グリエルモ=マルコーニの情報(GuglielmoMarconi) 技術者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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グリエルモ=マルコーニの情報まとめ
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グリエルモ=マルコーニ(Guglielmo Marconi)さんの誕生日は1874年4月25日です。
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無線電信の開発、無線電話の開発などについてまとめました。再婚、父親、母親、姉妹、結婚、現在に関する情報もありますね。
グリエルモ=マルコーニのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)初代マルコーニ侯爵グリエルモ・ジョバンニ・マリア・マルコーニ(Guglielmo Giovanni Maria Marconi, 1º Marchese di Marconi、1874年4月25日 - 1937年7月20日)は、無線電信の開発で知られるイタリアの発明家、起業家。ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ会員。 1909年、無線通信の発展に貢献したとして、ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞した。 1916年より短波開拓に着手し、日中でも遠距離通信が可能な「昼間波」を発見。1924年、英国郵政庁より短波公衆回線の建設を請負い、「昼間波」と「ビームアンテナ」の二刀流で短波黄金時代を切り拓いた。1933年には世界初のUHF実用回線を完成させたほか、UHF波が曲がることを発見している。実業家としても戦間期の国際政治を左右するほど成功した。 1897年にマルコーニ無線電信会社(英語版)を創立した。イギリスのマルコーニ社は一世紀以上もの間ゼネラル・エレクトリック・カンパニーとして知られていたが、1968年にはイングリッシュ・エレクトリック他多数の電機会社と合併して、1999年に防衛機器部門をBAEシステムズに売却し、残った事業がマルコーニ株式会社という名前で存続している。 1919年、アメリカン・マルコーニ社がゼネラル・エレクトリック、AT&T、ウェスティングハウスに買収されてRCAとなった。 1928年3月16日、ジョン・ペンダーと政府受注を争った末に、帝国代表者会議の立会いで、ペンダー側イースタン電信会社とマルコーニ無線電信会社間で保有比率56.25対43.75とする持ち株会社をつくることで合意した。代表者会議による審議は続き、7月6日に勧告として報告書が出された。内容は、ペンダーとマルコーニの各事業だけでなく、郵政省の短波システムに太平洋/大西洋ケーブルを一挙に合併させる構想であった。8月に議会で承認されてから、構想は自治領で次々と追認された。1929年4月8日、合併会社はケーブル・アンド・ワイヤレス、通信会社は帝国国際通信Imperial and International Communicationsという名前で発足した。これらは世界的な通信網として、P&Oや帝国航空会社(現・ブリティッシュエアウェイズ)などで利用された。 ジュゼッペ・マルコーニ(Giuseppe Marconi)と、アニー・ジェームソン(Annie Jameson)の次男として、1874年4月25日にボローニャで誕生。フルネームはグリエルモ・ジョヴァンニ・マリア・マルコーニ(Guglielmo Giovanni Maria Marconi)。父ジュゼッペはイタリアのポッレッタ・テルメ出身のボローニャの裕福な地主。母アニーはアイルランド人で ジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー (Jameson Whiskey distillery) の創業者の曾孫。 グリエルモにはアルフォンソ(Alfonso)という兄がいる。(なお、ジュゼッペにとってアニーは再婚相手で、グリエルモは、父親から見て3人の男の子の一番下の子で、母親から見ても末っ子である。グリエルモの立場からすると、ルイージ(Luigi)という母親違いの兄もいたようである。) グリエルモが2歳から6歳の間は、兄アルフォンソや母アニーとともにイングランドのベッドフォードで暮らした。 