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遠藤保仁の情報 (えんどうやすひと)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

遠藤保仁の情報(えんどうやすひと) サッカー選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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遠藤 保仁さんについて調べます

■名前・氏名
遠藤 保仁
(読み:えんどう やすひと)
■職業
サッカー選手
■遠藤保仁の誕生日・生年月日
1980年1月28日 (年齢44歳)
申年(さる年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
鹿児島出身

(昭和55年)1980年生まれの人の年齢早見表

遠藤保仁と同じ1980年生まれの有名人・芸能人

遠藤保仁と同じ1月28日生まれの有名人・芸能人

遠藤保仁と同じ出身地鹿児島県生まれの有名人・芸能人


遠藤保仁と関係のある人

中村俊輔: 2013年は自身初のリーグ年間2桁得点を記録、またJ1第30節大分戦では通算17点目となる直接フリーキックを決め、遠藤保仁が持っていたJ1のフリーキック最多得点記録を更新。


アンドレス=イニエスタ: 遠藤保仁は「イニエスタのプレーについて感じるのは、攻撃に関わるプレーの質の高さですね。


立石智紀: ナビスコカップ決勝のG大阪戦でも神懸り的セーブを連発し、PK戦にまでもつれたこの試合で、遠藤保仁のPKを一本止め、自ら試合に決着をつけた。


那須大亮: 高校の同期に松井大輔、2学年上に遠藤保仁、1学年下には田原豊、上本大海、2学年下には赤嶺真吾らがいた。


梶山陽平: それができる選手は(日本人Jリーガーだと梶山の他には)ヤット(遠藤保仁)と(中村)憲剛ぐらい(しかいない)」と評した。


イゴール=レディアコフ: その年のルーキーだった遠藤保仁が後年受けたインタビューで最もプレーに衝撃を受けた選手としてレディアコフの名を挙げ、「懐が深く、彼からはボールを奪える気が全くしなかった」とそのプレーを称賛している。


エドウィン=ファン=デル=サール: このチームで代表でも成し得なかった欧州制覇(チャンピオンズリーグ)とCWC(クラブワールドカップ)も勝ち取り一時的にも「世界最高のゴールキーパー」となるが奇しくも欧州チャンピオンズリーグでは中村俊輔(スコットランド・セルティック)、CWCでは遠藤保仁(ガンバ大阪)と言う2人のレジェンド日本人選手にゴールを奪われている(遠藤はペナルティー・キック)。


家長昭博: 当時イビチャ・オシムが指揮を執ったA代表に選出されたが、好不調の波が激しく G大阪では遠藤保仁や二川孝広らの牙城を崩せずなかなか定位置を掴めずにいた。


二川孝広: 昇格2年目の2000年頃から出場機会を増やし、2002年にG大阪の監督に就任した西野朗からも中盤の様々なポジションで起用され、繊細なボール感覚と抜群のパスセンスを発揮し、遠藤保仁らと共にG大阪の攻撃サッカーの中軸を担い、2003年からは背番号を10番に変更。


井原正巳: サッカー日本代表のA代表CAP数122は遠藤保仁に抜かれるまで歴代1位であった。


宇佐美貴史: 遠藤保仁とツートップを組んだシーズン終盤もペースを落とすことなく得点を重ね、J2第38節・徳島戦では、プロ入り初の4得点のハットトリックを達成。


小島宏美: 2001年、ガンバは優勝を意識したチーム作りを目指し、京都から遠藤保仁、市原から山口智を獲得、またウェストハム・ユナイテッドへの移籍が噂された宮本恒靖が労働ビザの問題で急遽残留し、当時のガンバの大きな特徴であったシドニーオリンピック日本代表世代の選手を多く抱えた状況で開幕を迎えた。


佐藤勇人: 8月16日、AFCアジアカップ2007 (予選)のイエメン戦(新潟スタジアム)において、勇人が後半26分に遠藤保仁と交代出場し、後半44分には弟の寿人が田中達也と交代出場したことから、日本サッカー史上初となる双子選手の国際Aマッチ同時出場が実現した。


柳沢敦: 柳沢のJ1での得点は16シーズン目となり、第一線を退いているFW中山雅史、神戸FW吉田孝行(同シーズン限りで引退)、G大阪MF遠藤保仁の記録を更新した。


