遠藤保仁の情報(えんどうやすひと) サッカー選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
遠藤 保仁さんについて調べます
■名前・氏名 |
遠藤保仁と関係のある人
中村俊輔: 2013年は自身初のリーグ年間2桁得点を記録、またJ1第30節大分戦では通算17点目となる直接フリーキックを決め、遠藤保仁が持っていたJ1のフリーキック最多得点記録を更新。 山瀬功治: またJ2リーグでは三浦知良、遠藤保仁に次ぐ歴代3番目の年長得点者となった。 大島秀夫: しかし、クラブが横浜マリノスに吸収合併されたため、同期入団である遠藤保仁や辻本茂輝らとともに京都パープルサンガへ移籍した。 梶山陽平: それができる選手は(日本人Jリーガーだと梶山の他には)ヤット(遠藤保仁)と(中村)憲剛ぐらい(しかいない)」と評した。 小笠原満男: 2007年までは最多タイ記録だった(2008年に同学年の遠藤保仁に抜かれた)。 大島秀夫: 2000年に京都を戦力外になった時、大島は呆然と事態を飲み込めないまま横浜F時代に同期で入団した遠藤保仁らと選手数人でゲームセンターに行ったという。 二川孝広: 昇格2年目の2000年頃から出場機会を増やし、2002年にG大阪の監督に就任した西野朗からも中盤の様々なポジションで起用され、繊細なボール感覚と抜群のパスセンスを発揮し、遠藤保仁らと共にG大阪の攻撃サッカーの中軸を担い、2003年からは背番号を10番に変更。 アンドレス=イニエスタ: 遠藤保仁は「イニエスタのプレーについて感じるのは、攻撃に関わるプレーの質の高さですね。 明神智和: その後、遠藤保仁、二川孝広、橋本英郎らと共に黄金の中盤と称されながらガンバ攻撃陣の中軸を担い、多くのタイトル獲得に貢献。 山瀬功治: 2020年9月2日、J2FC町田ゼルビア戦で、J1G大阪の遠藤保仁に次ぐJリーグ21年連続ゴールを達成。 中橋舞: 好きな言葉は、遠藤保仁の著書名になっている「明日やろうはバカヤロー」。 宇佐美貴史: 遠藤保仁とツートップを組んだシーズン終盤もペースを落とすことなく得点を重ね、J2第38節・徳島戦では、プロ入り初の4得点のハットトリックを達成。 阿部勇樹: また遠藤保仁を抜き史上最年少での500試合出場を達成、山田暢久に続く記録達成は同一クラブ二人目では史上初、海外移籍経験者の記録達成も史上初、下部組織出身選手の記録達成も史上初と記録づくめとなった。 今野泰幸: 中断明け以降、ボランチに専念し遠藤保仁と共に中盤を締め、攻撃面でも間接的に絡むプレーを見せるなど自身が「人生最大のスランプ」と語った不調を払拭する好パフォーマンスを発揮。 井原正巳: サッカー日本代表のA代表CAP数122は遠藤保仁に抜かれるまで歴代1位であった。 宇佐美貴史: 遠藤保仁が使用していた背番号7を継承した。 家長昭博: 当時イビチャ・オシムが指揮を執ったA代表に選出されたが、好不調の波が激しく G大阪では遠藤保仁や二川孝広らの牙城を崩せずなかなか定位置を掴めずにいた。 那須大亮: 高校の同期に松井大輔、2学年上に遠藤保仁、1学年下には田原豊、上本大海、2学年下には赤嶺真吾らがいた。 アルベルト=ザッケローニ: 2002年から日本代表に選出されている遠藤保仁によれば、初戦をドローに終わったAFCアジアカップ2011ヨルダン戦後、ザッケローニ監督は「戦う気持ちになっていない」と怒りを爆発させ、その様子は歴代の代表監督で見たことも無いほどであったという。 宇佐美貴史: シーズン中盤から高校3年生ながら遠藤保仁・二川孝広・橋本英郎・明神智和らの代表経験者で構成されたG大阪の「黄金の中盤」に割って入り、主に左サイドハーフ、または2トップの一角として起用され、2004年に森本貴幸が記録した高校生Jリーガーのシーズン最多得点(4得点)を更新する7得点を挙げる活躍を見せ、G大阪では初となるJリーグベストヤングプレーヤー賞(新人王)を受賞し、G大阪の公式応援番組『GAMBA TV〜青と黒〜』の年末特別企画『GAMBA TV アウォーズ』では、選手とサポーターが選ぶシーズンMVPに選出された。 加地亮: この日のAFCチャンピオンズリーグ、対大連実徳戦で加地が得たPKを遠藤保仁が決め、ガンバ大阪の選手たちがゆりかごダンスで祝った。 立石智紀: ナビスコカップ決勝のG大阪戦でも神懸り的セーブを連発し、PK戦にまでもつれたこの試合で、遠藤保仁のPKを一本止め、自ら試合に決着をつけた。 小島宏美: 2001年、ガンバは優勝を意識したチーム作りを目指し、京都から遠藤保仁、市原から山口智を獲得、またウェストハム・ユナイテッドへの移籍が噂された宮本恒靖が労働ビザの問題で急遽残留し、当時のガンバの大きな特徴であったシドニーオリンピック日本代表世代の選手を多く抱えた状況で開幕を迎えた。 遠藤彰弘: 実弟の遠藤保仁も元プロサッカー選手。 エドウィン=ファン=デル=サール: このチームで代表でも成し得なかった欧州制覇(チャンピオンズリーグ)とCWC(クラブワールドカップ)も勝ち取り一時的にも「世界最高のゴールキーパー」となるが奇しくも欧州チャンピオンズリーグでは中村俊輔(スコットランド・セルティック)、CWCでは遠藤保仁(ガンバ大阪)と言う2人のレジェンド日本人選手にゴールを奪われている(遠藤はペナルティー・キック)。 武井択也: 試合後にかつてのチームメイト(遠藤保仁・今野泰幸・東口順昭・藤春廣輝)からプレーのポイントを訊き出した模様が、翌2日の『GAMBA TV』内で、「武井択也の武い~プレー」として放送された。 柳沢敦: 柳沢のJ1での得点は16シーズン目となり、第一線を退いているFW中山雅史、神戸FW吉田孝行(同シーズン限りで引退)、G大阪MF遠藤保仁の記録を更新した。 松井大輔: 同校の2年先輩に遠藤保仁、同級生に那須大亮、1年後輩には上本大海や後に京都で共にプレーした田原豊がいる。 明神智和: 2013年、チーム主将を遠藤保仁に譲った。 佐藤勇人: 8月16日、AFCアジアカップ2007 (予選)のイエメン戦(新潟スタジアム)において、勇人が後半26分に遠藤保仁と交代出場し、後半44分には弟の寿人が田中達也と交代出場したことから、日本サッカー史上初となる双子選手の国際Aマッチ同時出場が実現した。 |
遠藤保仁の情報まとめ
遠藤 保仁(えんどう やすひと)さんの誕生日は1980年1月28日です。鹿児島出身のサッカー選手のようです。
現在、兄弟、卒業、家族、引退、父親、テレビ、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。遠藤保仁の現在の年齢は44歳のようです。
遠藤保仁のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)遠藤 保仁(えんどう やすひと、1980年1月28日 - )は、鹿児島県鹿児島郡桜島町(現:鹿児島市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。現在はガンバ大阪のコーチを務める。 実兄の遠藤彰弘も元プロサッカー選手。日本代表国際Aマッチ出場数最多記録保持者。2009年アジア年間最優秀選手。2014年JリーグMVP。また、Jリーグではアシストの統計をとっていないため、公式記録ではないが、2018年シーズン終了時点での通算Jリーグ最多アシストを記録している。 鹿児島県鹿児島郡桜島町に三人兄弟の三男として生まれ、6つ年上の長男・拓哉と4つ年上の次男・彰弘に影響され、物心ついた頃から自宅の庭でボールを蹴り、高校選手権やワールドカップのビデオを見ては、気に入ったプレーを真似していたという。鹿児島実業高等学校では1年生時の1995年に高校選手権優勝。2年生時の1996年には高円宮杯優勝、高校選手権では準々決勝でPK戦で敗れたものの大会優秀選手に選ばれ、U-18日本代表にも選出された。また、2年時には当時鹿児島実業サッカー部を指導していたブラジル人コーチのジョゼ・カルロスの勧めで1カ月ブラジルに短期留学し、サンパウロ州のECサンベントの練習に参加した。 高校卒業後の1998年に横浜フリューゲルスへ加入。監督のカルロス・レシャックから才能を見いだされ、リーグ開幕戦の横浜マリノス戦でいきなりプロデビューを果たす。8月1日の鹿島アントラーズ戦でプロ初得点を挙げ、1年目でリーグ戦16試合に出場するなど順調な滑り出しを果たした。 しかし、同年限りでクラブが消滅したため、手島和希、大島秀夫、辻本茂輝ら他の新人選手とともに1999年に京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)へ移籍。当時のチームメイトには三浦知良、パク・チソン、松井大輔等がいた。京都ではレギュラーに定着するも、翌2000年にチームは年間15位となりJ2降格となった。 2001年、ガンバ大阪に完全移籍。翌2002年に監督に就任した西野朗の下、攻撃的なスタイルを標榜するチームの中心選手になり、移籍3年目の2003年に初めてJリーグベストイレブンを受賞する。2005年のナビスコカップ決勝のジェフユナイテッド千葉とのPK戦では立石智紀相手にプロ入り以来初めてPKを失敗してナビスコカップ優勝を逃すも、この年自身初のシーズン2桁得点を記録し、リーグ最終節の川崎フロンターレ戦では、PKを決めてG大阪にとって初タイトルとなるJリーグ優勝に貢献し、自身にとっても初となるJリーグ優勝を経験。 