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シャルル=グノーの情報まとめ
シャルル=グノー(Charles Gounod)さんの誕生日は1818年6月17日です。
卒業、家族、現在、母親、結婚、病気、ドラマ、テレビに関する情報もありますね。1935年に亡くなられているようです。
シャルル=グノーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)シャルル・フランソワ・グノー(フランス語: Charles François Gounod、1818年6月17日 - 1893年10月18日)は、フランスの作曲家。カルチエ・ラタン出身。 ゲーテの『ファウスト』第1部に基づく同名のオペラで知られるほか、バチカンの実質的な国歌である『賛歌と教皇の行進曲』を作曲したことや、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻 前奏曲 第1番から伴奏を引用した声楽曲『アヴェ・マリア』(1859年)、『ヒッチコック劇場』で使用された『操り人形の葬送行進曲』(1872年)などを完成させたことでも知られている。「フランス近代歌曲の父」とも呼ばれ、美しい旋律、色彩感に満ちたハーモニーを伴った優雅でやさしい音楽は今日も広く愛されている。 パリの芸術と音楽に恵まれた家庭に生まれたグノーは、後にパリ音楽院に入学し、ローマ大賞を受賞する。卒業後彼は音楽研究のために2年間のローマ留学の後、ウィーン、ベルリン、ライプツィヒ等を経由して、イタリアでファニー・メンデルスゾーン、ドイツではフェリックス・メンデルスゾーンに会った。イタリアではパレストリーナやシスティーナ礼拝堂の古い宗教音楽に影響を与え、1843年にパリに戻った後、一時司祭になることを考えたため彼は、サントゥスタシュ教会の聖歌隊楽長兼教会オルガニストとなった。 1851年に最初のオペラ『サッフォー(英語版)』を作曲するが、『ファウスト』ほどの大成功をおさめることはできなかった。この作品は今日でも最も有名なグノー作品であるが、シェイクスピア原作のオペラ『ロメオとジュリエット』(1867年初演)もまだ録音・上演機会がある。この頃、教会音楽、歌曲、管弦楽曲、オペラなど多彩なジャンルの作品を書いていた。 グノーの音楽家としての生活は普仏戦争によって一時中断された。彼は1870年にプロイセン軍によるパリ進行から逃れるため家族とともにロンドンに移住した。戦後、家族はパリに戻ったが、グノーのみロンドンに残り、アマチュア歌手のジョージナ・ウェルドン(英語版)の家に住んでいた。3年後、彼は彼女の家を離れ、家族の元に戻った。彼がフランスに長期間不在だったことと、若手のフランスの作曲家の活躍もあり、彼がもはやフランス音楽界の代表者ではなくなっていた。グノーは他のビゼーを代表する多くの作曲家から尊敬され、慕われる人物ではあり続けたが、晩年には時代遅れと評され、今後『ファウスト』以上の成功を記録することはなく、彼の名は徐々に忘れ去られていった。彼はパリ近郊のサン=クルーの自宅で75歳の生涯を閉じた。 グノーの作品は現在は一般的に知られる作品はあまり残っているないが、後輩のフランスの作曲家のほとんどは彼に影響を与えた。彼が音楽に取り入れたロマンチックな雰囲気は、マスネなどのオペラに引き継がれる。また古典的な旋律と優雅さはフォーレに影響を与えたとされる。ドビュッシーは、グノーは「当時の本質的なフランスの感性を代表している」と書いた。 シャルル・グノーはフランソワ・ルイス・グノー(François Louis Gounod、1758年 - 1823年)とその妻ヴィクトワール Victoire、旧姓ルマショワ Lemachois(1780年 - 1858年)の次男としてパリのカルチエ・ラタンで生まれた。母はピアニスト・元ピアノ教師、父は画家・彫刻家・美術教師であった。長男ルイ・アーバン(1807年 - 1850年)は建築家として成功した。シャルルの誕生直後、父はシャルル・フェルディナン・ダルトワ男爵の宮廷画家に任命されていた。ため、シャルルの幼少期のグノー夫妻の住居はヴェルサイユ宮殿にあり、そこにアパートが割り振られた。1823年、5歳のときに父が没した時、グノーの母はまたピアノ教師を始める。父の死後は母の手によって育てられた。 グノーはパリの学校を転々とし、最後に通ったのはリセ・サン=ルイ(Lycée Saint-Louis)だった。ここに通ったことで、彼はラテン語とギリシャ語に優れた有能な学者になった。