三重ノ海剛司の情報(みえのうみたけし) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
三重ノ海 剛司さんについて調べます
■名前・氏名 |
三重ノ海剛司と関係のある人
豊山勝男: 一方で1998年に理事長に就任したのは、60歳5ヶ月でこちらは就任時は歴代最高齢での就任だった(その後、武蔵川〈元横綱・三重ノ海剛司〉が60歳7ヶ月、放駒〈元大関・魁傑将晃〉が62歳5ヶ月で理事長に就任したため、現在は歴代3位の高齢就任)。 照ノ富士春雄: モンゴル出身としては2014年の鶴竜以来、7年ぶり5人目の横綱誕生であり、外国出身としては7人目で、大関陥落経験者の横綱昇進は1979年7月場所後の三重ノ海剛司以来42年ぶり2人目。 佐田の山晋松: 出羽海部屋では常陸山谷右衛門が一門を創設して以来、「不許分家独立」の不文律が存在し、当時の大坂相撲から一門へ加入後に消滅した部屋の再興を除いて独立が無かった(武隈・九重は一門を破門された)が、現役時代から可愛がっていた三重ノ海剛司が独立の意思を持っていることを知るとこれを許可し、1919年の栃木山守也(春日野部屋を創設)以来となる円満独立となった。 貴ノ浪貞博: これは1969年(昭和44年)7月場所以降に制定された「大関特例復帰制度」から、1976年(昭和51年)7月場所の三重ノ海剛司以来24年ぶり二度目の出来事だった。 佐田の山晋松: 師匠・出羽海としては、先代から引き継いだ三重ノ海剛司を横綱へ昇進させたほか、関脇・出羽の花義貴、小結・大錦一徹、佐田の海鴻嗣、舞の海秀平などの多くの幕内力士を育成した。 若獅子茂憲: そして同年7月場所では東前頭6枚目で三重ノ海剛司や大受久晃を破るなど11勝4敗の好成績を挙げ、生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞。 |
三重ノ海剛司の情報まとめ
三重ノ海 剛司(みえのうみ たけし)さんの誕生日は1948年2月4日です。三重出身の相撲のようです。
引退、病気、父親、卒業、兄弟、母親、現在、結婚、家族、事件、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。三重ノ海剛司の現在の年齢は76歳のようです。
三重ノ海剛司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)三重ノ海 剛司(みえのうみ つよし、1948年2月4日 - )は、三重県松阪市出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。第57代横綱。本名は石山 五郎(いしやま ごろう)。現役引退後は年寄として後進の指導に尽くし、日本相撲協会理事長、退職後は、相撲博物館館長を務めた。 幼少期は山で木を削って刀を作ったり、ターザンごっこをしたり、寺で三角ベースをやったりしていた。野球も少ししていたが、特別好きなチームはなく、好きな選手はいなかった。運動神経は悪かったため、野球ではチームの足を引っ張っていた。父が建設関係の仕事をしていたころは普通の生活を送っていたが、父が病気で倒れてからは途端に貧しくなった。以来、ベルトを買う金もなく、母の腰巻の紐で代用していたほどの貧窮家庭に育った。小学校4年生の頃から新聞配達を行い、6年生の頃からは中学生以上でないと行えない牛乳配達を年を偽って行った。中学校時代は松阪駅近くの精肉店の配達のアルバイトも始め、仕事の終わりの銭湯と外食が楽しみであった。中学1年の時、石山と10歳以上年の離れた兄が出羽海部屋をひいきにしていた魚屋の大将に「うちの弟がそこそこ体が大きいから相撲取りにどうかな」と冗談半分で相談した。大将は興味を持って「それならちょっと(体を)見せてみろ」となり、石山は銭湯で体を見られた。まもなく名古屋場所が始まる時期で、その準備で出羽海部屋の部屋付き親方であった松ヶ根(元関脇・羽嶋山)が名古屋に来るから会わせてやる、と言われ、石山は相撲に全く興味はなかったが、言われるまま、松ヶ根が泊まる旅館に連れて行かれた。75kg以上と体重はあったが、身長が167cmぐらいで当時の新弟子検査の基準(173cm、75kg)に達していなかった。松ヶ根は「身長が伸びたら、また連絡でもしてこい」といい、結局、それで話はすぐに終わってしまった。 松阪市立鎌田中学校在学中に父親を亡くしたため、中学卒業後に集団就職で東京のアルミ工場へ一度就職したものの、苛酷な労働環境に耐えかねて退職し、帰郷した。工場勤務時代については「田舎にいてもしょうがないと、上京して、江戸川区のアルミ工場で働いたんですが、まあきつい仕事でね(苦笑)。液体のアルミを型に流し込む仕事なんですが、重いし、熱くて部屋の空気は悪いし」と後に語っている。残業の際の夕食で提供される米も茶碗1杯と言う粗食ぶりであり、給料もすべて食費に消えるため実家への仕送りもままならなかった。工場勤務時代のある日に上野公園に行ったとき、力士を見かけて相撲部屋に勧誘された話を思い出し、一緒にいた先輩も「お前、太ってるから向いているよ」と言い、そこで入門に対する意欲を持つようになった。