山瀬功治: 2020年9月2日、J2FC町田ゼルビア戦で、J1G大阪の遠藤保仁に次ぐJリーグ21年連続ゴールを達成。


田ノ上信也: 鹿児島実業高等学校では、10番を付けて遠藤保仁らと共にプレーしていた。


宇佐美貴史: 遠藤保仁が使用していた背番号7を継承した。


山村和也: ゲームメイクに関しては遠藤保仁のシンプルなプレーを見習っていると語る。


明神智和: 2013年、チーム主将を遠藤保仁に譲った。


遠藤彰弘: 実弟の遠藤保仁も元プロサッカー選手。


大島秀夫: しかし、クラブが横浜マリノスに吸収合併されたため、同期入団である遠藤保仁や辻本茂輝らとともに京都パープルサンガへ移籍した。


小笠原満男: 2007年までは最多タイ記録だった(2008年に同学年の遠藤保仁に抜かれた)。


アルベルト=ザッケローニ: 2002年から日本代表に選出されている遠藤保仁によれば、初戦をドローに終わったAFCアジアカップ2011ヨルダン戦後、ザッケローニ監督は「戦う気持ちになっていない」と怒りを爆発させ、その様子は歴代の代表監督で見たことも無いほどであったという。


明神智和: その後、遠藤保仁、二川孝広、橋本英郎らと共に黄金の中盤と称されながらガンバ攻撃陣の中軸を担い、多くのタイトル獲得に貢献。


阿部勇樹: 浦和移籍後もポンテや柏木陽介、日本代表でも中村俊輔や遠藤保仁等が蹴ることが多かったためにFK、CKを蹴る機会は少なくなっていたが、2016年7月9日の柏レイソル戦で直接フリーキックによるゴールを挙げ、そのゴールを伊メディア「トゥットスポルト」が阿部を「日本のピルロ」として動画付きで紹介した。


中橋舞: 好きな言葉は、遠藤保仁の著書名になっている「明日やろうはバカヤロー」。


福田正博: リーグ戦通算PK得点「26得点」は遠藤保仁に次ぐJ1歴代2位である。


宇佐美貴史: シーズン中盤から高校3年生ながら遠藤保仁・二川孝広・橋本英郎・明神智和らの代表経験者で構成されたG大阪の「黄金の中盤」に割って入り、主に左サイドハーフ、または2トップの一角として起用され、2004年に森本貴幸が記録した高校生Jリーガーのシーズン最多得点(4得点)を更新する7得点を挙げる活躍を見せ、G大阪では初となるJリーグベストヤングプレーヤー賞(新人王)を受賞し、G大阪の公式応援番組『GAMBA TV〜青と黒〜』の年末特別企画『GAMBA TV アウォーズ』では、選手とサポーターが選ぶシーズンMVPに選出された。


阿部勇樹: また遠藤保仁を抜き史上最年少での500試合出場を達成、山田暢久に続く記録達成は同一クラブ二人目では史上初、海外移籍経験者の記録達成も史上初、下部組織出身選手の記録達成も史上初と記録づくめとなった。


今野泰幸: 中断明け以降、ボランチに専念し遠藤保仁と共に中盤を締め、攻撃面でも間接的に絡むプレーを見せるなど自身が「人生最大のスランプ」と語った不調を払拭する好パフォーマンスを発揮。


遠藤保仁の情報まとめ

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遠藤 保仁(えんどう やすひと)さんの誕生日は1980年1月28日です。鹿児島出身のサッカー選手のようです。

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プレースタイル、エピソードなどについてまとめました。現在、兄弟、卒業、家族、引退、父親、テレビ、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。遠藤保仁の現在の年齢は44歳のようです。

遠藤保仁のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

遠藤 保仁(えんどう やすひと、1980年1月28日 - )は、鹿児島県鹿児島郡桜島町(現:鹿児島市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表。現在はガンバ大阪のコーチを務める。

実兄の遠藤彰弘も元プロサッカー選手。日本代表国際Aマッチ出場数最多記録保持者。2009年アジア年間最優秀選手。2014年JリーグMVP。また、Jリーグではアシストの統計をとっていないため、公式記録ではないが、2018年シーズン終了時点での通算Jリーグ最多アシストを記録している。

鹿児島県鹿児島市に三人兄弟の三男として生まれ、6つ年上の長男・拓哉と4つ年上の次男・彰弘に影響され、物心ついた頃から自宅の庭でボールを蹴り、高校選手権やワールドカップのビデオを見ては、気に入ったプレーを真似していたという。鹿児島実業高等学校では1年生時の1995年に高校選手権優勝。2年生時の1996年には高円宮杯優勝、高校選手権では準々決勝でPK戦で敗れたものの大会優秀選手に選ばれ、U-18日本代表にも選出された。また、2年時には当時鹿児島実業サッカー部を指導していたブラジル人コーチのジョゼ・カルロスの勧めで1カ月ブラジルに短期留学し、サンパウロ州のECサンベントの練習に参加した。

