もしもし情報局 > 12月12日 > 画家

エドヴァルド=ムンクの情報 (EdvardMunch)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【10月6日】今日誕生日の芸能人・有名人

エドヴァルド=ムンクの情報(EdvardMunch) 画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

エドヴァルド=ムンクさんについて調べます

■名前・氏名
エドヴァルド=ムンク
(読み:Edvard Munch)
■職業
画家
■エドヴァルド=ムンクの誕生日・生年月日
1863年12月12日 (年齢1944年没)
亥年(いのしし年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
不明

エドヴァルド=ムンクと同じ1863年生まれの有名人・芸能人

エドヴァルド=ムンクと同じ12月12日生まれの有名人・芸能人

エドヴァルド=ムンクと同じ出身地の人


エドヴァルド=ムンクの情報まとめ

もしもしロボ

エドヴァルド=ムンク(Edvard Munch)さんの誕生日は1863年12月12日です。

もしもしロボ

病気、事件、結婚、母親、家族、兄弟、映画に関する情報もありますね。1944年に亡くなられているようです。

エドヴァルド=ムンクのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch (ノルウェー語: [ˈɛdvɑʈ muŋk] ( 音声ファイル)), 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀 - 20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。

ムンクは1863年、ノルウェーのロイテンで医師の父のもとに生まれ、間もなく首都クリスチャニア(現オスロ)に移った。1868年に母が病気で亡くなり、1877年には姉が亡くなるという不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えている(→子供時代)。

1880年、王立絵画学校に入学し、1883年頃から、画家クリスチャン・クローグや作家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアン・グループとの交際を始めるとともに、展覧会への出品を始めたが、作品への評価は厳しかった(→王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン)。

1889年から1892年にかけて、ノルウェー政府の奨学金を得てパリに留学した。この頃、「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」を書き残している。フランス滞在中に、印象派、ポスト印象派、ナビ派など、最先端の芸術に触れ、技法を学んだ(→パリ留学)。

1892年、ノルウェーに帰国してから、「生命のフリーズ」という、テーマを持った連作の構想を固め始めた。この年、ベルリン芸術家協会の招きにより個展を開いたが、これが新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるというスキャンダルになってしまった。その後もベルリンに住み、北欧の芸術家らと親交を深めながら『叫び』、『マドンナ』、『思春期』といった代表作を次々生み出していき、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となった(→帰国、ベルリン)。

1896年にはパリに移り住み、版画の制作などに注力した(→パリ)。1897年からはノルウェー海沿いの村オースゴールストランを一つの拠点とし、イタリア、ドイツ、フランスの各地と行き来しながら、「生命のフリーズ」を完結する作品を制作していった。この頃にムンクはトゥラ・ラーセンという女性と交際していたが、徐々に彼女を避けるようになっていた(→オースゴールストラン)。

ノルウェーでの評価の行き詰まりから、1902年からはドイツを中心に活動したが、この年、ラーセンと口論の末、暴発したピストルで手にけがを負うという事件があった。1903年頃からは友人のマックス・リンデのための連作を制作したり、イプセンの舞台装置の下絵を書いたりした(→ドイツでの活動)。

1908年、コペンハーゲンの精神病院に入院し、療養生活を送った。この時にはノルウェー政府から勲章を与えられたり、国立美術館がムンクの作品を購入したりして、ムンクの評価は決定的になっていた(→精神病院)。1909年に退院するとノルウェーに戻り、クリスチャニア大学講堂の壁画や労働者シリーズを手がけた(→ノルウェーへの帰還、講堂壁画)。1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、制作を続けていたが1944年に亡くなった(→晩年)。

ムンクが代表作の多くを制作した1890年代のヨーロッパは世紀末芸術と呼ばれる時代であり、同時代の画家たちと同様、リアリズムを離れ、人間の心の神秘の追求に向かった。『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しているが、ムンクが鋭敏な感受性をもって、人間の心の闇の世界を表現したものといえる(→時代背景と作風)。

作品の多くはムンク美術館等の美術館に収蔵されている(→主な作品)。その中でも、『叫び』は世界的に抜群の知名度を誇り、複数バージョンのうち個人所蔵のパステル画が、2012年にオークションで手数料込み1億1990万ドル(約96億円)で落札されたことは、大きなニュースとなった(→『叫び』)。

ムンクは1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県ロイテン(英語版)に生まれた。父クリスティアン・ムンク(1817年 - 1889年)は医者であり、1843年から船医、1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが、1861年にラウラ・カトリーネ・ビョルスタ (ノルウェー語版)と出逢い間もなく結婚した。

2人の間にはエドヴァルドの前に長女ヨハンネ・ソフィーエ(1862年生)が生まれていた。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々、一家はクリスチャニア(現オスロ)に移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース(1865年生)、次女ラウラ・カトリーネ(1867年生)が生まれた。

しかし母ラウラ・カトリーネが結核に冒され、いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエ(1868年生)を産んだものの1868年12月29日に亡くなった。以後、母の妹カーレン・ビョルスタ (ノルウェー語版)がムンク家の世話をすることになった。

ムンクの父はもともと信心深い性格であったが、妻の死後は狂信的なほどキリスト教への信仰にのめり込み、子どもたちを叱るときは異常なほどに厳しかった。ムンクは父の狂信的な考えに反発して口論した日の夜、父の寝室を覗き、父がベッドの前にひざまずいて祈っているのを目撃して衝撃を受けたことを後に回想している。ムンクはその光景をすぐにスケッチに描くことによって、ようやく落ち着いて寝入ることができたという。ムンクは「病と狂気と死が、私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」と語っている。

