もしもし情報局 > 9月12日 > 物理学者

イレーヌ=ジョリオ=キュリーの情報 (IreneJoliot-Curie)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

イレーヌ=ジョリオ=キュリーの情報(IreneJoliot-Curie) 物理学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

イレーヌ=ジョリオ=キュリーさんについて調べます

■名前・氏名
イレーヌ=ジョリオ=キュリー
(読み:Irene Joliot-Curie)
■職業
物理学者
■イレーヌ=ジョリオ=キュリーの誕生日・生年月日
1897年9月12日
酉年(とり年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
不明

イレーヌ=ジョリオ=キュリーと同じ1897年生まれの有名人・芸能人

イレーヌ=ジョリオ=キュリーと同じ9月12日生まれの有名人・芸能人

イレーヌ=ジョリオ=キュリーと同じ出身地の人


イレーヌ=ジョリオ=キュリーの情報まとめ

もしもしロボ

イレーヌ=ジョリオ=キュリー(Irene Joliot-Curie)さんの誕生日は1897年9月12日です。

もしもしロボ

研究内容、人物などについてまとめました。結婚、父親、母親、家族、病気に関する情報もありますね。

イレーヌ=ジョリオ=キュリーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

イレーヌ・ジョリオ=キュリー(Irene Joliot-Curie、1897年9月12日 - 1956年3月17日)は、フランスの原子物理学者。父はピエール・キュリー、母はマリー・キュリー。妹はエーヴ・キュリー。

パリに生まれ、パリ大学でポロニウムのアルファ線に関する研究で学位を取得。1926年、母マリーの助手だったフレデリック・ジョリオと結婚。1934年にPを合成し、1935年、「人工放射性元素の研究」で、夫フレデリックと共にノーベル化学賞を受賞した。

1897年、父ピエール・キュリー、母マリー・キュリーの長女として、パリで生まれた。当時、両親は放射性元素の発見に取り組んでいる最中であり、イレーヌが生まれたのは2人がラジウムを発見する前年のことであった。 イレーヌ誕生後、両親は夜になるとイレーヌにつきっきりとなり、マリーは娘の成長を日記につづった。しかし日中はマリーもピエールも実験で忙しかったため、3人が一緒に過ごす時間は限られた。そのためイレーヌは、同居していたピエールの父親である医師のウジェーヌ・キュリーと過ごすことが多かった。

幼い頃のイレーヌは、父ピエールを「ペ(Pé)」、母マリーを「メ(Mé)」と呼び、母親に対する独占欲が強かった。その当時にキュリー家を訪れた知人は、マリーやピエールと話をしていると、イレーヌが、自分のこともかまって欲しいとたびたび主張してきたことを述懐している。また警戒心が強く、他人とはあまり打ち解けない性格だった。

1903年、両親がノーベル化学賞を受賞し、時の人となった。家には連日取材陣が押し寄せ、当時6歳だったイレーヌも取材の対象になることがあった。1904年、妹のエーヴが生まれた。

1906年4月19日、8歳の時、父ピエールは馬車に轢かれて死亡した。イレーヌはマリーから、父は頭にけがをしたから会うことはできない、と告げられた。イレーヌははじめ、その意味することがのみこめなかったが、やがて理解し、泣きながら母親のもとへと駆け寄った。

ピエールの死によってマリーは非常に大きなショックを受け、しばらく立ち直ることができなかった。その年の秋、マリーは、ピエールの思い出が残る家に住み続けることはできないとして、娘2人と義父ウジェーヌと共に、ソーへと引っ越した。なおイレーヌ自身は後年、幼い頃のことはよく覚えておらず、両親と一緒の生活についてもほとんど記憶に無いと述べている。

