久松定武の情報(ひさまつさだたけ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
久松 定武さんについて調べます
■名前・氏名 |
久松定武と関係のある人
白石春樹: 1963年(昭和38年)の愛媛県知事選挙における選挙違反事件で久松定武陣営の総括責任者として逮捕された。 羽藤栄市: 保守分裂となった1951年愛媛県知事選挙で、日本社会党・民主党推薦の久松定武が愛媛県知事に当選すると、久松は社会党が推す羽藤を副知事に抜擢した。 湯山勇: 勤評闘争では強硬姿勢を取った愛媛県知事久松定武を相手に激しく抵抗し、1958年には参議院文教委員長となったが1959年の参院選で落選する。 白石春樹: 1971年(昭和46年)1月28日、久松定武知事のあとを受け、第46代(民選3代)愛媛県知事に就任する。 青木重臣: 次の1951年の知事選にも出馬したが、参議院議員から転身した久松定武に敗れて落選した。 宇都宮孝平: 愛媛県知事久松定武の後任を決める1971年の愛媛県知事選では、保守系の白石春樹と革新系の湯山勇で争われたが、松山では湯山が、当選した白石よりも2万5000票以上得票していた。 |
久松定武の情報まとめ
久松 定武(ひさまつ さだたけ)さんの誕生日は1899年4月29日です。東京出身の政治家のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。1995年に亡くなられているようです。
久松定武のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)久松 定武(ひさまつ さだたけ、1899年(明治32年)4月29日 - 1995年(平成7年)6月7日)は、日本の政治家。愛媛県知事。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は伯爵。 1899年(明治32年)4月29日、伯爵久松定謨の次男として東京府東京市芝区芝栄町(現・東京都港区芝公園)の久松家本邸で生まれる。生家は旧伊予松山藩藩主・久松氏の嫡流である。学習院を経て東京帝国大学経済学部を卒業後、同大学院修了。 1924年(大正13年)に三菱銀行へ入行し、駒込支店や本店の預金係長、板橋支店長代理などを務めた後、1931年(昭和6年)からロンドン支店勤務。1934年(昭和9年)に帰国、1942年(昭和17年)に三菱銀行を退職した。退職後は財団法人久松家育英会を経営し、農業報国会愛媛県支部顧問や四国農産興業社長などを務めた。1944年(昭和19年)12月13日に補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。同年4月、第1回参議院議員通常選挙で愛媛県地方区から出馬して参議院議員に当選し1期務める。 1951年(昭和26年)に参議院議員を辞職し、日本社会党の支援を得て愛媛県知事選に出馬した。これは独善的で反発が強かった現職の青木重臣に代えて貴族院議員だった佐々木長治を擁立しようとしたが、自由党総裁の吉田茂が現職の青木を優先したために混乱した保守陣営を見ての戦略だった。久松は全県を遊説して回って絶大な人気を博し、現職の青木と自由党が支援した佐々木を破って知事に当選する。 当選後は一転保守系の軸足を置いて順調な県政となったが、徐々に革新系の副知事・羽藤栄一に対する反発が強まったため、白石春樹の発案で副知事廃止条例を制定する。これに対し、社会党は愛媛県議会や法廷で闘争を繰り広げたが、大王製紙の井川伊勢吉ら財界人が仲裁に入り、久松は副知事廃止に同意する念書に署名した。また、勤務評定実施にあたっては教職員組合の強い反発を抑え込んでこれを強行。県内の公共事業の誘致にも力を発揮し、保守王国と呼ばれる礎を築いた。特産品のミカン栽培の振興にも注力し、1952年(昭和27年)にはポンジュースの名付け親となっている。 1963年(昭和38年)の4期目の知事選では保守陣営が派閥対立のために分裂し、保革連合の「県政刷新県民の会」が結成され、愛媛新聞社長・平田陽一郎が出馬して大接戦となった。久松を公認する自由民主党は選挙違反も辞さない姿勢で選挙運動を展開して辛勝したが、選挙違反者が続出、総括責任者の白石までもが選挙違反で逮捕されることとなった。 最高裁判所に上告中の1967年(昭和42年)に5期目の知事選となり、革新知事の支援を受けた社会党の湯山勇を寄せ付けずに勝利した。なお、1968年(昭和43年)11月1日の「明治百年記念恩赦」を受けるために、白石は上告を取り下げて刑を確定させた上で恩赦を受けた。このため、久松の4期目の当選は無効となったが、既に任期は終わっていたため実質的な意味は無かった。1969年(昭和44年)、勲二等旭日重光章を受章。 1971年(昭和46年)に知事を引退。引退後には、愛媛県美術会会長や郵便貯金預金者の会中央連合会理事などを歴任した。1976年(昭和51年)に愛媛県功労賞、1977年(昭和52年)には松山市名誉市民の称号を贈られている。1995年(平成7年)6月7日、肺炎のため愛媛県松山市で逝去。96歳没。墓所は松山市の浄土宗大林寺。 父は伯爵久松定謨、母は薩摩藩第12代藩主島津忠義の七女・貞子。弟に昭和天皇の侍従であった久松定孝。妻は伯爵小笠原長幹の次女・春枝。長男は久松定成。娘2人。 香淳皇后は従妹にあたり、1953年(昭和28年)の第8回国民体育大会と1966年(昭和41年)の第17回全国植樹祭で愛媛県に来県した際には、ともに県知事として応接している。また、松平定知も遠戚にあたる。 ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、52頁。 ^ 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』28頁。 ^ 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』391頁。 ^ “松山市名誉市民のご紹介”. 松山市. 2022年8月9日閲覧。 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 衆議院・参議院編 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』 大蔵省印刷局、1990年、28、391頁。 八幡和郎 『歴代知事三〇〇人―日本全国「現代の殿さま」列伝』 光文社〈光文社新書〉、2007年、353-354頁。 久松定武(松山市ホームページ)
表 話 編 歴 江木康直 岩村高俊 権令→県令 関新平 関新平 藤村紫朗 白根専一 勝間田稔 小牧昌業 室孝次郎 牧朴真 篠崎五郎 大庭寛一 本部泰 菅井誠美 安藤謙介 伊沢多喜男 深町錬太郎 坂田幹太 若林賚蔵 馬渡俊雄 宮崎通之助 佐竹義文 香坂昌康 尾崎勇次郎 市村慶三 木下信 笹井幸一郎 久米成夫 一戸二郎 大場鑑次郎 古川静夫 持永義夫 中村敬之進 畠田昌福 福本柳一 相川勝六 雪沢千代治 土肥米之 豊島章太郎 青木重臣 松下一 青木重臣 久松定武 白石春樹 伊賀貞雪 加戸守行 中村時広 表 話 編 歴 久松定武 玉柳実 湯山勇 増原惠吉 檜垣徳太郎 池田治 塩崎恭久 関谷勝嗣 友近聡朗 井原巧 永江孝子 中平常太郎 三橋八次郎 堀本宜実 青井政美 仲川幸男 野間赳 山本順三 ISNI VIAF 日本 貴族院伯爵議員 昭和時代の貴族院議員 愛媛県選出の参議院議員 昭和時代の参議院議員 愛媛県知事 自由民主党の人物 20世紀日本の実業家 三菱UFJフィナンシャル・グループの人物 勲二等旭日重光章受章者 久松伯爵家 東京大学出身の人物 旧制学習院高等科出身の人物 東京都区部出身の人物 1899年生 1995年没 プロジェクト人物伝項目 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/12/01 08:19更新
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