2006年からは、二川孝広・橋本英郎に加えこの年新加入した明神智和とで構成された抜群のパスワークで相手を圧倒する中盤は「黄金の中盤」と称され、G大阪の攻撃陣を牽引していたが、10月に日本代表でのインド遠征中に発熱してから体調が戻らず、後にウイルス性肝炎と判明したことで、シーズン終盤は1ヶ月以上の戦線離脱を余儀なくされた。12月2日に行われたリーグ最終節の浦和レッズ戦で復帰するも、チームは敗れリーグ連覇を逃した。2007年はシーズン通して大きな体調不良もなく、リーグ戦全34試合にフル出場し、ナビスコカップ優勝にも貢献。 しかし、2008年6月末にウイルス性感染症により、再び1ヶ月以上の離脱を余儀なくされ、オーバーエイジ枠でのメンバー入りが確実視されていた北京オリンピック日本代表を辞退することとなった。さらに遠藤離脱後、G大阪はリーグ戦で不振に陥った。それでも、復帰後のACLではアシストを連発し、特に準決勝の浦和戦では2戦合計2ゴール2アシストと全得点に絡む活躍でクラブ初のアジア制覇に貢献し、大会MVPを受賞した。同年11月には、イングランド2部のプリマス・アーガイルFCからオファーを受けるが、家族のことなどを考慮してG大阪に残留した。同年12月に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップでも、準々決勝のアデレード・ユナイテッド戦では決勝ゴールを挙げ、準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦ではチームは敗れるも試合終盤にPKでゴールを挙げ、決定的なパスを前線に供給するなど攻守に活躍を見せた。この活躍により、同大会を優勝したマンチェスター・ユナイテッド監督のアレックス・ファーガソンからは「キト(決勝で対戦した南米王者)には遠藤と同じくらいのクオリティーを持った選手はいなかった。」と賞賛された。さらに、同年度の天皇杯優勝にも貢献し、ガンバでは2005年のアラウージョ以来となる日本年間最優秀選手賞を受賞した。 2009年11月にはAFCから日本人では1993年の三浦知良、1995年の井原正巳、1997年、1998年の中田英寿、2002年の小野伸二以来5人目(6度目)となるアジア年間最優秀選手賞を受賞した(ちなみに、この前年も最終候補まで残っていたが受賞はならなかった)。リーグ戦では自身5年ぶりとなる2桁得点を記録し、2010年1月1日に行われた天皇杯決勝の名古屋グランパス戦では、2ゴール1アシストと圧巻の活躍を見せG大阪の天皇杯連覇の立役者となった。なお、この頃からポジションを代表と同じボランチに移すようになった。 2010年は代表との過密日程で開幕からコンディションが安定せず、2月27日に行われたゼロックススーパーカップの鹿島アントラーズ戦では、PK戦で枠を外す失敗をしてしまい、自身の不調と比例するかのようにチームもリーグ戦で低迷。それでも、南アフリカW杯後の復帰初戦となった浦和戦では試合終了間際に決勝ゴールを挙げ、その後は安定した活躍を見せた。 2011年、Jリーグ開幕戦となったセレッソ大阪との大阪ダービーで、プロ14年目にして初となる開幕戦ゴールを決めた。7月には3試合連続得点を記録するなど、優勝争いを続けるチームを牽引していたが、8月以降右内転筋痛によりプレースキックを蹴れない状態が続き、さらにクラブ・代表の過密日程により十分な休養が取れないまま強行出場を続け、最終的に発熱で欠場した1試合を除くリーグ戦33試合に出場したが、シーズン終盤まで完治しなかった。11月26日、J1第33節仙台戦で史上7人目となるJ1通算400試合出場を達成。 2012年、前年に移籍した山口智に代わりG大阪の副主将に就いた。6月23日、J1第15節札幌戦で、三浦淳宏の記録を抜く当時のJリーグ歴代1位となる通算16得点目の直接フリーキックでゴールを決めた。7月21日、カシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチでは、サポーター投票で最多の320,709票を集め、Jリーグ選抜の一員として出場した。この年、ガンバは極度の不振に陥り、自身は代表との過密日程ながら5年ぶりにリーグ戦全試合に出場したが、京都時代以来のJ2降格となった。 2013年、J2降格となったG大阪に残留。また、明神智和から引き継ぎプロ入り以来初の主将に就いた。自身初のJ2でのプレーとなったこの年、日本代表との並行日程でリーグ戦の約4分の1ほどを欠場したが、終始安定したプレーを発揮し、G大阪のJ2優勝と1年でのJ1復帰に貢献。シーズン終盤には、フォワードとしてやや高い位置でプレーしながら、この年チーム最多得点を記録した宇佐美貴史をサポートする役割を担った。シーズン終了後のJリーグアウォーズでは、サポーターの投票で選出されるJ2最優秀選手賞にあたる「J2 Most Exciting Player」を受賞した。 2014年、開幕当初は前年の後半戦同様、前線で起用されたが4月以降は今野泰幸とダブルボランチを形成。しかし、開幕当初はミスが目立ちチームも前半戦は極度の不振に陥り、ブラジルW杯による中断前は降格圏の16位に低迷。それでも、中断期間の休養を経て後半戦は調子を取り戻し攻撃の起点となり多くのアシストを記録し、前半戦不振に陥っていた今野の復調も支え、チームの後半戦躍進を加速させた。11月のナビスコカップ決勝のサンフレッチェ広島戦では、前半35分で2点のリードを許す苦しい展開となるも、その3分後にパトリックの得点をアシストし、後半の逆転劇を手繰り寄せ7年ぶりのナビスコカップ優勝を達成。シーズン終盤はカップ戦も勝ち進んだことで過密日程になるも、リーグ戦はフィールドプレーヤーでは唯一の全試合に出場し、FKとPKではそれぞれJ1最多記録に並んだ。先発メンバーに多くの若手選手が名を連ねるようになった中、不動の平常心でチームを牽引し、J1昇格1年目で9年ぶり2回目のリーグ優勝を果たし、さらにはクラブ史上初の国内三冠を達成。Jリーグアウォーズでは11度目のベストイレブンと自身初となるJリーグ最優秀選手賞を受賞した。 2015年4月18日、J1.1st第6節・湘南戦でJ1でのPK通算27得点目を決め、福田正博を抜きPK得点単独トップに立った。10月17日のJ1.2nd第14節浦和戦でJ歴代最年少でJ1通算500試合出場を達成。この年もリーグ戦全試合にフル出場。CS準決勝浦和戦では延長後半にフリーキックから浦和ディフェンスの意表をつきパトリックのダメ押しゴールをアシスト。決勝の広島戦では第1戦・第2戦共にセットプレーから今野のゴールをアシストしたが、いずれも勝利には結びつかず後一歩でリーグ連覇を逃した。2015年シーズン最後のタイトルがかかった天皇杯決勝・浦和戦では後半にコーナーキックからパトリックの決勝ゴールをアシストし、天皇杯連覇に貢献。優勝セレモニーではこの年限りで移籍した明神智和のユニフォームを着て壇上に上がり、長年プレーした明神への感謝を示した。 2016年10月29日、2ndステージ第16節のアルビレックス新潟戦で史上13人目、MF登録では藤田俊哉以来2人目となるJ1通算100得点を達成。 2017年4月に行われたACL・江蘇蘇寧足球倶楽部戦での失点に絡むミス やアデレード・ユナイテッドFC戦でのPK失敗 など、不調が続き4月30日に行われた第9節の横浜FM戦ではルーキーイヤー以来19年ぶりのベンチに入ったものの出場なしで試合を終えた。しかし、5月5日に行われた第10節の清水戦ではチームが負けている状態で途中出場し、存在感を発揮し、チームを引き分けへと導いた。8月9日、第21節の広島戦では20年連続で得点を決めて、藤田を抜きMF登録で歴代最多得点を記録した。 2018年2月23日、開幕戦の名古屋グランパス戦で得点を挙げ、21年連続ゴールを達成。11月10日、第32節の湘南ベルマーレ戦ではフィールドプレーヤー史上初となるJ1リーグ通算600試合出場を達成した。また、シーズン終了後に放送されたTBS「スーパーサッカー」(2019年2月10日放送)で番組で統計したJリーグ通算アシストランキングの1位にランクインした。 2019年シーズン開幕戦に先発出場し、Jリーグ(J1・J2を含む)史上初の20年連続開幕戦先発の単独記録となった。ちなみに昨シーズンまで並んでいた中澤佑二は昨シーズンをもって引退している。4月20日、第8節の大分トリニータ戦で22年連続ゴールを達成。8月2日、第21節のヴィッセル神戸戦で日本人選手としては初となる公式戦1000試合を達成した。 2020年7月4日、第2節のセレッソ大阪戦でJ1史上最多となる632試合に出場した。同試合後には「選手である以上はスタメンで出たい。常にアピールしていきたい」と口にしていたが、J1リーグ第20節終了時点で出場はJ1リーグ11試合363分、ルヴァン杯2試合100分のみで、J1リーグ開幕戦こそフル出場したものの、新型コロナウイルス感染拡大の影響による中断から再開後は先発出場したリーグ戦2試合、ルヴァン杯1試合を含め全て途中交代にとどまり、J1リーグ第12節・第13節では2戦連続のベンチ外も経験。 10月5日、出場機会を求めて同シーズンのJ2リーグで13位に低迷しているジュビロ磐田へ期限付き移籍することとなった。10月10日、移籍後初の試合となった第25節の松本山雅FC戦で先発フル出場を果たすと、10月25日、第29節のザスパクサツ群馬戦で公式戦5年ぶりに直接FKを決め、移籍後初得点を上げた。加入後、15試合に先発出場し、チームは18試合で僅か3敗と最終的に6位まで立て直し、低迷していたチームを活性化させた。 2021年5月15日、第14節のザスパクサツ群馬戦において決勝点を挙げ、自身が持つJリーグシーズン連続ゴール記録を24年に更新した。