瀬古利彦の情報(せことしひこ) 陸上競技/マラソン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
瀬古 利彦さんについて調べます
■名前・氏名 |
瀬古利彦と関係のある人
中山竹通: この間、中山は瀬古利彦のフォームを研究しながら、世界に勝てるスピードを得るためにつま先から着地する走法を身につける。瀬古利彦が優勝したこのレースで中山は14位であった。 山口香: 2013年4月1日に瀬古利彦の後任として東京都教育委員会教育委員、6月21日に日本バレーボール協会理事、8月21日に全日本柔道連盟監事、にそれぞれ任命される。 鈴木英敬: 4月7日 - 東京オリンピックの聖火リレーの三重県区間の出発式で、第一走者の瀬古利彦のトーチに聖火を点火する役を務めた。 中村孝生: 瀬古利彦らとしのぎを削った名ランナーである。 増田明美: 本格的に陸上競技に取り組む前から、福岡国際マラソンでの瀬古利彦の活躍やその指導者である中村清の「天才は有限だが努力は無限」というコメントに感銘を受け、この二人に敬意と憧れを抱いていた。 中山竹通: ソウルオリンピック代表選考における瀬古利彦への扱いを巡り語ったとされる「瀬古、這ってでも出てこい!」という発言(実際の発言内容については後述)は、中山の個性を端的に表すものとして付きまとうことになった。 宗茂: 同年12月の福岡国際マラソンでは期待をかけられたが、早稲田大学の学生だった瀬古利彦が優勝し、茂は3位であった。 大迫傑: 日本人では瀬古利彦以来で初めてボストンマラソンの表彰台に立った。 藤田敦史: 箱根駅伝後の1999年3月には初マラソンのびわ湖毎日マラソンで瀬古利彦のもつ日本学生記録を20年ぶりに更新。 小掛照二: ソウルオリンピック男子マラソンでは、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられていた福岡国際マラソンをけがで欠場し、びわ湖毎日マラソンで優勝した瀬古利彦が選出された。 アーメド=サラ: 瀬古利彦( 篠田正浩: 当時の早大競走部の長距離コーチで、後にオリンピックマラソン代表の瀬古利彦を育てた中村清に長距離転向を促され、1年生で1950年の箱根駅伝に出場し、「花の2区」を走った。 増田明美: このほか、瀬古利彦の師である中村清が増田に興味を示し、瀧田に「増田を(中村が監督を務めていた)早稲田大学に入学させてくれないか」と持ちかけるも断られた、という話も伝えられている。 佐々木七恵: ヱスビー食品のチームメイトだった瀬古利彦は「26歳で安定した仕事を捨てて来たこと自体に驚いた。 坂口泰: 卒業後は地元の広島大学に入って教師になるつもりだったが、当時早稲田大学競走部の瀬古利彦に声をかけられ、中村清監督が実家まで足を運んでくれたため、早稲田大学に進学した。 中山竹通: 中山は最後に追い上げるが、サラに6秒差でそのまま4位でゴールする(ほか日本選手では瀬古利彦が9位、新宅永灯至は17位に終わった)。 徳重聡: マラソングランドチャンピオンシップ 東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ(2019年9月11日) - 主演・瀬古利彦 役 サンプラザ中野くん: 2018年、昭和63年に発売し大ヒットしたRunnerを原曲から30年の節目となる平成30年に編曲し新録したRunner(平成30年Ver.) のソロアルバム発売とともにマラソン界の瀬古利彦氏、増田明美氏、飯塚翔太選手がサンプラザ中野くんYouTubeチャンネルのMVに出演している。 ジュマ=イカンガー: 1983年12月4日の福岡国際マラソンで瀬古利彦とゴール前の最終コーナーまで競り合い、優勝は逃したものの、1位の瀬古とわずか3秒差の2時間8分55秒という好タイムで2位となって当時の世界最高記録保持者・アメリカのサラザールらに勝利し一気に注目された。 宇佐美彰朗: 日本でオリンピックマラソン代表に3大会連続で選ばれて出場したのは、宇佐美彰朗と君原健二だけである(日本が不参加となったモスクワオリンピック代表を含めると宗茂、瀬古利彦も3大会連続)。また、3回の代表選考レースにすべて優勝して代表権を獲得したのは宇佐美だけ(モスクワオリンピックを含むと瀬古利彦も3大会連続)である。国内で最後のレースとなった京都マラソン(旧)は瀬古利彦のマラソンデビューでもあった。 武井隆次: 引退後、ヱスビー食品に残りコーチをしていたが、瀬古利彦の異動に伴い後継指名を受け監督に就任。 神野大地: 第74回福岡国際マラソンで記録なしで終わった2日後の2020年12月8日、神野がプロデュースするスポーツブランド「RETO PROJECT」の記者発表会に先立ち、日本陸連の瀬古利彦・マラソン強化戦略プロジェクトリーダーと二人でトークショーに出演。 ダグラス=ワキウリ: 1980年代前半、世界の男子マラソンをリードしていた瀬古利彦に憧れて、19歳の時にヱスビー食品陸上部に入部し、名伯楽・中村清監督の指導により、生来の素質を開花させていった。 中山竹通: 1980年代後半に瀬古利彦や宗茂、宗猛兄弟、新宅雅也らと、1990年代前半には谷口浩美、森下広一らと日本マラソン界をリードした。2時間10分を切るサブテン5回は川内優輝、高岡寿成に続き、瀬古利彦、佐藤敦之、藤原新と並び日本歴代3位タイ、2時間9分を切るレース4回は高岡と並び日本最多タイ(2014年現在)。 渡辺康幸: 瀬古利彦は渡辺を世界へと飛躍させた人物である。 国近友昭: 2000年にNTT西日本からエスビー食品に移籍、瀬古利彦監督の指導の下となる。 渡辺康幸: 渡辺は10以上の大学・実業団からスカウトを受けたが、コーチを務める瀬古利彦の勧誘を受け、武井隆次・櫛部静二・花田勝彦ら強い選手と競争できる環境を求めて早稲田大学人間科学部に進学した。 江戸龍太郎: 瀬古利彦で有名な陸上部も支援した。 今橋かつよ: ファミリーヒストリー「瀬古利彦」壮年期の母親役(2019年10月、NHK) 中村清: 故に卒業後は実業団(ヱスビー食品)で競技を続けることになっていた瀬古利彦は、伴走車の中村から『都の西北』を歌ってもらっていない。 |
瀬古利彦の情報まとめ
瀬古 利彦(せこ としひこ)さんの誕生日は1956年7月15日です。三重出身の陸上競技
マラソンのようです。
兄弟、引退、卒業、結婚、趣味、事故、テレビ、ドラマ、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。亡くなられているようです。