1875年、一家はクリスチャニア市内のグリューネル・ルッケン地区に引っ越した。しかしその後、ムンクは慢性気管支炎を患った。ムンクの手記によれば1876年末頃、彼は血を吐き結核だと思い自分の死が近いことを覚悟した。さらに姉のヨハンネ・ソフィーエが結核に感染し、1877年11月15日に15歳で亡くなった。ムンクにとって姉は、きょうだいの中でも特別で、亡き母に代わって愛情を注いでくれる存在であったため衝撃は大きかった。こうして身近に「死」を実感したことが後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893頃)『病める子』(1886)といったムンクの初期の諸作品では直接のモチーフになっている。

ムンクは通っていた学校を1879年に中退している。この頃から画家になりたいという希望を持っていたが父の反対に遭い、技師になるためクリスチャニア工業学校に通うことになった。しかしムンクはリューマチ熱のため欠席が続き1880年11月8日に退学。その日、ムンクは日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書いている。

それまでも水彩画や鉛筆画で風景や家屋のスケッチをしていたが、ムンクの日記によれば1880年5月22日に油絵用の画材一式を買い、5月25日に古アーケル教会を写生している。

ムンクは父を説得し、同年(1880年)12月16日、ノルウェー王立絵画学校(現・オスロ国立芸術大学)の夜間コースに入学した。1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃にモデル・クラスに編入した。ムンクはこの学校で健康を取り戻し、教官の彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーンの指導を受けた。また、同年(1882年)初め頃、友人6名とともにカール・ヨハン通りの国会広場に面して建つ「プルトステン」ビルの屋根裏にアトリエを借り、そこで画家クリスチャン・クローグの指導を受けた。ムンクは後に「私を彼の弟子の一人とみなすのはどうしても無理がある。……とはいえ、私たちはみなクローグを非常に好ましく思い、また立派な画家と考えていた。」と書いている。

同年(1882年)夏、ヘードマルク県に滞在し、同年秋にはクリスチャニア西郊をスケッチして回った。1883年秋、親類の画家フリッツ・タウロウが主催するモードゥム(英語版)野外アカデミーに参加して制作や討論を行った。これがきっかけで、クリスチャニア・ボヘミアンという当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる。この年(1883年)、彼は産業及び芸術展覧会に油絵『習作・若い女の頭部』、第2回秋季展(芸術家展)に『ストーブに火をつける少女』を出品した。さらに、1884年の秋季展(官立芸術展と改称)に『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』を出品したが、ノルウェー国内では酷評された。

『朝』1884年。油彩、キャンバス、96.5 × 103.5 cm。ベルゲン美術館。
『朝』1884年。油彩、キャンバス、96.5 × 103.5 cm。ベルゲン美術館。

一方、フリッツ・タウロウはムンクの才能を認めており、ムンクにパリのサロンを見学する機会を提供したいと同年(1884年)3月、父クリスティアンに支援を申し出ている。ムンクの病気のためパリ行きはいったん延期されたものの、1885年5月に友人の画家エイヨルフ・ソート(英語版)とともにパリに向かった。そこでサロンとルーヴル美術館に通い詰め、エドゥアール・マネの多くの作品に接して、色彩の表現や、画面の中の一点を強調する技法を学んだ。他方、サロンで尊敬を集めているアカデミズム絵画のブグローについては「ブルジョア連中の関心を引いていたにすぎない」と切り捨てている。この年の秋季展には『画家カール・イェンセン=イェル像』を出品したがこれも酷評された。

同年(1885年)4月、ムンク一家はスカウ広場に面した建物に移った。ムンクはここで『春』『思春期』(第1作)『病める子(英語版)』『その翌朝』を描いた。亡くなった母や姉を重ね合わせた『病める子』は1年近くかけて描き上げたもので、1886年の秋季展に出展したが、これも保守系日刊紙『モルゲンブラーデ』から「当然必要な下塗りさえしていない」「近づけば近づくほど、何が何やら分からなくなり、しまいには雑多な色の斑点だけになってしまう」と書かれるなど激しく攻撃された。ムンクは後に『病める子』について、新しい道を切り開いた作品だと位置付けつつ「ノルウェーではこれほどスキャンダルを巻き起こした絵はない」と自ら記し、展覧会初日の会場で、哄笑や非難の声が聞こえてきたことを振り返っている。唯一クリスチャン・クローグだけは『病める子』を弁護してくれて、ムンクはこの絵をクローグに贈った。

この頃、クリスチャニア・ボヘミアンのリーダー格であるアナーキスト作家のハンス・イェーゲルと知り合った。伝統的なキリスト教的道徳に公然と異を唱え、自由恋愛主義を訴えるイェーゲルに、当時のクリスチャニアの若者たちが熱狂したのと同様、ムンクもその信奉者となった。ムンクにとってボヘミアン時代は、霊感と活気を与えてくれる時代であったが、同時に独断主義的なボヘミアンのメンバーに対して「反吐の出そうな馬鹿者」と嫌悪感を表してもいる。また、ムンクは1885年から数年間、人妻ミリー・タウロウとの禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをした。

『病める子』1885-86年。油彩、キャンバス、120 × 118.5 cm。オスロ国立美術館[26]。
『病める子』1885-86年。油彩、キャンバス、120 × 118.5 cm。オスロ国立美術館。

1888年秋、ムンクはクリスチャニア南西の海辺の村オースゴールストランを訪れ『郵便船の到着』などの写生的な油絵を描いた。1889年初頭に重病を患い、回復途中に『春』を描いた。これはこの時期の最高傑作とされる。同年5月9日からカール・ヨハン通りの学生協会の小ホールに『ハンス・イェーゲル像』『春』などの自作110点を並べる個展を開催した。当時のノルウェーでは、個展というものが開催されること自体が初めての試みであった。

『春』1889年。油彩、キャンバス、169.5 × 264.2 cm。オスロ国立美術館[30]。
『春』1889年。油彩、キャンバス、169.5 × 264.2 cm。オスロ国立美術館。

