佐々木七恵の情報(ささきななえ) 陸上競技/マラソン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐々木 七恵さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐々木七恵と関係のある人
増田明美: しかしその後集団からも脱落し、「集団の中で走っていない」「同じ日本代表の佐々木七恵にも先行された」ことなどに耐えられず、16km付近で再び途中棄権となってしまった(なお佐々木は完走するも19位に終わり、二人共にメダル・8位入賞はならなかった)。 湯田友美: ^ 以前の記録は、第2回大会(1984年)で岩手のアンカーだった佐々木七恵(エスビー食品)の記録した17人抜き。 増田明美: しかし、その後中村が指導する佐々木七恵とライバル関係となる。佐々木の死去から14年を経た2023年時点でも、増田は(佐々木の故郷である)岩手県で講演する際には「女子マラソンのパイオニアと言ったら、私じゃなくて佐々木七恵さん」と話すという。 増田明美: 翌年のロサンゼルス五輪女子マラソン代表をかけて、11月の東京国際女子マラソンに出る予定だったが、直前に足の故障で欠場(佐々木七恵が優勝して代表を獲得)。 増田明美: 佐々木七恵とともに1980年代前半の日本における女子長距離走の第一人者であった。 中村清: 佐々木七恵 増田明美: 一方、当時女子マラソンの日本最高記録保持者だった佐々木七恵(当時岩手県の教職員だった)は、スポニチ国際やアジア陸上(3000m)で同走したが、あまりの速さの違いに「別世界の人みたい」と感想を漏らすほどであった。 中村清: その門下生には、インターハイチャンピオンで早大に進んだ金井豊、坂口泰、遠藤司のほか、外部からヱスビー食品入りした中村孝生、新宅雅也、佐々木七恵、ダグラス・ワキウリらがいる。 山下佐知子: ^ この日、文化放送のラジオ中継で優勝選手の監督としてのインタビューに応じ、この日のラジオ解説を担当し、25年前のこの大会で日本人初優勝を果たした佐々木七恵に祝福され、感激していた。 増田明美: しかし、一週間後のスポニチ国際陸上5000mではラスト1周で佐々木七恵に抜かれ、長距離転向後初めて日本選手に敗れる。 谷川真理: 東京では1983年の佐々木七恵以来、8年ぶりに日本女子選手の覇者となり、大きな話題となった。 荒木久美: 佐々木七恵、増田明美、浅井えり子、宮原美佐子らとともに、日本女子マラソンの黎明期に活躍した。 増田明美: しかし、他に適任者が佐々木七恵しかいなかったり、ロサンゼルス五輪のトラック種目は3000mが最長(10000mが種目に加えられたのは次のソウル五輪から)だったといった事情もあり、20歳のロサンゼルス五輪でマラソンに出場した。 中村清: 中村は女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いのため先に渡米し、レースを終えた佐々木を連れて帰国した直後に、瀬古と共にロスに戻るという強行軍をとった。 浅井えり子: ロサンゼルスオリンピックの選考レースだった1984年3月の名古屋女子マラソン(のち名古屋国際女子マラソン)では、2時間38分台のタイムで日本人最高の4位となるが、増田明美・佐々木七恵の二人とは力の差があるとして、惜しくもロス五輪代表には選出されなかった。 瀬古利彦: なお、中村は女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いのため、瀬古を東京に残して渡米していた。 |
佐々木七恵の情報まとめ
佐々木 七恵(ささき ななえ)さんの誕生日は1956年2月8日です。岩手出身の陸上競技
マラソンのようです。
結婚、卒業、兄弟、テレビ、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2009年に亡くなられているようです。