判事の娘として生まれ育った彼の母親は、グノーが弁護士になることを望んでいた。しかし、彼は芸術を好み、優れた絵画・音楽への知識を持っていた。こうして母親にピアノの手ほどきを受けて楽才を開花させる。グノーに音楽的影響を与えたのはイタリア座(Théâtre de la comédie italienne)で観た、ロッシーニの『オテロ』とモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』だった。1835年に『ドン・ジョヴァンニ』が上演されたとき、彼は後にこう回想している。 私はオペラの始まりから終わりまで、長い歓喜の中に座っていた。 同じ年の後半、彼はベートーヴェンの交響曲第6番『田園』と交響曲第9番『合唱付き』の演奏を聴き、私の音楽的熱意に火を付ける。 在学中、グノーはアントニーン・レイハ(ベートーヴェンの友人であり、同時代の人からは「当時生きていた中で最も偉大な教師」と評された)から個人的に対位法を学び、1836年にレイハが没した後、パリ音楽院に入学してオペラ作曲家フロマンタル・アレヴィに対位法とフーガを、アンリ・モンタン・ベルトン、ルシュール、フェルディナンド・パエールに作曲を師事した。ほとんどの教師はグノーの成績をあまり認めなかったが、音楽院在学中にエクトル・ベルリオーズに出会うと、彼は後に、ベルリオーズと彼の音楽が青春時代に最も大きな影響を与えたものの一つであると語った。 1838年にルシュールが没した後、彼の弟子達が協力して記念ミサ曲を作曲する。うち『アニュス・デイ』部の作曲はグノーに任せられた。この『アニュス・デイ』を、ベルリオーズは高く評価した。 1837年に初めてローマ大賞音楽部門に応募し、2位を得た。1839年にカンタータ『フェルディナン』(Ferdinand)でローマ大賞を受賞した。これが3回目の応募である。なお、父は1783年にローマ大賞絵画部門で2位を得ている。この賞により、グノーは補助金を受けてローマのヴィラ・メディチで2年、オーストリアとドイツで1年学ぶことができた。グノーにとって、これは彼の音楽生活の始まりであり、彼に印象を与え、それは晩年まで残ることとなった。音楽学者のティモシー・フリン(Timothy Flynn)の見解では、この賞は「おそらくグノーの人生の中で最も重要な出来事」であったという。 グノーはこの賞により、1840年からローマのヴィラ・メディチへ2年間留学した。当時ヴィラ・メディチ所長は画家のドミニク・アングルで、父のことをよく知っており、グノーにも優しく接した。 グノーがローマで出会った著名な人物の中には、オペラ歌手のポーリーヌ・ヴィアルドやメンデルスゾーンの妹のファニーもいた。ガルシア=ヴィアルドはグノーのその後において大きな助けとなり、ファニーを通して彼女の兄だけでなく、フェリックスを通しては長い間無視されていたJ.S.バッハの音楽も知った。またグノーはフェリックスによって「これまで聞いたことのないであろうドイツ音楽のさまざまな傑作」も紹介された。イタリア滞在中にグノーはジェラール・ド・ネルヴァルによってフランス語に翻訳されたゲーテの『ファウスト』を読み、その第一部をオペラ化にすることに興味を抱くようになる。それが20年の年月をかけて実現した。イタリア留学期間には、他にも沢山の曲が書かれた。 ローマでは、グノーはドミニコ会の説教者アンリ・ラコルデール(フランス語版)の影響で自分の作品に強い宗教音楽への共感が高まっていることに気づき、市内の教会にある絵画からインスピレーションを得た作品を制作した。 ローマの芸術に影響を受けなかったベルリオーズとは異なり、グノーはミケランジェロの作品に感銘を受けた。彼はまた、パレストリーナやシスティーナ礼拝堂の古い宗教音楽に興味を持った。 それに対して、彼と同世代(19世紀前半)のイタリア音楽は魅力を感じなかった。彼は、ドニゼッティ、ベルリーニ、メルカダンテらのオペラを厳しく批判し、これらの作曲家を「活力と威厳がなく、ロッシーニの偉大な幹に絡みついたつるのよう」だと評した。 ローマ賞の3年目はオーストリアとドイツで過ごすことになっており、グノーはウィーンで自作のミサ曲を上演した。ウィーン国立歌劇場で初めて『魔笛』を聴き、昔モーツァルトやベートーヴェンなどの音楽で栄えたこの街に住む喜びが現存する手紙に記されている。ウィーン音楽の指導者・後援者であるフェルディナント・フォン・シュトックハマー(Ferdinand von Stockhammer)伯爵は、グノーのレクイエムミサの舞台化した作品を上演した。初演は大成功で、その成功によりシュトックハマーは作曲家に2個目のミサ曲を要求した。 