チャールズ=チャップリンの情報(CharlesChaplin) 俳優、映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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チャールズ=チャップリンの情報まとめ
チャールズ=チャップリン(Charles Chaplin)さんの誕生日は1889年4月16日です。
映画、現在、結婚、病気、兄弟、父親、退社、子役、離婚、ドラマ、事件、引退、家族、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1977年に亡くなられているようです。
チャールズ=チャップリンのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)チャールズ・スペンサー・チャップリン(英: Sir Charles Spencer Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者(英語版)」を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。ドタバタにペーソスを組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。 チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、救貧院に何度も収容される生活を送った。やがて舞台俳優や芸人としてミュージック・ホールなどの舞台に立ち、19歳で名門のフレッド・カーノー(英語版)劇団と契約した。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、1914年にキーストン社で映画デビューした。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督した。その後はエッサネイ社、ミューチュアル社(英語版)、ファースト・ナショナル社(英語版)と移籍を重ね、1919年にはユナイテッド・アーティスツを共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにした。1920年代に長編映画を作り始め、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表した。『独裁者』(1940年)からはトーキーに完全移行したが、1940年代に私生活のスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下した。1952年に『ライムライト』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまでスイスに定住した。しかし1972年の第44回アカデミー賞で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞、アメリカでの授賞式に招かれた。 1889年4月16日、チャールズ・スペンサー・チャップリン(以下チャップリン)は父のチャールズ・チャップリン・シニア(以下チャールズ)と母のハンナ・チャップリンとの間に生まれた。チャップリンは自伝で、ロンドン南部のウォルワース(現在のサザーク区)のイースト・ストリート(英語版)で生まれたとしているが、公式の出生記録は存在していない。両親は4年前に結婚したが、ハンナはその時までに非嫡出子のシドニーを出産していた。両親は共にミュージック・ホールの芸人で、チャールズは人気歌手だったが、ハンナは芽の出ない女優だった。1891年までに両親は別居し、翌1892年にハンナは夫の芸人仲間のレオ・ドライデン(英語版)との間にジョージ・ウィーラー・ドライデンを出産したが、生後6ヶ月のジョージをレオが強引に引き取ってしまう。それから30年近くもチャップリンの前に姿を見せることはなかった。 幼少期のチャップリンは、現在のランベス区内のケニントン(英語版)でハンナとシドニーと生活していたが、ハンナには時折の洋裁や看護で小銭を稼ぐ以外に収入がなく、チャールズは養育費さえも支払わなかった。貧困とハンナの病気入院により、チャップリンは7歳の時にシドニーとランベス救貧院(英語版)に収容され、すぐにハンウェル(英語版)にある孤児や貧困児のための学校に移された。1898年1月にチャップリンは同校を退校し、ハンナとシドニーと屋根裏部屋を転々とする生活を送ったが、やがてそれも打つ手がなくなり、7月に三人ともランベス救貧院に収容された。救貧院では親子兄弟といえどもばらばらに収容されたが、8月12日に三人で申し合わせて退院手続きをとり、ケニントン・パークで久しぶりに一緒に一日を過ごした。三人はシドニーが手に入れた9ペンスで昼食をとり、新聞紙を丸めたボールでキャッチボールをしたりして、親子水入らずの時間を楽しんだあと、夕方に救貧院に再収容された。チャップリンは収容後すぐにノーウッド(英語版)にある貧困児のための学校に移された。 1898年9月、ハンナは栄養失調と梅毒を原因とする精神病を発症したため、ケイン・ヒル精神病院(英語版)に収容された。それに伴いチャップリンとシドニーはノーウッドの学校を退校し、ケニントンに住んでいた父のチャールズに引き取られた。チャップリンはそれまでに父の姿を2回しか見ていなかった。チャールズは重度のアルコール依存症に陥っており、そこでの生活は児童虐待防止協会が訪問するほど悪いものだった。11月にハンナは病状が落ち着いたため退院し、チャップリンとシドニーは父のもとを離れ、再び三人で生活を始めた。チャールズは1901年に肝硬変のため38歳で亡くなった。 チャップリンの初舞台は5歳の時だった。オールダーショットの劇場で舞台に立っていたハンナが出演中に喉をつぶして野次を浴びてしまい、支配人はチャップリンが舞台袖でさまざまな芸でハンナの友人たちを笑わせているのを見て、急遽代役として舞台に立たせることにした。チャップリンは舞台で歌を歌って大喝采を浴びた。この舞台出演は一時的なものだったが、チャップリンは9歳までにハンナの教えで舞台に興味を持つようになった。自伝では「母はわたしに舞台に対する興味を植え付けだした。自分には才能があると、わたしが思い込むように仕向けた」と述べている。1898年末、チャップリンは父親とのつながりを通じて、木靴ダンスのエイト・ランカシア・ラッズ(英語版)の座員となり、1899年から1900年にかけてイギリス中のミュージック・ホールを巡業した。チャップリンは懸命に働き、舞台も人気を得ていたが、やがてダンスだけでは満足せず、コメディアンになることを夢見るようになった。 チャップリンはエイト・ランカシア・ラッズと行動を共にした数年間、巡業先の学校を転々として通っていたが、13歳までに学業を断念した。チャップリンは俳優になるという目標を持ちながら、生活のために食品雑貨店の使いの小僧、診療所の受付、豪邸のボーイ、ガラス工場や印刷所の工員など、さまざまな仕事を経験した。1903年5月にハンナは病気が再発し、再びケイン・ヒル精神病院に送られた。8ヶ月後にハンナは退院したが、1905年3月に再び病状が悪化したため入院し、それ以降は病状が完全に回復することはなかった。自伝では「もはや諦めて母の運命を受け容れるしかなかった」と述べている。ハンナは1928年8月に亡くなり、チャップリンはその後数週間もショックで立ち直れなかったという。 1903年にハンナが入院した直後、チャップリンはウエスト・エンドにある俳優周旋所に名前を登録した。まもなく興行主チャールズ・フローマンの事務所の紹介で、俳優H・A・セインツベリー(英語版)の舞台『ロンドン子ジムのロマンス』の少年サム役を与えられた。舞台は1903年7月に開幕し、チャップリンのコミカルで快活な演技は批評家の賞賛を受けたが、舞台自体は成功せず2週間で打ち切られた。続いてフローマンが興行する『シャーロック・ホームズ(英語版)』でビリー役を演じ、3度の全国巡業に参加した。1905年9月の3度目の巡業中には、ホームズ役者で有名なウィリアム・ジレットの舞台に出演するためロンドンに呼ばれ、10月から12月にかけてジレット主演の『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じた。1906年初頭に4度目の『シャーロック・ホームズ』の全国巡業に参加し、これを最後に2年半以上演じてきたビリー役と別れを告げた。 チャップリンはすぐに新しい劇団で仕事を見つけ、1906年3月にスケッチ・コメディー『修繕』の巡業にシドニーとともに参加した。同年5月にはケイシーズ・コート・サーカスの子供グループに参加し、1907年7月に退団するまで花形コメディアンとして活躍した。しかし、チャップリンは次の仕事先を見つけるのに苦労し、しばらく失業状態となった。この頃にユダヤ人のコメディアンとして一人で舞台に立とうと試みたが、テスト公演をしたのがユダヤ人地区の劇場にもかかわらず、反ユダヤ的なギャグを含む出し物をしたため、観客の野次を浴びて大失敗した。 一方、シドニーは1906年にコメディの名門フレッド・カーノー(英語版)劇団に入り、その花形コメディアンになっていた。1908年2月、シドニーは失業中のチャップリンに仕事を与えるようカーノーに頼み、チャップリンは2週間のテスト出演のチャンスを貰った。カーノーは当初、チャップリンを「青白くて発育の悪い、無愛想な若者」「舞台もろくにできないぐらいの恥ずかしがり屋」と見なしていた。しかし、チャップリンはロンドンのコロシアム劇場で行われたテスト出演で、アドリブのギャグで笑いを取ったことが認められ、2月21日にカーノーと契約を交わした。 カーノー劇団でのチャップリンは脇役を演じることから始まり、1909年に主役級を演じるようになった。なかでも『啞鳥』におけるドタバタを巻き起こす酔っ払いが当たり役だった。1910年4月には新作寸劇『恐れ知らずのジミー』の主役で成功を収め、批評家の注目を集めた。同年10月、チャップリンはカーノー劇団のアメリカ巡業に参加し、批評家から「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と評された。最も成功した演目は『イギリス・ミュージックホールの一夜』(『啞鳥』の改題)で、その演技でアメリカでの名声を獲得した。