高校卒業後の1998年に横浜フリューゲルスへ加入。監督のカルロス・レシャックから才能を見いだされ、リーグ開幕戦の横浜マリノス戦でいきなりプロデビューを果たす。8月1日の鹿島アントラーズ戦でプロ初得点を挙げ、1年目でリーグ戦16試合に出場するなど順調な滑り出しを果たした。

しかし、同年限りでクラブが消滅したため、手島和希、大島秀夫、辻本茂輝ら他の新人選手とともに1999年に京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)へ移籍。当時のチームメイトには三浦知良、パク・チソン、松井大輔等がいた。京都ではレギュラーに定着するも、翌2000年にチームは年間15位となりJ2降格となった。

2001年、ガンバ大阪に完全移籍。翌2002年に監督に就任した西野朗の下、攻撃的なスタイルを標榜するチームの中心選手になり、移籍3年目の2003年に初めてJリーグベストイレブンを受賞する。2005年のナビスコカップ決勝のジェフユナイテッド千葉とのPK戦では立石智紀相手にプロ入り以来初めてPKを失敗してナビスコカップ優勝を逃すも、この年自身初のシーズン2桁得点を記録し、リーグ最終節の川崎フロンターレ戦では、PKを決めてG大阪にとって初タイトルとなるJリーグ優勝に貢献し、自身にとっても初となるJリーグ優勝を経験

2006年からは、二川孝広・橋本英郎に加えこの年新加入した明神智和とで構成された抜群のパスワークで相手を圧倒する中盤は「黄金の中盤」と称され、G大阪の攻撃陣を牽引していたが、10月に日本代表でのインド遠征中に発熱してから体調が戻らず、後にウイルス性肝炎と判明したことで、シーズン終盤は1ヶ月以上の戦線離脱を余儀なくされた。12月2日に行われたリーグ最終節の浦和レッズ戦で復帰するも、チームは敗れリーグ連覇を逃した。2007年はシーズン通して大きな体調不良もなく、リーグ戦全34試合にフル出場し、ナビスコカップ優勝にも貢献。

しかし、2008年6月末にウイルス性感染症により、再び1ヶ月以上の離脱を余儀なくされ、オーバーエイジ枠でのメンバー入りが確実視されていた北京オリンピック日本代表を辞退することとなった。さらに遠藤離脱後、G大阪はリーグ戦で不振に陥った。それでも、復帰後のACLではアシストを連発し、特に準決勝の浦和戦では2戦合計2ゴール2アシストと全得点に絡む活躍でクラブ初のアジア制覇に貢献し、大会MVPを受賞した。同年11月には、イングランド2部のプリマス・アーガイルFCからオファーを受けるが、家族のことなどを考慮してG大阪に残留した。同年12月に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップでも、準々決勝のアデレード・ユナイテッド戦では決勝ゴールを挙げ、準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦ではチームは敗れるも試合終盤にPKでゴールを挙げ、決定的なパスを前線に供給するなど攻守に活躍を見せた。この活躍により、同大会を優勝したマンチェスター・ユナイテッド監督のアレックス・ファーガソンからは「キト(決勝で対戦した南米王者)には遠藤と同じくらいのクオリティーを持った選手はいなかった。」と賞賛された。さらに、同年度の天皇杯優勝にも貢献し、ガンバでは2005年のアラウージョ以来となる日本年間最優秀選手賞を受賞した。

2009年11月にはAFCから日本人では1993年の三浦知良、1995年の井原正巳、1997年、1998年の中田英寿、2002年の小野伸二以来5人目(6度目)となるアジア年間最優秀選手賞を受賞した(ちなみに、この前年も最終候補まで残っていたが受賞はならなかった)。リーグ戦では自身5年ぶりとなる2桁得点を記録し、2010年1月1日に行われた天皇杯決勝の名古屋グランパス戦では、2ゴール1アシストと圧巻の活躍を見せG大阪の天皇杯連覇の立役者となった。なお、この頃からポジションを代表と同じボランチに移すようになった。

2010年は代表との過密日程で開幕からコンディションが安定せず、2月27日に行われたゼロックススーパーカップの鹿島アントラーズ戦では、PK戦で枠を外す失敗をしてしまい、自身の不調と比例するかのようにチームもリーグ戦で低迷。それでも、南アフリカW杯後の復帰初戦となった浦和戦では試合終了間際に決勝ゴールを挙げ、その後は安定した活躍を見せた。