瀬古利彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)瀬古 利彦(せこ としひこ、1956年〈昭和31年〉7月15日 - )は、三重県桑名市出身の元陸上競技選手、陸上競技指導者。 現役時代の専門は長距離走・マラソン(ただしキャリア初期は中距離走)で、1970年代後半から1980年代にかけて宗茂・宗猛兄弟、伊藤国光、中山竹通、新宅雅也らとともに日本の男子長距離走のトップランナーだった。一時は10000m・20000m・30000m・マラソンの日本記録を保持し、30000mについては世界記録保持者でもあった(20000mと30000mは2024年時点でも日本記録保持)。1980年モスクワオリンピック(日本は不参加)から1988年ソウルオリンピックまで3大会連続でオリンピックのマラソン日本代表に選ばれた。 現役引退後はヱスビー食品スポーツ推進局局長を経て、2013年4月よりDeNAランニングクラブ総監督を務め、2019年6月より同エグゼクティブアドバイザー。 2016年11月より、日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダー(理事兼任)に就任している。 桑名市立久米小学校時代は遊びで野球をしていた。漫画『巨人の星』を読んで野球に関心を持ち、星飛雄馬が堤防を走り込む場面を見て、走る訓練を重ねる。桑名市立明正中学校時代は野球部に入り、2年時にエース投手として桑名市の大会で優勝、県大会に進む。3年時は地区大会決勝で敗れ、肩の故障もあり野球の道を断念する。東海地区の野球の強豪校からの誘いもあったことなどもあり、高校球児として甲子園を目指すつもりでいた。 野球部の練習と並行して、個人練習でランニングを続け、1年生時に校内の5キロ走大会で優勝したことから、陸上部より懇願されて大会に出るようになる。市の陸上大会の2000mで優勝、続く県大会でも当時の三重県記録で優勝したことがきっかけで陸上競技に魅力を感じるようになり、陸上競技の強豪校・三重県立四日市工業高等学校への入学を決意する。入学直後から中距離走で頭角を現し、高校1年で山形インターハイ800mに出場し、3位に入賞。高校2年生時には地元・三重インターハイの800m、1500mで優勝。千葉国体1500m、5000mで優勝。3年生時には福岡インターハイにて800m・1500m・5000mの中長距離三冠に挑戦したが、5000mで中村孝生(前橋工)のロングスパートに敗れ2位に終わり、2年生時同様に2冠に終わる。しかし、800mで予選・準決勝・決勝の3レース、1500m、5000mは予選・決勝の2レースと4日間で合計15400mを走破しての2種目の優勝と1種目の準優勝の成績に対し、日本中長距離史上、特筆される才能を持った好選手と評価されていた。茨城国体では、前年度に続き2年連続で1500m、5000mの二冠を達成。 全国高等学校駅伝競走大会では3年連続で「花の1区」(10km)に出場し、2年生時には区間賞を獲得した(ただし、この年の第1区では誘導員のミスでスタート後のトラック周回が1周少ない9.6kmとなり、記録は「参考記録」扱いとなった)。正式な区間記録をねらった3年生時は、途中で腹痛に見舞われて後退し、2年連続の区間賞獲得もならなかった。 大学進学に当たり関東の学校の誘いも多かった。箱根駅伝最多優勝・最多出場を誇る中央大学への入学が決まりかけたが、早稲田大学OBからの勧誘で、(瀬古の父は中央大学へ頭を下げ)早稲田大学の一般入試(運動部員に対する特別優遇の推薦入試等は当時無かった)を受験した。しかし合格に至らなかったため、高校を卒業後、南カリフォルニア大学へ在籍しながらの「浪人生活」を送り、翌年早稲田大学教育学部に合格した。 1976年入学当初、浪人中の不摂生もあって約8kg増量していた。早稲田大学競走部への入部直後、中村清監督から「君、マラソンをやりなさい」と勧められ、中距離からマラソンへ転向。以後、恩師中村と二人三脚で鍛錬の日々を過ごすことになる。箱根駅伝では1年次から4年連続で「花の2区」を走り、3、4年次で区間新を記録した。 1年生の1977年2月、京都マラソン(旧)で初マラソン。10位となり新人賞を受賞。2年生となった同年12月の福岡国際マラソンでは日本人最高の5位入賞を果たし、一躍次代のホープと目される。3年生の1978年の同大会で初優勝を果たす(日本人としての優勝も1970年の宇佐美彰朗以来8年ぶり)。1979年4月、海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場、ビル・ロジャース(英語版)(アメリカ合衆国)に次いで2位となる。この時の記録2時間10分12秒は日本学生新記録であった。同年12月の福岡国際で宗兄弟との接戦を制して連覇、その結果1980年にはモスクワオリンピックの代表に選出された。 オリンピック開催年の1980年、大学を卒業後争奪戦の末、億単位の支度金を用意した大企業もあった中で中村監督とともにヱスビー食品に入社、オリンピックでの勝利を目指したが、ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はならなかった。同年12月の福岡国際ではモスクワ五輪金メダリストのワルデマール・チェルピンスキー(当時東ドイツ)を破り、自身初の「サブテン」となる2時間9分45秒の記録で3連覇を飾る。なお現役時代エスビーからの給与は他の選手同様月給は手取り25万ほどであった。 1981年2月の青梅マラソンに参加。仮想ボストンとしてオープン参加。モスクワ五輪銀メダリストのゲラルド・ネイブール(オランダ)に圧勝。このとき記録した1時間29分32秒は、2019年にチェボティビン・エゼキエル(ケニア)に破られるまで、38年間大会記録であった。3月22日にはニュージーランド・クライストチャーチでの記録会で、1レースで25000m(1時間13分55秒8)と30000m(1時間29分18秒8)の世界記録を同時に樹立した。この両記録は2011年にモーゼス・モソップに破られるまで、国際陸上競技連盟(IAAF)が公認するトラック種目として日本人が唯一保持する世界記録だった。その直後、4月のボストンマラソンでは日本人として7人目の優勝を飾る。この時の優勝記録2時間9分26秒は前年のビル・ロジャースの優勝記録を1秒上回る大会新記録であった。しかし、このあとトラック欧州遠征中に脚を故障、1年以上にわたってマラソンのレースから遠ざかることになる。この間、トレーニングと治療の両立という厳しい選択の中で中村と瀬古は様々な対応を試行し、最終的には鍼灸師による定期的な療養により克服した。中村はこの故障を「神様の与えてくれた試練」と表現した。 大学から社会人にかけての独身時代は、中村の自宅に隣接するアパートに下宿していた。