アメリカ巡業は21ヶ月も続き、1912年6月にイギリスに帰国したが、10月には再びアメリカ巡業に参加した。 1913年、チャップリンは2度目のアメリカ巡業中にニューヨーク映画会社(英語版)の支配人アダム・ケッセル(英語版)から、傘下のキーストン社と契約する話を受けた。キーストン社はテンポの早いドタバタの短編喜劇を量産していた会社で、すでに退社した人気スターのフレッド・メイス(英語版)の穴を埋める俳優を探していた。チャップリンはキーストン社の作風をあまり好まなかったが、舞台の仕事に変わるものを求めていたこともあり、9月25日に週給150ドルで契約を交わした。12月初旬にチャップリンはスタジオがあるロサンゼルスに到着し、撮影所長のマック・セネットと対面した。セネットはチャップリンの容貌が若すぎることに不安を感じたが、チャップリンは「老けづくりなら簡単にできる」と返事した。 1914年1月末までチャップリンは映画に使われず、その間は映画製作の技術を学ぶための見学に充てられた。チャップリンの映画デビュー作は、2月2日公開の『成功争ひ』である。この作品でチャップリンが演じたのは、洒落たフロックコートにシルクハット、モノクルを付け、八の字髭を生やした扮装の、女たらしの詐欺師である。チャップリンはこの作品を嫌ったが、マスコミはその演技に早くも注目し、「第一級のコメディアン」と賞賛する業界紙もあった。チャップリンは2本目の出演作のために、セネットの指示で喜劇の扮装を決めることになり、トレードマークとなる「小さな放浪者(英語版)」の扮装を作り上げた。チャップリンの自伝によると、衣裳部屋に行く途中でふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、ステッキと山高帽という組み合わせを思いついたという。自伝では扮装の狙いについて、以下のように述べている。 その2本目の作品は『メーベルの窮境』(1914年2月9日公開)であるが、それよりも後に撮影された『ヴェニスの子供自動車競走』の方が2日早く公開されたため、『ヴェニスの~』が小さな放浪者の扮装を初めて観客に披露した作品となった。チャップリンはこれを自身の映画のキャラクターに採用し、自分からギャグを提案したりもしたが、監督のヘンリー・レアマンやジョージ・ニコルズ(英語版)とは意見が合わず、対立を繰り返した。11本目の出演作『メーベルの身替り運転』では、監督兼主演のメイベル・ノーマンドと衝突したことで解雇寸前にまで至ったが、ニューヨークから「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」との電報が届いたため、チャップリンの解雇は回避され、彼に対するセネットたち周囲の態度も軟化した。チャップリンはそれに乗じて、作品が失敗したら1500ドルを支払うという条件で、自分で映画を監督することをセネットに認めさせた。 チャップリンの監督デビュー作は、1914年4月20日公開の『恋の二十分』である。監督2作目の『とんだ災難』はその時点までで最も成功したキーストン社作品の1本となった。その後、チャップリンは1週間に1本のペースで新作の短編映画を監督・主演し、ショットの組み立てやストーリー構成などの映画技術を貪欲に身に付けていった。自伝ではこの時期を「いちばん張りのあったすばらしい時期」としている。チャップリンの人気も高まり、その名前が出ただけで大ヒットが約束されるようになると、キーストン社内でのチャップリンの発言力も高まった。同年11月、セネットが監督した長編コメディ『醜女の深情け』で主演のマリー・ドレスラーの相手役を演じたが、これが他監督のもとで出演した最後の公式映画となった。同年末、チャップリンはセネットと契約更新の話をし、週給1000ドルを要求するが拒否され、契約更新の話もそれで打ち切られた。 キーストン社と契約満了をもって退社が確定したチャップリンは、週給1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきたシカゴのエッサネイ社に移籍し、1914年12月下旬にスタジオに参加した。チャップリンはレオ・ホワイトやベン・ターピンなどの俳優を集めてグループを作り、同社2作目の『アルコール夜通し転宅』ではサンフランシスコのカフェで見つけたエドナ・パーヴァイアンスを相手役に採用した。パーヴァイアンスとは8年間に35本の映画で共演し、1917年までプライベートでも親密な関係を築いた。チャップリンはそれまで会社の製作慣習に従い、流れ作業のように映画を作り続けてきたが、この頃から慣習には従わない姿勢を打ち出し、より時間をかけて映画を作るようになった。『アルコール夜通し転宅』と次作の『チャップリンの拳闘』とでは封切り日に27日の間があり、それ以後の作品はさらに封切りの間隔が広がった。 この時期にチャップリンは小さな放浪者のキャラクターを変え始めた。キーストン社時代のキャラクターは、女性や子供をいじめたりする卑劣で残酷な役柄や、性的にいやらしい性格であるものが多かった。しかし、エッサネイ社時代になると、より穏やかでロマンティックな性格に変化した。1915年4月公開の『チャップリンの失恋』はキャラクターの変化のターニングポイントとなる作品と考えられている。この作品では放浪者がヒロインに失恋し、ラストシーンで一本道をとぼとぼと歩き去る姿が描かれている。このシーンはその後の作品でも数通りに変化させて使用された。チャップリン研究家の大野裕之は、この作品を「孤独な放浪者のロマンスというチャップリン・スタイルの芽生え」であるとしている。同年8月公開の『チャップリンの掃除番』には悲しげな結末にペーソスが加えられたが、映画史家のデイヴィッド・ロビンソン(英語版)はそれがコメディ映画の革新であるとしている。映画学者のサイモン・ルービッシュは、エッサネイ社時代のチャップリンは「小さな放浪者を定義するテーマとスタイルを見つけた」と述べている。 1915年にチャップリンの人気は爆発的に上昇し、その人気にあやかって人形や玩具などの関連商品が売られたり、新聞に漫画や詩が掲載されたり、チャップリンについての曲が作られたりした。同年7月にモーション・ピクチャー・マガジン(英語版)のジャーナリストは、チャップリンの真似をする「チャップリニティス」がアメリカ全土で広まったと書いた。チャップリンの人気は世界的に高まり、映画業界で最初の国際的なスターとなった。12月にエッサネイ社との契約が切れ、自分の価値を認識していたチャップリンは次の契約先に15万ドルのボーナスを要求した。ユニバーサル、フォックス、ヴァイタグラフ(英語版)などの映画会社からオファーを受けたが、最終的にチャップリンが選んだのは、最も高額な条件を提示してきたミューチュアル社(英語版)だった。 1916年2月、チャップリンは年収67万ドル(週給1万ドルで合計52万ドル+ボーナス15万ドル)でミューチュアル社と契約を結び、世界で最も給料が高い人物のひとりとなった。その高額な給料は大衆に衝撃を与え、マスコミで広く報道された。社長のジョーン・R・フロイラー(英語版)は「私たちがチャップリンにこれだけ巨額の金が払えるのは、大衆がチャップリンを求めており、そのために金を払うからである」と説明した。チャップリンはロサンゼルスに自分専用のスタジオを与えられ、3月にローン・スター・スタジオとして開設した。自身の俳優集団には、エッサネイ社からパーヴァイアンスやホワイトを引き連れ、その後の作品で大きな役割を占めることになるアルバート・オースチンとエリック・キャンベル、そして腹心の友となるヘンリー・バーグマンを新たに加えた。 この頃からチャップリンは「低俗なドタバタ喜劇」という外部からの批判に応え喜劇のスタイルを変えようとしていた。「エリザベス朝のユーモアの表現形式、道化芝居やドタバタ喜劇の粗雑な形式」から離れて「もっと手の込んだより 繊細な演出」への移行を志向したのである。 チャップリンはミューチュアル社と、4週間に1本のペースで2巻物の映画を作ることを約束し、1916年中に公開した8本はすべてこの約束に従っていた。しかし、1917年に入るとこれまで以上に時間をかけて映画を作るようになり、同年に公開した『チャップリンの勇敢』『チャップリンの霊泉』『チャップリンの移民』『チャップリンの冒険』の4本を作るのに10ヶ月を要した。これらの作品は多くの専門家により、チャップリンの最良の作品のひとつと見なされている。チャップリンは自伝で、ミューチュアル社時代がキャリアの中で最も幸福な時期だったとしている。 チャップリンは第一次世界大戦で戦わなかったとして、イギリスのメディアに攻撃された。チャップリンはアメリカで徴兵登録を行い、「祖国の命令には進んで従うつもりである」と声明を出したが、結局どちらの国からも召喚されなかった。こうした批判にもかかわらず、チャップリンは前線の兵士にも人気があった。 ミューチュアル社はチャップリンの生産本数の減少に腹を立てず、契約は友好的な関係のまま終了した(ミューチュアル社は新たな8本の映画に対し100万ドルの支払いを提示したが、チャップリンは独立を選んだ)。チャップリンは契約スケジュールに縛られた映画作りによる品質低下を懸念し、これまで以上に独立することを望んだ。チャップリンのマネージャーだったシドニーは、「今後どんな契約を結ぶとしても必ず条項にしたいものがひとつある。それはチャップリンには必要なだけの時間と、望み通りの予算が与えられるということである。私たちが目指すのは量ではなくて質なのだ」と表明した。1917年6月17日、チャップリンは新しく設立されたファースト・ナショナル社(英語版)と「100万ドル契約」と広く呼ばれた配給契約を結んだ。この契約ではチャップリン自らがプロデューサーとなり、会社のために8本の映画を完成させる代わりに、作品1本あたり12万5000ドルの前金を受け取ることが決定した。 チャップリンはハリウッドのサンセット大通りとラ・ブレア通り(英語版)が交差する角に面した5エーカーの土地に、自前のスタジオであるチャップリン・スタジオ(英語版)を建設し、1918年1月に完成した。このスタジオは地域の外観にうるさい近隣住民を安心させるため、イギリスの田舎のコテージが並んだような外見をもつように設計された。こうしてチャップリンは自由な映画製作環境を手に入れ、以前よりも膨大な時間と労力をかけて映画を作るようになった。また、それまでは1巻物や2巻物の短編映画を主に作っていたが、この頃からは3巻物の中編映画を作るようになった。新しい契約先での最初の作品は、同年4月公開の『犬の生活』である。