五島慶太の情報(ごとうけいた) 実業家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
五島 慶太さんについて調べます
■名前・氏名 |
五島慶太と関係のある人
小林一三: これらの施策は多くの私鉄に影響を与え、特に上述の五島慶太や、西武グループを率いた堤康次郎、九州鉄道(現・西日本鉄道)及び岩田屋の中牟田喜兵衛は、小林の影響を強く受けている。 佐藤栄作: 長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら、鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている。 横井英樹: 横井にとって五島慶太の急死とともに衝撃だったのは五島昇から終生出入りを断られたことである。 八木秀次: 1955年(昭和30年)- 五島慶太に請われて武蔵工業大学(現・東京都市大学)学長に就任 根岸寛一: 戦前から戦後まで古野伊之助、甘粕正彦、五島慶太という大物の影響力を利用しながら、迫害された映画人を徹底して庇護した根岸に対して、現在まで「左翼」との評価が根強く残っている。 野津謙: 1940年(昭和15年)に開催される予定だった東京オリンピックのオリンピック村は神奈川県川崎市の津田山を予定していたが これは野津と、当時東京市役所にいた谷川昇、東急の五島慶太、黒川渉三を中心に日本体育協会、東京都、厚生省等が打ち合わせて決めたものだという。 三宮四郎: 五島慶太の没後は、1959年に五島美術館常務理事に就任、1973年まで東京急行電鉄取締役をつとめた。 根岸寛一: 再び浪人となった根岸は、旧知の黒川渉三に誘われて東急の五島慶太と接近。 梶山季之: 国会の爆弾男の異名を取った代議士をモデルにした長編『色魔』、短編「"火消し"新八」、またルポライター時代から東急グループ創設者五島慶太や西武グループ創設者堤康次郎に注目しており、堤をモデルにした『悪人志願』や、電力業界の松永安左エ門を題材にした「小説 松永安左衛門」がある。 井上篤太郎: さらに、陸上交通事業調整法の趣旨を説いて周辺私鉄の統合を進めていた東京急行電鉄社長・五島慶太が、京王の大株主大日本電力から京王株の譲渡を受け、京王は東急への統合を余儀なくされる。 上條清文: 五島慶太会長の最晩年の数カ月、秘書として仕え、財務畑を歩む。 横沢三郎: 大下弘、白木義一郎といった個性のある新人を発掘してプロ野球ブームの呼び水を作るが、同年オフに「強盗慶太」の異名をとる五島慶太率いる東京急行電鉄の乗っ取りに遭い、横沢は「戦犯の下で野球ができるか!!」(当時、五島はA級戦犯に指定されていた)と憤激し、わずか1年で監督辞任。 三鬼陽之助: 五島慶太伝 東洋書館, 1954 (日本財界人物伝全集 第15巻) 原武史: 阪急電鉄の小林一三、東急電鉄の五島慶太、西武鉄道の堤康次郎といった鉄道事業家が行った活動に強い関心を示している。 安藤楢六: このとき、小田急の取締役であった五島慶太の元で働くこととなる。 小宮山重四郎: 五島慶太・小佐野賢治・瀬島龍三らとともに「政商」の一人に数え上げられることも多く、竹下派ら政界関係者とも深くかかわりを持ち、重四郎の政界進出を後援した。 三宮四郎: 日映事件の際に、東急会長の五島慶太は三宮を呼び、子会社の東映再建の苦労話を聞かせて断念を迫ったが、三宮は「彼ら(曾我や松尾)に義理がある」と言い張り聞く耳を持たなかった。 五島昇: 五島慶太の長男。 小林一三: 小林は阪急東宝グループの各事業での成功により財界で重きをなすに至り、グループ以外にも現在の東急に五島慶太を斡旋した。 清水雅: その後、横井英樹や五島慶太(東急グループ総帥)による乗っ取り劇が勃発した。 三宮四郎: 五島慶太社長の知遇を得て、1942年に東京急行電鉄取締役に就任。 堀内光雄: 父・一雄と東急総帥の五島慶太との関係からともすると東京急行電鉄の傍系とみなされていた同社を自立させ、一代で現在の富士急グループを形成し、社長就任後10年で営業収入を4倍以上にさせるなど、財界人として名を馳せた。 小林一三: 田園都市株式会社から鉄道部門を分離した目黒蒲田電鉄、及びその姉妹会社である東京横浜電鉄は、五島慶太に経営を引き継いだ後、小林の手法を用い東横線沿線に、娯楽施設やデパートを作った。 