マルコーニはとても裕福な家庭の生まれであり、一般人のように学校にはほとんど通わなかったが、両親が家庭教師を何人も雇ってくれたおかげで、数学や物理、化学などをマンツーマンで学ぶことができた。また、マルコーニ母子には、秋や冬に母アニーの姉妹の住むリヴォルノ(トスカーナの町)に毎年のように滞在していた時期があったが、この地でアニーは、愛しい末っ子のグリエルモのために、ヴィンツェンツォ・ローザ(Vincenzo Rosa)という、現地のリチェオ・ニッコリーニ(Liceo Niccolini。「ニッコリーニ高校」)で物理と数学を教えている男性教師を雇うことを決めた。マルコーニは後年、このローザとの出会いが重要だった、と振り返っている。ローザは、1848年にトリノで生まれ、トリノ王立大学で物理と数学の学位を得た後、イタリア各地の高校やフィレンツェの物理学校などで教えていたが、ヘルツ波に興味があり、科学論文を執筆し、実験装置を所持していた。マルコーニは、17歳の頃、1891年の秋からほぼ1年間、ローザから基本的な物理学や電気工学の理論と応用について個人授業を受けた。したがって、マルコーニは、電気に関する新しい理論をローザから教わり、さらに彼が自宅の研究室に招いてくれたおかげで、様々な実験を行うことができた(なお、この指導期間の後、別々の道を進むことになった後も、マルコーニとローザの間に育まれた互いへの信頼感や尊敬の念は続いくこととなる。マルコーニはたびたび彼のもとを訪ね、人前でもことあるごとにローザの恩について語った。ローザは結婚し子供も3人得たが、惜しいことに弟子のマルコーニがノーベル賞を受賞するところは見ることができず、受賞の前年の1908年に亡くなった。マルコーニは受賞スピーチでも、独学であった自身の学びにローザが実際に直接的に貢献してくれたことを述べた)。 マルコーニは18歳でボローニャに戻ると、ボローニャ大学のアウグスト・リーギ教授と交流を始めた。リーギも重要な役割を果たす人物で、ハインリッヒ・ヘルツについて研究をしていた。彼は自分の講座にマルコーニが参加することを許し、さらに大学の研究室や図書館を使用する許可まで与えた。 マルコーニは、その後フィレンツェのイスティトゥート・カヴァッレーロ(Istituto Cavallero。「カヴァッレーロ高等専門学校」)でも学んだ。 無線電信の開発若いころからマルコーニは科学、特に電気に興味を持っていた。1888年、ハインリヒ・ヘルツが電磁波を発しかつ検出できることを示し、そこからこの時代の科学技術の発展が始まった。今では一般に「電波」と呼ぶが、当時は「ヘルツ波」や「エーテル波」という呼称が一般的だった。ヘルツが1894年に亡くなると、彼のそれまでの発見を再検討する書籍等が出版され、マルコーニの興味をかきたてた。ボローニャ大学の物理学者でマルコーニ家の隣人でもあったアウグスト・リーギはヘルツの成果に基づいた研究をしており、マルコーニは彼の下で学ぶことを許された。リーギは The Electrician 誌を購読しており、1894年の同誌にオリバー・ロッジが無線電信の公開実験に使った装置の詳細が掲載された。 初期の実験(イタリア)マルコーニは自宅の屋根裏で装置を自前で作り、実験を開始した。彼の目標は電波を使った「無線電信」の実用的システムを完成させることだった。すなわち電線を使わずに電信のメッセージを遠隔地に伝送することを目標とした。これは何も目新しいアイデアではない。多くの人々が無線電信技術を実現しようと探究してきたが、商業的成功に至った者は1人もいなかった。マルコーニは無線電信システムの開発において新しい革新的原理を発見したわけではなく、個々の部品を改良してそれらを組み合わせてシステムを構築しただけである。 マルコーニのシステムには次のような構成要素があった。 比較的単純な発振器または火花送信機。リーギの設計したものを手本にしており、つまりはヘルツのものに似ている。 地面に対して高いところに設置した電線(アンテナ)。 コヒーラ検波器。エドアール・ブランリーの考案した本来のコヒーラを改良し、感度と信頼性を向上させたもの。 電鍵。これを使って短いパルスと長いパルスを送信機が発信できるようにし、それによってモールス符号を構成する。 電信自動記録器。コヒーラによって起動され、モールス符号をドットとダッシュでロール状の紙テープに記録する機械。 同じような火花送信機とコヒーラ検波器の組み合わせは他の者も試していたが、数百メートル以上の距離で伝送できた者はいなかった。 当初、マルコーニも限られた距離でしか信号を送れなかった。1895年夏、彼は実験の場を屋外に移した。送信機と受信機のアンテナを長くし、それらを垂直に配置して、一端を接地させると通信距離が大幅に延びた。間もなく彼は丘を越えての信号伝達に成功した。