1906年11月、マリーはピエールの後を継ぎ、ソルボンヌ大学の講師となった。初回の講義にはイレーヌも見学に訪れた。

イレーヌは、パリ天文台近くにある私立学校に通っていた。しかしマリーはフランスの中等教育に不満を持っていたため、イレーヌを中学に入学させなかった。そのためイレーヌは家で祖父ウジェーヌの教育を受け、特にヴィクトル・ユーゴーなどの文学について多くを学んだ。ウジェーヌはその後のイレーヌが抱くことになる政治的な思想などの面で大きな影響を与えている。また、一時期はポーランド人の家庭教師がつけられ、妹エーヴと一緒にポーランド語を学んだ。

さらにイレーヌは、10人ほどの生徒と一緒に、組合学校と呼ばれる授業に参加した。これはマリーが知り合いの学者と協力して作り上げた教育方法で、学者自身が先生となって、それぞれの好みに合わせた教科を教えるというものである。物理はマリー・キュリー、化学はジャン・ペラン、数学はポール・ランジュバンが担当し、生徒たちはそれぞれの家や研究所を移動しながら授業を受けた。この組合学校は2年ほど続いた。

一方でマリーは、教育において体育を重視すべきだという考えを持ち、娘たちに水泳、自転車、乗馬、登山などを体験させ、当時珍しかったスキーも体験させた。イレーヌは、私はフランスで一番古い女性スキーヤーだったと述べている。

旅行などで母親と離れているときは、手紙によって交流した。1907年にイレーヌが出した手紙には、すでに数学の問題に関する記述があり、母と娘の数学への意識の高さがうかがえる。また、祖父ウジェーヌとも手紙をやりとりした。1909年に出した手紙で、イレーヌが「あなたの小さなつまらないイレーヌ」と署名すると、ウジェーヌは、お前はつまらない小さなイレーヌではない、私の大きなイレーヌだ、と返している。ウジェーヌは1910年2月、闘病生活の末に82歳で亡くなった。

組合学校を終えたイレーヌは、大学入学資格試験の2年前になって、セヴィーニ学院に入学した。この学校を選んだのは母マリーの意向で、講義が少なく自由が多いことと、近代的な教育がなされていたことが選んだ理由になっている。学校では数学と物理で特に優れた成績を収めていたため、同級生に対して授業することが許されていた。

1910年から1911年にかけて、マリーはフランス科学アカデミーの会員選挙にあたって、反対派から中傷記事を書かれるなどの被害を受けた。さらに1911年、マリーとポール・ランジュバンとの男女関係が取りざたされ、週刊誌などでマリーを非難する記事が次々に書かれた。こうした報道は、マリーはもとより、イレーヌの心をも苦しめた。一方、同じ1911年にマリーは2度目のノーベル賞を受賞した。スウェーデンで開かれた受賞講演にはイレーヌも同行した。ここでイレーヌは、他の科学者から敬意と称賛を受けるマリーの姿を見て、母の権威や知名度、科学の価値を知った。

1914年夏、ヨーロッパの情勢が悪化してくると、マリーはイレーヌとエーヴをブルターニュ北部のラルクウェストへと送った。その後まもなく第一次世界大戦が開戦した。イレーヌはパリに残った母親と手紙でやり取りしていたが、数週間後、パリへの侵攻がなさそうだということが分かると、マリーは娘たちにパリに戻る許可を与えた。

大戦中、マリーは負傷者を治療するため、放射線治療車を用意して各地を回っていた。イレーヌもパリに戻ると放射線治療の方法を学び、1914年11月からマリーの助手として治療にあたった。このとき、イレーヌは17歳だった。人材不足だったこともあって、イレーヌはやがて1人でX線検査の仕事を任されるようになった。また、イレーヌはマリーとともに、X線撮影技師を養成するための任務にもついた。さらにこれらの仕事の合間をぬって、学士号取得の準備をした。

1918年、第一次大戦が終わると、イレーヌはマリーの研究所に、マリーの助手として入った。イレーヌはそこではじめに、鉱物中の塩素の原子量を求める実験に取り組んだ。イレーヌは研究所の中でも数学や物理の知識については目立ったものがあり、その落ち着き払った性格や、つねに所長であるマリーのそばにいて優遇されていたこともあって、同僚からは王女と呼ばれたりもした。