『浜辺のインゲル(英語版)(夏の夜)』1889年。油彩、キャンバス、126 × 161 cm。ベルゲン美術館。
『浜辺のインゲル(英語版)(夏の夜)』1889年。油彩、キャンバス、126 × 161 cm。ベルゲン美術館。

同年(1889年)10月、1500クローネの政府奨学金が与えられた。それと同時にパリで1年間デッサンを学ぶことを命じられ、ムンクはパリに赴いた。ところがその年の12月に突然、父クリスティアンが亡くなったことが叔母カーレンから伝えられ衝撃を受けた。ムンクはその直後、パリ郊外のサン=クルーに移ってデンマークの詩人エマヌエル・ゴルスタイン (Emanuel Goldstein) と同居した。1890年にゴルスタインをモデルにして描いた『サン=クルーの夜』には孤独と不安が表れている。この頃、エドヴァルドは手帳に次のような走り書きを残しており、後の「生命のフリーズ」の構想の端緒となったものとして「サン=クルー宣言」と呼ばれている。

1890年、秋季展に作品を提出し2回目の政府奨学金が認められて11月にパリへ向かった。しかし、航海中にリューマチ熱を発してル・アーヴルで下船し、2か月間入院した。

1891年1月に退院すると、パリ、更に温暖な南仏ニースを訪れ「思っていたよりもはるかに美しい街です」と友人に書き送っている。夏の間、オースゴールストランに戻ったが、この時にクリスチャン・クローグの妻オーダ・クローグ(英語版)から誘惑を受け、クローグ夫妻とオーダ・クローグの愛人ヤッペ・ニルセンをめぐる複雑な恋愛関係に巻き込まれた。ムンクはこの人間関係を『メランコリー』に描き秋季展に提出した。ムンクは3回目の奨学金を期待したが、病気で創作活動を十分行えていないムンクが奨学金を受給することを批判する論説が新聞に載った。その冬はニースを再訪して南仏で過ごした。しかしこの頃、妹ラウラが精神病を悪化させて入院したこともあって、ムンクは精神的に追い詰められてカジノで奨学金を浪費してしまった。

ムンクはこうしてフランスに滞在している間に、印象派の画家たち、特にクロード・モネとカミーユ・ピサロから大きな影響を受けた。それに加えてエミール・ベルナール、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなどの作品から技法を学んだ。『カール・ヨハンの春の日』(1890年)『ラファイエット街』(1891年)など、印象派の影響を受けた点描風の油絵作品も多い。一方、当初デッサンを学ぶために師事したレオン・ボナとは、色彩の使い方について相容れず対立した。

『サン=クルーの夜』1890年。油彩、キャンバス、64.5 × 54 cm。オスロ国立美術館[41]。
『サン=クルーの夜』1890年。油彩、キャンバス、64.5 × 54 cm。オスロ国立美術館。

『カール・ヨハンの春の日』1890年。ベルゲン美術館。
『カール・ヨハンの春の日』1890年。ベルゲン美術館。

『ラファイエット街』1891年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。オスロ国立美術館[42]。
『ラファイエット街』1891年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。オスロ国立美術館。

『ニースの夜』1891年。油彩、キャンバス、48 × 54 cm。オスロ国立美術館[43]。
『ニースの夜』1891年。油彩、キャンバス、48 × 54 cm。オスロ国立美術館。

ムンクは1892年3月、パリ留学からノルウェーに帰国した頃から「生命のフリーズ」という構想を固め始めた。これはフリーズの装飾のように、自分の作品をいくつかのテーマによって結び合わせていこうというものである。また、この頃から彼の画風は大きく変わり、ナビ派のような形態の単純化・平面的色彩に加え、強いデフォルメを行うようになった。『メランコリー/黄色いボート』『幻想』『絶望』大作『妹インゲルの肖像』といった作品を制作していった。同年(1892年)秋にはカール・ヨハン通りで再び個展を開いた。このときは前回ほどの悪評にはさらされなかった。国立美術館が彼の『ニースの夜』を買い上げるという朗報もあった。

『カール・ヨハン通りの夕べ』1892年。油彩、キャンバス、84.5 × 121 cm。ベルゲン美術館。
『カール・ヨハン通りの夕べ』1892年。油彩、キャンバス、84.5 × 121 cm。ベルゲン美術館。

『メランコリー/黄色いボート(英語版)』1892年。油彩、キャンバス、64 × 96 cm。オスロ国立美術館[49]。
『メランコリー/黄色いボート(英語版)』1892年。油彩、キャンバス、64 × 96 cm。オスロ国立美術館。

同年(1892年)11月5日から、ベルリン芸術家協会(ドイツ語版)の委員であったノルウェー人画家アデルスティーン・ノーマンの招きにより、ベルリンでムンクの個展が開かれた。ムンクはこの個展に『朝』『接吻』『不安』『メランコリー』『春』『病める子』『その翌朝』『カール・ヨハンの春の日』『雨のカール・ヨハン街』といった重要な作品を含む55点を送った。「生命のフリーズ」の最初の展示といえるものであった。しかしこれがベルリンの各新聞で激しく攻撃され、わずか1週間で個展は打ち切りとなってしまった(この出来事は「ムンク事件」と呼ばれる)。それでもムンクは大手画商エドゥアルド・シュルテの支援を得て、個展はその後デュッセルドルフ、ケルン、再びベルリンと巡回した。次いで1893年にはコペンハーゲン、ブレスラウ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンと開催され、賛否両論の中にも愛好者を増やしていった。