この作品でチャップリンは小さな放浪者を一種のピエロとして扱い、コメディ映画に複雑な人間的感情を与えた。大野は、この作品で心優しい小さな放浪者のキャラクターが完成したとしている。この作品でチャップリンの芸術的評価は決定的なものとなり、フランスの映画批評家ルイ・デリュックは「映画史上初のトータルな芸術作」と呼んだ。 1918年4月、チャップリンはダグラス・フェアバンクスやメアリー・ピックフォードとともに、第一次世界大戦のための自由公債(英語版)募集ツアーに駆り出され、約1ヶ月間アメリカ国内を遊説した。ワシントンD.C.で演説した時には、興奮の余り演壇から足を滑らし、当時海軍次官補をしていたフランクリン・ルーズベルトの頭上に転げ落ちたという。さらにチャップリンはアメリカ政府のために、公債購入促進を訴える短編プロパガンダ映画『公債』を自費で製作した。次作の『担へ銃』では戦争をコメディ化し、小さな放浪者を塹壕の兵士に変えた。周囲は悲惨な戦争からコメディを作ることに反対したが、喜劇と悲劇の近似性を意識していたチャップリンの考えは揺るがなかった。この作品は大戦の休戦協定の締結直前に公開され、チャップリン映画として当時最高の興行記録を打ち立てた。 『担へ銃』の公開後、チャップリンはより高品質な映画を作るため、ファースト・ナショナル社に製作費の増額を要求したが拒否された。作品の品質低下の懸念に加え、映画会社が結託してスターのギャラを下げようとしているという噂話を心配したチャップリンは、 1919年2月5日にフェアバンクス、ピックフォード、D・W・グリフィスとともに、新会社ユナイテッド・アーティスツを設立した。同社は共同設立者の4人がそれぞれ独立製作した映画を配給する会社で、雇用主の束縛なしに自由に映画を作ることができるうえに、これまで雇用主に吸い上げられていた利益も手にすることができた。チャップリンはこの新会社での映画作りを望み、ファースト・ナショナル社に契約解除を求めたが拒否され、残る6本の契約を消化しなければならなくなった。 ユナイテッド・アーティスツの設立前、チャップリンは最初の結婚をした。17歳の女優ミルドレッド・ハリスはチャップリンとの間の子を妊娠したことを明らかにし、チャップリンはスキャンダルを回避するため、1918年10月にロサンゼルスで秘密裏に結婚したが、すぐに妊娠は嘘であることが判明した。チャップリンは結婚生活に気分が乗らず、結婚が創作力に悪影響を及ぼすと考えていた。事実、11月に次回作『サニーサイド』の撮影を始めたが、アイデアが湧かなくてスランプに陥り、自伝では「虫歯を抜くような苦労をして作り上げた」と述べている。1919年にミルドレッドは本当に妊娠し、7月7日に奇形児の息子ノーマン・スペンサー・チャップリンを出産したが、わずか3日後に死亡した。 チャップリンの幼少時代の貧困経験は、次の映画『キッド』に影響を与えたと考えられており、それは小さな放浪者を捨て子の保護者に変えた。チャップリンは劇場で見つけた4歳の子役俳優ジャッキー・クーガンと契約し、1919年7月に撮影を始めた。撮影は順調に進んだが、これまで以上の大作になることが分かり、早く新作を求めるファースト・ナショナル社をなだめるため、数週間撮影を中断して急拵えで『一日の行楽』を製作した。『キッド』の製作は約1年かかったが、その間にミルドレッドとの結婚生活は破綻した。1920年8月に彼女は離婚訴訟を起こし、『キッド』の撮影済みフィルムを差し押さえようとした。チャップリンはそれから逃れるため、州を越えてソルトレイクシティに避難して編集作業を行い、完成後の11月に離婚が成立した。『キッド』はチャップリンの最初の長編映画で、「笑い」に「涙」を組み合わせたチャップリン特有のスタイルを完成させた。1921年2月に公開されると大ヒットし、3年以内に50ヶ国以上で配給された。 ファースト・ナショナル社との契約を終えたチャップリンは、ようやく独立したプロデューサーとして自前のスタジオで映画を作り、自分の会社で配給するというワンマン体制を手に入れ、完全に自由な映画作りを行うことができた。そこでチャップリンはパーヴァイアンスを一本立ちしたスターに仕立てるため、ロマンティックなドラマ映画『巴里の女性』を製作した。この作品でチャップリンは監督に徹し、主演はせずにノンクレジットでカメオ出演するにとどまった。チャップリンは俳優に抑制のきいた自然な演技を求め、新しいリアルな演技スタイルを取り入れた。作品は1923年9月に公開され、その革新的で洗練された表現方法で批評家から高い賞賛を受けた。しかし、一般観客はチャップリンが出てこないチャップリン映画に興味がなく、興行的に失敗した。作品の出来栄えに誇りを持っていたチャップリンはこの結果に失望し、すぐに作品を劇場から撤退させた。 チャップリンは次回作でコメディに戻り、『キッド』以上の作品、それも偉大な叙事詩を作ろうと考えた。そこでクロンダイクのゴールドラッシュの写真とドナー隊の悲劇に触発されて『黄金狂時代』を製作した。この作品では小さな放浪者が孤独な金鉱探しになり、逆境に直面しながら黄金と恋を求める姿が描かれている。飢えをしのぐために靴を食べるシーンや、ロールパンのダンス、崖から落ちる山小屋のシーンなど、チャップリン映画で最も有名なシーンのいくつかも含まれている。撮影は1924年2月に開始したが、600人のエキストラを動員したり、豪華なセットや特殊効果を使用したりするなど、製作はより大規模なものになった。撮影日数は約14ヶ月もかかり、製作費は92万ドルを計上した。1925年8月に公開されると全米で500万ドルの興行収入を記録し、サイレント映画で最も高収入をあげた映画の1本となった。ジャーナリストのジェフリー・マクナブは、この作品を「チャップリン映画の典型」と呼んでいる。 『黄金狂時代』の撮影中、チャップリンは16歳の女優リタ・グレイと2度目の結婚をした。1924年9月、リタはミルドレッドの時と同じように、チャップリンとの子を妊娠したことを明らかにした。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと強姦罪が適用され、最高30年の刑が科せられたため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要した。そのためチャップリンは結婚を余儀なくされ、11月26日にメキシコで内密に結婚式を挙げた。リタは『黄金狂時代』のヒロイン役に予定されていたが、結婚により降板し、代わりにジョージア・ヘイルが演じることになった。リタとの間には、チャールズ・チャップリン・ジュニア(1925年5月5日生)とシドニー・アール・チャップリン(1926年3月30日生)の二人の息子をもうけた。 リタとの結婚生活は不幸であり、チャップリンは妻と会うのを避けるためスタジオで仕事に没頭した。1926年11月末、リタは息子を連れて家出し、翌1927年1月に離婚訴訟を起こした。訴訟書類はチャップリンだけでなくその関係者も相手取り、チャップリンを誹謗中傷する内容が書かれていた。この事件は大見出しのニュースとなり、全米各地でチャップリン映画のボイコットが起きたため、チャップリンは神経衰弱に陥った。8月にチャップリンの弁護士は、その種のものではアメリカの裁判史上最高の金額である60万ドルの和解金を支払うことに同意し、リタとの離婚が成立した。チャップリンは心労で一夜にして白髪になったが、幸いにも事件はすぐに忘れられ、チャップリンの人気にほとんど影響を与えることはなかった。 離婚訴訟が起きる前に、チャップリンは新作『サーカス』の撮影を始めていた。この作品は猿に囲まれて綱渡りをするというアイデアから物語が作られ、小さな放浪者をサーカスのスターに変えた。撮影は離婚訴訟のため8ヶ月間中断され、撮影中もさまざまなトラブルに直面した。この時の大きなストレスは長年にわたり感じ続け、自伝でもこの作品について言及されていない。作品は1927年10月に完成し、1928年1月にプレミア上映が行われて好評を博した。1929年、チャップリンは第1回アカデミー賞で「『サーカス』の脚本・演技・演出・製作で示した優れた才能」に対して名誉賞を受賞したが、授賞式は欠席した。 『サーカス』が公開された頃、ハリウッドではトーキーの導入が進んでいた。しかし、チャップリンはトーキーについて否定的な立場をとり、トーキーはサイレント映画の芸術性を損なわせてしまうと考えていた。また、チャップリンは小さな放浪者に言葉を入れることで、その国際的魅力と世界共通言語としてのパントマイムの普遍性が失われることを恐れ、自身に成功をもたらしたこの方式を変えることに躊躇した。そのためチャップリンはトーキーの流行に従うのを拒否し、サイレント映画を作り続けることにした。それにもかかわらず、この決断はチャップリンを不安にさせ、次回作である『街の灯』の製作中もずっと悩み続けた。 チャップリンは約1年かけて『街の灯』のストーリー作りに取り組み、1928年末に撮影を始めた。この作品は小さな放浪者がヴァージニア・チェリル演じる盲目の花売り娘を愛し、彼女の視力を回復させるための手術代を調達しようと奮闘する姿が描かれている。撮影は約21ヶ月間も続けられ、チャップリンは自伝で「完璧を望むあまり、神経衰弱気味になっていた」と述べている。チャップリンがサウンド技術で見つけた利点のひとつは、自分で作曲した映画音楽を録音する機会を得たことだった。以前から映画音楽の作曲に関心を抱いていたチャップリンは、この作品のためにオリジナルの伴奏音楽を作曲し、サウンド版として公開することにした。 1930年12月に『街の灯』の編集作業が終了したが、この頃にはサイレント映画は時代遅れになっていた。1931年1月に行われた一般向け試写は成功しなかったが、その翌日のマスコミ向け試写では好意的な評価を受けた。あるジャーナリストは「それが可能な人物は世界中でチャップリンだけだろう。彼は、『観客へのアピール』と呼ばれる独特のものを、話す映画へとなびく大衆の好みに挑めるくらい十分に備えているただ一人の人物である」と書いた。同月末に正式公開されると高い人気を集め、最終的に300万ドルを超える収益を上げるほどの興行的成功を収めた。英国映画協会は、批評家のジェームズ・エイジーがラストシーンを「映画の中で最高の演技で最高のシーン」と賞賛したことを引用して、チャップリンの最高の作品と評価した。 ロサンゼルスに戻ったチャップリンは、トーキー導入で大きく変化したハリウッドに嫌気がさした。自伝では当時の心境を「まったくの混迷、将来の計画もなんにもない。