グノーはウィーンからプロイセンに移った。その後ファニーの兄フェリックス・メンデルスゾーンに会うためにライプツィヒへ向かった。最初出会った際にはメンデルスゾーンは「ああ、あなたが私の妹に話していた狂人ですね(Ah! c'est vous le fou dont ma soeur m'a parlé!)」と始まったが、グノーは4日間をメンデルスゾーンを楽しませるために使い、お互い高く評価するようになった。メンデルスゾーンはグノーに交響曲第3番を聴いてもらえるようライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の特別コンサートを企画し、聖トーマス教会のオルガンでバッハの作品を演奏した。グノーはそれに応えて自身の「怒りの日」を演奏し、メンデルスゾーンがルイジ・ケルビーニに値すると述べたときは満足したという。後のグノーの作品である交響曲第1番や聖セシリア荘厳ミサ曲、歌劇『ミレイユ』などにメンデルスゾーンの影響が見られる。 このような巨匠からのこのような言葉は真の名誉であり、多くのリボンよりも誇りを持って身につけるものである。 1843年5月にパリに戻り、母親の援助でパリ外国宣教会の学校 (fr:Séminaire des Missions étrangères de Paris) の楽長に就任し、宗教音楽の演奏のために合唱隊を訓練した。ローマ賞受賞者にとって、それは特別なことではなかった。教会のオルガンは古く、聖歌隊はテナーと聖歌隊少年の2人のバスで構成されていた。グノーが困難に思ったのは、教会音楽を改革しようとする彼の試みに対してほとんどの信徒が敵対的だったということである。 また、サントゥスタシュ教会の聖歌隊楽長兼教会オルガニストとなった。さらに音楽を離れて聖職に就くことを目指し、1847年からサン=シュルピス教会で神学を学んだが、翌年の1848年のフランス革命によって学業を中断した。 沢山の人から大切に扱われていたにもかかわらず、グノーは毅然とした態度を取り続けた。彼は徐々にキリスト信者を魅了していった。このなか、グノーの宗教への関心はますます強くなった。彼は幼なじみで司祭となっていたチャールズ・ゲイ(Charles Gay)と再会し、一時聖職者を志した。1847年に彼はサン=シュルピス教会で神学と哲学を学び始めたが、やがて自分の能力に疑問を抱いた彼は、叙階を求めず、音楽家としてのキャリアに戻ることを決意した。グノーは後にこう回想した。 私が海外で教会の音楽監督の職を辞めたとき、1848年革命が勃発したばかりでした。 4年半もこの仕事をして、そこから多くのことを学びましたが、将来のキャリアに関しては、何の展望もなく、青々とした状態になってしまいました。作曲家が名を上げることができる場所はただ1つだけです、それは劇場です。 音楽家に戻ったグノーは、1849年にパリで再開したポーリーヌ・ヴィアルドの支援によってオペラ作曲家の道に進んだ。当時、非常に名の知られていたヴィアルドは、彼のために長編オペラの依頼を確保した。この点でグノーは例外的に幸運だといえる。1840年代の初心者作曲家は、せいぜい一幕の幕上げを書くように頼まれるのが普通だった。1851年グノーと台本作家エミール・オージエは、古代ギリシャの伝説をもとに最初のオペラ『サッフォー(英語版)』を初演するが、いずれも成功しなかった。このためグノーはいったんオペラ作曲から遠ざかって交響曲を2曲作曲、1855年には『聖セシリア荘厳ミサ曲』を完成し、これらの作品によってグノーの名声は高まった。この曲は、1855年にサントゥスタシュ教会で行われた聖セシリアの日の祝典のために書かれたものである。この成功は、グノーが「オペラのスタイルと教会音楽を融合させること、つまり多くの同僚が試みては失敗した課題」に成功したことを示しているという。『サッフォー』は1851年4月16日にパリ・オペラ座で初演された。この作品はベルリオーズによっても批評された。彼はいくつかの箇所は「非常に美しい…演劇の最高レベル」だったが、他の部分は「恐ろしく、耐えられず、恐ろしい」と感じたという。この作品は不評で、観客を集めることができず、9回の公演にとどまった。だが、同年後半にロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスで一度公演され、この際ヴィアルドが表題役を務めた。今度は称賛も多かったが、『モーニング・ポスト(The Morning Post)』は「残念なことに、このオペラは非常に冷遇された」とも記録した。 