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ヨシフ=スターリンの情報 (IosifStalin)
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【11月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

ヨシフ=スターリンの情報(IosifStalin) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ヨシフ=スターリンさんについて調べます

■名前・氏名
ヨシフ=スターリン
(読み:Iosif Stalin)
■職業
政治家
■ヨシフ=スターリンの誕生日・生年月日
1879年12月21日 (年齢1953年没)
卯年(うさぎ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
不明

ヨシフ=スターリンと同じ1879年生まれの有名人・芸能人

ヨシフ=スターリンと同じ12月21日生まれの有名人・芸能人

ヨシフ=スターリンと同じ出身地の人


ヨシフ=スターリンの情報まとめ

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ヨシフ=スターリン(Iosif Stalin)さんの誕生日は1879年12月21日です。

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現在、病気、父親、事件、結婚、家族、映画、テレビ、事故、姉妹、趣味、兄弟、母親、脱退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1953年に亡くなられているようです。

ヨシフ=スターリンのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин、グルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი、ラテン文字表記の例:Iosif Vissarionovich Stalin、1878年12月18日(ユリウス暦12月6日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。同国の第2代最高指導者 (1924年 - 1953年) であり、 ソビエト連邦共産党中央委員会書記長(1922年 - 1934年)、ソビエト連邦人民委員会議議長・ソビエト連邦閣僚会議議長(1941年 -1953年)、ソビエト連邦国防人民委員・軍事大臣(1941-1945)などの役職を歴任し、ソ連邦英雄の称号を持ち、軍人としての最終階級はソ連邦大元帥である。民族的にはグルジア人。

1878年12月18日、ロシア帝国統治下のグルジアのゴリで生まれた。正教の神学校で教育を受けるが、後に無神論に転向してマルクス主義の信奉者となり、1899年10月に神学校を去って革命家へと転身した。

その後、ウラジーミル・レーニンが率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派に加わり、1912年に党中央委員に選出された。1917年の十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握した後、レーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府である人民委員会議の有力者となり、1922年4月に党書記長に就任し、同年12月のソビエト連邦の建国にも深く関与した。ソビエト連邦の指導者であったレーニンが1924年1月に死去すると、その後継をめぐって起きたレフ・トロツキーとの権力争いを制し、トロツキーを1929年に国外追放とした。自身が務めていた党中央委員会書記長に権限を集中させることで最高指導者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派の粛清の大義名分としても用いられた。

以降は人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議議長、軍事大臣、前述の党中央委員会書記長などの要職を兼任し、死去する1953年3月まで最高指導者の地位にあった。

1928年10月には戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)による合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済力を有する基盤を作り出したと評されている。      

一方で急速な経済構造の改革と、反対派に対する厳しい弾圧は国民に多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、ホロドモールへと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万人以上、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万人が処刑あるいは追放された。

1939年、ナチス・ドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化するなか、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり、反共主義・反スラヴ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻は第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割・バルト三国併合・東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国の日本とも日ソ中立条約を締結した。

1941年6月、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連は、イギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加し、アメリカの連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされた。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの強権支配と反体制派の粛清を続け、軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都であるベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦でモンゴル人民共和国の独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州・内モンゴルのほか、日本の北方領土や南樺太、38度線以北の朝鮮半島(現在の朝鮮民主主義人民共和国)を占領した。

連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく、国際連合安全保障理事会常任理事国となり、アメリカ合衆国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた。ヤルタ会談とポツダム会談では大戦後のヨーロッパ情勢についての協議を行い、冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西ヨーロッパ諸国と北大西洋条約機構を結成したアメリカに対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東ヨーロッパ諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦で中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、1946年12月の第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、1950年6月の朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。

1953年3月5日にクンツェヴォ・ダーチャにて病没するまで国家指導者としての立場は続き、ソ連国内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることから理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、原爆開発・宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年8月のRDS-1で成功し、後者も後に実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。

スターリンの死後における権力闘争の過程で、ニキータ・フルシチョフらはスターリン派の政治局員や、スターリンの政策に対する批判を展開。これによって政敵となりうる政治局員は失脚に追い込まれた。その過程でフルシチョフが危険視したNKVD議長のラヴレンチー・ベリヤとその部下十数名は裁判で死刑判決を受け銃殺刑に処せられた。1956年2月の第20回党大会においてフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、スターリンは偉大な国家指導者という評価から一転、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。

その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を困難にしている。この流れはソ連の後継国に当たるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見 と、英雄とみなす意見とが混在する状態にある。なお、1944年から1955年までのソ連国歌には名前が入っていたが、スターリン批判を受けその次の国歌では名前がなくなっている。

1878年12月18日(ユリウス暦では12月6日)にグルジア語名イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ(グルジア語:იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)、ロシア語名ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語:Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли)として、ロシア帝国下のグルジアのゴリに生まれた。父のヴィッサリオン・ジュガシヴィリはゴリに工房を構える靴職人、母のケテワン・ゲラーゼはレンガ職人の娘であり、共に農奴の家系の出身であった。スターリンは両親の第3子であったが、2人の兄は幼児期に死没していたため、実質的には長男として育てられた。

スターリンの生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった。父のヴィッサリオンは靴職人として成功しており、一時は工房で10人の従業員を雇うほどの経済的余裕があったが、伝統的なグルジア様式の靴への需要が減ったことで事業は行き詰まった。飲酒に逃避したヴィッサリオンはアルコール依存症を患い、しばしば妻や幼い息子に暴力をふるうようになった。1883年までにケテワンはスターリンを連れてヴィッサリオンの家を離れ、母子はその後10年間で9回も転居を繰り返す流浪の生活を始めた。1886年、2人は親交のあったクリストファー・シャルクビアーニ(Christopher Charkviani)司祭の家に居候を始める。ケテワンは掃除婦や洗濯婦として働き生活費を稼ぐ一方で、息子に学校教育を受けさせることを強く望んでいた。

1888年9月、シャルクビアーニ司祭の取り計らいによりゴリの教会付属学校に入学することを許された。入学後のスターリンは他の子供たちと頻繁に喧嘩したが、学業の面では極めて優秀な成績を残した。一方で、幼少期のスターリンは病気や怪我に苦しめられ1884年には天然痘に罹患し、命は助かったものの顔面の皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度にわたって馬車にはねられて大けがを負い、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。母のケテワンはスターリンが学校に入ったことを大いに喜んだが、父のヴィッサリオンは息子に靴職人を継がせることを望んでおり、学業には反対していた。ヴィッサリオンはケテワンに「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」とこぼしており、息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなどの抵抗を続けていたとされる。スターリンは度重なる父親の反対や障害を乗り越えつつ勉学に励んだ。

1894年8月、奨学金を得たスターリンは首都トビリシの神学校に入学した。トビリシ神学校は全寮制であり、司祭を目指す約600人の訓練生と共同で生活することになった。当初、スターリンは神学校でも非常に成績優秀だったが、やがて神学に対する興味を失い、成績も下降していった。また、学内で秘密裏に活動していた読書クラブに加わり、禁じられた書籍に触れるようになり、カール・マルクスの著作である『資本論』に影響され熱心なマルクス主義者となった。神学校の記録によれば、スターリンは自らを無神論者だと宣言しており、礼拝への参加や修道士への挨拶を拒否していた。また、1896年には禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持で、1898年には朝の祈禱の欠席や規律違反、反抗的態度などで繰り返し注意や処罰を受けていた。1899年4月、スターリンはトビリシ神学校を去り、2度と戻ることはなかった。

ジョージアのゴリにあるスターリンの生家
ジョージアのゴリにあるスターリンの生家

1894–1899年にスターリンが通ったトビリシ神学校
1894–1899年にスターリンが通ったトビリシ神学校

少年期の肖像画(1894年)
少年期の肖像画(1894年)

1899年10月、スターリンはトビリシ気象台の気象局員として働き始める。勤務のかたわら、社会主義理論の宣伝活動を行って多くの支持者を引きつけ、1900年のメーデーには大規模な労働者の秘密会合を組織し、ストライキを呼びかけて実際に決行させた。ロシア帝国の秘密警察であるオフラーナは、トビリシの革命的運動におけるスターリンの暗躍を察知し、1901年3月には逮捕を試みたが、スターリンは逃走に成功し、以降は地下に潜って活動を行った。これ以降、スターリンは友人や支持者からの寄付金に頼って生活し、潜伏期間中スターリンは1901年のメーデーにおけるデモ活動の計画に携わり、メーデー当日には約3000人のデモ参加者が当局と衝突する事態となった。 1901年11月、スターリンは1898年創立のマルクス主義政党ロシア社会民主労働党(RSDLP)のトビリシ委員会委員に選出され同月、スターリンは港湾都市のバトゥミに移動し、そこでは、自身の好戦的な主張によって当地で活動するマルクス主義者らの間に不和が生じたため、一部ではスターリンを帝国政府から送り込まれた煽動者であると疑う向きも現れた。ロスチャイルド家が運営するバトゥミの製油所で雇われたスターリンは、その職場で労働者のストライキを2度にわたって共謀し、実行させた。ストライキを首謀したうちの数人が逮捕された後、スターリンは大規模な抗議デモを組織したが、デモ隊が監獄を襲撃したことで軍隊が参加者に発砲し、13人のデモ参加者が死亡する事態となった。犠牲者たちの葬儀の当日、スターリンは再び大規模な抗議デモを組織したが、1902年4月、ついに当局によって逮捕された。当初、スターリンはバトゥミ監獄に収容されていたが、後にクタイシ監獄に移送され、1903年中頃には東シベリアへの3年間の流刑を宣告された。

1903年10月にスターリンはバトゥミを離れ、11月末にシベリアのノヴァヤ・ウダ(Novaya Uda)という小さな街に到着した。スターリンは2度にわたりノヴァヤ・ウダからの脱走を試みたが、最初の脱走は失敗に終わり、バラガンスク(英語版)に到達したところで凍傷のため引き返した。1904年1月、スターリンは2度目の脱走を試み、今度はトビリシまで戻ることに成功した。トビリシに戻った後、スターリンはフィリップ・マハラゼと共同でマルクス主義の新聞『プロレタリアティス・ブルゾラ(英語版)』の執筆を行う。スターリンが流刑になっている間、ロシア社会民主労働党はレーニン派の「ボリシェヴィキ」と、ユーリー・マルトフ派の「メンシェヴィキ」という、対立する2つの派閥に分裂していた。スターリンはグルジアで活動する多くのメンシェビキ党員を忌み嫌い、自らはボリシェヴィキの側についた。その後、スターリンは鉱山の街チアトゥラにボリシェヴィキの拠点を確立したが、グルジアの革命運動においてはメンシェヴィキが圧倒的な多数派であり、ボリシェヴィキは少数派の勢力であり続けた。

1905年1月22日、首都のサンクトペテルブルクで血の日曜日事件が発生したとき、スターリンはロシア帝国領アゼルバイジャンのバクーにいた。事件に端を発する動乱はすぐにロシア帝国全土に広がり、1905年革命(ロシア第一革命)として知られる革命へとつながった。1905年2月、スターリンが滞在するバクーでもアゼルバイジャン人とアルメニア人の間で衝突が起こり、最低でも2000人が死亡する民族紛争(英語版)が勃発した。紛争の最中、スターリンは配下の者を武装させてボリシェヴィキの戦闘部隊を組織し、バクー市内で両民族が衝突するのを防ぐように命じ、その一方で動乱に乗じて街から印刷機材の強奪を行わせた。その後グルジア全域に動乱が拡大するとスターリンはさらに多くの戦闘部隊を組織したが、それはメンシェヴィキも同様だった。スターリン配下の部隊は各地の警察や軍隊を武装解除させ、帝国政府の兵器庫を襲撃し、またコサック軍や黒百人組に対しても戦闘を仕掛け、時にはメンシェヴィキ系の民兵と共闘することもあった。活動資金を調達するため、スターリンの部隊は各地の商店や鉱山からみかじめ料をゆすり取っていた。この年、スターリンはトビリシにて自身と同じくグルジア出身で、仕立て屋の娘だったエカテリーナ・スワニーゼと出会う。

1905年11月、スターリンはグルジア・ボリシェヴィキの代表団の1人に選出され、サンクトペテルブルクで開催されるボリシェヴィキ協議会に出席することになった。サンクトペテルブルクに到着したスターリンは、レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤから開催地がフィンランド大公国のタンペレに移動したことを告げられ、この1905年のタンペレ協議会(英語版)において、スターリンは初めてレーニンと出会ったような気がした。。スターリンはレーニンの人格と知性に感動したが、レーニンの言説に反駁することを恐れなかった。スターリンはドゥーマが最近作った選挙に参加するというレーニンの提案に反対し、スターリンはレーニンに認められた。スターリンはこの協議で、将来の指揮官エメリアン・ヤロスラフスキー(en:Emelian Yaroslavsky)や、ソロモン・ロゾフスキー(後に外務人民委員代理を歴任)と出会った。スターリンはレーニン達との協議後、ツァーリに反抗的な地域をコサック軍が再び抑えようとしているグルジアへ戻り、トビリシにおいてスターリンとメンシェヴィキ党員は将軍のフョードル・グリーアザノフ(Fyodor Griiazanov)の暗殺を目論み、1906年3月1日に実行に移した。スターリンは金品強要、銀行強盗、資金強奪などの行為を通して、ボリシェヴィキのために金を集め続けた。1906年4月、スターリンはロシア社会民主労働党第4回大会に出席し、この大会で将来の国防人民委員および最初の元帥となるクリメント・ヴォロシーロフ、チェーカーを設立するフェリックス・ジェルジンスキー、そしてレーニンの死後に権力を共有するグリゴリー・ジノヴィエフと出会う。また同時期にボリシェヴィキの協議で、「銀行強盗禁止」が賛成多数で可決され、この決議は資金集めの手段として銀行襲撃を行っていたスターリンを動揺させた。