佐々木七恵のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐々木 七恵(ささき ななえ、結婚後の氏名:永田 七恵、1956年2月8日 - 2009年6月27日)は、1980年代に活躍した女子陸上競技(主に長距離走・マラソン)選手、指導者。1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン日本代表。 岩手県大船渡市出身。岩手県立住田高等学校、日本体育大学卒業。大卒後は教育職を経て、瀬古利彦らがいたヱスビー食品に所属。増田明美らとともに、初期の日本女子マラソン界を代表する選手の1人だった。 5男2女の7人兄弟の末娘として生まれたことから七恵と命名される。日頃市中時代はバレーボール部に所属し、住田高時代から兄の影響で陸上競技を始める。日体大時代までは中距離の選手としてインカレ等で活躍し、大学卒業後マラソンに進む。1979年11月の第1回東京国際女子マラソンで初マラソンを走る。順位は26位だった。参加した日本人選手の多くが学生もしくは30歳 - 40歳代の市民ランナーだった中、佐々木はそのいずれでもない数少ない存在だった。 1980年には、日本陸上競技連盟が新たに設定した2つの女子20kmロードレース(3月の中日(豊橋市)と6月のタイムス(札幌市))にいずれも優勝し、長距離走者として順調な成長をうかがわせた。中日での1時間16分10秒は当時の道路日本記録だった。同年11月の第2回東京国際女子マラソンでは、ゴール前の競技場内で村本みのるを抜いて日本人トップの9位となる。記録は2時間52分35秒で、前年から14分45秒も短縮した。日本陸連はこの年から女子マラソンの記録を道路日本記録として公認を始めたが、この佐々木の記録は1980年の道路日本記録となった。 当時、佐々木は岩手県で県立学校(岩手県立盲学校→岩手県立盛岡第一高等学校)の教員をしていたがさらなる記録向上をめざし学休期に上京しては、瀬古利彦の師である中村清の指導を受けるようになる。1981年4月のボストンマラソンでは2時間40分56秒(13位)の成績で日本最高記録を樹立した。しかし、その直後日本で出場したトラックレースで成田高校の在学生であった増田明美に何度も水をあけられる。これをきっかけに中村の指導をさらに熱心に受けるようになった。同年11月の東京国際女子マラソンでは2時間45分53秒で5位だった。 中村の指導は厳しいものであったが、まもなく成果が現れる。1982年5月のスポニチ陸上5000mでは初めて増田を破って優勝。6月にはニュージーランドのクライストチャーチマラソンで再び2時間35分00秒の日本最高記録を樹立し、2月に増田に奪われた首位の座を奪い返した。自信を付けた佐々木は、2年後の1984年8月に開催されるロサンゼルスオリンピック女子マラソン代表をめざし、陸上競技に本格的に取り組む決意を固め、1982年7月7日付で教員を辞職し、中村のいるヱスビー食品陸上部に入部した。 1983年11月の東京国際女子マラソンに、ロサンゼルス五輪の女子マラソン代表(このロス五輪から女子マラソンが正式種目となる)をめざして出場。このレースには9月に再び日本最高記録を出した増田明美もエントリーしており、マラソンでの2人の初対決が期待されたが増田は直前に足を痛めて欠場した。佐々木は先頭に食い下がる我慢のレースからスパートをかけて、結果国内の国際女子マラソン大会で日本人として初優勝を果たし、念願だったロス五輪代表の座をつかんだ(その後増田も大阪女子マラソンに出走し2位となり、2人が女子マラソン五輪代表となる)。その走り方には、同年ヒットした連続テレビ小説にちなんで「おしん走法」のあだ名も付けられていた。 1984年1月の全国都道府県対抗女子駅伝に岩手県チームのアンカーで出場、17人抜きを演じる。この記録は2007年1月、愛知県チームの2区で出場した湯田友美が29人抜き(17人抜き以上が湯田の他に3人いた)を演じるまで23年間破られることはなかった。 1984年8月、ロス五輪の女子マラソン本番レースでは、2時間37分台のゴールタイムで完走したもののメダル・8位内の入賞のいずれにも届かず、順位は19位に終わる(増田明美は16km付近で途中棄権)。当時の日本女子マラソン界は、まだ世界との壁が厚かった。 ロサンゼルスオリンピックの後、中村の薦めもあって結婚(夫は永田姓で、自衛隊勤務)に伴い「家庭とマラソンの二足のわらじは無理」と1985年3月の名古屋国際女子マラソンを引退レースと決める。その名古屋国際女子マラソンでは2時間33分台の自己ベスト記録での日本人初優勝を果たし、引退の花道を飾った。 現役引退後、2人の子供をもうけた。 1991年から古巣のヱスビー食品陸上部のコーチ、1996年から顧問を務めた。また、1999年から2003年まで、居住する神奈川県相模原市の教育委員を務めた。 2009年6月27日、直腸がんのために死去。享年54。