イビチャ=オシムの情報(IvicaOsim) サッカー選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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イビチャ=オシムの情報まとめ
イビチャ=オシム(Ivica Osim)さんの誕生日は1941年5月6日です。
監督としての実績・評価、監督としての特徴などについてまとめました。卒業、父親、結婚、引退に関する情報もありますね。80歳で亡くなられているようです。
イビチャ=オシムのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)イビチャ・オシム(Ivica Osim、Ивица Осим、本名:イヴァン・オシム, Ivan Osim、Иван Осим、1941年5月6日 - 2022年5月1日)は、ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー選手、サッカー指導者。愛称はシュワーボ。なお、より原音に忠実な表記はイヴィツァ。 旧ユーゴスラビア代表の最後の監督であり、日本でもジェフユナイテッド市原・千葉、日本代表で監督を歴任するなど、世界各国で豊富な指導歴を持つサッカー指導者である。 労働者居住区であったグルバビツァで父ミハイリ、母カタリーナのオシム家一男一女の長子として出生。ドイツ人の血を引く。ミュンヘン出身の母方の祖母の影響で家庭内での会話はドイツ語中心で育つ。居住区では娯楽も物資も殆ど無く他の住民も似たり寄ったりの生活で必然的にサッカーが子供の遊びとなりイビチャ少年も靴下を丸めたものをボールに見立て路上でゲームをして遊び、本物のサッカーボールを叔母から贈られ大感激する。学校の体育教師がサッカー狂だったため日が暮れるまでサッカーに明け暮れ、14歳の時ジェーリョの入団テスト受け、400人中20人の枠に入り同チームでプレー、しかしチームからは給料の代わりに金券が報酬として支払われていた。18歳、高校を卒業し大学入学資格を取得。 18歳でジェリェズニチャルのトップチームでプレイ。東欧の名門サラエヴォ大学理数学部数学科入学、数学や物理学、哲学などを学び、数学の学士を保有。運動、勉学共に成績優秀で、気がつくと学内で数学のインストラクター的な立場になり、家庭教師の真似事などもして、金銭は殆ど発生しなかったものの、指導先から食事を馳走になり食費を浮かせ、成績優秀者に出る奨学金で生活を凌いでいた。この頃、電気工学専攻の中等学校生だった、後に妻となるアシマに数学を分かりやすく丁寧に指導。大学では担当教授から研究職に就くことを勧められるが、手っ取り早い経済的な自立の為にギムナジウムの数学教師への職を思案するも大学3年生の頃から試合の出場給が鉄道工だった父親の3倍にもなり「数学かサッカーか」とイビチャ青年を大いに悩ます事になる。後、23歳時にユーゴスラビア代表選出が契機となり1964年東京オリンピックでの試合に向けた「本物の契約書」にサインし、これにおいて正式な「プロサッカー選手」 となる。大学を中退してプロサッカー選手の道を目指す事になるが、息子を医者に就かせたかった母は息子の選択に落胆する。 1959年 - サラエヴォのFKジェリェズニチャル・サラエヴォでプロ(実質セミプロ)としてのキャリアをスタート。ポジションはフォワード。 1964年 - 東京オリンピックのユーゴスラビア代表として来日。日本との順位決定戦では2ゴールを挙げた。翌年、学生時代から交際していたアシマと結婚。後、2男1女を授かる。 1968年 - ユーゴスラビア代表として欧州選手権(第3回、イタリア大会)に出場。準決勝でイングランド代表と戦い、1-0で勝利するもその試合で重傷を負い決勝戦には出場できず、またチームもイタリア代表に引き分け再試合の末敗退。オシム自身は大会ベストイレブンに選出されている。 1970年 - 28歳で初めてフランスのRCストラスブールに移籍。その後フランスのクラブ、スダン、ヴァランシエンヌを経て、再びストラスブールに戻る。各クラブで10番を背負い、70年代のリーグ・アン/リーグ・ドゥには17歳でデビューしたプラティニもいた。 1978年 - ストラスブールを最後に現役を引退。選手生活12年間で85得点。その間イエローカードを提示されることは一度もなかった。 1978年 - 古巣ジェリェズニチャルでコーチの仕事を始める。