その当時の生活管理は厳しく、用便の際に息抜きに漫画雑誌でも読もうかと思ったところ、中村が便所のドアを開け「瀬古、ウンチの具合はどうだ」と尋ねられたこともあったという。 早稲田大学時代より、東京青山の明治神宮外苑ランニングコース(全長1.3kmの楕円形周回路)で、中村の指導下で瀬古が練習を行っており、のちに「瀬古ロード」とも呼ばれるようになった。 1983年2月の東京国際マラソンで1年10ヶ月ぶりにフルマラソンに出場。ロドルフォ・ゴメス(メキシコ)や宗猛を相手に40km手前の鮮やかなスパートで競り勝ち、日本人初の2時間8分台となる2時間8分38秒の日本最高記録で世界歴代3位(当時)の好記録で優勝し、名実ともに日本のトップランナーとして復帰を遂げる。この優勝により、瀬古は翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダル候補として注目を浴びる。同年12月の福岡国際マラソンでも優勝し、ロサンゼルスオリンピックの代表に選出された。 その当時の瀬古のレース運びは、前には出ずに先頭集団の中で位置を窺い、終盤の爆発的なスパートにより勝利するというものであり、先行逃げ切り形のレースはやらなかった。これは、中村の研究と分析による絶妙のコンディショニング、中距離出身で「ラスト400mでは世界に敵なし」とまで言われた終盤のスパート力、スパート地点を見極める抜群のレース勘が一体になって初めて可能なものであった。宗兄弟とのトラック勝負に勝った1979年の福岡国際、同じくジュマ・イカンガー(タンザニア)をトラックのラスト100mで抜き去った1983年の福岡国際はその典型とされる。また、この2つのレースがいずれもオリンピックの代表選考レースであったことからもわかるように、大レースに強いことも大きな特徴とされ、ロサンゼルスオリンピックでの金メダルの期待を高めていた。 しかし、迎えた1984年8月12日(日本時間13日)のオリンピック本番では、予定通り先頭集団につけていたものの、35km手前でずるずると後退し始め、優勝したカルロス・ロペスから5分近く遅れた14位という結果に終わる(日本勢最高位は宗猛の4位)。瀬古自身は20kmまでは体が軽くいけると思ったが、25kmぐらいから足にきた感じになり、35kmから40kmで集団のペースが一気に上がりついていけなくなった、と述べている。 本人の著書ではロス五輪年の1984年は年始めから常に体の倦怠感に悩まされ、ぐったりした体に鞭を打ちながらハードな練習を継続していた。疲労が抜けないのなら休めばよかったと語ってもいる。12月の福岡国際で優勝してから抜く時期を作らないで、本練習に入っており、その調子を8月まで続けようとしたこと自体に無理があったようだ。7月の北海道合宿中には中村監督から「癌になった」と打ち明けられ、休ませてほしいと頼むタイミングを失ってしまった。本番2週間前にはストレスから血尿が出てしまい、ドーピング回避のため漢方薬を飲んだが、下痢による脱水症状に悩まされた。 瀬古陣営はロサンゼルスの酷暑対策として、グアムやニュージーランドで合宿を続けていた。瀬古は本番直前の8月9日まで渡米を遅らせ、東京で最終調整を行ったが、むしろ東京よりもロサンゼルスの方が涼しく感じ、「こんなことならもっと早くロスに来ておきゃよかった」と思ったという。なお、中村は女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いのため、瀬古を東京に残して渡米していた。 瀬古は初めて経験する夏マラソンにいつもの経験とリズムがつかめなかったのが最大の敗因と見ている。練習では新しいナイロン製のものを使用していたが、試合直前にアシックスの三村仁司に申し出て「今まで負けたことのない布の靴」(比べて50g以上重い210g)で本番に臨んだという。 結果として1979年の福岡国際以来続いた連勝記録、1977年の福岡国際以来の「日本人でトップ」の記録もここで途切れた。 ロサンゼルスオリンピック後、お見合いをし、中村の反対はあったが結婚に踏み切る。しかし、1985年4月に中山竹通がワールドカップマラソンで瀬古の持つ日本最高記録を更新、直後の5月に中村が趣味の川釣り中に急逝し、瀬古を取り巻く環境は激変する。 瀬古はオリンピック後のマラソン出場については慎重な姿勢を続け、1986年のロンドンマラソンで1年8ヶ月ぶりにフルマラソンを走り優勝する。同年10月のシカゴマラソンでは85年広島、87年ソウルのワールドカップマラソンに連覇することになるアーメド・サラ(ジブチ)を振り切り2時間8分27秒の自己ベスト(当時日本歴代4位、世界歴代10位)で優勝。 翌1987年4月、ボストンマラソンに3度目の出場。このレースには前年優勝で2時間7分51秒の大会記録保持者ロバート・ド・キャステラ(オーストラリア)、世界歴代2位2時間7分13秒の自己ベストを持つ元世界記録保持者スティーブ・ジョーンズ(英国)、ロス五輪男子マラソン銀メダリストでトラック競技でもスピードランナーのジョン・トレーシー(アイルランド)、ロス五輪6位で2時間8分10秒の自己ベストを持つジュマ・イカンガーらも出場し、豪華な顔ぶれとなったことから「世界一決定レース」などと謳われた。レースは強豪ランナー同士の牽制によりスローな展開となるも、心臓破りの丘で瀬古が抜け出し2度目の優勝を果たす。当時世界最強とみなされていたジョーンズは「瀬古はグレート。世界ナンバーワンだ。」とコメントした。 これら3つのレースの優勝で、失意のロサンゼルスの惨敗から立ち直った。とはいえ、ロス五輪以降は、従来のレーススタイルを捨てて、中盤に機を見てスパートして最後まで逃げ切るようなレース運びをするようになり、中村がいた頃とは変化もうかがえた。また、出場したレースはいずれも日本陸上競技連盟が解禁したばかりの「賞金レース」で、瀬古はその出場第一号であった。1986年10月のアジア競技大会のマラソンに出場した中山竹通は、遠回しな表現ながら瀬古に対する優遇ではないかと疑問を呈した。これがその後のソウルオリンピック代表選考を巡る紛糾の一端となったことも否定できない。結果として1987年のボストンマラソンが瀬古の競技人生として最後の輝きとなった。 引退後はヱスビー食品陸上部監督に就任したのち、1990年より4年間は母校早稲田大学競走部のコーチを兼任。武井隆次・櫛部静二・花田勝彦・渡辺康幸らを擁し第69回箱根駅伝総合優勝を果たした他、全日本大学駅伝4連覇など母校の躍進に貢献した。2006年3月限りでヱスビー食品陸上部監督を退任、同年4月1日付で同社スポーツ推進局長に就任した。後任監督には武井隆次コーチが昇格し、中村孝生コーチが部長となった。