2011年、Jリーグ開幕戦となったセレッソ大阪との大阪ダービーで、プロ14年目にして初となる開幕戦ゴールを決めた。7月には3試合連続得点を記録するなど、優勝争いを続けるチームを牽引していたが、8月以降右内転筋痛によりプレースキックを蹴れない状態が続き、さらにクラブ・代表の過密日程により十分な休養が取れないまま強行出場を続け、最終的に発熱で欠場した1試合を除くリーグ戦33試合に出場したが、シーズン終盤まで完治しなかった。11月26日、J1第33節仙台戦で史上7人目となるJ1通算400試合出場を達成。

2012年、前年に移籍した山口智に代わりG大阪の副主将に就いた。6月23日、J1第15節札幌戦で、三浦淳宏の記録を抜く当時のJリーグ歴代1位となる通算16得点目の直接フリーキックでゴールを決めた。7月21日、カシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチでは、サポーター投票で最多の320,709票を集め、Jリーグ選抜の一員として出場した。この年、ガンバは極度の不振に陥り、自身は代表との過密日程ながら5年ぶりにリーグ戦全試合に出場したが、京都時代以来のJ2降格となった。

2013年、J2降格となったG大阪に残留。また、明神智和から引き継ぎプロ入り以来初の主将に就いた。自身初のJ2でのプレーとなったこの年、日本代表との並行日程でリーグ戦の約4分の1ほどを欠場したが、終始安定したプレーを発揮し、G大阪のJ2優勝と1年でのJ1復帰に貢献。シーズン終盤には、フォワードとしてやや高い位置でプレーしながら、この年チーム最多得点を記録した宇佐美貴史をサポートする役割を担った。シーズン終了後のJリーグアウォーズでは、サポーターの投票で選出されるJ2最優秀選手賞にあたる「J2 Most Exciting Player」を受賞した。

2014年、開幕当初は前年の後半戦同様、前線で起用されたが4月以降は今野泰幸とダブルボランチを形成。しかし、開幕当初はミスが目立ちチームも前半戦は極度の不振に陥り、ブラジルW杯による中断前は降格圏の16位に低迷。それでも、中断期間の休養を経て後半戦は調子を取り戻し攻撃の起点となり多くのアシストを記録し、前半戦不振に陥っていた今野の復調も支え、チームの後半戦躍進を加速させた。11月のナビスコカップ決勝のサンフレッチェ広島戦では、前半35分で2点のリードを許す苦しい展開となるも、その3分後にパトリックの得点をアシストし、後半の逆転劇を手繰り寄せ7年ぶりのナビスコカップ優勝を達成。シーズン終盤はカップ戦も勝ち進んだことで過密日程になるも、リーグ戦はフィールドプレーヤーでは唯一の全試合に出場し、FKとPKではそれぞれJ1最多記録に並んだ。先発メンバーに多くの若手選手が名を連ねるようになった中、不動の平常心でチームを牽引し、J1昇格1年目で9年ぶり2回目のリーグ優勝を果たし、さらにはクラブ史上初の国内三冠を達成。Jリーグアウォーズでは11度目のベストイレブンと自身初となるJリーグ最優秀選手賞を受賞した。

2015年4月18日、J1.1st第6節・湘南戦でJ1でのPK通算27得点目を決め、福田正博を抜きPK得点単独トップに立った。10月17日のJ1.2nd第14節浦和戦でJ歴代最年少でJ1通算500試合出場を達成。この年もリーグ戦全試合にフル出場。CS準決勝浦和戦では延長後半にフリーキックから浦和ディフェンスの意表をつきパトリックのダメ押しゴールをアシスト。決勝の広島戦では第1戦・第2戦共にセットプレーから今野のゴールをアシストしたが、いずれも勝利には結びつかず後一歩でリーグ連覇を逃した。2015年シーズン最後のタイトルがかかった天皇杯決勝・浦和戦では後半にコーナーキックからパトリックの決勝ゴールをアシストし、天皇杯連覇に貢献。優勝セレモニーではこの年限りで移籍した明神智和のユニフォームを着て壇上に上がり、長年プレーした明神への感謝を示した。

2016年10月29日、2ndステージ第16節のアルビレックス新潟戦で史上13人目、MF登録では藤田俊哉以来2人目となるJ1通算100得点を達成。

2017年4月に行われたACL・江蘇蘇寧足球倶楽部戦での失点に絡むミス やアデレード・ユナイテッドFC戦でのPK失敗 など、不調が続き4月30日に行われた第9節の横浜FM戦ではルーキーイヤー以来19年ぶりのベンチに入ったものの出場なしで試合を終えた。しかし、5月5日に行われた第10節の清水戦ではチームが負けている状態で途中出場し、存在感を発揮し、チームを引き分けへと導いた。8月9日、第21節の広島戦では20年連続で得点を決めて、藤田を抜きMF登録で歴代最多得点を記録した。