帰郷後は現代で言うニートのような生活をしていたが、体重ばかりは増えていったので、以前から憧れていた大相撲力士を目指して出羽海部屋に入門し、1963年7月場所において初土俵を踏んだ。入門しようと先述の魚屋の大将に電話すると「すぐに東京に帰ってこい」と促され、石山は一か八かと覚悟を決めた。新弟子検査を控えていた時、身長が足りないので兄弟子に頼んでたんこぶを作ってもらったり検査前夜に寝る時は少しでも背筋が伸びるように枕を腰の下に置いて寝たりして数mmでも身長が高く計測されるように工夫した。幸いにも当日に身長を計測してくれたのが当時の出羽海部屋付きの九重(元横綱・千代の山)であったため、実測171cmであったが目溢しにより合格した。名古屋場所前はいわゆる「新弟子枯れ」の時期であり、検査が緩くなる傾向にあった。 入門当初、「どんなことがあっても5年は頑張ろう。5年経っても20歳だからそこから第二の人生を歩める」と考えていたが、周囲は石山が本気で力士になるという決断をしたとは思っておらず、母親も「すぐに帰って来るだろう」と考えていた。魚屋の大将も石山が1週間で帰って来ると思ったらしい。入門時点での出羽海部屋には所属力士が80人ほどおり、人数過多のため土俵での稽古もままならないほどであったが、そんな中で石山は朝稽古が始まる午前6時より前の5時台(早い時には4時半)に起きて四股を踏んでいた。取的時代にはちゃんこを食べるにしても、スープしかない鍋の周りを自身と同じ取的同士10人程度で囲み、全員半身になってスープを取り合いつつ、ご飯にかけてかき込むなど苦労を経験した。入門して1年半が経過した頃には虫垂を切除し、そこから徐々に体が大きくなって、稽古を積みながら少しずつ番付が上がった。序二段時代には頭をぶつけて内出血したことで入院し、5千円(現在の2万5千円に相当する)を母から借り、角界に入って金を求めたのは最初で最後だったが、これで絶対親に苦労かけてはいけないと石山は思った。 入門前の相撲経験が皆無であったこともあって大相撲入門後は二番出世で序二段に13場所も留まるなど出世は遅く、非力で体格にも恵まれていなかったために周囲から期待されおらず、部屋付き親方からは序二段時代のある日「お前は稽古しないで日向ぼっこでもしていろ」と言われた。8代出羽海は「1週間もしないうちに、嫌になって帰るだろうと思っていた」といい、1967年9月場所に三段目優勝を果たしてようやく部屋付の高崎から「三段目の優勝で初めておまえの存在を知った」と言われるほどであった。本人は初土俵同期の旭國が1年で幕下に上がるのを見て焦りを覚えたという。尤も、旭国は約1年見習として下積みしてから初土俵を踏んだため、旭國の出世が速かったのはある意味では当然である。序二段の最後に部屋の若者頭から四股名を自分で考えろと言われ(当時の出羽海部屋は所属力士の数が多かったため、親方は四股名を考えてくれなかった)、四股名「三重ノ海」を名乗るようになった。三重県には「海」があって、部屋名の「出羽海」にも「海」の字があり、それらから取った「海」の字に出身の「三重」の字を足した、というのが四股名の由来である。出身の三重を使った四股名では、当時部屋には三重ノ山や三重光がいたのでそれ以外となると、海が思い浮かぶということで「海」の字を採用したという。三段目優勝以降は幕下に定着し、先輩の一人が「三段目で優勝した力士のだいたいが関取になる場合が多いから」という言葉で気を良くして、更に稽古に励んだ。東幕下5枚目の地位で土俵に上がった1969年1月場所には5勝1敗ともう1勝すれば十両昇進は確実とされた7番相撲で当時十両であった廣川を寄り切り、場所後新十両へ昇進。新弟子時代からのライバルであった旭國と同時に十両昇進を果たした格好であった。実家に帰って報告したら母は泣いて喜んでくれた。 新十両の頃、当時大関だった琴櫻が出稽古に来てたまたま自身が指名されたが、2番続けて勝ったため琴櫻はムキになってそこから三重ノ海は土俵に叩きつけられ転がされ、なすすべなしであった。同年9月場所には新入幕を果たした。 1970年7月場所には新三役となる西小結へ昇進し、大鵬・玉の海を破って初の殊勲賞を受賞した。その後も幕内上位に定着し、1971年11月場所には西小結の位置で11勝4敗の好成績を挙げて初の技能賞を受賞し、長谷川・貴ノ花・輪島・魁傑と共に大関候補として大いに期待され、これらの力士は三角大福にあやかって「貴輪三魁(きりんさんかい)」と呼ばれた。しかし、1972年から肝臓病が悪化して、1973年9月場所から1975年3月場所までは平幕に在位した。 1974年9月25日に夫人と東京プリンスホテルで挙式。結婚当初は目の周りや体に酷く湿疹ができていたため、妻は朝稽古前の野菜ジュースや食事の時の前菜の野菜で体質改善を狙い、これが力士生活における転機となった。 1975年5月場所に関脇へ復帰し、同年9月場所において11勝4敗の好成績を挙げ、続く11月場所では当時27歳11か月の年齢で13勝2敗の成績を挙げて初の幕内優勝を果たし、翌1976年1月場所において大関へ昇進した。この場所は「優勝するなんて気はさらさらなかった。