ただ不安なばかりで、底知れぬ孤独にさいなまれていた」と回想している。チャップリンは引退して中国に移住することも考えたが、1932年7月にポーレット・ゴダードと出会ったことで孤独感が解消され、二人はすぐに親密な関係を築いた。しかし、チャップリンはなかなか次回作に取りかかろうとはせず、旅行記『コメディアンが見た世界』の執筆に集中した。チャップリンは世界旅行をして以来、恐慌後の世界情勢に関心を持つようになった。実際にチャップリンは、経済問題に関する論文「経済解決論」を執筆したり(この中でワークシェアリングの実施、労働者の最低賃金のアップによる家計の刺激、関税の引き下げ、欧州の通貨統合などを提唱)、ニューディール政策の熱熱な支持者として、1933年に全国産業復興法を支持するラジオ番組に出演したりしている。アメリカの労働状況の悪化はチャップリンを悩ませ、機械化が失業率を高めるのではないかと恐れた。こうした懸念から次回作の『モダン・タイムス』が構想された。 1934年10月に『モダン・タイムス』の撮影が始まり、約10ヶ月半かけて終了した。チャップリンはトーキーで作ることを考えていたが、リハーサル中に気が変わり、前作と同様に効果音と伴奏音楽を採用し、会話シーンはほとんど使わなかった。しかし、小さな放浪者がデタラメ語で「ティティナ」を歌うシーンで、チャップリンは初めて映画で肉声を披露した。大野は、この作品を「機械文明に抵抗して個人の幸福を求める物語」としており、『キッド』以来の政治的言及と社会的リアリズムが取り入れられた。チャップリンはこの問題を重視しないようにしたにもかかわらず、こうした側面が多くのマスコミの注目を引き付けた。作品は1936年2月に公開されたが、一部の大衆観客は政治的要素を嫌ったため、アメリカでの興行収入は前作の半分にも満たない150万ドルにとどまり(資料によっては180万ドルに達するともされる。1936年の興行収入の第5位)、評価も賛否両論となった。それでも現代ではチャップリンの最も優れた長編映画のひとつと見なされている。 『モダン・タイムス』の公開直後、チャップリンはポーレットとともにアジア旅行に出発し、香港や日本などを訪問した。チャップリンとポーレットはお互いの関係について言及することはなく、正式な夫婦であったかどうかは明らかにしていない。その後、チャップリンは旅行中の1936年に広東で結婚したことを明らかにした。ポーレットは『モダン・タイムス』と次回作の『独裁者』でヒロイン役を演じたが、二人はそれぞれの仕事に重点を置いていたため、お互いの気持ちは離れていった。1942年にメキシコで二人の離婚が成立したが、その後もお互いの関係は良好だった。 チャップリンは、1930年代の世界の政治的緊張とファシズムの台頭に不安を感じ、これらの問題を自分の仕事から遠ざけることはできないと考えていた。この頃、各国のメディアではチャップリンとアドルフ・ヒトラーとの類似点が話題に取り上げられた。二人はわずか4日違いで生まれ、どちらも社会の底辺の出身から世界的な有名人となり、鼻の下に歯ブラシのような口髭を付けていた。こうした類似性は、チャップリンに次の映画『独裁者』のアイデアを提供した。この作品ではヒトラーを直接的に風刺し、ファシズムを攻撃した。 チャップリンは『独裁者』の脚本執筆に2年も費やし、イギリスがドイツに宣戦布告した6日後の1939年9月に撮影を始めた。チャップリンは政治的メッセージを伝えるために適した方法であることから、この作品をサイレントではなくオール・トーキーで製作したが、この時にはもはやトーキーを導入する以外に選択肢はなかった。ヒトラーを主題にしたコメディを作ることは大きな物議を醸すと思われたが、チャップリンの経済的独立はそのリスクを冒すことを可能にした。チャップリンは自伝で「ヒトラーという男は、笑いものにしてやらなければならないのだ」と述べている。チャップリンは小さな放浪者を、同じ服装のユダヤ人の床屋に置き換えて、反ユダヤ主義のナチスを攻撃した。さらにチャップリンは、ヒトラーをパロディ化した独裁者のアデノイド・ヒンケルも演じた。 『独裁者』の製作には約1年かかり、1940年10月に公開された。この作品はニューヨーク・タイムズの批評家から「今年最も熱狂的に待望された映画」と呼ばれるなど多くの注目を集め、それまでのチャップリン映画で最高の興行収入を記録した。しかし、結末のシーンは人気がなく、論争を引き起こした。その結末シーンでは、チャップリンが床屋のキャラクターを捨てて、カメラ目線で戦争とファシズムに反対する5分間の演説をした。映画史家のチャールズ・J・マーランドは、この説教がチャップリンの人気の低下を引き起こしたと考え、「今後、映画ファンはチャップリンから政治的側面を切り離すことができなくなった」と述べている。『独裁者』は第13回アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、脚本賞など5部門でノミネートされた。 1940年代半ば、チャップリンは自身の公的イメージに大きな影響を与えた一連の裁判に関わり、それにほとんどの時間を費やした。1941年にチャップリンはポール・ヴィンセント・キャロル(英語版)原作の戯曲『影と実体(英語版)』の映画化を企画し、その主演女優として無名のジョーン・バリーと契約した。しかし、バリーは精神的に不安定で奇行が目立ったため、1942年5月に契約を解消した。その後、バリーは2度もチャップリン家に侵入して逮捕され、1943年にはチャップリンの子供を妊娠していると発表した。チャップリンはこれを否定したため、バリーはチャップリンに対して子供の父権認知の訴訟を起こした。 チャップリンの政治的傾向を長年にわたり疑っていた連邦捜査局(FBI)は、チャップリンの評判を傷つけるためのネガティブ・キャンペーンの一環として、このスキャンダルに関する4件の罪状でチャップリンを訴えた。これらの中で最も問題になったのが、性的目的で州を越えて女性を移動させることを禁じるマン法(英語版)に違反したという申し立てである。歴史家のオットー・フリードリックは、これを「時代遅れの法」による「馬鹿げた訴追」と呼んでいるが、チャップリンが有罪となった場合は23年の懲役刑になる可能性があった。他の3件の告発は法廷に持ち込むのに十分な証拠がなかったが、マン法違反の裁判は1944年3月21日に始まり、2週間後の4月4日に無罪となった。この事件はトップ級のニュースとして報道され、ニューズウィークは「1921年のロスコー・アーバックル事件の裁判以来の最大のスキャンダル」と呼んだ。 キャロル・アンと名付けられたバリーの子供(1943年10月生)の父権認知の裁判は、1944年12月に開廷した。原告側弁護士はチャップリンを不道徳であると強く非難し、1945年4月の判決でチャップリンが父親であることが認定された。血液検査では「O型のチャップリンとA型のジョーンから、B型のキャロル・アンが生まれる可能性はない」と結論付けられていたが、裁判が行われたカリフォルニア州では、血液検査は裁判の証拠として認められなかった。チャップリンは判決に従って、キャロル・アンが21歳になるまで養育費を支払うことになった。この裁判でチャップリンは、FBIの影響を受けたメディアから過度な批判を受けた。 この裁判でチャップリンが受けた打撃は大きかったが、そんな傷心の彼を慰めたのは4番目の妻であるウーナ・オニールだった。1942年10月にチャップリンはタレントエージェントを介してウーナと初めて出会い、1943年6月16日に結婚した。チャップリンは自伝で、ウーナとの出会いは「長きにわたるであろう私の最良の幸福のはじまり」と述べている。しかし、二人が結婚したのはバリーが父権認知訴訟を起こしてから2週間後のことであり、それはチャップリンをめぐる論争を高めることになった。チャップリンは亡くなるまでウーナと連れ添い、8人の子供をもうけた。その子供たちは上からジェラルディン(1944年7月生)、マイケル・ジョン(英語版)(1946年3月生)、ジョゼフィン・ハンナ(英語版)(1949年3月生)、ヴィクトリア(英語版)(1951年5月生)、ユージン・アンソニー(英語版)(1953年8月生)、ジェーン・セシル(1957年5月生)、アネット・エミリー(1959年12月生)、クリストファー・ジェイムズ(英語版)(1962年7月生)である。 チャップリンはバリーの裁判で「自分の創作意欲をひどく傷つけられた」と感じ、再び映画製作を始めるまでには時間がかかった。チャップリンの新作は『殺人狂時代』で、フランスの失職した元銀行家ヴェルドゥが家族を養うために裕福な未亡人と結婚して殺害するという内容のブラックコメディである。このアイデアを思いついたきっかけは、1942年秋にオーソン・ウェルズがチャップリン主演でフランスの連続殺人犯アンリ・デジレ・ランドリューが主人公の映画を作りたいと提案したことだった。チャップリンはこの申し出を断ったが、このアイデアがすばらしい喜劇になると考えた。そこでウェルズに原案料として5,000ドルを支払い、当時進めていた『影と実体』の企画を棚上げして、4年がかりで完成させた。 チャップリンは『殺人狂時代』で再び政治的姿勢を主張し、資本主義や戦争における大量破壊兵器の使用を批判した。そのため1947年4月に公開されると物議を醸した。プレミア上映ではブーイングされ、ボイコットの呼びかけもあった。この作品はアメリカで批評的にも興行的にも失敗した最初のチャップリン映画だったが、海外では高い成功を収め、第20回アカデミー賞では脚本賞にノミネートされた。チャップリンはこの作品に誇りを持っており、自伝では「『殺人狂時代』は自分の作品中でも最高の傑作、実によくできた作品だと信じている」と述べている。 『殺人狂時代』に対する否定的反応は、チャップリンの公のイメージが変化した結果だった。チャップリンはバリーとのスキャンダルの被害に加えて、政治的姿勢が共産主義的であると公に非難された。チャップリンの政治活動は、第二次世界大戦中にソビエト連邦を支援するために第二戦線を開くことを呼びかける演説を行い、さまざまなアメリカの親ソ組織を支援した時に激化した。また、ハンス・アイスラーやベルトルト・ブレヒトなどの共産主義者とされる著名人と交友があり、ロサンゼルスでソ連外交官が主催したレセプションにも出席した。1940年代のアメリカの政治情勢では、そのような活動は「危険なほど進歩主義的で不道徳」と見なされた。FBIはチャップリンの国外追放を考え、1947年に公式な調査を開始した。 