時代に初土俵を踏んだ最後の関取経験者である(力士全体では華吹大作)。

2009年11月9日に自伝「怪力」(ベースボール・マガジン社)が発売された。発売前々日の7日には紀伊国屋書店福岡本店でサイン会が行われた。同年12月18日には、文化放送の正月特番「新春スポーツスペシャル 工藤公康・魁皇 新春ビッグ対談〜生涯現役!」で、埼玉西武ライオンズに復帰した工藤公康との対談に臨み、「生涯現役」にこだわることを宣言。魁皇と工藤はこのとき初対面だった。対談の様子は翌年1月2日に放送された。

2019年10月、内閣総理大臣顕彰受賞者として、今上天皇の即位の礼に大相撲界から唯一招待された。10月22日の即位礼正殿の儀には紋付袴の正装で臨み、同月29日の饗宴の儀にも出席した。

酒豪かつ酒癖の悪い人物として有名で、酒に酔って暴れた逸話もいくつかある。酒に強く酒癖が悪いことについては父親譲りだという。

2024/05/24 07:36更新

kaiou hiroyuki


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