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長谷部 誠さんについて調べます
■名前・氏名 |
長谷部誠と関係のある人
大久保嘉人: 2008-09年度シーズンにおいて、長谷部誠と共にクラブ史上初となるドイツ国内主要サッカー大会 初優勝達成を経験したが、大久保自身は、ポジションの重なるグラフィッチやエディン・ジェコが好調で彼ら大柄な選手に合わせたサッカーが展開されていたこともあって、出場機会は乏しかった。 桜井和寿: 長谷部誠と対談した。 岡崎慎司: 」として代表キャプテンの長谷部誠に代わりキャプテンマークを巻き、試合後にはチームメイトから胴上げの祝福を受けた。 槙野智章: 元代理人は長谷部誠、香川真司らと同じトーマス・クロートであった。 鈴木啓太: また、代表でも扁桃炎で離脱している間に長谷部誠にボランチの定位置を奪われ、病気から復帰した後も本来のプレーを取り戻せないことも相まって2008年6月以降は日本代表に招集されていない。 遠藤保仁: 本大会では、クラブで調子を落としていたことから直前でレギュラーから外され、第1戦コートジボワール戦、第2戦ギリシャ戦ともに長谷部誠に代わり後半から出場。 奥寺康彦: また、通算234試合出場も、2017年3月5日に長谷部誠が更新するまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多出場だった。 佐藤ありさ: 2016年7月9日にプロサッカー選手の長谷部誠と結婚。 柳田弘: 本荘市長を4期務め、2005年に合併して誕生した由利本荘市長選挙に立候補し、元秋田県議の長谷部誠を700票余りで下した。 吉田麻也: 2017年3月23日、2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のアラブ首長国連邦戦では怪我で離脱した長谷部誠に変わってキャプテンマークを巻いた。 本田朋子: 7月25日、サッカー日本代表で当時Jリーグ1部・浦和レッズ所属のMF長谷部誠との交際が週刊誌・スポーツ新聞等で報じられた。 今野泰幸: このモノマネは大きな反響を呼び、当時所属のFC東京携帯サイトや携帯電話向け音楽配信サイト「レコチョク」で着ボイス配信された ほか、代表で共に戦った長谷部誠と長友佑都が対戦出演したフジテレビ系「食わず嫌い王決定戦」内でも木梨憲武がこのモノマネについて触れ、ワイプ画面にてモノマネ中の今野の姿が流されるなど一時話題の出来事となった。 成岡翔: 黄金期を支えた選手の移籍が相次ぐ中、2007年は課題といわれた試合中の接触プレー等による負傷離脱も克服し、中心選手の1人として活躍するなど「ずっとライバルだと思っている」(前田遼一と行ったトークライブでの成岡自身の発言)高校時代の先輩でプロの実績では先行している長谷部誠の後を追っている。 フェリックス=マガト: VfLヴォルフスブルクで指導を受けた長谷部誠はその練習の厳しさを地獄に例える一方で、非常に鍛えられ好調を維持できたと評している。 市橋織江: 「心を整える-勝利をたぐり寄せるための56の習慣-」 著/長谷部誠 写真/市橋織江 (2011年 幻冬舎) イビチャ=オシム: 同世代の長谷部誠らを起用した。 辻仁成: 瀬戸内寂聴や江國香織、千住博、建築家の坂茂、サッカー選手の岡崎慎司や長谷部誠と交友が深い。 山田暢久: 1.安藤智安、2.坪井慶介、4.田中マルクス闘莉王、5.ネネ、6.山田暢久、6.山田樹生、7.酒井友之、8.小野伸二、9.福田正博、10.ポンテ、11.田中達也、12.室井市衛、13.鈴木啓太、14.平川忠亮、15.福永泰、16.宮沢克行、17.長谷部誠、18.池田伸康、19.内舘秀樹、20.堀之内聖、21.ワシントン、22.城定信次、23.都築龍太、30.岡野雅行 川島永嗣: 3大会でW杯11試合出場は、長友佑都、長谷部誠と並び日本人最多出場となった。 フェリックス=マガト: 長谷部誠も「一日・3部練習は当たり前」「永遠に山の中を走らされる」「試合に負けるとグラウンドに呼び出され走らされる」「体育館の天井から吊り下げられた綱に登っては降りるを繰り返しさせられる」といった、ドイツサッカー界で最も厳しいフィジカルトレーニングを課す指導者として有名である。 矢野貴章: 代理人は長谷部誠、香川真司らと同じトーマス・クロート。 太田吉彰: 静岡選抜で太田と一緒にプレーした経験がある長谷部誠らが証言しているように、元々はトップ下の選手だった。 