長友佑都の情報(ながともゆうと) サッカー選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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長友 佑都さんについて調べます
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長友佑都と関係のある人
上里一将: シーズン開幕前のキャンプでは左サイドハーフ、左サイドバックとしての適性も見せたが、リーグ戦が始まるとこれらのポジションでは、前年にセリエAに移籍した長友佑都の穴を埋める活躍を見せていた中村北斗や、若手の田邉草民、椋原健太が主力として起用された。 武藤嘉紀: 同年J1第1節の柏レイソル戦にて、FC東京の新人選手では2008年の長友佑都以来となるJリーグ開幕戦での先発出場 を果たし、3トップの左ウイングとして相手の守備網と互角の勝負を演じた。 森勇介: 8月1日、FC東京との多摩川クラシコで前半にマッチアップしていた長友佑都に対して肘打ちをした映像がJリーグアフターゲームショーで取り上げられ、野々村芳和が苦言を呈した。 今野泰幸: このモノマネは大きな反響を呼び、当時所属のFC東京携帯サイトや携帯電話向け音楽配信サイト「レコチョク」で着ボイス配信された ほか、代表で共に戦った長谷部誠と長友佑都が対戦出演したフジテレビ系「食わず嫌い王決定戦」内でも木梨憲武がこのモノマネについて触れ、ワイプ画面にてモノマネ中の今野の姿が流されるなど一時話題の出来事となった。 三瓶: 平愛梨と長友佑都が結婚をする際に恋のキューピットになって二人きりにさせていたことを明かした。 入江慎也: 大の人見知りである矢部とは対照的に、「友達5000人芸人」を自称しており、酒席などを通じて作った人脈は、長友佑都、大久保嘉人、澤穂希、渡辺美樹など多士済々の顔ぶれとなっており、非常に顔が広かった。 永田充: 2010年9月2日、キリンチャレンジカップのパラグアイ戦、グアテマラ戦において、練習で右肋軟骨を負傷した闘莉王の代役として日本代表への追加招集を受け、7日のグアテマラ戦で長友佑都に代わり後半から出場、フル代表デビューした。 興梠慎三: 鵬翔高校時代は同学年の長友佑都が在籍していた東福岡高等学校とたびたび試合をしていた。 本田圭佑: 2014年11月23日、インテルとのミラノダービーにインテル所属の長友佑都とともに出場し、ミラノダービーで初の日本人対決が実現した。 縞田拓弥: 高校の同級生にはサッカー日本代表の長友佑都がいた。 平慶翔: 姉はタレントの平愛梨、妹は平祐奈、姉の夫でサッカー選手の長友佑都は義兄にあたる。 村上佑介: 大学選抜の同期には長友佑都、兵藤慎剛などがいる。 長谷部誠: 3大会でW杯11試合出場は、川島永嗣、長友佑都と並び日本人最多出場となった。 サーカー壽梨: 好きな男性のタイプ、理想のタイプの男性はサッカー日本代表の長友佑都 やサッカー元日本代表の加地亮。 浅野拓磨: 2017年8月31日、オーストラリア戦では右WGとして先発に抜擢されると、長友佑都からのクロスに合わせ貴重な先制点を挙げ、2-0での勝利と共に6大会連続W杯出場に貢献した。 大島優子: アスリートの魂「世界一のサイドバックに サッカー 長友佑都」(2011年5月9日、NHK総合) - ナレーション 櫻井翔: 2012年にテレビ番組で櫻井と対談した当時の日本代表サッカー選手である長友佑都は、櫻井の印象について「櫻井さんはすごくインタビュー上手で話しやすかったよ。 小川佳純: 同年にプロ入りした大学の2年後輩の長友佑都、市立船橋高校時代の同期生の原一樹も優秀新人賞に選ばれ、近しい3人で新人王を争い小川が新人王を獲得した。 クラウディオ=タファレル: トルコでは長友佑都と同じマンションに住み、まだ車が無い長友を自らが運転する車に同乗させ、クラブハウスまで連れて行っていた。 