ヱスビー食品のチームメイトだった瀬古利彦は「26歳で安定した仕事を捨てて来たこと自体に驚いた。覚悟が伝わった」「まだ若いのに…残念」、同じロス五輪女子マラソンの日本代表だった増田明美は「レース中に七恵さんに抜かれたことが一番悔しかった」「思い出話に花を咲かせる機会が増えるだろうと楽しみにしていただけに、大変悲しい気持ち」と、それぞれ追悼のコメントを述べた。 葬儀は身内のみで行われたため、元の所属先だったヱスビー食品の江戸龍太郎社長らが発起人となって、同年9月29日に「お別れの会」を執り行った。 郷里の大船渡市では、彼女の業績を称える市民ロードレース「大船渡ポートサイド女子マラソン大会」が生前の1988年以降毎年開催されていたが、2019年に終了した。瀬古は、佐々木の事績を伝えたいという思いもあり、2023年にいわて盛岡シティマラソンにゲストランナーとして参加した。 3000m 9分39秒86 5000m 15分55秒30 10000m 32分54秒90 マラソン 2時間33分57秒 1979年11月18日 東京国際女子マラソン 3時間07分20秒 26位(初マラソン) 1980年11月16日 東京国際女子マラソン 2時間52分35秒 9位(日本人最上位) 1981年04月20日 ボストンマラソン 2時間40分56秒 13位(当時日本最高記録・日本人最上位) 1981年11月15日 東京国際女子マラソン 2時間45分53秒 5位(日本人最上位) 1982年01月24日 大阪女子マラソン 2時間42分09秒 11位(日本人最上位) 1982年06月06日 クライストチャーチマラソン 2時間35分00秒 優勝(当時日本最高記録) 1982年11月14日 東京国際女子マラソン 2時間43分13秒 4位(日本人最上位) 1983年11月20日 東京国際女子マラソン 2時間37分09秒 優勝(大会史上日本人初優勝) 1984年08月05日 ロサンゼルス五輪女子マラソン 2時間37分04秒 19位(日本人唯一の完走者) 1985年03月03日 名古屋国際女子マラソン 2時間33分57秒 優勝(大会史上日本人初優勝・自己ベスト記録・ラストラン) ^ 1979年に小幡キヨ子(別府大分毎日マラソン)と村本みのる(東京国際女子マラソン)がそれぞれ記録した2時間48分52秒は参考記録扱いだった。 ^ ただし、日本出身者としては他に香港国籍を取得して香港代表で出場したユーコ・ゴードン(旧名・長谷川遊)が34位で完走している。 ^ 高橋進 1983, p. 229. ^ 高橋進 1983, p. 230. ^ 高橋進 1983, p. 232-233. ^ 高橋進 1983, p. 237. ^ 高橋進 1983, p. 234-235. ^ 高橋進 1983, p. 242. ^ “岩手日報体育賞(昭和)”. 岩手日報. 2013年5月21日閲覧。 ^ 高橋進 1983, p. 241. ^ 高橋進 1983, p. 247. ^ 高橋進 1983, p. 255-256. ^ “女子マラソンの草分け佐々木七恵さん死去”. 日刊スポーツ (2009年6月30日). 2022年7月6日閲覧。 ^ “佐々木七恵さん急逝14年、増田明美さん「女子マラソンの先駆者」…瀬古利彦さん「忘れないで」”. 読売新聞. (2023年10月27日). https://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20231024-OYT1T50119/ 2023年10月27日閲覧。 高橋進『輝け!女子マラソン』碩文社、1983年1月15日。 女子マラソンの草分け 佐々木七恵さん死去(nikkansports.com) 女子マラソンの草分け 佐々木七恵さん死去(Sponichi Annex) - ウェイバックマシン(2014年2月24日アーカイブ分) 故佐々木七恵さん(エスビー食品)のお別れ会(日刊ランナーズ) 佐々木七恵 - ワールドアスレティックスのプロフィール(英語) 表 話 編 歴 80 佐々木七恵 81 田中三恵 82 キャシー・トゥーミー 83 エレン・ハート 84 グレニス・クイック 85 佐々木七恵 86 カトリン・ドーレ 87 C.ビュースケンス(英語版) 88 趙友鳳 89 趙友鳳 90 ワンダ・パンフィル 91 山下佐知子 92 大江光子 93 K.グラデュス(英語版) 94 浅井えり子 95 K.グラデュス 96 真木和 97 M.ビクタギロワ(英語版) 98 高橋尚子 99 L.