選手育成においては、1990年の北海道合宿中に金井豊・谷口伴之の有力選手を交通事故で失う悲劇にも見舞われ(エスビー食品陸上競技部員交通死亡事故)、現役時代ライバル関係にあった宗茂らの後塵を拝し続けるなど順風満帆とはいかなかったが、2004年のアテネオリンピックに国近友昭をマラソン代表として送り出した。 2005年3月より日本陸連役員も務めた。また駅伝やマラソン中継の解説者を務めることが多くなっている。2005年の東京国際女子マラソンで優勝した高橋尚子が事前に怪我をしていることを公表したことについて苦言を呈していた。その後も2006年からは名古屋国際女子マラソンでも、元男子選手では珍しく女子レースでのメイン解説を行っている。 2007年12月より東京都の教育委員に任命された。任期は2011年まで。米長邦雄の後任。この際、大原正行教育長に「教育委員はキャバクラに行っちゃダメなの?」と尋ねて物議を醸した。 2010年1月26日、東京マラソンに向けたトークショーに現役時代のライバルだった中山竹通とともに出演。両者は現役時代にはできなかったという「和解の握手」を交わした。 2011年12月21日、東京都教育委員に再任。 2012年8月31日、ヱスビー食品陸上部の廃部の記者会見を行った。 2013年3月末、東京都教育委員を辞任。4月1日よりDeNAランニングクラブ総監督となる。 2016年11月より、日本陸連強化委員会が新たに2020年東京オリンピックに向けて設立した、マラソン強化戦略プロジェクトリーダーに就任している。 前記の陸連プロジェクトリーダーの業務が増えてチームの指導が困難になったという理由で、2019年6月1日付でDeNAランニングクラブ総監督を退任し、エグゼクティブアドバイザーに就任。 2023年6月より、日本陸連副会長を退任し、評議員に就任。 フルマラソンの戦績は15戦10勝。勝てなかったのは最初の2回、79年のボストン、そして2度のオリンピックだけだった。ピーク時の強さは世界でも認められるところであり、事実ミュンヘンオリンピックの金メダリストで福岡国際マラソンにも4度勝ったフランク・ショーター(アメリカ合衆国)は、「マラソンランナーのナンバーワンはアベベ・ビキラ(エチオピア)、次に瀬古。僕はナンバースリーだろう」と語っている。 また数多くのランナーから世界一の称号を称えられたコメントとして80年福岡国際後、五輪2連覇のワルデマール・チェルピンスキー(当時東ドイツ)は「瀬古には勝てない。たいしたもんだ。見事なレース。」、81年ボストン後、ビル・ロジャースは「彼は世界No.1のランナー。そう遅れずにゴールできて幸せだ。」、83年福岡国際後のアルベルト・サラザール(アメリカ合衆国)は「瀬古は強くてタフだ。特に作戦がうまい」、87年ボストン後にはスティーブ・ジョーンズが「瀬古 イズ スーパー。彼は世界一だ。」と公式コメントを残している。 1979年ボストンマラソンでビル・ロジャースと先頭争いを展開。「400mを49秒で走るセコだからラストでは負けない。」と監督の中村清が説明。大会役員車の中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。(79年6月号陸上競技マガジンより)中距離のスピードをマラソンに生かしたランナーの代表格であった。 戦後長く日本のマラソン界を見つめてきた日本陸連理事・高橋進は以前、陸上競技マガジンの中で瀬古について触れ、「彼にとって悲運だったのは、絶好調だったモスクワオリンピックをボイコットで出場できなかったことだ。調整ミスだった次のロサンゼルスオリンピックまではともかく、もうピークを過ぎていたソウルオリンピックまで(出場させたの)は酷だった」と語っている。このことからも彼がメダルの可能性が最も高かったモスクワオリンピックのボイコットが、いかに彼のその後にとっても痛手であったかを物語っている。 現役時代は寡黙な風貌とストイックな練習姿勢から「走る修行僧」と呼ばれもしたが、もともと冗談好きでおしゃべりな明るい人柄であり、テレビのバラエティ番組ではそうした素顔を披露している。 サッカー元日本代表でFC今治運営会社オーナーである岡田武史とは同級生にあたり、共に一浪して早稲田大学へ入学した。2021年1月23日、1月30日に放送された「CROSSOVER ~こころを動かすスポーツ~」(BSフジ)で共演を果たしている。 落語家の六代目三遊亭円楽(前名:三遊亭楽太郎)と容貌が似ていた。瀬古が金メダル候補だった1984年のロス五輪の直前には、楽太郎(当時)が瀬古の格好でロサンゼルスを取材するテレビ番組があった。それから20年後に、弟子の国近友昭がアテネ五輪の代表に決まったときの記者会見で、瀬古は「楽太郎さんのように冗談を言ってリラックスさせたい」と述べた。その後も長く交流があり、2010年3月の六代目円楽襲名披露パーティーにもサプライズゲストとして出演した。2022年9月に円楽が死去した際には「ビールを呑みながら冗談を言い合える日が来るものと信じ、楽しみにしていました」「とても無念でなりません」とコメントで悼んだ他、同年12月2日に開かれたお別れ会にも参列し、思い出を語っている。 息子が4人いるが、陸上競技関係者は三男だけである。 長男は誕生時に「昴」の漢字を人名に使用しようとしたところ、当時は人名用漢字に含まれていなかったため受理されず、似た人名用漢字の「昂」で代用した。数年後の1990年、人名用漢字に「昴」が追加されたため、昴に変更した。25歳の時に国際交流NGO「ピースボート」のスタッフになる。昴はホジキンリンパ腫を2012年から患い、2021年4月13日に34歳で死去。父への最後の言葉は「お父さん、大好きだよ」。2021年には闘病生活を綴った自費出版本『がんマラソンのトップランナー』(文藝春秋企画出版)を発刊。 次男は2020年1月に元中日ドラゴンズ投手の山本昌の長女と結婚。 三男は東海大浦安高時代に800mでインターハイに出場し東海大に進んだが、伸び悩み2年冬にマネージャーに転向し駅伝主務を務めている。 四男は高校で一度陸上部に入ったが辞めてアメリカンフットボールを始めたという。 5000m:13分24秒29(1986年7月11日、プジョータルボットゲームズ、当時日本記録) 10000m:27分42秒17(1985年7月2日 DNガラン、当時日本記録) 15000m:43分38秒2 (1983年9月24日、日本記録) 20000m:57分48秒7 (1985年5月11日 東日本実業団陸上競技選手権大会、日本記録) 25000m:1時間13分55秒8 (1981年3月22日 クライストチャーチ記録会、日本記録) 30000m:1時間29分18秒8(1981年3月22日 クライストチャーチ記録会、日本記録) 自己最高記録…2時間8分27秒(1986年10月26日) ※(マラソン通算成績:15戦10勝)1978年7月8日にイギリスのローカルマラソン・ミルトンケイネスマラソンに参加。調整と練習の一環で出場した。このときの68位・2時間53分17秒は瀬古自身の競技歴には記載していない。国際陸連が発行する資料ではこのときの記録は瀬古のキャリアに記載されているという。 テレビドラマ