2018年2月23日、開幕戦の名古屋グランパス戦で得点を挙げ、21年連続ゴールを達成。11月10日、第32節の湘南ベルマーレ戦ではフィールドプレーヤー史上初となるJ1リーグ通算600試合出場を達成した。また、シーズン終了後に放送されたTBS「スーパーサッカー」(2019年2月10日放送)で番組で統計したJリーグ通算アシストランキングの1位にランクインした。

2019年シーズン開幕戦に先発出場し、Jリーグ(J1・J2を含む)史上初の20年連続開幕戦先発の単独記録となった。ちなみに昨シーズンまで並んでいた中澤佑二は昨シーズンをもって引退している。4月20日、第8節の大分トリニータ戦で22年連続ゴールを達成。8月2日、第21節のヴィッセル神戸戦で日本人選手としては初となる公式戦1000試合を達成した。

2020年7月4日、第2節のセレッソ大阪戦でJ1史上最多となる632試合に出場した。同試合後には「選手である以上はスタメンで出たい。常にアピールしていきたい」と口にしていたが、J1リーグ第20節終了時点で出場はJ1リーグ11試合363分、ルヴァン杯2試合100分のみで、J1リーグ開幕戦こそフル出場したものの、新型コロナウイルス感染拡大の影響による中断から再開後は先発出場したリーグ戦2試合、ルヴァン杯1試合を含め全て途中交代にとどまり、J1リーグ第12節・第13節では2戦連続のベンチ外も経験。

10月5日、出場機会を求めて同シーズンのJ2リーグで13位に低迷しているジュビロ磐田へ期限付き移籍することとなった。10月10日、移籍後初の試合となった第25節の松本山雅FC戦で先発フル出場を果たすと、10月25日、第29節のザスパクサツ群馬戦で公式戦5年ぶりに直接FKを決め、移籍後初得点を上げた。加入後、15試合に先発出場し、チームは18試合で僅か3敗と最終的に6位まで立て直し、低迷していたチームを活性化させた。

2021年5月15日、第14節のザスパクサツ群馬戦において決勝点を挙げ、自身が持つJリーグシーズン連続ゴール記録を24年に更新した。1998年のプロデビュー以来毎シーズンのゴールであり、ゴールを記録したシーズン数も歴代1位の24年となり同2位の三浦知良の23年を上回った。シーズンを通して主力として活躍し、チームのJ1昇格、J2優勝に貢献した。12月27日、2022年シーズンより磐田に完全移籍することが発表された。

2022年3月12日、移籍後初の古巣ガンバ大阪との対戦では、ガンバに在籍経験のあるチームメイトの鈴木雄斗、大森晃太郎との連携で先制点を演出した。シーズンを通してレギュラーとして出場を続けていたが、自身はキャリア初のシーズン無得点に終わり、チームも僅か1年でJ2降格を喫した。

2023年はシーズンを通して中盤まではレギュラーとして多く試合に出場していたが、シーズン中盤以降はスタメンを外れベンチスタートやベンチ外になることも多くなったが、チームは最終節で栃木SCに勝利して自動昇格を争うライバルの2位清水を抜いてリーグ戦2位に浮上して1年でのJ1復帰を決めた。

2024年1月9日、2023シーズンをもっての現役引退を発表した。遠藤の引退により、横浜フリューゲルスに在籍経験のある選手が全員引退した。

引退発表と同時にガンバ大阪のトップチームコーチ就任が発表された。

1999年、U-20日本代表としてナイジェリアで開催された第10回ワールドユース選手権に出場し、日本代表の準優勝に貢献。この代表メンバーは後にJリーグやフル代表の中心的存在となる選手が多かったことから「黄金世代」と呼ばれている。同年、シドニーオリンピック予選のU-22日本代表にも選出され、アジア1次予選、最終予選はスターティングメンバーとして戦ったが、2000年のシドニーオリンピック本大会では、予備登録メンバーとして選出されるも、出場機会はなかった。

2002年、当時の日本代表監督ジーコによってフル代表に初招集され、11月20日のキリンチャレンジカップ・アルゼンチン戦で初出場を果たし、以降、代表レギュラーの座を勝ち取る。翌2003年には、FIFAコンフェデレーションズカップ2003に全試合スタメン出場。同年8月20日のナイジェリア戦で待望の代表初ゴールを挙げる。当時のボランチは同期の小野伸二や稲本潤一、中田浩二といった海外組を始め、同じ国内組の福西崇史などがいたため激戦区であったが、2004年のアジアカップレギュラーとして日本代表の優勝に貢献した。翌年、中田英寿のボランチへのコンバート志願のあおりを受け、再び控えに回る事になり、2006年のドイツW杯ではフィールドプレーヤー(GK以外の選手)で、唯一ピッチに立つことがなかった。