モルグノワ(英語版) 00 高橋尚子 01 松尾和美 02 野口みずき 03 大南敬美 04 土佐礼子 05 原裕美子 06 弘山晴美 07 橋本康子 08 中村友梨香 09 藤永佳子 10 加納由理 11 東日本大震災のため中止 12 A.マヨロワ(英語版) 13 木﨑良子 14 J.プロコプツカ(英語版) 15 E.キルワ 16 E.キルワ 17 E.キルワ 18 M.アセファ(英語版) 19 H.ジョハネス 20 一山麻緒 21 松田瑞生 22 ルース・チェプンゲティッチ(英語版) 23 ルース・チェプンゲティッチ(英語版) 表 話 編 歴 79 ジョイス・スミス 80 ジョイス・スミス 81 リンダ・スタウト 82 ゾーヤ・イワノワ 83 佐々木七恵 84 カトリン・ドーレ 85 カトリン・ドーレ 86 ロザ・モタ 87 カトリン・ドーレ 88 アウロラ・クーニャ 89 リュボフ・クロチコ 90 謝麗華 91 谷川真理 92 リズ・マッコルガン 93 ワレンティナ・エゴロワ 94 ワレンティナ・エゴロワ 95 浅利純子 96 藤村信子 97 伊藤真貴子 98 浅利純子 99 山口衛里 00 ジョイス・チェプチュンバ 01 デラルツ・ツル 02 バヌーエリア・ムラシャニ 03 エルフィネッシュ・アレム 04 ブルーナ・ジェノベーゼ 05 高橋尚子 06 土佐礼子 07 野口みずき 08 尾崎好美 09 嶋原清子 11.2 尾崎好美 11.11 木崎良子 12 リディア・チェロメイ(英語版) 13 アルビナ・マヨロワ(ロシア語版) 14 田中智美 15 アツェデ・バイサ 16 チェイエチ・ダニエル 17 チェイエチ・ダニエル 18 ダリラ・ゴサ 19 ペレス・ジェプチルチル 20 表 話 編 歴 83 金子るみ子(東京・順天高) 84 佐々木七恵(岩手・ヱスビー食品)* 85 田崎裕子(鹿児島・京セラ) 86 小林良子(和歌山・住金化工) 87 荒木久美(鹿児島・京セラ) 88 松野明美(熊本・ニコニコドー) 89 朝比奈三代子(宮崎・旭化成)* 90 松野明美(熊本・ニコニコドー) 91 真木和(京都・ワコール) 92 鈴木博美(千葉・リクルート) 93 麓みどり(広島・ダイイチ) 94 朝比奈三代子(宮崎・旭化成) 95 木村泰子(石川・京都産業大) 96 真木和(京都・ワコール) 97 川上優子(熊本・沖電気宮崎)* 98 大南博美(愛知・東海銀行), 高橋尚子(岐阜・積水化学) 99 川島亜希子(愛知・東海銀行) 00 渋井陽子(栃木・三井海上) 01 小鳥田貴子(広島・デオデオ) 02 福士加代子(京都・ワコール) 03 小鳥田貴子(広島・デオデオ) 04 福士加代子(京都・ワコール)30:52** 05 加納由理(兵庫・資生堂) 06 福士加代子(京都・ワコール) 07 大崎千聖(茨城・三井住友海上) 08 野口みずき(三重・シスメックス) 09 新谷仁美(千葉・豊田自動織機) 10 福士加代子(青森・ワコール) 11 福士加代子(京都・ワコール) 12 新谷仁美(千葉・佐倉アスリート倶楽部) 13 新谷仁美(千葉・ユニバーサルエンターテインメントAC) 14 重友梨佐(岡山・天満屋) 15 前田彩里(熊本・ダイハツ) 16 関根花観(東京・日本郵政グループ) 17 小原怜(岡山・天満屋) 18 小原怜(岡山・天満屋) 19 新谷仁美(東京・NTTC) 20 新谷仁美(東京・積水化学) 21 中止 22 廣中璃梨佳(長崎・日本郵政グループ) 23 松田瑞生(大阪・ダイハツ) 24 川村楓(京都・岩谷産業) *は区間新、**は区間記録 1区 2区 3区 4区 5区 6区 7区 8区 9区 表 話 編 歴 不破弘樹 高野進 金井豊 吉田良一 大森重宜 臼井淳一 植田恭史 阪本孝男 高橋卓巳 吉田雅美 溝口和洋 室伏重信 宗茂 宗猛 新宅雅也 瀬古利彦 佐藤恵 福光久代 松井江美 森美乃里 佐々木七恵 増田明美 ワールドアスレティックス 日本の女子長距離走の選手 日本の女子マラソン選手 陸上競技日本代表選手 オリンピック陸上競技日本代表選手 アジア陸上選手権日本代表選手 エスビー食品の人物 日本の教育委員 日本の中等教育の教員 日本体育大学出身の人物 岩手県出身のスポーツ選手 1956年生 2009年没 大腸癌で亡くなった人物 2024/12/02 12:52更新
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