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中山雅史の情報 (なかやままさし)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

中山雅史の情報(なかやままさし) サッカー選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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中山 雅史さんについて調べます

■名前・氏名
中山 雅史
(読み:なかやま まさし)
■職業
サッカー選手
■中山雅史の誕生日・生年月日
1967年9月23日 (年齢56歳)
未年(ひつじ年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
静岡出身

(昭和42年)1967年生まれの人の年齢早見表

中山雅史と同じ1967年生まれの有名人・芸能人

中山雅史と同じ9月23日生まれの有名人・芸能人

中山雅史と同じ出身地静岡県生まれの有名人・芸能人


中山雅史と関係のある人

前野智昭: プロ野球では読売ジャイアンツのファンであり、サッカーでは中山雅史が好きである。


岡田武史: しかし加茂によって代表から外されていた中山雅史らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返す。


奥大介: Jアミーゴス(鈴木政一監督 鈴木秀人 田中誠 山西尊裕 井原正巳 久藤清一 服部年宏 名波浩 平野孝 熊林親吾 三浦文丈 高原直泰 中山雅史 武田修宏 川口信男 都築龍太 下田崇 森岡隆三 中田英寿 山田暢久 中田浩二 西紀寛 小野伸二 松井大輔 平瀬智行 柳沢敦)


前田遼一: 同年9月の同11節湘南戦において、頭による得点では通算45得点目となるヘディングシュートを決め、中山雅史の持つJリーグ記録を更新した。


松本育夫: 1985年のアジアユース監督時には、井原正巳、中山雅史、黒崎久志、真田雅則、礒貝洋光、前川和也らを選抜した。


春日俊彰: あまりタレントが使ったりはしないが中山雅史と遭遇したこともある。


澤登正朗: 前半30分にシーズン途中に清水から磐田に移籍した安藤正裕のクロスボールを中山雅史に頭で決められ失点。


重松健太郎: 小学校1年生の時に、当時ジュビロ磐田の黄金期を支えていたFW中山雅史に憧れサッカークラブに入団。


太田吉彰: 背番号は、かつて中山雅史が付けていた9番。


土屋征夫: 2017年3月15日、ルヴァンカップ第1節広島戦に出場し中山雅史が持っていた最年長出場記録を更新、さらに5月10日第5節神戸戦で公式戦約4年ぶりのゴールを決め、中山雅史が持っていたカップ戦最年長ゴール記録を更新した


成田凌: 凌自身も、芸能界デビュー後の2019年秋から、『とんねるずのスポーツ王は俺だ!』(テレビ朝日)内の対決企画に「木梨ジャパン」(サッカー経験者の木梨、中山雅史、日本代表への参加経験を持つ元プロサッカー選手が集結するチーム)のメンバーとして参加。


呂比須ワグナー: 対ジャマイカ戦では中山雅史のワールドカップにおける日本人初ゴールをアシストした。


サルバトーレ=スキラッチ: チームはUEFAカップで決勝の勝ち上がっていたものの、中山雅史が負傷を抱えていたこと、開幕前に契約したアリ・ダエイが3ヶ月経ってもイランからの出国を許可されない状態であったため、ジュビロが強く要望し、契約期間を半年前倒ししてチームを離れた。


澤登正朗: 同じく2得点をマークした磐田のキャプテン中山雅史は、「エスパルスが一人少ない中でも素晴らしいプレーと闘志を魅せていたので、今日は本当に苦しかった。


柳沢敦: FW:9.中山雅史、11.三浦知良、13.船越優蔵、18.城彰二、20.久保竜彦


吉原宏太: さらにその活躍が認められ、コパ・アメリカ(南米選手権)に参加するA代表で中山雅史が大会直前に負傷離脱すると、トルシエは五輪予選期間中にも関わらず吉原を追加招集で呼び寄せる。