1906年7月、スターリンはエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、グルジアのセナキで教会式を挙げた。1907年3月、スワニーゼは長男のヤーコフを出産した。歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、スターリンはこの年までに「グルジアの有力ボリシェヴィキ」として頭角を現していた。スターリンは1907年5月から6月にかけ、ロンドンで開かれた第5回ロシア社会民主労働党大会(英語版)に出席した。この大会では、レーニン派のボリシェヴィキのヘゲモニー強化と、ロシアでの共産主義革命のための戦略について討議した。スターリンは当地でレフ・トロツキーと初めて出会い、スターリンはすぐにトロツキーを嫌うようになり、トロツキーを「美男子だが役に立たない」と評した。

党大会の後、スターリンはトビリシに戻り大規模な強盗計画(1907年チフリス銀行強盗事件)を準備した。1907年6月26日、スターリンの一味は武装した現金輸送隊をエレヴァン広場で待ち伏せし、発砲と手製爆弾による襲撃を行った。警備側の死者はおよそ40人で、一味は25万ルーブル(今日の価格でおよそ340万ドル)を持って広場からの逃走に成功する。スターリンは計画全般を指揮していたが、実行には参加していない。この銀行強盗の後、スターリンは妻子を連れてバクーに移り住んだ。銀行強盗を禁止していたメンシェヴィキは憤慨し、容疑者を調査させ、事件は以後スターリンに難儀をもたらすが、党からの追放は免れた。国立銀行からの強奪を成功させたことがスターリンがレーニンからの信頼を得る契機となったと評する見方もある。同年8月、スターリンはドイツのシュトゥットガルトで開催された第二インターナショナル第7回大会に参加した。

1907年11月22日、チフスに罹患していた妻のエカテリーナが病死し、スターリンに深い悲しみを与えた。スターリンは友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語っている。妻の死後、息子のヤーコフをトビリシに居る彼女の親族に預け、革命活動を再開したスターリンはより多くのストライキと社会運動(扇動)を組織した。ムスリムのアゼルバイジャン人と、バクーに住むイラン人(en:Iranian peoples)の労働者を重点的に取り扱いイスラム社会民主党と呼ばれるムスリムのボリシェヴィキグループの設立を手伝った。さらに人的資源と兵器によるイラン立憲革命を支持し、ペルシアを訪問した際にはパルチザンを組織している。バクーで配下のギャングを再結成し、黒百人組への攻撃を再開したほか、資金を集めるために強盗・みかじめ料の要求・通貨の偽造などを行い、時には身代金目当てに富豪の子供の誘拐も行った。1908年初頭、レーニンおよびゲオルギー・プレハーノフに会うためスイスのジュネーヴを訪れたが、当地でプレハーノフはスターリンを憤慨させた。

1908年3月、スターリンは逮捕された後、バクーのバイロフ監獄(Bailov Prison)に収監され、最終的にヴォログダ州ソリヴィチェゴドスク村での2年間の流刑を宣告され、1909年2月に流刑地に到着した。6月、女装して村から逃亡しコトラスを経由してサンクトペテルブルクまで戻った。1910年3月、再び逮捕されソリヴィチェゴドスクに送還された。この流刑中マリア・クザーコヴァという女主人と不倫し、隠し子のコンスタンティン・クザコフを儲けた。1911年6月、ヴォログダの街に移動することを許可され当地で2カ月間を過ごした。その後、再びサンクトペテルブルクまで逃亡したが、1911年9月には逮捕され、ヴォログダでの3年間の流刑を宣告された。

スターリンが流刑中の1912年1月、プラハ協議会(英語版)にて最初のボリシェヴィキ中央委員会のメンバーが選出された。しかし、党員に扮したオフラーナのスパイであるロマン・マリノフスキーの密告により、中央委員に選ばれた党員の多くがロシアへの帰還時に逮捕された。空白状態を埋めるため、レーニンとジノヴィエフはスターリンを新たな中央委員として選び、スターリンは流刑地のヴォログダでこの決定を了解し、その後生涯にわたって党中央委員会のメンバーであり続けた。

1912年2月、スターリンは再度サンクトペテルブルクへ逃亡し、当地で旧来のボリシェヴィキ機関紙である週刊の『ズヴェズダ(英語版)』を、日刊の『プラウダ』として刷新する任務を遂行した。『プラウダ』の創刊号は1912年4月に発刊されたが、スターリンがその編者であることは秘密にされていた。1912年5月、再び逮捕されたスターリンはシベリアでの3年間の流刑を言い渡され、7月には流刑地であるシベリアの村ナルイム(英語版)に到着し、ナルイムでは同じくボリシェヴィキのヤーコフ・スヴェルドロフと相部屋になった。2カ月後、2人はサンクトペテルブルクへと逃亡し、スターリンは『プラウダ』の編集・執筆作業を再開した。

メンシェヴィキとボリシェヴィキから各6人が選出された1912年10月の議会選挙の後、スターリンは両党派の和解を主張する記事を執筆したが、そのことでレーニンからの批判を受けた。1912年後半、スターリンはレーニンに会うためオーストリア=ハンガリー帝国領のクラクフを2度訪問し、最終的にはメンシェヴィキとの融和に反対するレーニンの立場に同調し、その後レーニンと裕福なボリシェヴィキ支持者の夫婦とともに数週間を過ごした。また、この間に将来のソ連政府の有力な政治家となるニコライ・ブハーリンと初めて出会う。1913年1月、スターリンは首都ウィーンに移動し、当地でボリシェヴィキがロシア帝国内の民族的マイノリティにいかに対処すべきかという「民族問題」についての研究を進めた。スターリンは、レーニンからこの問題に関する論文を執筆するよう激励されていた。

完成した論文は『マルクス主義と民族問題(英語版)』と題され、ボリシェヴィキの月刊誌Prosveshcheniye(啓蒙)の1913年3月 – 5月号で初めて発表され、その内容はレーニンを非常に満足させた。ヨシフ・ジュガジヴィリはこの論文を「K.スターリン」という筆名の下で発表した。「スターリン(Stalin)」はロシア語で「鋼鉄」を意味する語「stal」に由来するものであり、「鋼鉄の人(Man of Steel)」とも訳される。ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフの筆名「レーニン」を模倣した名である可能性も指摘されている。彼はその後「スターリン」の名を生涯使い続けたが、歴史家サイモン・モンテフィオーリは、党内で名声を得るきっかけとなった論文がこの筆名の下で発表されたことがその理由であるとしている。

1913年2月、サンクトペテルブルクに戻っていたスターリンはまたも逮捕され、今回は脱走が極めて困難なシベリアの奥地トゥルハンスク州での4年間の流刑を宣告された。1913年夏に流刑地のコスティノ(Kosutino)という村落に到着したが、翌1914年3月には脱走を警戒した当局によって北極圏の端にある村落のクレイカ(ロシア語版)へと移送された。クレイカでスターリンは原住民のツングース族やオスチャーク族と親密な関係を築き、多くの時間を釣りをして過ごした。一方で、同地ではリーディア・ペレプルイギナ(Lidia Pereprygina)という当時13歳(帝政ロシアの性的同意年齢を1歳下回っていた)の少女と関係を持ち、彼女は1914年12月頃にスターリンの子を出産したが、この子供は生後間もなく死亡した。1917年4月頃、ペレプルイギナは2人目のスターリンの子を産み、「アレクサンドル」と名付けた。

スターリンが流刑地にいた間に第一次世界大戦が勃発し、ロシア帝国は戦時下に入った。1916年10月、スターリンは他の流刑中のボリシェヴィキとともにロシア帝国軍に召集され、1917年2月にはクラスノヤルスクに赴いたが、身体検査官によって腕の障害が認められたスターリンは兵役には不適格と判断された。その後はクラスノヤルスクに近いアチンスクにて残り4カ月間の流刑に服すことを許可され、首都ペトログラードで二月革命が勃発して帝政が崩壊した際もアチンスクに滞在していた。スターリンは3月に列車でペトログラードに帰還し、帰還後は当地の『プラウダ』編集局をレフ・カーメネフと共同で引き継いだ。さらには多大な権力を持つペトログラード・ソビエト(英語版)の執行委員会におけるボリシェヴィキの代表者に任命され、4月に行われた党中央委員会選挙ではレーニン、ジノヴィエフに次ぐ3番目に高い得票数で再選されるなど、スターリンは当時の党内で高い地位を確立していた。

その後、スターリンはボリシェヴィキ支持者による武装デモ(七月蜂起)の計画実行に携わったが、臨時政府はこのデモを鎮圧した後にボリシェヴィキへの弾圧を開始し、『プラウダ』の事務所を急襲した。 襲撃の最中、スターリンはレーニンを事務所から逃し、その後はペトログラード市内の複数の隠れ家を転々とさせてその安全を確保し、最終的にはラズリーフ(英語版)に脱出させた。レーニン不在の間、スターリンは『プラウダ』の編集を続ける一方でレーニンの代理としてボリシェヴィキを指導する役割を果たし、密かに開催された第6回党大会も監督した。この第6回大会で、スターリンは編集長および憲法制定議会議員に選ばれ、中央委員に再選された。やがてレーニンがクーデターを起して臨時政府を転覆し、武力によってボリシェヴィキが権力を奪取することを主張し始めると、スターリンとレフ・トロツキーはレーニンの行動計画を支持したが、カーメネフら一部の党員は反対した。その後レーニンがペトログラードに帰還し、 10月10日に行われた党中央委員会の投票でクーデターの決行が過半数の支持を得て採択された。反対票を投じたのは、カーメネフとジノヴィエフの2人のみだった。

1917年10月24日、警察が『プラウダ』の事務所を襲撃し、印刷機材を破壊した。スターリンは破壊された機材の一部を修復して編集業務を再開した。10月25日の早朝、スターリンはボリシェヴィキによるクーデター(十月革命)の司令部であったスモーリヌイ学院(英語版)に向かい、レーニンとともに党中央委員会の会合に出席した。その後ボリシェヴィキの軍勢がペトログラード市内の発電所、郵便局、国営銀行、電話交換局、数カ所の橋を占拠し、ボリシェヴィキ支配下の巡洋艦「アヴローラ」が冬宮殿を砲撃すると、宮殿内の臨時政府閣僚は降伏し、ボリシェヴィキによって逮捕された。クーデター中、スターリンに課せられた任務は第二回全ロシアソビエト大会に出席中のボリシェヴィキ代表団に事態の状況説明を行うことであり、その役割は表立ったものではなかった。それを根拠として、トロツキーら敵対するボリシェヴィキは十月革命におけるスターリンの役割は些細なものであったとのちに主張したが、その見解は複数の歴史学者によって否定されている。1918年3月、メンシェヴィキの指導者ユーリー・マルトフは、ボリシェヴィキが革命前に犯罪を犯したということを暴露した記事を発表し、それには、スターリンが銀行強盗を組織し、そのために党から追放されたという記事(後半は虚偽)が記載されていた。スターリンはマルトフを名誉毀損で告訴し、勝訴した。

1917年10月26日、レーニンは新ロシア政府として組織された「人民委員会議(ソヴナルコム)」の議長への就任を宣言した。スターリンは民族問題人民委員に任命された。新しい任務に専念できるようにと、スターリンは『プラウダ』の編集者としての地位を解任された。新政府においてスターリンは、レーニン、トロツキー、スヴェルドロフとともに非公式な「4人組」として首脳部を形成した。ボリシェヴィキの本部が置かれたスモーリヌイ学院では、スターリンの執務室はレーニンの執務室の近くに設けられており、約束なしでレーニンの書斎を訪れることが許されていたのはスターリンとトロツキーの2人だけだった。当時のスターリンはレーニンやトロツキーのように一般的に有名ではなかったものの、ボリシェヴィキ内部では重要人物として台頭していた。スターリンはレーニンによる秘密警察機関「チェーカー」の設立を強力に支持し、チェーカーによって始められた赤色テロも擁護した。カーメネフやブハーリンとは異なり、スターリンがチェーカーとそれによるテロの急激な成長拡大について懸念を示すことはなかった。

ボリシェヴィキが権力を掌握した後、右派・左派を問わずその支配に抵抗する勢力が蜂起し、ロシア内戦が勃発した。内戦により減少を続ける食糧の供給を確保するため、人民委員会議は1918年5月、スターリンをロシア南部における食糧徴発の責任者としてツァリーツィンに派遣した。軍司令官としての価値を示すため、スターリンはツァリーツィンに到着するとすぐに現地の軍の指揮権を自らに移行させた。ツァリーツィンで、スターリンは将来的に自らの軍事的・政治的支持基盤の中核となる、クリメント・ヴォロシーロフとセミョーン・ブジョーンヌイの2人との親交を深めた。数的優位によって勝利を得るため、スターリンは大量の赤軍兵士を動員して反ボリシェヴィキの白軍を攻撃したが、この戦略は赤軍側に多大な犠牲を強いることとなり、レーニンにも懸念を抱かせた。

白軍との戦闘の一方で、スターリンはツァリーツィンのチェーカーに命令を出して反革命分子の嫌疑がある者を逮捕し、時には裁判なしで処刑した。また、軍事・食糧収集に従事する中産階級の「専門家」を政府からの命令に反して粛清し、さらに一部を処刑した。スターリンによる国家的暴力とテロの使用は、ほとんどのボリシェヴィキ首脳が許容する範囲を超えていた。例として、農民が食糧徴発の実施に従うことを確実にするため、スターリンはいくつかの農村を燃やすように命令した。

1919年の初期にモスクワへ戻ったスターリンは、長年の伴侶となるナジェージダ・アリルーエワと3月24日に結婚した。同じく3月の第8回党大会で、レーニンは過度の犠牲者を出すに至った戦術を用いたとして、スターリンを批判した。1919年5月、スターリンはペトログラード近くの西部戦線に派遣された。赤軍兵士の大規模な逃走と離反を止めるため、スターリンは脱走兵と反逆者を集めると、彼らを公然と「裏切り者」として処刑した。

ボリシェヴィキは1919年末までにロシア内戦での勝利を確定させた。それに伴い、人民委員会議はその関心を国外へのプロレタリア革命の拡大に向け、この目的達成のため、1919年3月には「コミンテルン」を結成していた(コミンテルンの創立式典にはスターリンも出席した)。スターリンは、欧州中のプロレタリアートが革命の寸前にあるというレーニンの考えには同意していなかったものの、単独で存在する限り、ソビエト・ロシアは無防備なままであるとは認識していた。1920年2月、スターリンは労農監査人民委員(英語版)に任命された。同月にはまた、カフカース戦線に異動となった。