大川博: 本拠地を駒沢に移すことも、親会社を東急から東映に移すときも、大川はその都度、恩師・五島慶太に相談し、意見を求めた。 片岡千恵蔵: 千恵蔵は若い頃から指南役の五島慶太に勧められ、名古屋、伊豆、信州に土地を買い、他にマンション経営や、ガソリンスタンド、そば屋などを所有し、資産額は数十億とも数百億ともいわれ、日本映画界きっての資産家として知られた。 三宮四郎: しかし、京王の本業以外への過剰投資を憂慮した東急の五島慶太会長の猛反対に遭い、さらに当時の運輸大臣宮沢胤勇も、京王が申請していた鉄道事業に対する7億円の政府融資の却下に言及する事態となる。 横井英樹: そこで横井は東急の五島慶太に買収を頼む策を講じる。 大川博: 1942年(昭和17年)12月、鉄道省の先輩である五島慶太にヘッドハンティングされる形で東京急行電鉄に入社。 金森又一郎: 五島慶太(金森社長時代に大軌監査役) 広瀬仁紀: 飛竜の如く 小説・五島慶太 光文社 1985.4 (カッパ・ノベルス) のち文庫 |
五島慶太の情報まとめ
五島 慶太(ごとう けいた)さんの誕生日は1882年4月18日です。長野出身の実業家のようです。
卒業、現在、結婚、再婚、映画に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1959年に亡くなられているようです。
五島慶太のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)五島 慶太(ごとう けいた、旧姓・小林、1882年〈明治15年〉4月18日 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日本の実業家、政治家、官僚。東急及びその子会社の東急電鉄といった東急グループの事実上の創業者である。正三位勲一等。長野県青木村名誉村民。 長野県の農家に生まれ、東京帝国大学卒業後、官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道(現・東急池上線)や玉川電気鉄道(後の東急玉川線)をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収し、「強盗慶太」の異名を取った。一方、実業家としては優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と称された。 長野県小県郡殿戸村(現・青木村)に農業を営む小林菊右衛門・寿ゑ夫妻の二男として生まれる。幼少時分はガキ大将であったが、弱い者いじめはしなかった。1893年に青木尋常小学校(現・青木村立青木小学校)、1895年に浦里尋常小学校高等科(現・上田市立浦里小学校)を卒業。父は製糸業などに手を出し失敗していたため、家計は苦しかったが、慶太の志は高く、父を説得して長野県尋常中学校上田支校(現・長野県上田高等学校)に入学した。青木村の自宅から徒歩で片道2時間かけて通学した。中学の3年を終えると、長野県尋常中学校松本本校(現・長野県松本深志高等学校)に親友大井新次郎(後の多摩川園長)とともに松本の知人の家に下宿しながら通学し、4年・5年を修了した。 慶太はさらに上級学校への進学を夢見たが、経済的理由から進学を断念して青木小学校の代用教員となる。慶太の向学心は強く、1902年(明治35年)の夏に上京して東京高等商業学校を受験するが、英語で失敗し不合格。1903年に学費が不要な東京高等師範学校に合格し、代用教員を辞して英文科へ進学した。東京高師では地理歴史、英語、教育学などを学んだが、のちの人生に残らず、唯一人生の指針となったのは校長の嘉納治五郎が日頃語っていた「なにくそッ」の教訓だった。 卒業後の1906年に英語教師として三重県の四日市市立商業學校に赴任するも、「一度学校に赴任してみると、校長はじめ同僚がいかにも低調でバカに見えて、とうていともに仕事をしていくに足りない者ばかりだった。」と不満を持ち、さらなる最高学府への進学を志して、1907年(明治40年)9月に東京帝国大学政治学科の選科に入学する。10月に旧制第一高等学校の卒業資格試験に合格して法学部本科に転学した。再び学資に窮し、東京高師の校長で在学中に世話になった嘉納の紹介を得て、富井政章男爵の子息の家庭教師として居候する。