石崎信弘: 2010年は、内村圭宏、近藤祐介、中山雅史、藤山竜仁、李漢宰を補強したが、昨季のレギュラーである西大伍、ダニルソンの放出によりワールドカップでの中断前での成績は19チーム中12位、最終順位は13位となった。


清水範久: 2001年に磐田へ復帰し、FW高原直泰のボカ・ジュニアーズ移籍後は中山雅史と2トップを組んだ。


安藤正裕: チャンピオンシップでは古巣の清水と対戦し、第一戦の中山雅史の先制ゴールをアシストすると、守備でも同年のJリーグMVPに輝いたアレックスを抑え込み、磐田に年間優勝のタイトルをもたらした。


新井場徹: FW:9.中山雅史、11.三浦知良、13.船越優蔵、18.城彰二、20.久保竜彦


奥大介: 中山雅史は現役時代の奥について「素走りは得意じゃなくて、後ろの方でチンタラ走ってる選手でしたけども、試合になると終盤でも暑い中でも、自由な発想と抜群なテクニックで相手を切り裂いていくんですよね。


ラモス瑠偉: 41歳9ヶ月5日という最年長出場記録は2009年に中山雅史に抜かれるまで、Jリーグ記録であった。


村枝賢一: 中山雅史物語(『週刊少年サンデー』1993年)


西紀寛: 磐田では、名波浩の移籍や中山雅史らの負傷者のために戦力不足に陥った1999年第2ステージから本格的に起用されはじめ、翌2000年に就任したハジェヴスキー監督から、その攻撃力とドリブルを評価されて右サイドに抜擢された。


金園英学: 公式サイトのプロフィールにて、ジュビロ磐田やコンサドーレ札幌でプレーした中山雅史を好きな選手であると回答している。


岡田武史: 本選では「グループリーグ1勝1分1敗の勝点4で決勝トーナメント入りを目指す」と表明したが、3戦全敗、得点も中山雅史による1ゴールのみでグループリーグ敗退。


村田亙: 同い年には中山雅史(サッカー)のほか、ラグビー界には清宮克幸がいる。


柳沢敦: 柳沢のJ1での得点は16シーズン目となり、第一線を退いているFW中山雅史、神戸FW吉田孝行(同シーズン限りで引退)、G大阪MF遠藤保仁の記録を更新した。


吉田光範: 1993年にカタール・ドーハで行なわれた最終予選ではチームメイトの中山雅史と共にJリーガー以外でのメンバー入りを果たし、韓国戦では左サイドからのクロスで三浦知良の決勝ゴールをアシストして勝利に貢献した。


桑原隆: 桑原は1年限りで辞任するが、中山雅史を始めタレントが揃ったジュビロはその後数年間黄金時代を迎える。


中山雅史の情報まとめ

もしもしロボ

中山 雅史(なかやま まさし)さんの誕生日は1967年9月23日です。静岡出身のサッカー選手のようです。

もしもしロボ

日本代表、背番号などについてまとめました。現在、引退、テレビ、卒業に関する情報もありますね。去年の情報もありました。中山雅史の現在の年齢は56歳のようです。

中山雅史のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県志太郡岡部町(現:藤枝市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。現在はJリーグ・アスルクラロ沼津の監督を務める。

日本プロサッカー選手会名誉会長。愛称の「ゴン」「ゴン中山」は元サッカー選手の鋤柄昌宏がつけた。これは大学時代、当時の先輩に「オレたちひょうきん族に登場したビートたけし扮する鬼瓦権造に顔が似ている」と言われたことから。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。1996年から1998年までジュビロ磐田でキャプテンを務めた。

日本代表として1998 FIFAワールドカップ、2002 FIFAワールドカップにも出場。1998年のFIFAワールドカップ本大会で日本代表のW杯初ゴールを決めている。Jリーグ(J1)最優秀選手賞(1回)、得点王(2回)、ベストイレブン(4回)を受賞した経験を持ち、Jリーグシーズン最多得点、J1での最年長記録、W杯本大会日本代表初ゴールなどの個人記録なども持つ。さらに国際試合における最短ハットトリックのギネス世界記録保持者でもある。なお、2016年3月に佐藤寿人に抜かれるまで通算J1最多得点(157得点)記録保持者であり、同年11月にステファン・ルチヤニッチに抜かれるまでハットトリック連続世界記録保持者(4試合連続)であった。