大井健太郎: 藤枝東高の同期には磐田時代のチームメイトであった成岡翔、岡田隆(成岡とはアルビレックス新潟でもチームメイトとなる)、1学年先輩には長谷部誠、岡田佑樹、2年後輩に赤星貴文がいる。 児玉光雄: 『石川遼、本田圭佑、長谷部誠などの言葉に学ぶ「夢の実現力」』(プレジデント社) 小番宜一: 長谷部誠 成岡翔: 藤枝東高の同期には磐田時代のチームメイトであった大井健太郎、岡田隆(岡田とはアビスパ福岡、大井とはアルビレックス新潟でもチームメイトとなる)、1学年先輩には長谷部誠、岡田佑樹、2年後輩に赤星貴文がいる。 バヒド=ハリルホジッチ: 外部に対する発言はあまり良くない」と箝口令をしいたが、キャプテンの長谷部誠は「実際、僕も誰の発言かは分からないからクリアじゃない」としながらも、「普通に考えて、チームの中で共有するものと、こういうところで喋るものは選手個々の裁量はある」。 遠藤保仁: 2007年12月、オシムが病に倒れ退任、急遽監督に就任した岡田武史は、当初、オシムのチームを引き継ぐという立場であったため、遠藤もオシム時代同様にオフェンシブハーフでの起用が多かったが、岡田が「俺のやり方でやる」と宣言した2008年の南アフリカW杯アジア3次予選から、長谷部誠とダブルボランチを形成。 中澤佑二: また、2010 FIFAワールドカップの開幕前までキャプテンを務めていた(開幕時より長谷部誠に変更)。 フェリックス=マガト: ドイツサッカーコーチ連盟の副会長を務めているものの、「一昔前の監督」と評価されており、VfLヴォルフスブルク時代に指導を受けた長谷部誠曰く、「マガトさんのやり方は、あの当時でも『かなり古い』と言われていました。しかし2008-2009シーズンに監督に就任したVfLヴォルフスブルクでは、エディン・ジェコやジョズエ、マルセル・シェーファー、長谷部誠といった国際的には無名の若手を次々と抜擢してチームを優勝に導き、“育成型”の監督としての評価を高めた。 |
長谷部誠の情報まとめ
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長谷部 誠(はせべ まこと)さんの誕生日は1984年1月18日です。静岡出身のサッカー選手のようです。
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プレースタイル、エピソードなどについてまとめました。引退、卒業、現在、テレビ、結婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。長谷部誠の現在の年齢は40歳のようです。
長谷部誠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)長谷部 誠(はせべ まこと、1984年1月18日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。元日本代表。 妻はモデルの佐藤ありさ。 2006年から代表引退を発表した2018年まで日本代表に選ばれ続け、キャプテンとしてワールドカップに3度出場(2010年・2014年・2018年)。キャプテンとして出場した代表での試合数は81試合で、日本代表歴代1位である。ブンデスリーガにおいて外国人の選手としては、クラウディオ・ピサーロに次ぐ歴代2位の出場記録保持者であり、アジア出身の選手としては歴代1位である。2019年にはドイツのサッカー専門誌『kicker』選出のシーズンベスト11と、欧州サッカー連盟(UEFA)が選ぶヨーロッパリーグ(EL)の優秀選手に選出されている。 静岡県藤枝市出身、祖父が「誠」と命名。青島東サッカースポーツ少年団(藤枝市立青島東小学校)、藤枝市立青島中学校サッカー部を経て、静岡県立藤枝東高等学校に入学。2年の終わり頃からレギュラーとしてプレーした。U-18日本代表候補への選出と2001年の全国高校総体準優勝などの実績はあったが全国高校サッカー選手権には未出場だったことなどから 県内2クラブ(清水エスパルス、ジュビロ磐田)からのオファーは無く、県選抜でのプレーを見た浦和レッズのスカウトから勧誘を受ける。浦和の他には名古屋グランパス、明治大学などからも勧誘を受けていた。 高校卒業と同時に浦和に加入。1年目はカップ戦1試合のみの出場だったが、2年目の2003年はトップ下やボランチの選手として年間通して出場機会を得た。そして、3年目の2004年はシーズン当初こそ山瀬功治に代わってトップ下で出場していたが、シーズン中盤以降は鈴木啓太とダブルボランチを組み、浦和の2ndステージ優勝などに貢献した。