当時、研究所には放射性物質であるラジウムが1グラムしかなく、マリーはその不足に頭を抱えていた。しかしアメリカの人々による募金によって、ラジウムが無償提供されることになり、1921年、マリーはイレーヌとエーヴを連れて渡米した。そしてアメリカでマリーは大歓迎を受けたが、連日の歓迎行事にマリーは疲れ、体調が悪化してしまった。そのためイレーヌやエーヴがたびたび代理で出席してあいさつなどをした。イレーヌはこのアメリカ旅行で、ニューヨークの光景やグランド・キャニオンなどを見て感銘を受けた。

帰国後、イレーヌはマリーとともに研究を続けながら学位取得のための準備をして、1925年3月に試験を受けて学位を得た。このとき発表した内容はポロニウムのアルファ線についての研究で、会場となったソルボンヌ大学の講堂には1,000人もの聴衆が訪れた。有名なマリー・キュリーの娘であるイレーヌの学位取得は大きな話題となり、フランスのメディアのほか、アメリカのニューヨーク・タイムズなどでも報じられた。このとき、科学の道を進むことは女性にとって負担にならないかと記者に問われ、それに対して、自分は科学への適性について男女に差は無いと思っている、と答えている。取材が相次いだため、マリーはイレーヌを連れて一時アルジェリアへと旅行に出かけた。

1925年、マリーの研究所に助手としてフレデリック・ジョリオが雇われた。これはポール・ランジュバンの推薦によるもので、当時フレデリックは25歳だった。イレーヌとフレデリックはやがて親密になり、1926年10月に結婚した。結婚の儀式はせず、2人とそれぞれの家族は証人と一緒に昼食を食べ、午後からは通常通り仕事に戻った。

イレーヌはやがて妊娠したため、診察を受けに行くと、医者から肺結核の症状が出ていると告げられた。これは母マリーがイレーヌを産むときに診断されたのと同じ病気だった。

イレーヌは1927年9月17日、長女のエレーヌを産んだ。イレーヌは後にこの出来事について、「わたしにもこんな素晴らしい体験ができるのに、もしこの世に子供を送り出していなかったとしたら、こういう体験をしなかったことを一生悔やむでしょうね」と述べている。医者はイレーヌに、肺の状態が悪いので、静養して、もう子供は産まないように、と告げたが、イレーヌは育児のかたわら仕事にも復帰し、1932年には長男のピエールを産んだ。

結婚後、イレーヌとフレデリックはジョリオ=キュリーという姓を用い、共同で研究成果を発表していった。2人の研究はフランス国内外から注目されるようになり、1933年にはソルベー会議に出席して発表した。

1934年1月、2人はアルミニウムの薄片にアルファ粒子を衝突させる実験において、アルファ粒子の発生源を取り去った後でも、引き続きガイガーカウンターが反応することを発見した。すなわち2人は初めて人工的に放射能を作りだしたことになる。2人は早速マリーに電話した。数時間後、マリーは証人役のランジュバンと共に実験室にやってきてこの現象を観察し、大いに喜んだ。

翌1935年、この研究によってイレーヌはフレデリックと共にノーベル化学賞を受賞した。しかしマリーはこの受賞を見ることなく、前年の7月に亡くなっていた。また、イレーヌ自身も1934年から、肺結核の治療のため、毎年一定期間は山で静養することを強いられるようになった。

マリーは生前、自分用とジョリオ=キュリー家用の2軒の家を建てる目的で、アントニーに土地を取得していた。イレーヌとフレデリックはノーベル賞受賞後、その土地に家を建て、マリーが住むつもりだった土地はテニスコートとして使った。