富井の子息の第二高等学校進学が決まると、次は富井の紹介で加藤高明の子息加藤厚太郎の家庭教師として加藤邸に居候する。 1911年(明治44年)、東京帝国大学を卒業する時はすでに29歳であったが、高等文官試験に合格し、加藤高明の斡旋で農商務省に入省。工場法施行に伴い、工場監督官に採用されるが、施行が3年延期になったため、鉄道院に移った。 鉄道院では文書課、監督局、監督局内の総務課と職場を移り、1919年(大正8年)に総務課長に就くが、高等官七等の身分であるため「課長心得」となる。この処遇が気に食わず、稟議書の認可押印時に、わざと「心得」の2字を消してから上席へ回した。気付いた次官が理由を尋ねると「私は本当の課長としての責任をとって本気で書類に判を押している。心得というような中途半端な無責任な字は消している。これは、私を侮辱したことになる」と答え、心意気を請われて「課長」に昇進した。1年半ほどのちに官吏の生活に飽きてきた頃、武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東急東横線の母体)社長の郷誠之助が資金集めに難航し、鉄道建設に専門の知識を持った常務を求めて鉄道院次官に掛け合った。次官は「課長心得が気に入らないと言って『心得』を消してくる面白いやつがいる」と五島を紹介した。これを渡りに舟と感じた五島は1920年(大正9年)5月11日に鉄道院を辞し、武蔵電気鉄道常務に就任した。 その頃、実業家の渋沢栄一らによって理想的な住宅地「田園都市」の開発を目的に設立された田園都市株式会社が東京府荏原郡の田園調布や洗足などに分譲用として45万坪の土地を購入した。その住民に交通の便を提供するため、目黒駅と蒲田駅から同経営地まで鉄道を敷設するため荏原電機鉄道も設立したが、素人ばかりのため経営不振に陥っていた。そこで大株主の第一生命保険社長の矢野恒太に相談したところ、第一生命相談役の和田豊治が阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三を推した。小林は名前を出さず、報酬も受け取らず、日曜日のみ、の約束で経営を引き受け、玉川、田園調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めた。目黒蒲田電鉄を立ち上げる時に小林が多忙のため、代わりに鉄道院出身であった五島を推挙した。小林からは「荏原電鉄を先にやって、45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやればいい」と説得され、1922年(大正11年)10月から荏原電気鉄道の専務を兼務した。直前の1922年(大正11年)7月、荏原電気鉄道は目黒蒲田電鉄と名前を変え、1924年(大正13年)11月に目蒲線の全線開通を迎えた。その時期が関東大震災と重なったため、都心を焼け出された人々が沿線に移住し業績は一気に好転した。その利益で武蔵電鉄の株式過半数を買収し、名前を武蔵電鉄から(旧)東京横浜電鉄と変え、1927年(昭和2年)8月に東横線を渋谷駅 - 神奈川駅間で開通させた。この東横線は五島が最も精魂を傾けて建設した路線である。 昭和恐慌の煽りを受けて業績は悪化する。その時、五島は「予算即決算主義」を確立した。これは後々まで五島の経営哲学として生き続ける。 五島は阪急の小林の手法に倣い、沿線に娯楽施設やデパートを作り東横沿線の付加価値を高めた。更に大学等の学校を誘致し始める。1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学を浅草区蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山へ移転させることに成功する。1929年(昭和4年)に慶應義塾大学へ日吉台の土地を無償提供し、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。1931年(昭和6年)に日本医科大学へ武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校を八雲に誘致した。1936年(昭和11年)に赤坂区青山北町にあった東京府青山師範学校に資金援助を行い、世田谷の下馬に誘致した。