距離は約1.5キロメートルになっていた。マルコーニの当時所有していた装置はタフツ大学の A. E. Dolbear が1882年に製作したものと酷似していた。Dolbear の装置は火花送信機と鉱石検波器を使ったものだった。この時点でマルコーニはさらに資金をかけて研究を続ければさらに距離を延ばすことができ、商業的にも軍事的にも価値のあるものになると判断した。マルコーニは世界初のアマチュア無線家とも言える。 初期の実験(イギリス)イタリアでは彼の成果に興味を持つ者は少なかった。そこで1896年、21歳のマルコーニは母親と共にロンドンに赴き、支援者を探した。マルコーニはイタリア語だけでなく英語も流暢に話した。郵政庁GPOの主任電気技師ウィリアム・プリース(William Preece)がマルコーニに興味を持ち支援を約束した。 渡英直後よりマルコーニはヘルツのように、非接地型のパラボラ反射鏡アンテナを試しはじめた。1896年7月27日、郵政庁GPOと貯蓄銀行の屋上間でデモンストレーションを行った。マルコーニ出版社の『無線電信電話年鑑(1922年版)』には7月27日のデモンストレーションがパラボラ反射鏡が付いた送信機と受信機で行われたことが記されている。デモンストレーションが行われた郵政庁GPO跡地には現在BTグループ本社ビル (en) が建っており、その外壁には、以下のようにマルコーニが初めて無線通信の公開実験を行った場所を示す記念銘板がある。 “From this site GUGLIELMO MARCONI made the first public transmission of wireless signals on 27 July 1896” 1896年9月2日にはソールズベリー平原でも、パラボラ反射鏡付き送・受信機のデモンストレーションを行ったが、英国協会(The British Association for the Advancement of Science)の9月22日のミーティングでプリースがそれについて触れた。すると翌日のタイムス紙がパラボラ反射鏡を使う無線実験家マルコーニのことを記事にしたのである。ロシアのポポフはこの新聞を読んでマルコーニが自分と同じような実験をしていることを知ったという。また英国の雑誌The Electrician(9月25日号)やNature(10月8日号)もマルコーニのパラボラ反射鏡実験を掲載し、全英にマルコーニの名が知られるところとなった。 さらに10月にはアメリカの科学雑誌でもマルコーニを「パラボラ反射鏡の無線実験家」として伝えた。こうしてマルコーニの名がアメリカにまで知られるようになると、プリースは1896年12月11日にToynbee Hallで"Telegraphy without Wires"と題した講演をおこない、あらためて実験家マルコーニを紹介した。 この頃マルコーニが実験に使用していた電波は波長30センチメートル(周波数1GHz)だったと、ロンドンの王立研究所で1932年12月2日に報告している。しかし1897年になるとパラボラ反射鏡よりもイタリア時代の接地型垂直アンテナを主に使うようになり、次第に到達距離を伸ばしていった。1897年3月、ソールズベリー平野で約6キロメートルの距離でモールス符号を伝送する実験に成功した。1897年5月13日、マルコーニは世界初の海を越えての無線通信に成功した。南ウェールズのラバーノック岬からブリストル海峡に浮かぶフラットホルム島までの約6キロメートルである。受信設備はすぐさま海峡の南岸に突き出た岬にあるブリーンダウン要塞 (en) に移設され、距離は16キロメートルに伸びた。このような公開実験に感銘を受けたプリースは1897年6月4日に王立研究所で"Signaling through Space without Wires"と題した講演を行った。 その後も公開実験を繰り返したマルコーニは国際的にもさらに注目されるようになっていった。1897年7月、イタリアに帰国してラ・スペツィアでイタリア政府向けの公開実験を行った。1898年7月6日には、ロイズのために北アイルランドのバリーキャッスルとラスリン島の間で実験を行った。1899年3月27日にはフランスのウィムルーとイングランドのサウスフォアランド灯台 (en) を結び、イギリス海峡を横断する実験を行った。1899年秋には、アメリカ合衆国で最初の公開実験を行い、ニューヨークで国際ヨットレースであるアメリカスカップのレポートを無線で伝えるというデモンストレーションを行った。 アメリカ合衆国へはニューヨーク・ヘラルド紙に招待されて行き、アメリカスカップの模様を無線で伝えることを依頼された。送信機はPonceという客船に設置された。