志波芳則: これまで小島宏美、山下芳輝、本山雅志、長友佑都らを日本代表やJリーグへと送り出している。 遠藤保仁: 同大会に出場した日本代表選手での中で本田圭佑(45.48 km)、長友佑都(45.43 km)らを抑え最長を記録した。 中村北斗: 同年7月に左SBを務める長友佑都が退団すると、城福、大熊(9月から就任)両監督から左SBとして先発起用されるようになった。 せいや: ラブjリーグのボール載せ対決で酒井宏樹や長友佑都、宇佐美貴史に勝利する。 山本紘之: サッカー部の2年先輩に長友佑都、同級生にプロサッカー選手となった笠原昂史・久保裕一・小林裕紀・山田大記らがいる。 川島永嗣: 3大会でW杯11試合出場は、長友佑都、長谷部誠と並び日本人最多出場となった。 重松健太郎: 長友佑都からのクロスボールをヘディングで合わせ、デビュー戦で初ゴールを記録した。 三瓶: 2019年2月26日、サッカー日本代表の長友佑都の料理人見習いとなるため所属するガラタサライのあるトルコ・イスタンブールに移住することを発表。 アントニオ=カッサーノ: 本人は「ゴールよりアシストが好きだ」とし、チームメイトの長友佑都へのアドバイスの中で「ギリギリまで味方を見て、パスの出しどころがなければシュートを打つ」という旨を語っている。 内田篤人: CL決勝トーナメント1回戦でバレンシアを破ると、準々決勝では長友佑都が所属するインテルと対戦し、CL初の日本人対決を実現させた。 マルコ=マテラッツィ: “長友佑都、盟友マテラッツィと再会が話題「泣きそう」 日本で“肩組み&熱唱”反響「最高!」”. 2023年7月30日閲覧。 |
長友佑都の情報まとめ
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長友 佑都(ながとも ゆうと)さんの誕生日は1986年9月12日です。愛媛出身のサッカー選手のようです。
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人物、プレースタイルなどについてまとめました。離婚、現在、卒業、兄弟、引退、趣味、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。長友佑都の現在の年齢は37歳のようです。
長友佑都のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)長友 佑都(ながとも ゆうと、1986年9月12日 - )は、愛媛県東予市(現:西条市)出身のプロサッカー選手。Jリーグ・FC東京所属。ポジションはディフェンダー(センターバック、左サイドバック)、ミッドフィールダー(ウイングバック、サイドハーフ)。日本代表。 妻はタレントで女優の平愛梨。 愛媛県西条市(旧・東予市)生まれ。父の実家は大きな新聞販売所を経営しており、父方の祖父母の家で三世代で暮らしていた。小学1年生の時にサッカーを始めた。 小学3年生の頃に両親が離婚し、母の地元西条市の実家近くへ引っ越す。母子家庭であることを周囲に隠したがっていた。 西条市立神拝小学6年生の時に愛媛FCジュニアユースのセレクション不合格。 西条市立北中学校在学時に恩師である井上博に出会い、この時期の走り込みにより現在の豊富な運動量のベース、体幹が作られている。2001年のU-15全日本ユース選手権では県3位の成績を残した。 2002年、サッカーの強豪東福岡高校に進学。森重潤也の下で2年生時に1ボランチとしてレギュラー入りしたが、地区選抜などには選ばれず全国的には無名だったためスポーツ推薦を得られず、進学先の明治大学政治経済学部には指定校推薦で入学した。高校時代の同級生には近藤徹志、ラグビー日本代表の豊田将万などがいる。 2005年、明治大学サッカー部入部。神川明彦監督によって右サイドバックへコンバートされた。神川は長友を右サイドバックにコンバートした理由について、フィジカルの強さ、走力、攻撃の完結力を生かすためであると語る。