1934年ごろ、イレーヌはフレデリックと同じく、反ファシズムのデモに参加した。マリーの死後は、さらに政治活動に積極的になり、1936年にレオン・ブルム内閣が誕生すると、ブルムからの依頼により、科学担当国務次官に就任した。フランスにおいては初めての女性閣僚だった。ただしイレーヌは、この地位に就くことで研究に割く時間がほとんど無くなってしまうことを危惧して、当初から期間限定という条件でこの職を引き受けており、実際、就任から数か月後に辞任した。

研究面においては、ノーベル賞受賞後にフレデリックとの共同研究は終了し、1936年、母の後任としてパリ大学ソルボンヌ校教授に就任した。イレーヌはそこで講義をするかたわら、引き続きラジウム研究所でも研究を続け、核分裂に関わる研究に取り組んだ。一方でフレデリックはコレージュ・ド・フランスの教授になった。

1939年、第二次世界大戦が開戦し、1940年、パリはドイツ軍に占領された。イレーヌはフレデリックと共にフランスに留まり、レジスタンス運動に参加した。フレデリックはさらにフランス共産党にも入り、一度は逮捕された。戦争中は食糧不足などが響いてイレーヌの結核は悪化していった。そのため、毎年のサナトリウムでの生活も次第に長引くようになってきた。政治状態が安定しない中で夫や子供と離れることになるサナトリウム生活はイレーヌを不安にさせた。

1944年、フレデリックはレジスタンスグループである大学人国民戦線の責任者になった。このことによって身の危険が大きくなったフレデリックは、イレーヌと子供2人をスイスに逃亡させることにした。イレーヌは、長女エレーヌのバカロレア二次試験があることを理由に反対した。そのため、イレーヌと子供2人はいったんモンベリアルまで行き、そこからエレーヌが国境近くの村まで行って試験を受け、その後国境を越えてスイスに入った。国境を越えた日はちょうどノルマンディー上陸作戦が決行された6月6日であった。スイスでは、事前にフレデリックの協力によって逃亡していたポール・ランジュバンと再会した。

戦後、イレーヌは子供たちとフランスに戻り、アントニーの家で再びフレデリックと暮らすようになった。

イレーヌは研究を続け、宇宙から降り注ぐ高エネルギー粒子の問題に特に深い関心を示した。また、1946年にはアンドレ・ドゥビエルヌの後を継いで、ラジウム研究所の所長になった。一方で女性の権利拡大についても活動し、雑誌にコメントを寄せたり、集会で発表したりした。さらに、1945年12月にはフランス原子力委員会の化学部門の責任者となった。委員会では、委員長となったフレデリックと共に、核の平和利用を説き、フランス初の原子炉となるZOEの開発にも携わった。結核については、ストレプトマイシンの効果により改善し、健康状態は以前と比べると良くなった。

1948年、イレーヌはニューヨークに出かけた際、入国管理局に止められ、エリス島の拘留所に一晩拘留された。夫のフレデリックが共産党員だからという理由である。有名人であるイレーヌの拘留はフランス国内で大きな話題となり、フランス当局は拘留に対して異議を申し立てた。翌日解放されたイレーヌは、ユーモアを交えながら報道陣の質問に答え、自分は共産党員ではないと主張し、さらに、「ここでは共産党よりまだナチスやファシストの方がましだと思うらしいですからね」と言った。

一方、共産党員であるフレデリックの立場は、フランス国内でも悪くなっていった。フレデリックは1950年、フランス原子力委員会の委員長を解任された。イレーヌもその2か月後、契約が更改されず、委員から外された。

1950年、ソ連はフレデリックに対して、第1回国際平和賞を与えた。そのためイレーヌはフレデリックと共にソ連へ行き、クレムリンでの式に出席した。そしてこの旅行が原因で、イレーヌは数か月後にイギリスに行こうとしたときに、ビザを拒否された。

イレーヌは1950年代、数度にわたり科学アカデミーの委員に立候補した。これは、かつて母のマリーが立候補し、そして落選した地位であった。イレーヌはあいさつ回りなどもしたが、結果的に落選し、委員になることはできなかった。さらに、アメリカ化学学会にも入会を申し込んだが拒否された。

