ロジャー=ダルトリーの情報(RogerDaltrey) ミュージシャン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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ロジャー=ダルトリーの情報まとめ
ロジャー=ダルトリー(Roger Daltrey)さんの誕生日は1944年3月1日です。
音楽スタイル、俳優としてなどについてまとめました。映画、テレビ、ドラマ、脱退、解散に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
ロジャー=ダルトリーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)ロジャー・ダルトリー(Roger Daltrey、CBE、1944年3月1日 - )は、イングランドのロック・ミュージシャン、俳優。ロック・バンドのザ・フーのリード・ボーカリストとして最も有名である。俳優としても積極的に活動し、数多くの映画や演劇、テレビドラマに出演した。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第61位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第27位。 1944年、ロンドンのイースト・アクトン(英語版)のハマースミス病院に生まれる。奇しくも7ヵ月後に同じ病院で後にバンドメイトとなるジョン・エントウィッスルが生まれている。戦時中は母のアイリーンと共にスコットランドに疎開し、終戦後復員した父・ハリーと共にシェパーズ・ブッシュに移った。その後妹のジリアンとキャロルが生まれている。少年時代は成績優秀で前途有望と見られていたが、元々校則を遵守して教師に従うことを拒否する自称「学校反逆者」であったダルトリーは、大人たちの手に負えないテディ・ボーイズの一人であった。1959年にロックンロールに傾倒するも労働者階級の家庭でギターを買う金もなかったので、父の工具を使ってアコースティック・ギターを自作し、地元の仲間たちと最初のバンド、サルグレイヴ・レヴェルズを結成。地元のコンテストで優勝したりした。15歳の時、トイレで喫煙していたことが表向きの理由で、通っていたアクトン中学校を退学となる。 1961年、板金工として働きながら自身のバンド、ザ・ディトゥアーズでプロ・デビューを夢見ていたダルトリーは、中学時代の後輩でベースを抱えて歩いていたジョン・エントウィッスルを街で見かけ、ディトゥアーズに勧誘する。当時、エントウィッスルはスコーピオンズというバンドにいたが、ダルトリーと活動を共にすることを決めた。1962年、前任のリズムギタリストに代わり、エントウィッスルのバンドメイトだったピート・タウンゼントが加入する。タウンゼントの加入はエントウィッスルの要請によるものだったが、それ以前にダルトリーが先に目を付けており、ディトゥアーズへの加入を持ちかけていた。当初はダルトリーがリードギタリストであったが、日中の仕事で時折手を負傷していたこともあり、1963年には自身の所有していたエピフォンのエレキギターをタウンゼントに売り、ボーカルの方に専念するようになる。 ダルトリーはザ・ディトゥアーズの絶対的なリーダーであり、彼の音域でカバーできない曲を演目から外すなど、バンドを支配していた。そのため、その絶対的立場に対して意見するようになったタウンゼンドとの間に、デビュー後も長らく続くことになる緊張感が芽生え始める。一方、ダルトリーは車の運転や機材の搬送、エージェントとの交渉などロード・マネージャーの仕事を一手に引き受けていた。彼は「ピートに任せてたら、あいつは一日中ベッドに転がってマリファナにふけって、ライブなんかまともに出来やしなかったはずさ。誰かが奴らの面倒を見る必要があり、俺がその役目を果たしてたんだ」と語っている。 1964年2月、バンド名をタウンゼントの友人であるリチャード・バーンズ(英語版)が提案したザ・フーに変更。初代ドラマーのダグ・サンダム(英語版)に代わり4月にキース・ムーンが加入した。 ザ・フーは初代マネージャーのピート・ミーデン(英語版)の命でザ・ハイ・ナンバーズ(The High Numbers)に改名させられ、1964年7月にモッズ・バンドとしてデビュー・シングル『ズート・スート/アイム・ザ・フェイス(英語版)』を発表してメジャー・デビューを果たした。