この年はナビスコカップ・ニューヒーロー賞、Jリーグ・ベストイレブンに選出された。 2005年から2007年の間も鈴木啓太と中盤の底でコンビを組み、レギュラーとしてJ1優勝やAFCチャンピオンズリーグ優勝をはじめとした浦和のタイトル獲得に貢献した。2005年末に初めて日本代表に選ばれたが、2006年のワールドカップの代表メンバーからは漏れてしまう。その後、イビチャ・オシムが監督を務めると日本代表に復帰したが、2007年はシーズン序盤に負傷したこともあって代表戦の出場機会はなく、同年12月に代表監督に再任した岡田武史に選ばれるまでは日本代表から遠ざかっていた。 2008年1月1日、ドイツ・ブンデスリーガのVfLヴォルフスブルクに移籍。代理人は香川真司、内田篤人らと同じトーマス・クロート。2月、冬季中断明け初戦のビーレフェルト戦に後半開始から出場し、海外リーグでのデビューを移籍後早々に果たした。同年4月27日のアウェーでのレバークーゼン戦でブンデスリーガ初得点を記録。 移籍2シーズン目となる2008-09シーズンは前シーズンまでのボランチに加え、右サイドハーフ、右サイドバックでもプレー。2009年3月28日に行われた南アフリカワールドカップ・アジア最終予選バーレーン戦の試合中の故障により、優勝争いも佳境に迫ったリーグ終盤戦に一時離脱するアクシデントがあったものの、クラブのドイツ国内主要大会初優勝に貢献した。このシーズン途中に移籍してきた大久保嘉人とともに、奥寺康彦以来31年ぶりにブンデスリーガ優勝を経験した日本人となった。 9月16日、UEFAチャンピオンズリーグの開幕戦であるCSKAモスクワ戦に途中出場し、日本人選手として5人目のUEFAチャンピオンズリーグ出場を果たした。また、リーグ戦では9月18日の第6節シャルケ04戦でエディン・ジェコの決勝点をアシスト、9月26日の第7節ハノーファー96戦で今季初得点を決めるなどの活躍を見せ、2009-10シーズンはリーグ戦1得点6アシストを記録する。9月30日、CLグループリーグ第2節、アウェーでのマンチェスター・ユナイテッド戦ではスタメン出場し、後半11分に絶妙なクロスでジェコの先制点をアシストした。 2011年8月19日、ボルシアMG戦で2シーズンぶりとなるリーグ戦での得点を決めた。9月17日、第6節ホッフェンハイム戦では右サイドバックとして出場するも、1点ビハインドでの後半35分にGKのマルヴィン・ヒッツがレッドカードで退場。チームは既に交代枠を使い切っていたため、長谷部が急遽GKを務めることになった。馴れないポジションでありながら、正確なロングフィードを出したり、クロスボールにも飛び出してキャッチするなど奮闘するも、後半40分に失点し、チームは1-3で敗戦した。なお、日本人が欧州5大リーグでGKを務めるのはこれが初めてであった。2011-12シーズンは23試合に出場するも本職とは違うサイドバックでの起用がほとんどであった。 2012-13シーズンに入ると移籍志願で揉めた事で開幕から8試合連続ベンチ外という苦しい状況が続いたが、成績不振により監督のフェリックス・マガトが解任された直後の第9節デュッセルドルフ戦でリーグ戦初出場を果たすと、アシストを決めるなどチームの開幕戦以来の勝利に貢献した。その後は本職ではないが右サイドハーフとしてスタメンの座は守った。 2013-14シーズン開幕後、再び本職であるボランチでの出場を希望し自ら移籍を志願。2013年9月2日、1.FCニュルンベルクへの移籍が発表された。契約期間は3年間。ニュルンベルクはそれまで勝利がなく、長谷部にかかる期待は大きかったが以降もチーム状況は上向かず、結局ブンデスリーガ史上初の前半戦未勝利に終わった。1月の合宿で右ひざの半月板を損傷し離脱すると、2月にはチーム練習に合流するも再び同箇所を痛め帰国。2月28日に再手術を行ったことがクラブより発表された。5月11日の最終節で復帰を果たしたが、チームは不振から脱せず2部降格となった。 2014年6月2日、アイントラハト・フランクフルトと2年契約を締結。2014-15シーズンは、開幕からシーズン通してボランチを務め、出場停止の1試合を除くチーム最多、自身としてもブンデスリーガ移籍後では最多となるリーグ戦33試合に出場し、チームを支え続けた。 2015-16シーズン、開幕前にトーマス・シャーフが辞任しアルミン・フェーが新監督に就任すると右サイドバックとしてプレーする機会が増加しチームも低迷。2016年1月30日のブンデスリーガ・第19節アウクスブルク戦に出場し、奥寺康彦に続く日本人2人目となるブンデスリーガ通算200試合出場を達成。