ドイツW杯後、新監督イビチャ・オシムからの指導でプレースタイルに磨きをかけ、代表の中心的存在に登りつめ、ドイツW杯を最後に現役を引退した中田の背番号7を引き継いだ。オシムジャパンではボランチではなく、オフェンシブハーフとして起用されたのが特徴である(ガンバ大阪では同様の起用法は頻繁に見られるが、日本代表では主にボランチで起用されていた)。

2007年12月、オシムが病に倒れ退任、急遽監督に就任した岡田武史は、当初、オシムのチームを引き継ぐという立場であったため、遠藤もオシム時代同様にオフェンシブハーフでの起用が多かったが、岡田が「俺のやり方でやる」と宣言した2008年の南アフリカW杯アジア3次予選から、長谷部誠とダブルボランチを形成。守備陣と攻撃陣のパイプ役を担って、南アフリカW杯予選突破に貢献し、岡田からは「チームの心臓」と称された。その後も、代表でのレギュラーの座を不動のものにしていたが、W杯直前にリーグ戦やACL、さらには日本代表戦など、連戦による過密日程をこなすことで大きくコンディションを落とし、2010年2月の東アジア選手権や親善試合のセルビア戦では低調なパフォーマンスに終わり、クラブに戻っても数試合は休養を取らざるを得なかったほどに疲労に苛まれていた。

2010年5月10日に南アフリカW杯のメンバーに選出され、6月の本大会ではグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の全試合に司令塔としてスタメン出場を果たした。6月25日のグループリーグ第3戦のデンマーク戦では直接フリーキックを決めてW杯初得点を挙げ、4試合トータルでチーム1の走行距離を記録するなど、日本代表初のアウェーでのベスト16入りに大きく貢献した。このフリーキックについて遠藤本人は、「(本田圭佑が蹴る事を希望していたが)圭佑は1本目決めてたんで、俺に蹴らせろみたいな感じ」で自身が蹴る事にしたと語っている。尚、本大会は公式ボールが無回転シュート向けの特性を持ち、横回転を掛け難い“ジャブラニ”が採用されたため、多くのカーブ系のキックを得意とする選手が悪戦苦闘する事態になった。そんな中、遠藤はジャブラニを自在に操り、前述のフリーキックだけでなく起点としてもカメルーン戦の本田のゴール、デンマーク戦の岡崎のゴールを演出。岡田監督が「このチームの心臓」と評したとおりの活躍を見せ期待に応えた。ちなみにW杯で1試合2本のフリーキック成功は44年ぶりである。

2010年10月12日、親善試合の韓国戦で、井原正巳、川口能活、中澤佑二に次ぐ4人目、GKとDF以外のポジションの選手では初となるフル代表100試合出場を達成。

南アフリカW杯後に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニからもレギュラーとして起用され、2011年1月に開催されたアジアカップでは全6試合にスタメン出場を果たし、チーム最年長、チーム最多CAP選手として若いチームを引っ張り、中盤の底から決定的なパスを何本も供給し、ゲームをコントロールし続けた大車輪の活躍で、日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に大きく貢献し、大会MVPに輝いた本田圭佑は、MVPについて感想のコメントを求められ「個人的にはヤットさん(遠藤)だと思う。ああいう人がいなかったら勝負は紙一重だった」と遠藤を讃えた。

2011年3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、先制点となるフリーキックを決めた。

2012年10月12日、フランスとの国際親善試合にフル出場し、井原正巳が持っていた日本代表の国際Aマッチ最多出場記録の122試合に並ぶと、続く16日のブラジル戦にも出場し、最多出場記録を13年ぶりに更新。さらに翌2013年9月10日のガーナ戦に出場したことで、それまで東アジア諸国の国際Aマッチ最多出場記録を持っていた韓国・洪明甫の136に並び、10月11日のセルビアとの欧州遠征第1戦に出場して137試合目となり、東アジア最多出場記録を更新した。

2014年5月、ブラジルW杯代表に選出され、日本代表では唯一ドイツ大会から3大会連続選出となった。本大会では、クラブで調子を落としていたことから直前でレギュラーから外され、第1戦コートジボワール戦、第2戦ギリシャ戦ともに長谷部誠に代わり後半から出場。第3戦コロンビア戦は出場機会がなくチームも敗れグループリーグで敗退した。