東横沿線を学園都市として位置付け数々の誘致を成功させ、通学客を安定的な乗客として多く獲得した。 五島は自らが苦学生であったことに加え、学生時代から家庭教師や学校の教師を務めていたことから教育分野に大変熱心だった。そのため私財を投じて東横商業女学校(後の東横学園中学校・高等学校・女子短期大学)を設立。続けて武蔵高等工科学校を有する学校法人五島育英会を設立するなど、晩年まで意欲を持ち続けた。 事業を拡大して1933年(昭和8年)7月に競合する池上電気鉄道の株を東京川崎財閥から譲り受けて買収した。 1934年(昭和9年)11月、渋谷駅前に関東初の電鉄系ターミナルデパートである東横百貨店を開業した。呉服が中心だった百貨店事業の中で、東横百貨店は日用品中心の品揃えを展開する。ターミナルであった渋谷駅は当時でも30万人近い乗降客があり、都心に行かず買い物ができる東横百貨店は人気を呼んだ。東横百貨店の隣に本社ビルを所有し、渋谷の開発をめぐり競合関係にあった玉川電気鉄道を内国貯金銀行の前山久吉から株式譲渡で買収、1936年(昭和11年)に社長に就任。1938年(昭和13年)4月に(旧)東京横浜電鉄に吸収合併した。1939年(昭和14年)10月に目黒蒲田電鉄は(旧)東京横浜電鉄を合併し、名称を逆に(新)東京横浜電鉄とする。五島慶太は「東横線が我々の祖業である、この線が滞りなく走っていれば東急の事業は安泰だ」と語ったように(旧)東京横浜電鉄は(新)東京横浜電鉄における事実上の主力であった。。 五島は関西でも鉄道事業に関与し、1927年(昭和2年)から1944年(昭和19年)にかけて、近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)の監査役および、大軌子会社である参宮急行電鉄(参急)の取締役も務めた。 1938年に前山久吉が所有する三越株式の譲渡が持ち上がった。五島は東横百貨店を三越と合併して東横を三越の渋谷支店にしようと考え、10万株を購入した。東横百貨店の従業員研修の際に研修先候補に挙がっていた三越から受け入れを断られたことの逆恨みであったと伝わる。三井財閥の祖業である三越の乗っ取りを阻止するため、三井銀行は東横の融資を停止する。三井の要請を受けた三菱銀行頭取の加藤武男も、慶應閥牙城の三越の買収に手を貸せば非難が向くと判断して融資を停止した。五島は大財閥の三井と三菱を相手にする状況となり、資金繰りが悪化する。三井銀行出身で慶應閥に顔が利く小林一三に助力を依頼したが、「渋谷のような片田舎の百貨店がそんなことをするのは、蛙が蛇を飲み込むより至難」と諭されて断念した。 1934年、五島は渋谷 - 新橋間に地下鉄を敷設するため、大倉組や東京地下鉄道と協力して東京高速鉄道を発足させ、常務に就任した。1938年に渋谷 - 虎ノ門間を開通するが、社長門野重九郎が東京駅への延伸を主張するのに対し、五島は新橋から東京地下鉄道へ乗り入れ、当時、東京一の繁華街であった上野と浅草に至るルートを主張し、2人は対立した。1939年に五島は大日本電力社長の穴水熊雄から東京地下鉄道株式45万株を譲り受け、東京地下鉄道社長の早川徳次を退陣に追い込んだ。 1941年(昭和16年)に陸上交通事業調整法に基づく帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が成立した。鉄道省総務課長の佐藤栄作は、「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」と主張した。これまで五島が競合相手を合併する際に用いた口実が使われたことになる。両社の株式は営団債に振り替えられたが、戦後にインフレーションで紙屑同然と化した債券の山を見た五島は人知れず号泣した。 1942年(昭和17年)に陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、既に五島の経営下にあった京浜電気鉄道と小田急電鉄を合併して東京急行電鉄を発足し、1944年に京王電気軌道を合併する。相模鉄道など東京西南部全域の私鉄網を傘下に収めて「大東急」となった。 1943年(昭和18年)、国策によって静岡鉄道が成立し、五島は初代会長に就任。静岡鉄道が東急と繋がりが今も深いのはそのためである。内閣顧問に任ぜられ、木造船の行政査察使として青森から関西の造船所を回った。