イレーヌはオルセーに新しい研究所を造ることに決めた。さらに、ソルボンヌとラジウム研究所での講義も続けた。体調は、肺結核こそ改善したものの、長年の放射能研究により、つねに疲労を感じ、見た目にも顔色の悪さが現れてきた。

1955年、イレーヌはフレデリックとの共同論文を書いた後、年末にクールシュヴェルへ出かけた。クールシュヴェルでは娘のエレーヌとその夫、息子のピエールらと過ごしたが、やがて体調が悪くなり、自宅のあるアントニーに戻り、そのままラジウム研究所近くのキュリー病院に入院した。イレーヌは急性白血病と診断された。

入院後、イレーヌは徐々に衰弱していった。また夫のフレデリックもこのとき体調が悪化しており、病院に見舞いに来ても、長い時間とどまることはできなかった。

イレーヌは病院で古くからの友人に、「死ぬことは怖くないわ。こんなに夢中で送った人生だもの!」と言った。そして1956年3月17日、白血病により58歳の生涯を終えた。イレーヌは国葬により葬られた。また、イレーヌの死の2年後には、フレデリックも肝臓病により死亡した。

研究内容

中性子発見に関わる実験

イレーヌと夫フレデリックは、マリー・キュリーが発見した元素であるポロニウムを抽出し、この試料を使って様々な実験に取り組んだ。

1930年、ヴァルター・ボーテとヘルベルト・ベッカーは、ポロニウムから放出されるアルファ粒子がベリリウムと衝突すると、ベリリウムは非常に貫通度の高い放射線を出すと発表した。この論文を読んだイレーヌとフレデリックは、さっそくこの事実を実験により確かめ、そして、この放射線は水素を含む物体から陽子を追い出すと発表した。

しかしジェームズ・チャドウィックは2人の発表に疑問を抱き、追試して、追い出されるのは陽子ではなく中性子であると主張した。このチャドウィックの主張は他の物理学者によって確かめられ、チャドウィックは後に中性子の発見によってノーベル物理学賞を受賞した。結果としてイレーヌとフレデリックはあと一歩のところで、大きな業績を逃すことになった。

人工放射能の発見

イレーヌとフレデリックは1933年、ポロニウムをアルミ箔のそばに置くと、アルミから陽電子と中性子が飛び出してくることを発見した。2人は1933年のソルベー会議でこの実験を発表したところ、リーゼ・マイトナーから、自分は同じ実験をしたが中性子は見つからなかったと反論された。当時から名の知られていたマイトナーからの反論は2人を落ち込ませたが、会議に参加していたニールス・ボーアらの励ましもあって、2人は実験を続けることにした

1934年、2人は実験によって、やはり中性子は発生していることを確かめた。さらにそのうえ、ポロニウムをアルミニウムから遠ざけると、中性子の発生は止まるが、陽電子は変わらず発生し続けることを発見した。アルミニウムの安定した原子から陽子が出てくることはあり得ないので、これはアルミニウムが放射性原子に変化したことを意味する。2人は研究をさらに続け、この反応によってアルミニウムの一部が放射性のリンに変化したことを確かめた。

すなわち、このときの反応は以下のようになる。

さらに、このときに発生したリンは半減期約3分で陽電子を放出し、シリコンに変化する。

核分裂の研究

1930年代後半、科学者の間では中性子を使って新たな元素を作り出す研究が始まっていた。きっかけとなったのはイタリアのエンリコ・フェルミによる実験であり、その後、ドイツのリーゼ・マイトナーも、同僚のオットー・ハーン、フリッツ・シュトラスマンと共同でこの研究を始めた。イレーヌもこの研究に取り組み、1937年、ウランから半減期3.5時間の新たな放射性物質を発見した。イレーヌと、共同研究者であるパヴェル・サヴィッチは、この物質はトリウムの同位体であると発表した。