一方ダルトリーは本来の姿ではないモッズとしての振る舞いに少なからず抵抗感を覚えていたという。ミーデンの予見は外れ、デビュー・シングルは商業的に失敗した。ミーデンに不満を感じていたダルトリー達は新しいマネージャーのキット・ランバートとクリス・スタンプの元で再始動し、バンド名もザ・フーに戻した。 1965年、デビュー・シングル「アイ・キャント・エクスプレイン」は全英シングルチャートの最高位8位を記録するヒットとなり、ザ・フーは上々の結果を残した。一方バンド内では深刻な対立関係が生じていた。タウンゼントは当時受けた取材で「ロジャーがサウンドの仕上がりに文句を付け、そのことで喧嘩になることが多い」と、バンドの内情を打ち明けている。これに加え、薬物に一切関わらなかったダルトリーに対し他の3人は薬物濫用に耽っていたことも、両者の対立を深める要因となっていた。同年9月のデンマークでのツアー中、楽屋で覚醒状態になったムーンに激昂したダルトリーは彼の錠剤をトイレに流した挙句、それを知って逆上したムーンを殴って気絶させた。他の3人は全員一致でダルトリーの解雇を決めたが、3枚目のシングル「マイ・ジェネレーション」が全英チャートに16位で初登場して最高位2位という好調な売り上げを見せると、ダルトリーは3人に謝罪し、ランバートらの説得も功を奏して、処分を何とか免れた。この騒動はその後も尾を引き、「マイ・ジェネレーション」がヒット・チャートを賑わせている最中の11月には、ザ・フーからダルトリーが脱退してボズ・ピープル(Boz People)のボーカリストだったボズが加入予定、という飛ばし記事がメロディ・メーカー誌に掲載された。 対立はこれで収まらず、1966年の5月3日には再びダルトリーが脱退を表明したので、タウンゼント達は2週間ほど、彼抜きでギグをこなした。ダルトリーが戻った同月20日にはムーンが脱退を宣言し、1週間ほど仕事を放棄した。さらに当時エントウィッスルも脱退してムーディ・ブルースに加入することを画策しており、ザ・フーは非常に不安定な状態にあったが、1967年から1968年にかけて行った全米ツアーを経て「バンドが団結することが出来た」とダルトリーは振り返っている。 1971年にはエントウィッスル、1972年にはタウンゼントがソロ・アルバムを発表するが、ダルトリーはあくまでザ・フーのリード・ボーカリストとしての立場にこだわり、ソロ活動に興味を示すことはなかった。それが変わったのは1973年。往年のポップ・シンガーのアダム・フェイス(英語版)とその相棒のデヴィッド・コートニー(英語版)から、彼等がマネージメントをしていた新人シンガー・ソングライターのレオ・セイヤーを紹介されたことが、彼をソロ活動へ向かわせるきっかけとなった。楽曲、プロデュースを彼等3人にゆだねて製作されたファースト・ソロ・アルバム『ダルトリー』はバラードが中心となり、ザ・フーのリード・ボーカリストとは全く違った彼の一面を見せる作品となった。シングル・リリースした「ギヴィング・イット・オール・アウェイ(英語版)」が全英5位という、ザ・フーの各メンバーのソロ作品中最高のヒット作となる。アルバムも全英6位まで上昇している(全米は45位)。 1975年、ダルトリーは俳優デビューを果たす。1969年にザ・フーが発表したロックオペラアルバム『トミー』の映画化にあたり、主人公のトミーを演じたのである。この映画が彼の俳優としての才能を開花させ、以降様々なドラマ、映画に出演するきっかけとなった。『トミー』の成功により一躍注目を集めたダルトリーは、宣伝のために訪れたアメリカ合衆国では女性たちに囲まれたという。また同年、ラス・バラードをプロデューサーに迎えて2枚目のソロ・アルバム『ライド・ア・ロック・ホース』を発売する。前作とは打って変わってハードな楽曲を収録したアルバムは前作を大きく上回る売上を立て、全英14位、全米28位にまで上った。 ソロ活動が充実する一方、ザ・フーでの活動にはこの頃より軋みが生じるようになる。1975年、『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』の取材でダルトリーに対し厳しい意見を述べたタウンゼンドに対し、ダルトリーは同じ紙面でタウンゼントを痛烈に批判した。これにより2人の不仲が知られると、ザ・フー解散説が浮上した。さらに、ムーンが長年の不摂生により以前のような公演活動から身を引いたため、ザ・フーの活動は停滞気味になる。そのような中での1977年、3枚目のソロ・アルバム『ワン・オブ・ザ・ボーイズ』を発表。アルバムにはウイングスのポール・マッカートニーが新曲を提供し、エントウィッスルの他、ハンク・マーヴィン、エリック・クラプトン、アルヴィン・リーなど豪華ゲストが多数参加した。しかし売上は前作ほどは伸びず、チャート成績も全英45位、全米46位に終わった。 1978年、ムーンが死去。1979年、ダルトリーは元フェイセズのケニー・ジョーンズを後任のドラマーとして採用し、新生ザ・フーを始動させる。しかし、間もなくダルトリーはジョーンズとの間に軋轢が生じさせた。ダルトリーはジョーンズの演奏を好まず、ジョーンズを解雇するためタウンゼントを説得するようマネージャーに頼むほどだった。ダルトリーは「キースは俺のボーカル・ラインに沿ってドラムを叩いてくれたがケニーは違う」と主張し、タウンゼンドを悩ませた。 1980年、実在する脱獄囚であるジョン・マックヴィカー(英語版)を取り上げた映画『マックヴィカー(英語版)』に主演。同映画のサウンドトラック盤『マックヴィカー』は、彼の4枚目のソロ・アルバムに相当するが、ジョーンズを含むザ・フーのメンバー全員が参加したため、ザ・フーの課外活動の意味合いが強い。本作は彼のソロ活動史上最高の売り上げ(全米22位、全英39位)を記録した。シングル・カットされた「ウィザウト・ユア・ラヴ(英語版)」も全米20位を記録して、彼のアメリカでの最大のヒット曲になった。 求心力を失っていたザ・フーは、1982年9月末から12月まで解散ツアーを行なった後、1983年6月に正式に解散を表明する。 1984年、ザ・フー解散後初となる5枚目のソロ・アルバム『パーティング・シュッド・ビー・ペインレス』をリリース。シングル「ウォーキング・イン・マイ・スリープ(英語版)」が全英56位、全米62位につけるも、アルバムは内容が大人しく地味だったためか全米102位に終わり、商業的には奮わなかった。しかし、翌1985年にタウンゼンドが提供した新曲「アフター・ザ・ファイヤー(英語版)」のシングルが全英50位、全米48位を記録し、日本でもスズキ・カルタスのCMソングに起用された。同曲を収録した6枚目のアルバム『月の影』は、プロデューサーにアラン・シャックロック(英語版)、ゲストに当時人気絶頂のブライアン・アダムスを迎え、ダルトリー自身も作詞に積極的に関わった作品のなり、チャートでは全米42位、全英52位につけた。このアルバムの宣伝のため、ダルトリーは初のソロ・ツアーを敢行する。公演ではザ・フーの楽曲も披露し、高い評価を得た。 1987年、前作同様シャックロックと組んで制作した7枚目のソロ・アルバム『今宵、シネマで』をリリースするもチャート・インを果たせず。しばらくソロでの音楽活動から遠ざかるが、1989年のザ・フーの結成25周年記念ツアーを経て、良い刺激を受けたダルトリーは再びソロ・アルバム製作に意欲を燃やす。1992年、8枚目のソロ・アルバム『ロックス・イン・ザ・ヘッズ』を発売。だが宣伝不足と北米限定という販売戦略により、前作同様チャート到達を果たせなかった。その後2018年までの26年間、ソロ名義のオリジナル・アルバムは製作されなかった。同年、フレディ・マーキュリー追悼コンサートに出演して、「アイ・ウォント・イット・オール」を演奏した。 ザ・フー結成30周年となる1994年、オーケストラを従えてザ・フーの楽曲を演奏するソロ・ツアーを敢行。初日のニューヨーク公演にはタウンゼンドやエントウィッスルも参加した。当時不安神経症を患っていたタウンゼンドは出演を辞退しようとしてダルトリーを激怒させたが、その後参加を決めた。この公演の模様を収録した『ア・セレブレーション - ザ・ミュージック・オブ・ピート・タウンゼンド・アンド・ザ・フー』は年内に発売された。収録曲の中には既に発表されていたタウンゼンドのソロ・アルバムの楽曲をダルトリーが取り上げたものもあった。 1996年6月、タウンゼント、エントウィッスルと再結集したダルトリーはチャールズ皇太子主催の『プリンシズ・トラスト』(The Prince's Trust)でザ・フーのアルバム『四重人格』(1973年)を完全再演した。これをきっかけにザ・フーの再結成が本格化し、そのツアー活動が主軸になったので、ソロ活動は中断された。2009年、北米およびカナダで久々にソロ・ツアーを行う。バンド・メンバーにはタウンゼンドの弟で、1996年の『四重人格』の再演以来ザ・フーのツアーにサポート・メンバーとして参加してきたサイモン・タウンゼントも含まれた。2010年にはエリック・クラプトンとジョイント・ツアーを敢行。2011年にはサイモンらを招聘したソロ・ツアーで『トミー』を完全再演する。2012年4月にはソロで来日し、東京・横浜・大阪・名古屋で公演を行っている。 2014年、ウィルコ・ジョンソンとコラボレートしたアルバム『ゴーイング・バック・ホーム』をリリース(全英3位)。 2018年、26年ぶりのソロ・アルバム『アズ・ロング・アズ・アイ・ハヴ・ユー』を発表(全英8位、全米194位)。アルバムにはタウンゼンドも参加している。また、サイモン・タウンゼンドをはじめとするザ・フーのサポート・メンバーを含むバンドを率いて、『トミー』をオーケストラと再演するツアーを行なった。さらに、回想録の"Thanks a Lot Mr. Kibblewhite: My Story"を上梓した。翌2019年に『トミー』(1969年)の50周年記念として、ライブ・アルバムThe Who's Tommy Orchestralを発表した。 音楽スタイルややハスキーがかったパワフルな声質を持つが、本人は自分の声を気に入っていないという。ザ・フーのコンサートでは、タウンゼントのギター破壊が注目を集めたが、ダルトリーもまたコードを軸にマイクを投げ縄の如く振り回すパフォーマンスで観客を魅了した。ギターも弾けて、前述のとおり元々はリード・ギター担当だったが、、ザ・フーではあくまでボーカリストに徹して、ハーモニカとタンバリン以外の楽器は演奏しなかった。だがソロ活動や近年のステージではギターを弾きながら歌うこともある。 ザ・フーで自ら作詞作曲を行うことはあまりなかった。ザ・フーの曲で共作を含めて彼の名前が作者にクレジットされているのは、「エニウェイ・エニハウ・エニホエア」、「シー・マイ・ウェイ」、「アーリー・モーニング・コールド・タクシー」、「ヒア・フォー・モア」の4曲のみである。「エニウェイ・エニハウ・エニホエア」はタウンゼントと、「アーリー・モーニング・コールド・タクシー」はツアー・マネージャーだったデイヴ・ラングストンとの共作である。しかし実際には後者はラングストンが単独で書いた曲である。当初ダルトリーは「サイ(ラングストンのニックネーム)と2人で書いた」と言っていたが、ラングストンが耐え切れずに暴露してしまったので、タウンゼントは彼に作者としてのクレジットを諦めるよう説得した。結局、彼の名はクレジットに残された。 タウンゼントはダルトリーがなぜもっと曲を書かないのか理解できなかったと言い、「多分ロジャーは、解釈者、声、楽器として存在する方が楽しかったんだろうね」と推測している。ダルトリーが一番気に入っているザ・フーのナンバーは「ビハインド・ブルー・アイズ」(アルバム『フーズ・ネクスト』収録)であるという。 ソロ活動においても他人の曲を取り上げることが多く、10作ものソロ・アルバムに収録された自作曲は共作を含めても10曲前後である。 俳優として
映画『トミー』(1975年)の主役に抜擢されたダルトリーは、演技の経験が全く無かったにも拘らず大役を見事に務めて、第33回ゴールデン・グローブ賞の最優秀新人男優賞の受賞者の候補の一人に挙げられるなど、その演技を高く評価された。 『トミー』の監督を務めたケン・ラッセルはダルトリーの演技に感銘を受けて、19世紀の作曲家フランツ・リストを社交界のアイドルとして描いた次作『リストマニア(英語版)』(1975年)の主役に彼を抜擢した。ダルトリーは音楽を担当したリック・ウェイクマン名義の同名サウンドトラック盤の制作にも参加して、幾つかの収録曲の作詞とリード・ボーカルを担当した。 1978年にはリチャード・マーカンドが監督を務めたホラー映画『レガシー』に出演して、招待されたパーティーの席で不審な死を遂げる客の役を演じた。 1980年には前述のように実在する脱獄囚の自伝に基づいたイギリス映画『マックヴィカー(英語版)』の主役を務めた。 2024/06/26 21:36更新
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Roger Daltrey
ロジャー=ダルトリーと同じ誕生日3月1日生まれの人
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