チャップリンは共産主義者であることを否定し、代わりに自分を「平和主義者」と呼んだが、イデオロギーを抑圧する政府のやり方は自由権を侵害していて容認できないと主張した。チャップリンはこの問題について沈黙を拒否し、共産党員の裁判と下院非米活動委員会の活動に公然と抗議した。チャップリンの活動はマスコミで広く報道され、冷戦の恐れが高まるにつれて、チャップリンがアメリカ市民権を取らなかったことにも疑問が投げかけられ、国外追放を求める声も上がった。例えば、1947年6月に非米活動委員会の委員であるジョーン・E・ランキン(英語版)議員は、「チャップリンがハリウッドにいること自体が、アメリカの体制には有害なのです…今すぐ彼を国外追放処分にして追放すべきであります」と発言した。同年9月、チャップリンは非米活動委員会から召喚状を受け取ったが、証言するために出頭されることはなかった(チャップリンが放浪紳士の扮装で出廷する、と声明を出すと出頭は沙汰止みとなった)。 チャップリンは『殺人狂時代』の失敗後も政治的活動を続けたが、次回作の『ライムライト』は忘れられたミュージック・ホールのコメディアンと若いバレリーナが主人公の作品で、政治的テーマからかけ離れていた。この作品はチャップリンの子供時代と両親の人生だけでなく、アメリカでの人気の喪失をほのめかしており、非常に自伝的なものになった。出演者にはチャップリンの5人の子供や異父弟のウィーラー・ドライデンなどの家族が含まれていた。チャップリンは3年間も脚本に取り組み、1951年11月に撮影を始めた。チャップリンのパントマイムシーンの相手役にはバスター・キートンが出演したが、サイレント映画時代に人気を分けた二人が共演したのはこれ限りだった。 チャップリンは『ライムライト』のワールド・プレミアを、作品の舞台となったロンドンで開催することに決めたが、ロサンゼルスを去ればもう戻ってくることはないだろうと予感した。1952年9月17日、チャップリンは家族とクイーン・エリザベスに乗船し、イギリスへ向けてニューヨークを出航した。その2日後、アメリカ合衆国司法長官のジェームズ・P・マクグラネリー(英語版)はチャップリンの再入国許可を取り消し、アメリカに戻るには政治的問題と道徳的行動に関する審問を受けなければならないと述べた。マクグラネリーは「チャップリンを国外追放した根拠を明らかにすれば、チャップリン側の防御を助けることになる」と述べたが、マーランドは1980年代に開示されたFBIの記録に基づき、アメリカ政府はチャップリンの再入国を阻止するための証拠を持っていなかったと結論付けた。チャップリンは船上で再入国許可取り消しの知らせを受け取り、アメリカとの関係を断ち切ることに決めた。 偽牧師(1923年) 巴里の女性(1923年) 黄金狂時代(1925年) サーカス(1928年) 街の灯(1931年) モダン・タイムス(1936年) 独裁者(1940年) 殺人狂時代(1947年) ライムライト(1952年) ニューヨークの王様(1957年) 伯爵夫人(1967年) チャップリンは生涯に多くの賞と栄誉を受けた。1931年にフランス政府からレジオンドヌール勲章のシュバリエの称号を授けられた。1962年にオックスフォード大学とダラム大学から名誉博士号を与えられ、1965年にはイングマール・ベルイマンとともにエラスムス賞を受賞した。1971年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章のコマンドゥールの称号を授けられ、1975年にはエリザベス2世から大英帝国勲章のナイト・コマンダー(英語版)(KBE)の称号を与えられた。映画業界からは、1957年に映画芸術への顕著な貢献に対してジョージ・イーストマン賞(英語版)を受賞し、1971年の第25回カンヌ国際映画祭ではチャップリンの全作品に対して特別賞を贈られ、1972年のヴェネツィア国際映画祭では栄誉金獅子賞を受賞した。同年にリンカーン・センター映画協会から生涯功労賞を受賞し、同賞はそれ以来「チャップリン賞」の名称で毎年映画人に贈られている。また、1972年にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで星を獲得したが、それまではチャップリンの政治的問題のために除外されていた。 以下の表は、チャップリンが受賞した、もしくはノミネートされた映画賞(作品自体に与えられた賞を含む)の一覧である。 父:チャールズ・チャップリン・シニア(1863年 - 1901年、舞台俳優) 母:ハンナ・チャップリン(1865年 - 1928年、舞台女優) 異父兄:シドニー・チャップリン(1885年 - 1965年、俳優) 異父弟:ウィーラー・ドライデン(1892年 - 1957年、俳優) 最初の妻:ミルドレッド・ハリス(1901年 - 1944年、女優)
2番目の妻:リタ・グレイ(1908年 - 1995年、女優)
三男:シドニー・アール・チャップリン(1926年 - 2009年、俳優) 3番目の妻:ポーレット・ゴダード(1910年 - 1990年、女優) 4番目の妻:ウーナ・オニール(1925年 - 1991年、ユージン・オニールの娘)
四男:マイケル・チャップリン(英語版)(1946年3月7日 - 、俳優)
孫:カルメン・チャップリン(1972年 - 、女優) 次女:ジョゼフィン・チャップリン(英語版)(1949年 - 2023年、女優) 三女:ヴィクトリア・チャップリン(英語版)(1951年 - 、女優)
五男:ユージン・アンソニー・チャップリン(英語版)(1953年 - 、レコーディング・エンジニア)
四女:ジェーン・セシル・チャップリン(1957年 - ) 五女:アネット・エミリー・チャップリン(1959年 - ) 六男:クリストファー・チャップリン (英語版)(1962年 - 、作曲家・俳優) 現行の著作権法(1970年〈昭和45年〉制定)では、映画の著作物は公表後70年が経過するまで著作権によって保護される。ただし、個人の著作名義で独創性のある映画(劇映画など)で、旧法による保護期間と比べて旧法による保護期間の方が長い映画の著作物は、旧著作権法による保護期間(著作者の死後38年)を優先して適用するとされる。 チャップリン映画の著作権を侵害しているとして保護期間が争われた事件で、2008年(平成20年)に東京地方裁判所は、旧法による保護期間を適用すべきとの判断を下した。チャップリン個人名義の9本の作品について、チャップリンが死去した1977年から38年の2015年までが旧法による保護期間となるとして、「独裁者」(1940年)までの7本の作品は、旧法による保護期間が公表後70年よりも長いのでこれを適用し、「殺人狂時代」(1947年)と「ライムライト」(1952年)は公表後70年の方(それぞれ2017年〈平成29年〉と2022年〈令和4年〉まで)が旧法の保護期間よりも長いのでそれによるべきとされた。 2009年(平成21年)、最高裁判所は被告の上告を棄却し、判決が確定した。 『活動狂』(1928年、斎藤寅次郎監督) - チャップリンが忍術映画を見て、その真似をするという設定のドタバタ喜劇。 『チャーリー』(1993年、リチャード・アッテンボロー監督) - チャップリンの生涯を描いた伝記映画で、ロバート・ダウニー・Jrがチャップリンを演じた。 『ブロンドと柩の謎』(2001年、ピーター・ボグダノヴィッチ監督) - エディー・イザードがチャップリンを演じた。 『ダンシング・チャップリン』(2011年、周防正行監督) - フランスの振付師ローラン・プティによる、チャップリンを題材にしたバレエの舞台を映像化した作品。 『チャップリンからの贈りもの』(2014年、グザヴィエ・ボーヴォワ監督) - チャップリンの遺体が誘拐された実話をもとに、その犯人を主人公にしたフィクション作品。 『Chaplin: Home, Sweet Home』(2014年、ジェイソン・アリン監督) - チャップリンのパフォーマーであるジェイソン・アリンの独演による短編映画。 Charlie and the Windmill(1915) Charlie and the Indians(1915) Dreamy Dud Sees Charlie Chaplin(1915) Charlie's White Elephant(1916) How Charlie Captured the Kaiser(1918) Over the Rhine with Charlie(1918) Charlie in Turkey(1919) Charlie Treats 'Em Rough(1919) Charley Out West(1919) Charley on the Farm (1919) Charley at the Beach(1919) 『チャップリン暗殺計画 世界の喜劇王を救ったのは誰か?』(1980年、重延浩 他演出) - 1932年来日中のチャップリンに対する暗殺計画の騒ぎに巻き込まれた士官候補生、若き映画人らの奮闘ぶりを描く。 『Young Charlie Chaplin』(1989年、Baz Taylor監督) - 若き日のチャップリンが貧苦の中で俳優として成功しようと苦闘する姿を描く。 『Baggy Pants and the Nitwits』(1977年、NBC) - チャップリンの小さな放浪者の扮装をした擬人化猫を主人公とするアニメシリーズ。 『チャップリン&CO(英語版)』(2011年、フランス3) - チャップリンの小さな放浪者が主人公のCGアニメーションシリーズ。 『Chaplin, A Memory as Entertainment』(1981年発表・1993年初演) - チャップリンの半生を描くミュージカル。 『Limelight: The Story of Chaplin』(2006年発表・2010年初演、トーマス・ミーハン、クリストファー・カーティス作) - チャップリンの人生に基づくミュージカル。2012年にブロードウェイで『Chaplin: The Musical』のタイトルで上演。 『音楽劇 スマイル・オブ・チャップリン SMILE of CHAPLIN』(2013年4月6日公演、大野裕之脚本・演出) - チャップリンに仕えた日本人秘書・高野虎市が語る歌を織り交ぜた3人芝居。 『チャップリンを撃て』日下圭介著、講談社ノベルス、1986年9月、ISBN 4061812661。 『五月十五日のチャップリン』川田武著、光文社文庫、2005年5月、ISBN 433473880X。 