このポジションでのプレーをものにしつつあった矢先、入部早々に発症した椎間板ヘルニアを再発。試合に出場できずスタンドで応援する日々が続いた。 2006年8月にかけて復帰し、後期リーグの開幕戦で入部以来初の先発出場。椎間板安定の為に腰周りの体幹筋を鍛えたことも奏功し、復帰後3試合ほどで神川が「別格」と評するほどのプレーを見せるようになった。身体能力の強さから3バックで臨む際にはセンターバックを務めたこともあった。ここから急速に頭角を現し、全日本大学選抜やユニバーシアード代表にも選出された。同学年には藤田優人、林陵平、橋本晃司らがいた。 2007年3月に行われたFC東京との練習試合におけるFWリチェーリとのマッチアップが当時の監督・原博実などFC東京関係者の関心を引き、5月から特別指定選手としてFC東京の練習に参加。7月8日のナビスコカップ準々決勝の対横浜FM戦で途中起用され公式戦デビュー。さらにU-22日本代表として北京オリンピックアジア二次予選のマレーシア戦に選出。右ウイングバックで出場し、ダイビングヘッドでの先制点に加えてPKを獲得するなどの活躍を見せた。 大学卒業を待たずしてプロに進むことを決意し、2008年に在学したままサッカー部を退部してFC東京と正式契約を結んだ。神川は長友を2008年度のサッカー部副将に据えるつもりでいたが、長友の強い決意に触れてこれを撤回。サッカー部を1年残して退部しFC東京とのプロ契約を決断した理由の一つに、「女手一つで自分を含む3兄弟を育てる母に経済的に早く楽をさせたかった」ことを挙げている。3月8日、リーグ開幕戦の神戸戦から、前年までレギュラーだった金沢浄らを押しのけて先発出場を果たす。5月3日、第10節大宮戦でJリーグ初得点を決めた。東京加入後の主ポジションは左サイドバックであったが、同年後半、当時の監督城福浩は、東京のその時点でのチーム状況や対戦相手の選手の特長によって、右サイドバックを主としていた徳永悠平と長友を左右入れ替えて起用した。 5月18日には岡田武史率いる日本代表に初招集され、5月24日のキリンカップコートジボワール戦にフル出場して代表初出場を記録。11月13日のキリンチャレンジカップ・シリア戦では先制のミドルシュートを決め代表初得点を記録した。また、同年の北京オリンピック日本代表に選出され本大会にも出場したが、チームはグループリーグ3戦全敗に終わり、後に「余裕がなかった」「思い通りのプレーはできなかった」と語っている。 2009年からはフィジカルコーチの土斐﨑浩一とともにアップダウンの質の向上を目指し走法の改良に着手。運動量と、強靭なフィジカルを活かしたスピード感のあるプレーに磨きをかけた。同年12月に日本代表の特別講師を務めた川本和久からは、代表選手の中で唯一長友だけが「文句なし」のランニングフォームであると評価された。同年後半からは攻撃の駒としてサイドハーフに上がり、サイドバックには椋原健太らが投入されるという起用法も見られ、東京のナビスコカップ優勝に貢献するなど、ユーティリティー性を発揮し、この年のJリーグベストイレブンにも選出された。 2010年の南アフリカワールドカップでは、全4試合に左サイドバックでフル出場を果たした。グループリーグ第1戦のカメルーン戦では後にチームメイトとなるサミュエル・エトオを徹底マークし完封、第2戦のオランダ戦においては途中出場したエルイェロ・エリアのポジションに合わせて右サイドバックにポジションチェンジするなどエースキラーとして活躍し、日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。同大会から国際サッカー連盟(FIFA)が導入したレーザー計測によると、長友のトップスピードは第1戦のカメルーン戦では時速30.13 km、第2戦(オランダ)では同26.70 km と、両試合共に対戦相手を含めて最速を記録した。また、この活躍により地元の愛媛県から愛媛県文化・スポーツ賞を授与された。 