ビル=マドロックの情報(BillMadlock) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png?)
ビル=マドロックさんについて調べます
■名前・氏名 |
ビル=マドロックの情報まとめ
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
ビル=マドロック(Bill Madlock)さんの誕生日は1951年1月12日です。
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
詳細情報などについてまとめました。テレビに関する情報もありますね。ビル=マドロックの現在の年齢は73歳のようです。
ビル=マドロックのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート ビル・マドロック・ジュニア(Bill Madlock, Jr.、1951年1月12日 - )は、アメリカ合衆国・テネシー州出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。 メジャーリーグで15年間プレーして首位打者を4回獲得した後、日本プロ野球のロッテオリオンズで主に指名打者として1年間プレーした。 メジャー時代は闘志溢れるプレーで、ファミリーネームに引っ掛けて"Mad Dog"(狂犬)の異名を取った。 1969年6月のMLBドラフトでセントルイス・カージナルスから11巡目(全体の258番目)で指名されたが契約せず、1970年1月のMLB二次ドラフトでワシントン・セネタースから5巡目(全体の97番目)で指名され契約。 メジャーデビューはチームがテキサスに移転し「レンジャーズ」となった後の1973年であった。 シーズン終盤21試合に出場して打率.351を記録したが、シーズン終了後の10月26日に、ファーガソン・ジェンキンスとの交換トレードで、ビクター・ハリスとともにシカゴ・カブスに移籍。 1974年は、それまでカブスの看板打者だったロン・サントの後継者として開幕から正三塁手として起用され、途中5月4日から6月4日まで右足の踝痛、肉離れの怪我で戦線離脱したものの、128試合に出場して5本塁打、54打点、ナ・リーグ5位となる打率.313を記録した。 1975年には打率.354を記録して、自身初のナショナルリーグ首位打者となる。同年、MLBオールスターゲームにも初出場を果たし、ジョン・マトラックとともにその試合のMVPに選ばれた。 翌1976年にも、シーズン最終戦で4安打を放ちケン・グリフィー・シニアを抜いて2年連続首位打者(打率.339)に輝くが、シーズン終了後にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。 ジャイアンツでは1977年(打率.302)・1978年(打率.309)と、いずれも当時のマドロックにしては低打率に終わり、1979年シーズン途中にピッツバーグ・パイレーツに移籍。移籍後は打率.328と復調して、ウィリー・スタージェルやデーブ・パーカーらとともに活躍し、チームをワールドシリーズに導く。ボルチモア・オリオールズとの1979年のワールドシリーズでは打率.375を記録し、ワールドシリーズ制覇に貢献した。 1981年(打率.341)・1983年(打率.323)にもナショナルリーグ首位打者を獲得し、カブス時代とあわせて、「2球団でいずれも2回(以上)首位打者を獲得したメジャー史上初の選手」になった。 1985年シーズン途中には3選手との交換トレードでロサンゼルス・ドジャースに移籍。1987年シーズン途中にはドジャースを解雇され、デトロイト・タイガースに移籍。いずれのチームも移籍1年目には地区優勝したが、リーグチャンピオンシップシリーズで敗れ、ワールドシリーズ出場はならなかった。 マドロックがメジャーに在籍した1973年から1987年の間に、ナショナルリーグ首位打者になった右打者はマドロックの他にいない。三塁手として4回の首位打者は、1988年にウェイド・ボッグスに更新されるまでメジャー歴代最多であった。1970年以降に4回以上ナショナルリーグ首位打者になった選手は、現時点で他にトニー・グウィン(8回)のみである。 1988年、前年に退団したレロン・リーに代わってロッテオリオンズに入団した。背番号5。年俸1億3650万円。球団は元メジャーリーガーを手厚く迎えるべく、当時の本拠地川崎球場の一塁側ダッグアウト裏に専用のロッカールームを用意したほどだった。またマドロックは来日後初めて川崎を訪れた際、狭いフィールドを見るや「この野球場なら(本塁打)50本は打てると思う」と豪語。同年シーズンは主に「4番・指名打者」で出場した。 しかし年齢的に衰えて速い球に対応できなくなっており、かつての首位打者の片鱗は見えぬまま、打率はシーズン中盤まで2割5分を前後した。不振が続き、シーズン後半戦には4番打者から6番打者に降格した。リーのような活躍を期待していたファンを大きく裏切る低調な成績で、川崎球場の外壁には「マドロック立入禁止」なる落書きまで現れた。愛甲猛の著書によると、指名打者での登場以外ではベンチ裏でテレビゲームをしていたそうである。 同年10月19日に川崎球場で開催された近鉄バファローズ25・26回戦のダブルヘッダー、いわゆる「10.19」の第2試合で先制17号ソロ本塁打を放つなどしたものの、結局シーズン通算では平凡な成績に終わり、1年限りで退団となった。 退団時、マドロックは「ボブ・ホーナー(元ヤクルトスワローズ)は“地球の裏側にもうひとつの違う野球があった”と言ったが、そんなことはない。日本の野球だって、十分立派にやっていると思う」と自らの成績の不甲斐なさを嘆きつつ、日本野球を評した。 ロッテ時代の応援歌は「サザエさん」の主題歌であった。 1998年にボストン・レッドソックス傘下の1Aミシガンのコーチ、2000年~2001年まではデトロイト・タイガースの打撃コーチ、2003年~2004年まではアメリカ独立リーグのニューアーク・ベアーズの監督、2005年は中華職棒(CPBL)のLa Newベアーズの打撃コーチを務めた。 詳細情報年度別打撃成績各年度の太字はリーグ最高 年度別監督成績タイトル首位打者:4回 (1975年、1976年、1981年、1983年) 表彰オールスターゲームMVP:1回 (1975年) 記録MLBオールスターゲーム選出:3回 (1975年、1981年、1983年) 初出場:1988年4月8日、対日本ハムファイターズ1回戦(東京ドーム)、4番DHで先発 初安打:同上、西崎幸広からヒット 初打点:1988年4月10日、対日本ハム戦(東京ドーム)、1回津野浩から適時打 初本塁打:1988年4月14日、対南海ホークス戦(大阪スタヂアム)、5回中条善伸からソロホームラン 背番号38 (1973年) 18 (1974年 - 1979年) 5 (1979年 - 1985年、1988年、2005年) 52 (1985年) 12 (1986年 - 1987年) 7 (1987年) 2024/06/21 00:02更新
|
Bill Madlock
ビル=マドロックと同じ誕生日1月12日生まれの人
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
ビル=マドロックと近い名前の人
話題のアホネイター
![ビル=マドロック](https://if2.info/geinou/logo/ビル=マドロック.gif)
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ビル=マドロック」を素材として二次利用しています。