1998年のプロデビュー以来毎シーズンのゴールであり、ゴールを記録したシーズン数も歴代1位の24年となり同2位の三浦知良の23年を上回った。シーズンを通して主力として活躍し、チームのJ1昇格、J2優勝に貢献した。12月27日、2022年シーズンより磐田に完全移籍することが発表された。 2022年3月12日、移籍後初の古巣ガンバ大阪との対戦では、G大阪に在籍経験のあるチームメイトの鈴木雄斗、大森晃太郎との連携で先制点を演出した。10月29日に行われたG大阪との試合では、G大阪のホームスタジアム・パナソニックスタジアム吹田のピッチに移籍後初めて立った。チームはG大阪に敗れてJ2降格が決定。奇しくもG大阪はこの試合後に残留を決めて、遠藤は元ホームスタジアムで降格を味わった。試合後には、スタジアムを一周して古巣のサポーターに挨拶をした。遠藤はその後1年プロを続けたのちに引退したため、結果的にこれが現役最後のパナソニックスタジアムでのゲームとなった。シーズンを通してレギュラーとして出場を続けていたが、自身はキャリア初のシーズン無得点に終わり、チームも僅か1年でJ2降格を喫した。 2023年はシーズンを通して中盤まではレギュラーとして多く試合に出場していたが、シーズン中盤以降はスタメンを外れベンチスタートやベンチ外になることも多くなったが、チームは最終節で栃木SCに勝利して自動昇格を争うライバルの2位清水を抜いてリーグ戦2位に浮上して1年でのJ1復帰を決めた。 2024年1月9日、2023シーズンをもっての現役引退を発表した。遠藤の引退により、横浜フリューゲルスに在籍経験のある選手が全員引退した。 引退発表と同時にガンバ大阪のトップチームコーチ就任が発表された。 1999年、U-20日本代表としてナイジェリアで開催された第10回ワールドユース選手権に出場し、日本代表の準優勝に貢献。この代表メンバーは後にJリーグやフル代表の中心的存在となる選手が多かったことから「黄金世代」と呼ばれている。同年、シドニーオリンピック予選のU-22日本代表にも選出され、アジア1次予選、最終予選はスターティングメンバーとして戦ったが、2000年のシドニーオリンピック本大会では、予備登録メンバーとして選出されるも、出場機会はなかった。 2002年、当時の日本代表監督ジーコによってフル代表に初招集され、11月20日のキリンチャレンジカップ・アルゼンチン戦で初出場を果たし、以降、代表レギュラーの座を勝ち取る。翌2003年には、FIFAコンフェデレーションズカップ2003に全試合スタメン出場。同年8月20日のナイジェリア戦で待望の代表初ゴールを挙げる。当時のボランチは同期の小野伸二や稲本潤一、中田浩二といった海外組を始め、同じ国内組の福西崇史などがいたため激戦区であったが、2004年のアジアカップレギュラーとして日本代表の優勝に貢献した。翌年、中田英寿のボランチへのコンバート志願のあおりを受け、再び控えに回る事になり、2006年のドイツW杯ではフィールドプレーヤー(GK以外の選手)で、唯一ピッチに立つことがなかった。 ドイツW杯後、新監督イビチャ・オシムからの指導でプレースタイルに磨きをかけ、代表の中心的存在に登りつめ、ドイツW杯を最後に現役を引退した中田の背番号7を引き継いだ。オシムジャパンではボランチではなく、オフェンシブハーフとして起用されたのが特徴である(ガンバ大阪では同様の起用法は頻繁に見られるが、日本代表では主にボランチで起用されていた)。 2007年12月、オシムが病に倒れ退任、急遽監督に就任した岡田武史は、当初、オシムのチームを引き継ぐという立場であったため、遠藤もオシム時代同様にオフェンシブハーフでの起用が多かったが、岡田が「俺のやり方でやる」と宣言した2008年の南アフリカW杯アジア3次予選から、長谷部誠とダブルボランチを形成。守備陣と攻撃陣のパイプ役を担って、南アフリカW杯予選突破に貢献し、岡田からは「チームの心臓」と称された。その後も、代表でのレギュラーの座を不動のものにしていたが、W杯直前にリーグ戦やACL、さらには日本代表戦など、連戦による過密日程をこなすことで大きくコンディションを落とし、2010年2月の東アジア選手権や親善試合のセルビア戦では低調なパフォーマンスに終わり、クラブに戻っても数試合は休養を取らざるを得なかったほどに疲労に苛まれていた。 2010年5月10日に南アフリカW杯のメンバーに選出され、6月の本大会ではグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の全試合に司令塔としてスタメン出場を果たした。6月25日のグループリーグ第3戦のデンマーク戦では直接フリーキックを決めてW杯初得点を挙げ、4試合トータルでチーム1の走行距離を記録するなど、日本代表初のアウェーでのベスト16入りに大きく貢献した。このフリーキックについて遠藤本人は、「(本田圭佑が蹴る事を希望していたが)圭佑は1本目決めてたんで、俺に蹴らせろみたいな感じ」で自身が蹴る事にしたと語っている。尚、本大会は公式ボールが無回転シュート向けの特性を持ち、横回転を掛け難い“ジャブラニ”が採用されたため、多くのカーブ系のキックを得意とする選手が悪戦苦闘する事態になった。そんな中、遠藤はジャブラニを自在に操り、前述のフリーキックだけでなく起点としてもカメルーン戦の本田のゴール、デンマーク戦の岡崎のゴールを演出。岡田監督が「このチームの心臓」と評したとおりの活躍を見せ期待に応えた。ちなみにW杯で1試合2本のフリーキック成功は44年ぶりである。 2010年10月12日、親善試合の韓国戦で、井原正巳、川口能活、中澤佑二に次ぐ4人目、GKとDF以外のポジションの選手では初となるフル代表100試合出場を達成。 南アフリカW杯後に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニからもレギュラーとして起用され、2011年1月に開催されたアジアカップでは全6試合にスタメン出場を果たし、チーム最年長、チーム最多CAP選手として若いチームを引っ張り、中盤の底から決定的なパスを何本も供給し、ゲームをコントロールし続けた大車輪の活躍で、日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に大きく貢献し、大会MVPに輝いた本田圭佑は、MVPについて感想のコメントを求められ「個人的にはヤットさん(遠藤)だと思う。ああいう人がいなかったら勝負は紙一重だった」と遠藤を讃えた。 2011年3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、先制点となるフリーキックを決めた。 2012年10月12日、フランスとの国際親善試合にフル出場し、井原正巳が持っていた日本代表の国際Aマッチ最多出場記録の122試合に並ぶと、続く16日のブラジル戦にも出場し、最多出場記録を13年ぶりに更新。さらに翌2013年9月10日のガーナ戦に出場したことで、それまで東アジア諸国の国際Aマッチ最多出場記録を持っていた韓国・洪明甫の136に並び、10月11日のセルビアとの欧州遠征第1戦に出場して137試合目となり、東アジア最多出場記録を更新した。 2014年5月、ブラジルW杯代表に選出され、日本代表では唯一ドイツ大会から3大会連続選出となった。本大会では、クラブで調子を落としていたことから直前でレギュラーから外され、第1戦コートジボワール戦、第2戦ギリシャ戦ともに長谷部誠に代わり後半から出場。第3戦コロンビア戦は出場機会がなくチームも敗れグループリーグで敗退した。 ブラジルW杯以降、ハビエル・アギーレ体制となってからは代表から外れていたが11月に代表復帰。同年12月、AFCアジアカップ2015の代表メンバーに選出され、日本代表としては初のアジアカップ4大会連続選出となった。グループリーグ第1戦パレスチナ戦では先発出場で先制ゴールを決め、三浦知良が持っていたアジアカップの日本代表最年長ゴール記録(29歳9カ月)を34歳11カ月に更新、さらにアジアカップの出場数も通算最多となった。続く第2戦イラク戦にも先発出場し、国際Aマッチ150試合出場を達成した。 ヴァイッド・ハリルホジッチ体制後からは代表に選出されておらず、ハリルはその理由を最初の代表発表の場で「遠藤は日本のレベルを上げてくれた。でもリストには入ってない。私はW杯ロシア大会の準備のために日本に来ている。メンバーは、今までのリストを中心に、さらに自分の考えを加えて作成している。遠藤はこれまで、日本のために貢献してくれた。敬意を表したい。」とロシアW杯時の年齢を配慮し選出しない事を宣言している。 2013年9月6日に行われたグアテマラ戦で遠藤がFKで決めた得点以降、日本代表は直接FKでの得点は2018年11月に原口元気が決めるまでの約5年間無かった。 ボランチとしてボールキープが巧みで タメをつくることができ、正確なパスを散らすゲームメーカー。短距離〜やや長い浮き球のパスを得意とし、中央からの散らしに関しては足元・スペースを正確に突く、特に短距離のパスは相手の重心と反対の方向へ出すことでカットされにくく、日本でも屈指の精度を誇る。G大阪の戦術上、中・長距離のパスは用いることは少ないが、こちらも非常に高い精度を持つ。 ポジションは主に攻撃的MFおよびセントラルMF。スピードやフィジカルに頼ったプレーやヘディングは得意としていないが、プレースキックの精度が高く、直接得点したりアシストする場面が頻繁に見られる。