バラエティー
CM
プーマジャパン(2021年) サッポロビール(2014年) NTTドコモ(2001年) 『永遠のランナー 瀬古利彦』(小田桐誠との共著、世界文化社、1989/5、ISBN 978-4418895083) 『瀬古利彦 マラソンの真髄 世界をつかんだ男の“走りの哲学”』(ベースボールマガジン社、2006/12、ISBN 978-4583039466) 『すべてのマラソンランナーに伝えたいこと』(実業之日本社、2012/2、ISBN 978-4408453729) 石井信『瀬古利彦の42.195km ボクには走ることしかない』講談社、1983年11月、ISBN 978-4062005432) 木村幸治『瀬古利彦 '84ロスへの激走』徳間書店、1984年1月、ISBN 978-4195529348 木村幸治『マラソンは芸術です 瀬古利彦を育てた男の真実』新潮社、1984年7月、ISBN 978-4103537014 別所功『中村清と瀬古利彦の闘走!』日本文化出版、1984年7月、ISBN 978-4931033450 宮嶋泰子『走れ瀬古利彦!』東京出版、1984年8月1日。NDLJP:12172788。 木村幸治『逆転の軌跡 ふたりのランナー 不世出の二人のマラソンランナー中山竹通VS瀬古利彦』講談社、1988年9月、ISBN 978-4062039420 瀬古と中山をこよなく愛する記者グループ『瀬古サンのタメ息、中山クンのハナ息』ブックマン社、1988年9月、ISBN 978-4893080943 黒木亮『冬の喝采』講談社、2008年10月、ISBN 978-4062150415)
^ “瀬古利彦氏が桑名市スポーツ親善大使に!”. ニッポン旅マガジン. プレスマンユニオン. 2018年4月15日閲覧。 ^ 日本記録 - 日本陸上競技連盟(2024年8月20日閲覧) ^ 瀬古氏が男女マラソン統括 日本陸連、東京五輪へ新強化体制 ^ 「時代の証言者 心で走る 瀬古利彦3」読売新聞2024年8月28日付朝刊教育・投書面 ^ しくじり先生 俺みたいになるな!!3時間スペシャル - TVでた蔵 ^ 「時代の証言者 心で走る 瀬古利彦4」読売新聞2024年8月29日付朝刊教育・投書面 ^ 『瀬古サンのタメ息、中山クンのハナ息』146ページ ^ 男子第24回大会の記事 - 全国高等学校駅伝競走大会ウェブサイト ^ この時に優勝したのは後に1500mで長らく日本記録を保持した石井隆士。 ^ 『瀬古サンのタメ息、中山クンのハナ息』159-162ページ ^ 男子25回大会の記事 - 全国高等学校駅伝競走大会ウェブサイト ^ 『瀬古サンのタメ息、中山クンのハナ息』49ページ ^ 全国都道府県対抗女子駅伝競走大会第10回記念大会企画委員会/企画編集『美しい日々 熱走のドラマ 全国女子駅伝10周年記念誌』京都新聞社、1992年、134頁。 ^ 妻たちの闘い : ドキュメント ^ “瀬古の世界記録破られる=男子3万メートル、30年ぶり―陸上”. 時事通信. (2011年6月4日). http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2011060400208 2011年6月5日閲覧。 ^ ロイター=共同 (2011年6月4日). “瀬古の3万m記録破られる/30年ぶり更新”. 四国新聞社. 2020年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月7日閲覧。 ^ 増田明美『おしゃべりなランナー』リヨン社、1997年、p202 - 204 ^ 谷中博史 (2011年1月19日). “皇居を逃げ出したランナーが増加中、神宮外苑ガイド”. 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鈴木博美 98 清水宏保 99 篠原信一 00 高橋尚子 01 田村亮子 02–03 北島康介 04 野村忠宏 05 冨田洋之 06 荒川静香 07 吉田沙保里 08 北島康介 09 内村航平 10 吉田沙保里 11 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 12 ロンドン五輪レスリング男女日本代表選手団 13 内村航平 14 羽生結弦 15–16 伊調馨 17 桐生祥秀 18 羽生結弦 19 ラグビー日本代表 20–21 大野将平 22 髙木美帆 表 話 編 歴 13 金栗四三 14 金栗四三 15 金栗四三 16 加藤富之助 17 秋葉祐之 18 秋葉祐之 19 三浦弥平 20 後藤長一 21 下村広次 22 西田長次郎 23 松岡正夫 25 丸三郎 26 山内政夫 27 高橋清二 28 山田兼松 29 楠好蔵 30 高橋清二 31 塩飽玉男 32 権泰夏 33 楠好蔵 34 中田勇 35 孫基禎 36 鈴木勇 37 柳長春 38 樺沢繁一 39 呉東祐 40 竹中正一郎 42 秋葉安太 46 古賀新三 47 古賀新三 48 渡辺俊一 49 橋本博 50 野田義一 51 篠崎清 52 橋本博 53 廣島庫夫 54 高橋芳勝 55 ヴェイッコ・カルヴォーネン(英語版) 56 山田敬蔵 57 堀之内澄雄 58 堀之内澄雄 59 越川泰男 60 貞永信義 61 アベベ・ビキラ 62 寺沢徹 63 ジェフリー・ジュリアン(英語版) 64 君原健二 65 廣島日出国 66 御船芳郎 67 デレク・クレイトン 68 宇佐美彰朗 69 ジェロム・ドレイトン(英語版) 70 ビル・アドコックス(英語版) 71 フランク・ショーター 72 宇佐美彰朗 73 フランク・ショーター 74 宇佐美彰朗 75 ジェロム・ドレイトン(英語版) 76 宇佐美彰朗 77 ウイリアム・ロジャース(英語版) 78 宗猛 80 弓削裕 81 ロバート・ド・キャステラ 82 水久保美千男 83 瀬古利彦 84 岩瀬哲治 85 新宅雅也 86 渋谷俊浩 87 中山竹通 88 瀬古利彦 89 マヌエル・マティアス 90 エディ・エルブイク(英語版) 91 森田修一 92 マイク・オレイリー 93 ディオニシオ・セロン(英語版) 94 鈴木賢一 95 大家正喜 96 田幸寛史 97 早田俊幸 98 小島宗幸 99 三木弘 00 藤田敦史(2:06:51)* 01 油谷繁 02 間野敏男 03 国近友昭 04 小島忠幸 05 高岡寿成 06 奥谷亘 07 久保田満 08 藤原新 09 下森直 10 