そんな気持ちだったら体も動かないしね。自分の持っているものを全部だそうと」という気持ちで挑んでおり、後年の新聞の記事で「13日目に2敗同士の横綱(55代)の北の湖と対戦したが、とにかく優勝ではなく北の湖に勝ちたい一心だった。左を差し合い、一度吊られたが、しのぎにしのいで左からの下手投げ。優勝に加えて大関も見えたからね。もう、神がかってたよ」と述懐している。 ところが、新大関として迎えた1976年1月場所中、8勝7敗と勝ち越すも左足首を捻挫。その怪我の影響で続く3月場所と5月場所にそれぞれ途中休場したために2場所連続で負け越し、在位3場所目で大関の地位を明け渡してしまう。同年7月場所は関脇の地位へ陥落したが、その7月場所は関脇で10勝を挙げ、1場所で大関特例復帰を果たした。しかし、大関へ復活した1976年9月から1977年11月の8場所の間は、2桁勝利すら挙げられず大関角番を2回(通算3回)経験した。大関陥落から大関復帰までについては「成績を含め、大関として活躍しなければならないという気持ちが強すぎた」と語っており、復帰を懸けていた1976年7月場所は「家族にすら伝えてなかったけど、駄目なら引退しようとまで思った」という。また、不成績が続いていたことから「クンロク大関」「ハチナナ大関」とマスコミに揶揄されたこともある。それでも大関復帰を懸けている時期に「お前の相撲は、オレが一番よく知っている。もうダメだと思ったら、オレが引導を渡す。今はまだ大丈夫だ。頑張れ」と出羽海から励ましを受けたことでやる気を取り戻したという。 1978年1月、大関12場所目にして初めて10勝を挙げ、同年中に2桁勝利を4度記録して復調を印象づけた。1979年5月場所では北の湖の連勝を32で止めたのを含めて13勝2敗という優勝次点の成績を挙げる。自身初の綱獲りとなった翌7月場所では、初日に栃赤城に敗れるが、ここで「これでもう、綱はないな。あとは2桁挙げられるように頑張ろう」と気持ちを切り替え、そこからは白星を重ねて14連勝。結果14勝1敗の成績を挙げて優勝決定戦まで進出し、輪島との優勝決定戦には敗れたものの、優勝同点の好成績を挙げたことで横綱に推挙され、当時31歳5か月の高齢という遅咲きながら翌9月場所において漸く横綱へ昇進した。大関陥落経験のある力士が横綱へ昇進したのは史上初であり、照ノ富士が2021年7月場所後に横綱昇進を決めるまで42年間唯一の例だった。また、大関時代の勝率.594は、戦後に横綱に昇進した力士としては最も低い勝率だったが、それも照ノ富士(.573)によって更新された。 横綱土俵入りは雲龍型を選択し、指導は師匠である9代出羽海親方(元横綱・佐田の山)が行った。横綱昇進伝達式では「横綱の地位をけがさぬよう努力します」と口上を述べた。大関時代の不振もあって昇進時に周囲から「大丈夫か」という声が多く聞かれたといい、当時の番付には横綱に輪島、北の湖、2代目若乃花。大関に貴ノ花、旭國という面々がいたため、本人も「こんなすごいメンツで常に優勝を狙えるのか」と思っていた。新横綱の1979年9月場所は11勝4敗に留まったものの、同年11月場所で14勝1敗・1980年1月場所に15戦全勝と2場所連続優勝を達成した。11月場所14日目の2代目若乃花戦などはNHK大相撲中継の視聴率が39.8%を記録しており、これは九州場所のものとしては2017年9月場所終了時点で2位である(ビデオリサーチ調べ)。 しかしその後は年齢による体力の衰えもあって古傷の左肘の悪化など怪我や病気で休場が多く、2場所連続休場後の1980年11月場所は初日から2連敗、同場所3日目に現役引退を表明した(当時の年齢は32歳9か月)。横綱として15日間皆勤した場所は僅か4場所のみで、在位場所数も8場所と短命横綱に終わった。それでも、三重ノ海曰く「出羽海親方へ引退を申し出たら慰留されるも、私は満足感があった。横綱昇進時に相撲協会の使者を迎えた際、『引き際は綺麗に』と己に誓っていた。16年も掛けて横綱へ上がり『太く短く』燃え尽きたので、32歳9か月で終えた力士人生に悔いは無い」と懐古している。 引退後は短期間だけ年寄・山科を襲名した後すぐに年寄・14代武蔵川を襲名し、1981年8月には出羽海部屋から分家独立して武蔵川部屋を創設した。妻は当時2人の子供を抱えていたが、まさか出羽海部屋から独立ができるなどとは夢にも思っていなかった。 部屋を起こしてからは弟子30人から40人を抱え、生活費や後援者への返礼品まで予算を割くと部屋の財政は火の車で、借金地獄に陥る時期もあった。それでも徐々に部屋経営基盤が確立され、地元の松阪市後援会は全盛期で会員が100人を超えた。市内で和楽器の修理を営んだ「三味富(しゃみとみ)」の4代目店主、石村武紀も会員の一人だった。 部屋の指導者としては横綱・武蔵丸のほか、武双山・出島・雅山という3大関を含めた12人の関取を育て上げ、一時期は角界最多数の関取を擁して一時代を築いた。往年は稽古場においてグシャグシャに折れる程竹刀を振るうスパルタぶりで知られ、その厳しさから、出稽古に来た若い力士が緊張のあまり嘔吐したことがあるほどである。