ブラジルW杯以降、ハビエル・アギーレ体制となってからは代表から外れていたが11月に代表復帰。同年12月、AFCアジアカップ2015の代表メンバーに選出され、日本代表としては初のアジアカップ4大会連続選出となった。グループリーグ第1戦パレスチナ戦では先発出場で先制ゴールを決め、三浦知良が持っていたアジアカップの日本代表最年長ゴール記録(29歳9カ月)を34歳11カ月に更新、さらにアジアカップの出場数も通算最多となった。続く第2戦イラク戦にも先発出場し、国際Aマッチ150試合出場を達成した。

ヴァイッド・ハリルホジッチ体制後からは代表に選出されておらず、ハリルはその理由を最初の代表発表の場で「遠藤は日本のレベルを上げてくれた。でもリストには入ってない。私はW杯ロシア大会の準備のために日本に来ている。メンバーは、今までのリストを中心に、さらに自分の考えを加えて作成している。遠藤はこれまで、日本のために貢献してくれた。敬意を表したい。」とロシアW杯時の年齢を配慮し選出しない事を宣言している。

2013年9月6日に行われたグアテマラ戦で遠藤がFKで決めた得点以降、日本代表は直接FKでの得点は2018年11月に原口元気が決めるまでの約5年間無かった。

プレースタイル

ボランチとしてボールキープが巧みで タメをつくることができ、正確なパスを散らすゲームメーカー。短距離〜やや長い浮き球のパスを得意とし、中央からの散らしに関しては足元・スペースを正確に突く、特に短距離のパスは相手の重心と反対の方向へ出すことでカットされにくく、日本でも屈指の精度を誇る。G大阪の戦術上、中・長距離のパスは用いることは少ないが、こちらも非常に高い精度を持つ。

ポジションは主に攻撃的MFおよびセントラルMF。スピードやフィジカルに頼ったプレーやヘディングは得意としていないが、プレースキックの精度が高く、直接得点したりアシストする場面が頻繁に見られる。直接フリーキックはプロ入り初期はそれほど蹴っていなかったが、日本代表に選出された後、監督のジーコからプレースキッカーの役割を担うよう提言を受け、以降はクラブや代表でもプレースキックを任されることが多くなった。強い回転系のシュートを得意としており、ペナルティエリアやや外くらいからゴールマウスを的確にとらえられる高精度のミドルシュートを持つ。また、テクニックタイプではあるがボディーコンタクトも強い。

元々遠藤は運動量がそれほど多くなく、中盤の底からゲームメイクをするバランサータイプの選手であったが、2006年に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムから「チームのために走りなさい」と指導され、以降は自らドリブル突破やゴール前でのワンツーからの飛び出しなど仕掛ける動きが目立つようになり、攻撃的な役割を担う部分が多くなった。オシムの指導によって豊富な運動量も遠藤の武器となり、南アフリカワールドカップで計測された4試合389分での走行距離は47.02 km。同大会に出場した日本代表選手での中で本田圭佑(45.48 km)、長友佑都(45.43 km)らを抑え最長を記録した。また、状況判断力にも長け、パスを供給する位置やタイミングを自在に把握する広い視野と戦術眼も併せ持っており、本人の何事にも動じない落ち着いた性格からどんな状況でも常に慌てることなくプレーできるなど精神面も強い。

各年代の評価

オシムからは「常に自分をコントロールし、チームメイトや対戦相手もコントロールする。その知性はチームに大きなプラスアルファをもたらす。彼がいれば監督は必要ない」と高い評価を得ている。遠藤保仁はクラブ・日本代表双方において必要不可欠な存在とされており、様々な見地から「遠藤保仁不在」が不安視されていた。日本代表における遠藤の後継者候補に挙げられていた選手には柴崎岳、扇原貴宏、家長昭博、柏木陽介、高橋秀人 がいたが、いずれも候補止まりであり、ポスト遠藤の評価を得るまでには至っていない。

2020年4月、イギリスメディアの選ぶ21世紀の日本代表ベスト11に選ばれた。

ペナルティーキック

遠藤はPKを蹴る際、しばしば遅めの球速で蹴る場合がある。ボールがピッチ上をコロコロと転がりながらゴールマウスに向かう様子からメディアやファンからは「コロコロPK」と呼ばれている。助走時間を長く取ってゆっくりとボールに近づき、ボールは一切見ず相手ゴールキーパーの動きを最後まで見ることで相手の重心の動きを見極め、ゴールキーパーが動いた方向とは逆方向にインサイドキックでボールを転がすように蹴る。もしゴールキーパーが動かなかった場合はサイドに強く蹴る。近年では詳細が知れ渡ってしまったため、上記のキックをしないことが多い。