佐藤智之 11 川内優輝 12 堀端宏行 13 藤原正和 14 松村康平 15 佐々木悟 16 北島寿典 17 井上大仁 18 服部勇馬 19 中村匠吾 20 作田直也 21 鈴木健吾 22 其田健也 23 小山直城 *は大会記録 表 話 編 歴 1947 和田敏一 48 山田三郎 49 古賀新三 50 小柳舜治 51 拝郷弘美 52 西田勝雄 53 濱村秀雄 54 レイナルド・ゴルノ 55 ヴェイッコ・カルボネン 56 山田敬蔵 57 廣島庫夫 58 貞永信義 59 廣島庫夫 60 バリー・マギー 61 パベル・カントレク 62 寺沢徹 63 ジェフリー・ジュリアン 64 寺沢徹 65 廣島日出国 66 マイク・ライアン 67 デレク・クレイトン 68 ビル・アドコックス 69 ジェロム・ドレイトン 70 宇佐美彰朗 71 フランク・ショーター 72 フランク・ショーター 73 フランク・ショーター 74 フランク・ショーター 75 ジェロム・ドレイトン 76 ジェロム・ドレイトン 77 ビル・ロジャース 78 瀬古利彦 79 瀬古利彦 80 瀬古利彦 81 ロバート・ド・キャステラ 82 ポール・バリンジャー 83 瀬古利彦 84 中山竹通 85 新宅雅也 86 ジュマ・イカンガー 87 中山竹通 88 渋谷俊浩 89 マヌエル・マティアス 90 ベライン・デンシモ 91 森田修一 92 テナ・ネゲレ 93 ディオニシオ・セロン 94 ボアイ・アコナイ 95 ルイス・アントニオ・ドスサントス 96 李鳳柱 97 ジョサイア・チュグワネ 98 ジャクソン・カビガ 99 ゲザハン・アベラ 2000 藤田敦史 01 ゲザハン・アベラ 02 ゲザハン・アベラ 03 国近友昭 04 尾方剛 05 ドミトロ・バラノフスキー 06 ハイレ・ゲブレセラシェ 07 サムエル・ワンジル 08 ツェガエ・ケベデ 09 ツェガエ・ケベデ 10 ジャウアド・ガリブ 11 ジョセファト・ダビリ 12 ジョセフ・ギタウ 13 マーティン・マサシ 14 パトリック・マカウ 15 パトリック・マカウ 16 イエマネ・ツェゲイ 17 ソンドレ・ノールスタッド・モーエン 18 服部勇馬 19 藤本拓 20 吉田祐也 21 マイケル・ギザエ 22 マル・テフェリ 23 マイケル・ギザエ 表 話 編 歴 1 古賀新三 2 古賀新三 3 古賀新三 4 山田三郎 5 野田義一 6 浅井正 7 内川義高 8 宇和博 9 濱村秀雄 10 廣島庫夫 11 川島義明 12 廣島庫夫 13 中尾隆行 14 廣島庫夫 15 貞永信義 16 アベベ・ビキラ 17 長田正幸 18 君原健二 19 君原健二 20 アベベ・ビキラ 21 御船芳郎 22 御船芳郎 23 宇佐美彰朗 24 松原一夫 25 ビル・アドコックス 26 采谷義秋 27 宇佐美彰朗 28 フランク・ショーター 29 宇佐美彰朗 30 宇佐美彰朗 31 宇佐美彰朗 32 カーレル・リスモン 33 宗猛 34 宗茂 35 弓削裕 36 松尾正雄 37 水久保美千男 38 川口孝志郎 39 岩瀬哲治 40 阿部文明 41 渋谷俊浩 42 阿部文明 43 瀬古利彦 44 小指徹 45 E・エルブイク 46 シモン・ムラシャニ 47 マイク・オレイリー 48 マイク・オレイリー 49 鈴木賢一 50 中村祐二 51 ヨキアム・ピネイロ 52 マルティン・フィス 53 小島宗幸 54 マルティン・フィス 55 マルティン・フィス 56 アントニオ・ペーニャ 57 武井隆次 58 ジャフェット・コスゲイ 59 ホセ・リオス 60 ジョセフ・リリ 61 ホセ・リオス 62 サムソン・ラマダニ 63 ムバラク・ハッサン・シャミ 64 ポール・テルガト 65 ウィルソン・キプサング 66 ジョセフ・ギタウ 67 サムエル・ドゥング 68 ビンセント・キプルト 69 バス・ウォルク 70 サムエル・ドゥング 71 ルーカス・ロティッチ 72 エゼキエル・キプトー・チェビー 73 マチャリア・ディラング 74 サラエディーン・ブナスル 75 エバンス・チェベト 76 鈴木健吾 福岡 東京 表 話 編 歴 50 林博幸 51 久保正礼 52 藤井忠彦 53 岩本松雄 54 山本正澄 55 南館正行 56 南館正行 57 渡辺国昭 58 渡辺国昭 59 岩下察男 60 若松軍蔵 61 若松軍蔵 62 礒端克明 63 藤田国夫 64 中川衞 65 吉武鉄翁 66 伊藤保 67 頭島幸司 68 犬塚時吉 69 古賀丈雄 70 服部誠 71 福田浩二 72 伊藤国光 73 瀬古利彦 74 小山英士 75 西村義弘 76 吉冨悟 77 米村雅幸 78 工藤一良 79 坂口泰 80 西本一也 81 大庭幸治 82 工藤康弘 83 平山征志 84 池田克美 85 仲村明 86 吉田祐嗣 87 巽博和 88 秋山武史 89 武井隆次 90 渡辺康幸 91 渡辺康幸 92 小林雅幸 93 ダニエル・ジェンガ 94 ダニエル・ジェンガ 95 ジュリアス・ギタヒ (27:48)* 96 ジュリアス・ギタヒ 97 ジェームス・ワイナイナ 98 ジェームス・ワイナイナ 99 ジェームス・ワイナイナ 00 サムエル・カビル 01 サムエル・カビル 02 サムエル・ワンジル 03 サムエル・ワンジル 04 ジョン・カリウキ 05 ジョセフ・ギタウ 06 ミカ・ジェル 07 ビダン・カロキ 08 上野渉 09 大迫傑 10 西池和人 11 久保田和真 12 西山雄介 13 廣末卓 14 下史典 15 關颯人 16 名取燎太 17 中谷雄飛 18 白鳥哲汰 19 佐藤一世 (28:48)** 20 鶴川正也 21 森下翔太 22 長嶋幸宝 23 折田壮太 (28:48)** *は現行区間記録 **は日本人最高記録 1区 2区 3区 4区 5区 6区 7区 表 話 編 歴 20 下村広次* 21 高見将三 22 三村二郎 23 細川曽一 24 岡田英夫 25 前田喜太平 26 中川英男* 27 窪田正克* 28 渋井福太郎 29 間島信貞* 30 岩本哲一郎 31 田中定次郎* 32 今岡悟郎* 33 中井賢二* 34 鈴木勇* 35 星野順 36 栗本仁 37 大森伊三治* 38 鈴木勇* 39 高瀬敏夫 40 勝亦清政 41 中止 42 中止 43 徳山英雄 44 中止 45 中止 46 中止 47 浜部憲一 48 加藤勝明 49 相沢末男 50 菊地由紀男 51 南木慎吾* 52 南木慎吾 53 菊池健吉* 54 菊地直志 55 桜谷嘉彦* 56 岸国雄* 57 岸国雄* 58 古閑俊明 59 二宮隆明* 60 武内修一郎* 61 船井照夫* 62 岩下察男* 63 岩下察男* 64 高口徹* 65 土谷和夫 66 澤木啓祐* 