1920年、ポーランド・ソビエト戦争が激化し、ポーランドはウクライナに軍を展開し、一度は赤軍が抑えたキーウを、ウクライナのディレクトーリヤ軍と合同して、1920年5月7日に占領していた(キーウ攻勢(ウクライナ語版、英語版))。5月26日には、スターリンもウクライナの南西戦線に派遣された。赤軍は6月10日にキーウを奪還し、速やかにポーランド軍をウクライナから駆逐してポーランドに押し返した。1920年7月16日、ボリシェヴィキはこのまま戦争を継続し、ポーランド領内に侵攻することを決定した。レーニンは、赤軍の侵攻によってポーランド国内のプロレタリアートが立ち上がり、赤軍と共同でユゼフ・ピウスツキの政権に反抗すると信じていた。一方、スターリンはポーランドの労働者階級はナショナリズムから自国の政権を支持すると予想しており、レーニンの考えに対し警告を発した。スターリンはまた、赤軍はポーランドに侵攻するには準備不足の状態であり、侵攻を強行した場合クリミアの白軍に再起のチャンスを与え、内戦が再燃する事態になりかねないと考えていた。最終的にスターリンは議論に負け、レーニンの決定を受け入れた。

その後、ミハイル・トゥハチェフスキーが率いる赤軍がポーランドの首都ワルシャワに向けて進撃する一方で、スターリンは南西戦線でリヴィウの攻略を指揮した。8月初旬、スターリンは配下の部隊を移動してトゥハチェフスキーのワルシャワ攻略を支援するよう再三にわたり命令されたが、リヴィウ攻略を優先するため、命令の実行を拒否した。8月中旬、ポーランド軍は反攻に転じて赤軍を撃退し(ヴィスワ川の奇跡)、スターリンは政治局会議に参加するためモスクワに帰還した。モスクワに戻った後レーニンとトロツキーから戦争指導について批判され、自尊心を傷つけられたスターリンは、8月17日に自らを軍事的役職から解任することを要求し、9月1日に受理された。

1920年9月22日から開かれた第9回共産党協議会で、トロツキーはスターリンがポーランドとの戦争で「戦略的ミス」を犯したとの告発を行った。トロツキーは、部隊の移動命令を拒否することでスターリンは戦争をサボタージュしたと主張し、レーニンもそれに同調したほか、大会期間中、スターリンの行動を擁護する者は皆無だった。スターリンは屈辱を与えられたと考え、トロツキーへの敵愾心を強めた。ポーランド・ソビエト戦争は、1921年3月18日、ボリシェヴィキがポーランドと講和条約(リガ平和条約)を結んだことにより正式に終戦を迎えた。

1921年2月、近隣諸国に支配を拡大することを望んだソビエト政府は、メンシェヴィキの支配地域であるグルジア民主共和国に侵攻した。同年4月、スターリンはトルキスタンに赤軍を派遣し、ロシアによる同地域の支配を再確認させた。民族問題人民委員として、スターリンは各々の国民と民族集団が自己表現の権利を有するべきであると考えており、そのためにはロシア国家内に地域的問題の管轄を許可された「自治共和国」を設けることが助けになると信じていた。スターリンの生まれ故郷であるカフカースは、多民族が混在する事情から特有の問題をはらんでいた。スターリンは、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンに各々の3つの自治共和国を設けるという構想に反対しており(それぞれの自治共和国内の民族的マイノリティが虐げられる可能性が高いと考えていた)、代わりに「ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国」という連邦国家の樹立を要求した。しかし、グルジア共産党は連邦国家の構想に反抗し、「グルジア問題」が引き起こされた。

1921年の半ば、スターリンは南カフカースを訪問し、グルジア内の民族的マイノリティ(アブハジア人、オセチア人、アジャリア人)を排除するような排外的グルジア愛国主義を避けるよう、グルジア共産党員に要求した。この訪問の際、スターリンは長男ヤーコフに会い、彼をモスクワに連れて帰った。それに先立つ1921年3月には、妻ナジェージダがスターリンにとっての次男ワシーリーを出産していた。

内戦の終結後、ロシア全土で政府による食糧徴収への反発を主な動機とする労働者のストライキや農民の一揆が勃発し、その対策としてレーニンは市場経済を容認した改革である「新経済政策(ネップ)」を施行した。この当時、共産党内部でも内紛が生じ、労働組合の廃止を求めるトロツキーの党派にレーニンが反対したことを受け、スターリンが反トロツキーの党派を組織した。1922年の第11回党大会において、レーニンはスターリンを党書記長に任命した。この任命にあたり、すでに他の役職に就いているスターリンの作業負荷を過度に増加させ、また権力を必要以上に拡大させるとの懸念が示されたが、それでも彼が書記長に指名された。歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、主な同盟者の1人であるスターリンを重要な地位に就けることは、レーニンにとって好都合であった。

1922年5月、レーニンは脳卒中の発作を起こし、半身不随となった。その後レーニンはゴールキの別荘(ダーチャ)で静養生活に入り、人民委員会議とのつながりは頻繁に面会に訪れるスターリンを通してのものとなった。スターリンは、レーニンから2度にわたって自殺用の毒薬を入手するよう要求されたが、その願いを聞き入れることはなかった。この時期のレーニンは、スターリンの態度を「アジア的」であるとして嫌悪しており、妹のマリヤ・イリイチナ・ウリヤノヴァ(英語版)に対しては、スターリンが「知的ではない」と漏らしていた。さらに、レーニンとスターリンは国際貿易の問題をめぐって意見を対立させたほか、グルジア問題をめぐっても、レーニンはグルジア単体での共和国を望むグルジア共産党中央委員会を支持しており、スターリンが推進する南カフカースの連邦国家に反対した。

両者の意見の不一致は国家の形態にも及んだ。レーニンは、「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦」という名の連邦国家の創設を要求し、ロシア国家は他のソビエト共和国と同列・同条件でこの新連邦に加盟するべきであると主張した。スターリンは、レーニンの案では非ロシア人の独立感情が促進されると考え、非ロシア民族はロシア・ソビエト共和国内部に彼らの「自治共和国」を設けることで満足させられると主張した。レーニンがスターリンを「大ロシア排外主義」として批判した一方で、スターリンはレーニンを「民族自由主義」として批判した。両者の妥協の結果として、新連邦国家は「ソビエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics)」と命名されることとなった。1922年12月、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立が正式に承認された。

同じ1922年12月にはレーニンの政治活動への参加をめぐり、スターリンが電話でレーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを「ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)と仕事の話はするな、さもないと党統制委員会に引っ張り出すぞ」と激しく叱責するという事件が起きた。レーニンはこのことでスターリンに激怒し、翌1923年3月5日に「私は自分へなされた仕打ちを忘れるつもりはない…発言を取り消すなり謝罪する用意があるか、それとも我々の関係を断ち切るかよく考えよ」と詰問する手紙を送った。それに対しスターリンは、クルプスカヤへの発言の真意はあくまでも医師たちの指示を守ってもらうためであって乱暴だとは思っていなかったと釈明し、「あなたが我々の『関係』を保持するために私の発言を撤回せよと言われるなら、そういたします。しかし、問題は何なのか、私の落ち度がどこにあるのか、人々が私に何を欲しているのかは推量したくありません」という『ずいぶん礼節を欠いた』返事をしたためた。

1923年3月6日、スターリンの返信を受け取る前に、レーニンは3度目の脳卒中発作を起こして廃人同然の状態となり、大きく回復することのないまま翌年の1月21日に死去した。1923年4月には、のちの日本の検事総長であった小山松吉が『「ソヴイエト」露国の司法制度及び訴訟手続』を法律雑誌に連載した。

1924年5月22日の第13回党大会にて、クルプスカヤの希望によりレーニンの遺書(英語版、ロシア語版)が公開された。遺書の内容は、「スターリンはあまりに粗暴過ぎる。この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちやその交際の中では我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢ならないものとなる」「背信的なスターリンを指導者にしてはならない」というものであった。レーニンはスターリンを書記長の地位から外し、「より忍耐強く、より丁重で、より思いやりがあり、あまり気まぐれではない人物」を、そのポストに任命するよう提案していた。

スターリンは党書記長としての人事権を利用し、自らに忠実な部下を党と政府の要職に配置したほか、大学教育を受けた者が多い古参党員よりも労働者・農民出身の新規党員を重用することで、自らの支持者が国家全域に遍在することを確実にした。同時に、秘密警察(チェーカーおよび後身の国家政治保安部)の重鎮であるフェリックス・ジェルジンスキー、ゲンリフ・ヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーの3人と親交を深めた。

1924年1月にレーニンが死去すると、スターリンは葬儀の取り仕切りを任され、葬儀当日にはレーニンの棺を担いだ。未亡人となったクルプスカヤの意向に反し、共産党政治局はレーニンの遺体に防腐処理を施した上で、モスクワ・赤の広場内の霊廟に設置した。霊廟は死後増大したレーニンに対する個人崇拝の一部であり、同年にはペトログラードがレーニンを称え「レニングラード」と改名された。レーニン亡き後の後継者候補にはスターリンの他、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、トムスキーなどが浮上したが、スターリンが権力独占への主な障害とみなしたのはトロツキーであり、レーニンの存命時からジノヴィエフ、カーメネフと組んで反トロツキーの同盟を結成していた。

1924年5月の第13回党大会(英語版、ロシア語版)において、「レーニンの遺書」が地方代表団の団長に対してのみ読み上げられた。スターリンは(自分を批判する)遺書の内容を恥じ、党書記長を辞任すると自ら申し出た。このへりくだった行動により、スターリンは解任の危機を脱し、書記長に留まることを許された。ジノヴィエフは増加するスターリンの権力に懸念を抱いていたが、第13回党大会では「左翼反対派(英語版)」を率いるトロツキーに対抗するため、スターリンの味方に付いた。

トロツキーの左翼反対派はネップ(新経済政策)が資本主義への行き過ぎた譲歩であると考えており、ネップ支持派のスターリンを「右翼」とみなした。スターリンは党中央委員会を自らの支持者で固める一方で、左翼反対派の党員を徐々に要職から排除していった、これらの動きは(スターリンと同じく)左翼反対派の提案がソビエト連邦を不安定にすると考えていたニコライ・ブハーリンによって支持されていた。ブハーリンは第13回党大会で共産党政治局に昇進し、スターリンと同盟関係を結んだ。

スターリンは1924年終盤からカーメネフとジノヴィエフへの攻撃を開始し、彼ら2人の支持者を重要な地位から外していった。1925年に入ると2人はスターリンとブハーリンに対して公然と敵対するようになり、同年12月の第14回党大会では政治局の多数派であるスターリンの党派に攻撃を仕掛けたが、その試みは失敗に終わった。スターリンは逆に、カーメネフとジノヴィエフによる分派主義的な行動が党の安定性を危険に晒していると批判した。1926年の半ば、カーメネフとジノヴィエフはトロツキー支持派と組んで「合同反対派(英語版)」を結成し、スターリンに対抗した。この時期、スターリンは革命を世界に広げることよりもボリシェヴィキがすでに支配した国での共産主義の構築に集中すべきだと主張し始めた。これは党内の多くの同志たちや、スターリンのイデオロギーに反対していたトロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフをも引き込んだ。

スターリンは自身の政敵の評判を徐々に下げていった。トロツキーは革命前からボリシェヴィキにはいなかったことや、カーメネフとジノヴィエフが革命に反対票を投じていたことを指摘した。トロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフは党内でますます孤立を深め、1927年11月には共産党中央委員会から追放された。11月14日、トロツキーとジノヴィエフは党からも追放され、続いて12月にはカーメネフも追放されるに至った。カーメネフとジノヴィエフは謝罪の公開書簡を書き、約6カ月後に復党となったが、トロツキーはソ連からも追放された。

スターリンはより迅速な工業化と、レーニンによる新経済政策(ネップ)を嫌った多くの党員に共感を呼んだ経済の集中管理の促進を始めた。1927年末の穀物供給の危機的な不足は、スターリンに農業集団化の推進を促進させた。1928年1月、スターリンは富農が秘蔵していた穀物の没収を監督したシベリアへ個人的な旅に出かけた。党員の多くは没収を支持したが、ブハーリンとアレクセイ・ルイコフ首相は憤慨した。ブハーリンは富農の財産の融資による迅速な工業化というスターリンの計画を批判し、ネップへの復帰を提唱した。スターリンはブハーリンを派閥主義的で資本主義的傾向であるとして非難し、その他の中央政治局の委員たちはスターリンに味方した。1929年11月、ブハーリンは政治局から追放された。

スターリンは「貧民階級の味方」という聴衆への訴えによって人気を得た。スターリンは従来のボリシェヴィキの理論である「世界革命」路線を放棄して、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱した。ロシア人は世界大戦と内戦で疲れており、「一国社会主義構築への専念」は、戦争に対する楽観的な解毒薬となった。自身の反対勢力ができあがるため、スターリンは党内の一派が党の指導者の方針に公然と反対することができない派閥主義の禁止を大きく利用した。1928年(五カ年計画の最初の年)まで、スターリンの指導者の地位は最上位にあった。この翌年、世界革命・永続革命を提唱していたトロツキーはスターリンに反対していたために追放された。ブハーリンによる党内右派のような反対勢力の裏をかき、コルホーズと工業化を主張・推進したスターリンは、党と国の両方を統制した。しかしながら、セルゲイ・キーロフのようなほかの指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年の間に行った「大粛清」まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。

スターリン政権は強制的に集団農場に移行した。大規模に機械化された農場から農業による生産高を増やし、農民たちをより政治的支配下に置き、より効率的に徴税するためであった。集産化は、1861年の農奴制の廃止以来見られなかった、土地と農産物の制御からの疎外という急激な社会的変革を起こした。農業集団化の最初の年には、工業生産高が200%(パーセント)、農業生産高は50%増加するだろうと見積もられていた が、達成されることはなかった。