2016年3月にフェーが解任されニコ・コバチが監督の座につくと再びボランチに固定され、4月30日の第32節・ダルムシュタット戦では1091日ぶりに得点をきめるなど自身も復調を見せた。チームは16位でリーグ戦を終え、古巣ニュルンベルクとの入れ替え戦に勝利し、残留を決めた。入れ替え戦2試合にフル出場したが、古巣ニュルンベルクが相手だったため、「2年前このチームが降格したときに関わっていた一選手として、心の底から本当に喜ぶという感覚が沸いてこない」と複雑な気持ちを明かしている。 2016-17シーズン、2016年10月28日のブンデスリーガ第9節ボルシアMG戦では3バックの中央で先発して3試合連続の無失点に抑えて以降、リベロとしての起用が増加。12月20日、フランクフルトとの契約を2018年まで延長したことを発表した。2017年1月27日、第18節のシャルケ戦では今季初アシストを記録。2月5日、第19節のダルムシュタット戦で今季初得点を決めた。3月5日、第25節のフライブルク戦では奥寺康彦が保持していたブンデスリーガにおいて日本人最多出場記録を更新した。3月11日に行われた第24節のバイエルン・ミュンヘン戦でクリアの際にポストに激突し、左脛を6針縫合するケガを負い、さらにその後に右膝の負傷も発覚し、手術を行った。この怪我の影響で以降の試合全てを欠場した。 2017-18シーズン、前シーズンの怪我や手術の影響もあり約5ヶ月間公式戦の出場は無かったが、2017年8月12日に行われたDFBポカール1回戦・エルンテブリュック戦で復帰を果たした。2018年1月27日、第20節のボルシアMG戦でフランクフルトにおいて出場した試合数が100試合に到達した。4月21日におこなわれた第31節のヘルタ・ベルリン戦において、57分に相手にPKを献上し先制を許した後、80分にダヴィー・ゼルケの顔面への肘打ちで一発退場となり、24日にドイツサッカー連盟から「相手選手に対する悪質な反スポーツ行為」として4試合の出場停止処分(うち最後の1試合は執行猶予処分)を科された。この処分により、長谷部は3試合を残してリーグ戦全日程を終えることとなった。5月19日、DFBポカール決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では先発出場し、3-1で勝利に貢献して優勝カップを手にした。ドイツ移籍後では、ヴォルフスブルク時代のリーグ優勝以来のタイトル獲得となった。 2018-19シーズン、2018年9月24日に行われた第4節のRBライプツィヒ戦で、3バックの中央(リベロ)で今シーズン初出場を果たす。その後もリベロとしてフル出場を重ね、前半戦のリーグベストイレブンとベストCBに選出された。クラブは国内リーグで上位をキープしていたが、終盤に失速し7位で終える。出場したUEFAヨーロッパリーグ(EL)では、下馬評を覆して躍進し準決勝まで進出した。今シーズンのリーグ公式ベストイレブン候補にノミネートされたが選出とはならなかったが、ドイツのサッカー専門誌『kicker』で今シーズンのベストイレブンに選出された。また、UEFA公式からはELベスト4進出の貢献度を評価され、EL優秀選手にも選出された。 2020-21シーズン、2020年5月23日にフランクフルトは長谷部との契約を1年延長したことを発表。引退後はクラブのアドバイザーを務めることも明らかになった。6月6日、第30節の1.FSVマインツ05戦でブンデスリーガにおいてアジア人で史上最多となる309試合出場を果たした。これまでこの記録を保持していた車範根は、長谷部について「高い名声を手にし、若い選手たちの手本で、根気、リーダーシップで記録を作った。記録達成を心から祝いたい」と賞賛した。 2021-22シーズン、2022年2月18日にフランクフルトと2027年までの新契約を締結した。 ヨーロッパリーグ決勝レンジャーズ戦では、後半13分から途中出場、セバスティアン・ローデ交代後はキャプテンマークも巻いて好プレーを見せて優勝に貢献。チームは42年ぶりの同タイトル優勝を果たした。 2022-23シーズン、チャンピオンズリーグのグループリーグ第2節、マルセイユ戦で先発し、約13期振りとなる同大会出場を果たし、次節のトッテナム戦では、イングランド代表のエースでキャプテンのハリー・ケインを完全に押さえ、賞賛された。1月28日、第17節バイエルン戦でフル出場した。これにより、フィールドプレーヤーのリーグ歴代最年長出場ランキングでトップ10入りを果たした。3月21日、東京都内で会見を開き、フランクフルトとの契約を1年延長したことを発表した。