あまりに激しい稽古故に、所属力士は皆一様に前頭部の髪の毛が擦り切れ、膝には必ずサポーターが巻かれていた。そのようなことから当時所属力士は、角界関係者からしばしば武蔵川部屋所属であることを言い当てられていた反面、土俵外では明るく気さくな人物であったという。元魁皇の浅香山親方も稽古場での厳しさに触れつつ「だが一度、武蔵川部屋の酒席に呼ばれた際、酒が入っているとはいえ、弟子たちが親方を慕い、冗談を言い合っているのを見て衝撃を受けた。稽古場を離れれば、何でも話せる関係を築いているのだなと感じた。あれが理想の師弟関係だと思った」と土俵外での気さくな人柄を評価していた。一方で書籍によっては「"喜怒哀楽"の"怒"の顔しか見せることのなかった『昭和のオヤジ』」と親方時代を評する声も掲載されている。協会員としては役員待遇・監事(現:副理事)・理事と出世していき、2006年2月からは事業部長を務めた。その後、大相撲力士大麻問題を始めとした不祥事が相次ぎ、その処遇を巡って北の湖理事長が辞任したことを受け、2008年9月8日に第10代日本相撲協会理事長に就任した。同年、前2007年の時津風部屋力士暴行死事件を受けてそれまで閉鎖的だった協会に外部役員を招聘し、2015年1月現在でも外部役員の招聘は継続されている。 2007年6月16日には、2002年の北の富士以来5年ぶり史上8人目となる還暦土俵入りをホテル・グランパシフィック・メリディアンで行った。太刀持ちは出島、露払いは雅山が務めた。 2010年に発覚した大相撲野球賭博問題では、弟子の雅山が野球賭博に関与したために特別調査委員会から謹慎処分を受け、本人もその監督責任として特別調査委員会から同年7月4日から25日までの謹慎を勧告されたため、村山弘義に謹慎期間中における理事長代行を委嘱した。同年7月19日には高血圧で入院していたことが判明し、その後も胃癌の手術を受けて理事長職への復帰の見通しが立たなかったため、当初の委嘱期間が終了して以降も村山がそのまま理事長代行を務めた。同年8月5日に理事長職へ復帰したものの、同年8月12日に行われた臨時理事会で正式に理事長辞任を表明し、後任には17代放駒親方(元大関・魁傑)が就任した。 2010年9月30日に、年寄名跡は交換せずに武蔵川部屋の部屋付き親方である18代藤島親方(元大関・武双山)に部屋を譲渡する形で武蔵川部屋は藤島部屋と新たに名称が変更され、14代武蔵川は部屋の師匠の座から退いた。一部では「体調不良が原因か?」と囁かれたが、元々譲渡の2、3年前から話があった「既定路線」であったという。 2013年2月3日に日本相撲協会を停年(定年。以下同)退職。停年会見では現役時代について「十両に上がった時が一番うれしかった」と述懐しており「横綱(武蔵丸)を育てることができ、少しでも協会に恩返しできたかなという気持ち」とも言い残している。折しも自身の停年が、昭和の大横綱・大鵬(第48代横綱)が亡くなった時期(2013年1月19日逝去、享年72)と近く、協会員として最後の出勤場所となった2013年1月場所中の解説では、大鵬に対して哀悼の意を述べると共に思い出の取り組みとして、1970年7月場所の3日目、大鵬と初顔合わせを果たして勝利を収めた一番を挙げていた。「(大鵬は角界に)入った時からの大横綱。相撲を取れることだけで、前の晩から眠れないぐらい興奮していました」と回顧し「とにかく相撲を取れるだけで、心が躍っていました、少しでも長く(大鵬の)体に触っていたい、簡単に勝負をつけさせない、そんな気持ちで相撲を取りました」と懐かしんでいた。 年寄名跡・武蔵川を藤島部屋の部屋付き親方である3代大島親方(元横綱・武蔵丸)に譲渡して、自身は同年2月4日に相撲博物館の第6代館長に就任した。その後、15代武蔵川となった元武蔵丸は、藤島部屋から分家独立し、新たに武蔵川部屋を興した。部屋開きの際に14代武蔵川はかつての日々を思い起こして涙を流したが、14代武蔵川を怖い親方と見做していたかつての弟子の中には14代武蔵川が涙するところをその場で初めて見たという人物もいた。 2015年11月20日、大鵬と同じく昭和の大横綱・北の湖(第55代横綱)が62歳で逝去。翌2016年1月に「55代横綱北の湖敏満を偲んで」と題した展覧会が、相撲博物館で開かれた際には「最初は連合稽古だったかな。彼が三段目から幕下に上がる頃。すごいのがいると。すぐ強くなると思ったら、あっという間に追い越された。馬力もあった。左四つの型もあった…」と振り返るコメントを残し「私が最後に横綱になったんだけどね。ライバル意識が強かった。倒さなきゃ優勝できないんだから。そういう気持ちで頑張ってたなあ」と話していた。 2021年7月場所中に久々に報道上に登場。この場所で綱取りを懸ける、再大関の照ノ富士の取組をテレビで見て「私とは比較にならない」と言い切り「落ちてここまで戻ってくる力士は今後出ないでしょう。まず大関から落ちて、序二段で取ることが考えられない」と不屈の精神に舌を巻いた。その7月場所の千秋楽、照ノ富士は横綱白鵬と14戦全勝対決で惜敗するも14勝1敗で優勝次点に。前5月場所の優勝(12勝3敗)と合わせて「大関で2場所連続優勝に準ずる成績」の横綱昇進基準を満たし、同場所後に第73代横綱へ正式決定。