ユースチーム監督就任。 1979年 - ジェリェズニチャル トップチームの監督に昇格。 1982年 - 副業的にユーゴスラビア代表チームのアシスタントコーチを務めるようになる。チームはロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。 1985年 - ジェリェズニチャルの監督としてUEFAカップ準決勝まで駒を進めるが敗れ、決勝進出を逃す。 1986年 - ユーゴスラビア代表監督に就任。 1987年 - 翌年に行われる欧州選手権の予選最終戦、イングランド代表に1-4で大敗、本大会出場を逃す。 1990年 - FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。このときの代表メンバーにはストイコビッチ、サビチェビッチらがいた。大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。この後ユーゴスラビアの分裂が決定的となる。 1991年 - 翌年の欧州選手権の予選通過を決めていたが、この年の夏にスロベニアとクロアチアが連邦から離脱、両国の選手抜きで本大会に臨むことになった。 1992年 -
5月21日 - サラエヴォ侵攻とユーゴスラビア分裂に抗議する意味を込め、パルチザンとユーゴスラビア代表の監督を共に辞任。この後、国連の制裁決議を受けて欧州サッカー連盟(UEFA)、国際サッカー連盟(FIFA)はユーゴスラビア代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。 1992-1993年 - ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。この間戦火のサラエヴォに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。 1993年 - オーストリア・ブンデスリーガのSKシュトゥルム・グラーツ監督に就任。翌1994年、夫人・長女との再会を果たす。SKシュトゥルム・グラーツの監督としてUEFAチャンピオンズリーグに3度出場。 2002年 - SKシュトゥルム・グラーツ監督を辞任。 2003年 - ジェフユナイテッド市原監督に就任。 2005年 - ジェフユナイテッド市原・千葉にてJリーグヤマザキナビスコカップ優勝。 2006年 - 日本代表監督に就任(推定年俸は9000万円)。 2007年11月16日 - 千葉県内の自宅で脳梗塞で倒れ、千葉県浦安市内にある順天堂大学医学部附属浦安病院に緊急入院。一時危篤状態に陥ったが奇跡的に一命を取り留め意識も回復。しかし、監督を続けられる状況ではなくなったため退任し、後任には岡田武史が就任した。これ以降オシムは監督業を行なっていない。 2008年1月30日 - 国立競技場で行われた日本対ボスニア・ヘルツェゴビナの試合を観戦し、入院後、約2ヶ月ぶりに公の場に現れた。 2008年6月4日 - 日本サッカー協会とアドバイザー契約を締結。脳梗塞を発症してからおよそ7ヶ月ぶりに会見を行った。会見の席で「向こうの世界に行って戻ってきました」と述べるなど、オシム節は健在であった。 2008年12月 - 契約満了に伴い、協会アドバイザーを退任。 2009年1月4日 - オーストリアに帰国。 2009年12月 - 再来日し、スカパー!で中継された2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ大会の組み合わせ抽選会の解説を務めた。 2011年 - 民族別に3つに分かれているボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会が統合を拒否したために、同年4月1日FIFA、UEFAから資格を停止され、4月にその解決のために設置された「正常化委員会」の委員長に就任。5月に3人並立していた会長を一本化させたことで、同月末に資格停止が解除された。同国代表は、2014年サッカーW杯ブラジル大会本戦進出を果たした(グループリーグで敗退)。 2022年5月1日、自身が監督を務めたSKシュトゥルム・グラーツが彼の逝去を発表した。80歳没。 監督としての実績・評価ユーゴスラビア代表時代ユーゴスラビア紛争終結後もわだかまりの残る旧ユーゴスラビア構成諸国家内各民族の間で、今なおどの民族からも尊敬を集め得る人物の一人であるといわれている。