直接フリーキックはプロ入り初期はそれほど蹴っていなかったが、日本代表に選出された後、監督のジーコからプレースキッカーの役割を担うよう提言を受け、以降はクラブや代表でもプレースキックを任されることが多くなった。強い回転系のシュートを得意としており、ペナルティエリアやや外くらいからゴールマウスを的確にとらえられる高精度のミドルシュートを持つ。また、テクニックタイプではあるがボディーコンタクトも強い。 元々遠藤は運動量がそれほど多くなく、中盤の底からゲームメイクをするバランサータイプの選手であったが、2006年に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムから「チームのために走りなさい」と指導され、以降は自らドリブル突破やゴール前でのワンツーからの飛び出しなど仕掛ける動きが目立つようになり、攻撃的な役割を担う部分が多くなった。オシムの指導によって豊富な運動量も遠藤の武器となり、南アフリカワールドカップで計測された4試合389分での走行距離は47.02 km。同大会に出場した日本代表選手での中で本田圭佑(45.48 km)、長友佑都(45.43 km)らを抑え最長を記録した。また、状況判断力にも長け、パスを供給する位置やタイミングを自在に把握する広い視野と戦術眼も併せ持っており、本人の何事にも動じない落ち着いた性格からどんな状況でも常に慌てることなくプレーできるなど精神面も強い。 オシムからは「常に自分をコントロールし、チームメイトや対戦相手もコントロールする。その知性はチームに大きなプラスアルファをもたらす。彼がいれば監督は必要ない」と高い評価を得ている。遠藤保仁はクラブ・日本代表双方において必要不可欠な存在とされており、様々な見地から「遠藤保仁不在」が不安視されていた。日本代表における遠藤の後継者候補に挙げられていた選手には柴崎岳、扇原貴宏、家長昭博、柏木陽介、高橋秀人 がいたが、いずれも候補止まりであり、ポスト遠藤の評価を得るまでには至っていない。 2020年4月、イギリスメディアの選ぶ21世紀の日本代表ベスト11に選ばれた。 遠藤はPKを蹴る際、しばしば遅めの球速で蹴る場合がある。ボールがピッチ上をコロコロと転がりながらゴールマウスに向かう様子からメディアやファンからは「コロコロPK」と呼ばれている。助走時間を長く取ってゆっくりとボールに近づき、ボールは一切見ず相手ゴールキーパーの動きを最後まで見ることで相手の重心の動きを見極め、ゴールキーパーが動いた方向とは逆方向にインサイドキックでボールを転がすように蹴る。もしゴールキーパーが動かなかった場合はサイドに強く蹴る。近年では詳細が知れ渡ってしまったため、上記のキックをしないことが多い。 リーグ戦でのPK成功率は9割以上であり、J1での通算PK得点(30得点、2015年シーズン終了時点)はJ1最多記録である。さらに、2008年のFIFAクラブワールドカップ準決勝のマンチェスター・ユナイテッドとの対戦では、コロコロPKで元オランダ代表のファン・デル・サールからゴールを奪い、2010年のFIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でも、1人目を任されて成功させる(ただし、この時はジャブラニがコロコロPKに合わないという理由でサイドに鋭く蹴った) など、代表での試合を含め国際大会においても成功率は高い。 憧れの選手はという問いには「2人の兄」を挙げており、6つ上の長男・拓哉は次男よりも憧れの選手で、鹿児島実業高校では前園真聖と同期で背番号10を背負ってプレーし、高校選手権では2年、3年と連続して優秀選手に選ばれ、 大学選抜や実業団(九州サッカーリーグ、鹿児島県社会人サッカーリーグなどに所属した京セラ川内サッカー部)で活躍。4つ年上の次男・彰弘は横浜FMや神戸で活躍し、アトランタオリンピックでは10番を背負ったなど、サッカー界では有名な「遠藤3兄弟」として知られている。 夫人は高校時代の同級生で、4人の子供(娘2人、息子2人)がいる。 夫人と長男は2010 FIFAワールドカップに帯同。長男が「ゴール決めてね」といった後、父親・保仁は本当にゴールを決めた(デンマーク戦)。 フジテレビ『ポンキッキシリーズ』のマスコット「ガチャピン」と容姿が瓜二つである。スタジアムでポンキッキーズガチャピンのイラストや人形を掲げて応援するサポーターも多数。2005年9月24日放送の「ポンキッキーズ」に出演した際、本物のガチャピンと共演し、「僕に似てるって言われるでしょ」と質問をされ、「昔は良く似てるって言われてました」と答えた。2010年には所属するガンバ大阪やフジテレビKIDSで、遠藤とガチャピンのコラボグッズが発売された。2010年9月8日にはガンバのホーム万博記念競技場へガチャピンが来場し、2011年9月25日にはガンバの練習場に訪れたガチャピンにサッカーを教えた。2011年12月4日に万博記念公園で行われたファン感謝祭では、自らガチャピンの着ぐるみを着て登場し、「本物です」「(似ているといわれて)嬉しいです」と答えた。 一番好きな食べ物はレバ刺し。ゴルフが趣味であり、時間があったらもっとのめり込んでいたかもしれないと話している。また、スポーツ全般に興味があり、ゴルフの他には野球にも興味がある。 サッカー選手になっていなかったら、漁師になっていたかもしれないとインタビューでは答えており、昔は釣りをするために海に出かけることもよくあった。 性格はマイペースでおっとりしているところがあり、本人曰くのんびりしすぎる時もあるのでそこが自分の弱点かもしれないと述べている。鹿児島実業高校時代の恩師・松澤隆司監督によると「運動能力が高く、持久走では1番になれる力がありながら、いつも3〜4番」とあまり目立とうとしないタイプで、親友の中村俊輔いわく「プレッシャーをかけてもゆっくり」とのこと。本人は「緊張はしないし、慌てたりすることもない。ストレスは感じない方。人の話をあまり聞いてないところが欠点」と自己分析している。 趣味は競馬。2008年スプリンターズステークス優勝馬のスリープレスナイトの一口馬主であった。また騎手の福永祐一と交友がある。 2010年の南アフリカワールドカップでの活躍で、セリエAのジェノアが獲得に乗り出したと地元メディアで報じられたが、本人は「レベルの高いところでやりたい気持ちはあるけど、イタリアの(守備的な)スタイルは嫌い」と苦笑いしていた。 2011年3月6日、アメーバブログに遠藤を名乗る偽ブログが掲載される騒動が起こった。8日にガンバ側が遠藤本人のブログではないことを公表し、同日中にブログは閉鎖された。2014年1月15日、アメーバで公式ブログが開始された。2016年4月からはLINEブログに移行している。 2012年4月13日放送の『僕らの音楽』で、大のサッカーファンである歌手の森山直太朗と対談した。 2012年4月14日に公開された劇場版アニメ『名探偵コナン 11人目のストライカー』で声優に初挑戦した。遠藤は、主人公の江戸川コナンにフリーキックの心得を伝授する役で三浦知良、楢﨑正剛、中村憲剛、今野泰幸とともに出演した。遠藤はコナンファンであり、遠藤の家族もコナンファンだと言う。パンフレットの独占インタビューでも、「国民的アニメのコナンに出演するということで、とても緊張していた」ことなどを述べている。 桜島町立桜洲小学校 桜島町立桜島中学校 1995年 - 1997年 鹿児島実業高校 1998年 横浜フリューゲルス 1999年 - 2000年 京都パープルサンガ 2001年 - 2021年 ガンバ大阪
2022年 - 2023年 ジュビロ磐田 その他の公式戦 2006年
2007年
2009年
2010年
2015年
Jリーグチャンピオンシップ 3試合0得点 2016年
その他の国際公式戦 2006年
2015年
Jリーグ初出場 - 1998年3月21日 J1.1st第1節 vs横浜マリノス(日産スタジアム) Jリーグ初得点 - 1998年8月1日 J1.1st第15節 vs鹿島アントラーズ(日産スタジアム) 100試合出場 - 2002年3月10日 J1.1st第2節 vs京都パープルサンガ(西京極陸上競技場) 150試合出場 - 2003年9月23日 J1.2nd第7節 vs東京ヴェルディ1969(万博記念競技場) 200試合出場 - 2005年7月2日 J1第13節 vs東京ヴェルディ1969(万博記念競技場) 250試合出場 - 2007年4月7日 J1第5節 vs川崎フロンターレ(万博記念競技場) 300試合出場 - 2008年9月28日 J1第27節 vs東京ヴェルディ(味の素スタジアム) 400試合出場 - 2011年11月26日 J1第33節 vsベガルタ仙台(万博記念競技場) 500試合出場 - 2015年10月17日 J1.2nd第14節 vs浦和レッズ(万博記念競技場) 600試合出場 - 2018年11月10日 J1第32節 vs湘南ベルマーレ(パナソニックスタジアム吹田) 50得点 - 2006年9月9日 J1第22節 vsセレッソ大阪(万博記念競技場) 100得点 - 2016年10月26日 J1.2nd第16節 vsアルビレックス新潟(市立吹田サッカースタジアム) 全国高校選手権:1回(1995年) 高円宮杯全日本ユース選手権:1回(1996年) 天皇杯:1回(1998年) Jリーグ ディビジョン1:2回(2005年、2014年) Jリーグ ディビジョン2:1回(2013年) ナビスコカップ:2回(2007年、2014年) 天皇杯:4回(2008年、2009年、2014年、2015年) ゼロックススーパーカップ:2回(2007年、2015年) AFCチャンピオンズリーグ:1回(2008年) パンパシフィックチャンピオンシップ:1回(2008年) J2リーグ:1回(2021年) AFCアジアカップ:2回(2004年、2011年) キリンカップサッカー:4回(2004年、2007年、2009年、2011年) Jリーグ最優秀選手賞:1回(2014年) Jリーグ優秀選手賞:12回(2003年 - 2012年、2014年 - 2015年) Jリーグベストイレブン:12回(2003年 - 2012年、2014年 - 2015年)※歴代最多 AFCチャンピオンズリーグMVP:1回(2008年) 日本年間最優秀選手賞:2回(2008年、2014年) アジア年間最優秀選手賞:1回(2009年) J2 Most Exciting Player:1回(2013年) Jクロニクルベスト ベストイレブン(2013年) J30ベストアウォーズ ベストイレブン(2023年) J30ベストアウォーズ MVP(2023年) 週刊サッカーマガジン 年間最優秀選手賞(クリスタルアウォード賞):1回(2008年) 報知プロスポーツ大賞 Jリーグ部門:1回(2008年) テレビ朝日 第43回ビッグスポーツ大賞「日本サッカー応援宣言!