ソ連時代のロシアはアメリカから毎年大量の穀物を輸入していた。ロシア革命後のソ連は、「社会主義の優越性」(社会主義がいかに優れているか)を具現化させるため、工業化を重視した経済政策を推進するようになる。工業を重視したがために農作物の値段は安値に抑えられ、農民たちは農産物の出し惜しみにでた。スターリンはこれの打開のため、個々の農家がそれぞれの農業をするのをやめさせ、農民全員を集団農場に集めて労働させ、収穫できた農作物を国に納めさせることにした。集団農場が各地に作られ、個人で持っていた農家の土地は没収されて集団農場のものとなった。集産化は数多くの農民たちの生活水準を急激に低下させたことで、農民たちは農産物を自分たちが生きられる最低限の生産高しか作らなくなった。個人の農家が持っていた家畜までもが取り上げられたため、それならば自分で家畜を殺してしまえ、という農家が続出、ついにはソ連全土で家畜を殺して食べる催しが行われた。さらにはコルホーズの役人が殺害されるなど、農民たちは激しく抵抗した。

スターリンは、農業集団化に反対したこの予期せぬ失敗者を「クラーク(富農)」と主張し、「農業がうまくいかないのは、農村に残った資本家である。すなわち富農が原因であり、富農を撲滅すべきである」と党大会で糾弾した(しかしながら、実際に「富農」と認定された農民は全農業人口のうちのわずか4 %であった)。スターリンが対象としたのは、「ネップの時代に利益を手にした農民」であり、ゲーペーウーとコムソモールによる暴力の矢面に立たされ、それらは人口の60%であった。スターリンは農民たちを無理やり分けた。「貧農」と見なされた者は集団農場の労働者にされて働かされ、「富農」「富農の助力者」、そして後に「元富農」と公式に定義された人々は、銃殺されるか強制収容所「グラーグ」に収容されるか、国から遠く離れた辺鄙な地域へ国外追放となった。この「富農」撲滅政策によって、富農の追放(en:Dekulakization)が起こった年である1930年の間に2万0201人の人々が処刑されたことを記録データが示している。農業集団化の第2段階(スターリンによる高名な論説「成功による幻惑〈Dizzy with success〉」、「集団農場の同志たちに答える」 によって1年間中断となった)は、戦術的・政治的撤退という彼の手腕の最たる例に続いて、初期の戦略の強化が施された。

「富農」に分類された農民は、勤勉な農家であるケースが多かった。家を挙げて農業に取り組んだために、相対的に豊かな生活を送っていたが、スターリンの農業集団化政策によって彼らが弾圧されたことで農業に熱心に取り組む人間がいなくなるという皮肉な事態となった。集団農場における労働者は、政府により決められた穀物しか作れず、その生産した穀物も不当に低い価格でしか買い取って貰えなかった。このため、農民の労働意欲は低下しソ連の農産物の収穫高は大きく下がり、ソ連は豊富な穀倉地帯を所有しているにもかかわらず食糧不足に陥った。「ロシアの穀倉地帯」と呼ばれたウクライナで「ホロドモール」と呼ばれる飢饉が発生(後述)し、農民たちが次々と餓死していった。

セルゲイ・キーロフは政治局員・党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする。実際、一部の党員はスターリンの後継者としてキーロフに対して秘密裏に接近していた。1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった。この一件は、スターリンのキーロフに対する反感をますます強めたものと思われる。

1934年12月1日、キーロフはレニングラードにおいてレオニード・ニコラエフ(en:Leonid Nikolaev)という青年によって暗殺された。ニコラエフは当時のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダと関係があり、スターリンがヤゴーダを通じてニコラエフをそそのかしキーロフを暗殺させたとする説は根強い。キーロフの死はボリシェヴィキをぞっとさせたが、スターリンは暗殺の知らせを聞くと、レニングラードに向かい暗殺事件の真相を究明するため、異例の現地指揮を行った。

キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探し出すことで安全対策を強化するというものであった。しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのだった。スターリンは自身の生立ちから人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、異常なまでの権力欲と顕示欲の塊であり、その目的を達するためなら手段を全く選ばなかったのである。この過程は、それから広範にわたる追放へと変移していった。キーロフの暗殺は、1936年8月から1938年11月まで続くことになる大粛清の前兆であった。

キーロフが暗殺されると、スターリンはトロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者たちを陰謀に巻き込むための構想を抱いた。調査と裁判は拡大していった。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺のあとに法律を改定する。この党大会で選出された党中央委員会の委員および中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。党大会の党員1956人のうちの1108人が「人民の敵」(ロシア語враг народа, "vrag narodaヴラグ ナローダ")(en:Enemy of the people)という烙印を押され、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに処刑された。スターリンは、裁判所に対して「人民の敵」と判断した者には死刑判決を下すこと、そしてただちに死刑を執行するよう命令していた。取り調べの際には「肉体的圧迫」、すなわち拷問を用いることを認め、罪を認めない者には拷問によって力ずくで「罪」を認めさせた。

スターリンは、起訴や弁護人による訴えなしによるわずか10日間の調査で刑を迅速に執行できるようにする『テロ組織とテロ行為』という新しい法案を可決した。その後、モスクワ裁判として知られる複数の裁判が開かれたが、その手続きはソ連全土にわたって模倣された。反革命活動の禁止を記載した法律の第58条は、幅広くあらゆる態度・物腰に適用された。根拠薄弱な口実として火事が起きただけで「破壊活動とみなされ逮捕されるケースが存在した。もっとも、多くの場合は誰かに「人民の敵」(「人民のための党を裏切るのは、人民の敵である」)の烙印を押し付けるだけで十分であった。そして国民の迫害・虐待が始まり、死とまではいかなくとも、しばしば尋問、拷問、そして国外追放にまで及んだ。ロシア語のトロイカには、NKVDの下に置かれる3つの委員会によって裁判はすぐに単純化され、刑は24時間以内に執行される、という新たな意味が加わった。

共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力をほぼ絶対的なものまでに強化し、政治的反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員たちを策略によって逮捕・追放した。スターリンは大粛清を、日和見主義者と反革命分子を追放する試みとして正当化した。党による粛清の標的とされた者たちはNKVDトロイカによる公開裁判後に矯正労働キャンプ(グラグ)への収容あるいは処刑という、より厳しい措置が取られた。

軍事指導者たちの多くは反逆罪の判決を受け、赤軍の陸軍将校の大粛清に繋がっていく。あまりにも多くの、かつて高い地位にいた革命家たちや党員への粛清はレオン・トロツキーをして「スターリン政権とレーニン政権とは『血の川』によって隔てられてしまった」と言わしめた。トロツキーは「スターリンは反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加える」との言葉も遺している。

1937年よりメキシコで亡命生活を送っていたトロツキーは、1940年8月、同地で登山家のスペイン人であったラモン・メルカデルにより暗殺された。メルカデルはトロツキー暗殺のために派遣された刺客と考えられている。これにより、かつての党指導者間の政敵の最後の生き残りを、スターリンは抹殺するかたちとなった。オールド・ボリシェヴィキは、スターリン、カリーニン、そしてモロトフの3人のみとなった。NKVDによる大規模な作戦(en:Mass operations of the NKVD)は、ポーランド人、ドイツ民族、朝鮮人といった海外のさまざまな民族を標的とした。計35万人(その内の14万4000人がポーランド人)が逮捕され、24万7157人が処刑された。粛清と並行して、ソビエトの教科書と他の宣伝材料の歴史を書き直させた。NKVDによって処刑された著名人は、初めから存在しなかったかのように教科書や写真から跡形もなく取り除かれた。革命の歴史は、徐々にレーニンとスターリンという主要の2人についての話のみに変わっていった。

公開されたソビエトの公文書と公式のデータによれば1937年には35万3074人、1938年には32万8612人(歴史家はほぼ70万人と見積もっている) もの「普通の」ソビエト国民…労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金受給者、バレリーナ、乞食が処刑された。一部の専門家は、公開されたソビエトの公文書は数字が控えめか、不完全か、頼りにならないと考えている。例えば、ロバート・コンクエストは大粛清で処刑された人数は68万1692人ではなく、その約2.5倍であったと示している。彼は名誉回復された犠牲者の死因と死んだ日付をKGBが偽造し、証拠隠滅したと考えている。伝えられるところによれば、当時、銃殺された人々のリストを見直していたスターリンは、とくに誰かに呟くこともしなかったという。

スターリンは、NKVDの諜報部隊をモンゴル人民共和国に派遣してモンゴル人によるNKVDトロイカを設立し、数万人が「日本のスパイ」として処刑されたスターリン主義者によるモンゴルの弾圧(en:Stalinist repressions in Mongolia)を誘発させた。モンゴルの統治者ホルローギーン・チョイバルサンは、スターリンの指導に密接に従った。

ただし、1937年と翌年に集中的に発生した大粛清(銃殺刑はロシア連邦国立公文書館〈GARF〉による資料によれば、1937年と翌年の合計が約78万人、対して前年の36年は1118人)の原因、政治的な計画性ならびにその過程におけるスターリンの関与の程度に関しては上述の説明に対する異論もある。ソ連崩壊後に公開された公的資料に基づく研究によれば、ノーメンクラトゥーラならびにモスクワが当時強引に進めていた農業集団化などの国家統制政策とそのもたらした混乱が一方にあり、他方でボリシェヴィキの伝統的な主意主義(「鉄の規律を誇る党」)的体質という「二つのモデルの混在」とそれに起因する矛盾が、社会全体を巻き込んだ政治的なヒステリー現象たる大粛清の社会構造的な原因であるとされている。

大粛清最盛期に君臨したNKVD長官ニコライ・エジョフ
大粛清最盛期に君臨したNKVD長官ニコライ・エジョフ

大粛清の犠牲者を弔う墓碑
大粛清の犠牲者を弔う墓碑

大粛清で処刑された赤軍のミハイル・トゥハチェフスキー
大粛清で処刑された赤軍のミハイル・トゥハチェフスキー

大粛清で処刑されたニコライ・ブハーリン
大粛清で処刑されたニコライ・ブハーリン

大粛清で処刑されたクン・ベーラ
大粛清で処刑されたクン・ベーラ

大粛清で投獄・獄死したニコライ・ヴァヴィロフ
大粛清で投獄・獄死したニコライ・ヴァヴィロフ

主な犠牲者としては、かつてスターリンとともにトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、グリゴリー・ソコリニコフ、チュバール、ゲオルギー・ピャタコフ、ニコライ・ブハーリン、ボロージン、アレクセイ・ルイコフ、カール・ラデック、ミハイル・トゥハチェフスキー、スタニスラフ・コシオール、レフ・カラハン、イオナ・ヤキール、などである。アドリフ・ヨッフェ、ミハイル・トムスキーは自殺した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのはわずか15人であった。トゥハチェフスキーを初めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に銃殺されたとされる。

俳優で演出家のフセヴォロド・メイエルホリド、作家のマクシム・ゴーリキー、生物学者のニコライ・ヴァヴィロフのような、文化人や学者も犠牲となった。外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党のクン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、演出家の杉本良吉、ドイツ共産党員でソ連に移住していた元東京帝大医学部助教授の国崎定洞が行方不明となった(いずれも逮捕・処刑されたことがのちに判明する)。

また、後述のようにこの記事に掲載されているスターリン、レーニン、カリーニンの3人が写っている写真は集合写真からの切り抜きであるが、実際の写真は1919年に行われた党中央委員選出の際に撮られたものであり、素性が分からない人物1人(後列に立っているため顔が見えない)を含めて21人が写っている写真であった。この中で氏名が判明している20名(スターリンら3人を数えなければ17名)の内11名がスターリンに粛清され、他にも3名(上記のヨッフェとトムスキーの他にミハイル・ラシェヴィチ)がスターリンに抗議して自殺している。

粛清の実行者である秘密警察職員ですら例外ではなく、ゲンリフ・ヤゴーダからニコライ・エジョフ、ラヴレンチー・ベリヤへと長官が変わるなかでNKVD職員たちも何万人と粛清された。たとえばエジョフの場合、NKVDを掌握した時点で前任者であるヤゴーダやメンジンスキーの息がかかった職員を大勢粛清して組織内での自分の立場を強化している。ほどなくヤゴーダ自身も粛清されることとなるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにベリヤに取って代わられ、粛清されている。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清しているが、ベリヤ自身もスターリン死後の権力闘争で敗れて粛清されている。当然のように、この時もNKVD内の親ベリヤ派と目されていた側近達が新体制によってベリヤとともに粛清されている。

粛清される側になったNKVDの元トップらは、当然自分たちが今まで粛清してきた人々と同じ運命をたどることになった。後述のように、今まで描かれていた絵画や写っていた写真から削除されたのである。ヤゴーダの場合、自分が建設した運河をスターリン、キーロフ、それにヴォローシロフらと船に乗って歓談している絵があったが、粛清後は削除され、代わりにヤゴーダのいた場所には手すりに掛けられたコートが追加された。ベリヤの場合、粛清後はそれまでソビエト大百科事典に載っていたベリヤの項目が完全に削除され、すでに第2版を購入していた人々の下には「ベーリング海の新たな情報」なる4ページの記事が送付された。

「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から1963年に行った秘密調査における数字ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。

1936年12月にスターリンは新憲法(スターリン憲法)を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「ソ連邦における労働」とは、すなわち「“働かざる者、食うべからず”」の原則の下、働きうるすべてのソヴィエト市民の誇りある義務であり、また努めである」とさせた。そして、「労働者の利益に従って」という条件の下、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国としては世界初だった。

だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られたものであり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。もっとも当時それ自体は珍しいことではないが、ソ連の場合、最初の選挙で議員の一人に19歳の少女が選ばれるなどエンターテイメント的な宣伝が行われ、有権者の千人に一人は候補者名を塗り潰し反ソ・反選挙的態度を見せるなどの国内の反感も受けていた。