1851年4月、グノーはまたグノーは音楽教師ピエール・ジメルマンの娘のアンナと結婚した。この結婚はヴィアルドとの関係の破綻につながった。アンナの両親は、理由は定かではないが、彼女との関わりを絶たせた。グノーの伝記作家スティーヴン・ヒュブナー(Steven Huebner)は、グノーとの人間関係に関する噂について言及しているが、「本当の話は依然から曖昧なままである」と付け加えている。グノーはパリの公立学校で歌唱の監督を任命され、1852年から1860年までパリの合唱団オルフェオン (fr:Orphéon) の指揮者に就任した。彼はまた、高齢で病気がちな義父の代理を頻繁に務め、個人の生徒に音楽の指導を行っていた。その中にいたジョルジュ・ビゼーはグノーの教育に共感。「彼の温かく父のような人」と称賛し、生涯の崇拝者であり続けた。 初演で不評だった『サッフォー』も上演期間の短さにも関わらず、この作品は徐々にグノーの人気を集めるようになってきた。やがてコメディ・フランセーズは彼に、オデュッセイアに基づいたフランソワ・ポンサール(François Ponsard)の悲劇『ユリス』(1852年)の付随音楽の作曲を依頼した。グノーはすぐに依頼通り作曲したが、ポンサールの劇は評判が悪かったこともあってか、中々売れなかった。 台本作家のウジェーヌ・スクリーブとジェルマン・ドラヴィーニュ(Germain Delavigne)はグノーのために『血に染まった修道女(英語版)』のテキストを書き直し、作品は1854年10月18日にオペラ座で公開された。批評家たちは台本の出来を嘲笑したが、音楽と演出は賞賛した。この初演中止はオペラ座の劇場経営者ネストル・ロクプラン(Nestor Roqueplan)が、敵対者のフランソワ=ルイ・クロニエ(François-Louis Crosnier)に経営権を渡したことから始まった。彼はこの『血に染まった修道女』を「汚物」と評し、11回目を機に強制的に公演を中止させた。 ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻第1曲の前奏曲に旋律をかぶせた『アヴェ・マリア』はあるいはジメルマンの影響によるものかもしれない。オペラの黄金期
ロンドン時代晩年『ポリュクト』が29回目の酷評を受けた後、興行会社はもう十分だと判断した。彼は決して生き返ることはなかった。
グノーの最後のオペラである『ザモラの貢ぎ物(英語版)』(1881年)は34夜にわたって上演され、1884年には『サッフォー』の改訂版を制作し、オペラ座で30回上演された。この改訂版においてウェルドンを欺騙的な悪役のグリセールという役のモデルとして仕立てた。このキャラクターについてグノーはこのように回想した。「私は悪魔のような醜さで、恐ろしいモデルを夢見ていました」そして1888年11月、グノーはオペラ座での500回目の公演を指揮した。
グノーは晩年をサン=クルーで過ごし、宗教音楽を作曲したり、回想録やエッセイを執筆した。彼の最後のオラトリオ『アッシジの聖フランチェスコ(英語版)』は1891年に完成した。 1893年10月15日、地元の教会のオルガンでミサ曲を演奏し、帰宅した後、孫のモーリスを追悼するための『レクイエム』ハ長調を作曲した。これが最後の作品となった。彼はスコアの準備中に脳卒中を起こし、3日間昏睡状態になった後、10月18日に、75歳で世を去った。
1893年10月27日、パリのマドレーヌ寺院で国葬が執り行われた。参列者の中には、アンブロワーズ・トマ、ヴィクトリアン・サルドゥ、後のフランス大統領レイモン・ポアンカレもいた。グノーの生前の要望でフォーレがグノーの音楽を指揮した。礼拝後、グノーの遺体はサン・クルー近くのオートゥイユ墓地 (fr:Cimetière d'Auteuil) に運ばれ、親族の眠る墓に埋葬された。
ジャン=バティスト・カルポー作、1873年(テラコッタ)
シャルル・グノー(1875年)、メイヤーとピエール=ルイ・ピエルソンによる撮影
ピアノに向かうグノー(1885年)
『ヴァニティ・フェア』より、グノーのカリカチュア(1879年)
グノーとマチルド・ボナパルト、Giuseppe Primoli撮影(1893年)
アンリ・ブロール画、(1894年)
オートゥイユ墓地の墓
ザカリー・アストリュクによる彫刻、1882年 - 84年作
ドイツ・オペラ駅(ドイツ語版)に書かれたシャルル・グノーの名