やべっちF.C.賞 (サッカープロジェクト賞)」:1回(2008年) 関西スポーツ賞 特別賞:1回(2009年) 感動大阪大賞(知事賞詞):1回(2010年) 関西ベストファーザー賞(スポーツ部門):1回(2012年) 第71回南日本文化賞特別賞:1回(2020年) 国際Aマッチ初出場 - 2002年11月20日 キリンチャレンジカップ vsアルゼンチン代表(埼玉スタジアム2002) 国際Aマッチ初得点 - 2003年8月20日 キリンチャレンジカップ vsナイジェリア代表(国立競技場) 国際Aマッチ50試合出場 - 2007年7月16日 AFCアジアカップ2007 vsベトナム代表(ミーディン国立競技場) 国際Aマッチ100試合出場 - 2010年10月12日 国際親善試合 vs韓国代表(ソウルワールドカップ競技場) 国際Aマッチ150試合出場 - 2015年1月16日 AFCアジアカップ2015 vsイラク代表(ブリスベン・スタジアム) U-16日本代表 U-18日本代表 U-19日本代表
U-20日本代表
U-23日本代表
2000年 - シドニーオリンピック予備登録メンバー 日本代表
2003年 - 東アジアサッカー選手権2003(準優勝) 2004年 - AFCアジアカップ2004(優勝) 2005年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2005(グループリーグ敗退) 2005年 - 東アジアサッカー選手権2005(準優勝) 2006年 - 2006 FIFAワールドカップ(グループリーグ敗退) 2007年 - AFCアジアカップ2007(4位) 2008年 - 東アジアサッカー選手権2008(準優勝) 2010年 - 東アジアサッカー選手権2010(3位) 2010年 - 2010 FIFAワールドカップ(ベスト16) 2011年 - AFCアジアカップ2011(優勝) 2013年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2013(グループリーグ敗退) 2014年 - 2014 FIFAワールドカップ(グループリーグ敗退) 2015年 - AFCアジアカップ2015(ベスト8) 国際Aマッチ 152試合 15得点(2002年 - 2015年)
名探偵コナン(2018年、本人役) 名探偵コナン 11人目のストライカー(2012年、本人役) アンブロ ACジャパン「ルールブックにはないルール(2009年 -・近畿圏のみ) スカパー!(2010年 - ) でん(2011年 - ) ウィズガス住宅 日本ガス株式会社(2012年 - 、鹿児島) 対話式進学塾 1対1ネッツ(2013年) サイバード『バーコードフットボーラー』(2014年) 西川産業『Air』(2014年) LION『ソフラン』キャンペーンキャラクター(2014年) 明治安田生命『Number Extra』(2015年) 2009年2月 『自然体~自分のサッカーを貫けば、道は開ける(小学館)ISBN 978-4098250226 2010年9月 『明日やろうはバカヤロー』(日本スポーツ企画出版社)ISBN 978-4930942975 2011年1月 『信頼する力 ジャパン躍進の真実と課題』(角川書店) ISBN 978-4047102699 2012年1月 『観察眼』(角川書店)ISBN 978-4041101100 ※今野泰幸との共著 2013年4月 『眼・術・戦(カンゼン)ISBN 978-4862551641 ※西部謙司との共著 2014年12月『変えていく勇気』(文藝春秋)ISBN 978-4163901336 2010年3月 『遠藤保仁 ヤットスタイル』(ポニーキャニオン) ^ “遠藤 保仁”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_a/yasuhito_endo.html ^ “個人記録”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/individual_records.html ^ 【アシストランキング⑨】 TBSスーパーサッカーTwitter 2019年2月14日 ^ “【Jリーグ】桜島を訪ねて ~遠藤保仁の育成環境を探る”. J SPORTS (2009年4月23日). 2011年9月19日閲覧。 ^ “アナザースカイ-遠藤保仁”. アナザースカイ. 2014年2月2日閲覧。 ^ 【ヤマザキナビスコカップFINAL激闘録 PLAY BACK 2004-08】2005年 千葉 vs G大阪(後編)立石が仕掛けた PK戦前の駆け引き J's GOAL 2009.11.2付記事 ^ 18歳・宇佐美、G大阪の「黄金の中盤」に新風 日本経済新聞、2010年12月2日 ^ MF 遠藤保仁選手の病状について ガンバ大阪オフィシャルサイト、2006年10月21日 ^ “遠藤がV宣言! G大阪3発先勝/ACL”. goo スポーツ (2008年11月6日). 2008年11月24日閲覧。 ^ 元川 悦子 (2008年8月8日). “【Jリーグ】遠藤保仁のJリーグ復帰に思う”. J SPORTS. 2008年11月24日閲覧。 ^ ファーガソン監督(マンチェスター・U)決勝後会見 TOYOTA プレゼンツ FIFA クラブワールドカップ ジャパン 2008 スポーツナビ、2008年12月22日 ^ “遠藤保仁の“凄み”とは何なのか?天皇杯に和製シャビ・アロンソを見た!”. Number Web (2010年1月10日). 2011年9月25日閲覧。 ^ 疲労ピーク…遠藤PK外す/ゼロックス杯 日刊スポーツ、2010年2月28日 ^ 遠藤が決勝ゴール!G大阪 浦和を下す スポニチ、2010年7月18日 ^ 遠藤、負傷していた…右内転筋痛も強行出場 スポニチ、2011年9月3日 ^ G大阪・遠藤、7人目の400試合出場 サンスポ、2011年11月26日 ^ G大阪遠藤お目覚め14戦目1号/J1 日刊スポーツ、2012年6月23日 ^ 【東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチ】出場選手決定 サポーター投票最多得票選手は遠藤 保仁選手(ガンバ大阪) Jリーグ公式サイト、2012年7月6日 ^ ““FW遠藤”を成功に導いた宇佐美の巧みな動き。ガンバで見せる天才の進化に迫る”. フットボールチャンネル (2013年10月23日). 2013年12月2日閲覧。 ^ “G大阪、後半の猛追を支えた2ボランチ ブレない遠藤と悩み抜いた今野が舵を握る”. スポーツナビ (2014年12月7日). 2014年12月20日閲覧。 ^ “試合の流れを変えた遠藤の戦術眼。ガンバ大阪が今季1冠目を獲得し、3冠に弾み。”. J SPORTS (2014年11月10日). 2014年12月20日閲覧。 ^ “首位浮上も不変のルーティン。泰然自若と引き締め役。2人のベテランが支えるG大阪に慢心なし”. フットボールチャンネル. (2014年12月3日). http://www.footballchannel.jp/2014/12/03/post59065/ 2014年12月20日閲覧。 ^ “遠藤保仁が、激動の1年を振り返る「今季はキャリアハイじゃない」”. Number Web (2014年12月17日). 2014年12月20日閲覧。 ^ “フットボールチャンネルが選ぶ2014年ベスト30。34歳にして新境地を開拓したガンバのキャプテン、遠藤保仁(1位)”. フットボールチャンネル. (2014年12月28日). http://www.footballchannel.jp/2014/12/28/post62746/ 2014年12月29日閲覧。 ^ “【遠藤保仁セレクト】J1・500試合の中から本人が選ぶ「記憶に残る5つのゲーム」”. soccerdigestweb (2015年10月23日). 2016年1月11日閲覧。 ^ “退団濃厚の明神ユニで天皇杯掲げた遠藤「一緒にプレーしたかった」”. 日刊スポーツ (2016年1月1日). 2016年1月11日閲覧。 ^ “G大阪遠藤J1通算100ゴール 史上13人目”. 日刊スポーツ (2016年10月29日). 2016年10月30日閲覧。 ^ “G大阪遠藤「ミスからリズムを崩した」ACL3連敗”. 日刊スポーツ (2017年4月11日). 2017年5月11日閲覧。 ^ ““名手”遠藤のPK失敗に海外メディアも驚き 「シュートを空に放つ」「観衆に打ち込む」”. Football ZONE web (2017年4月25日). 2017年5月11日閲覧。 ^ “ベンチ入りして出番なしは19年ぶり G大阪MF遠藤「ケガではない」”. スポニチ (2017年4月30日). 2017年5月11日閲覧。 ^ “G大阪・遠藤は途中出場で存在感 同点弾の倉田「やりやすくなった」”. デイリースポーツ (2017年5月5日). 2017年5月11日閲覧。 ^ ガンバ遠藤 20年連続ゴール!MF単独1位も悔しいドロー スポニチ 2017年08月10日 ^ “「これぞヤット!!」 遠藤保仁、二人の間を射抜く“精密弾”に反響「ゴールにパス」”. FOOTBALL ZONE WEB (2018年2月24日). 2018年11月17日閲覧。 ^ フィールドプレーヤー史上初のJ1通算600試合出場達成! 遠藤保仁のキャリアを振り返る サッカーキング(2018年11月11日) ^ “磐田・遠藤 23年連続開幕戦先発出場 J1出場最多記録も更新”. sponichi. スポーツニッポン. 2022年5月8日閲覧。 ^ 遠藤保仁「人の支えに感謝」22年目で1000試合 日刊スポーツ(2019年8月3日) ^ G大阪遠藤保仁の両親も快挙喜ぶ「ほめてあげたい」 日刊スポーツ(2020年7月4日)2020年7月5日閲覧。 ^ 遠藤 保仁選手が期限付き移籍加入 ジュビロ磐田 2020年10月5日 ^ “G大阪MF遠藤の磐田期限付き移籍が正式発表 背番号「50」”. スポニチ (スポーツニッポン新聞社). (2020年10月5日). https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2020/10/05/kiji/20201004s00002179459000c.html 2020年10月5日閲覧。 ^ “磐田遠藤保仁が24年連続得点 41歳弾はカズ、中村俊輔に次ぐ年長記録”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2020年10月5日). https://www.nikkansports.com/soccer/news/202105150001092.html 2021年5月15日閲覧。 ^ 『遠藤 保仁選手 ジュビロ磐田へ完全移籍のお知らせ』(プレスリリース)ガンバ大阪、2021年12月27日。https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/13177/。2021年12月27日閲覧。 ^ 「アカン、何回見ても泣ける」ジュビロ磐田MF遠藤保仁がパナスタ初凱旋でガンバ大阪戦後に「涙の場内一周」! サポーターの感動を誘った降格決定後のあいさつ サッカー批評編集部 2022年10月30日 ^ “遠藤 保仁選手 現役引退のお知らせ”. www.jubilo-iwata.co.jp. 2024年1月9日閲覧。 ^ “遠藤 保仁選手 トップチームコーチ就任のお知らせ”. ガンバ大阪オフィシャルサイト. 2024年1月12日閲覧。 ^ “<'99Wユース決勝> 黄金世代 「完敗から手にしたもの」”. Number Web (2010年3月26日). 2011年12月29日閲覧。 ^ 遠藤 飄々ヤット、泥臭く 朝日新聞、2009年10月9日 ^ ワールドカップで遠藤に何ができるのか 世界を待ち望む司令塔の覚悟 スポーツナビ、2010年2月15日 ^ プロサッカー選手・遠藤保仁のお母さん:2 あんなに喜ぶ姿 初めて見た asahi.com 2010.9.7付記事 ^ 【2010FIFAワールドカップ南アフリカ デンマーク vs 日本】試合終了後の遠藤保仁選手(G大阪)コメント J's GOAL 2010.6.25付ニュースリリース ^ 本田は無回転、遠藤は高速回転…日本のFK分析 読売新聞、2010年6月26日 ^ 史上4人目! 遠藤が100試合出場達成 SOCCER KING、2010年10月13日 ^ “【日本代表】代表最年長、遠藤保仁が示した「絶大な存在感」”. J SPORTS (2011年2月18日). 2011年7月15日閲覧。 ^ MVPは本田圭 サッカーアジア杯優勝 朝日新聞、2011年1月31日 ^ 公式記録に載らない「歴史的な一夜」(2/2) 日本代表 2-1 Jリーグ選抜 スポーツナビ、2011年3月30日 ^ “井原の持つ最多出場記録に並んだ遠藤「周りのサポートのおかげ」/フランス戦”. SOCCER KING (2012年10月13日). 2012年10月13日閲覧。 ^ “遠藤 国際Aマッチ出場123試合の日本歴代最多記録”. スポニチアネックス (2012年10月16日). 2012年10月16日閲覧。 ^ “遠藤が最年長弾! ア杯カズ越え34歳11カ月”. 日刊スポーツ (2015年1月13日). 2015年1月13日閲覧。 ^ “祝・遠藤胴上げ! Aマッチ通算150試合”. 日刊スポーツ (2015年1月16日). 2015年1月16日閲覧。 ^ “ハリル新日本!敬意も遠藤外しロシアW杯へ/復刻”. 日刊スポーツ (2017年3月20日). 2017年5月11日閲覧。 ^ 最後に決まったのは4年以上前……。三浦淳寛が推す代表のFK候補者は。 Number 2018年1月4日 ^ 遠藤保仁、今野泰幸『観察眼』株式会社角川書店、2012年、208ページ、ISBN 978-4-04-110110-0 ^ “アタッカー全盛の今だからこそ!!“現代的パッサー”遠藤保仁の再評価”. Number Web (2011年7月15日). 2011年7月15日閲覧。 ^ 遠藤保仁選手インタビュー GAMBA TV〜青と黒〜 2009年9月28日放送分。 ^ STATISTICS 7 Yasuhito ENDO FIFA.com ^ “【日本代表】"本田不在"以上の悲劇をもたらす、"遠藤不在"対策を考える”. Sportiva (2011年10月13日). 2011年10月15日閲覧。 ^ “【後藤健生コラム】37年ぶりの完勝。そして再確認した遠藤の価値”. J SPORTS (2011年8月11日). 2011年11月25日閲覧。 ^ “オシムが語るガンバ大阪と遠藤保仁。「彼がいれば監督は必要ない」”. Number Web (2014年11月18日). 2014年12月20日閲覧。 ^ 遠藤不在響く…G大阪・西野監督「攻めの形が…」 スポニチ、2011年10月10日 ^ “【日本代表】ザック・ジャパンの世代交代。遠藤の後継者は柴崎か?”. J SPORTS (2011年5月28日). 2011年11月25日閲覧。 ^ “急成長が光った大型ボランチ扇原貴宏「遠藤保仁の後継者」になれるか?”. スポーツナビ (2012年3月16日). 2012年5月20日閲覧。 ^ “【日本代表】ザック監督から遠藤の後継者候補の指名を受けた家長昭博”. J SPORTS (2011年6月8日). 2012年5月20日閲覧。 ^ “「さばくボランチ」で存在感を示す!遠藤を追う柏木陽介の自覚と決意”. Number Web (2011年2月23日). 2012年5月20日閲覧。 ^ “遠藤保仁の後継者とザック監督に期待される男・高橋秀人が語った世界基準”. J SPORTS (2012年11月29日). 2012年11月30日閲覧。 ^ “英メディアが「21世紀の日本代表ベスト11」を選出! “海外未経験”でセレクトされた2選手は?(SOCCER DIGEST Web)”. Yahoo!ニュース. 2020年4月29日閲覧。 ^ 魅せて決めるゾ!遠藤コロコロPKだ デイリースポーツ、2010年6月11日 ^ サッカーの科学 遠藤 GKの「本能」利用 読売新聞、2010年6月27日 ^ 目には涙…“職人”遠藤「PKはしょうがない」 スポニチ、2010年6月30日 ^ プロサッカー選手・遠藤保仁のお母さん ヤス子さん:2 ボール蹴り、ヨチヨチ歩きのころから asahi.com、2010年9月14日 ^ 遠藤選手インタビュー あこがれの選手 GAMBA TV〜青と黒〜 インタビュー ^ 遠藤保仁選手インタビュー 奥様 GAMBA TV〜青と黒〜 インタビュー ^ 遠藤保仁 - サッカー 日刊スポーツ ^ フォトニュース【J1:第21節 G大阪 vs 浦和 】 J's GOAL 2009.8.15付ニュースリリース ^ 遠藤とガチャピン、夢のコラボレーショングッズ発売へ SOCCER KING、2010年7月21日 ^ 「遠藤選手×ガチャピン」コラボグッズ、間もなく発売開始! ガンバ大阪オフィシャルサイト、2010年7月27日 ^ 遠藤選手とぼくは……似てる? ガチャピン日記、2010年9月9日 ^ 遠藤選手にサッカーを教えてもらったよ! ガチャピン日記、2011年9月26日 ^ 【G大阪】監督がサポにたこ焼き振る舞う 日刊スポーツ、2011年12月4日 ^ 【一問一答】自由過ぎる、マイペース過ぎる遠藤保仁の頭の中をのぞく soccerking、2013年4月24日 ^ 日本代表のキーマン 遠藤保仁のちょっと「イイ話」 OCNスポーツ、2010年10月24日 ^ 挑む23選手:サッカー・W杯日本代表/4 MF・遠藤保仁 毎日新聞、2010年5月21日 ^ ジェノアが遠藤獲り?