なお、スターリン憲法はスターリンの死後に一部が改正され、1977年10月にレオニード・ブレジネフによって新憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。のちにミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって、1988年12月および1990年3月に改正された。後者の改正では大統領制・複数政党制が導入され、一党独裁制は放棄された。最終的に、1991年12月の崩壊により、憲法は失効するに至った。

スターリンは、秘密警察と情報機関の適用範囲と権力を大きく増大させた。彼の指導の下、ソ連の諜報部隊は、ドイツ(赤いオーケストラ)・イギリス・フランス・日本・そしてアメリカを含む世界の主要な国の大部分に諜報の網を構築し始めた。スターリンは偵察、共産主義の政治的プロパガンダ、そして国が許可した暴力との違いが分からなかった。スターリンはこれらをNKVDによる仕事として統合し始めた。海外の共産党のソ連支持、スターリン支持の状態にするために諜報員を潜入させるコミンテルンの活用は大きな成果を上げた。秘密警察と海外での諜報活動を統合させたスターリンの手腕の最たる例の一つは、メキシコに亡命したトロツキーの暗殺の許可を秘密警察に与えたことである。

左から、モロトフ、スターリン、ヴォロシーロフ(1937年)
左から、モロトフ、スターリン、ヴォロシーロフ(1937年)

スターリンとゲオルギ・ディミトロフ(右)(1936年)
スターリンとゲオルギ・ディミトロフ(右)(1936年)

スターリンとベリヤは、極端な同質化を国内に求め、諸民族の自治や文化的違いを敵視し、少数民族を迫害した。1930年代末には、ソビエト愛国主義とロシア愛国主義が融合し、ロシア民族とロシア帝国が後進民族に文明をもたらしたとする大ロシア主義が称揚され、少数民族はこの大ロシア主義を妨害するものとみなされた。

1939年9月のポーランド侵攻後、分割占領線となるカーゾン線東部のポーランド人数十万人を中央アジアなどの辺境地へと強制移住させた。

1941年6月の独ソ戦の開戦後まもなく、スターリンはソビエトの地図に大きな影響を与えることになる膨大な規模にわたる民族の強制移動(en:Forced settlements in the Soviet Union)をNKVD長官のラヴレンチー・ベリヤに命じ、実行した。1941年から1949年までの間にソ連領内に住む少数民族約330万人がシベリアと中央アジアの共和国へ強制移送されたと推定されている。

ポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦であったが、独ソ戦開戦後により対立が深まると、特に「敵性外国人」として標的とされたのは、ソビエト国内のドイツ系少数民族(ヴォルガ・ドイツ人)であった。分離主義、ソ連の支配に対する抵抗、侵攻してきたナチス・ドイツへの協力が、良かれ悪しかれ追放の表向きの理由として挙げられた。ドイツ人が占有する領域で過ごす人々の個々の事情は調べられることはなかった。

チェチェン人とイングーシ人(北コーカサスの同系民族)、バルカル人、カラチャイ人、クリミア・タタール人などの諸民族は、ソ連政府の農業集団化に反対した。スターリンとベリアは、ナチスと協力したとして北コーカサス諸民族を非難し、1944年2月23 - 24日の夜に、チェチェン人とイングーシ人への急襲行動が開始された。男女子供、共産党員、油田労働者、山岳住民を問わず、数日で一網打尽にされ、窓のない貨車につめこまれ、カザフスタン、キルギスに強制移住させられた。貨車は衛生状態も悪く、輸送中に多数が死亡。移住地に到着しても強制収容所と同様の惨状であり、チフスも流行し、チェチェン人とイングーシ人の全人口の40%にあたる数十万人が死んだ。

続けて1944年5月には、クリミア・タタール人も、中央アジア、ウラルに強制移住させられ、19万人のうち7万 - 9万人が死亡した。クリミア・タタール人もチェチェン人とイングーシ人も「以前の居住地(故郷)に帰る資格はない」と共産党に通告された。

また、アラン・ブロックの説明では、ナチスによる短期間のカフカース占領後、山岳民族とクリミア・タタール人の全住民 – 計100万人以上もの人々 – が、自分たちの財産没収の通知も機会も得ることなく追放された。大半の人々が赤軍により一箇所に集められて行進させられたあとに、家畜同然に輸送列車に乗せられた。ベリヤはスターリンから輸送期間を厳守するよう言われていたため、子供・妊婦・老人・障害者など足手纏いになるとみなされた者は射殺されたり、崖から突き落された。チェチェン共和国のハイバフ村では、輸送の期間に間に合わせる口実でNKVDが住民700人をコルホーズの馬屋に閉じ込めて火を放って焼き殺し、さらには耐え切れずに這いだしてきた村人を射殺する事件が起きている。

スターリンによる統治の間、以下の民族集団は徹底的にあるいは部分的に強制移住させられた。ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ソ連内の少数派のポーランド人(en:Polish minority in Soviet Union)、朝鮮人、中国人、日本人、カザフ人、トルクメン人、コサック、ヴォルガ・ドイツ人(ドイツ人)、クリミア・タタール人、カルムイク人、チェチェン人、イングーシ人、オセット人、バルカル人、カラチャイ人、メスヘティア・トルコ人、フィンランド人、スウェーデン人、ノルウェー人、サーミ人、ブルガリア人、ギリシャ人、ラトビア人、リトアニア人、エストニア人、アゼルバイジャン人、アルメニア人、クルド人、ペルシア人(イラン人も含む)、アッシリア人、アバジン人、アヴァール人、ノガイ人、タヴリン人、ダルギン人、クムイク人、ダゲスタン人、モルダヴィア人、ルーマニア人、カバルド人、ヘムシン人、en:Karapapak、ラズ人、ラック人、ヤクート、ブリヤート人、エヴェンキ、ツングースそしてキリスト教信者、エホバの証人信者、ムスリム、ユダヤ人である。多数が遠隔地であるシベリアや中央アジア、カザフ・ソビエト社会主義共和国へ強制移住させられた。その途中で何十万人もの被追放者たちが死んでいき、生き残った人々は強制収容所内で無報酬で働かされ、追放された者たちの多くは飢餓や感染症、栄養失調によって死んでいった。また、1939年のポーランド侵攻以降獲得した各国の捕虜や民間人は約390万人とされる。

1945年の武装解除後にソビエト国内へ強制連行された日本人捕虜と民間人約57万から70万人も、1956年の帰国事業終了まで遠隔地であるシベリア等に抑留させ、非人道的な労働を強制収容所で行わせた。

また、中央アジアのイスラム教の民族が団結してソ連に立ち向かうことを恐れたスターリンは、中央アジアをカザフスタン・キルギス・ウズベキスタン・タジキスタン・トルクメニスタンと5つの国に分断させた。

スターリン死後の1956年2月にニキータ・フルシチョフは「国外追放はレーニン主義に違反する」と非難して無効にしたが、クリミア・タタール人、メスヘティア人、そしてヴォルガ・ドイツ人が「大挙して」祖国へ帰還するのは1991年まで許されなかった。諸民族の追放と強制移住は、ソ連崩壊から現在に至るバルト三国の分離・クリミア危機・チェチェン紛争などと深く関わっている。

第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日、スターリンは演説でドイツとの間に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく政策転換を表明した。これ以降、ソ連はイデオロギーの相違を超えて、反共主義を掲げていたナチス率いるドイツとの協力関係を結んでゆく。その手始めが同年9月17日のポーランド侵攻であった。ソ連とドイツは協定の秘密議定書に基づき、ポーランドを東西分割し、これを併合したのである。ドイツの侵攻で瀬死状態にあったポーランドは、これによってとどめを刺された。ソビエトの支配するポーランド東側の領土では、ドイツが支配するポーランド西側に勝るとも劣らない圧政が行われた。

ポーランド侵攻後握手を交わす独ソの将校
ポーランド侵攻後握手を交わす独ソの将校

侵攻後のパレードで談笑する独ソの将校
侵攻後のパレードで談笑する独ソの将校

リヴィウにおけるソ連軍パレード
リヴィウにおけるソ連軍パレード

ポーランド・ソビエト戦争の折に自身の面子を潰され、雪辱の機会を狙っていたスターリンはラヴレンチー・ベリヤが提案したポーランド軍捕虜2万5千人の射殺を決定した。これがカティンの森事件である。のちにドイツ軍により捕虜の遺体が発見されるもスターリンは一貫してこの事件をドイツ軍の捏造であると主張した。

またバルト三国への赤軍進駐を実施し、翌1940年6月にはこれらの国々の首脳を半ば恫喝する形で調停に署名させ併合した。バルト諸国ではソ連の併合に対する反発が全土に波及した。しかし、赤軍やNKVDは進駐初日の24時間以内に反ソ的な思想を持つ住民への大規模な粛清を実施し、13万人が逮捕され貨物列車により強制収容所に輸送された。その中には、後にイスラエル第7代首相となるメナヘム・ベギンも含まれている。バルト諸国には代わりにロシア人が多数入植し、現在でも禍根を残すことになる「ロシア化」が始まる。

スターリンはドイツとアメリカ合衆国・イギリス・フランスが戦争で疲弊した後ドイツを滅ぼせば一気にヨーロッパを共産化できるものと考え、ドイツにヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などを行い、さらにソ連に亡命してきたドイツ共産党のメンバーを強制送還までさせてヒトラーの侵攻に対して便宜を図った。

不可侵条約締結後のカクテルパーティーでドイツの外務大臣のリッベントロップに対し「名誉にかけてソ連はパートナーを騙すようなことはしない」と誓ったスターリンだが、ドイツとの蜜月が長くは続かないとも考えていた。上記のバルト諸国やポーランド東部占領で領土を広め首都モスクワと距離を広げ、ドイツと接する国境付近の兵力は増強され続けた。また、防衛上の観点からフィンランドにカナリア湾の譲歩を要求したが、これにはフィンランド側が反発し冬戦争が勃発。フィンランド軍の力を見誤っていた赤軍は手痛い敗北を喫した。

一方でスターリンは西部戦線におけるドイツの快進撃を見て恐怖し、1940年11月にモロトフをベルリンに派遣した。ヒトラーはイギリス侵攻作戦を準備中だと説明し、スターリン達を安心させた。実際には、イギリス上陸作戦はすでに中止されていた。さらに、スターリンは日独伊三国同盟にソ連を交えた「日独伊ソ四国同盟」をモロトフを通じてフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シュレンブルク(ドイツ語版)駐ソ大使に提示した。その中には、北サハリンにおける日本権益の放棄という条件が入っていた。しかしソ連侵攻を考えていたヒトラーはスターリンの提案を無視した。スターリンは、ドイツ軍のソ連国境集結を四国同盟締結時の交渉材料だとみていたし、ソ連侵攻はドイツ軍参謀本部の主張であり、ヒトラーはドイツ軍将軍達を押さえ込んでいるのだと判断した。その後、次第に独ソ間の対立が深まったことから1941年5月、スターリンは人民委員会議議長(首相)を兼任し、党と政府の統一的な指導の下、一刻も早い防衛体制の確立を目指した。6月19日、スターリンは『タス通信』を通じ、「ドイツに条約破棄とソ連攻撃開始の意図ありとする噂は、まったく根拠なきものと考える」との声明を発表した。ドイツ大使館職員の家族がモスクワを去り、ドイツ汽船がソ連の港を去っても、スターリンは四国同盟締結の希望を捨てていなかった。6月21日、ベルリンのソ連大使はモスクワから「至急リッベントロップに会ってドイツの不満原因を聞け」との電報を受け取った。

しかし1941年6月22日、ヒトラーの命を受けたドイツ軍は協定を破棄してソ連に侵入した(バルバロッサ作戦)。スターリンは各大使館や諜報網(ゾルゲを含む)がつかんだ情報を事前に入手していたが、ソ連は戦争に耐えうる状況ではなく、誤情報であると頑なに信じようとしていた。そのため、ソ連はドイツ軍の侵入に対する準備が全くできていなかった。スターリンは開戦のニュースを、側近達と執務室で聞いた。スターリンは攻撃開始後も事実を認めることに気が進まないように思われ、やっと反撃命令に署名すると、開戦演説をモロトフに任せて執務室を去った。そしてクンチェボの別荘に1週間引きこもった。対独戦に対する自軍の備えが十分できておらずドイツ軍の侵攻はまだ先に延びるであろうという甘美な期待とともに「同盟者であるヒトラーが密約を破り対ソ戦を仕掛けてくるはずがない」というスターリン自身のヒトラーへの過度な期待があったとされる。さらにソ連は「日独伊ソ四国同盟」が締結直前だと信じており、スターリン以下首脳陣のほとんどがドイツから戦争をしかけてくるとは思っていなかった。

ドイツ軍は開戦初期にソ連領内に大きく進出し、何百万ものソ連兵を殺害もしくは捕虜にした。スターリン自身が行った赤軍将校の大量粛清はソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。その結果スターリンは彼の30年間の統治下で2度国内への演説を行った。最初は1941年7月2日、2度目は11月6日である。2度目の演説で彼は35万の兵士がドイツの攻撃によって戦死したが、ドイツ軍は450万人の兵士を失い(この数字に根拠はなく、不合理な過剰評価であった)ソ連の勝利は目前だと話した。スターリンは戦時体制であると強調し、「対独協力者」や「反体制分子」への摘発には平時よりも厳格な態度で臨んだ。バルト諸国やウクライナ、ポーランドはドイツ軍により初期に「解放」させられたが、ドイツ軍はそこで強制収容所の跡地からおびただしい数の遺体を発見した。それは、平時に拘束・収容されていた政治犯をNKVDがドイツ軍の侵攻が迫った地域から順に、銃器等で処刑し撤退した証しだと考えられている。

日本に潜伏していたソ連のスパイであるリヒャルト・ゾルゲによる諜報活動、東方に配備していたシベリア軍の対独戦線への投入、ヒトラーの度重なる目標変更、米英による援助物資の到着、そして氷点下50度に達した冬将軍の到来もあってモスクワ前面でドイツ軍の侵攻を停止させ、1943年2月にはスターリングラード攻防戦においてドイツ第6軍を包囲し、降伏させた。