巡回の後、箱根の強羅ホテルでレポートを仕上げているところに次男の戦死を耳にした。1944年(昭和19年)2月11日、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任し、名古屋駅の交通緩和や船員の待遇改善などに貢献する。 大東急の沿線都市の川崎市は、国鉄川崎駅と臨海部を結ぶ川崎鶴見臨港バスの輸送力低下に業を煮やし、路面電車参入を決めていた。東急も京浜電気鉄道から引き継いだ大師線を延長し、臨海部の軍需工場へ通勤輸送に当たる予定だった。川崎市では当初、東急から大師線を買収して市営に一本化、環状運転を行う構想を持っていたが五島は市側と調整し、桜本駅から北を東急、以南を川崎市の運営とすることで折り合わせる。1945年(昭和20年)に川崎市電と大師線が桜本駅で連絡した。 終戦後の1947年(昭和22年)、東條内閣の閣僚だったために連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって公職追放者指定を受けた。追放解除は、1950年の第一次解除では申請が認められず、1951年にずれ込んだ。追放中も影のご意見番として事実上企業活動に参加。大東急分割の際も、むしろ自ら企業分割の推進役を果たした。既にこの頃「城西南地区開発」の発想があり、旧3社への事業譲渡代金は城西南地区開発を始める恰好の元金であった。 追放解除後は東京急行電鉄会長に再び就任し、まずは各系列会社の運営実態を確認。倒産寸前にまで陥っていた東映は、借金が11億円(2006年の貨幣価値換算で数百億円)にも膨らんでいたが、住友銀行の鈴木剛頭取と交渉して融資を引き出した。東映再建に、東急専務で「経理の専門家」として五島が多大な信頼を寄せていた大川博を社長として派遣し、見事に3年で立ち直らせた。これが失敗していたら五島家は破産していたといわれる。1953年(昭和28年)に城西南地区開発を発表して神奈川県北東部を中心とした地域の多摩田園都市開発に着手する。 その一方で、1955年(昭和30年)に横井英樹の白木屋乗っ取りに手を貸し、これに東横百貨店を吸収、「強盗慶太」の健在ぶりを知らしめる。定山渓鉄道など北海道各地の乗合バス会社を次々と買収し、北海道開発を推進した。伊豆の観光開発にも力を注ぎ、伊東 - 下田間の鉄道敷設(現・伊豆急行線)を計画し「伊豆戦争」を繰り広げる傍ら、箱根の観光事業ではかつて傘下に収めていた小田急側について「箱根山戦争」を繰り広げ、五島の郷里である長野県でも軽井沢の開発を巡って草軽電気鉄道を東急傘下に収めて経営を行い、西武鉄道の堤康次郎と各地で激しく対立した。 五島は郷里・長野県の開発にも関心を持っており、上田丸子電鉄(現・上田交通)に出資し、同社はのちに東急の系列会社となったものの、既に病に侵されておりそれ以上の関与はできなかった。死の直前の1959年(昭和34年)に再び横井と組み東洋精糖買収に乗り出し、熾烈な攻防戦を繰り広げる。しかし、その最中に五島は病没。東洋精糖株は死後27日目に手放された。墓所は世田谷区浄真寺。 強引な企業買収で知られているものの、東映の再建、箱根・伊豆・信州・北海道の開発、洗足田園都市や田園調布を発端にした多摩田園都市の開発など、その壮大な事業構想は、企業家として高い評価を受けている。師である小林一三からは私鉄経営について多くを学び、ターミナルであった渋谷駅にデパートを設置したことや田園都市を開発したのは、小林の手法の模倣とされている。しかし小林よりも大規模に行った「学校の誘致」のように、独自の発想によるものもいくつかあった。さらに小林が官僚の天下りを嫌ったのに対し、五島はその政治力を積極的に利用して事業を推し進めようとするなど、官僚出身者であるが故といった面も見られることがあった。その反面、小林が多用した「"隠密"を使っての事業拡大」の手法は採らなかった。 小林やライバルとして知られる西武鉄道の堤康次郎同様、美術品のコレクターとして知られる。蒐集品の公開のため、死の翌年に五島美術館が創立された。 東急グループである東京都市大学では、五島について学ぶ授業が存在する。 出身地の長野県では、郷土出身の偉人としてたたえられている。生前に生まれ故郷である青木村殿戸地区の公民館建設へ寄付を行うなどしており、館内に胸像が建てられている。