妻は女優・タレントの生田智子で、2004年に誕生した長女がいる。実父の中山儀助は元岡部町町議会議員。

静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍した。高校2年次の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、当時台頭していた東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し、第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にした。本大会では準決勝まで駒を進めたが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPKの末に敗れた。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍した。

1986年、筑波大学体育専門学群に入学し蹴球部に入部。井原正巳とは同期でセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務めた。当初は静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーを務めたが、後に先輩である長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻った。

1990年、ヤマハ発動機に入社し、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。当時のヤマハは完全プロ化への移行は成されていなかったため、サラリーマン生活も経験した。同年の第1回ダイナスティカップ北朝鮮戦で日本代表デビュー。翌年、ヤマハ発動機サッカー部がJリーグ開幕10チームから落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハに残留した。

1993年秋の1994 FIFAワールドカップ・アジア予選での熱いプレーや活躍、また陽気なキャラクター(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)が話題となり、一躍全国区の人気者となる。またこの年、ジュビロ磐田はJFL1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たした。

1994年、ジュビロ磐田のJ1昇格により中山はJリーグデビューを果たし、3月19日の第3節ヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決めるなど 開幕当初は試合に出場したが、前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニアが悪化し、4月末に戦線から離脱。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手もいたが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎や福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術を受ける。以後リハビリが続き、8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振った。

1995年に怪我から復帰し、開幕から好調なスタートを切った。前年にジュビロへ入団した元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビは、当時Jリーグ最強の2トップと言われた。

1997年は、ドゥンガや山本昌邦らとのトレーニングにより、「オフ・ザ・ボールの動きの質」に開眼。第2ステージ、9月20日のヴェルディ川崎戦では自身Jリーグにおいては自身初となるハットトリックも記録するなど、結果を出してステージ優勝に貢献。鹿島アントラーズとのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。

1998年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居陸上競技場)での5得点を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦(ジュビロ磐田スタジアム)で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦(熊本市水前寺競技場)で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦(ジュビロ磐田スタジアム)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点を記録した。これは2023年現在もリーグ戦における最多得点記録となっている。この年は得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱を期する鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。

1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水エスパルスとのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。

2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、11月23日のサンフレッチェ広島戦で自身通算7回目となるハットトリックを記録するなど、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。

2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れ年間優勝を逃す。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末に敗れるなど、無冠に終わる。

2002年、W杯からのリーグ再開後にはゴールを量産し、得点王となったチームメイトの高原直泰に次ぎ、日本人としては2位となる16ゴールを上げ、磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献、ベストイレブンにも選出された。

2003年5月に10年前の恥骨結合炎が再発し、戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰。復帰初戦となった東京ヴェルディ1969戦では、試合中にもかかわらず中山がユニホーム姿になると場内が騒然とした。相手DF米山篤志は「あれは異様な雰囲気だった」とコメントするほどだった。試合後、監督の柳下正明は「当初はこの試合では(中山を)起用しないつもりだった」としたうえで「エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」とコメント。事実、投入直後のコーナーキックで磐田は同点に追いつき、その勢いのまま逆転勝利を収めている。しかしながら、最終節の横浜F・マリノス戦に敗れたことによりリーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。

2005年5月1日の柏レイソル戦(柏の葉公園総合競技場)での前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏戦(ヤマハスタジアム)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。

2006年9月17日の川崎フロンターレ戦(等々力陸上競技場)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールを達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮アルディージャ戦で達成)。この記録は過去に三浦知良、澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。

2007年には5月3日の清水エスパルス戦(日本平スタジアム)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日に、2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り、名誉会長に就任した。