しかしスターリンの戦略家としての欠点が、緒戦におけるソ連の壊滅的な敗北と多くの市民の死に繋がったとされる。彼はヴォルガ川の東へソ連の工業生産を移動させることによって赤軍の戦争遂行能力を保持したとされる。1942年7月27日のスターリンによる有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、彼が軍隊の規律を保持するために発揮した無情さを例証している。同指令によると、命令なしで自らの位置を離れた者は銃撃され、敵に降伏した兵士の家族はNKVDによって逮捕され、前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊の機関銃が設置された。

スターリングラード防衛戦ではこの命令により1万4000人余りの兵士が自軍によって銃殺されたとされている。真実であるとすれば、実に一個師団分の兵士が丸々味方によって殺されたことを意味する。また、当時市内には約60万人の市民が住んでいたがスターリンは「兵士の士気を上げる」という名目で市民の疎開を禁じたため、ドイツ軍の空襲により最初の一週間だけで4万人の市民が死亡したといわれる。スターリンは戦闘終結後の1943年に廃墟と化したスターリングラードを視察するが、その中で最初に復興させたのは内務人民委員部の建物であった。

戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにと、インフラと食糧供給施設を破壊する焦土作戦を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民をともに撤退させた。このために両軍が撤退した後には荒廃した土地のみが残る結果となった。

スターリンは、ドイツ軍と直面した他のヨーロッパの軍隊が完全に能力を失ったことに気づいていた。スターリングラードの戦い以降、ドイツ軍は守勢に立たされ東欧諸国は赤軍により解放された。1944年8月、赤軍の進行が近づいたポーランドのワルシャワではドイツ軍の支配に不満を持つ民衆がレジスタンスを結成していたが、赤軍は蜂起の好機と宣伝し、ワルシャワ市民に武装闘争を指令した。呼びかけに応じた市民は一斉にドイツ軍に立ち上がった。ところが直後に、赤軍はワルシャワ市の目前にして進撃を停止してしまう。公式には「補給の遅れ」が原因であるとされている。しかし、反ソ感情が根強いポーランドの亡命政府のレジスタンスを潰し、親ソ的な共産党政権であるルブリン政権に主導権を握らせたかったスターリンが仕組んだ意図的な陰謀であったという説もあり、未だ真相は不明である。ソ連の支援を得られなかったレジスタンス側はドイツ軍の反撃により壊滅し、多数の犠牲者を出す結果となった。赤軍は1945年に入った1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、赤軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。

ジューコフは回顧録の中で、総司令官としてのスターリンを次のように描写している。

「私は上司としてのスターリンを徹底的に観察した。すべての重要な決定にはスターリンの決裁が必要であった。スターリンはいつも完全で明確な報告を要求し、不完全や憶測に基づく報告は許さなかった。そして、判断することは自分自身で行った。書類の間違いを見つけることには特殊な才能があり、不備を見つけると容赦しなかった。そのため、我々はスターリンに提出する書類はこれ以上ないというくらい綿密に準備した・・」そして「スターリンは、われわれのような専門家の意見を率直に聞く耳を持っていた。彼のこうした長所を認めないのは誤りだ」と結論している。このジューコフの回顧録が出版されたのはすでにブレジネフ時代で、スターリンを称揚することは時流に逆らう行為であった。

スターリンは独ソ戦勃発により、「敵の敵は味方」の理屈でアメリカ・イギリスとともに手を組み、連合国共同宣言に署名した。ソ連の戦争貢献の大きいことによりテヘラン会談に出席し、スターリンのソ連は米英ソ中で構成される「四人の警察官構想」の一員になったが、アメリカと近い関係にある蔣介石率いる中華民国の参加に対して否定的であった。

大戦の末期、1945年になるとスターリンはヤルタ会談に出席、同年ポツダム会談にも出席し、アメリカ、イギリスと戦後の処理について話し合った。

戦前より日ソ中立条約を結んでいたが、スターリンは極東への野望を捨てていなかった。1943年10月30日夕刻、第3回モスクワ会談に参加したコーデル・ハル国務長官に対し、スターリンはドイツ戦終了と同時に対日参戦することをソ連の意思として伝えた。1945年8月、アメリカが日本の広島に原爆を投下した直後に、スターリンは、ヤルタ会談での他の連合国との密約(ヤルタ協約)を基に日ソ中立条約を一方的に破棄し、攻撃開始の直前に駐ソ日本大使に対して形だけの対日宣戦布告をし、日本および満洲国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。

その後英米ソなどの連合国に対して1国で戦っていた日本政府はポツダム宣言の受諾の意思を提示し、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送(終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、日本軍の全ての戦闘行為は停止された。

しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、日本の同盟国の満洲国と蒙古聯合自治政府への攻撃のみならず、南樺太と千島への攻撃を継続させたことにより、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作ることになった。スターリン自身は特に問題を感じておらず、別荘の居間に新しい世界地図を貼り、新国境線をパイプでなぞりながら「クリル諸島、サハリン全土、旅順、大連、全てわれわれの所有物だ。何とすばらしい!」と悦に浸っていた。また、スターリンは南樺太や千島列島に加えて、北海道北部(留萌市 - 釧路市を結ぶ線から北東側全域。留萌市・釧路市については分割せずソ連が占領)をも併合しようとする案をトルーマンに申し入れた(トルーマンはこの提案を拒絶した)。

同年8月23日に「国家防衛委員会決定 No.9898」を発令し、これにより戦後に抑留された日本軍捕虜と日本の民間人は約57万から70万人とされる。これら日本軍捕虜や民間人をシベリアに抑留して強制労働に就かせたほか、日本企業の生産設備などをソ連国内に違法に運び去った。その上に英米軍を中心とした連合国軍最高司令官総司令部に対し、北海道全体と東北一帯の分割占領を提案したものの、これは即座に英米から拒否された。

政治記者の細川隆一郎は、スターリンが北海道を侵略する気であったことを察知したトルーマンが、スターリンに対して「もし、ソ連軍が北海道に侵略するようなことでもあれば、残りの原子爆弾をモスクワに投下する」と警告し、スターリンは北海道侵略を諦めたと主張している。

このような国際法さえ無視した蛮行により、ソ連は第二次世界大戦によって領土が大幅に拡大した。しかし、スターリンの領土に対する欲は収まらず、コーカサス地方の国境線に対して気に入らず、イラン進駐によって赤軍とイギリス軍が占領していたペルシア回廊でイギリス軍は撤収したのに対し、赤軍はイラン北西部からの撤兵を拒んで、1945年頃にイラン領アゼルバイジャンにアゼルバイジャン自治共和国とクルド共和国という親ソビエト傀儡国家設立の反乱を支援し併合しようとした(しかし、1946年5月、両国とソビエト連邦で石油採掘契約が締結され後にソビエト連邦軍〈同年2月に赤軍から改称〉が撤兵すると両共和国はすぐに倒され、石油採掘権は取り消された)。また、スターリンは死ぬまで、かつてのロシア帝国がトルコに割譲した領土の返還とかつて存在したアルメニア第一共和国の領土の併合をトルコに執拗に要求していた。

ソ連は、第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性だった。そのため1921年、1922年に生まれた若い男性の生き残りは、戦争が終わった時点で5 %以下で、全員に勲章が与えられた。現在ロシア、ベラルーシ等の旧ソ連の国々では、5月9日は大祖国戦争の戦勝記念日として人々の間で非常に鮮明に記憶され、ロシアをはじめ旧ソ連圏における最も大きな祝日のうちの一つである。

独ソ不可侵条約に調印するヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣(後列中央はドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣とスターリン(右)
独ソ不可侵条約に調印するヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣(後列中央はドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣とスターリン(右)

ヤルタ会談にて、ウィンストン・チャーチル(左)、フランクリン・ルーズベルト(中央)と共に(1945年)
ヤルタ会談にて、ウィンストン・チャーチル(左)、フランクリン・ルーズベルト(中央)と共に(1945年)

ポツダムにて、クレメント・アトリー(左)、ハリー・S・トルーマン(中央)と共に(1945年7月)
ポツダムにて、クレメント・アトリー(左)、ハリー・S・トルーマン(中央)と共に(1945年7月)

ポツダム会談にて、チャーチル(左)、トルーマン(中央)と共に(1945年)
ポツダム会談にて、チャーチル(左)、トルーマン(中央)と共に(1945年)

「共産主義ブロック」の動きは、東ヨーロッパ諸国が西側に友好的であり共産勢力に対する緩衝地域を形成するだろうという西側諸国の希望と正反対となり、ソ連の共産勢力拡大に対する恐れで西側の結束を強固にした。ソ連と第二次世界大戦における同盟国だった西側との関係は急速に悪化し、冷戦による東西対立が引き起こされた。

第二次世界大戦後、赤軍は枢軸国の領域の多くを占領した。ドイツ・オーストリア国内にはソ連の占領地帯があった。また、チェコスロバキアとポーランドは後者が形式的に連合国だったという事実にもかかわらず両国とも実質的にソ連占領下にあった。親ソ連政権がルーマニア・ブルガリア・ハンガリーにおいて樹立し、ユーゴスラビアとアルバニアでは独自の共産政権が権力を掌握した。

フィンランドは独立を保持したが、ソ連に経済的に依存することとなった(フィンランド化)。ギリシャ、イタリアおよびフランスは、モスクワと緊密に連携した共産党の強い影響下にあった。スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパ大陸におけるソ連の覇権に結び付くと考えた。しかしながらギリシャ内戦中の反共勢力へのアメリカの支援は、状況を変えた。東ドイツは1949年に独立した国家と宣言された。さらにスターリンは、中央ヨーロッパの衛星国を直接コントロールする決定を下した。全ての国々は、ソ連の形式を踏襲した各国共産党によって統治されることとなった。

これらの決定は1948年にポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニアおよびブルガリアの共産政権の路線変更に導かれた。これらは後に「共産主義ブロック」と呼ばれた。共産主義のアルバニアは同盟国のままだった。しかし、ヨシップ・ブロズ・チトー指導下のユーゴスラビアはコミンフォルムの追放をもってソ連との国交を断絶した。

第二次世界大戦後、赤軍はアジアで満洲国・蒙古聯合自治政府の領域や朝鮮半島北部、日本の樺太(南樺太)、北方領土を占領した。

中華民国とは、ソ連とモンゴルが占領地域の満州で中国共産党に便宜を図っていた東北問題や、かねてからスターリンが関与 していた新疆の問題があり、1945年に中ソ友好同盟条約を結んでこれらの内政干渉を表向き取り下げた。しかし、1947年にはソ連が支援するモンゴルが中華民国と武力衝突した北塔山事件が起こるなど、依然対立は続いていた。国共内戦においては蔣介石率いる中国国民党と、毛沢東率いる中国共産党の両者に当初は中立的だったが、蔣介石と緊密だったルーズベルトの死後トルーマン政権が双十協定の破綻を見るや蔣介石への軍事援助を事実上打ち切ったため、赤化の好機と見るや中国国民党との関係を解消して中国共産党への支援を強化し、その結果、第二次世界大戦の終結に伴う日本軍の撤退後になされた第二次国共内戦において、中国共産党が勝利を収め蔣介石と中華民国政府は台湾島へ撤退することとなった。1949年に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が成立したことにより、スターリンは同国と中ソ友好同盟相互援助条約を結んで東側陣営に置き、毛沢東も「向ソ一辺倒」としてソ連に従った国家建設を掲げ、スターリン死後の中ソ対立まで技術交流などを積極的に行った。

さらに日本が統治していたが、第二次世界大戦終結後に軍民ともに撤退し、連合国軍が分割占領していた朝鮮半島については連合軍軍政期の当初はモスクワ三国外相会議で合意したアメリカ・ソ連・イギリス・中国の4か国による信託統治を目指すも、米ソ共同委員会の決裂で連合国管理下の国政選挙を待たず、北部に朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、自身の傀儡となりうる金日成を指導者に据え、38度線を境にアメリカやアメリカの指導下で成立した大韓民国と対峙させ、ソ連軍を朝鮮半島から撤退させた(軍事顧問団を除く)。朝鮮戦争の前にスターリンは金日成に、中国の毛沢東の賛同を得ることを条件に韓国侵攻への許可を与えた。ソ連軍の高麗人将兵と中国人民解放軍の朝鮮族将兵が編入されて韓国軍に対して量的優位を得た金日成の朝鮮人民軍は一時は朝鮮半島のほぼ全土を手中にしたが、その後アメリカ軍を中心とする国連軍の反攻により、逆に中国国境近くまで追い詰められ、スターリンにソ連軍の参戦を要請した。しかし、スターリンは前年にソ連初の核実験を成功させたばかりで、核戦争にも発展しかねないアメリカとの正面衝突を避けるためにこれを拒否した。スターリンの意向を受けて毛沢東は参戦を決定するも、中国の領土にまで影響が及ぶ米中全面衝突を避けるため、人民解放軍ではなく、義勇兵という名目で中国人民志願軍を派遣して北朝鮮を直接支援することになった。スターリンは「代理戦争」を徹底し、中国の飛行場に派遣されたソ連のMiG-15部隊を中国軍に編入させ、標識や制服ごと中国軍に偽装した。休戦に懐疑的なスターリンが亡くなるまで朝鮮戦争休戦協定は結ばれることはなかった。

1953年3月1日、ラヴレンチー・ベリヤ、ゲオルギー・マレンコフ、ニコライ・ブルガーニン、ニキータ・フルシチョフとの徹夜の夕食の後、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れた。暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ、容態を重篤にしたといわれている。

発作は右半身を麻痺させ、昏睡状態が続いた。一時は意識を回復するも、重い障害のために意思の疎通ができなかった。4日後の1953年3月5日、スターリンは危篤に陥り死亡した。74歳没。