『チャップリン謀殺計画』松田十刻著、原書房、1998年4月、ISBN 4562030801。 『チャップリン謀殺指令』松田十刻著、新人物往来社、2010年5月、ISBN 978-4404038517。上記『チャップリン謀殺計画』の改題、改稿。 『ライムライト』(『天切り松闇がたり』 第5巻)浅田次郎著、集英社、2016年8月、ISBN 978-4-08-745475-8。 『チャップリン暗殺指令』土橋章宏著、文藝春秋、2017年6月、ISBN 978-4163906690。 『泣いてチャップリン』森毅著、幻冬舎メディアコンサルティング、2019年4月、ISBN 978-4344922396。 『The Führer and the Tramp』Sean McArdle・Jon Judyc著、2021年。ISBN 978-1954412064 - 歴史改変グラフィックノベル。チャップリンが『独裁者』の撮影中にヒトラー・ナチスと戦う物語。 『Charlie Chaplin』(マルク・シャガール) 『Charlie Chaplin』(マルク・シャガール) - 上記の同タイトル作品とは別作品。 『チャップリン』(岡本一平) 『Charlie Chaplin's Comic Capers』ステュアート・カロザーズ・エルジー・クリスラー・シーガー著、Chicago Herald、1915年 - 1917年 『Charlie Chaplin』Bertie Brown著、英国の週刊漫画誌"Funny Wonder" に連載。Amalgamated Press、1915年 – 1944年。また、同誌は1926年チャップリンを表紙絵に使い始めた。 『チャップリン』森田拳次著、講談社、1970年 『チャップリン』パク・ヨナ文、クレパス絵、猪川なと訳、岩崎書店、2014年 『喜劇王 チャップリン』藤波俊彦著、小学館小学8年生 2023年2月24日発売号・春のパワーアップ号 『Those Charlie Chaplin feet』作詞:エドガー・レスリー(英語版)、作曲:アーチー・ゴットラー(英語版) 『チャップリン』歌:羽衣歌子、作詞:不詳、作曲:マークラス 『ハロウ!チャーリー』歌:藤田正夫、作詞:伊藤和夫、作曲:橋本国彦 『孤独の放浪者』歌:徳山璉、作詞:伊藤和夫、作曲:橋本国彦 『いらっしゃいチャップリン』歌:二村定一・永岡志津子、作詞:サトウハチロー、作曲:平岡均之 デューダのテレビCM(2014年) - 綾野剛が『独裁者』のラストシーンの演説の一部を語る。 『Charlie Chaplin,The Missing Pieces』 - パズルゲーム。B Df’rent Games発売。 Felix in Hollywood(1923年) 『バレエ・メカニック』(1924年、フェルナン・レジェ&ダッドリー・マーフィー(英語版)監督) - 実験映画。キュビズム風にデザインされたアニメーションのチャップリンが映し出される。 『サンタのオモチャ工房(英語版)』(1932年、ウィルフレッド・ジャクソン監督) - 『シリー・シンフォニー』シリーズの1作。チャップリンは、サンタクロースのオモチャ工房で作られる動く人形の一つとして登場する。 『ミッキーの名優オンパレード(英語版)』(1933年、バート・ジレット監督) - ミッキーマウス主演の新作アニメがハリウッドのグローマンズ・チャイニーズ・シアターでプレミア上映され大勢の映画スターが鑑賞する。チャップリンも出席しステージ上でミッキーと握手を交わす。 『ミッキーのポロゲーム』(1936年、デイヴィッド・ハンド監督) - ディズニーアニメのキャラクターチームとチャップリンを含む喜劇スターチームがポロの試合を繰り広げる。 『赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』(2017年 - 2021年 、山本おさむ作) - 第2章『ハリウッド・テン』vol.6『チャーリー』で赤狩り時代におけるチャップリンの受難が描かれる。 『昭和天皇物語』(2017年 - 、能條純一作) - 第74話『宴の前日』でチャップリン初来日時の軍人等による襲撃の謀議やチャップリンの皇居遥拝などが描かれる。 郵便局のテレビCM(1989年) - MMC貯金のテレビCM。チャップリンの放浪者のキャラクターがアニメーションで登場。当時、郵便局はキャンペーンにチャップリンの放浪者のキャラクターを使用していた。 『ぎふ長良川の鵜飼』(2005年) - (財)岐阜法人岐阜観光コンベンション協会による観光ポスター。訪日時に鵜飼いを見物したチャップリンの写真が掲載されている。 『夢見る人を、はじめる人に。』 - CAMPFIRE(キャンプファイヤー)の2019年テレビCM。のんとJason Allin(チャップリンのパフォーマー)演じるチャップリンが共演。 『超時間対談』(1981年) - 様々な著名人同士の架空の対談のアンソロジー。チャップリンと虫明亜呂無との対談を収載。 『放浪紳士チャーリー』(1975年、リチャード・パターソン監督) - ヴヴェイの自宅で撮影されたシーンを含む。 『知られざるチャップリン(英語版)(原題"Unknown Chaplin")』(1982年、ケヴィン・ブラウンロー、デイヴィッド・ギル監督)(外部リンクに、インターネットアーカイブに収録された当該作品へのリンクあり)
『おしゃべり人物伝』第27回「チャップリン」 ―笑わない喜劇の王様―(1984年) 『チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート』(2003年、リチャード・シッケル監督) - ウディ・アレンやジョニー・デップなどのインタビュー映像を含む。 『Charlie Chaplin: The Forgotten Years』(2003年、フェリス・ゼノーニ監督) 『Chaplin, la légende du siècle』(2014年、フレデリック・マーティン監督)- フランスのテレビドキュメンタリー。 『Chaplin vs. Keaton – Duel of Legends』(2015年、サイモン・バックス監督)チャップリンとバスター・キートンの個性と人生を比較対照しながら描いている。
『Chaplin à Bali』(2017年、ラファエル・ミレー(フランス語版)監督) - フランス・シンガポール共同制作のドキュメンタリー。チャップリンのバリ島旅行を描く。 『Chaplin vs. the FBI』(2019年) - フランスのドキュメンタリー。日本ではNHKで『チャップリン対FBI 赤狩りフーバーとの50年』のタイトルで同年に放映。 『ヒトラーVSチャップリン 終わりなき闘い』(2022年、岩田真治監督) - 日本のテレビドキュメンタリー。NHK放送。 『蝙蝠の安さん』(1931年、木村錦花作、読売新聞連載) - 『街の灯』の翻案。 『ライムライト』(1974年、ロジェ・グルニエ作、谷亀利一訳、早川書房・ハヤカワNV文庫) - 映画『ライムライト』の内容を小説化したもの。 『蝙蝠の安さん』(1933年、秋山耕作監督) - 『街の灯』の翻案。 『ただ君だけ』 - 『街の灯』をモチーフにして制作された映画。2011年公開。リメイク版として『オンリー・ユー 光を求めて(英語版)』(2014年、トルコ)、『きみの瞳が問いかけている』(2020年、日本)がある。 『太秦ライムライト』(2014年、落合賢監督) - 『ライムライト』をモチーフにした作品。 『蝙蝠の安さん』(1931年、2019年) - 『街の灯』を翻案した歌舞伎。2019年は大野裕之脚本考証、十代目松本幸四郎主演で再演された。 『リズム』(2013年、大野裕之演出) - チャップリンが1938年に発表した短編小説『リズム』を元に書き下ろした短編舞台。 『ライムライト』(2015年、2019年、2024年荻田浩一演出、大野裕之脚本) - 『ライムライト』の舞台化。主演は石丸幹二。 『イヤミはひとり風の中』(1967年) - 『街の灯』の翻案作品。赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』の1エピソード。
『イヤミはひとり風の中』(2018年) - TVアニメ版。『おそ松さん』第2期第18話。 『下町のチビ太キッドの物語』 - 『キッド』の翻案作品。赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』の1エピソード。チャップリンに似た衣装の男(赤塚不二夫の『モジャモジャおじちゃん』の主人公モジャモジャおじちゃんを流用)が捨て子のチビ太を拾って育てるストーリー。
『Charlot les temps modernes』(1973年) - Philippe Magniaux作。『モダン・タイムス』の漫画化作品。 『Les Aventures de Charlot : La Ruée vers l'or』(1974年) - Philippe Magniaux作。『黄金狂時代』の漫画化作品。 『喜劇の王様たち(When Comedy Was King)』 -ロバート・ヤングソン(英語版)監督。ハロルド・ロイドを除く当時の代表的コメディアンのほとんどが見られる。1960年。 『喜劇の大将(30 Years of Fun)』 - ロバート・ヤングソン監督。1962年。 『喜劇王チャップリン(The Funniest Man in the World)』 - バーノン・P・ベッカー(英語版)監督。1968年。チャップリンの足跡を、その作品を折りまぜて編集。その社会的背景の歴史をふくめて描く。 『シネブラボー!(Cine Bravo!)』 - ロバート・ヤングソン製作。1972年。 『僕の旅』高瀬毅訳、中央公論社、1930年。 『チャップリン自伝』中野好夫訳、新潮社、1966年。
新訳版『チャップリン自伝 若き日々』中里京子訳、新潮文庫、2017年。ISBN 978-4102185032。