1892年12月からムンクはベルリンに落ち着くことにし、カフェ「黒仔豚亭」に集まるスウェーデン人作家のヨハン・アウグスト・ストリンドベリ、ポーランド人学生スタニスワフ・プシビシェフスキなど、北欧の芸術家らと親交を深めた。彼らはショーペンハウエルやニーチェについて熱く論じ合った。ここにはノルウェーの女性ダグニー・ユール(英語版)も加わり、彼女はプシビシェフスキと結婚した。ムンクとは愛人関係にあったとも言われており、ムンクの作品『嫉妬』の中ではムンクとダグニーが恋人同士として描かれ、プシビシェフスキが嫉妬に苦しんでいる。

ムンクはベルリン市内外の安宿を転々としながら『吸血鬼(英語版)(愛と痛み)』『マドンナ』シリーズ、『星月夜(英語版)』『死んだ母親』『病室での死』シリーズといった多くの代表作を制作していった。『叫び』や『不安(英語版)』を制作したのもこの時期である。1893年3月には、デンマークの画家ヨハン・ローデ(英語版)に次のような手紙を送っている。

1894年頃にはエッチングやリトグラフ、木版の技法を身につけ、表現の可能性を広げることになった。

1894年、スタニスワフ・プシビシェフスキがムンクに関する最初の本を出版した。ユリウス・マイヤー=グラーフェ、フランツ・セルヴェース(ドイツ語版)、ヴィリー・パストール(ドイツ語版)との共著である。4人の友人によるムンクの評論として、信頼性を持った資料となっている。

1895年3月、ムンクはベルリンのウンター・デン・リンデン通りの画廊でアクセリ・ガッレン=カッレラとの共同展覧会を開いた。6月、美術評論家ユリウス・マイヤー=グラーフェがベルリンでムンクのエッチング作品集を出版し、これがムンクの最初の画集となった。また、同年10月クリスチャニアのカール・ヨハン通りのブロムクヴィスト画廊(ノルウェー語版)で大規模な作品展が開催され、『マドンナ』『手』『灰』『嫉妬(英語版)』など、ベルリン時代に制作した「生命のフリーズ」の重要な作品が展示された。この時、国立美術館は『煙草を持つ自画像』の購入を決定した。劇作家のヘンリック・イプセンもこの展覧会を訪れ、後輩であるムンクに「僕を信じたまえ。敵が多ければ多いほど、味方も多いものだ。」と言って激励した。他方で、学生会館ではムンクの精神状態を論じる公開討論会が開かれ、批判派は「ムンクの絵は狂人のもの」と論じた。

家族の中では、医者になっていた弟のペーテル・アンドレアースが1895年12月半ばに肺炎で亡くなり、また妹ラウラ・カトリーネも精神病で入院を続けていた。こうした不幸は改めてムンクに死と生の不安を呼び起こした。1895年に描かれた作品は、『死の床』など不吉なものばかりである。ムンクはドイツで展覧会を数多く開き、名前は知られるようになっていったが絵はほとんど売れず、ムンクや家族の生活は経済的にも厳しかった。

『月光』1893年。油彩、キャンバス、140.5 × 137 cm。オスロ国立美術館[68]。
『月光』1893年。油彩、キャンバス、140.5 × 137 cm。オスロ国立美術館。

『星月夜』1893年。油彩、キャンバス、135.9 × 140.3 cm。J・ポール・ゲティ美術館(ロサンゼルス)[69]。
『星月夜』1893年。油彩、キャンバス、135.9 × 140.3 cm。J・ポール・ゲティ美術館(ロサンゼルス)。

『叫び』1893年。油彩、キャンバス、91.0 × 73.5 cm。オスロ国立美術館[70]。
『叫び』1893年。油彩、キャンバス、91.0 × 73.5 cm。オスロ国立美術館。

『少女と死』1893年。油彩、キャンバス、128.5 × 86 cm。ムンク美術館[71]。
『少女と死』1893年。油彩、キャンバス、128.5 × 86 cm。ムンク美術館。

『不安』1894年。油彩、キャンバス、94 × 74 cm。ムンク美術館[72]。
『不安』1894年。油彩、キャンバス、94 × 74 cm。ムンク美術館。

『思春期』1894-95年。油彩、キャンバス、151.5 × 110 cm。オスロ国立美術館[73]。
『思春期』1894-95年。油彩、キャンバス、151.5 × 110 cm。オスロ国立美術館。

『吸血鬼(愛と痛み)』1895年。油彩、キャンバス、91 × 109 cm。ムンク美術館[74]。
『吸血鬼(愛と痛み)』1895年。油彩、キャンバス、91 × 109 cm。ムンク美術館。

『マドンナ』1895年。油彩、キャンバス、90 × 71 cm。ハンブルク美術館。
『マドンナ』1895年。油彩、キャンバス、90 × 71 cm。ハンブルク美術館。

『嫉妬』1895年。油彩、キャンバス、67 × 100.5 cm。ベルゲン美術館。
『嫉妬』1895年。油彩、キャンバス、67 × 100.5 cm。ベルゲン美術館。

『煙草を持つ自画像』1895年。油彩、キャンバス、110.5 × 85.5 cm。オスロ国立美術館[75]。
『煙草を持つ自画像』1895年。油彩、キャンバス、110.5 × 85.5 cm。オスロ国立美術館。

『自画像』1895年。リトグラフ、45.8 × 31.4 cm。ムンク美術館[76]。
『自画像』1895年。リトグラフ、45.8 × 31.4 cm。ムンク美術館。

ムンクは1895年6月と9月にそれぞれ短期間パリを訪れた後、1896年2月にベルリンを離れてパリに移り住んだ。

パリでは1896年春のアンデパンダン展に出品したほか、サミュエル・ビング画廊のアール・ヌーヴォー展にも出展した。ここでも否定的反応は多かったが『ラ・プレス(英語版)』紙のエドワール・ジェラールは次のような好意的評価を書いている。