スターリンの死因は脳内出血として公式発表された。防腐処理を自ら望んだスターリンの遺体は1961年10月31日までレーニン廟(スターリン合祀時は「レーニン=スターリン廟」)で埋葬を望んだレーニンの遺体と並んで保存されていたが、1956年のソ連共産党第20回大会のフルシチョフによりスターリンの個人崇拝と多くの問題を引き起こした独裁を批判した演説(スターリン批判)の煽りを受け、ソ連全土でスターリンの記念碑の撤去が始まったのを皮切りに、1961年ソ連共産党第22回大会で党職員イワン・スピリドノフによってレニングラードの労働者たちからの要請であるとの口実で撤去が表明された。最終決定がなされた後、廟の外に運び出され燃やされた後、10月31日にレーニン廟裏の革命元勲墓に改めて埋葬された(ミハイル・カリーニンとミハイル・スースロフの間に埋葬されている)。

スターリンの死去はソ連を初めとする社会主義陣営各国に大きな衝撃を与えたが、体制を異にする日本の経済にも影響を与えた。スターリンの重篤が日本で報じられた3月5日、日経平均株価は、前日比37円80銭安の344円41銭と10 %もの下落を記録し、「スターリン暴落」と呼ばれた。これは、スターリンが没することによりソ連が政策転換を図り平和が訪れるのではと予想されたため、軍需株を中心に大暴落したのである。朝鮮戦争の終結が早まり、当時日本経済の急速な復興を支えた朝鮮特需が終結することが懸念されたことが原因であった。

スターリンの死にあたり、築地本願寺にてスターリン国民追悼集会が行われ、本願寺側の熱心な申し出により、荘厳な法要が行われた。また、1954年にはスターリンの死去1周年を記念した詩集『スターリン讃歌』が刊行された。

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索: "ヨシフ・スターリン" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2022年3月)
スターリンの死を報じるグルジアの新聞記事
スターリンの死に関して、彼が謀殺されたという確実な証拠は存在しないが、謀殺説は根強く存在している。1993年に公表された、元外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフの政治回顧録によると、秘密警察長官でスターリンの右腕だったベリヤが、彼を毒殺したことをモロトフに自慢したとの記述があり暗殺説を匂わせている。 2003年、ロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンはワルファリンを使用されたとの見解を発表した(ただし計画的な暗殺か偶発的な暗殺かについては触れられていない。また、ワルファリンについては脳梗塞系の脳卒中と診断された場合は治療に使用されることもある)。スターリンの娘であるスヴェトラーナ・アリルーエワは、スターリンが脳卒中で倒れたときにフルシチョフらがいたにもかかわらず、医者を呼ばずに放置したことが死に繋がったとの見殺し説を指摘している。なお、フルシチョフの回想録では、スヴェトラーナの証言とは正反対の内容の記述がなされている。 2006年には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施されるもので、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。 また、スターリンが医師団陰謀事件を利用しモロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害し、その後ベリヤは、口封じのために殺されたという説がある。実際に粛清する計画があったかどうかはともかく、スターリンは部下を使い捨てにすることで有名だったため首脳部の面々が常に戦々恐々としていたのは確かであろう。 スターリンの謀殺説には計画的な暗殺説以外にも、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に死を確実にするために毒を投与したとする偶発的な暗殺説、発作で倒れたのを意図的に放置し死に追いやった見殺し説など諸説あるが、いずれにしてもほとんどの当事者がすでに死亡しているため確たる真相は不明であり、一部の研究者やメディアでは根強く支持されているものの、ロシアでの公式見解は一貫して脳卒中による病死である。

復権への動き

スターリンの銅像
ジョージアのゴリにあるスターリンの記念碑
1964年のフルシチョフ失脚後、スターリンに対する名誉回復の動きが始まった。またこれが止んだ後、ソ連崩壊後にも同じような動きがみられた。

ソ連時代

レオニード・ブレジネフは、1969年に「スターリン生誕90周年」を記念した大規模な式典を企画した。モスクワに「スターリン博物館」を建設することが検討され、マルクス・レーニン主義研究所には記念集会を開催するよう通達があった。さらに、スターリンについての論説が『プラウダ』を初め諸外国の共産党機関紙に掲載されることになっていた。 これらの計画を知ったポーランドとハンガリーの共産党が激しく抗議した結果、党政治局は式典の2日前の12月19日、大部分の式典を中止することを決定した。この時、スターリンの胸像製作は中止され、印刷されていた肖像画はことごとく廃棄された。また党中央委員会は、あらゆる新聞に対してスターリンに関する一切の論説を掲載しないよう指示を出し、『プラウダ』にはスターリンの過失と個人崇拝に関する小さな記事が掲載されるにとどまった。 これは「生誕100周年」においても踏襲され、スターリンは「肯定面・否定面を合わせ持つ、非常に複雑で矛盾に満ちた指導者」として扱われた。モスクワにおける1979年12月21日(公式の誕生日)の行事は控えめに行われ、コムソモールの代表がスターリンの墓に花輪を捧げるなどしている。一方、スターリンの故郷であるグルジアのゴリ市内では数千人が通りをパレードし、各所で音楽演奏が行われるなど、誕生日を盛大に祝っている。

ソ連崩壊後

ソ連崩壊後のロシアでは、スターリンの再評価が進んでいる。これはロシア連邦共産党のみならず、現政権与党の統一ロシアや極右のロシア自由民主党などの各派にもその傾向がみられる。デモにおいてスターリンの肖像画があることは決して珍しいものではなくなった。ソ連が崩壊したことで富を得たのはごく少数の者だけであり、多くの市民はソ連時代以下の経済水準と社会保障、ソ連時代に比べて悪化した治安事情の中で生きている。そのような現在の状況に対する絶望感が、良くも悪くも強い指導力を持ったソ連の中興の祖である「鋼鉄の人」スターリンの再評価に繋がっているという。最近行われた世論調査の一つによれば、今日スターリンが生きていたら彼に投票すると答えた人は、35%を越えたという。2017年のロシアの独立系世論調査機関レバダ・センターの世論調査でもウラジーミル・プーチンやアレクサンドル・プーシキンを凌いで「ロシア史上最も偉大な人物」に選ばれている。2019年の同機関の調査では、7割がスターリンを「ロシア史において肯定的な役割を果たした」と回答した。 また、クラスノヤルスクでは観光客などを誘致するという理由があるにせよ、一度は破壊されたスターリンの記念碑を再建することを決定した。この記念碑は、フルシチョフのスターリン批判を受けて1961年に一度閉鎖されている。中央に据え付けられたスターリンの銅像も、1980年代後半にグラスノスチのためか町の近くを流れる川の中に放り込まれている。 これは地方に限ったことではなく、2005年にはモスクワでもスターリンの銅像が新たに建設されている。2009年にはモスクワの地下鉄クルスカヤ駅構内の装飾の柱にスターリンを讃える1944年版ソ連国歌の一節が刻まれた。2011年7月20日には、スターリンの胸像がロシア中部ペンザのロシア連邦共産党支部の建物の敷地内に建てられた。 2008年には、ロシアの新しい学習指導要綱「ロシアの歴史1900-1945」で、スターリンの恐怖政治を「誰が寝返って襲撃してくるかも分からない状況下ではやむを得なかった」とし、彼と対立するグループや彼の思想に反する運動をことごとく弾圧していったと記している。要綱では「スターリンの行動は歴史的難局に直面してのものであることを示すことが重要である」とし、彼の行動は「工業立国建設に向けた一貫した意志に基づき、体制を守るために全くもって合理的なものであった」と強調している。この要綱は大手教科書出版社「Prosveshenije」が作成したものだが、同社は ソ連時代には教科書作成を独占していた政府公認の会社であった。 スターリンの故郷であるジョージアのゴリ市のスターリン博物館は今なお健在 である。博物館ではスターリンが死ぬまで愛用したパイプやコートなど日用品や手紙や写真を展示し、ソ連を超大国に押し上げた指導者の足跡をたどる展示品がある。ただし未曾有の犠牲を出した大粛清に関する展示は皆無である。スターリンは現在でも「強い指導者」として肯定的に捉えられ、銅像や肖像画が掲げられているなど英雄視されている。ゴリ市の中心街には旧ソ連邦諸国で唯一スターリン像が残存していたが、2010年6月25日未明に撤去された。取材に駆けつけたマスコミは警官に暴行されるなどして排除され、人目につかないよう隠密に行われた。2008年のグルジア紛争での犠牲者の追悼記念碑を代わりに設置するとしている。2003年に発生したバラ革命ではミハイル・サアカシュヴィリがエドゥアルド・シェワルナゼ政権に対するデモ行進をこの像の前から行うなど、現在でもグルジア人の愛国主義・ナショナリズムの象徴でもあった。 2013年1月末、ヴォルゴグラード市議会が年間6日のみ、旧名「スターリングラード」の名称を復活させることを決定した。退役軍人などからの要請によるものである。2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降はこのような動きが活発化しており、2023年2月1日にはヴォルゴグラード市内でスターリンの胸像の除幕式も開かれ、再評価する機運が強まっているとされる。ただ、こうした一連のスターリン復権の動きに関しては、「戦死者への侮辱」(ウラジーミル・ルキンロシア連邦人権委員会代表)と批判する声もある。

人物

スターリンが冬季に着用していた軍服のコートとブーツ、制帽
民族的にスターリンはグルジア人に属し、グルジア語を母語として育ち、ロシア語を学び始めたのは8–9歳の頃だった。グルジア人であることに誇りを抱いており、生涯にわたって強いグルジア訛りのロシア語を話した。サイモン・セバーグ・モンテフィオーリによれば、スターリンはロシアおよびロシア人への親近感は抱いていたものの、ライフスタイルや性格の面では常に極めてグルジア人的であった。 スターリンは穏やかな声色で喋り、ロシア語を使う際にはゆっくりと、慎重に言葉を選んで話した。私的な場では下品な言葉遣いも用いたが、公的な場でそうすることは避けていた。演説は不得手であったと評されている。多くの聴衆を前に演説することはまれであり、文書の形で自らの考えを発表する方を好んだ。スターリンの演説についてドミトリー・ヴォルコゴーノフは、「単純かつ簡潔で、人を惹きつける奇抜な文句や豊かな想像力、壇上での芝居がかった演技などを欠いていた」とし、ラテン的な明確さが、スターリンの単純明快な魅力であったと指摘している。スターリンの文体もまた、単純明快さと簡潔さを特徴とするものであったと評されている。 ソビエト連邦の指導者としてのスターリンは午前11時頃に起床することが多く、午後3時から5時の間に昼食をとり、夕食は午後9時以降であり、夕食後には夜遅くまで働いた。夕食には他の政治局員やその家族が同席することが多かった。指導者としてのスターリンはダーチャに赴く際以外ほとんどモスクワを離れなかった。旅行を嫌い、飛行機による移動は拒否していた。物的な欲求は少なく、単純で安価な衣類や家具とともに質素な生活を送った。生涯にわたる喫煙者であり、パイプと紙巻きタバコの両方を愛用した 。

身体的特徴

スターリン(1945年)
成人したスターリンの身長は163センチメートルであり、身長を高く見せるため底の厚い靴を履いていたほか、パレード中は小さな台の上に立っていた。顔には子供の頃に罹患した天然痘によるあばたが残っていたが、公表される写真ではあばたが修整により取り除かれていた。また生まれつき左足の指が一部癒着していたほか、左腕は少年期に重傷を負ったことで右腕よりも短く、また柔軟性を失っており、左手は服の袖にしばしば隠れるほどだった。スターリンはこの障害のために1916年に徴兵を免除されている。1917年、妻のナジェージダに対して「子供の頃に軽馬車に轢かれ、医者にかかる金がなかったので腕が曲がったままになってしまったのだ」と説明しており、これが正しければ挫傷が化膿して腕にひきつりができたと推測される が、非合法活動に従事していた青年時代の怪我による とも、前述の天然痘か、それとは別の病気に由来するとの説もある。年を取るにつれて黒い髪は白髪となって減った。また、歯科衛生が悪化し、死亡時には自身の歯が3本しか残っていなかった。 スターリンの下で働いた通訳ベレズホフは、初めて彼に会った瞬間、イメージとあまりにも違っていてショックを受けたという。「背が低くげっそりし、天然痘の瘢痕で覆われた顔は疲れて土気色、軍隊服が貧弱な肉体を締まりなく包んでいる」と表現している(もっともモスクワ攻防戦の最中で、スターリンにとって最も厳しい時期ではあった)。スターリンに会ったことがある国連大使が言うには、「スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手(左手)に麻痺がある風采のあがらない小男」であったという。レーニンの隣に遺体を展示されたときは、プロパガンダのために防腐処理され、がっしりした体つきであばたもなくなっていた。『レーニンをミイラにした男』 によると、スターリンの遺体防腐処理を担当したデボフという男性が、「スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真や絵とは大きくかけはなれており、衝撃を受けた」と証言している。憲兵の報告書では、「あばた」がスターリンのあだ名になったほどであるという。プロパガンダ映画で1930年代後半からスターリン役として定着していたミハイル・ゲロヴァニの風貌は、あくまでプロパガンダのスターリン像に基づくものであった。実際のスターリンの容貌は、1970年代より配役が多かったヤコフ・トリポーリスキーの方が近い。

性格

スターリンは複雑な精神の持ち主であり、強い自制心と抜きんでた記憶力を有し、また努力家で、学ぶことに対して貪欲だったと評されている。ヴォルコゴーノフによれば、スターリンにとって「私生活と仕事は全く同一のもの」であり、休暇のために政治活動から離れることはなかった。 スターリンは相手に応じて異なる自分を演じることができ、また人を騙すことに長け、しばしば自らの真意や目的について他者を欺いた。優れた組織者であり、戦略的な思考を持ち、他者をそれぞれの精神力と実用性、利口さによって判断した。時に粗野で無礼な態度をとることを自認していたが、怒りで声を荒げることは稀だった。しかし晩年に健康状態が悪化するにつれ、気難しく気まぐれな傾向が強まっていった。高圧的な物言いをした一方で、非常に愛嬌がある一面もあり、リラックスした際には冗談を言ったり、人の物真似をしてみせた。モンテフィオーレは、この愛嬌が「党におけるスターリンの権力の基盤」であったことを示唆している。 スターリンは情け容赦がなく、残酷な気質を持ち、他のボリシェヴィキと比較しても暴力的な傾向が強かった。独善的な怒りを抱くことができ、また憤慨しやすく、復讐心に燃え、執念深く、他者に対する不満を長年にわたり保持した。拷問や処刑が行われる場に立ち会ったことは一度もなかったが、ロバート・サーヴィスはスターリンが人々を貶めたり辱めることによって「心からの満足感」を得ており、また近しい側近に対してですら「安心のない恐怖」を与えることを楽しんでいたと指摘している。一方で、身近な部下に配慮を示すこともあった。通訳のベレズホフが仕上げた電文を見て気に入らないと「君は何を聞いていたのだ!」と怒ったが、ただ突き放すのではなく、重要な部分を口述して修正させた。 モンテフィオーレはスターリンを「天性の過激派」と評しており、サーヴィスは偏執病および社会病質人格障害の傾向を指摘しているが、スターリンの残忍さは個人的性質ではなく、ソビエト連邦とマルクス・レーニン主義の大義を存続させるという確固たる決意に由来していたと見る歴史家も存在する。