67 深田清次 68 井上俊 69 井上俊 70 高野義治* 71 蜂谷英明* 72 小沢欽一* 73 古賀丈雄 74 服部誠 75 服部誠 76 荒野吉之 77 山本吉光 78 成田道彦 79 瀬古利彦* 80 瀬古利彦* 81 阿部文明 82 大塚正美 83 大塚正美* 84 米重修一 85 渋谷俊浩 86 大八木弘明 87 只隈伸也 88 楜沢俊明 89 ジョセフ・オツオリ 90 ジョセフ・オツオリ 91 ジョセフ・オツオリ 92 本川一美 93 ステファン・マヤカ 94 ステファン・マヤカ* 95 渡辺康幸* 96 渡辺康幸 97 中村祐二 98 梅木蔵雄 99 三代直樹* 00 坪田智夫 01 ジョン・カーニー 02 オンベチェ・モカンバ/原田正彦 03 藤原正和 04 三行幸一 05 オンベチェ・モカンバ 06 メクボ・ジョブ・モグス 07 竹澤健介 08 メクボ・ジョブ・モグス* 09 メクボ・ジョブ・モグス* 10 ギタウ・ダニエル 11 村澤明伸 12 出岐雄大 13 ガンドゥ・ベンジャミン 14 高田康暉 15 服部勇馬 16 服部勇馬 17 鈴木健吾 18 森田歩希/ドミニク・ニャイロ 19 パトリック・ワンブィ 20 相澤晃* 21 イエゴン・ヴィンセント(1:05:49)** 22 田澤廉 23 吉居大和 23 黒田朝日 *は区間新、**は現行区間記録 1区 2区 3区 4区 5区 6区 7区 8区 9区 10区 表 話 編 歴 1957 三村清登 58 高橋進 59 内川義高 60 三村清登※2月開催 60 佐藤光信※12月開催 1961 中尾隆行 62 寺澤徹 63 中尾隆行 64 寺澤徹 65 円谷幸吉 1966 稲垣清市 67 佐々木精一郎 68 佐々木精一郎 69 黒木章 1970 北山吉信 71 橘昭広 72 黒木章 1973 宗猛 74 酒見勝喜 75 菊地武彦 76 高橋正行 77 世利重樹 78 児玉泰介 79 江内谷良一 80 江内谷良一 81 弓削裕 82 上地修二 83 宗猛 84 中尾公治 85 谷口伴之 1986 瀬古利彦 1988 永井大介 1989 下重庄三 90 加藤覚 91 加藤覚 92 石本孝幸 93 米重修一 94 小倉幸康 95 大崎栄 96 立花和紀 97 佐保希 98 高尾憲司 99 三木弘※全長86.4㌔ 2000 藤本季也※全長86.4㌔ 2001 藤田敦史 02 坪田智夫(44:57)* 03 坪田智夫 04 佐藤敦之 05 佐藤敦之 06 油谷繁 07 佐藤敦之 08 佐藤敦之 09 佐々木悟 10 岡本直己 11 秋葉啓太 12 高瀬無量/今井正人 13 伊藤正樹 14 野口拓也 15 大石港与 16 山本浩之 17 村山謙太 18 村山謙太 19 服部勇馬 20 村山謙太 21 服部勇馬 22 小野知大 23 青木涼真 24 田中秀幸 *は現行区間の区間記録 表 話 編 歴 1957 岡山典郎 58 大西増夫 59 桜谷嘉彦 60 奥村幸弘※2月開催 60 西条勉※12月開催 1961 増田亮一 62 奥沢善二 63 上岡忠明 64 藤沢修 65 蓬原正嗣 1966 黒木章 67 田中安徳 68 中城幸夫 69 中川衛 1970 佐々木敏治 71 大槻憲一 72 大槻憲一 1973 大槻憲一 74 伊藤国光 75 鎌田俊明 76 鎌田俊明 77 鎌田俊明 78 伊藤国光 79 伊藤国光 80 宗猛 81 伊藤国光 82 鎌田俊明 83 喜多秀喜 84 瀬古利彦 85 ダグラス・ワキウリ 1986 加藤宏純 1988 岩倉和也 1989 工藤一良 90 浦田春生 91 早田俊幸 92 森下広一 93 秋吉慎一 94 佐保希 95 川嶋伸次 96 早田俊幸 97 川嶋伸次 98 ジュリアス・ギタヒ 99 花田勝彦※全長86.4㌔ 2000 ダニエル・ジェンガ※全長86.4㌔ 2001 酒井俊幸 02 松宮祐行 03 徳本一善 04 木村康二 05 重成英彰 06 藤田敦史 07 尾崎輝人 08 池永和樹 09 坪田智夫 10 松宮隆行 2011 阿久津尚二 12 高井和治 13 新田良太郎 14 新田良太郎 15 田中秀幸 16 田中秀幸 17 市田宏 2018 市田宏 19 市田宏 20 小野知大 21 鈴木健吾 22 中山顕 23 羽生拓矢 24 西山雄介(32:59)* *は現行区間の区間記録 表 話 編 歴 不破弘樹 高野進 金井豊 吉田良一 大森重宜 臼井淳一 植田恭史 阪本孝男 高橋卓巳 吉田雅美 溝口和洋 室伏重信 宗茂 宗猛 新宅雅也 瀬古利彦 佐藤恵 福光久代 松井江美 森美乃里 佐々木七恵 増田明美 表 話 編 歴 笠原隆弘 栗原浩司 大沢知宏 高野進 米重修一 阿久津浩三 遠藤司 吉田良一 青戸慎司 山内健次 松原薫 川角博美 小池弘文 臼井淳一 柴田博之 山下訓史 溝口和洋 吉田雅美 新宅永灯至 瀬古利彦 中山竹通 酒井浩文 小坂忠広 松野明美 佐藤恵 松井江美 宮原美佐子 荒木久美 浅井えり子 表 話 編 歴 阿部力 安藤政信 池田鉄洋 石垣佑磨 石原颯也 市村正親 市村優汰 井上祐貴 上田堪大 内田朝陽 及川光博 大石吾朗 大貫勇輔 小野田龍之介 鹿賀丈史 柿澤勇人 加藤レノン 風間晋之介 樫尾篤紀 金子隼也 木村了 桑山隆太 駒木根葵汰 斉藤莉生 澤田大樹 迫田孝也 島村龍乃介 白石隼也 須賀健太 鈴木曉 鈴木一真 鈴木亮平 髙橋颯 田口浩正 竹内涼真 武田真治 田代万里生 橘優輝 妻夫木聡 鶴見辰吾 中尾明慶 西野遼 八村倫太郎 平方元基 日向亘 福澤希空 福山康平 藤田悠 藤原竜也 船越英一郎 古幡亮 前田公輝 松下▽ 松山ケンイチ 間宮啓行 森海哉 矢野聖人 山崎裕太 吉村明宏 リンゼイ尊 渡邉蒼 赤澤巴菜乃 秋山陽南 朝比奈エマ 飛香まい 足立梨花 あびる優 綾瀬はるか 安蘭けい 石田晴香 石橋杏奈 石原さとみ 板野友美 市ノ瀬アオ 伊藤かずえ 井上咲楽 井森美幸 入来茉里 上原りさ 内田奈那 大沢逸美 大島麻衣 大野いと 大堀恵 岡部麟 小田愛結 温泉はずき Girl〈s〉ACTRYの元メンバー
日野麻衣 真凛 河西智美 香椎由宇 片平なぎさ 香音 川口真奈 木南晴夏 木下彩音 吉柳咲良 小南満佑子 酒井彩名 榊原郁恵 櫻井音乃 笹木かおり 笹本玲奈 佐竹桃華 佐津川愛美 佐藤仁美 佐野ひなこ 沢口愛華 SHEILA 清水美依紗 白羽ゆり 鈴原すず 関水渚 染谷有香 高畑充希 竹内カンナ 竹野留里 寺島季咲 戸田菜穂 永島聖羅 中別府葵 新山千春 ハシヤスメ・アツコ 濱田万葉 早川真理恵 比企理恵 平山あや 深田恭子 藤井サチ 藤ゆりな ベック 前川美奈 馬渕英里何 三浦理奈 水崎綾女 宮城弥生 宮崎美穂 宮崎美子 宮迫翠月 宮澤佐江 宮下結衣 美山加恋 安田聖愛 山内鈴蘭 山口百恵 山瀬まみ 山根千佳 山野海 結 優香 優希美青 唯月ふうか 友利恵 ユンソナ 横山愛子 吉田恵美 吉本実由 米倉れいあ RIKO わちみなみ 石井正則 イジリー岡田 伊集院光 さまぁ〜ず