7月14日、ワールドカップでの活躍が評価され、セリエAに20シーズンぶりに昇格したACチェゼーナへ買い取りオプション付きでのレンタル移籍が決定。退団セレモニーの際は「みなさんと別れるつもりはありません。世界一のサイドバックになって、また青赤のユニホームを着たいです」と涙ながらに語り、東京サポーターから拍手でイタリアに送り出された。 チェゼーナでは自ら希望した背番号5番を譲り受け、左サイドバックとして開幕戦のローマ戦からフル出場。当時のチェゼーナ監督のマッシモ・フィッカデンティからは「長友は左右どちらもいいが、ポゼッションとビジョンの点では左の方がいい」と評され、試合に応じ両サイドで起用(試合展開によっては前線に入る)され、11月21日の第13節パレルモ戦ではチェゼーナ加入以来初となるアシストを決めた。その後、12月18日の第17節カリアリ戦までフィールドプレーヤーではチーム唯一の全試合フル出場を続け、強化部長のロレンツォ・ミノッティからは「(長友は)とてもいいプレーをキープしており、人間的にも素晴らしくロッカールームを団結させる存在」と高く評価された。また、本人もセリエAでの経験から、トップレベルの相手に対する間合いの取り方を体得し、走力、フィジカルの更なる向上の手応えを掴んだと語っている。 2011年に開催されたアジアカップでは全6試合にフル出場(日本代表では長友と今野泰幸のみ)し、決勝のオーストラリア戦では試合途中に左サイドバックから左サイドハーフにポジションを上げて、李忠成の決勝点をアシストするなど日本代表のアジア制覇に貢献した。 2011年1月31日、移籍金約2億円で チェゼーナへ完全移籍した。しかし冬の移籍市場の最終日でもある同日、元鹿島アントラーズ、元サッカーブラジル代表で、前年12月にインテル監督に就任したばかりのレオナルドの熱望もあり、ダビデ・サントンとのトレードで、2010-2011シーズン終了まで電撃的にレンタル移籍が決定した。背番号は55番。 同年2月6日、セリエA第24節ローマ戦でインテルでのデビューを飾り、3月6日の第28節ジェノア戦にてセリエA初得点を決めた。3月15日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦2ndレグのバイエルン・ミュンヘン戦では、途中出場で日本人4人目となるCL決勝トーナメント出場を果たし、アウェーでの勝利に貢献。準々決勝では内田篤人が所属するシャルケ04との対戦となり、CL初の日本人対決を演じ、2ndレグでは両チーム最長の走行距離を記録し、地元紙から高評価を得たものの、チームはここで敗退。5月22日のリーグ最終節カターニア戦ではリーグ戦2得点目を挙げた。5月29日、シーズン最終戦となったコッパ・イタリア決勝のパレルモ戦では右SBとしてフル出場し、イタリアでの初タイトルを手にした。 2011-12シーズンの始動日となった7月1日、5年契約でインテルへの完全移籍が発表された。12月10日の第15節フィオレンティーナ戦と、12月13日の第11節(悪天候による延期開催)ジェノア戦で自身初の2試合連続ゴールを挙げ、12月21日のレッチェ戦では2アシストの活躍を見せた。2011-12シーズンのインテルは不振により、2度の監督交代があり、交代当初は起用されないこともあったが、最終的にレギュラーの座を確保した。 2012年10月7日のセリエA第7節ACミランとのミラノダービーで2枚のイエローカードを受け、自身初の退場処分となった。12月9日に行われたセリエA第16節ナポリ戦でイタリアでの公式戦100試合出場を果たした。2013年1月にはレアル・マドリードへの移籍が噂されたがインテルでのパフォーマンスに集中したいとコメントし、クラブへの残留を強調した。2013年2月25日、第26節のミラノダービーで同点ゴールをアシストするも直後に左膝を負傷し途中退場。以後、出場から遠ざかり4月14日の第32節カリアリ戦で復帰するも左膝痛を再発しわずか8分で負傷退場となってしまった。