これは数々の困難を乗り越えてユーゴスラビア代表に栄光をもたらした功績によるものである。 彼が代表監督に就任する直前のユーゴスラビア代表は、チトーの逝去に伴う各民族のナショナリズムの勃興に並行するような形で、試合の開催場所によってチームの構成が大きく変わる有様だった。つまり、ベオグラードで試合をする際にはセルビア人中心の構成に、ザグレブで試合をする時はクロアチア人中心の構成にといった具合にである。こうした民族的な配慮を排除した上で、「必要ならば11人全員をコソボのアルバニア人で揃える」と言って憚らなかった。完成したチームはドラガン・ストイコビッチ、のちにスレチコ・カタネッツ、デヤン・サビチェビッチらがいた。 1990年ワールドカップ当時、各民族のスターばかりを集めた選手起用を求めるメディアに対する当てつけとして、初戦西ドイツ戦で敢えてその要求通りの起用で敗戦してみせ、次の試合では本来考えるチーム編成で勝利。最終的には、準々決勝でマラドーナを擁するアルゼンチン相手に1人欠きながら120分間無失点のドローの末、PK戦で敗れた。 作り上げた最後のユーゴスラビア代表は、1990年のワールドカップでは準々決勝で敗退したものの、2年後の欧州選手権では優勝候補の1つになるであろうという評価を得た。1991年にスロベニアとクロアチアが連邦を離脱した後も、欧州選手権出場に向けた努力は続けられた。チーム内にも各民族間の対立が持ち込まれ、チームの団結維持に多大な労力を必要とした連邦末期にあってもその姿勢は変わらなかったが、やがて国の解体に合わせてユーゴスラビア代表も崩壊した。 SKシュトゥルム・グラーツ時代パナシナイコス退団を表明すると、レアル・マドリード、バイエルン・ミュンヘン、代表監督としてクロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ等への就任要請があったが、オシムはその全てを断わり、グラーツへ赴いた。グラーツはオーストリアの第2の都市でありながらサッカーはどちらかといえば他都市に遅れを取っていた。 就任以前はオーストリア・ブンデスリーガの中位から下位に甘んじていたSKシュトゥルム・グラーツだったが、オシムはこのクラブに規律と戦術を持ち込む。積極的な補強策・若手の育成も功を奏してクラブは徐々に成績を上げていき、まもなく優勝候補の常連となった。就任2年目となる1995-96年シーズンにはリーグカップ優勝、そして4年目の1997-98年シーズンにはリーグ優勝を果たした。この時のメンバーには後にジェフ千葉に移籍することとなるマリオ・ハース、名古屋グランパスエイトでプレーしたイヴィツァ・ヴァスティッチがいた。特にクロアチア出身である後者はオシムの指導で飛躍的な成長を遂げ、オーストリア・ブンデスリーガを代表する選手となった。 SKシュトゥルム・グラーツでの名声を確たるものとしたのは、2000-01年シーズンの三度目のチャンピオンズリーグへの挑戦である。SKシュトゥルム・グラーツは1次リーグでレンジャーズ、ガラタサライ、モナコと同組に入り、これを首位で通過。2次リーグでバレンシア、マンチェスター・ユナイテッド、パナシナイコスと同組となる。この組ではバレンシアとマンチェスターユナイテッドに敗れたものの(特にホームで迎えたバレンシア戦は0-5の大敗であった)、パナシナイコスには2戦とも勝利した。決勝トーナメント進出はならなかったが、この活躍は評価に値するものであった。 しかし、念願のUEFAチャンピオンズリーグ初出場を果たすために大規模なチーム補強が行われ、数々の代表選手を獲得、そのために抱えきれ無いほど膨大な人件費を抱え財政難に陥る。2001-02シーズン終了後、二人三脚で名声を築いたはずのカリスマ的オーナー、ハンネス・カルトニックと対立した形となり、マスコミを通じて卑劣な批判を受けた翌日に辞任を発表した。オシムは退任の理由を「クラブオーナーからの名誉毀損」としており、実際カルトニックとは給料不払いなどの契約問題および名誉毀損問題で裁判沙汰となり、2004年12月最高裁より全面勝訴を得た。 ジェフ千葉時代グラーツを去った後、新しい挑戦として来日。肉体面では「走力」、精神面では「哲学」の二面的アプローチ、「賢く走る」「危険なサッカー」をキーワードとした指導で、ズデンコ・ベルデニック監督以降危機・低迷から脱していたジェフ市原を、さらに改革した。 