マイトナーはこの結果に疑問を抱き、追試して、この放射性物質は存在しないことを確かめた。マイトナーはこのことを手紙に記し、イレーヌに送った。またハーンもイレーヌの実験を評価せず、学会でフレデリックに会ったとき、君の妻を批判することは許されないのだが、しかし間違っている、彼女にそう言ってくれ、と伝えた。

イレーヌはいったんこの説を取り下げたが、1938年、この物質はランタンに近い性質をもつとあらためて発表した。このとき、マイトナーはナチスから逃れるために亡命していた。ドイツに残っていたハーンは、イレーヌの論文に興味を示さなかった。しかしシュトラスマンは論文を読み、イレーヌが新しい発見をしたことに気付いた。こうしてマイトナー、ハーン、シュトラスマンの3人はこの件に関して研究することにして、その結果、ウランの核分裂についての理論を打ち立てることになる。またもあと一歩のところで栄誉を逃したイレーヌは、ハーンとシュトラスマンの論文を読んで、「私たちはなんて馬鹿だったの!」と言い、フレデリックと共同研究しなかったことを悔やんだという。

人物

子供のころから社交的ではなく、その点においては妹のエーヴと対照的であった。服装や化粧に気を使わず、ノーベル賞の式典でも、周りの女性が着飾っている中で、宝石や装飾品を一切つけずに参加した。また、他人には笑顔を見せず、ぶっきらぼうな態度や言葉づかいで、人と話をしているときにスカートの中からハンカチを取り出して鼻をかむ、などといった行動は、研究所を訪れた人たちを驚かせた。ただし家族や親しい友人のいるときにはくつろいだ表情をみせた。リーゼ・マイトナーは、「イレーヌは、一見したところ無愛想といってもいいくらいだったので、気持ちの暖かさを理解できた人はごくわずかでした」と語っている。ラジウム研究所の研究員は、イレーヌに話があるときは、面会の約束をしなくても、いつでもどんなときでも会ってくれたと証言している。妹のエーヴも、姉は「落ち着いて、いつも機嫌が良い人でした」と述べている。

形式的な儀礼を嫌い、親しくない人と挨拶するのさえ嫌がった。エーヴは、姉は一度も嘘をついたことが無いと証言している。招待状に断りの返事を出すとき、秘書が「残念ながら応じることができません」と書くと、イレーヌは、「私は少しも残念に思っていない」といって書き直させたこともある。

夫フレデリックと同様に、政治的には左翼的な思想に理解を示し、フレデリックはフランス共産党員だったが、イレーヌは婦人同盟員だった。自身は、政治的な思想は祖父ウジェーヌの影響が大きいと述べている。なお、イレーヌは生涯、教会に行くことはなかったが、これもウジェーヌの影響によるものである。

またイレーヌは、自分は母マリーよりも父ピエールに似ていて、だからこそ母と良い関係でいられたのだと述べている。フレデリックは、ピエールについての話を人から聞いたり文章で読んだりした上で、イレーヌは純粋さ、良識、落ち着きなどの点で、「父親の生き写しである」と判断している。

母マリーの教育方針もあって、幼いころからスポーツとは身近だったが、その中でもハイキングや水泳を好み、近所の子供たちに泳ぎ方を教えることもあった。

物理学者の湯浅年子が日本からイレーヌのもとを訪れて、研究したいと願い出たとき、イレーヌははじめ、今は入所させることが困難だと断った。しかし湯浅から、父が病気なのでここで研究できなければ帰国すると言われると、しばらく考えてから、フレデリックの研究所に聞いてみると告げ、最終的に湯浅はフレデリックのもとで研究できることになった。湯浅はイレーヌについて、「感情を外にあらわすことを極端にきらわれ、一見冷たいように見えるが、うちには大変繊細で豊かな感情をもっておられる」と述べている。