後日、左膝半月板損傷と診断され手術が必要とされたが、保存療法を選択することで手術を回避し、シーズン終盤に復帰を果たした。 2013年8月27日の2013-14シーズンのセリエA開幕戦ジェノア戦では1年8ヶ月ぶりの得点を挙げ、第2節のカターニャ戦でもヘディングシュートを決め、2試合連続ゴール。得点に絡むべく、ゴール前に走り込むプレーを繰り返した。同年12月22日のミラン戦において、後半に交代でピッチを去るエステバン・カンビアッソからキャプテンマークを受け継ぎ、移籍4シーズン目にして初めてゲームキャプテンを任された。この年、アジアサッカー連盟から国際最優秀選手賞に選出された。2013-14シーズンはシーズン通して大きな怪我もなく、最終的に自己最多の5得点6アシストを記録するなど 攻撃面でも大きな向上を見せたが、チームは2年連続でCL出場権を逃した。 2014年のFIFAワールドカップではグループリーグ全試合にフル出場。第1戦コートジボワール戦では本田圭佑の先制ゴールをアシストしたが、自身の背後のスペースを狙われて 左サイドで数的不利の状況を作られ連続失点。走行距離では3試合で、スプリント数及び最高時速では2試合で両チームトップの記録を残すなど死力を尽くしたが、2戦目・3戦目での攻撃参加は得点に結びつかずグループリーグ敗退に終わった。 2014-15シーズン、インテルの副主将に就任。2015年1月開催のAFCアジアカップでは準々決勝UAE戦で右太もも肉離れを起こし、日本代表もここで敗退。同大会後、初の先発出場となった同年2月のパレルモ戦でも右太ももを痛め、長期離脱。これが、長友にとってシーズン4度目の故障となった。5月のラツィオ戦から戦列復帰。 2015-16シーズン当初は、サイドバックの補強が進められたために長友は余剰人員となり サイドバックでのポジション争いにすら参加できず 一時は売却対象となった。イタリア国内外から複数のオファーが寄せられたが、インテル残留を希望し移籍を拒否。残留は叶ったものの、途中出場した第2節カルピ戦で失点に絡むミスをしたことも重なり 苦しい立場は続き 第3節から第8節までは出場機会なし。しかし、放出確実と目される中でもコンディション作りを怠ることなく、約2ヶ月ぶりの出場、シーズン初先発となった第9節パレルモ戦では気持ちの入ったプレーで好アピール。第11節ローマ戦でも守備に冴えを見せ、復権に成功した。クラブからは契約の更新を打診され、2016年4月に2019年6月末までの契約延長を発表。同年にはマンチェスター・ユナイテッドFC、リヴァプールFCからのオファーが届いたが、インテルでのプレーを希望し拒否した事をクラブの公式サイトで明かした。 2017年4月15日、第32節のACミランではミラノダービーでフル出場を果たした。シーズン終了後には移籍の噂も報道されたが、残留した。 2017-18シーズン、9月17日に行われた第4節のFCクロトーネ戦で途中出場し、インテル通算200試合を達成した。シーズン序盤はレギュラーの座を確保していたが、11月19日のアタランタBC戦以降はダビデ・サントンや新加入のダウベルト、ジョアン・カンセロなどとポジション争いを繰り広げている。 2017年11月10日の国際親善試合ブラジル戦で日本代表では7人目となる国際Aマッチ100試合出場を達成。 インテル加入以降、数々の選手とのポジション争いを制してきたが2017年11月頃から出場機会が激減。2018年1月31日、出場機会を求め、トルコ・スュペル・リグのガラタサライSKへ期限付き移籍。4月29日、第31節のベシクタシュJK戦とのダービーではアシストを記録して勝利に貢献した。2月5日の20節以降のリーグ戦には全てスタメン出場し、5月20日の最終戦にもフル出場してチームは勝利、ガラタサライの3年ぶり21度目のリーグ優勝に貢献した。シーズン終了後に、ガラタサライへの完全移籍が発表された。 