ムンクはパリで、ステファヌ・マラルメ邸で行われる「火曜会」に呼ばれ、パリの画家や文学者らと知り合った。また、パリに移っていたストリンドベリと再会した。ストリンドベリはアール・ヌーヴォー展でムンクに好意的な寄稿を書いたが、オカルトや錬金術にのめりこんだストリンドベリは、ムンクが刺客だと思い込むようになって連絡を断ち、2人の友人関係は終わった。

ムンクはこの時期に版画の技術をますます完成させ、シャルル・ボードレールの詩集『悪の華』のために挿絵を描いたりした。版画の利点は売りやすいことと、我が子のように思う絵画を手放さなくてよいことであった。ムンクはアトリエを大きな版画工房のそばに移し、職人から版画の技法を学んだ。版画のテーマの多くは旧作の油絵に基づくものであり、新たな油絵の創作はされなかった。

1897年のアンデパンダン展に出品したが評価はやはり賛否両論で、絵は一向に売れずムンクはパリを去ることにした。

『別離』1896年。油彩、キャンバス、96.5 × 127 cm。ムンク美術館[84]。
『別離』1896年。油彩、キャンバス、96.5 × 127 cm。ムンク美術館。

『病める子』1896年。リトグラフ、43.2 × 57.1 cm。ムンク美術館[85]。
『病める子』1896年。リトグラフ、43.2 × 57.1 cm。ムンク美術館。

ムンクは1897年7月、オースゴールストランにサマー・ハウスを買い、油絵の制作を再開した。クリスチャニアには、友人の画家アルフレッド・ハウゲとともにアトリエを共同で借りた。同年9月、クリスチャニアのカール・ヨハン通り、ディオラマ館 (Dioramalokalet) で個展を開き、油絵85点、リトグラフ30点、木版9点、エッチング25点、亜鉛板5点、デッサンとスケッチ30点という大規模な展示を行った。この頃にはクリスチャニアの新聞でも好意的な批評が現れるようになってきた。

1898年、トゥラ・ラーセン (Tulla Larsen) という女性と出会い交際を始めた。1899年4月、トゥラとともに北イタリアからローマに旅をし、ラファエロの作品に感銘を受けた。この旅に触発されて生涯唯一の宗教画『ゴルゴタ』を描いている。

それ以降、ムンクはイタリア、ドイツ、フランスと、オースゴールストランとを行き来しながら『赤い蔦』『メランコリー/ラウラ』『生命の踊り』といった作品を制作し、「生命のフリーズ」の終結に向かった。『生命の踊り』の左と右の女性はトゥラ・ラーセン、中央の女性はミリー・タウロウがモデルであると言われる。1900年にはドレスデンやクリスチャニアのディオラマ館で展覧会を開いた。1901年の夏はオースゴールストランで過ごし、9月にクリスチャニアで72点の展覧会を開き、11月にはベルリンに移り住んだ。1902年には、ベルリン分離派展で22点の作品で構成される「生命のフリーズ」を展示した。なお、この頃はまだ「生命のフリーズ」という言葉は使っていなかったが、ベルリン分離派展で「フリーズ:生のイメージの連作の展示」というタイトルを付けており、「フリーズ」という言葉により、単なる連作ではなく一つの装飾プロジェクトであるという意思を明らかにしたといえる。

この頃トゥラが結婚を迫るのに対し、ムンクは次第にトゥラを避けるようになっていった。トゥラはストーカーのようにムンクを追いかけ回したり、ムンクに対し訴訟を起こしたりし、ムンクのアトリエを訪れては制作を妨げた。

『新陳代謝(メタボリズム)』1898-99年。油彩、キャンバス、172.5 × 142 cm。ムンク美術館[96]。
『新陳代謝(メタボリズム)』1898-99年。油彩、キャンバス、172.5 × 142 cm。ムンク美術館。

『ゴルゴタ』1900年。油彩、キャンバス、80 × 120 cm。ムンク美術館[97]。
『ゴルゴタ』1900年。油彩、キャンバス、80 × 120 cm。ムンク美術館。

『赤い蔦』1898-1900年。油彩、キャンバス、121 × 119.5 cm。ムンク美術館[98]。
『赤い蔦』1898-1900年。油彩、キャンバス、121 × 119.5 cm。ムンク美術館。

『生命の踊り』1899-1900年。油彩、キャンバス、125 × 191 cm。オスロ国立美術館[99]。
『生命の踊り』1899-1900年。油彩、キャンバス、125 × 191 cm。オスロ国立美術館。

『橋の上の少女たち』1901年。油彩、キャンバス、136 × 125 cm。オスロ国立美術館[100]。
『橋の上の少女たち』1901年。油彩、キャンバス、136 × 125 cm。オスロ国立美術館。

ノルウェーで評価を得られずに行き詰まったムンクは、再びベルリンにアトリエを構えて活動するようになった。この頃、ベルリン分離派のマックス・リーバーマンがムンクを支援してくれるようになり、その勧めにより1902年の分離派展に作品22展を出品した。後に「生命のフリーズ」と呼ばれる作品群が完全な形をとったのはこの時であった(→生命のフリーズ)。この展示は大成功を収め、ムンクは日記に「あの悲惨な時代は終わった」と書いている。実業家アルベルト・コルマン(ドイツ語版)からの支援も受けるようになった。さらにコルマンの紹介で、リューベックの眼科医で美術愛好家のマックス・リンデ(英語版)と交友するようになり、リンデの子供部屋に飾るための絵の依頼を受けて制作に取りかかった。