グノーの作品はあらゆる分野にわたるが、今日ではオペラ『ファウスト』と『アヴェ・マリア』の作曲者としてもっともよく知られている。 管弦楽曲『操り人形の葬送行進曲』は、アルフレッド・ヒッチコックのテレビシリーズ『ヒッチコック劇場』でテーマ音楽に用いられて有名になった。日本ではLIXILのトイレ・INAXのラジオコマーシャル(2016年・CBCラジオほか)でも使われている。 2つの交響曲はハイドンやモーツァルトらの作品を熟知した上で作曲されている。この2曲は17歳のビゼーが交響曲ハ長調を作曲する上でも手本となった。 Sapho, 1851年 La nonne sanglante, 1854年 Le médecin malgré lui, 1858年 Faust, 1859年 La colombe, 1860年 Philémon et Baucis, 1860年 La reine de Saba, 1862年 Mireille, 1864年 Roméo et Juliette, 1867年 Cinq-Mars, 1877年 Polyeucte, 1878年 Le tribut de Zamora, 1881年 (未完)Maitre Pierre, 1877年-1878年 Ulysse, 1851年 Le bourgeois gentilhomme, 1856年 Les deux reines, 1865年 Jeanne d'Arc, 1873年 交響曲第1番 ニ長調(1854年)
交響曲第2番 変ホ長調(1856年)
小交響曲 変ホ長調(1888年)
操り人形の葬送行進曲 聖セシリア荘厳ミサ曲(Messe solennelle en l'honneur de Sainte Cécile, 1855年)
レクイエム ハ長調(Requiem en Do majeur, 1893年)
トビー(英語版)(Tobie, 1854年) 十字架上のキリストの最後の7つの言葉(英語版)(Les Sept Paroles de Notre Seigneur Jésus-Christ sur la Croix, 1855年) 贖罪(英語版)(La rédemption, 1882年) 死と生(英語版)(Mors et vita, 1885年) アッシジの聖フランチェスコ(英語版)(Saint Francois d'Assise, 1891年) アヴェ・マリア - 1853年にアルフォンス・ド・ラマルティーヌの詩をつけられて出版された。1859年に現在の歌詞がつけられた。 6つのメロディー (6 mélodies, 1855年)- 最初に出版された歌曲集。「ヴェニス」(アルフレッド・ド・ミュッセ詩)が有名。 セレナード(Sérénade, 1857年) - ヴィクトル・ユゴー詩。さまざまな編曲でも知られる。日本では戦前に近藤朔風の訳詩による「夜の調べ」として知られ、1970年代まで高等学校の教科書に採用されていた。 春の歌(Chanson de printemps, 1860年)- ウジェーヌ・トゥルヌー詩。 おいで、芝生が緑だから(Viens, les gazons sont verts, 1875年)- ジュール・バルビエ詩。 いない人 - (L'absent, 1877年)- グノー本人の詩による。 |
エピソード
脚注
注釈
-
^ ファラン(フランス語版)出身の写真家。ジャーナリスト、風刺画家としても活躍した。
^ 新編世界大音楽全集『フランス歌曲集Ⅰ』音楽之友社、208頁より引用
^ Harding, pp. 20–22 and 36
^ Harding, p. 22
^ Harding, p. 23
^ Hillemacher, p. 12
^ "Charles Gounod", The Musical Times, 1 November 1893, pp. 649–650
^ Gounod, pp. 1 and 41
^ Harding, pp. 24–25
^ Gounod, pp. 2–3
^ Gounod, p. 39
^ Gounod, p. 40
^ Tiersot, p. 411
^ Hillemacher, p. 13; and Harding, pp. 32–33 and 72
^ Flynn, p. 2
^ Quoted in Tiersot, p. 411
^ Hillemacher, p. 14
^ Huebner 2001
^ Gounod, pp. 56 and 66–67
^ Harding, pp. 42–44
^ Hendrie, pp. 5–6
^ Gounod, quoted in Flynn, p. 2
^ 『新グローヴ オペラ事典』P556
^ Cooper 1957, p. 142.