デイヴィッド・ロビンソンと共著『小説ライムライト チャップリンの映画世界』上岡伸雄、南條竹則訳、集英社、2017年。ISBN 978-4087710359。 大野裕之『チャップリン再入門』日本放送出版協会〈生活人新書〉、2005年4月。ISBN 978-4140881415。 大野裕之『チャップリンの影 日本人秘書 高野虎市』講談社、2009年12月。ISBN 978-4063397598。 大野裕之『チャップリン 作品とその生涯』中央公論新社〈中公文庫〉、2017年4月。ISBN 978-4122064010。 大野裕之 『ビジネスと人生に効く 教養としてのチャップリン』大和書房、2022年11月。ISBN 978-4479393962。 マック・セネット 著、新野敏也監訳、石野たき子 訳『〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』作品社、2014年3月。ISBN 978-4861824722。 千葉伸夫『チャプリンが日本を走った』(新装版)青蛙房、2017年5月。ISBN 978-4790508908。 チャールズ・チャップリン 著、中野好夫 訳『チャップリン自伝』新潮社、1966年11月。ISBN 978-4105050016。 山本喜久男『日本映画における外国映画の影響 比較映画史研究』早稲田大学出版部、1983年3月。 デイヴィッド・ロビンソン 著、宮本高晴、高田恵子 訳『チャップリン』 上、文藝春秋、1993年4月。ISBN 978-4163474304。 デイヴィッド・ロビンソン 著、宮本高晴、高田恵子 訳『チャップリン』 下、文藝春秋、1993年4月。ISBN 978-4163474403。 Bloom, Claire (1982). Limelight and After. London: Weidenfeld & Nicolson. ISBN 978-0-297-78051-9 Brownlow, Kevin (2010). The Search for Charlie Chaplin. London: UKA Press. ISBN 978-1-905796-24-3 Cousins, Mark (2004). The Story of Film: An Odyssey. London: Pavilion Books. 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ISBN 978-0-9776299-0-9 伊藤千尋『凛凛チャップリン』新日本出版社、2020年4月。ISBN 978-4406064071。 岩崎昶『チャーリー・チャップリン』講談社現代新書、1973年1月。ISBN 978-4061157354。 江藤文夫『チャップリンの仕事』みすず書房、1989年6月。ISBN 978-4622042327。 大野裕之『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』日本放送出版協会、2007年3月。ISBN 978-4140811832。 大野裕之『チャップリン暗殺 5.15事件で誰よりも狙われた男』メディアファクトリー、2007年11月。ISBN 978-4840120906。 大野裕之『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』岩波書店、2015年6月。ISBN 978-4000238861。 大野裕之『ディズニーとチャップリン エンタメビジネスを生んだ巨人』光文社〈光文社新書〉、2021年6月。ISBN 978-4334045470。 大野裕之『ビジネスと人生に効く 教養としてのチャップリン』大和書房、2022年11月。ISBN 978-4479393962。 奥村残月『チャップリンの喜劇振り』芳文堂、1917年。 銀河協会 編『チャップリンの世界 その人と作品』英知出版、1978年3月。 小藤田千栄子 編『世界の映画作家19 チャールズ・チャップリン』キネマ旬報社、1973年2月。 小藤田千栄子 編『世界の映画作家26 バスター・キートンと喜劇の黄金時代』キネマ旬報社、1975年1月。 ジョルジュ・サドゥール『チャップリン その映画とその時代』鈴木力衛、清水馨訳、岩波書店、1966年1月。 チャールズ・チャップリン・ジュニア、N.&M.ロー『わが父チャップリン 息子が見た喜劇王の素顔』木槿三郎訳、恒文社、1975年1月。 橋本勝『チャップリン』現代書館〈For beginnersシリーズ〉、1986年3月。ISBN 978-4768400371。 林冬子、清水馨編『チャップリン その愛と神話』芳賀書店〈デラックス・シネアルバム〉、1978年4月。ISBN 978-4826105071。 デイヴィッド・ロビンソン『チャップリンの愛した女たち』宮本高晴・高田恵子訳、文藝春秋〈文春文庫〉、1993年。ISBN 978-4167309220 ロバート・パリッシュ『わがハリウッド年代記 チャップリン、フォードたちの素顔』鈴木圭介訳、筑摩書房〈リュミエール叢書〉、1995年3月。ISBN 978-4480873002。 パム・ブラウン『チャップリン』橘高弓枝訳、偕成社〈伝記 世界を変えた人々12〉、1993年4月。ISBN 978-4035421207。 淀川長治『私のチャップリン』筑摩書房〈ちくま文庫〉、1995年4月。ISBN 978-4480030207。単行初版はPHP(1977年) 淀川長治 ほか『チャップリンのために』大野裕之 編、とっても便利出版部、2000年11月。ISBN 978-4925095020。 ^ シドニーの父親の身元は確かではないが、ホークスという金持ちの出版業者であるとされている。 ^ チャップリンがエイト・ランカシア・ラッズを退団した正確な時期ははっきりとしていないが、映画史家のA.J.マリオットは調査に基づいて、その時期を1900年12月としている。 ^ ウィリアム・ジレットは、シャーロック・ホームズの舞台をアーサー・コナン・ドイルと共作し、1899年の初演以来ホームズを演じていた。1905年にジレットは新作喜劇『クラリス』をデューク・オブ・ヨーク劇場で上演したが不評で、急遽『苦境に立つシャーロック・ホームズ』を公演に追加し、チャップリンはこの作品でビリー役に抜擢された。公演は失敗したため数日で終了し、『シャーロック・ホームズ』の再演に引き継がれると、チャップリンも引き続きビリー役を演じた。 ^ このアメリカ巡業には、のちにローレル&ハーディで知られるスタン・ローレルが「スタン・ジェファソン」の芸名で参加していた。 ^ キーストン社がチャップリンを見出した経緯は諸説ある。マック・セネットによると、ニューヨークの劇場で『イギリス・ミュージックホールの一夜』に出演したチャップリンを見て、彼を引き入れるようケッセルに頼んだという。チャップリンも自伝でこの話を採用している。これ以外の説では、ケッセルがニューヨークの劇場で発見したという説や、ニューヨーク映画会社重役のハリー・エイトキン(英語版)が発見したという説がある。 ^ チャップリンが持っている竹のステッキは、当時の特徴的な紳士用品だった。19世紀半ばから20世紀初頭のイギリス紳士の間では、ステッキの材質に竹や籐を使うのがポピュラーで、特にしなやかで丈夫な日本製の竹が流行した。チャップリンが使用したステッキは、滋賀県草津市産の竹根鞭細工で、これはイギリスでも広く普及したものだった。 ^ イギリス大使館はチャップリンの主張を裏書きするように、「チャップリンはその気になりさえすればいつでも志願兵になることはできる。しかし、彼は現在、大金を稼いで戦時公債に出資することで前線で戦うのと同じほど国家のために尽くしている」と述べている。 ^ 主なチャップリンの模倣者には、ビリー・ウェストやビリー・リッチー(英語版)がいる。リッチーは自分が放浪者の扮装の考案者だと主張し、チャップリンに対して訴訟を起こしたことで知られる。ハロルド・ロイドもチャップリンを模倣したロンサム・リュークなる人物を演じていた。 ^ 大野によるとヒトラーは実際のところは立派な中流階級家庭の出身で「貧困の家庭から身を立てた英雄」として自らの生涯を捏造しようとしたという。 ^ 1910年代に名声を得た頃から、チャップリンはユダヤ人であるという憶測が広まったが、それを示す証拠は存在しない。大野によると、公的な記録に基づいて、父母双方の家系を4代遡ってもユダヤ人はいないが、母方の祖母がロマであるという。1915年にチャップリンは、記者の「あなたはユダヤ人か」という質問に対し、「残念ながらそんな幸運には恵まれていない」と答えている。しかし、ナチスはチャップリンがユダヤ人であると思い込んでいたため、『黄金狂時代』の国内上映を禁止し、チャップリンを攻撃した。チャップリンは『独裁者』でユダヤ人を演じることでこれに反撃し、「私は世界中のユダヤ人のためにこの映画を作った」と発言した。しかし、自伝では「もしあのナチス収容所の実態を知っていたら、『独裁者』はできていなかったかもしれないし、ナチどもの殺人狂を笑いものにする勇気も出なかったかもしれない」と述べている。 ^ 検察官は、チャップリンが1942年10月にニューヨークに行った時に、性的目的でバリーをロサンゼルスからニューヨークへ移動させ、彼女にニューヨークまでの旅費を支払ったことが、マン法に違反していると主張した。二人はニューヨークで会ったことは認めたが、バリーはそこで性的関係を結んだと主張した。チャップリンは1942年5月以降に関係を持ったことはないと主張した。 ^ チャップリンは1940年代以前からFBIに注目されており、報告書で最初に言及されたのは1922年だった。1946年9月にFBI長官のジョン・エドガー・フーヴァーは、チャップリンに関する特別な報告書の作成を要求したが、FBIロサンゼルス支局の反応は遅く、翌年春に活発な調査を始めた。FBIはチャップリンがイギリス人ではなくフランスまたは東ヨーロッパで生まれ、本名がイズレイル・ゾーンシュタインであるという誤った申し立てを調査するためMI5に協力を求めたが、MI5はそのような証拠を発見できなかった。 ^ 1947年11月、チャップリンはパブロ・ピカソに、ハンス・アイスラーの国外追放に抗議するためのデモをパリのアメリカ大使館前で行うよう要請し、12月に国外追放手続きの中止を求める請願書に署名した。チャップリンは1948年アメリカ合衆国大統領選挙でヘンリー・A・ウォレスを支持し、1949年に起きたピークスキル暴動に抗議する請願書に署名した。 ^ アーヴィング・バーリンのようにフルスコアの読めない作曲家はまだ珍しくなかった。 ^ 『ライムライト』は1952年に公開されたが、ロサンゼルスではボイコットのため1週間以上公開されなかったため、1972年に再公開されるまでアカデミー賞のノミネート基準を満たしていなかった。 ^ 当時鑑賞した小林信彦は「映画というものは、こんなに面白いものかと驚歎した。」という(『世界の喜劇人』第2部第3章『異端者チャーリー』)。 ^ 同年10月の『新青年』には、チャップリンが銀座を散策する様子を松山虔三が捉えた写真記事が掲載されている。 ^ 2003年(平成15年)までは公表後50年 ^ なお、この裁判では触れられていないが、サンフランシスコ講和条約発効以後に公表された「ライムライト」を除く8作品は、戦時加算の対象となりうる。 ^ チャップリン 1966, pp. 4–5. ^ ロビンソン(上) 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Charles Chaplin - IMDb(英語) Charlie Chaplin - オールムービー(英語) Charlie Chaplin | Public Domain Movies チャールズ・チャップリン - allcinema チャールズ・チャップリン - KINENOTE 『チャップリン』 - コトバンク 日本チャップリン協会Web Charlie Chaplin Archive Unknown Chaplin - IMDb(英語) Unknown Chaplin - インターネットアーカイブ Hollywood Pt. 08 Comedy a Serious Business - インターネット・アーカイブ。テムズ・テレビジョンの『Hollywood』で採り上げられたサイレント・スラップスティックコメディのドキュメンタリー。チャップリンとマックス・ランデーとの出会いやジャッキー・クーガンへのインタビューが含まれている。 “My Friend Charlie”–A 1952 Buster Keaton Interview - バスター・キートンがチャップリンについて語ったインタビュー記事(1952年)。 Chaplin: Film by Film The Faux Charlot - ウェイバックマシン(2021年7月17日アーカイブ分) - チャップリンの模倣者を紹介するサイト。チャーリー・アップリンやビリー・ウェストなど初期の模倣者として知られた俳優も紹介している。 秘話開封 歌舞伎とチャップリン - zakzak 1930年代の東京歌舞伎と若き日の戸板康二 - チャップリン名義(文責浅利鶴雄)の「日本の『カブキ』」という文章が引用され、チャップリンが見た歌舞伎の印象、演目の題名が紹介されている。 第23回 戦前期外国映画の日本版ポスター(1) - チャップリンの短編映画などを上映する「チヤプリン大会」のポスターを掲載。その中で大阪毎日新聞に掲載されたチャップリン名義の、日本の子どもたちに宛てたメッセージが紹介されている。 Charles Chaplin - インターネットアーカイブ Chaplin is " For The Ages " Oscar Honorífico a Charles Chaplin - 1972 - インターネットアーカイブ。1972年のアカデミー名誉賞受賞時の映像。 My Father Charlie Chaplin - インターネットアーカイブ。邦訳に『わが父チャップリン―息子が見た喜劇王の素顔』がある。 My Wonderful Visit By Charlie Chaplin - 1921年のヨーロッパ旅行の旅行記。 DE ACTORES A HERÓIS DE PAPEL (12) - CHARLOT / CHARLIE CHAPLIN - チャップリンのキャリアと、チャップリンを題材としたコミックを紹介しているウェッブページ。 表 話 編 歴 恋の二十分 とんだ災難 多忙な一日 彼女の友人である追いはぎ メーベルの結婚生活 笑ひのガス チャップリンの道具方 チャップリンの画工 レクリエーション 男か女か チャップリンの独身 両夫婦 新米雑役夫 髭のあと チャップリンとパン屋 アルコール自動車競争の巻 アルコール先生ピアノの巻 他人の外套 夫婦交換騒動 アルコール先生原始時代の巻 チャップリンの役者 アルコール夜通し転宅 チャップリンの拳闘 アルコール先生公園の巻 チャップリンの駈落 チャップリンの失恋 アルコール先生海水浴の巻 チャップリンのお仕事 チャップリンの女装 チャップリンの掃除番 チャップリンの船乗り生活 チャップリンの寄席見物 チャップリンのカルメン チャップリンの悔悟 チャップリンの替玉 チャップリンの消防夫 チャップリンの放浪者 午前一時 チャップリンの伯爵 チャップリンの番頭 チャップリンの舞台裏 チャップリンのスケート チャップリンの勇敢 チャップリンの霊泉 チャップリンの移民 チャップリンの冒険 犬の生活 公債 担へ銃 サニーサイド 一日の行楽 キッド のらくら 給料日 偽牧師 巴里の女性 黄金狂時代 サーカス 街の灯 モダン・タイムス 独裁者 殺人狂時代 ライムライト ニューヨークの王様 伯爵夫人 三つ巴事件(未承認作品) 教授(未公開) チャップリン・レヴュー(再編集作品) フリーク(未完成) 表 話 編 歴 チャールズ・ロートン(1935) ウォルター・ヒューストン(1936) ポール・ムニ(1937) ジェームズ・キャグニー(1938) ジェームズ・ステュアート(1939) チャールズ・チャップリン(1940) 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スイス歴史辞典 公文書館(アメリカ) RISM SNAC IdRef ^ “あの「チャップリン」模倣俳優を軒並み訴えたワケ”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社 (2022年11月13日). 2023年1月12日閲覧。 “ドイツでは「チャーリー・カップリン」、メキシコでは「チャーリー・アップリン」などと、ふざけているのかと怒りたくなるような名前の映画俳優が多数誕生したのです。” ^ Charlot, The Faux. “Charles Amador, or 'Charlie Aplin'...” (英語). 2020年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月12日閲覧。 ^ Charlot, The Faux. “Billy West” (英語). 2020年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月12日閲覧。 ^ Charles, 1925-, Chaplin; N, Rau; M, 1889-, Rau; 三郎, 1901-, 木槿 (1975). わが父チャップリン : 息子が見た喜劇王の素顔. 東京: 恒文社. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001279633-00 チャーリー・チャップリン 19世紀イングランドのコメディアン 20世紀イングランドのコメディアン 19世紀イングランドの俳優 20世紀イングランドの俳優 19世紀の脚本家 20世紀の脚本家 イングランドの男優 イングランドの映画監督 イングランドの脚本家 イングランドの自伝作家 イングランドのアナキスト サイレント映画の俳優 サイレント映画の監督 アメリカ芸術文学アカデミー会員 イギリスの反資本主義者 ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム アカデミー賞受賞者 アカデミー賞名誉賞受賞者 英国アカデミー賞受賞者 エラスムス賞 大英帝国勲章ナイト・コマンダー レジオンドヌール勲章受章者 訪日外国人 イギリスの映画音楽の作曲家 チャップリン家 在アメリカ合衆国イギリス人 サザーク区出身の人物 1889年生 1977年没 外部リンクがリンク切れになっている記事/2024年9月 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにあるallcinema人物識別子 ウィキデータにあるKINENOTE ID 良質な記事 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 BNC識別子が指定されている記事 BNE識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 CANTICN識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 ICCU識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 KANTO識別子が指定されている記事 KBR識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 Libris識別子が指定されている記事 LNB識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLA識別子が指定されている記事 NLG識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NLR識別子が指定されている記事 NSK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 PLWABN識別子が指定されている記事 PortugalA識別子が指定されている記事 VcBA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 ADK識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事 MoMA識別子が指定されている記事 ULAN識別子が指定されている記事 Deutsche Synchronkartei識別子が指定されている記事 DTBIO識別子が指定されている記事 Trove識別子が指定されている記事 HDS識別子が指定されている記事 NARA識別子が指定されている記事 RISM識別子が指定されている記事 SNAC-ID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/26 15:18更新
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