ムンクは同年(1902年)夏、オースゴールストランに戻った。ある日、トゥラ・ラーセンの女友達がムンクに、トゥラが自殺を図っていると言ってトゥラと会うことを求め、ムンクはそれに応じた。この時、トゥラとムンクとの間でどのようなやり取りがあったのか詳しいことは明らかではないが、小競り合いのうちにピストルが発射され、ムンクは左手中指の第2関節を撃ち砕くけがを負うという事件が起こった。この時の中指に弾丸が刺さった様子を写したレントゲン写真が残っている。この事件で2人の関係は破局し、ムンクは1909年になっても友人のヤッペ・ニルセンに手の痛みを訴えつつ、「彼女の卑劣な行為が僕の人生を滅茶苦茶にしたんだ。」と罵っている。

1903年1月ベルリンで個展を開き、同年4月にはパリのアンデパンダン展に何点かの新作を出品し好評を得た。ムンクはこの年、イギリスの女流ヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチ (Eva Mudocci) を知り、彼女を愛するようになった。彼女をモデルに『ブローチをつけた婦人』といった優れたリトグラフ作品を残している。他方でこの頃、酒に酔って人とけんか騒ぎをすることが度々あり、ムンク自身も自分の精神状態に不安を覚えるようになっていた。

ムンクはリンデの依頼に応じた制作を再開し、1903年にエッチング集『リンデ博士の家庭から』を完成させ、同じ年に次いで油絵『リンデ博士の4人の息子』を制作した。これらの一連の作品は「リンデ・フリーズ」と呼ばれ1904年末に全作品が完成した。もっともリンデは子供部屋にはふさわしくないと考えたためか、その引取りを拒否したが、2人の交友関係はその後も続いた。

1904年にはベルリン分離派の正会員となった。同年9月にはコペンハーゲンのデンマーク分離派展で全作品の回顧展示を行い成功を収めた。同じ年、ハンブルクのコメーター画廊(ドイツ語版)が油彩画の独占販売契約を結び、ベルリンのブルーノ・カッシーラー画廊が版画の独占販売契約を結んだ。カッシーラーがベルリンで開いた肖像画の個展が成功すると肖像画の注文が殺到した。ハリー・ケスラー(英語版)伯爵の招きに応じてヴァイマルに赴き、ケスラーの肖像画を描いたり、銀行家エルネスト・ティール(英語版)の依頼により故フリードリヒ・ニーチェの肖像画を描いたりした。

『地獄の自画像』1903年。油彩、キャンバス、82 × 66 cm。ムンク美術館[118]。
『地獄の自画像』1903年。油彩、キャンバス、82 × 66 cm。ムンク美術館。

『リンデ博士の4人の息子』1903年。油彩、キャンバス、144 × 199.5 cm。ベーンハウス(英語版)(リューベック)。
『リンデ博士の4人の息子』1903年。油彩、キャンバス、144 × 199.5 cm。ベーンハウス(英語版)(リューベック)。

『オースゴールストランの4人の少女』1903年。油彩、キャンバス、87 × 111 cm。ムンク美術館[119]。
『オースゴールストランの4人の少女』1903年。油彩、キャンバス、87 × 111 cm。ムンク美術館。

『青いエプロンの2人の少女』1904-05年。油彩、キャンバス、115.5 × 93 cm。ムンク美術館[120]。
『青いエプロンの2人の少女』1904-05年。油彩、キャンバス、115.5 × 93 cm。ムンク美術館。

『フリードリヒ・ニーチェの肖像』1906年。油彩、キャンバス、201 × 160 cm。ティール・ギャラリー(英語版)
『フリードリヒ・ニーチェの肖像』1906年。油彩、キャンバス、201 × 160 cm。ティール・ギャラリー(英語版)

1907年、ヴァーネミュンデの海岸で『水浴する男たち』を描くムンク(43歳)。
1907年、ヴァーネミュンデの海岸で『水浴する男たち』を描くムンク(43歳)。

1905年2月から3月にかけて、プラハのマーネス芸術協会(英語版)で油彩画75点、版画50点の個展が開かれ、若い芸術家たちに熱狂的に支持された。ムンクは1900年代以降の個展の成功の中でも、この個展について「まるで王侯のようなもてなしを受けた」と、美しい想い出として何度も回想している。

1906年ベルリンの演出家マックス・ラインハルトの依頼で、ヘンリック・イプセンの『幽霊(英語版)』と『ヘッダ・ガーブレル』の舞台装置の下絵を描いた。1907年には室内劇場の休憩所の装飾を依頼され「ラインハルト・フリーズ」を完成させていった。ただし、この劇場は実際にはほとんど使われず、ムンクの作品は散逸してしまった。この1907年と翌1908年の夏には避暑先をオースゴールストランからドイツ北部の保養地ヴァーネミュンデに変えつつ、「水浴トリプティーク(三幅対)」と「マラーの死」の油絵シリーズを手がけた。「マラーの死」はジャック=ルイ・ダヴィッドの『マラーの死』と同じ主題であるが、トゥラ・ラーセンを殺人犯シャルロット・コルデーに、ムンク自身をジャン=ポール・マラーに見立て、銃撃事件を描いた作品となっている。「水浴トリプティーク」はヴァーネミュンデのヌーディストビーチにキャンバスを立てて制作した作品であるが、フィンランドの美術館が購入した際には新聞で騒ぎとなった。

1902年以降、画業の成功とは裏腹にムンクに精神的危機が深まっていった。若い時から生への不安は続いていたが、トゥラとの恋愛事件で受けた打撃などを機に、妄想を伴う不安が高まり続けた。その結果アルコールにのめり込んでいった。1905年には画家仲間とのつかみ合いのけんかを起こすなど暴力性も現れた。ベルリンで「街に出られない」という対人恐怖症の発作に度々襲われたりもした。1908年にはその症状が頂点に達した。

『ワインのある自画像』1906年。油彩、キャンバス、110.5 × 120.5 cm。ムンク美術館[128]。
『ワインのある自画像』1906年。油彩、キャンバス、110.5 × 120.5 cm。ムンク美術館。