2024/06/06 04:00更新

Irene Joliot-Curie


イレーヌ=ジョリオ=キュリーと同じ誕生日9月12日生まれの人

高橋 洋一_(経済学者)(たかはし よういち)
1955年9月12日生まれの有名人 東京出身

髙橋 洋一(たかはし よういち、1955年〈昭和30年〉9月12日 - )は、日本の経済学者、数量政策学者、元大蔵・財務官僚。学位は博士(政策研究)(千葉商科大学大学院・2007年)。嘉悦大学大学院ビ…

伊藤 雅俊_(1947年生の実業家)(いとう まさとし)
1947年9月12日生まれの有名人 東京出身

伊藤 雅俊(いとう まさとし、1947年(昭和22年)9月12日 - )は、日本の実業家。味の素・代表取締役取締役社長最高経営責任者(CEO)を経て、代表取締役取締役会長になる。公益財団法人味の素食の…

KOUICHI_(こういち)
1975年9月12日生まれの有名人 京都出身

9月12日生まれwiki情報なし(2024/06/13 12:23時点)

大石 信幸(おおいし のぶゆき)
1939年9月12日生まれの有名人 広島出身

大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 広島市立千田小学校の一学年下の宮本輝紀、岡光龍三らと山陽高等学校に進学し195…

菊川 凱夫(きくがわ よしお)
1944年9月12日生まれの有名人 静岡出身

菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -2022年12月2日)は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立藤枝東高校時代に全国選手権大会で優勝した実績を持つ。明治…

金子 久(かねこ ひさし)
1959年9月12日生まれの有名人 埼玉出身

金子 久(かねこ ひさし、1959年9月12日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代は屈強な体を活かしたセンターバックとして活躍した。 与野市立下落合小学校でサッカーを始める。…

水本 裕貴(みずもと ひろき)
1985年9月12日生まれの有名人 三重出身

水本 裕貴(みずもと ひろき、1985年9月12日 - )は、三重県度会郡御薗村(現:伊勢市)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。元日本代表。 御薗小…

長友 佑都(ながとも ゆうと)
1986年9月12日生まれの有名人 愛媛出身

長友 佑都(ながとも ゆうと、1986年9月12日 - )は、愛媛県東予市(現:西条市)出身のプロサッカー選手。Jリーグ・FC東京所属。ポジションはディフェンダー(センターバック、左サイドバック)、ミ…

渡部 英美(わたなべ・ひでみ)
1955年9月12日生まれの有名人 東京出身

渡部 英美(わたなべ・ひでみ、男性、1955年9月12日 - )は、日本放送協会(NHK)の元エグゼクティブアナウンサー。同協会放送総局・第28代アナウンス室長 跡見学園女子大学文学部コミュニケーショ…

吉野 里亜(よしの りあ)
1972年9月12日生まれの有名人 愛知出身

吉野 里亜(よしの りあ、1972年9月12日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント、女優。愛知県出身。身長158cm。スリーサイズはB79 W54 H84。血液型はO型。 1980年代末期…

野溝 さやか(のみぞ さやか)
1987年9月12日生まれの有名人 長野出身

野溝 さやか(のみぞ さやか、本名同じ、1987年9月12日 - )は、日本の演出家、劇作家、タレント、アイドル。ユニット「進化する究極プロジェクト(旧劇団☆End-Up-Roll)」主宰。日本演出者…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


イレーヌ=ジョリオ=キュリーと近い名前の人

梅村 妃奈子(うめむら ひなこ)
【Silent Siren】
1991年3月13日生まれの有名人 東京出身

梅村 妃奈子(うめむら ひなこ、1991年3月13日 - )は、日本の女性ドラマー、声優である。 ガールズバンド・SILENT SIRENの元メンバー。東京都生まれ。血液型はA型。身長は164 cm…

アイリーン=クラール(Irene Kral)
1932年1月18日生まれの有名人 出身

1月18日生まれwiki情報なし(2024/06/12 21:50時点)

アイリーン=シャラフ(Irene Sharaff)
1910年1月23日生まれの有名人 出身

アイリーン・シャラフ(Irene Sharaff, 1910年1月23日 - 1993年8月10日)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン出身の衣裳デザイナーである。ニューヨークやパリで教育を受…