6月、ロシアワールドカップのメンバーに選出され、W杯3大会連続出場を果たす。大会前に髪色を金にして話題を集めた。グループリーグ3試合にフル出場し、第2戦のセネガル戦では乾貴士の得点をアシストし、GL突破に貢献。しかし、チームは決勝トーナメント1回戦で敗れてベスト16止まりとなった。3大会でW杯11試合出場は、川島、長谷部と並び日本人最多出場となった。 2019年1月、AFCアジアカップ2019のメンバーに選出され、アジアカップ3大会連続出場を果たした。大会では、レギュラーとして活躍するも、チームは準優勝となった。2月24日に行われた第23節のアクヒサル・ベレディイェスポル戦で十字靱帯損傷により戦列離脱となったが、4月20日に行われた第29節のカイセリスポル戦で復帰し、その復帰戦で移籍後初ゴールを挙げた。 2020年は、外国人選手の人数規定によりガラタサライ側から戦力外通告を受けた。同年6月30日に契約満了し退団した。 2020年8月31日、リーグ・アンに所属するオリンピック・マルセイユへ加入した。背番号は25番。9月20日、リール戦でデビューした。リーグ・アン第26節のナント戦で移籍後初アシストをした。2021年7月、1年でマルセイユ退団が発表された。 2021年9月12日、FC東京に完全移籍で加入することが発表された。11年ぶりの復帰となる。背番号はこれまで付けたことがなかった50で、かつてFC東京、及び日本代表で付けていた背番号5と、原点に戻るという意味の0を合わせたものとなった。 2022年11月、2022カタールW杯に臨む日本代表に選出。フィールドプレーヤーとしては史上初、ゴールキーパーを含めても同大会で選抜された川島永嗣を含め歴代4人目のタイ記録となる4度目のワールドカップ日本代表に選出となった。大会前には金髪から赤髪に変えて話題を呼び、大会中にはグループリーグでW杯優勝経験があるドイツとスペインを破り、試合後のインタビューで「ブラボー!」を連呼した事も話題を集めた。チームは決勝トーナメント1回戦で敗れて目標のベスト8に届かなかったものの長友は全4試合にスタメン出場し、歴代W杯日本代表最多の通算15試合出場を達成した。 W杯前は「年齢的にもそろそろ引退かな...」と答えていたが、W杯後は「これが面白いからサッカー選手はやめられねぇだよ(笑)」と答えその後FC東京に残留するとの発表があった。 2023年、加齢による肉体的な強度の低下をメディアやツイッター上で懸念されていたが、堂々たるパフォーマンスをみせて、ルヴァンカップ準々決勝のアビスパ福岡戦では大学時代以来のセンターバックで起用された。 2024年3月、実力と周囲に好影響を与える安定した人柄が評価されて日本代表に復帰した。3月16日にはJ1で14年振りの得点を決めた。 人物2023年、新たな趣味でピアノを始めたが3日で挫折した。 家族スポーツ一家の第二子長男(一つ上の姉と二つ下の弟がいる)。母方の祖父は第1回小倉競輪出走者である元競輪選手の吉田達雄。達雄の弟で同じく元競輪選手の吉田実は大叔父にあたる。父方の祖父は明治大学出身の元ラガーマン。2023年時点で妻との間に四子に恵まれており、2022年6月にはベスト・ファーザー イエローリボン賞を受賞。 プレースタイル豊富な運動量と抜群のスピードが武器のサイドバック。また、俊敏性に優れて1対1に強く、上背はないが大型FWにも競り負けないフィジカルと身体能力の高さを併せ持つと評された。 イタリアのスポーツ紙『ガゼッタ・デッロ・スポルト』では長友について「インテルに欠けていた闘争心に飢えている象徴的存在」と評している。 2024/06/15 18:04更新
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nagatomo yuuto
長友佑都と同じ誕生日9月12日生まれ、同じ愛媛出身の人
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