この報道に関しても「ものすごい精神力。とにかく驚いている」と感嘆しつつ、「今後も怪我と病気に留意しながら、横綱としての重責を果たして欲しい」とエールを送っている。 部屋の後輩となる御嶽海が大関昇進を達成した際は「今場所(2022年1月場所)は非常に集中力を感じた。横綱になってもらいたい」と、1975年11月場所後大関となった三重ノ海自身以来、出羽海部屋から久々に大関誕生の御嶽海へ期待を寄せていた。 2023年1月14日、同年1月場所後の2月に10年間務めた相撲博物館館長を退任することがわかった。 2024年11月12日に北の富士(82歳7か月)の没後は、存命横綱として最年長となる。 入門したばかりの頃は当たって左前ミツを取るばかりであったが、あるとき激しい稽古で頭がブヨブヨに腫れて病院送りになってしまったので、右上手を浅く引いて前に出る、出し投げを打つという相撲を覚えた。本人は栃ノ海が参考になったと語っている。前廻しを取って低い姿勢から寄っていく取り口が主体で、巧みな前捌きで相手に力を出させずに勝つ相撲を身上とした。右前ミツを引いての速攻、右上手出し投げは絶品の速攻相撲であった。好調時には前廻しを引いての速攻が冴え、「相手はまだこれからと思っているうち、いつの間にか土俵を割ってしまう」ことから「妖気の漂う土俵」とも称された。 出羽海部屋の先輩横綱だった安藝ノ海と取り口が似ていることから、「安藝ノ海二世」と称されたこともある。「安藝ノ海二世」と評されたことに関しては「前ミツを取って頭を付ける自分の取り口もそうですが、体つきが似ていたということもあったんでしょうね」と話している。 前捌きの一環として張り差しを多用し、1977年11月場所の輪島戦では、自身の張り手による相手の脳震盪によって寄り切りで勝利しているが、自分の体勢を作れないときは強引な張り手の連発で自滅することもあった。1977年11月場所の輪島戦で張り手を多用したのは、前夜に後援者の面々と食事していた時に三重ノ海の直近の対輪島戦の成績が悪い話題になり、場の雰囲気がまずくなりそうであったので「じゃあ、明日は張っていきます」と冗談で威勢良く言ってしまったためである。後援者達は「よし、だったらみんなで見に行こう」となったため、三重ノ海は「やべ、これはウソつけないな」と思い、張り手を多用することにした。しかしこの1番で結果的に張り手が成功し、以来大関として安定した成績を残せるようになり、ひいては綱取りにつながった。 旭國とは20勝16敗(不戦敗1つ含む)、魁傑とは19勝19敗、貴ノ花とは21勝24敗、大受とは12勝9敗、前の山とは8勝7敗(不戦敗1つ含む)、清國とは6勝9敗と多くの場合対戦成績が安定していた。増位山に対しては19勝10敗と寧ろ得意にしていた。
琴櫻には11勝7敗と勝ち越すなど相性がよく、2代目若乃花とは14勝19敗と拮抗していた。
横綱昇進の際には、入門時の師匠である13代武蔵川(元幕内・出羽ノ花)から「一簣功(いっきのこう)」という言葉を贈られた。「九仞の功一簣に虧(か)く」という故語からの引用で、「苦労の末に晩年に横綱になったが、これで安心せずもう一花咲かせてみせよ」という思いが込められた言葉である。実際三重ノ海の師匠・出羽海親方からも「太く短い横綱で終わっても構わないから、引退する前に一度位は優勝して欲しい」と奮起を促したという。三揃えの化粧廻しにはこの「一簣功」の三文字をあしらったものがあり(「一」は露払い、「簣」は横綱、「功」は太刀持ちが着用。文字の筆を執ったのは武蔵川本人)、自身の還暦土俵入りでも使用された。 1974年9月場所11日目における二子岳戦で引分を記録した。この一番を最後に幕内で「引分」は出ていない。この場所が11勝3敗1分の好成績を修めたことに加えて11日目の熱戦を考えれば三賞獲得も不思議でなかったが西前頭10枚目の地位であったことを理由に受賞を見送られた。平凡な力士という印象から三賞受賞において損をした面もあるとされる。 好敵手であり親友である旭國が「努力」「闘魂」の言葉を好んで使ったのに対し、本人は「闘志」「神力」という言葉を好んで使った。「神力」は寺の僧侶から「その不思議なまでの力は、自分ばかりではなく、多くの人をも幸せにする」とその意味を聞いた上で貰った言葉であり、三重ノ海自身は「そんな力士になりたい」とその言葉を心の支え、目標としていた。 1970年1月場所5日目にかつての部屋の兄弟子であった北の富士と初対決に至った際の心境を後に「出羽一門を破門されたのは、私がまだ三段目から幕下に上がる頃でしたから、顔を合わせた時は『ここまで来られたか』といううれしさはありましたね。左の相四つなので、ほとんど勝った記憶はありませんが(幕内対戦成績は三重ノ海の2勝14敗)」と語っている。 好物は牛スジのピリ辛煮込み、豚足。このメニューは15代武蔵川の武蔵川部屋にも受け継がれており、2017年11月時点でも14代武蔵川夫婦が参加する部屋の行事では弟子に作らせても思うような味が出せないため15代武蔵川が朝から仕込むという。 