没後、長男の五島昇が「五島慶太翁記念公園」を建設したほか、2020年に「五島慶太未来創造館」が開館している。殿戸峠の入口に生家が現存していたが、2018年8月に落雷により焼失。鉄道院に官吏として勤務した頃は、北信地方の交通網整備のため飯山鉄道の敷設認可に尽力し、のちに運輸通信大臣として同社を国有化して国鉄飯山線とした。この功績を記念した石碑が飯山駅前に建てられている。 日本経済新聞に連載された『私の履歴書』によれば、「私の家は貧しい農家とはいっても、千戸余りしかない山中の一寒村では、村一番の資産家だった」。父・菊右衛門は熱心な法華経の信者で、起床時、就寝前、南無妙法蓮華経を少なくとも五百遍から千遍ほども唱えていた。両親の姿勢を受けた慶太も仏教に感化を受けた。兄・虎之助は家業を継ぎ、のちに青木村村長・長野県議会議員を務めるなど地元の名士として活動した。 鉄道院転属の前年の1912年(明治45年)2月24日、慶太が30歳の時、工学博士・古市公威の仲人で、皇居二重橋の設計者である工学博士・久米民之助の長女・万千代と見合い結婚をした。この時、久米民之助の祖母の実家で旧沼田藩士の五島家を再興。慶太は万千代と結婚した後に五島姓を名乗ることになった。万千代は1922年(大正11年)、スペインかぜが原因で31歳で急逝したが、五島は生涯再婚も復姓もしなかった。 万千代との間に2男2女を儲けた。長男の昇は東京急行電鉄社長、日本商工会議所会頭などを歴任する。長女の春子は曾禰益に嫁ぐ。次女の光子は早世した。次男の進は東京帝大を卒業後、帝国海軍に入隊し、ソロモン諸島で敵機の機銃掃射により乗船していた船と運命を共にし戦死する。 1882年(明治15年)- 長野県小県郡青木村に生まれる。 1906年(明治39年)- 東京高等師範学校卒業後、四日市商業学校に赴任。 1911年(明治44年)- 東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省。 1913年(大正2年)- 鉄道院に転属。 1920年(大正9年)- 武蔵電気鉄道常務に就任。 1922年(大正11年)- 目黒蒲田電鉄専務に就任。 1924年(大正13年)- 武蔵電気鉄道、社名を(旧)東京横浜電鉄と変更。 1934年(昭和9年)- 東京高速鉄道常務に就任。 1936年(昭和11年)- (旧)東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄取締役社長に就任。 1939年(昭和14年)- 目黒蒲田電鉄が(旧)東京横浜電鉄を合併し、名称を逆に(新)東京横浜電鉄とする。 1942年(昭和17年)- 京浜電気鉄道および、小田急電鉄を合併し、(旧)東京急行電鉄に商号変更。 1942年(昭和17年)8月31日- 東京宝塚劇場取締役に就任。 1943年(昭和18年)- 内閣顧問に就任。 1943年(昭和18年)12月10日- 東宝取締役に就任。 1944年(昭和19年)- 運輸通信大臣就任に伴い、東京急行電鉄社長を辞任。 1947年(昭和22年)- 公職追放。 1951年(昭和26年)- 公職追放解除。 1952年(昭和27年)- 東京急行電鉄取締役会長に就任。 1955年(昭和30年)- 学校法人五島育英会を設立し、初代理事長に就任。 1959年(昭和34年)- 死去。77歳没。 ^ 上條昌克所有の新町の長屋に下宿した。『五島慶太の追想』436頁 ^ 渋谷が繁華街になったのは1970年代以降である。 ^ のちの草軽交通。2009年に東急グループから離脱。 ^ 五島慶太未来創造館に、生家の模型と柱の一部が残されている。 ^ “広報あおき2023年7月号” (PDF) (日本語). 青木村 (2023年7月1日). 2023年7月21日閲覧。 ^ “五島慶太未来創造館開館記念パンフレット”. 2022年10月25日閲覧。 ^ 『私の履歴書 経済人1』10頁 ^ 鈴木 1978, p. 795. ^ 『渋沢栄一伝記資料』第53巻 目次詳細 第13節 土木・築港・土地会社 第3款 田園都市株式会社 ^ 日本一のブランド力を誇る「田園調布」- 東京の高級住宅街、住むならどこがベスト ^ 『中野武営と商業会議所』1017頁 ^ 大阪府池田市にある小林一三記念館パネル展示(2011年9月閲覧) ^ 『日本の私鉄 東京急行電鉄』毎日新聞社 2011年1月30日 ^ 1941年から参急と統合して関西急行鉄道(関急)となる。 ^ 「一万余名を追放解除」『日本経済新聞』昭和25年10月14日1面 ^ #履歴書26、177-178頁。 ^ #悔いなき、238頁。 ^ “五島慶太翁記念公園と五島慶太”. 青木村ホームページ. 2020年3月16日閲覧。 ^ 『私の履歴書 経済人1』11頁 ^ 五島慶太翁記念公園と五島慶太 『私の履歴書 経済人1』(日本経済新聞社、1980年)- 1956年4月日本経済新聞連載 早川隆『日本の上流社会と閨閥』角川書店、1983年9月、82-83,88頁。ISBN 9784048200011。全国書誌番号:84003794。 岡田茂『悔いなきわが映画人生―東映と共に歩んだ50年』財界研究所、2001年6月30日。ISBN 9784879320162。 『私の履歴書 経済人26 五島昇』日本経済新聞社、2004年6月7日。ISBN 9784532169022。 鈴木博雄『東京教育大学百年史』図書文化社、1978年7月28日、819頁。全国書誌番号:78027422。 五島慶太『事業をいかす人』有紀書房、1958年。全国書誌番号:58004696。 猪瀬直樹『土地の神話』小学館、1988年11月1日。ISBN 9784093941624。 五島慶太『ポケット菜根譚』実業之日本社、1963年。全国書誌番号:64005914。 北原遼三郎『わが鐵路、長大なり 東急・五島慶太の生涯』現代書館、2008年。ISBN 9784768469729。 中村建治『メトロ誕生―地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防』交通新聞社、2007年7月1日。ISBN 9784330936079。 井内彦四郎(五島との関係は木本正次『東への鉄路』に詳しい) 重光葵 正力松太郎 芦田均 古市公威 小田原三茶人 利光鶴松 種田虎雄 井上篤太郎 川又貞次郎(相模鉄道元社長) 岡田茂 安藤楢六(元小田急電鉄社長) 黒川渉三 田中勇(元東京急行電鉄副社長) 柏村毅(元東京急行電鉄専務、関東バス社長) 川鍋秋蔵 伊藤福一 三宮四郎 川井健太郎 尾川武夫 「五島慶太」強盗と呼ばれた経済人(第1回) - 明治・大正・昭和の ベンチャーたち|J-Net21 中小企業ビジネス支援サイト CIA Records - Name Files 表 話 編 歴 八田嘉明1943-1944 五島慶太1944 前田米蔵1944-1945 豊田貞次郎1945 小日山直登1945 表 話 編 歴 東京都市大学 東京都市大学付属高等学校 東京都市大学等々力高等学校 東京都市大学塩尻高等学校 東京都市大学付属中学校 東京都市大学等々力中学校 東京都市大学付属小学校 東京都市大学二子幼稚園 東急自動車学校 亜細亜大学 東横学園女子短期大学 武蔵工業大学短期大学部 東急自動車整備専門学校 東横学園大倉山高等学校 東京都市大学硬式野球部 東京都市大学の人物一覧 五島慶太 東急グループ FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research ^ 相模鉄道の系譜 鉄道ピクトリアル 1976年5月号 20世紀日本の実業家 日本の企業創立者 昭和時代戦前の閣僚 日本の鉄道官僚 日本の鉄道実業家 日本の商工官僚 第二次世界大戦期の政治家 池上電気鉄道 東急電鉄 東急グループの人物 多摩田園都市 近畿日本鉄道の人物 茶人 日本の学校法人の理事長 日本の中等教育の教員 日本の美術品収集家 公職追放者 東京大学出身の人物 東京高等師範学校出身の人物 長野県上田高等学校出身の人物 長野県松本深志高等学校出身の人物 私の履歴書の登場人物 長野県出身の人物 1882年生 1959年没 正三位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 青木村の歴史 プロジェクト人物伝項目 2024/11/19 23:34更新
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gotou keita
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