2008年3月15日のガンバ大阪戦でロスタイムにゴールを挙げ、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。歴代3位となる自身のゴール時年齢記録も伸ばしている(40歳5か月22日)。なおJ1リーグ戦史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3か月、2位はその後40歳6か月まで記録を伸ばしている三浦知良である。5月25日にはナビスコカップでの清水エスパルス戦で、後半43分にコーナーキックをヘディングで決め、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜き、ナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える快挙を達成したが、試合には敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。また、この得点が中山が公式戦で挙げた最後の得点となった。

2009年シーズンは出場機会が激減。自身が同年42歳の高齢となったこともあり、11月9日にジュビロ磐田から戦力外通告を受け、同時にスタッフとしての残留要請を受けた。しかし現役続行に強い意欲を示す中山はこれを固辞し、新天地を探すことを選択した。また、この年は中山と同じく磐田がJリーグに加盟した1994年から在籍し、この年の時点で中山と共に2002年の完全優勝を知る選手であった鈴木秀人も戦力外通告を受けた。同年のヤマハスタジアムでの公式戦最終戦となった11月28日の広島戦の後半途中から出場し、当時ラモス瑠偉が保持していたJ1最年長出場記録(41歳9か月5日)を更新(42歳2か月5日)。試合後には中山が挨拶を行ない、サポーターへの感謝と現役続行への意欲を表明した。最終節のヴィッセル神戸戦(ホームズスタジアム神戸)での出場機会は回ってこなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え、1万5000人の拍手を浴びながら磐田での最後の試合を終えた。

退団発表後、ロアッソ熊本、横浜FC、コンサドーレ札幌(以上J2)、FC町田ゼルビア、V・ファーレン長崎(以上JFL)、藤枝MYFC(東海リーグ)の6クラブが興味を示し、獲得の意思を表明。年俸提示は最も低かったが、「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」、施設や医療体制が充実している札幌への移籍を決断した。12月24日に開かれた移籍会見では、「現役生活が一番幸せ。辞めたり、諦めたりするのはいつでも出来る。無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」と、あくまでも現役にこだわり続ける姿勢を表明した。

2010年シーズンは途中出場で主に出場するも、得点には至らなかった。また、11月に膝の手術を行った。

2011年は前年の手術した膝の影響もあり、試合にはまともに出られず、9月には両膝関節炎を発症し、この年は公式戦無出場に終わった。しかし、来季も現役続行の意志を示し、また所属する札幌のJ1昇格が決まり、中山自身にとっては3シーズン振りのJ1となることが決定した。

オフには、東日本大震災の慈善試合で仙台で行われた「日本サッカー選手会 クリスマス・チャリティーサッカー2011」に出場し、会場を盛り上げた。また、この際に複数の選手たちと共に被災地へも訪問している。

2012年、「東日本大震災復興支援Jスペシャルマッチ」のファン投票で13万票を獲得し、Jリーグ選抜に選出された。

11月24日の横浜F・マリノス戦で、後半から途中出場を果たし、45歳2ヵ月1日でのJ1出場で、自身が持つ最年長J1出場記録を更新した。またこの記録は、2020年9月23日に三浦知良に更新されるまで『J1最年長出場記録』だった。

シーズン終了後、現役続投か引退かの結論を保留していたが、12月に今季限りでの現役引退の決意を固め、4日に現役引退を発表した。記者会見では、引退の原因は両膝が思うように動かなくなったことと話し、まだ未練タラタラであり、元気になったらカムバックするつもりとも述べ、またサッカーを愛するがゆえにそういう怪我も負ってしまったが、サッカーを愛したことに後悔はしていないとも語った。引退会見ではあったが、中山は「第一線を退く」という言葉を使い、「引退」という言葉を使っていない。また自身の引退試合の開催についても現時点で否定する発言もしている。