大竹一樹 つぶやきシロー 秋山博康 有村昆 アルモーメン・アブドーラ 飯星景子 家泉あづさ 池谷敏郎 泉房穂 岩井志麻子 岩田明子 宇月田麻裕 江川達也 奥薗壽子 萱野稔人 カン・ハンナ 金慶珠 木村好珠 倉本美津留 軍司貞則 鴻上尚史 春風亭昇々 神保拓也 杉本和隆 高橋浩祐 筒井康隆 Tsukki 坪谷郁子 永井陽右 西川史子 初嶺麿代 パンツェッタ貴久子 パンツェッタ・ジローラモ ピカ子 ピーター・フランクル 藤井清美 藤城清治 本田聖嗣 松あきら 宮尾俊太郎 宮本亞門 村木風海 柳澤秀夫 矢野博康 山岸久朗 湯浅卓 湯川れい子 岩瀬惠子 大坪千夏 垣花正 岸田雪子 清野茂樹 小島麻子 登坂淳一 町亞聖 松井佐祐里 松井康真 松本ともこ 間宮優希 雨宮朋絵 荒井沙織 井口玲音 海附雅美 大坪奈津子 小笠原愛 川口智美 川口満里奈 川田御早希 汾陽麻衣 栗林さみ 栗原美季 小山愛理 小山真理 近藤淳子 貞包みゆき 貞平麻衣子 佐藤弥生 佐藤友紀 白戸ゆめの 須賀由美子 大徳絵里 高橋茉奈 竹内香苗 竹中三佳 田添菜穂子 舘谷春香 田中御早希 田中めぐみ 棚橋麻衣 淡輪ゆき 津田麻莉奈 中村直美 野口綾子 橋永晶子 濱村春香 廣岡まりあ 藤田舞美 淵澤由樹 松尾翠 松澤ネキ 松本真由美 真鍋杏奈 道岡桃子 宮崎瑠依 武藤乃子 八木美佐子 安田美香 山本愛子 吉村民 米田やすみ リアド慈英蘭 新城幸也 荒波翔 伊佐嘉矩 伊藤剛臣 稲本潤一 井上真吾 井上拓真 井上尚弥 今村聖奈 岩本勉 植竹希望 牛渡葉月 大谷翔平 大林素子 緒方良行 角中勝也 風間深志 河合紫乃 川田将雅 菊池雄星 北川博敏 小池祐貴 越川優 Shigekix 瀬古利彦 髙橋尚成 高橋祐治 田口壮 建山義紀 中村真緒 中山麻紀子 仁志敏久 檜木萌 日野龍樹 桧山進次郎 広澤克実 福永祐一 藤田菜七子 本並健治 槙野智章 松澤知加子 松平健太 丸山桂里奈 水内猛 Mr.Woo 三田智子 宮下純一 宮本和知 武藤俊憲 村上佳菜子 横川尚隆 ヨーコ・ゼッターランド 四元奈生美 和田委世子 XANADU loves NHC
小由里 安藤裕子 泉谷しげる 植村花菜(業務提携) 海野雅威(業務提携) edda 岡本知高 桑山哲也 佐藤千亜妃 茂森あゆみ Shiho(Fried Pride) sona 竹野留里 Chilli Beans. TOKU(業務提携) とけた電球 tricot ナノ 南波志帆 はいだしょうこ 821 堀込高樹(KIRINJI) 牧山純子(業務提携) 松浦有希 宮川弾 山崎エリイ yonige RAM WIRE Lilubay ロザリーナ 浪漫革命 和田アキ子 WATWING 南田裕介 伊達杏子 三瓶慶介 以前所属していた人物 Category:過去のホリプロ所属者 代表取締役社長:西尾聖 東ちづる 久保田磨希 今陽子 代表取締役社長:菅井敦 安崎求 阿部丈二 石川禅 大和田伸也 鬼倉龍大 尾美としのり 勝野洋 川口力哉 木場勝己 松原剛志 山田純大 吉田鋼太郎 愛華みれ 愛原実花 あべこ 有馬稲子 岡まゆみ 丘みつ子 片岡京子 栗田よう子 香寿たつき 高橋ひとみ 高山璃子 床嶋佳子 中田喜子 名取裕子 濱田めぐみ 藤田朋子 実咲凜音 泉谷しげる 北大路欣也 坂東巳之助 ファンキー加藤 代表取締役社長:宮原匡彦 安西オサム イマニヤスヒサ 江戸むらさき
うつけもの
中村京平 上田遼馬 大嶋洋介 オキシジェン
田中知史 金澤TKCファクトリー 神谷ウメボシ 河口こうへい 川口英之 観音日和
工藤弘道 橘井と小池
小池将也 きつね
淡路幸誠 きをつけ
マッツ・イブニング 熊ヶ家だんご 号泣
島田秀平 サーカス赤坂 坂本周平 ザ・たっち
かずや さんだる
堀内将人 磁石
永沢たかし ジャッキーちゃん シャンシャン
光達 スピードワゴン
小沢一敬 戦慄のピーカブー
渋木プロテインおやじ そーし タチェット
けんた たむたむ てるしょいサーカス
わっしょい後藤 ドロンコへいや トップガン
早乙女汰一 殿様どんぶり ななめ45°
土谷隼人 下池輝明 X-GUN
さがね正裕 バナナマン
設楽統 パンプキンポテトフライ
山名大貴 ひすいらん
前原涼太 百獣マダム
山口秀秋 フール
久保貴明 ホリ 魔族
サドヤマエス 松田幸起 緑ヶ丘
リョータ 石塚幸太郎 ミーナ
ATSUSHI 無一文ランナーズハイ
中園雄大 妄想テレポート
GOU モリタク! やまかつ よんぶんのさん
三島拓也 渡邊けいすけ 6年黄組
阿部慎也 アイドル鳥越 桜花 危険物てぃらてぃら
ちなてい きのこちゃん クワバタオハラ
小原正子 沙羅 たんぽぽ
白鳥久美子 ハリウリサ まーな マミモンシンテターゼ メルヘン須長 メロディーきみえ チェリー吉武 パシンペロンはやぶさ マック鈴木 三上丈晴 ユーマ 渡辺正行 かつて所属していたタレント 明日光栗栖 睦 石岡剛 出井はるき 瓜生昇 EIKICHI 勝岡信幸 惠介 関口圭二 瀬山修 唯文 DANIEL チャーリィ湯谷 津端清司 TOCO 中臣竜也 西村裕 原靖 HIROHITO 藤本幹夫 前田寛之 萬浪大輔 宮脇雅朗 柳秀雄 LUPIN RAY WEST Izumi 岡戸麻里子 小鹿原琳乃 海野ナル Karin 木寺莉菜 蔵歩実 黒田瑞貴 源崎トモエ Kon 佐々木華奈 菖蒲理乃 高好ヨリ ちはる 長沢美月 中島はるみ 西真理子 西山由 野口秋乃 彦坂桜 藤木美保 MAKI(白石麻樹) マサエ 松浦みなみ まゆみ 森下祐未 由樹 Yun りほ 逢来りん 上原千果 永塚彪聖 大木貢祐 大久保麻梨子 大橋彩香 OOPARTZ 木戸衣吹 京雅 JUVENILE Julie 涼田麗乃 澄川サラ 瀧井楓馬 滝澤嬉子 田所あずさ Teresa 仲谷涼 西園飛鳥 西原華音 二ノ宮ゆい 浩歌 畠山航輔 花澤杏華 松島みのん 松永あかね 実島大喜 May'n Mel yami 百合香 Liyuu RYUICHI 渡邉駿輝 皆藤空良 景井ひな 川島悠希 けんいちろー 小西詠斗 伊達あやの 七瀬恋彩 のぼりもえ 花山瑞貴 水瀬紗彩耶 真波みお 村島未悠 桃衣香帆 湯上響花 Lindow ホリプロ・インプルーブメント・アカデミー ホリプロタレントスカウトキャラバン ホリプロの人物一覧 ホリプロの制作番組一覧 HOP CLUB 目黒笑売塾 ホリ・エージェンシー 天王洲 銀河劇場 U.M.U AWARD 堀威夫
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