引退後に武蔵丸のプロデュースで恵比寿に餃子専門店『67餃子』を開業した元幕下・東乃垓によると、彼の新弟子時代は食事のメニューがちゃんこ鍋と沢庵ぐらいしかなく、最後にはスープぐらいしか残っていなかったが、ある日それをたまたま見た14代武蔵川は部屋の衆に「お前らなんで新弟子に食わせないんだ!」と怒った。これが切っ掛けでおかずが2品から3品も付くようになり、部屋の食糧事情が改善された。 ソップ炊きに関しては、既成の出汁の素やスープの素を認めない派である。 部屋持ち時代は2年に1度、弟子をハワイ旅行に連れて行った。弟子が相撲を辞めたくなってもハワイ旅行を楽しみに現役を続けようと頑張ることを狙ってのことであった。 長男の石山俊明は本名の「石山」を四股名として三段目まで昇進した元力士で、引退後は俳優として『GTO』や『暴れん坊将軍』に出演したことがある。 2024年10月、孫の嵐翔真が男性向けファッション雑誌『MEN'S NON-NO』の専属モデルオーディション「第39回メンズノンノモデルオーディション」に出場し、準グランプリを獲得した。嵐は父の影響で無骨なアメカジを好む一方、下駄を愛用する一面があり、祖父の下駄を拝借して修学旅行に出向いたことがある。 通算成績:695勝525敗1分56休(勝率.570) 幕内成績:543勝413敗1分51休(勝率.568) 大関成績:180勝123敗12休(勝率.594) 横綱成績:55勝23敗30休(勝率.705) 幕内在位:68場所
大関在位:21場所 三役在位:15場所(関脇12場所、小結3場所)(関脇在位は横綱経験者としては歴代1位) 平幕在位:24場所(横綱経験者としては歴代1位タイ) 連続6場所勝利:77勝(1979年3月場所 - 1980年1月場所) 通算幕内連続勝ち越し記録:14場所(1977年11月場所 - 1980年1月場所) 幕内連続2桁勝利記録:9場所(1978年9月場所 - 1980年1月場所) 三重ノ海の最多連勝記録は、24連勝である(1979年11月場所8日目 - 1980年3月場所初日) 下記に、詳細を記す。 幕内最高優勝:3回(全勝1回)(1975年11月場所、1979年11月場所、1980年1月場所) 三段目優勝:1回(1967年9月場所) 三賞:9回
敢闘賞:1回(1971年9月場所) 技能賞:3回(1971年11月場所、1973年3月場所、1975年11月場所) 金星:5個(輪島2個、琴櫻1個、北の富士1個、北の湖1個) 他に優勝決定戦で輪島に1敗がある。 石山 五郎(いしやま ごろう):1963年7月場所 - 1966年5月場所 三重ノ海 五郎(みえのうみ - ):1966年7月場所 - 1976年7月場所 三重ノ海 剛司( - つよし)1976年9月場所 - 1980年11月場所 山科 剛史(やましな つよし):1980年11月 武蔵川 晃偉(むさしがわ あきひで):1980年11月 - 2013年2月 ^ これは1969年7月場所に「大関の地位で2場所連続負け越した場合は関脇へ降格。ただし降格直後の場所で10勝以上の勝ち星を挙げれば大関復帰」という「大関特例復帰」の制度が制定されてから最初の適用例となった。 ^ 特に通算2回目の大関角番だった1977年7月場所は13日目で6勝7敗、あと1敗で負け越せばあわや2度目の大関陥落となる大ピンチだったが、14日目大関・貴ノ花に、千秋楽に前頭5枚目・大潮にそれぞれ勝利して8勝7敗、辛うじて勝ち越して角番を脱出した。 ^ 1度目の大関在位時に成績不振だった一方、2度目の大関在位時にわずか2場所で横綱昇進を果たしたため。 ^ 昭和20年代以降、短命横綱では前田山の6場所に次ぐ史上2位だが、年6場所制となった昭和33年以降は三重ノ海の8場所が最短記録となる(但し琴櫻と双羽黒も同じく横綱在位8場所だが、番付上で数えると二人共9場所となる)。 ^ 一説によると、山科を直近で襲名していたのは最高位が十両の大平山だったため「元横綱の名跡に相応しくない」と入門時の師匠で相撲博物館館長を務めていた13代・武蔵川の出羽ノ花から武蔵川の名跡を譲られたという。 ^ 三重ノ海が初土俵を踏んだ1963年7月場所の時点ですでに大鵬は幕内優勝11回を記録していた。 ^ 「功」の廻しに「市川國一書」と本名(市川國一)が書かれている。 ^ 急性肝臓炎により7日目から途中休場 ^ 右足関節捻挫により14日目から途中休場 ^ 左足首関節捻挫及び外傷性炎症により8日目から途中休場 ^ 左膝内側側副靱帯損傷・左足首関節捻挫後遺症により10日目から途中休場 ^ 大関角番(全3回) ^ 関脇陥落 ^ 大関特例復帰 ^ 輪島と優勝決定戦 ^ 左肘関節挫傷により5日目から途中休場 ^ 外傷性坐骨神経痛・頸肩腕症候群・肝臓炎により10日目から途中休場 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p40-43 ^ (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:2 68歳 朝日新聞DIGITAL 2016年11月1日16時30分 ^ 元横綱三重ノ海の「相撲と故郷」…入門15歳、たんこぶで新弟子検査クリア(2/2ページ) 