家族">家族

スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。 スターリンは息子のヤーコフに対し厳しく接したため、ヤーコフは拳銃自殺を試みたが失敗した。それを知ったスターリンは「やつは拳銃を真っ直ぐに撃つことすらできない」と言った。一方で、独ソ開戦後に長男のヤーコフが砲兵中尉として出征した際には「祖国のために貢献してこい」と直接激励している。後日彼がドイツ軍の捕虜になったとき、スターリングラード攻防戦での戦いで降伏したドイツの陸軍元帥フリードリヒ・パウルスと、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「中尉と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね」「ナチスに寝返った息子などいない」と返答して申し込みを拒絶。「私の息子ヤーコフの命はあなたの手中にある。あなたが捕虜数百万人全員を解放するか、あるいは私の息子は彼らと運命をともにするだろう」と述べ、人質交換には一切応じなかった。実質的に自分の父親に見捨てられる形となったヤーコフはこの事実を宣伝放送で聞いて衝撃を受け、ひどく落胆したと伝えられている。それから暫くして、ヤーコフは自身が収容されたザクセンハウゼン強制収容所内で死亡した。死因や経緯については不明瞭な部分が多く、鉄条網に向かって射殺されたとも、収容所内の電気柵に突進して自ら命を絶ったとも伝えられている。一説として、ヤーコフは収容所で他の捕虜と行進させられていたとき、突然看守の制止を振り切り鉄条網に突進し自身を「撃て!」と叫び、射殺されたという逸話が知られている。後に部下から息子の最期を聞いたスターリンは、ヤーコフを実質見捨てたとはいえショックを受け、塞ぎ込んだまま食事に手をつけなかったという。 2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリー・スターリンと娘のスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは1932年に亡くなり、公式には「虫垂炎による病死」と発表された。彼女はスターリンとの口論の後に遺書を残して拳銃自殺を遂げた。娘のスヴェトラーナによれば、その遺書は「一部は個人的、一部は政治的」なものだったという。テレビ局のA&Eによると、一部のロシア人はスターリン自身が夕食の席で起こった口論の後にナジェージダを殺害したと信じている。歴史家は、最終的に彼女の死が「スターリンの現実との繋がりを断ち切った」と主張している。 次男のワシーリーも異母兄ヤーコフ同様にスターリンから冷遇されたが、要領の良さと周囲が気遣ったこともあって空軍中将まで昇進した。しかし、一パイロットとしては26回の出撃で撃墜2機・協同撃墜3機と少ないながら戦果も挙げたものの、高級将校としては能力も経験も不足していた。ワシーリー自身が責任者を務めた空軍記念日でのモスクワ軍管区の空軍部隊による観閲飛行の際、父であるスターリンに見栄を張りたいと考えてか、悪天候の中にもかかわらず強引にB-29のコピーであるTu-4爆撃機を飛行隊に参加させ、結果として1機のTu-4が墜落事故を起こした。観閲飛行終了後にスターリンの別荘で行われた会合にも参加しなかったことで、度重なる失態に愛想を尽かした父スターリンに要職からは解任された。さらにスターリン死後に彼の庇護者であったベリヤが政治闘争に敗れて処刑されたことと、新たに台頭したニキータ・フルシチョフがスターリン派に対する粛清、追放を進めたことに伴い、ワシーリーの立場はますます悪化、失脚し軍籍も剥奪された。のちに、略式裁判で懲役8年が確定されたことで身を持ち崩した。1960年1月11日、ワシーリーは1年ほど早く刑期を終えて釈放された。釈放時には彼を取り巻く政治情勢は軟化しつつあり、元将官としてモスクワ市内の住居と年300ルーブルの恩給が支払われた。また空軍中将時代の軍服や勲章の着用も許可されたが、極度の酒好きがたたり、1962年に急性アルコール中毒で亡くなった。 娘のスヴェトラーナは可愛がられたこともあり、スターリンの自宅で行われたチャーチルとの私的な会談にも同席した。だが彼女にしても、最初の恋人を「イギリスのスパイ」とみなされてシベリアに追放されている。のちにほかの男性との間に子供をもうけた際には祝福の手紙を貰ったが、結局彼女はソ連を捨てて1967年にアメリカに亡命。彼女は亡命先のアメリカで回顧録を出版し、その中で「父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった」と述べている。 スターリンは3人目の妻としてラーザリ・カガノーヴィチの姉妹であるローザ・カガノーヴィチと結婚したとみられている。シベリアに追放されていた時期にスターリンは不倫関係にあった女性との間に非嫡出子のコンスタンティン・クザコフをもうけたとされる。2001年3月、ロシアの民放テレビ局「NTV」は、ノヴォクズネツクに住む、それまで知られていなかったスターリンの孫ユーリー・ダヴィドフにインタビューを試みた。彼は、父親が自分たちの血統について話したと述べたが、スターリンへの個人崇拝に反する運動であるので黙っているとも話した。 スターリンはほかに愛人も作ったが、彼女らがスターリンの女性関係の派手さや残忍さを見かねて批判すると、彼女らはいつの間にか姿を消したり、不審な死を遂げたという。

Iosif Stalin


ヨシフ=スターリンと同じ誕生日12月21日生まれの人

鈴木 清一_(実業家)(すずき せいいち)
1911年12月21日生まれの有名人 愛知出身

鈴木 清一(すずき せいいち、1911年(明治44年) - 1980年(昭和55年)8月22日)は、日本の実業家。ダスキンの創業者。金光教、一燈園の熱心な信者としても知られた。愛知県碧海郡大浜町(現在…

上原 美佐_(1983年生)(うえはら みさ)
1983年12月21日生まれの有名人 滋賀出身

上原 美佐(うえはら みさ、1983年12月21日 - )は、日本の元女優、元タレント。 滋賀県米原市(旧:坂田郡伊吹町)出身。近江高等学校から日出女子学園高等学校へ転校し、卒業。血液型はO型。 …

伊藤 彰_(野球)(いとう あきら)
1978年12月21日生まれの有名人 東京出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 伊藤 彰(いとう あきら、1978年12月21日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、野球指導者。1997年…

原 正文(はら まさふみ)
1943年12月21日生まれの有名人 熊本出身

原 正文(はら まさふみ、1943年12月21日 - )は日本出身の元サッカー選手。ポジションはDF。 新日本製鐵などに所属し、日本代表としても1970年のアジア競技大会など、国際Aマッチ5試合に出…

寺川 俊平(てらかわ しゅんぺい)
1987年12月21日生まれの有名人 東京出身

寺川 俊平(てらかわ しゅんぺい、1987年12月21日 - )は、テレビ朝日のアナウンサー。 東京都出身。身長181cm。暁星中学校・高等学校卒業後、早稲田大学人間科学部に進む。4歳の頃からサッカ…


平川 健太郎(ひらかわ けんたろう)
1969年12月21日生まれの有名人 千葉出身

平川 健太郎(ひらかわ けんたろう、1969年(昭和44年)12月21日 - )は、日本テレビのエグゼクティブアナウンサー。 千葉県八千代市出身。千葉県立八千代高等学校卒業後、上智大学文学部英文学科…

吉川 ひなの(よしかわ ひなの)
1979年12月21日生まれの有名人 東京出身

吉川 ひなの(よしかわ ひなの、1979年12月21日 - )は、日本のファッションモデル、タレント、および女優。 元レプロエンタテインメント所属、現在はフリー。2019年時点ではロサンゼルス在住。…

桃井 あやか(ももい あやか)
1998年12月21日生まれの有名人 東京出身

桃井 あやか(ももい あやか、1998年12月21日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル。東京都出身。センスプロモーション所属。 2017年9月にアイドルユニット『美少女伝説』のメンバーとし…

近澤 美歩(ちかざわ みほ)
1973年12月21日生まれの有名人 栃木出身

近澤 美歩(ちかざわ みほ、1973年12月21日 - )は、第28回ミス日本グランプリ受賞者。タレント活動を経て、結婚引退後、飲食店経営。栃木県出身。 1996年度・ミス日本コンテストグランプリ受…

杉本 愛里(すぎもと あいり)
2000年12月21日生まれの有名人 大阪出身

杉本 愛里(すぎもと あいり、2000年12月21日 - )は、日本のファッションモデル、女優。大阪府出身。浅井企画所属。 父は元プロ野球選手の杉本正志。 2014年、32,214人が参加した「ア…


大森 ゆかり(おおもり ゆかり)
1961年12月21日生まれの有名人 北海道出身

大森 ゆかり(おおもり ゆかり、1961年12月21日 - )は、日本の元プロレスラー。第74代WWWA世界タッグ王者、第76代WWWA世界タッグ王者、第33代WWWA世界シングル王者。ニックネームは…


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ヨシフ=スターリンと近い名前の人

イニャツィオ=シローネ(Ignazio Silone)
1900年5月1日生まれの有名人 出身

イニャツィオ・シローネ(Ignazio Silone、1900年5月1日 - 1978年8月22日)は、イタリアの小説家、政治家。本名はセコンディーノ・トランクィッリ Secondino Tranqu…

マカリオス3世(Makarios III)
1913年8月13日生まれの有名人 出身

8月13日生まれwiki情報なし(2024/11/22 06:12時点)

二宮 圭美(にのみや よしみ)
1980年10月7日生まれの有名人 東京出身

二宮 圭美(にのみや よしみ、1980年10月7日 - )は、日本の元女性声優。東京都出身。引退以前はE-sprinGに所属していた。 特技は水泳、フルート。秘書検定2級の資格を持つ。 日本ナレーシ…

松本 ヨシロウ(まつもと よしろう)
1972年12月5日生まれの有名人 兵庫出身

松本 ヨシロウ(まつもと ヨシロウ、1972年12月5日 - )は、日本の男性声優。兵庫県出身。 メディアフォース、Jac in productionを経てハニカムエンタテインメントに所属。 趣味…


細谷 カズヨシ(ほそや かずよし)
3月11日生まれの有名人 静岡出身

細谷 カズヨシ(ほそや かずよし、3月11日 - )は、日本の男性声優。静岡県出身。81プロデュース所属。 趣味・特技は料理、物真似。 中尾隆聖、梅津秀行を恩師と語っている。 SKET DANC…

中島 ヨシキ(なかじま よしき)
1993年6月26日生まれの有名人 神奈川出身

中島 ヨシキ(なかじま よしき、1993年6月26日 - )は、日本の男性声優。神奈川県横浜市出身。81プロデュース所属。 中学の夏休みにアニメ好きの友人から「これから受験で忙しくなるから、思い出作…

石原ヨシオカ(いしはら よしおか)
1986年11月16日生まれの有名人 福岡出身

石原 ヨシオカ(いしはら よしおか、本名:福島 慧(ふくしま けい)、1986年11月16日 - )は、日本の元お笑い芸人。かつてよしもとクリエイティブ・エージェンシー福岡支社に所属していた。福岡県北…

ヨシオカサトシ(よしおかさとし)
1967年10月8日生まれの有名人 大阪出身

ヨシオカ サトシ(Satoshi Yoshioka 男性、1967年10月8日 - )は、日本のイラストレーター、キャラクターデザイナー、コミックアーティスト。大阪府出身。旧名「吉岡さとし」。 大阪…

アキヨシカズタカ(あきよし かずたか)
生まれの有名人 大分出身

アキヨシ カズタカ(1975年 - )は日本の漫画家。大分県・大分市出身。大分県立大分舞鶴高等学校、明治大学理工学部を卒業。 大学時代は生田漫画研究同好会に所属。そのかたわら、近藤るるるの元でアシス…


アルフレッド=ハヨシュ(Alfred Hajos)
1878年2月1日生まれの有名人 出身

2月1日生まれwiki情報なし(2024/11/23 02:53時点)

嵐 ヨシユキ(らん よしゆき)
1955年4月15日生まれの有名人 神奈川出身

嵐 ヨシユキ(らん - 、本名:田宮 淑行(たみや よしゆき)、1955年4月15日 - 2022年7月4日)は、神奈川県横浜市戸塚区出身のプロデューサー、歌手、ドラマー。横浜銀蝿のメンバー。 身長…

東 ヨシアキ(ひがし よしあき)
1995年7月19日生まれの有名人 出身

東 ヨシアキ(ひがし よしあき、1995年7月19日 - )は、日本のモデル。ENCANTO所属。 N・F・Bと業務提携。CMモデルとして活動。 特技はバレーボール、水泳、倒立歩行 趣味は音楽鑑賞…

辰巳 ヨシヒロ(たつみ よしひろ)
1935年6月10日生まれの有名人 大阪出身

辰巳 ヨシヒロ(たつみ ヨシヒロ、1935年6月10日 - 2015年3月7日)は、日本の漫画家、古書店経営者。大阪府大阪市天王寺区出身。本名:辰巳 嘉裕(たつみ よしひろ)。兄は、漫画家・漫画出版社…

井上 ヨシマサ(いのうえ よしまさ)
1966年7月18日生まれの有名人 東京出身

井上 ヨシマサ(いのうえ ヨシマサ、1966年7月18日 - )は、日本の作曲家、編曲家、シンガーソングライター、音楽プロデューサー、大阪芸術大学演奏学科客員教授。東京都出身。 6歳からピアノでクラ…

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