三遊亭圓歌の情報(さんゆうていえんか) 落語家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
三遊亭 圓歌さんについて調べます
■名前・氏名 |
三遊亭圓歌と関係のある人
吉村明宏: 三代目三遊亭圓歌の芸能人弟子である。 三遊亭歌武蔵: 1983年12月 - 三代目三遊亭圓歌に入門。 小川宏: 幼馴染の3代目三遊亭圓歌によると、小川は元々吃音者であり、圓歌が真似をしているうちに同じく吃音者になってしまい、それが圓歌を落語家にするきっかけとなったという。 三遊亭歌武蔵: 1983年12月 - 三代目三遊亭圓歌に入門。 大瀬ゆめじ: 落語家三代目三遊亭圓歌一門。 カール=ブッセ: 冒頭の一節は、2代目三遊亭歌奴(後の3代目三遊亭圓歌)が新作落語『授業中(山のあな)』でネタにして人気を博し、後年、後輩の5代目鈴々舎馬風が新作落語『会長への道』の作中で「あれであの人(圓歌)は落語協会会長になったようなもの」と評した程の一時代を築いた。 大瀬ゆめじ: 2018年 - 三代目三遊亭圓歌追善興行にて一度だけコンビ復活 滝田ゆう: 落語家の3代目三遊亭圓歌は寺島第二國民学校の2歳年上だが同学年の幼馴染。 |
三遊亭圓歌の情報まとめ
三遊亭 圓歌(さんゆうてい えんか)さんの誕生日は1929年1月10日です。東京出身の落語家のようです。
初代などについてまとめました。卒業、結婚、離婚、兄弟に関する情報もありますね。52歳で亡くなられているようです。
三遊亭圓歌のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)初代本名は泉 清太郎。 1876年6月10日 - 1927年10月22日。東京下谷東同朋町の仕立て屋の家に生まれ、幼くして実家が火事にあい父が死別、1895年に近所に住んでいた三遊亭右楽の紹介でその師匠の初代三遊亭圓右の門に入り三遊亭右左喜、1897年に師に内緒で上総房州に巡業し破門、詫びを入れ二つ目で三橘、翌年再び上方、九州を巡業、巡業先で「橋立」の艦長と知り合い従僕することになり日露戦争に従軍、1906年に帰国復帰し初代三遊亭小圓右を経て1907年9月に真打で初代圓歌を襲名し京橋金沢亭で披露した。52歳没。 人情噺、芝居噺、古典、古典の改作、新作幅広くこなし「肝つぶし」「鹿政談」「新助市」「品川心中」など多数、新作では「酢豆腐」を「石鹸」の名で改作している。 墓所は谷中長久院。戒名は「圓浄清歌信士」。 弟子は3代目三遊亭金馬、2代目三遊亭円歌、船遊亭扇太郎、軽口の三遊亭歌輔・歌之輔(元三遊亭左近・右近)。 2代目 本名、田中 利助(たなか りすけ)。1890年4月28日 - 1964年8月25日。出囃子は『踊り地』。新潟県生まれ。新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学卒業の高学歴で、横浜で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで札幌に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。 北海道に移り住み旅回りの一座に入り、勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽で巡業中の2代目三遊亭小圓朝に見つかり、それがきっかけとなって、大正4年(1914年)4月に東京の初代三遊亭圓歌に入門、歌寿美と名乗る。大正6年(1917年)、二つ目に昇進して三遊亭歌奴を名乗る。大正10年(1920年)4月、真打昇進。昭和9年(1934年)10月、2代目円歌(「圓」の字は画数が多く自分の芸風にあわないとして「円」の文字を使っていた、また「圓」の字では四方八方囲まれてしまうので逃げ道を作るため「円」の字を用いたともいう)を襲名。非常な努力の末、新潟訛りと吃音を克服、普段の会話では吃り癖が残っていたが、高座に上がると弁舌さわやかに切り替わる名人ぶりを見せた。ただし高座の最中、不意に吃りが出ると、扇子が痛むほど床で調子を取っていた。 モダンで明るく艶っぽい芸風で、女性描写は絶品であった。艶笑小噺もよく演じた。残された音源では放送禁止用語が連発されているものの嫌らしく聞こえないなど、かなりの力量を持った噺家であった。また高座では手拭いではなくハンカチを使い、腕時計を女性のように内側に向けて着けたまま演じていた。余芸で手品の披露もした。自身稽古をつけてもらった経験のある7代目立川談志によれば、演目の仕舞いに、自ら茶々を入れながら踊りを見せたりすることもあったという。大の歌舞伎ファンでもあった。 5代目三遊亭圓楽は6代目三遊亭圓生に入門する2年前、入門するつもりはなかったが人柄が良さそうだったからと言う理由で2代目円歌に落語家になることについて相談をしに行った。 また、2代目円歌の本名「田中利助」は、落語『花色木綿(出来心)』で表札に書かれていた名前に今なお使用されることがある。 5代目古今亭志ん生とは、息子が志ん生の娘と結婚したため、一時期親戚関係にあった(ただし、円歌の死後に両者は離婚)。 晩年は自家用車を買って自分で運転していたが、「ひとにぶつけてはいけない」と非常にスロー運転で、銀座で「あまりにも遅すぎる」と警察から罰金を取られたことがあるという。 1963年、落語協会副会長就任。その後、健康上の理由から落語協会会長を退いた志ん生の後任として円歌を推す動きがあり、本人も意欲を示していたが、志ん生が芸の力量を優先して6代目三遊亭圓生を会長に推薦したため、対立を避けるために志ん生の前任の会長であった8代目桂文楽が会長に復帰し、円歌は副会長に収まったという経緯がある。 結局は会長就任がかなわぬまま、1964年8月25日に死去。享年74。没後、副会長職は圓生が引継いだ(翌1965年に会長に就任)。 3代目三遊亭金馬は兄弟子。門下には3代目圓歌、三遊亭歌太郎(旧名:三遊亭歌扇)、三遊亭笑三(現:三笑亭笑三)、3代目三遊亭歌笑、立花家色奴・小奴(色奴は3代目三遊亭圓遊の妻で、小奴はその娘)がいる。 持ちネタは多く、新作では『呼び出し電話』『社長の電話』『空き巣の電話』『ボロタク』『木炭車』『巻き返し』『馬大家』を演じた。芝居噺では『七段目』『将門』。古典では、あまり演じ手のない『紺田屋』『写真の仇討』『紋三郎稲荷』『山岡角兵衛』『首ったけ』『姫かたり』『夢の富』『七草』『西行』『羽団扇』『竜宮界龍の都』などを演じた。芸域は非常に広く、新作を演じることで知られた噺家ではあったが、古典の持ちネタは滑稽噺のみならず音曲噺、芝居噺、人情噺等多岐に渡ったという。その数は持ちネタの多さで知られる6代目三遊亭圓生にも匹敵する程ではなかったかと、5代目三遊亭圓楽は語っている。 2024/11/19 22:36更新
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