讀賣新聞オンライン 2023/02/12 17:00 (2023年2月13日閲覧) ^ (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:4 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月4日16時30分 ^ (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:5 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月7日16時30分 ^ 大相撲:「いい道を選んだ」…定年の武蔵川親方が会見 毎日新聞 2013年01月22日 20時20分 ^ (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:6 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月8日16時30分 ^ おかみさんも伴走続けて半世紀「ボーッとする時間もなかった」…元横綱三重ノ海の「相撲と故郷」 讀賣新聞 2024/04/17 09:29 (2024年4月17日閲覧) ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p22 ^ (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:7 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月9日16時30分 ^ 『相撲』2018年3月号 p.87 ^ (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:8 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月10日16時30分 ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p64 ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 p.83 ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p78 ^ 遅咲きの昇進、短命ながら「綱の矜持」の連続優勝…元横綱三重ノ海の「相撲と故郷」 読売新聞オンライン(三重ノ海・相撲と故郷)2023年10月17日9時42分 ^ 佐藤祥子 57頁 ^ 佐藤祥子 61頁 ^ 元横綱白鵬は猛省して出直しを(浅香山博之) 日本経済新聞 2024年3月3日 5:00 (2024年3月3日閲覧) ^ 大空出版『相撲ファン』vol.06 p120-125 ^ 【25周年!三重ノ海親方が還暦土俵入り!】大相撲 武蔵川部屋の日々 2007年6月17日 ^ 佐藤祥子 57-58頁 ^ 武蔵川親方 大鵬との一番「少しでも長く体に触っていたかった」 Sponichi Annex 2013年1月19日 16:49 ^ 武蔵川親方に相撲博物館長を委嘱 6代目館長に 日本経済新聞 2013/1/31 19:37 ^ 元横綱三重ノ海、ライバル追悼 北の湖との時間 日刊スポーツ 2016年1月22日6時48分 紙面から ^ 「大関陥落→綱取り」照ノ富士に元横綱三重ノ海も注目「今後出ない」 日刊スポーツ 2021年7月10日4時59分(2021年7月12日閲覧) ^ 「すごい精神力」元三重ノ海驚き 横綱照ノ富士きょう誕生 | 全国のニュース 福井新聞 2021年7月21日 紙面から ^ 元横綱三重ノ海の石山氏が出羽海部屋の後輩御嶽海へエール「横綱になって」 日刊スポーツ 2022年1月24日9時47分(2022年1月24日閲覧) ^ 元横綱三重ノ海の石山五郎さん、相撲博物館館長を来月退任…「75歳で大相撲から卒業」 讀賣新聞オンライン 2023/01/15 05:00 (2023年1月21日閲覧) ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p38 ^ 非力を巧みな前捌きと闘志で補った三重ノ海 All About 2012年12月31日 ^ 『相撲』2012年5月号67頁 ^ 【私の“奇跡の一枚” 連載85】 半世紀前こんなライバルたちが 火花を散らしていた! 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MEN’S NON-NO WEB. 集英社 (2024年10月19日). 2024年10月19日閲覧。 