アメリカからイングランドに戻るべく出発したのは1899年11月8日のことで、American LineのSt. Paulという船に乗った。船上で助手と共に通信機を設置し、11月15日に船がイギリスの海岸から66海里まで近づいたとき、マルコーニが作っておいた無線局との間で無線電信のやりとりに成功した。 Proceedings of the United States Naval Institute(アメリカ海軍協会紀要)によれば、アメリカ海軍はマルコーニのシステムを1899年ごろに調査し、「コヒーラ検波器の原理は約20年前に発見されているが、全く新しいといえる電気機器はそれしかなかった」と結論している。 海上公衆通信の商用化達成陸上には既に網の目のように電信線が張り巡らされ、またドーバー海峡や大西洋にも海底ケーブルが敷設されていたため、無線による遠距離通信ビジネスを軌道に乗せるには相当時間が掛かるだろうと予感していた。公衆通信サービスへの参入には船舶相手が近道だとマルコーニは考えるようになった。そして商用の恒久施設として、ドイツで海岸局と船舶局の開設を準備していた。 1900年2月にオランダとの国境にあるボルクム島灯台海岸局、ボルクム・リフ灯台船無線局、それに北ドイツ・ロイド汽船会社が誇る大西洋航路の大型客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号に船舶無線局を設置して無線電報の試験を始めた。 1900年4月25日にマルコーニは海上公衆通信の商用化を目的とする、マルコーニ国際海洋通信会社MIMCC(Marconi International Marine Communication Company)を分社させた。そしてこれらのテストを担当し、1900年5月15日より電報サービスの営業を開始した。5月15日から10月30日までの5箇月半で、565通の無線電報を取扱ったと、ロンドンのthe Society of Artsにおいてマルコーニが発表している。恒久施設による海上公衆通信のビジネス化はこうして19世紀最後の年に達成されたのである。 20世紀となり、1901年5月にビーバー・ライン社の客船レイク・チャンプレイン号、同年6月にキュナード・ライン社の大型客船ルカーニア号、9月にはその姉妹船カンパニア号にもマルコーニ局が置かれた。特にキュナード・ライン社は無線電信が乗客への電報サービスの提供だけでなく、船の安全航行や社内連絡にも大いに役立つことを知り、自社の船に続々とマルコーニ局を開設した。マルコーニ国際海洋通信会社MIMCCによって海上移動の公衆通信サービスは順調に発展していった。なお1924年にロンドンのRoyal Society of Artsで講演したマルコーニ氏は、1901年からのおよそ8年間、同社の海上公衆通信には波長120メートル(2.5MHz)を使っていたと語っているが、実際には1912年まで国際波長300メートル(1000kHz)の補助用として短波を使っていたようである。 大西洋横断無線通信世紀の変わり目ごろ、大西洋横断電信ケーブルに対抗すべく、マルコーニは大西洋を横断して無線で信号を伝える手段を研究し始めた。1901年、アイルランドのウェックスフォード県ロスレアに無線局を作り、コーンウォールのポルドゥーとアイルランドのゴールウェイ県クリフデンの無線局を中継する実験を開始した。1901年12月12日、凧で吊り上げた高さ152.4mのアンテナを受信用に使うことで、コーンウォールのポルドゥーから発信した信号をニューファンドランド島セントジョンズのシグナルヒルで受信することに成功したと発表。2地点の距離は約3500キロメートルである。科学技術の重大な進歩として報道されたが、受信できた信号が途切れ途切れだったこともあり、本当に成功と言えるのか疑問視する声もあった(今もある)。第三者が確認したわけではなく、単に S を表すモールス符号を繰り返し送ったということで、雑音と区別しにくかったのではないかとも言われている。ポルドゥーの送信設備は2段構成になっており、25キロワットの出力だった。1段目は低電圧で駆動して2段目にエネルギーを供給し、2段目で高電圧の火花を発生させていた。大西洋横断無線通信で競っていたニコラ・テスラは、マルコーニが成功したことを聞いて「マルコーニは私の特許を17個使っている」と述べたという。 懐疑主義者から疑問を呈されたと考えたマルコーニは、さらに体系的で文書も整えた実験を準備した。1902年2月、イギリスからアメリカに向かうPhiladelphiaという船に乗船したマルコーニは、ポルドゥーの無線局が発信する信号を毎日船上で受信して記録した。