リーグ戦でのPK成功率は9割以上であり、J1での通算PK得点(30得点、2015年シーズン終了時点)はJ1最多記録である。さらに、2008年のFIFAクラブワールドカップ準決勝のマンチェスター・ユナイテッドとの対戦では、コロコロPKで元オランダ代表のファン・デル・サールからゴールを奪い、2010年のFIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でも、1人目を任されて成功させる(ただし、この時はジャブラニがコロコロPKに合わないという理由でサイドに鋭く蹴った) など、代表での試合を含め国際大会においても成功率は高い。

エピソード

憧れの選手はという問いには「2人の兄」を挙げており、6つ上の長男・拓哉は次男よりも憧れの選手で、鹿児島実業高校では前園真聖と同期で背番号10を背負ってプレーし、高校選手権では2年、3年と連続して優秀選手に選ばれ、 大学選抜や実業団(九州サッカーリーグ、鹿児島県社会人サッカーリーグなどに所属した京セラ川内サッカー部)で活躍。4つ年上の次男・彰弘は横浜FMや神戸で活躍し、アトランタオリンピックでは10番を背負ったなど、サッカー界では有名な「遠藤3兄弟」として知られている。

夫人は高校時代の同級生で、4人の子供(娘2人、息子2人)がいる。

夫人と長男は2010 FIFAワールドカップに帯同。長男が「ゴール決めてね」といった後、父親・保仁は本当にゴールを決めた(デンマーク戦)。

フジテレビ『ポンキッキシリーズ』のマスコット「ガチャピン」と容姿が瓜二つである。スタジアムでポンキッキーズガチャピンのイラストや人形を掲げて応援するサポーターも多数。2005年9月24日放送の「ポンキッキーズ」に出演した際、本物のガチャピンと共演し、「僕に似てるって言われるでしょ」と質問をされ、「昔は良く似てるって言われてました」と答えた。2010年には所属するガンバ大阪やフジテレビKIDSで、遠藤とガチャピンのコラボグッズが発売された。2010年9月8日にはガンバのホーム万博記念競技場へガチャピンが来場し、2011年9月25日にはガンバの練習場に訪れたガチャピンにサッカーを教えた。2011年12月4日に万博記念公園で行われたファン感謝祭では、自らガチャピンの着ぐるみを着て登場し、「本物です」「(似ているといわれて)嬉しいです」と答えた。

一番好きな食べ物はレバ刺し。ゴルフが趣味であり、時間があったらもっとのめり込んでいたかもしれないと話している。また、スポーツ全般に興味があり、ゴルフの他には野球にも興味がある。

サッカー選手になっていなかったら、漁師になっていたかもしれないとインタビューでは答えており、昔は釣りをするために海に出かけることもよくあった。

性格はマイペースでおっとりしているところがあり、本人曰くのんびりしすぎる時もあるのでそこが自分の弱点かもしれないと述べている。鹿児島実業高校時代の恩師・松澤隆司監督によると「運動能力が高く、持久走では1番になれる力がありながら、いつも3〜4番」とあまり目立とうとしないタイプで、親友の中村俊輔いわく「プレッシャーをかけてもゆっくり」とのこと。本人は「緊張はしないし、慌てたりすることもない。ストレスは感じない方。人の話をあまり聞いてないところが欠点」と自己分析している。

趣味は競馬。2008年スプリンターズステークス優勝馬のスリープレスナイトの一口馬主であった。また騎手の福永祐一と交友がある。

2010年の南アフリカワールドカップでの活躍で、セリエAのジェノアが獲得に乗り出したと地元メディアで報じられたが、本人は「レベルの高いところでやりたい気持ちはあるけど、イタリアの(守備的な)スタイルは嫌い」と苦笑いしていた。

2011年3月6日、アメーバブログに遠藤を名乗る偽ブログが掲載される騒動が起こった。8日にガンバ側が遠藤本人のブログではないことを公表し、同日中にブログは閉鎖された。2014年1月15日、アメーバで公式ブログが開始された。2016年4月からはLINEブログに移行している。

2012年4月13日放送の『僕らの音楽』で、大のサッカーファンである歌手の森山直太朗と対談した。

2012年4月14日に公開された劇場版アニメ『名探偵コナン 11人目のストライカー』で声優に初挑戦した。遠藤は、主人公の江戸川コナンにフリーキックの心得を伝授する役で三浦知良、楢﨑正剛、中村憲剛、今野泰幸とともに出演した。遠藤はコナンファンであり、遠藤の家族もコナンファンだと言う。パンフレットの独占インタビューでも、「国民的アニメのコナンに出演するということで、とても緊張していた」ことなどを述べている。

2024/06/12 23:25更新

endou yasuhito


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