本人苦笑い デイリースポーツ、2010年8月1日 ^ 遠藤保仁選手の偽ブログについて ガンバ大阪オフィシャルサイト、2011年3月8日 ^ 遠藤選手ブログ開始のお知らせ ガンバ大阪オフィシャルサイト、2014年1月15日 ^ 直太朗「僕らの音楽」で遠藤保仁とガンバ大阪練習場に ナタリー、2012年4月10日 ^ Jリーグ選手代表で劇場版コナンに参加!ガンバ大阪・遠藤、もしコナンになったらテストで100点取りたい!? シネマトゥデイ、2012年4月9日 ^ “県勢発展への尽力たたえる 南日本文化賞、3氏2団体を表彰”. 373news.com. 南日本新聞 (2020年11月5日). 2020年11月5日閲覧。 ^ “「名探偵コナン」遠藤保仁選手が本人役で再びゲスト出演「前回よりよかった」”. コミックナタリー (株式会社ナターシャ). (2018年6月26日). https://natalie.mu/comic/news/288389 2018年6月26日閲覧。 ^ “名探偵コナン 11人目のストライカー”. 金曜ロードSHOW!. 2016年6月11日閲覧。 横浜フリューゲルスの選手一覧 京都サンガF.C.の選手一覧 ガンバ大阪の選手一覧 ジュビロ磐田の選手一覧 サッカー日本代表出場選手 黄金世代 en:List of footballers with 100 or more caps - 代表通算100試合以上の選手 en:List of footballers with the most official appearances - 公式戦通算1000試合以上の選手 ガンバ大阪による公式プロフィール 遠藤保仁 オフィシャルブログ(旧ブログ)~2016年4月 遠藤保仁 オフィシャルブログ 遠藤保仁 - Olympedia (英語) 遠藤保仁 - National-Football-Teams.com (英語) 遠藤保仁 - Soccerway.com (英語) 遠藤保仁 - FootballDatabase.eu (英語) 遠藤保仁 - WorldFootball.net (英語) 遠藤保仁 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語) 遠藤保仁 - FIFA主催大会成績 (英語) 遠藤保仁 - J.League Data Siteによる選手データ 遠藤保仁 - TheFinalBall.com (英語) 遠藤保仁 - AS.com (スペイン語) 『信頼する力』プロモーションサイト 遠藤保仁プロデュースのサッカースクール 遠藤塾 表 話 編 歴 監督 ダニエル・ポヤトス ヘッドコーチ マルセル・サンツ コーチ 上村捷太 / 高木和道 / 遠藤保仁 GKコーチ 吉田宗弘 フィジカルコーチ 吉道公一朗 1 東口順昭 22 一森純 25 石川慧 31 張奥林 2 福岡将太 3 半田陸 4 黒川圭介 5 三浦弦太 15 岸本武流 20 中谷進之介 24 江川湧清 33 中野伸哉 46 松田陸 6 ネタ・ラヴィ 9 山田康太 10 倉田秋 14 福田湧矢 16 鈴木徳真 23 ダワン 27 美藤倫 47 ファン・アラーノ 7 宇佐美貴史 8 食野亮太郎 11 イッサム・ジェバリ 13 坂本一彩 17 山下諒也 91 林大地 97 ウェルトン 0 ガンバボーイ 12 サポーター 前身 スタジアム 練習場 代表者 マスコット チアリーディング 選手一覧 成績一覧 表 話 編 歴 永島昭浩 1992-1993 礒貝洋光 1994-1996 岡中勇人 1997-1998 實好礼忠 1999 宮本恒靖 2000 木場昌雄 2001-2003 宮本恒靖 2004 シジクレイ 2005 實好礼忠 2006-2007 松代直樹 2008-2009 明神智和 2010-2012 遠藤保仁 2013-2019 三浦弦太 2020-2021 倉田秋 2022 宇佐美貴史 2023- 表 話 編 歴 84: アブドゥラー 85: アブドゥラー 86: アブドゥラー 88: ラディ 89: 金鋳城 90: 金鋳城 91: 金鋳城 93: 三浦知良 94: オワイラン 95: 井原正巳 96: アジジ 97: 中田英寿 98: 中田英寿 99: ダエイ 00: アル=テミヤト 01: 范志毅 02: 小野伸二 03: マハダヴィキア 04: カリミ 05: アル=モンタシャリ 06: ハルファン 07: アル・カフタニ 08: ジェパロフ 09: 遠藤保仁 10: オグネノヴスキ 11: ジェパロフ 12: 李根鎬 13: 鄭智 14: アル・シャムラニ 15: カリル 16: アブドゥッラフマーン 17: フリービーン 18: ハサン 19: アフィーフ 22: アッ=ドーサリー 23: アフィーフ 表 話 編 歴 07: 永井雄一郎 08: 遠藤保仁 09: 盧炳俊 10: オグネノヴスキ 11: 李同國 12: 李根鎬 13: ムリキ 14: コヴィッチ 15: グラール 16: アブドゥッラフマーン 17: 柏木陽介 18: 鈴木優磨 19: ゴミス 20: 尹ビッカラム 21: アッ=ドーサリー 22: 酒井宏樹 表 話 編 歴 61: 長沼健 62: 小沢通宏 63: 八重樫茂生 64: 杉山隆一 65: 小城得達 66: 釜本邦茂 67: 宮本輝紀 68: 釜本邦茂 69: 杉山隆一 70: 小城得達 71: 釜本邦茂 72: 野村六彦 73: 杉山隆一 74: 釜本邦茂 75: 釜本邦茂 76: 永井良和 77: カルバリオ 78: 落合弘 79: 今井敬三 80: 釜本邦茂 81: 釜本邦茂 82: 尾崎加寿夫 83: 木村和司 84: 木村和司 85: 吉田弘 86: 武田修宏 87: 森下申一 88: オスカー 89: 木村和司 90: ラモス瑠偉 91: ラモス瑠偉 92: 三浦知良 93: 三浦知良 94: ペレイラ 95: ストイコビッチ 96: 川口能活 97: 中田英寿 98: 中山雅史 99: 澤登正朗 00: 中村俊輔 01: 柳沢敦 02: 藤田俊哉 03: 久保竜彦 04: 中澤佑二 05: アラウージョ 06: 田中マルクス闘莉王 07: 鈴木啓太 08: 遠藤保仁 09: 小笠原満男 10: 本田圭佑 11: 澤穂希 12: 佐藤寿人 13: 中村俊輔 14: 遠藤保仁 15: 大久保嘉人 16: 中村憲剛 17: 小林悠 18: 大迫勇也 19: 仲川輝人 20: 三笘薫 21: レアンドロ・ダミアン 22: 三笘薫 23: 大迫勇也 表 話 編 歴 93: 三浦知良 94: ペレイラ 95: ストイコビッチ 96: ジョルジーニョ 97: ドゥンガ 98: 中山雅史 99: アレックス 00: 中村俊輔 01: 藤田俊哉 02: 高原直泰 03: エメルソン 04: 中澤佑二 05: アラウージョ 06: 田中マルクス闘莉王 07: ポンテ 08: マルキーニョス 09: 小笠原満男 10: 楢﨑正剛 11: レアンドロ・ドミンゲス 12: 佐藤寿人 13: 中村俊輔 14: 遠藤保仁 15: 青山敏弘 16: 中村憲剛 17: 小林悠 18: 家長昭博 19: 仲川輝人 20: オルンガ 21: レアンドロ・ダミアン 22: 岩田智輝 23: 大迫勇也 22: 小川航基 23: エリキ 22: 有田稜 23: 松田力 表 話 編 歴 93: サントス, 本田泰人, ラモス瑠偉 94: 柱谷哲二, 北澤豪, ラモス瑠偉, ベッチーニョ 95: 柱谷哲二, ビスマルク 96: ジョルジーニョ, 前園真聖, 山口素弘, 名波浩 97: ビスマルク, 中田英寿, 山口素弘, 名波浩 98: 小野伸二, 奥大介, 藤田俊哉, 名波浩, ドゥンガ 99: 中村俊輔, アレックス, 伊東輝悦, 澤登正朗, 福西崇史 00: 明神智和, 中村俊輔, 稲本潤一, 森島寛晃 01: 小笠原満男, 福西崇史, 藤田俊哉, 服部年宏, 中田浩二 02: 小笠原満男, 福西崇史, 藤田俊哉, 名波浩 03: 小笠原満男, 福西崇史, 奥大介, 遠藤保仁 04: 小笠原満男, 長谷部誠, 奥大介, 遠藤保仁 05: 小笠原満男, 阿部勇樹, フェルナンジーニョ, 遠藤保仁, 古橋達弥 06: 鈴木啓太, 阿部勇樹, 中村憲剛, 谷口博之, 遠藤保仁 07: 阿部勇樹, 鈴木啓太, ポンテ, 中村憲剛, 遠藤保仁 08: 中村憲剛, 小川佳純, 遠藤保仁 09: 小笠原満男, 石川直宏, 中村憲剛, 遠藤保仁 10: 中村憲剛, マルシオ・リシャルデス, 藤本淳吾, ダニルソン, 遠藤保仁 11: ジョルジ・ワグネル, レアンドロ・ドミンゲス, 藤本淳吾, 遠藤保仁, 清武弘嗣 12: レアンドロ・ドミンゲス, 遠藤保仁, 青山敏弘, 髙萩洋次郎 13: 中村俊輔, 山口螢, 柿谷曜一朗, 青山敏弘 14: 柴崎岳, 武藤嘉紀, レオ・シルバ, 遠藤保仁 15: 金崎夢生, 遠藤保仁, 青山敏弘 16: 阿部勇樹, 柏木陽介, 中村憲剛, 齋藤学 17: 中村憲剛, 井手口陽介, 山口蛍 18: チャナティップ, 家長昭博, 大島僚太, 中村憲剛 19: 橋本拳人, 喜田拓也, アンドレス・イニエスタ 20: 家長昭博, 田中碧, 守田英正, 三笘薫 21: 家長昭博, 脇坂泰斗, アンドレス・イニエスタ, 稲垣祥 22: 家長昭博, 水沼宏太, 脇坂泰斗 23: 伊藤敦樹, 脇坂泰斗, 山口蛍 22: 伊藤涼太郎, 長谷川竜也, 河原創, 高木善朗, 高宇洋 23: 田口泰士, 森田晃樹, 乾貴士, 平川怜 