中山の引退に対して、自身のブログにて妻である生田智子、代表など多くの場面で共にした三浦知良を始めとする、日本代表やジュビロ磐田、コンサドーレ札幌で共にプレーした経験のある選手や元選手、また個人的に中山を尊敬している選手、現日本サッカー協会会長の大仁邦弥など数多くの選手やサッカー関係者がコメントを寄せている。

日本国内だけでなくフランス紙の「レキップ」やFIFAの公式HP、中国メディアの中国新聞社などが中山の引退について取り上げた。

引退後は、マネジメント会社ARSと契約し、バラエティ番組やスポーツ番組、ニュース番組などにゲスト出演したり、「第91回全国高校サッカー選手権大会 決勝」のゲスト解説や「第21回全日本高校女子サッカー選手権大会」のイメージキャラクターも担当している。2013年4月からはテレビのレギュラー番組や初のパーソナリティを担当するラジオ番組などに出演している。サッカー解説は主にテレビ朝日、スカパーでの試合中継時に行っている。

2013年10月に発売した『プロサッカークラブをつくろう!』のCMに出演し、同作のパッケージも担当しており、ゲーム内にも自身が登場している。

複数の企業による共同の東日本大震災被災地支援プロジェクトで、福島県相馬市に屋内型の遊び場を建設する企画の『みんなの遊び場プロジェクト』などにも参加している。

同年10月15日、2013年度のJリーグアウォーズにて、功労選手賞として表彰される事が決まり、12月10日、Jリーグアウォーズにて、功労選手賞が授与された。

2015年9月5日、磐田時代にコーチや2004年から2006年に監督として指揮を執った山本昌邦が理事長を務めるJFL・アスルクラロ沼津の練習に参加し、9月14日には現役復帰することが発表された。10月11日には、古巣のジュビロ磐田との練習試合で実戦に復帰した。中山の影響で沼津の試合で観客が増えたり、ベンチ入りしない試合でも試合会場に駆けつけチームメイトを鼓舞するなどしていたが、2015年シーズンに試合には出場しなかった。(サッカー解説者の活動も並行で継続。)

J1通算157ゴール(最後の得点は2008年3月15日のG大阪戦)記録を約7年間並ばれることはなかったが、2015年11月22日にサンフレッチェ広島の佐藤寿人が通算157ゴール目を決め中山に並んだ。また、中山はスタンドで観戦しており「現時点で追いつかれただけですからね。ここから引き離していけるように頑張れればいい。素晴らしいゴールを間近で見させて頂き、勉強になりました。ああいうゴールを決めたいなと情熱をたぎらせてくれる」と中山節でコメントした。

2016年シーズンも公式戦の出場は無かったが、チームはJFL年間3位となり悲願のJリーグ入りが決定した。

それ以後も選手登録は継続しているものの試合の出場機会には恵まれず、2019年シーズンからは選手兼任で沼津のU-18コーチを務めることとなった。中山は既にJFA 公認S級コーチの資格を取得するためのカリキュラムを終えていたが、取得のために必要な指導実績が足りないことからユースチームの指導を行うこととなった。

2020年3月14日に日本サッカー協会が2020年度の第3回理事会を行い、そこで中山へのS級コーチライセンスを付与することが決定した。現役Jリーガーの取得は初めてとなった。

2021年1月13日、沼津を退団してジュビロ磐田のコーチに就任する事が発表された。同日に放送された『報道ステーション』では、中山の特集が組まれテロップには「現役引退」と表示されたが、本人の口からは発せられず、「(引退の)2文字に抗いたい」とコメントし、就任に際してのコメントでも「選手としてのトレーニングはひとまず休む」と強調しているが、テレビ朝日関東ローカルの「Get Sports」2020年3月8日(7日深夜付け)生放送のインタビューでは「選手卒業なんですかね。留年かな。休学かな。休学してますけど。そりゃプレイヤーの方がいいでしょ。そりゃ選手が一番ですよ」と、現役復帰を示唆するようなコメントも残している。