「幽霊」の舞台デザイン。1906年。
「幽霊」の舞台デザイン。1906年。

『メランコリー』(ラインハルト・フリーズ)1906-07年。テンペラ、キャンバス、90 × 160 cm。ベルリン美術館(新ナショナルギャラリー)。
『メランコリー』(ラインハルト・フリーズ)1906-07年。テンペラ、キャンバス、90 × 160 cm。ベルリン美術館(新ナショナルギャラリー)。

『水浴する男たち』1907年。油彩、キャンバス、206 × 227 cm。アテネウム美術館(ヘルシンキ)。三幅対(トリプティーク)の中央部分。
『水浴する男たち』1907年。油彩、キャンバス、206 × 227 cm。アテネウム美術館(ヘルシンキ)。三幅対(トリプティーク)の中央部分。

『マラーの死』1907年。油彩、キャンバス、153 × 149 cm。ムンク美術館[129]。
『マラーの死』1907年。油彩、キャンバス、153 × 149 cm。ムンク美術館。

『アモルとプシュケー』1907年。油彩、キャンバス、119.5 × 99 cm。ムンク美術館[130]。
『アモルとプシュケー』1907年。油彩、キャンバス、119.5 × 99 cm。ムンク美術館。

1909年、ヤッペ・ニルセンの肖像画(左)と、作品の隣に立つムンク(右、当時45歳)。
ムンクは1908年10月、アルコール依存症を治すためコペンハーゲンのダニエル・ヤーコブソン教授の精神病院に自発的に入院した。ヤーコブソンはアルコール中毒による麻痺性痴呆と診断した。8か月の入院中、国立美術館(英語版)(現オスロ国立美術館)の館長であり旧友でもあるイェンス・ティースや、ヤッペ・ニルセンがムンクを見舞って彼を精神的に支えた。 同年秋にはノルウェー王国政府から聖オーラヴ勲章騎士章を与えられた。1909年春には、イェンゥ・ティースとヤッペ・ニルセンが協力して、ブロムクヴィスト画廊で油絵100点、版画200点の大ムンク展を開いた。ノルウェー国立美術館が油絵5点を買い上げ、ベルゲンの著名なコレクターであるラスムス・メイエルがムンクの作品を多量に購入したことで、ムンクに対するノルウェーでの評価は決定的になった。ただ、かつての師クリスチャン・クローグはムンクを誹謗する論陣を張ったが、今や世代交代を印象づけるだけであった。 同じ1909年には精神療法も兼ねて、詩文集『アルファとオメガ』を執筆した。これは妻のオメガに籠絡される夫アルファの寓話であり、女性たちに傷つけられた自らを浄化する意味があったと言われる。ムンクは「この連作を描いていると、奇妙に心が安らぐのを覚えた。まるであらゆる苦痛が身体から抜け出していくような気がする。」と書いている。同年、ムンクは健康と精神的落ち着きを取り戻して退院した。もっともそれと引換えのように、ムンクの作品は初期の緊張感を失い、生気のないものに変わっていったとも指摘されている。

Edvard Munch


エドヴァルド=ムンクと同じ誕生日12月12日生まれの人

加茂 正五(かも しょうご)
1916年12月12日生まれの有名人 静岡出身

加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 1977年9月14日)は、静岡県浜松市出身のサッカー選手。ポジションはFW(左ウイング)。 静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校…

小島 宏美(こじま ひろみ)
1977年12月12日生まれの有名人 福岡出身

小島 宏美(こじま ひろみ、1977年12月12日 - )は福岡県直方市出身の元サッカー選手である。ポジションはFW、MF(トップ下、ボランチ)。 高校時代は東福岡高校で山下芳輝とのコンビで活躍し、…

広瀬 伸一(ひろせ しんいち)
1957年12月12日生まれの有名人 神奈川出身

広瀬 伸一(ひろせ しんいち、1957年12月12日 - 2007年9月26日)は、元アナウンサー。ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)アナウンサーを経て、フリーアナウンサーとして中央競馬の実況を中…

大木 優紀(おおき ゆうき)
1980年12月12日生まれの有名人 東京出身

大木 優紀(おおき ゆうき、1980年12月12日 - )は、テレビ朝日元アナウンサー。身長158cm、射手座。お笑いタレントのビビる大木とは、再従兄にあたる。(父親同士が従兄弟同士である) 東京都…

山根 千佳(やまね ちか)
1995年12月12日生まれの有名人 鳥取出身

ホリプロ公式プロフィール 山根 千佳(やまね ちか、1995年12月12日 - )は、日本の女性タレント。ホリプロ所属。鳥取県米子市出身。 鳥取県立米子高等学校在学中の2012年に「37thホリプ…

美山 加恋(みやま かれん)
1996年12月12日生まれの有名人 東京出身

美山 加恋(みやま かれん、1996年(平成8年)12月12日 - )は、日本の女優、声優。東京都東村山市出身。ホリプロ所属。 2002年に行われた舞台『てるてる坊主の照子さん』で、子役としてデビュ…

平 愛梨(たいら あいり)
1984年12月12日生まれの有名人 兵庫出身

平 愛梨(たいら あいり、1984年12月12日 - )は、日本のタレント、女優。本名は長友 愛梨(ながとも あいり、旧姓:平)。兵庫県神戸市生まれ、兵庫県明石市出身。ライジングプロダクション所属。愛…

伽代子(かよこ)
12月12日生まれの有名人 神奈川出身

伽代子(かよこ、12月12日 - )は、日本の女優、タレント。本名、坂井 香代子(さかい かよこ)。佐藤企画所属。 神奈川県出身。血液型はO型。 欽ちゃん劇団2期生。 1999年、日本テレビのバ…