22: 嵯峨理久, 日高大, 横山暁之, 山下優人 23: 菊井悠介, 谷本駿介, 茂木駿佑 表 話 編 歴 11: 今野泰幸 12: 山口智 13: 遠藤保仁 14: 田中隼磨 表 話 編 歴 川口能活 松田直樹 中澤佑二 井原正巳 遠藤保仁 中田英寿 中村俊輔 名波浩 三浦知良 中山雅史 ストイコビッチ 表 話 編 歴 川口能活 井原正巳 内田篤人 田中マルクス闘莉王 中澤佑二 松田直樹 遠藤保仁 小野伸二 中村憲剛 中村俊輔 三浦知良 2011年J1第7節 川崎フロンターレ 対 ベガルタ仙台 エムボマ レオナルド 久保竜彦 中村俊輔 山岸範宏 大島僚太 ストイコビッチ:雨中のリフティングドリブル 表 話 編 歴 93 三浦知良 94 ラモス瑠偉 95 三浦知良 96 川口能活 97 エムボマ 98 中山雅史 99 平瀬智行 00 中村俊輔 01 柳沢敦 02 高原直泰 03 大久保嘉人 04 エメルソン 05 なし 06 ワシントン 07 田中マルクス闘莉王 08 遠藤保仁 09 なし 10 なし 11 なし 12 なし 13 なし 14 大久保嘉人 15 大久保嘉人 16 西川周作 17 なし 18 なし 19 なし 20-21 中止 表 話 編 歴 1 榎本達也 2 手島和希 3 辻本茂輝 4 石川竜也 5 加地亮 6 稲本潤一 7 酒井友之 8 小笠原満男 9 高原直泰 10 本山雅志 11 遠藤保仁 12 中田浩二 13 小野伸二 14 永井雄一郎 15 高田保則 16 播戸竜二 17 氏家英行 18 南雄太 監督 フィリップ・トルシエ 表 話 編 歴 1 楢﨑正剛 2 名良橋晃 3 秋田豊 4 森岡隆三 5 稲本潤一 6 服部年宏 7 中田英寿 8 小笠原満男 9 大久保嘉人 10 中村俊輔 11 松井大輔 12 土肥洋一 13 奥大介 14 三都主アレサンドロ 15 明神智和 16 中田浩二 17 宮本恒靖 18 永井雄一郎 19 遠藤保仁 20 高原直泰 21 坪井慶介 22 山田暢久 23 川口能活 監督 ジーコ 表 話 編 歴 1 楢﨑正剛 2 山田暢久 3 坪井慶介 4 茂庭照幸 5 宮本恒靖 6 三浦淳宏 7 石川直宏 8 小笠原満男 9 久保竜彦 10 藤田俊哉 11 黒部光昭 12 都築龍太 13 本山雅志 14 三都主アレサンドロ 15 福西崇史 16 奥大介 17 山田卓也 18 阿部勇樹 19 遠藤保仁 20 大久保嘉人 21 加地亮 22 中澤佑二 23 土肥洋一 監督 ジーコ 表 話 編 歴 1 楢﨑正剛 3 田中誠 4 遠藤保仁 5 宮本恒靖 6 中田浩二 8 小笠原満男 10 中村俊輔 11 鈴木隆行 12 土肥洋一 14 三都主アレサンドロ 15 福西崇史 16 藤田俊哉 17 三浦淳宏 18 松田直樹 19 本山雅志 20 玉田圭司 21 加地亮 22 中澤佑二 23 川口能活 24 西紀寛 25 茶野隆行 26 山田卓也 監督 ジーコ 表 話 編 歴 1 楢﨑正剛 2 田中誠 3 茶野隆行 4 遠藤保仁 5 宮本恒靖 6 中田浩二 7 中田英寿 8 小笠原満男 9 玉田圭司 10 中村俊輔 11 鈴木隆行 12 土肥洋一 13 柳沢敦 14 三都主アレサンドロ 15 福西崇史 16 大黒将志 17 三浦淳宏 18 稲本潤一 19 本山雅志 20 坪井慶介 21 加地亮 22 茂庭照幸 23 川口能活 監督 ジーコ 表 話 編 歴 1 楢﨑正剛 2 田中誠 3 茶野隆行 4 遠藤保仁 5 宮本恒靖 8 小笠原満男 9 巻誠一郎 12 土肥洋一 14 三都主アレサンドロ 15 福西崇史 16 大黒将志 17 駒野友一 19 本山雅志 20 坪井慶介 21 加地亮 22 中澤佑二 23 川口能活 25 村井慎二 26 今野泰幸 27 田中達也 28 玉田圭司 29 茂庭照幸 30 阿部勇樹 監督 ジーコ 表 話 編 歴 1 楢﨑正剛 2 茂庭照幸 3 駒野友一 4 遠藤保仁 5 宮本恒靖 6 中田浩二 7 中田英寿 8 小笠原満男 9 高原直泰 10 中村俊輔 11 巻誠一郎 12 土肥洋一 13 柳沢敦 14 三都主アレサンドロ 15 福西崇史 16 大黒将志 17 稲本潤一 18 小野伸二 19 坪井慶介 20 玉田圭司 21 加地亮 22 中澤佑二 23 川口能活 監督 ジーコ 表 話 編 歴 1 川口能活 2 今野泰幸 3 駒野友一 5 坪井慶介 6 阿部勇樹 7 遠藤保仁 8 羽生直剛 9 山岸智 10 中村俊輔 11 佐藤寿人 12 巻誠一郎 13 鈴木啓太 14 中村憲剛 15 水野晃樹 18 楢﨑正剛 19 高原直泰 20 矢野貴章 21 加地亮 22 中澤佑二 23 川島永嗣 24 橋本英郎 28 太田吉彰 29 伊野波雅彦 監督 オシム 表 話 編 歴 1 川口能活 2 今野泰幸 3 駒野友一 4 岩政大樹 5 安田理大 7 遠藤保仁 8 羽生直剛 9 山岸智 10 山瀬功治 11 播戸竜二 12 田代有三 13 鈴木啓太 14 中村憲剛 15 水本裕貴 17 前田遼一 18 楢﨑正剛 20 矢野貴章 21 加地亮 22 中澤佑二 23 川島永嗣 24 橋本英郎 25 内田篤人 監督 岡田武史 表 話 編 歴 1 楢﨑正剛 2 阿部勇樹 3 駒野友一 4 田中マルクス闘莉王 5 長友佑都 6 内田篤人 7 遠藤保仁 8 稲本潤一 9 岡崎慎司 11 玉田圭司 12 岩政大樹 13 佐藤寿人 14 中村憲剛 15 今野泰幸 16 大久保嘉人 17 香川真司 18 川島永嗣 20 平山相太 21 徳永悠平 22 中澤佑二 23 西川周作 25 小笠原満男 26 金崎夢生 監督 岡田武史 表 話 編 歴 1 楢﨑正剛 2 阿部勇樹 3 駒野友一 4 田中マルクス闘莉王 5 長友佑都 6 内田篤人 7 遠藤保仁 8 松井大輔 9 岡崎慎司 10 中村俊輔 11 玉田圭司 12 矢野貴章 13 岩政大樹 14 中村憲剛 15 今野泰幸 16 大久保嘉人 17 長谷部誠 18 本田圭佑 19 森本貴幸 20 稲本潤一 21 川島永嗣 22 中澤佑二 23 川口能活 監督 岡田武史 表 話 編 歴 1 川島永嗣 2 伊野波雅彦 3 岩政大樹 4 今野泰幸 5 長友佑都 6 内田篤人 7 遠藤保仁 8 松井大輔 9 岡崎慎司 10 香川真司 11 前田遼一 12 森脇良太 13 細貝萌 14 藤本淳吾 15 本田拓也 16 柏木陽介 17 長谷部誠 18 本田圭佑 19 李忠成 20 永田充 21 西川周作 22 吉田麻也 23 権田修一 監督 ザッケローニ 表 話 編 歴 1 川島永嗣 2 伊野波雅彦 3 酒井高徳 4 本田圭佑 5 長友佑都 6 内田篤人 7 遠藤保仁 8 清武弘嗣 9 岡崎慎司 10 香川真司 11 ハーフナー・マイク 12 西川周作 13 細貝萌 14 中村憲剛 15 今野泰幸 16 栗原勇蔵 17 長谷部誠 18 前田遼一 19 乾貴士 20 高橋秀人 21 酒井宏樹 22 吉田麻也 23 権田修一 監督 ザッケローニ 表 話 編 歴 1 川島永嗣 2 内田篤人 3 酒井高徳 4 本田圭佑 5 長友佑都 6 森重真人 7 遠藤保仁 8 清武弘嗣 9 岡崎慎司 10 香川真司 11 柿谷曜一朗 12 西川周作 13 大久保嘉人 14 青山敏弘 15 今野泰幸 16 山口蛍 17 長谷部誠 18 大迫勇也 19 伊野波雅彦 20 齋藤学 21 酒井宏樹 22 吉田麻也 23 権田修一 監督 ザッケローニ 表 話 編 歴 1 川島永嗣 2 植田直通 3 太田宏介 4 本田圭佑 5 長友佑都 6 森重真人 7 遠藤保仁 8 清武弘嗣 9 岡崎慎司 10 香川真司 11 豊田陽平 12 西川周作 13 小林悠 14 武藤嘉紀 15 今野泰幸 16 塩谷司 17 長谷部誠 18 乾貴士 19 昌子源 20 柴崎岳 21 酒井高徳 22 吉田麻也 23 東口順昭 監督 アギーレ 遠藤保仁 日本のサッカー選手 日本のサッカー指導者 サッカー日本代表選手 FIFAワールドカップ日本代表選手 2006 FIFAワールドカップ出場選手 2010 FIFAワールドカップ出場選手 2014 FIFAワールドカップ出場選手 FIFAコンフェデレーションズカップ日本代表選手 FIFAコンフェデレーションズカップ2003出場選手 FIFAコンフェデレーションズカップ2005出場選手 FIFAコンフェデレーションズカップ2013出場選手 AFCアジアカップ日本代表選手 AFCアジアカップ2004出場選手 AFCアジアカップ2007出場選手 AFCアジアカップ2011出場選手 AFCアジアカップ2015出場選手 横浜フリューゲルスの選手 京都サンガF.C.の選手 ガンバ大阪の選手 ジュビロ磐田の選手 アジア年間最優秀選手賞受賞者 日本年間最優秀選手賞受賞者 Jリーグ年間最優秀選手賞受賞者 FIFAセンチュリークラブ 鹿児島実業高等学校出身の人物 鹿児島県出身のスポーツ選手 1980年生 存命人物 独自研究の除去が必要な記述のある記事/2022年7月-12月 ウィキデータにない公式ウェブサイト ウィキデータのスポーツ識別子を使用している記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/20 10:00更新
|
endou yasuhito
遠藤保仁と同じ誕生日1月28日生まれ、同じ鹿児島出身の人
TOPニュース
遠藤保仁と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「遠藤保仁」を素材として二次利用しています。