また、YouTubeに「ゴン中山チャンネル」を開設した。

2022年11月13日、 契約満了によるコーチ退任が発表された。

2022年11月13日、古巣のアスルクラロ沼津の監督就任が発表された。

日本代表

1990年、横山謙三監督に選出されダイナスティカップの北朝鮮戦でAマッチデビューを果たした。以降は代表を遠ざかっていたが、1992年にハンス・オフトが代表監督になると代表に復帰、主に試合終盤に投入されるスーパーサブとして活躍、第2回ダイナスティカップ決勝の韓国戦では代表初ゴールとなる同点ゴールを挙げるなど、優勝に貢献、アジアカップでは準決勝の中国戦で決勝ゴールを決めるなど、優勝に貢献した。1993年はクラブがジャパンフットボールリーグ(JFL)在籍にもかかわらず、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選のメンバーにヤマハのチームメイトであった吉田光範と共に選ばれた。最終予選では1-2で敗戦した第2戦のイラン戦で途中出場から1ゴールを決めると、累積警告で出場出来なかった高木琢也に変わって先発の第3戦北朝鮮戦でもゴールを決め勝利に貢献すると、高木が出場停止から復帰後も先発に定着。最終戦のイラク戦でも勝ち越しゴールを決めたが、ロスタイムに同点ゴールを決められ引き分け、ワールドカップ行きの切符を逃した。 1995年のキリンカップで復帰したが、6月のアンブロ・カップ英国遠征にて故障し、翌シーズンの不調もあり一時期代表から遠ざかる。

1998 FIFAワールドカップ・アジア予選のグループリーグ最終節のカザフスタン戦で約2年半振りに代表へ復帰しゴールを決めると、イランとのアジア第3代表決定戦でもスタメン起用の期待に応え先制点を決め、日本のワールドカップ初出場(「ジョホールバルの歓喜」)の重要な役割を果たした。 翌年、1998 FIFAワールドカップにも選出されると、全敗でグループリーグ敗退したものの、3試合すべてで先発し、最終節のジャマイカ戦では、日本代表のワールドカップ初ゴールにして今大会唯一のゴールを決める。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了までプレーし続けたことで、その闘志が称賛された。

代表監督がトルシエに変わると、定期的に招集は受けるものの、若手の台頭などもあり、当落線上を前後していた。2000年のアジアカップ予選のブルネイ戦では三浦知良とツートップを組み、ハットトリックを決めた。2002年には、世間からは「中山待望論」はあったものの、リーグ開幕からワールドカップによる中断までわずか1得点と不調で、直前の海外遠征のメンバーから外された事や、トルシエが落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測や報道が多数を占めた。しかしベテラン抜きで挑んだ直前遠征で結果が出せなかった事もあり、代表に足りない「精神的支柱」としての意味も含め秋田豊とともに2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立ち、「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手となった。

2002年10月、ジーコ監督就任以降も代表に選出され4試合でプレー、2003年のキリンカップ、アルゼンチン戦で先発出場。この試合が代表最後の試合となった。2004年、ジーコは既にアジア1次予選の突破を決めていたことから、最終戦のシンガポール戦へ召集したい意向を示していたが、日本サッカー協会が難色を示したことから召集が見送られ、代わりに新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ、ジーコ・ジャパン・ドリームチームのメンバーとしてプレーした。

背番号

ジュビロ磐田

1995年3月18日 対市原(現・千葉)戦(市原臨海競技場)

1996年5月1日 対横浜F戦(ジュビロ磐田スタジアム)

コンサドーレ札幌

アスルクラロ沼津

日本代表

2024/06/07 15:52更新

nakayama masashi


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押谷 祐樹(おしたに ゆうき、1989年9月23日 - )は、静岡県出身のプロサッカー選手。北信越フットボールリーグ・福井ユナイテッドFC所属。ポジションはフォワード。 2008年に下部組織から磐…