電信自動記録器では最大2496キロメートルまで、信号を音として耳で聞く形では最大3378キロメートルまで受信できた。受信は夜の方が容易だった。これは中波や長波が昼より夜の方が遠くまで届くことを初めて示した実験だった。日中は最大でも1125キロメートルまでしか受信できず、ニューファンドランドで受信したと主張した距離の半分にも満たなかった。ニューファンドランドでの受信は日中も可能だったと主張していた。以上により、電波は見通せる範囲にしか届かないという一部の科学者の主張は否定されたものの、ニューファンドランドで本当に受信に成功したのかについては完全に確認されたわけではない。 1902年12月17日、北米側からの初の大西洋横断無線通信に成功。発信地はカナダのノバスコシア州東端のグレスベイである。1903年1月18日、マサチューセッツ州サウス・ウェルフリート(ケープ・コッド)の無線局(1901年建設)にてセオドア・ルーズベルト大統領からイギリス国王エドワード7世へのメッセージを発信。これがアメリカ合衆国から発信した初の大西洋横断無線通信となった。しかし、安定した通信はまだ難しかった。なお、この無線局はタイタニック号の遭難信号をいち早く受信した無線局の1つでもある。 マルコーニは高出力の無線局を大西洋の両岸に建設し始めた。海上を航行する船舶との通信を可能にするためである。当時、他の発明家も同様の事業を始めようとして競っていた。1904年、夜間に船舶に向けてニュースを送信し、船上で発行する新聞にその情報を取り入れるという有料サービスを開始した。大西洋を横断する無線電信サービスが確立されたのは1907年10月17日のことで、アイルランドのクリフデンとカナダのグレスベイを結んだ。しかし、通信品質は安定せず、その後もマルコーニ社は改良に苦闘した。 無線電話の開発無線電話やラジオ放送には連続波の発振が必要だが、三極管による増幅・発振作用が知られるようになったのは1912年だった。マルコーニ社でもH・J・ラウンド(英語版)技師を中心に早くより研究していたが、三極管による連続波の発振と無線電話の研究に本格的に着手したのは1913年だった。 真空管式無線電話に着手1914年3月にイタリア海軍の軍艦レジーナ・エレナに真空管式無線電話装置を仮設し、受信機を置いた別の艦船で受信試験が行われた。最終的には軍艦レジーナ・エレナとナポリの受信所間で最長距離45マイルを記録した。 1919年3月にはアイルランドのバリーバニオン海岸局より長波の無線電話を送信し、それを大西洋越しにカナダのルイスバーグ(ノバスコシア州)で受信することができた。すでに1915年にはアメリカ電話電信会社AT&Tがアーリントンの海軍無線局を借りて、大西洋を東向き(アメリカ→フランス)に無線電話で横断していたが、大西洋を西向き(アイルランド→カナダ)に越えたのはこれが最初である。 なおマルコーニ社では別のグループが短波帯まで使える真空管の開発に注力していた。こちらのグループは1919年に波長15メートル(20MHz)入力200Wの真空管式短波無線電話送信機を完成させ、カーナボンから送信し、北西へ32キロメートル離れたホーリーヘッドにおいて、その変調音を明瞭に受話することに成功している。 ラジオ放送の開始と中止1920年1月15日、マルコーニ社は郵政庁GPOの許可を受けてチェルムスフォードで真空管式6キロワット送信機による英国初の娯楽ラジオ放送の試験を開始した。そして電力15キロワットの新型送信機が完成すると、2月22日から3月6日まで11:00-11:30と20:00-20:30の定時放送を行ったあと、不定期放送に戻った。 1920年6月15日は欧州大陸のリスナーに向けて三箇国語(英語・フランス語・イタリア語)で、オーストラリア出身のオペラ歌手ネリー・メルバ夫人の音楽番組が放送された。これは世界初の国際放送であり、また世界初の音楽ライブ放送だった。この英国チェルムスフォードからのラジオ放送は北欧諸国まで届いていたが、8月2日の番組は大西洋を越えてカナダでも受信されている。欧州では大変注目されたラジオ放送だったが、まもなく英国空軍の無線システムへ混信を与えることが問題となり、1920年秋に中止となった。 ラジオ放送ができなくなったチェルムスフォード研究所のラウンド技師ら無線電話の開発グループは、波長100メートル(3MHz)の2波を使う同時通話式の無線電話の研究をはじめた。そして1921年5月11日、英国のサウスウォールドとオランダのザンドヴォールト間の海上200キロメートルを3MHzの短波で結ぶ北海横断試験を成功させている。この短波帯同時送話テストの成功は日本の新聞も伝えた。 なお前述した波長15メートル(20MHz)の別グループの無線電話は、1920年6月にカーナボンからアイリッシュ海を130キロメートル隔てたアイルランドのキングスタウン港で受信されている。これに自信を得て1921年8月、ロンドン郊外のヘンドンとバーミンガムに20MHzのパラボラ・ビーム・アンテナ局をお互い向き合うように建設し、20MHzの2波を使った同時通話試験(距離156キロメートル)を開始した。 北海横断国際無線電話回線(3MHz)も、ヘンドン・バーミンガム無線電話回線(20MHz)も、同時通話方式だった。これはいまさら陸上の電信回線に新規参入しても勝ち目がないため、有線電話の公衆網へ接続する無線中継回線を目指していたからである。 ラジオ放送の再開と移管英国のラジオ放送中止と入れ替わるように、アメリカではウェスティングハウス電気製造会社のフランク・コンラッドらが世界初となる商業ラジオ放送KDKAを開局したのは1920年11月2日である。1921年秋になると、アメリカでは商業ラジオ放送局が相次いで誕生し、その評判が英国にも届くと、ラジオ放送再開を求める声が高まった。再開陳情が何度も繰り返された結果、郵政庁GPOは軍用無線への混信を防ぐために電力を250Wに制限したうえで、マルコーニ科学機器社MSIC(Marconi Scientific Instrument Company, Ltd.)に放送許可を与えた。1922年2月14日より定期放送(毎週火曜日19:35-19:55)を始めた。その送信所はチェルムスフォード郊外のライトルにあり、波長700メートル(430kHz)で呼出符号は2MTである。 またマルコーニ科学機器社MSICは第二局を首都ロンドンのマルコーニ・ハウス7階に建設した。そして1922年5月11日より呼出符号2LOで毎週火曜日と木曜日に30分間の放送をはじめた。しかしロンドン2LOは郵政庁GPOが音頭を取り、マルコーニ社やメトロポリタン・ヴィッカーズ社など電気会社6社が共同出資して1922年10月18日に誕生させた英国放送会社BBCに移管され、同年11月14日よりBBC系の中央局として放送をはじめた。なお独立系としてマルコーニ科学機器社MSICに残ったライトル2MTは「英国のラジオ放送を再開させる」という役目を終えて、1923年1月17日をもって閉局した。この「英国放送会社」BBC(British Broadcasting Company)は、公共放送「英国放送協会」BBC(British Broadcasting Corporation)の前身となった会社である。 短波ラジオ放送の開発英国の主要都市に次々と中波放送局を建設し、それを中継線で結んでいた英国放送会社だったが、1局の長波による全国放送の実用性を調査するために、マルコーニがチェルムスフォードより送信試験(呼出符号5XX)を開始したのは1924年7月21日である。そして1924年12月28日より英国放送会社の番組によって試験放送がはじまった。この長波用放送機は1925年7月27日にダベントリーへ移設され、ここが英国放送会社として最初の長波放送の施設5XX(187.5KHz, 25キロワット)となった。 1927年、英国放送協会が創設され、正式に短波放送サービスを決定した。かつて長波放送機5XXが置かれていたマルコーニ社チェルムスフォード工場には、新たに20キロワット短波放送機が据え付けられた。これはマルコーニが郵政庁GPOから受注し、設計した短波ビームによる公衆通信用無線電信送信機に変調回路を追加したものだった。呼出符号は5SWで、英国放送協会への貸与という形をとり、1927年11月11日より周波数12.500MHzで試験放送をはじめている。 1929年2月11日、ローマ教皇はベニート・ムッソリーニ伊首相と和解し、バチカン市国の独立を認めるラテラノ条約が同年6月7日に双方で批准された。バチカン市国では全世界の信者にローマ教皇の声を直接届けるために短波放送を計画し、その建設をマルコーニ無線電信会社が請負った。 1931年2月11日の16時30分(バチカン時間)、バチカン放送HVJが開局。マルコーニがオープニングの簡単な挨拶をしたあと、教皇ピウス11世の声が、マルコーニの短波放送機(昼間波15.120MHz、夜間波5.970MHz、出力13-15キロワット)と平面型ビームアンテナで世界へ向けて送り出された。 2024/07/01 06:36更新
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Guglielmo Marconi
グリエルモ=マルコーニと同じ誕生日4月25日生まれの人
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