^ Rushton, p. 206; and Flynn, p. 2
^ Harding, p. 31
^ “Gounod, Charles-François”.. Grove Music Online. Oxford University Press.. (Huebner, Steven)
^ Prod'homme and Dandelot, Vol 1, p. 84
^ Harding, p. 48
^ Flynn, p. 3
^ Prod'homme and Dandelot, Vol 1, p. 93
^ Harding, p. 50
^ Tiersot, p. 421 and Flynn, p. 3
^ Cooper 1957, p. 143
^ Cooper 1957, p. 149.
^ Curtiss 1952, p. 53.
^ Quoted in Nectoux 1991, p. 27
^ Lacombe, p. 210
^ 『グノー:聖セシリアの為の荘厳ミサ『最新名曲解説全集』 声楽曲2』音楽之友社、1981年、415-417頁。
^ Huebner 1990, pp. 30–31、Curtiss 1952, p. 60
^ Curtiss 1952, p. 59
^ "Royal Italian Opera", The Morning Post, 11 August 1851, p. 5
^ Holden, p. 144
^ Curtiss 1952, p. 61.
^ Curtiss 1952, pp. 60–61.
^ Terrier, Agnès (2018). Notes to Naxos DVD 2.110632, "La Nonne sanglante". OCLC 1114338360
^ Curtiss 1952, p. 66.
^ Prod'homme and Dandelot, Vol 1, p. 172
^ Prod'homme and Dandelot, Vol 1, p. 259
^ Durocher, Léon, quoted in "M. Gounod's New Opera", The Musical World, 23 January 1858, pp. 52–53; "Music and Dramatic Gossip", The Athenaeum, 23 January 1858, p. 120; and "Music and the Drama", The Athenaeum, 25 September 1858, p. 403
^ Harding, p. 105; and Prod'homme and Dandelot, Vol 1, p. 259
^ Tiersot, Julien; Baker, Theodore; Gounod, Charles (1919). “Gounod's Letters”. The Musical Quarterly 5 (1): 40–61. ISSN 0027-4631. https://www.jstor.org/stable/737925.
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^ Prod'homme and Dandelot, Vol 2, p. 27
^ Huebner, Steven (2002) [1992]. "Reine de Saba, La ('The Queen of Sheba')". Grove Music Online (英語) (8th ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.O009540。 (要購読契約)
^ Harding, p. 134
Harding, James (1973). Gounod. London: Allen and Unwin
『新グローヴ オペラ事典』 白水社(ISBN 978-4560026632)
『オペラ名曲百科 上 増補版 イタリア・フランス・スペイン・ブラジル編』 永竹由幸 著、音楽之友社(ISBN 4-276-00311-3)
『ラルース世界音楽事典』福武書店
『フランス・オペラの魅惑 舞台芸術論のための覚え書き』 澤田肇 著、ぎょうせい(ISBN 978-4324094037)
『オックスフォードオペラ大事典』ジョン・ウォラック、ユアン・ウエスト(編集)、大崎滋生、西原稔(翻訳)、平凡社(ISBN 978-4582125214)
『パリ・オペラ座-フランス音楽史を飾る栄光と変遷-』竹原正三 著、芸術現代社(ISBN 978-4874631188)
『フランス音楽史』今谷和徳、井上さつき(著)、春秋社(ISBN 978-4393931875)
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“シャルル・グノーの作品”. 31 March 2005閲覧。
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