DFBポカール準決勝のシュトゥットガルト戦で鎌田大地の得点をアシストして決勝進出を決めたが、この39歳と105日でのアシストはポカールにおいての最年長アシスト記録となった。 2023-24シーズン、開幕戦のダルムシュタット戦で途中出場を果たし、クラブでの最年長出場記録を更新(39歳214日での出場)した。10月8日に行われたブンデスリーガ第7節、1.FCハイデンハイム戦に途中出場し、フランクフルトでのブンデスリーガ出場229試合目となり、これでオカ・ニコロフ氏に並ぶ外国人選手の出場数でクラブ史上最多タイを記録した。2024年4月17日に今季限りでの現役引退を発表した[1]。ドイツ1部通算384試合の出場、外国人の選手としてはロベルト・レヴァンドフスキ(ポーランド)と並んで歴代2位タイに浮上。同1位のクラウディオ・ピサーロ(490試合)には届かなかったが、アジア人選手としては歴代1位の出場記録を残した。 2006年1月の代表合宿、2月のアメリカ遠征の際にサッカー日本代表に初選出された。2月11日、親善試合のアメリカ戦では後半途中から出場し、持ち味であるドリブル突破や試合終了間際に見せたスルーパスなど、デビュー戦ながら存在感を示した。2月22日のアジアカップ予選のインド戦に先発し、後半13分に代表初得点を決めたかと思われたが、審判団の協議の結果、長谷部のシュートが巻誠一郎に当たって入っており巻の得点となった。2006年のドイツワールドカップのメンバーには選ばれなかった。イビチャ・オシムが日本代表監督に就任すると、再び代表に選出されたが、2007年以降は代表から漏れることが多くなった。 2008年5月15日、岡田武史の監督就任後初めて日本代表に選出。キリンチャレンジカップ第1戦(対コートジボワール)に出場し、前半、右サイドを駆け上がっての絶妙なセンタリングで、同じく代表に復帰した玉田圭司のゴールをアシスト。1-0の勝利に大きく貢献した。以後の代表戦において、遠藤保仁とのダブルボランチを形成しレギュラーに定着する。 2009年6月6日、ワールドカップ出場権獲得に王手をかけた南アフリカワールドカップ・アジア最終予選アウェーでのウズベキスタン戦にスタメン出場。この試合に1対0で勝利し、4大会連続4度目のW杯出場を決めた。 11月18日、アジアカップ最終予選の香港戦で代表初得点を挙げた。 2010年5月10日、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに選出。岡田から長らくキャプテンを務めていた中澤佑二に代わるゲームキャプテンに指名され(チームキャプテンは川口能活)、W杯ではグループリーグ3試合と、決勝トーナメント1回戦にキャプテンとして先発出場し、日本代表のベスト16入りに貢献した。 10月8日、国際親善試合のアルゼンチン戦では、岡崎慎司の決勝点の起点となる強烈なミドルシュートを放つなど活躍し、日本代表の歴史的勝利に貢献した。 南アフリカW杯後に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニからも引き続きキャプテンを任され、2011年1月にカタールで開催されたアジアカップでは、全6試合にほぼフル出場し、日本代表の2大会ぶりの優勝に貢献。グループリーグのシリア戦では先制点を挙げた。 2014年6月に開催された2014 FIFAワールドカップ前には、同年2月に手術した右膝の炎症が再発し直前の親善試合ではキプロス戦以外は全て欠場。本大会では全試合スタメンで出場したが、チームはグループリーグ敗退となった。 2016年9月1日に行われた2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のUAE戦で、日本代表史上6人目となる通算100試合出場を達成。 2017年3月に負った怪我や手術の影響で代表の試合にしばらく出場出来なかったが、W杯出場の懸かった8月31日のアジア最終予選・オーストラリア戦で代表復帰。キャプテンとしてフル出場を果たし、2大会連続キャプテンとしてW杯出場に貢献した。 2018年6月、ロシアワールドカップのメンバーに選出され、W杯3大会連続出場を果たす。ダブルボランチの一角として全試合に出場し、キャプテンとしてGL突破に貢献。しかし、チームは決勝トーナメント1回戦で敗れてベスト16止まりに終わり、自身のインスタグラムにてこの大会限りでの代表引退を表明した。3大会でW杯11試合出場は、川島永嗣、長友佑都と並び日本人最多出場となった。 5月24日に都内で引退会見を行なった。