鹿沼 亜美(かぬま あみ)
1999年12月12日生まれの有名人 埼玉出身

鹿沼 亜美(かぬま あみ、1999年〈平成11年〉12月12日 - )は、日本の女性タレント。ボーカル&ダンスユニットOnePixcelの元メンバー。 埼玉県出身。 歌って踊れるアーティストに憧れ…

片瀬 まひろ(かたせ まひろ)
1978年12月12日生まれの有名人 東京出身

片瀬 まひろ(かたせ まひろ、1978年12月12日 - )は、日本の女優、タレントである。東京都出身で、スターヒルに所属している。 2003年-2004年TOYOTA TEAM CERUMO・au…

小野 あつこ(おの あつこ)
1991年12月12日生まれの有名人 東京出身

小野 あつこ(おの あつこ、1991年〈平成3年〉12月12日 - )は、日本の歌手、タレント。NHKの番組『おかあさんといっしょ』にて、第21代目うたのおねえさんを務めた。 東京都出身(出身は東京…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


エドヴァルド=ムンクと近い名前の人

エドワルド=エリクセン(Edvard Eriksen)
1876年3月10日生まれの有名人 出身

3月10日生まれwiki情報なし(2024/09/29 00:33時点)

レオナルト=カルレソン(Lennart Axel Edvard Carleson)
1928年3月18日生まれの有名人 出身

3月18日生まれwiki情報なし(2024/10/06 12:41時点)

ヘドバ(Hedva)
1944年3月24日生まれの有名人 出身

3月24日生まれwiki情報なし(2024/09/23 06:35時点)

エドバルド=モーセル(Edvard Moser)
1962年4月27日生まれの有名人 出身

エドバルド・インギャルド・モーセル(諾: Edvard Ingjald Moser、1962年4月27日 -)はノルウェーの心理学者、神経科学者であり、トロンハイムのノルウェー科学技術大学 (…

ジョナサン=エドワーズ_(神学者)(Jonathan Edwards)
1703年10月5日生まれの有名人 出身

ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards、1703年10月5日 - 1758年3月22日)は、アメリカを代表する会衆派の神学者、牧師、アメリカ先住民(インディアン)への宣教師であった。…

ジョナサン=エドワーズ_(陸上選手)(Jonathan Edwards)
1966年5月10日生まれの有名人 出身

ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards, 1966年5月10日 - )は、イギリス・ウィンザー出身の元陸上競技選手。2000年シドニーオリンピック男子三段跳の金メダリストで、現在の世…

エド・はるみ(えど・はるみ)
5月14日生まれの有名人 千葉出身

エド・はるみ(1964年〈昭和39年〉5月14日 - )は、日本の女性タレントで、女優、お笑い芸人、YouTuber、研究者である。 東京都出身。吉本興業東京本社(東京吉本)所属。41歳でお笑い養成…

上原エドウィン(うえはら えどうぃん)
1969年7月21日生まれの有名人 沖縄出身

上原 エドウィン(うえはら えどうぃん、Edwin Uehara、1969年7月21日 - )は、ペルー・リマ市出身の元サッカー選手。ポジションはMF(攻撃的MF)。帰化以前の氏名はエドウィン・アレハ…

ジョン=エドガー=フーバー(John Edgar Hoover)
1895年1月1日生まれの有名人 出身

ジョン・エドガー・フーヴァー(英語: John Edgar Hoover, 1895年1月1日 - 1972年5月2日)は、アメリカ合衆国の政治家。 ジョン・エドガー・フーバー、J・エドガー…

エドガー=マルチネス(Edgar Martinez)
1963年1月2日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート エドガー・マルティネス(Edgar Martínez, 1963年1月2日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市出身(…

エドワード=ティチナー(Edward Titchner)
1867年1月11日生まれの有名人 出身

1月11日生まれwiki情報なし(2024/09/26 11:35時点)

エドワード=マーフィー(Edward Aloysius Murphy,Jr.)
1918年1月11日生まれの有名人 出身

1月11日生まれwiki情報なし(2024/10/06 16:55時点)

エドマンド=バーク(Edmund Burke)
1729年1月12日生まれの有名人 出身

エドマンド・バーク(英: Edmund Burke、1729年1月12日 - 1797年7月9日)は、アイルランド王国生まれのイギリスの政治思想家、哲学者、政治家。「保守思想の父」として知られ…

エドワード=テラー(Edward Teller)
1908年1月15日生まれの有名人 出身

エドワード・テラー(Edward Teller、 もとのハンガリー名ではテッレル・エデ(Teller Ede)、 1908年1月15日 - 2003年9月9日)は、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡…

エドゥアール=ド=ラブライエ(Edouard Rene de Laboulaye)
1811年1月18日生まれの有名人 出身

1月18日生まれwiki情報なし(2024/09/26 13:03時点)

エドモンド=バートン(Edmund Barton)
1849年1月18日生まれの有名人 出身

サー・エドモンド・バートン(Sir Edmund Barton、1849年1月18日 – 1920年1月7日)は、オーストラリアの政治家、裁判官、王室顧問弁護士(en:QC)、である。初代のオーストラ…

エドガー=アラン=ポー(Edgar Allan Poe)
1809年1月19日生まれの有名人 出身

エドガー・アラン・ポー(英語: Edgar Allan Poe, 1809年1月19日 - 1849年10月7日)は、アメリカ合衆国の小説家、詩人、評論家。 マサチューセッツ州ボストンに生ま…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
エドヴァルド=ムンク
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人 暇空茜 りんごちゃん_(ものまねタレント)

グループ

純烈 Rev.from DVL HKT48 CheekyParade DA PUMP SMAP PASSPO☆ 私立恵比寿中学 AKB48G 夢みるアドレセンス 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「エドヴァルド=ムンク」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました