一万田尚登の情報(いちまだひさと) 銀行家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
一万田 尚登さんについて調べます
■名前・氏名 |
一万田尚登と関係のある人
井上五郎: 長男・井上素彦(1963年生) - 慶応義塾幼稚舎、慶応義塾普通部卒業後、慶応義塾高校在学中に立教英国学院転校、東京国際大学卒業後、三井物産入社、脳出血により退職、著書に『「非常時の男」一万田尚登の決断力―孫がつづる元日銀総裁の素顔 』がある。 三木武夫: 芦田は自らが影響力を保持できる苫米地総裁、三木幹事長という人事案に賛成し、一万田尚登日銀総裁ら外部から総裁を招請する案には反対した。 福田赳夫: 1960年(昭和35年)12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男・田中龍夫・一万田尚登・倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。 桜田武: なお、この「亥二黒会」は、最初はそういう名前ではなく、内輪の小人数の財界人だけの会で、一万田尚登や白洲次郎なども入っていた。 井上五郎: 三男・一万田安城 - 一万田尚登の婿養子 佐々部晩穂: 日銀の同期には一万田尚登がいた。 池田勇人: 政争の一環として、鳩山政権全期間にわたって大蔵大臣を務めた一万田尚登へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした。 永野重雄: 永野がニューデリーから直接、一万田尚登蔵相に国際電話を入れ決裁を仰いだ。 石川一郎: 経団連会長就任の背景は、当時、「一万田法王」として日本経済に君臨していた一万田尚登日銀総裁との親密関係の賜物であったとされる。 中村尚登: 家系が代々銀行員で、名前の「尚登」は本人出生時の大蔵大臣・一万田尚登から拝借したとのこと。 中山素平: 日本銀行の一万田尚登総裁は金融引き締め政策に逆行する巨額投資に憤り、「製鉄所にペンペン草をはやしてやる」とまで言い放ち、反対した。 中山素平: しかし、日本銀行総裁の一万田尚登が日銀理事の太田利三郎を副総裁に推した。 井上五郎: 岳父に日銀総裁一万田尚登。 森永貞一郎: 主計局長時代は日銀出身の一万田尚登大蔵大臣に強硬に反発をしたこともある。 藤山愛一郎: →衆議院選挙区一覧 (1947-1993)#神奈川県)から立候補して初当選(現職の民間人閣僚が新人代議士候補として総選挙に出馬し当選したのは、1954年に第1次鳩山一郎内閣で民間から起用された一万田尚登大蔵大臣と高碕達之助経済審議庁長官が翌年の第27回衆議院総選挙に日本民主党公認で立候補して初当選を果たしたのと、その次の総選挙におけるこの藤山の場合の3例を数えるのみである) 。 新木栄吉: 1954年(昭和29年)にかつて自身の後任として日銀総裁になった一万田尚登が第1次鳩山一郎内閣の大蔵大臣を拝命して入閣すると、新木はその後任として8年ぶりに2度目の日銀総裁に就任した。 |
一万田尚登の情報まとめ
一万田 尚登(いちまだ ひさと)さんの誕生日は1893年8月12日です。大分出身の銀行家のようです。
現在、卒業、解散、引退に関する情報もありますね。1984年に亡くなられているようです。
一万田尚登のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月12日 - 1984年(昭和59年)1月22日)は、日本の銀行家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。姓は新字体で一万田とも表記される。 日本銀行総裁(第18代)、大蔵大臣(第58・59・60・63代)、衆議院議員(5期)。 日本銀行総裁としての在任期間3115日間は黒田東彦に次ぐ歴代二位である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。 太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部占領下のインフレと資金不足の困窮経済のなか、大蔵省ではなく金融政策を掌る日本銀行が実質的に金融行政を掌握していたことが一萬田の力の背景にあった。一萬田自身の強力な政治力を背景に、政策委員会は日本銀行の下に置かれることとなり、議長の座も日本銀行総裁が兼ねることとなった。しかし、池田勇人や山際正道らとの日本銀行法改正論議を端緒にした大蔵省の権能の増大、また日本輸出入銀行による輸出補助金の割り当て権限を背景とした通商産業省の権能の増大、などにともなって、日本銀行そのものの役割は薄まることとなった。占領行政を脱した後に大蔵大臣となった際に、次官の平田敬一郎と対立して更迭しようとしたが、省内から大反発を受けてこれを断念せざるを得ないこともあった。 1893年、大分県大分郡野津原村(後の野津原町、現在の大分市野津原地区)に生まれた。先祖は豊後大友氏の支族、一萬田氏で大友能直の第六子一万田時景を始祖とし代々大友氏の重臣として著名であった。旧制大分県立大分中学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)を卒業し、第五高等学校に入学した。その後、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、1918年に卒業した。 東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行した。1944年には、日本銀行の理事に就任した。1946年、前任の新木栄吉の公職追放に伴い、日本銀行の第18代総裁に就任した。インフレーション下の戦後日本経済再建のため、日本銀行は金融面での絶大な権威を持ち、ローマ教皇庁にたとえられたことから、「一萬田法王」の異名を取った。 1951年のサンフランシスコ講和会議では、大蔵大臣の池田勇人、国民民主党最高委員長の苫米地義三、自由党の星島二郎、緑風会総会議長の徳川宗敬とともに全権委員となり、首席全権である内閣総理大臣の吉田茂とともにアメリカ合衆国を訪問した。 1954年、日本銀行総裁を辞任した。一萬田の後任には、かつて総裁を務めた新木栄吉が再び就任した。 1954年、第1次鳩山一郎内閣の発足にともない、政財界の有力者である肥田琢司による推薦で民間人閣僚として大蔵大臣に就任した。非国会議員としては、最後の大蔵大臣となる。大臣在任中の1955年に実施された第27回衆議院議員総選挙にて、大分県第1区から日本民主党で立候補して初当選。1956年に発足した第2次鳩山一郎内閣では、大蔵大臣に再任された。同年、自由党と日本民主党との保守合同にともない、自由民主党が発足した。これを受け、第2次鳩山一郎内閣は内閣総辞職したうえで、第3次鳩山一郎内閣が発足した。一萬田も自由民主党の結成に参加するとともに、第3次鳩山一郎内閣の大蔵大臣に再任された。翌年、石橋内閣の発足にともない、大蔵大臣を退任した。 1957年に発足した第1次岸改造内閣にて、大蔵大臣に就任し、デフレ政策を実行した。「デフレの山も富士山で言えば八合目。ここらで、ミルクでも飲んで後一息」と語り「富士山八合目ミルク論」と話題をまく。1958年、第2次岸内閣の発足にともない、大蔵大臣を退任した。 1962年11月、大分県庁舎建築資金として10万円寄付により1964年4月4日紺綬褒章受章。1965年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章。1969年、衆議院解散にともない、政界を引退した。1984年、心不全のため死去、90歳。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、正三位に叙される。墓所は杉並区築地本願寺和田堀廟所。 総裁就任後、ただちに連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに会見を申し入れ、「日本経済の実情を知って欲しい。ありのままのことを話し私の意見を言うから、気に入らないことは聞き流しても結構だ」と率直に伝え、信頼関係を築いたといわれる。 日本銀行総裁として金融行政で慎重に注意深く実施したものの、金融政策と産業振興について国会で問われた際に「何か金融というものが産業に優先しているというような、そういうけちくさい考えは少しも持っておりません」と前置きした上で「道楽している場合に、女房役の金融というものは、懷中を預かっているのは当然なんだが、それを道楽している者に懷中を預けておけば、翌日配給物も受取れません。そういうようなことでは国がつぶれます。それだから、産業が真にインフレ的な考えから目ざめてやってくれれば、女房役はむしろお小づかいはどうだろうかくらいに思って、知らぬうちにたもとの中に小づかいを入れてくれるようになるのです。問題はそこにあると思うのです」と野放図な金融拡大を諫めている。 川崎製鉄(現在のJFEスチール)の西山弥太郎が主導して千葉に本格的高炉を備えた製鉄所を建設しようとした際に「建設を強行するなら今にペンペン草をはやしてやる」と言ったと俗に言われているが、一万田自身は経済安定九原則下での金融引き締め政策の中で企業規模に比して過大な投資に懸念を抱き国産の鉄鋼生産の拡充の必要性を問われて「鉄鋼などは何も国産に拘らずとも外国から安いのを買えば宜しい。仮に無理矢理製鉄所を新設しようとしてみたところで結局はペンペン草が生えるだけにしかならない」と国際分業の中でのポジションで発言したことが誤って広まったと言われている。また自動車工業についても「国際分業の中では日本が自動車工業を育成するのは無意味である」と不要論を唱えた。 国際基督教大学(ICU)の設立にあたり、尚登自身は仏教徒でクリスチャンではないにもかかわらず募金運動の先頭に立ち、1949年(昭和24年)の半年間に1億5000万円を集めた。 頭が禿げることを心配したため、27歳から頭髪は洗わないでヘア・ローションでぬぐって済ませるという習癖を持っていた。 長く聖徳太子の肖像画が紙幣に使用されていたが、敗戦後GHQにより太子の紙幣が廃止されるのを阻止している。また、大隈重信が設立した日印協会の第5代会長をつとめている。 1893年 - 大分県大分郡野津原村にて誕生。 1918年 - 東京帝国大学法科大学卒業。 1918年 - 日本銀行入行。 1944年 - 日本銀行理事。 1946年 - 日本銀行総裁。 1951年 - サンフランシスコ講和会議日本全権代表。 1954年 - 日本銀行総裁辞任。 1954年 - 大蔵大臣(第1次鳩山一郎内閣)。 1955年 - 第27回衆議院議員総選挙当選。 1955年 - 大蔵大臣(第2次鳩山一郎内閣)。 1955年 - 大蔵大臣(第3次鳩山一郎内閣)。 1957年 - 大蔵大臣(第1次岸改造内閣)。 1958年 - 第28回衆議院議員総選挙当選。 1960年 - 第29回衆議院議員総選挙当選。 1963年 - 第30回衆議院議員総選挙当選。 1967年 - 第31回衆議院議員総選挙当選。 1984年 - 死去。 妻・一万田誠子 - 溝部洋六の妹。義兄に三浦義一 長女・山口和子 - 東急不動産常務・山口洋三(山口竹治郎の子)の妻 二女・井上朝子 - 東京熱エネルギー社長・井上琢郎(井上五郎長男、井上角五郎孫)の妻
三女・一万田栄子 - 入夫にクレディ・スイスジャパン社長・一万田安城(旧姓井上、井上五郎三男、井上角五郎孫) 1964年 - 紺綬褒章 1965年 - 勲一等瑞宝章。 1984年 - 正三位、勲一等旭日大綬章。 『人間と経済』河出書房、1950年2月。 『現下の経済金融問題について』神戸商工会議所〈神戸商工会議所講演集 第19号〉、1950年。 『霞町雑記 ミルク論その後』学陽書房〈学陽新書〉、1955年9月。 一万田尚登伝記・追悼録刊行会編 編『一万田尚登 伝記・追悼録』徳間書店、1986年1月。 一万田尚登、大内兵衛『日本経済の前途』労働文化社、1949年12月。 一万田尚登、高田保馬『日本民族の復興と経済の自立』改造社、1950年5月。 一万田尚登、黒田長礼『黒鳥』皇居外苑保存協会、1959年6月。 東京12チャンネル報道部 編『混乱から成長へ』学芸書林〈証言・私の昭和史 6〉、1969年12月。 『終戦後における金融政策の運営 一万田尚登元日銀総裁回顧録』島本禮一編 日本銀行調査局 1978 井上素彦『「非常時の男」一万田尚登の決断力 「行動すれども弁明せず」で日本再生に命を賭けた 孫がつづる元日銀総裁の素顔』井上琢郎監修(財界研究所、2002) ISBN 4-87932-026-9 阿部康二『一万田尚登伝 日本財界人物伝全集』東洋書館 1955 国会通信社編集部編『国会記者の眼で見た一万田尚登』国会通信社 1958 『昭和史をつくった二人 後藤文夫・一万田尚登回想録』アドバンス大分・おおいた文庫 1983 ^ 日本銀行のサイト内・第18代総裁:一萬田尚登(いちまだひさと) : 日本銀行 Bank of Japan(2019年6月18日閲覧)より。ただし読みを「いちまた」としている資料等もある。 ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、124頁。 ^ 『官報』第11192号22頁 昭和39年4月7日号 ^ 『官報』第17111号13-14頁 昭和59年2月21日号 ^ 第5回国会 衆議院大蔵委員会にて塚田十一郎の質問に対して(1949年4月15日)[1](2019年6月18日閲覧)より。ただし読みを「いちまた」としている資料等もある。 ^ 平林博「2013 年の年頭所感―日印協会110 周年の回顧と展望」(PDF)『月刊インド』第110巻第1号、公益財団法人日印協会、2013年1月、4-6頁、2014年4月4日閲覧。 一万田尚登| 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館 第18代総裁:一萬田尚登 - 日本銀行 沿革|国際基督教大学(ICU) 表 話 編 歴 松平慶永 伊達宗城 大久保利通 大隈重信 佐野常民 松方正義 松方正義 渡辺国武 井上馨 松田正久 西園寺公望 曾禰荒助 阪谷芳郎 桂太郎 山本達雄 若槻禮次郎 高橋是清 武富時敏 寺内正毅 勝田主計 市来乙彦 井上準之助 勝田主計 濱口雄幸 早速整爾 片岡直温 三土忠造 藤井真信 町田忠治 馬場鍈一 結城豊太郎 賀屋興宣 池田成彬 石渡荘太郎 青木一男 櫻内幸雄 河田烈 小倉正恒 賀屋興宣 津島壽一 広瀬豊作 渋沢敬三 石橋湛山 矢野庄太郎 栗栖赳夫 北村徳太郎 泉山三六 大屋晋三 臨時代理 池田勇人 向井忠晴 小笠原三九郎 一万田尚登 佐藤栄作 水田三喜男 田中角栄 福田赳夫 植木庚子郎 愛知揆一 大平正芳 坊秀男 村山達雄 金子一平 竹下登 渡辺美智雄 宮澤喜一 橋本龍太郎 海部俊樹 羽田孜 林義郎 藤井裕久 武村正義 久保亘 三塚博 松永光 宮澤喜一 宮澤喜一 塩川正十郎 谷垣禎一 尾身幸次 額賀福志郎 伊吹文明 中川昭一 与謝野馨 藤井裕久 菅直人 野田佳彦 安住淳 城島光力 麻生太郎 鈴木俊一 加藤勝信 表 話 編 歴 吉原重俊 富田鐵之助 川田小一郎 岩崎弥之助 山本達雄 松尾臣善 高橋是清 三島彌太郎 井上準之助 市来乙彦 井上準之助 土方久徴 深井英五 池田成彬 結城豊太郎 渋沢敬三 新木榮吉 一万田尚登 新木榮吉 山際正道 宇佐美洵 佐々木直 森永貞一郎 前川春雄 澄田智 三重野康 松下康雄 速水優 福井俊彦 白川方明 黒田東彦 植田和男 表 話 編 歴 梅林時雄 村上勇 金光義邦 野上健次 村上勇 小玉治行 金光義邦 羽田野次郎 広瀬正雄 村上勇 木下郁 後藤義隆 金光庸夫 広瀬正雄 村上勇 木下郁 広瀬正雄 木下哲 一万田尚登 村上勇 村上勇 木下哲 一万田尚登 広瀬正雄 村上勇 広瀬正雄 二宮武夫 一万田尚登 村上勇 二宮武夫 広瀬正雄 一万田尚登 村上勇 工藤良平 広瀬正雄 一万田尚登 村上勇 広瀬正雄 羽田野忠文 合沢栄 村山富市 村上勇 広瀬正雄 羽田野忠文 村山富市 村上勇 広瀬正雄 羽田野忠文 村山富市 本郷公威 畑英次郎 木下敬之助 村上勇 羽田野忠文 畑英次郎 木下敬之助 村山富市 畑英次郎 木下敬之助 衛藤征士郎 村山富市 畑英次郎 木下敬之助 衛藤征士郎 村山富市 衛藤晟一 衛藤征士郎 畑英次郎 村山富市 畑英次郎 衛藤征士郎 衛藤晟一 表 話 編 歴 初代 長岡護美 (1903年就任) 第2代 大隈重信 第3代 渋沢栄一 第4代 大隈信常 第5代 一万田尚登 (1952年-1955年) 第6代 櫻内義雄 (1955年-2003年) 第7代 森喜朗 (2003年12月-2022年6月) 第8代 安倍晋三 (2022年6月-2022年7月) 初代 平林博 (2007年6月-2022年6月) 第2代 齋木昭隆 (2022年6月-現在) 谷野作太郎 鈴木修 佐々木幹夫 張富士夫 岡素之 坂根正弘 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 SNAC 20世紀日本の実業家 日本銀行総裁 昭和時代戦後の閣僚 日本の大蔵大臣 日本民主党の衆議院議員 自由民主党の衆議院議員 大分県選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 正三位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 紺綬褒章受章者 日印協会の人物 国際基督教大学の人物 東京大学出身の人物 旧制第五高等学校出身の人物 大分県立大分上野丘高等学校出身の人物 大分県出身の人物 日本の仏教徒 1893年生 1984年没 一萬田氏 2024/11/21 10:55更新
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ichimada hisato
一万田尚登と同じ誕生日8月12日生まれ、同じ大分出身の人
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