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p107-108ページ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK) 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515 横綱一覧 大相撲優勝力士一覧 三重県出身の人物一覧 三重ノ海 剛司 - 日本相撲協会 表 話 編 歴 廣瀬正徳 1928 - 1938 出羽海秀光 1944 - 1957 時津風定次 1957 - 1968 武蔵川喜偉 1968 - 1974 春日野清隆 1974 - 1988 二子山勝治 1988 - 1992 境川尚 1992 - 1998 時津風勝男 1998 - 2002 北の湖敏満 2002 - 2008 武蔵川晃偉 2008 - 2010 村山弘義(代行) 2010 放駒輝門 2010 - 2012 北の湖敏満 2012 - 2015 八角信芳 2015 - 現在 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 表 話 編 歴 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 若乃花幹士(※) 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 大鵬幸喜(※) 1967 大鵬幸喜 1968 玉乃島正夫 1969 大鵬幸喜(※) 1970 北の富士勝昭 1971 玉の海正洋(※) 1972 貴ノ花満(※) 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 三重ノ海五郎(※) 1976 輪島大士 1977 輪島大士(※) 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 千代の富士貢(※) 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 千代の富士貢(※) 1988 千代の富士貢(※) 1989 千代の富士貢(※) 1990 旭富士正也 1991 小錦八十吉(※) 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 日馬富士公平(※) 2017 受賞者なし 2018 栃ノ心剛史 2019 白鵬翔(※) 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鉄力 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 横峯さくら 田口壮 吉田都 鎌田實 瀬戸内寂聴 宮﨑あおい 上田桃子 岡島秀樹 青木功 中村勘三郎 新垣結衣 茂木健一郎 坂東眞理子 陣内智則 藤原紀香 本木雅弘 吉田沙保里 太田雄貴 高橋尚子 松本幸四郎 松坂慶子 姜尚中 堀北真希 妻夫木聡 上野由岐子 白鵬翔 草刈民代 阿部寛 深田恭子 原辰徳 勝間和代 城田優 杉山愛 西田敏行 森光子 野口聡一 湊かなえ 岩崎夏海 寺島しのぶ 髙橋大輔 上野樹里 伊勢谷友介 仲間由紀恵 北大路欣也 武良布枝 大竹しのぶ 田中将大 コシノジュンコ 三谷幸喜 鈴木京香 佐々木則夫 鈴木明子 松山ケンイチ 松井冬子 琴奨菊和弘 綾瀬はるか 尾木直樹 澤穂希 中村勘九郎 樹木希林 桂文枝 吉田沙保里 入江陵介 菅野よう子 日馬富士公平 田中将大 滝川クリステル 宮藤官九郎 宮本信子 杉良太郎 風吹ジュン 岡田准一 杏 片岡愛之助 阿川佐和子 中園ミホ 尾上松也 蜷川実花 山中伸弥 井上真央 阿部寛 仲間由紀恵 タモリ 黒柳徹子 羽生結弦 堺雅人 長澤まさみ 大泉洋 土屋太鳳 三宅宏実 上橋菜穂子 所ジョージ 有村架純 又吉直樹 高畑充希 辻沙絵 草刈正雄 新垣結衣 大谷翔平 萩野公介 伊調馨 秋本治 春風亭昇太 村田沙耶香 村田諒太 村上茉愛 加藤一二三 吉岡里帆 高橋一生 宮本信子 鈴木亮平 林真理子 阿部サダヲ 安藤サクラ 池江璃花子 小平奈緒 佐藤健 出川哲朗 永野芽郁 中村勘九郎 夏井いつき 野村萬斎 長谷部誠 井上尚弥 上沼恵美子 サンドウィッチマン 渋野日向子 瀬戸大也 田中圭 戸田恵梨香 中西麻耶 長谷川博己 広瀬すず 吉野彰 黒柳徹子 サンドウィッチマン 杉咲花 染谷将太 チコちゃん 宮崎美子 宮本亞門 室伏広治 吉沢亮 石川佳純 清原果耶 小池栄子 坂口健太郎 谷真海 三谷幸喜 芦田愛菜 黒柳徹子 西村宏堂 羽生結弦 坂東彌十郎 福原遥 松本潤 村上宗隆 森保一 吉田都 北口榛花 国枝慎吾 堺雅人 俵万智 寺島しのぶ 寺田宜弘 バカリズム 吉高由里子 三重県出身の人物 三重県出身の大相撲力士 NHK紅白歌合戦審査員 日本相撲協会理事長 横綱 博物館の館長 出羽海部屋 武蔵川部屋 藤島部屋 1948年生 存命人物 ウィキデータにある日本相撲協会識別子 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/21 18:56更新
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mienoumi takeshi
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