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中山雅史と近い名前の人

中山 優貴(なかやま ゆうき)
【SOLIDEMO】
1991年4月2日生まれの有名人 千葉出身

中山 優貴(なかやま ゆうき、1991年4月2日 - )は日本の俳優、SOLIDEMOのメンバー。 千葉県出身、エイベックス・マネジメント所属。 2009年11月23日、第22回ジュノン・スーパ…

中山 千夏(なかやま ちなつ)
7月13日生まれの有名人 熊本出身

中山 千夏(なかやま ちなつ、1948年〈昭和23年〉7月13日 - )は、日本の作家。元歌手、元女優、元司会者、元テレビタレント、元声優、元参議院議員。50年におよぶ芸歴と多彩な活動歴を持つ。 …

中山 圭以子(なかやま けいこ)
1964年8月28日生まれの有名人 東京出身

中山 圭以子(なかやま けいこ、1964年8月28日 - )は、東京都出身の歌手、元アイドル歌手(旧芸名中山 圭子)。アイドル当時の所属事務所は、サンミュージックプロダクション(以下、サンミュージック…

中山 エミリ(なかやま えみり)
1978年10月8日生まれの有名人 神奈川出身

中山 エミリ(なかやま エミリ、1978年10月8日 - )は、日本のタレント、女優である。本名、飯沼亜微梨。 神奈川県川崎市出身。ボックスコーポレーション所属。 カリタス小学校卒業。 199…

中山 マサ(なかやま まさ)
1891年1月19日生まれの有名人 長崎出身

中山 マサ(なかやま まさ、1891年1月19日 - 1976年10月11日)は、日本の女性政治家。元自由民主党衆議院議員。日本初の女性閣僚(厚生大臣)。中山太郎(元衆議院議員)は長男、中山正暉(元衆…

中山 絵梨奈(なかやま えりな)
1995年6月1日生まれの有名人 千葉出身

中山 絵梨奈(なかやま えりな、1995年6月1日 - )は、日本の元女優、ファッションモデルである。千葉県出身。 もともと芸能界に憧れており女優になりたかったが、『ニコラ』を読み始めモデル業に興…

中山 真見(なかやま まみ)
1984年9月22日生まれの有名人 東京出身

中山 真見(なかやま まみ、1984年9月22日 - )は、日本の読者モデル、実業家。東京都江戸川区出身。 青山学院女子短期大学家政学科に学生として通う傍ら、『JJ bis』などで読者モデルとして…

中山 恵(なかやま めぐみ)
1980年10月16日生まれの有名人 富山出身

中山 恵(なかやま めぐみ、1980年10月16日 - )は、日本の元女優、元ファッションモデル、元グラビアアイドル。現スタイリスト。 富山県出身。オスカープロモーションに所属していた。 高校生の…

中山 史奈(なかやま ふみな)
1985年3月6日生まれの有名人 東京出身

中山 史奈(なかやま ふみな、1985年〈昭和60年〉3月6日 - )は、東京都出身の元グラビアアイドル、元タレントである。本名、根中 景子(ねなか けいこ)。元ジールアソシエイツ所属で、活動期間は1…

中山 愛梨(なかやま あいり)
1983年6月25日生まれの有名人 東京出身

中山 愛梨(なかやま あいり、1983年6月25日 - )は、日本の着エロ系グラビアアイドル。趣味は料理、バドミントン。血液型A型。身長157cm、B90(H)W55H84。 東京都出身。窪塚愛とし…

中山 エリサ(なかやま えりさ)
1985年10月21日生まれの有名人 東京出身

中山 エリサ(なかやま エリサ、1985年10月21日 - )は東京都出身のレースクイーン、モデル、グラビアアイドルである。愛称はエリッサ。ドゥイングプロに所属していた。2009年1月、自身のブログで…

中山 玲(なかやま れい)
1971年2月21日生まれの有名人 東京出身

中山 玲(なかやま れい、1971年2月21日 - )は、日本の女優、声優。本名同じ。 身長167cm。体重51kg。血液型はA型。東京都出身。桐朋学園大学短期大学部芸術科演劇専攻、玉川大学文学…

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