2003年、当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに抜擢、1stステージで初優勝王手まで勝ち進む。しかし首位攻防戦となったアウェイ静岡2連戦で13節:ジュビロ磐田戦に引き分け、14節:清水エスパルス戦ではプレッシャーによる大敗を喫したことにより、王手をかけながらも初優勝を逃した。また2ndステージでは14節:大分トリニータ戦で引き分けたことにより、実質的な優勝の可能性を失った。しかし1stステージ3位・2ndステージ2位・年間通算成績3位とクラブ最高の成績を記録。 2004年、崔龍洙、中西永輔を放出し、経験・身体的に弱い若手中心となり、戦力ダウンは避けられないと見られていた。又、この年は主力選手の怪我も重なった。しかしながら結果としてタイトルは取れなかったものの2ndステージでは2位、年間通算成績は4位と前年とほぼ同等の成績を残すことができた。資金・選手層に乏しいジェフにおいて、この好成績は、オシムの監督手腕の高さによるものと評価されている。 2005年、かつての主力選手でもあった村井慎二、茶野隆行、サンドロ、マルキーニョス、ミリノビッチなどを放出した。しかし、技術に優れ攻守に貢献するマリオ・ハースや、DFながらも攻撃の組み立てに多大な貢献をするイリアン・ストヤノフの補強によって、その穴を埋めた。また、巻誠一郎が日本代表に初選出、水野晃樹、水本裕貴が、ワールドユース出場を果たすなど若手も成長し、戦力低下は招かなかった。ヤマザキナビスコカップでは準決勝で浦和レッズを倒して決勝戦に進出。決勝ではガンバ大阪と延長、PK戦と激闘を制しチームに初のタイトルをもたらした。 2006年、以前から試験的に採用していた2バックを実際に使用していたが、これは単に選手名鑑でDF登録されている選手を2名だけ起用したにすぎない。対戦相手を鑑て、当日のサッカーを決めるということは変っていなかった。シーズン途中の7月に日本代表監督への就任が決まり、監督を辞任した。 (戦績) 国立・地方スタジアム開催を除くホームゲームで強さを示し、市原臨海競技場で20試合無敗を記録 (2003/4/12 (第3節) ~2005/3/26 (ナビスコカップ第2節) まで) 。 市原臨海競技場・フクアリで開催された60試合 (カップ戦含む) の戦績は36勝19分5敗。 ホーム・アウェーすべての試合 (カップ戦含む) でも2連敗は3度。3連敗は1度もなかった。 「ホーム連続負けなし試合」の記録は25試合が最高 浦和(2005-2007) ガンバ大阪(2006-2007) 日本代表監督通算20試合12勝5分3敗。2007年、AFCアジアカップで4位。 (世代交代) ドイツワールドカップ最後の競争に生き残った巻誠一郎(当時26歳)・駒野友一。競争の末選外となった阿部勇樹・佐藤寿人らを残し、国際Aマッチ0出場の鈴木啓太・中村憲剛・田中マルクス闘莉王らを抜擢。さらに大久保嘉人・田中達也・前田遼一・山瀬功治・田中隼磨ら(当時24・25歳)アテネ五輪メンバー・候補メンバーを多く選出した。 2003 FIFAワールドユース選手権の経験がある「川島永嗣・今野泰幸・山岸智・小林大悟」(当時23歳) 。2001 FIFA U-17世界選手権・2005年トゥーロン国際大会U-21代表の「矢野貴章・藤本淳吾」(当時22歳) 。同世代の長谷部誠らを起用した。 2005 FIFAワールドユース選手権の経験がある「西川周作・水本裕貴・伊野波雅彦・水野晃樹・家長昭博・本田圭佑」(当時20・21歳) 。同世代の青山直晃らを就任当初から常に3~5人招集帯同させた。 (オール日本人スタッフ) 田嶋幸三専務理事 小野剛 技術委員長 大熊清 - A代表コーチ 加藤好男 - A代表 GKコーチ 小倉勉 A代表コーチ / U15-17代表コーチ 前田弘 A代表トレーナー 早川直樹 A代表トレーナー 和田一郎 A代表 テクニカルスタッフ 里内猛 A代表 フィジカルコーチ 反町康治 - U21-23代表監督 / A代表コーチ 吉田靖 - U18-20代表監督 城福浩 - U15-17代表監督 大熊・吉田・加藤の3人は監督・コーチとしてタッグを組み、過去2大会のU20ワールドカップを経験。 「川島・ 今野」世代、「西川・本田」世代を知るスタッフで、吉田・加藤は「林彰洋・内田篤人」世代も担当した。 五輪代表コーチには反町・オシムを良く知る江尻篤彦、A代表コーチにはジェフ時代のスタッフ小倉と前田も抜擢された。 (代表戦以外での活動) スタッフミーティングやアンダー代表の視察を活発に行った。 Jリーグ監督会議・クラブ担当者会議に出席し意見を交わした。 S級コーチ養成講習会の講師を務めた (2005年・2006年・2008年) 。 2006年11月 - JFAアカデミー福島を訪問し講義を行った。 2006年12月 - 高校サッカー選手権 国見-八千代、尚志-鵬翔を観戦。 2007年1月 - 皇后杯決勝観戦。 2007年1月 - ガルフカップの現地視察。 2007年3月 - サッカー女子ワールドカップのプレーオフ観戦。 親交のあった帝京高校監督の古沼貞雄は年末の忘年会にて、オシムから高校サッカーのトーナメントの理不尽さを指摘されリーグ戦導入提案の活性化のきっかけになったという (オシムが観戦した高校サッカー2試合いずれもPK戦で決着がついた) 。 (国内合宿) 代表戦のない月には国内の選手のみで短期合宿を行った。これによりほぼ毎月の代表のトレーニング期間が設けられた (土・日曜のJ1の試合後、月~水曜に大学生との練習試合などが行われた。ガンバ大阪や広島など遠方の選手はクラブに早めに帰らせるなどの配慮が取られた) 。 監督としての特徴人選自身のテーマである「考えて走るサッカー」に合う運動量が豊富で守備能力の高い献身的なプレースタイルや、複数のポジションをこなせる多様性のあるユーティリティープレイヤーが多く、これらの選手を上手く使うパスやドリブルなどの技術が高い選手が少数いる。このような選手をオシムは「エレガントな選手」と呼んでいる。 日本代表監督就任当初の選手選考は主に運動量などは当たり前として、知性のあるサッカーを良く知っている選手を選んだと述べている。後にそれらの選手をベースにエレガントな選手、エゴイストな選手などを少しずつ選考し起用していった。 練習方法様々な練習方法のアイディアを持っており、選手を飽きさせないよう常に工夫している。そのほとんどが実戦を意識した内容(選手が気付かない場合もある)で、実戦では止まってる事の方が少ないとの理由から常に動きながらプレーするものがほとんどである。また、走るサッカーのイメージからか練習で走り込みなどを多くやらせているイメージがあるようだが、実際は走り込みなどはせず練習自体が走らないと成立しない内容になっており、自然と体力も鍛えられている。 代表的な練習として多色のビブスを使いプレーに複雑な制限を課すメニューなどがあり、慣れるまではルールや目的の理解が難しいとされている。特に就任当初は、選手ばかりかコーチ陣も混乱して練習がスムーズに進まない様子がしばしば目撃され、クラブで既に「オシム流(ただし、この多色ビブスによる練習自体はオシム独自のものではなく、多くの国で行われている)」に慣れていたジェフ千葉の選手が指導役になった時期もあった。オシムの元で練習をしてきた選手たちからは、皆口を揃えて体だけではなく頭も疲れると言われている。 雑誌「Number」のインタビュー記事によるとバスケットボール関係者の知り合いも多く、バスケットやハンドボールの戦術を参考にしているとも語っている。2003年から2006年までバスケット日本代表のヘッドコーチを務めたクロアチア人のジェリコ・パブリセヴィッチとは親友である。 中村俊輔が後に語ったインタビューでは「わざと理に適っていない練習をさせて、その時のリアクションを見る」「当時の代表チームは全員が高校生のような雰囲気」だったという。 レギュラーと控え前日本代表監督のジーコとの一番の相違点として挙げられる事は、ジーコ時代では練習から控えはビブスを着用 していたが、オシム時代では先発メンバーは試合前のロッカールームでコーチが直接選手に伝えている。また控えの選手の振る舞いにも目を配り、就任当初から正GKの川口能活をモンテネグロ戦で楢﨑正剛に変えたことへの質問に対し「楢﨑が好調なのもあるが、川口が(メンバーから外されて)どんな振る舞いをするのか見たかった」とコメントしている(なお、オシム曰く、その時の川口の振る舞いは「非常に立派だった」ので、次戦のコロンビア戦以降は川口が先発復帰している)。 2024/06/15 22:52更新
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Ivica Osim
イビチャ=オシムと同じ誕生日5月6日生まれの人
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