今後は数か月間の休養を経て「フランクフルトで指導者の道へ進む」と会見で明言した。すでにドイツでのB級ライセンスを所有し、現在はA級ライセンスを取得しようとしている。フランクフルトU-21のアシスタントコーチとして指導者としての実績を積んでいく。 プレースタイルセンターハーフを本職としつつサイドでの起用にも対応する高い戦術理解力と抜群の安定感を兼ね備える。 浦和時代は繊細なボールタッチを持ち味とする司令塔として活躍したが、ヴォルフスブルク移籍後は中盤の攻撃的な位置や守備的な位置に加え、右サイドバックやセンターバックに入ることもできるユーティリティプレイヤーに進化。持ち前のテクニックに加え、欧州仕様のフィジカルと対人プレーの強さを体得し、守備でも危険察知能力、カバーリングが成長した。またファールの少ないフェアプレー精神の持ち主であり、2019-20シーズンの出場時間に対するファールの割合は353分に1ファールと2位以下に大きく差をつけブンデスリーガ1位を記録した。 ヴォルフスブルク時代に重用されたフェリックス・マガト監督からは優れたテクニックと共に語学学習能力の高さやコミュニケーション能力の高さを評価されている。 フランクフルト時代に長谷部を指導したニコ・コバチは「3バックの中心としても、ボランチとしても常に我々の助けとなってくれる存在だ。誠はどこで起用されても、決して不平不満を口にすることなく、常に力を出しつくす、なんでもできる、疲れ知らずの選手なんだ。ぜひ強調しておきたいのだが、彼はまさに『ソルジャー』というタイプの選手だよ」と評価している。 エピソードゴールを決めたときに天に向かって人差し指を突き上げるゴールパフォーマンスをする。これはプロ1年目のときに亡くなった祖父を想ってのことである。祖父は長谷部が大学進学かプロ入りかを迷っていたとき、周囲がプロ入りに反対する中でも「男なら挑戦してみろ」と背中を押してくれたという。 浦和レッズから入団の誘いがあるまでは、青山学院大学への進学を予定していた。 Mr.Childrenの大ファンで、ブログにて好きな曲ベスト10を発表している ほか、長谷部を特集した2011年(平成23年)7月10日放送のテレビ番組『ソロモン流』の中で桜井和寿との対談が実現している。また、2012年(平成24年)4月から自身が出演するキリンビバレッジ 『大人のキリンレモン』のCMには、本人が大好きな楽曲であるという縁から、「youthful days」がCMソングとして起用された。 出身地である藤枝市は、2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会での長谷部の活躍を受け、同2010年(平成22年)の7月12日、世界大会や全国規模のスポーツ大会における顕著な功績に対して、藤枝市スポーツ栄誉顕彰を授与。 2011年(平成23年)3月17日、長谷部は自己啓発書『心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣』を幻冬舎より出版したが、同月11日には東日本大震災が発生しており、係る激甚災害の被災者を支援するため、長谷部は同書から得られる印税の全額を日本ユニセフに寄付することを決めた。同書は9月までに100万部を売り上げ、スポーツ選手の著書としては初のミリオンセラーとなった。2013年3月のビルト紙によると、売上は140万部を超えており、寄付額も180万ユーロに達している。 真面目な性格として知られ、日本代表では時にその生真面目さを茶化されることもある。 2016年(平成28年)7月9日、佐藤ありさ(タレント、ファッションモデル)との結婚を発表した。また、ほぼ1年後の2017年(平成29年)7月21日には、自身のInstagramにて第一子の誕生を発表している。 2017年(平成29年)春、小中学生を対象としたサッカースクールである「MAKOTO HASEBE SPORTS CLUB(マコト・ハセベ・スポーツクラブ)」を、故郷・藤枝市と、同じ静岡県の浜松市の、2箇所で開校した。 2022年時点で、指導者のB級ライセンスをほぼ取得した。 ドイツでのニックネームは、名字に由来するが、偶然ドイツ語でウサギの意味でもある"Hase"。 2024/06/12 20:04更新
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hasebe makoto
長谷部誠と同じ誕生日1月18日生まれ、同じ静岡出身の人
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