アイリーン=キャラ(Irene Cara)
1959年3月18日生まれの有名人 出身

アイリーン・キャラ(英語: Irene Cara, 1959年3月18日 - 2022年11月25日)は、アメリカのシンガーソングライター、女優。 「フェーム(英語版)」「フラッシュダンス…ホ…

酒井 玲(さかい れい)
8月9日生まれの有名人 神奈川出身

酒井 玲(さかい れい、8月9日 - )は、日本の女性声優。INSPIONエージェンシー所属。神奈川県出身。血液型はB型。星座は獅子座。南米(ベネズエラ、チリ、ブラジル)と日本で育った。 吹き替え・…

ワルター=フォン=セントポール・イレール(Walter von Saint Paul-Illaire)
1860年1月12日生まれの有名人 出身

1月12日生まれwiki情報なし(2024/06/15 00:10時点)

エドワード=ヴァン=ヘイレン(Edward Van Halen)
1955年1月26日生まれの有名人 出身

エドワード・ヴァン・ヘイレン (Edward Van Halen、1955年1月26日 - 2020年10月6日)は、オランダ系アメリカ人のロック・ギタリスト、作曲家、音楽家。ハードロックバンド、ヴァ…

ヴォルフガング=ヴァン=ヘイレン(Wolfgang Van Halen)
1991年3月16日生まれの有名人 出身

ウォルフガング・ヴァン・ヘイレン(Wolfgang Van Halen、1991年3月16日 - )は、アメリカのベーシスト。ハードロックバンド・ヴァン・ヘイレンのメンバー。ニックネームは、ウルフ(W…

イレーン=チャオ(Elaine Chao)
1953年3月26日生まれの有名人 出身

イレーン・ラン・チャオ(英語:Elaine Lan Chao、正体字:趙小蘭、日本語読み:ちょう・しょうらん、1953年3月26日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。輔仁大学名誉博士である。労働長官、…

イレイン=ブスト(Ireen Wust)
1986年4月1日生まれの有名人 出身

イレイン・ブスト(Ireen Wüst、オランダ語発音: [iˈreːn ʋyst]、1986年4月1日 - )は、オランダ・ゴイルレ出身のスピードスケート選手。 同性愛者であることを公表…

バート=ブライレブン(Rik Aalbert “Bert” Blyleven)
1951年4月6日生まれの有名人 出身

リック・アールバート・ブライレブン(Rik Aalbert Blyleven, 1951年4月6日 - )は、オランダ王国ユトレヒト州ゼイスト生まれのアメリカ合衆国の元プロ野球選手(投手)。右投右打。…

マーシャル=ニーレンバーグ(Marshall Nirenberg)
1927年4月10日生まれの有名人 出身

マーシャル・ウォーレン・ニーレンバーグ(Marshall Warren Nirenberg、1927年4月10日 -2010年1月15日 )は、アメリカ合衆国の生化学者、遺伝学者で、遺伝暗号の翻訳とタ…

ハイレ=ゲブレシラシエ(Haile Gebrselassie)
1973年4月18日生まれの有名人 出身

ハイレ・ゲブレセラシェ(アムハラ語: ኃይሌ ገብረ ሥላሴ、ラテン文字転写: haylē gebre silassē 、Haile Gebrselassie、1973年4月18日 - )は、…

フェイレイ(Fayray)
1976年4月18日生まれの有名人 東京出身

Fayray(フェイレイ、1976年4月18日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター。本名、大橋 美奈子(おおはし みなこ)。東京都出身。血液型はA型。姉はタレントの木夏リオ。ドラマーの青山純…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
イレーヌ=ジョリオ=キュリー
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

放課後プリンセス A.B.C-Z BABYMETAL WEST. Travis Japan さんみゅ~ FLAME まなみのりさ HEADS カスタマイZ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「イレーヌ=ジョリオ=キュリー」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました