佐多稲子の情報(さたいねこ) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐多 稲子さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐多稲子と関係のある人
田島和子: 作家の佐多稲子は伯母にあたる(田島の父親が佐多の実弟)。 丸木俊: 俊と位里は1964年6月に朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、佐藤忠良、野間宏、本郷新、山田勝次郎、宮島義勇、渡部義通とともに党改革の意見書を提出し、翌月に日本共産党を除名される。 壷井栄: この頃、夫の文士活動の影響から林芙美子、平林たい子、佐多稲子、宮本百合子らと親交を持つようになる。 畔柳二美: 1946年(昭和21年)秋頃より佐多稲子との文通を再開、小説の習作を送り指導を仰ぐようになった。 壷井栄: 1936年、佐多稲子に坪田譲治の『風の中の子供』を勧められる。 窪川健造: 愛とおそれと(1980年、TBS)- 実母である作家、佐多稲子の同名小説『愛とおそれと』をドラマ化したもの 梶井基次郎: 8月、「『戦旗』『文藝戦線』七月号創作評」において、基次郎はプロレタリア文学の観念性を批判したが、窪川稲子(佐多稲子)や岩藤雪夫は好評した。 窪川健造: 『墓前に佇ちて ─ 母・佐多稲子の映画往来』(新日本文学 2004年5月号)、のちに論集『佐多稲子と戦後日本』(2005年、七つ森書館刊)に再集録 田島和子: ^ 『佐多稲子全集 18』96ページ 窪川健造: 1930年に文芸評論家の窪川鶴次郎と作家の佐多稲子の長男として生まれる。 佐江衆一: 1953年、中央労働学院文芸科に入学、中野重治、徳永直、佐多稲子等に学び文芸専攻科卒業。 田村俊子: 日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また佐多稲子の夫である窪川鶴次郎との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ上海に渡り、中国語婦人雑誌『女声』を主宰した。 畔柳二美: 女学校在学中から文学に深く親しみ、佐多稲子(当時は窪川稲子)の「キャラメル工場から」に深く感銘を受けファンレターを送ったのが切っ掛けとなって文通が始まり、日本プロレタリア文化連盟(コップ)発行の『働く婦人』を読むように勧められている。 宮本百合子: 1945年11月、宮本、羽仁説子、加藤シヅエ、佐多稲子、山室民子、山本杉、赤松常子、松岡洋子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始。 窪川健造: 『母・佐多稲子を送りて』(中央公論 1999年2月号) 住井すゑ: 櫻本による上掲のインタビューについて、高崎隆治は「佐多稲子をはじめ、林芙美子・吉屋信子・豊田正子・円地文子・真杉静枝など」の女性作家にも戦争協力の過去があるのに、なぜ住井だけを槍玉に挙げたのかと詰り、「同質の多数の中から特定の『一人だけ』を標的にするのは」「いじめ以外のなにものでもない」と非難した。 堀辰雄: 中野や窪川らと駒込神明町(現:文京区本駒込)動坂のカフェ「紅緑」(こうろく)に集まり、当時女給をしていた佐多稲子ともこの頃知り合う。 丸木位里: 位里と俊は1964年6月に朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、佐藤忠良、野間宏、本郷新、山田勝次郎、宮島義勇、渡部義通とともに党改革の意見書を提出し、翌月に日本共産党を除名される。 有田芳生: 提言を依頼したが断った人物として、作家の佐多稲子、哲学者の久野収らをあげ、「以前共産党に攻撃されたことなどを理由に寄稿を断る文化人は多かった。 畔柳二美: けれども文学少女の頃より、ゴーリキーやチェーホフ、あるいはドストエフスキーやゴーゴリのロシア文学や、我が国のプロレタリア文学に親しんだ畔柳が、やはり本当に書きたかったのは佐多稲子が評した「『限りなき困惑』級の作品」だったように信ずる。 加藤シヅエ: 1945年11月、加藤、羽仁説子、宮本百合子、佐多稲子、山室民子、山本杉、赤松常子、松岡洋子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始。 畔柳二美: 連載中から出版社の編集者の目にも留まり、佐多稲子からの口添えもあって1954年(昭和29年)6月に講談社から単行本として出版された。 |
佐多稲子の情報まとめ
佐多 稲子(さた いねこ)さんの誕生日は1904年6月1日です。長崎出身の作家のようです。
離婚、母親、結婚、兄弟、映画、テレビ、ドラマ、事件、現在、再婚、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1998年に亡くなられているようです。
佐多稲子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐多 稲子 - 窪川 稲子(さた いねこ - くぼかわ いねこ、1904年(明治37年)6月1日 - 1998年(平成10年)10月12日)は、日本の小説家である。職を転々としたのち、プロレタリア作家として出発し、日本共産党への入党と除名、窪川鶴次郎との離婚などを経て、戦後も長く活躍した。左翼運動や夫婦関係の中での苦悩を描く自伝的な作品が多い。 1904年に長崎市に生まれる。出生当時、両親はいずれも学生で十代だったため、戸籍上は複雑な経過をたどっていた。母親を結核で亡くし、小学校修了前に一家で上京、稲子は神田のキャラメル工場に勤務する。このときの経験がのちに『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、彼女の出世作となる。上野不忍池の料理屋「清凌亭」の女中になり、芥川龍之介や菊池寛など著名な作家たちと知り合いになる。その後丸善の店員になり、資産家の当主で慶應大学の学生であった 小堀槐三との縁談があり結婚するが、若くして当主となり兄弟間の係争が絶えなかった夫は稲子にも病的な猜疑心を向けるようになり、夫婦ともに精神的に追い詰められた結果二人で自殺を図る。未遂で終わったがその後離婚し、小堀との子である長女葉子を生んで一人で育てる。 最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』同人の、中野重治・堀辰雄たちと知り合い、創作活動をはじめる。1926年、『驢馬』同人の1人で貯金局に勤めていた窪川鶴次郎と結婚する。そのため、最初は窪川稲子の名で作品を発表した。1928年、『キャラメル工場から』を発表し、プロレタリア文学の新しい作家として認められる。1929年にはカフェの女給経験を綴った『レストラン・洛陽』を発表し、川端康成に激賞された。『レストラン・洛陽』の同僚女給「夏江」は伊藤初代がモデルだったが、川端はその奇遇を知らずに選評していた。雑誌『働く婦人』の編集にも携わり、創作活動と文化普及の運動ともに貢献した。1932年には非合法であった日本共産党に入党している。同年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)への弾圧により夫の窪川が逮捕、翌年保釈されたが、1935年にはコップ発行の『働く婦人』の編集発行人であった佐多が逮捕、留置所の中で小説を書き続けた。 プロレタリア文学運動が弾圧により停滞した時代には、夫・窪川の田村俊子との不倫もあって、夫婦関係のありかたを見つめた『くれなゐ』(1936年)を執筆し、長編作家としての力量を示した。しかし、戦争の激化とともに、権力との対抗の姿勢をつらぬくことが困難になり、時流に流されていくようになる。戦場への慰問にも加わり、時流に妥協した作品も執筆した。 1945年5月、窪川と離婚。秋頃から筆名を佐多稲子とする。戦時中の行動が問われて新日本文学会の創立時に発起人にはならなかったが、当初より活躍した。 同年11月、佐多、羽仁説子、加藤シヅエ、宮本百合子、山本杉、赤松常子、松岡洋子、山室民子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始。佐多は綱領を起草した。準備会が重ねられ、1946年3月16日、「婦人民主クラブ」の創立大会が神田共立講堂で行われた。初代委員長には松岡が就いた。 戦後の民主化運動に貢献するも、戦後50年問題、日ソ共産党の関係悪化など日本共産党との関係には苦しみ、とりわけ部分的核実験禁止条約を巡っては、批准に反対していた同党に対し、野間宏らと批判を繰り返していたことから、最終的には除名されるにいたった。佐多の作品には、戦前の経験や活動を描いた『私の東京地図』(1946年)、『歯車』(1958年)があるが、『夜の記憶』(1955年)、『渓流』(1963年)、『塑像』(1966年)など、そうした戦後の共産党とのいきさつを体験に即して描いた作品も多い。 自身の体験に取材した作品以外にも、戦後の女性をめぐるさまざまな問題を作品として描いたものも多く、それらは婦人雑誌や週刊誌などに連載され、映画やテレビドラマになったものもある。 社会的な活動にも積極的に参加し、松川事件の被告の救援に活躍もした。1967年3月、日本社会党の関連団体の財団法人社会新報は翌月の東京都知事選挙に向けて『わが愛する東京―革新都政に期待する』を出版。吉永小百合、淡谷のり子ら著名人27人がそれぞれ都政に対する思いを綴る中で、佐多は明確に美濃部亮吉支持を表明した。 1970年、婦人民主クラブが主流派・反主流派に分裂。除名された反主流派は「婦人民主クラブ再建連絡会」を結成し、主流派は名前を変えずに活動を継続。同年6月、佐多は主流派の婦人民主クラブ(現・ふぇみん婦人民主クラブ)の委員長に就任した。 1985年、樋口一葉の『たけくらべ』の結末で美登利が変貌するのを、初潮が来たからだとする従来の定説に対して、娼婦としての水揚げがあったのではないかと書き、「たけくらべ」論争を引き起こした。現在では一般的に両論併記となっている。なお、この説はすでに窪川鶴次郎も、『東京の散歩道』(1964年、現代教養文庫)で述べていた。 晩年は文学的社会的活動から身を退いて特養ホームで暮らし、1998年、敗血症のため死去。 父・田島正文 ‐ 佐賀の県立中学在学中に18歳で稲子の父となる。三菱重工業長崎造船所で働いたが、1915年に夜逃げ同然で上京、定職がなく困窮し、1917年に兵庫県相生市に転居、翌年稲子を呼び寄せ、1919年再婚。 母・高柳ユキ ‐ 佐賀県立高等女学校在学中の15歳で稲子出産。二児を儲け1906年に正文と入籍するも1911年に肺結核で死去。 叔父・佐田秀実 ‐ 正文の弟。25歳で早世。早稲田大学法科に学び、芸術座 (劇団)にも属した芸術肌の青年で、稲子に影響を与えた。佐多稲子の佐多はこの叔父の姓より取ったもの。 夫・小堀槐三 ‐ 地主・小堀干の三男で嗣子。慶応大在学中の1924年に結婚。資産家だが借金もあり、自身の姉の夫と稲子との関係を疑い、稲子を虐待、1925年に夫婦で心中未遂し離婚。のち保阪潤治の娘と再婚。叔父の岳父に兵頭正懿。 夫・窪川鶴次郎 長女・湊葉子 ‐ 小堀との子 長男・窪川健造 ‐ 映画監督 二女・佐多達枝 ‐ 戦後を代表する振付家の一人 姪・田島和子 ‐ 女優。稲子の実弟・田島正人の娘。 上野「清凌亭」に勤めていた十代のころ、客として現れた芥川を見て、女中仲間に「芥川龍之介だ」と言ったところ、その女中が芥川に「お客さんを知っている者がいる」と話し、個人的な知り合いかと勘違いした芥川が席に呼んだのがきっかけで、顔見知りとなった。芥川は佐多を「お稲さん」と呼んで贔屓にしていた。佐多は粋な縞銘仙に黒襟姿で立ち働くきゃしゃな娘で、仲間うちからは、芥川は佐多に好意を持っているようだと見られていた、芥川が亡くなる4日前には芥川から連絡があって自殺者の心理を聞かれたという。 稲子は当初自発的に執筆活動を始めたのではなかったが、彼女が幼い頃の労働体験を書いた随筆を読んだ中野が小説に仕上げるよう夫の窪川を通じて求め完成した作品が『キャラメル工場から』である。中野は「『くれない』の作者に事よせて」において「一人の女窪川稲子を見つけたのは窪川鶴次郎であるが、そのなかにすぐれた小説家を見だしたのは私であった」と書いている。その後生涯を通じて中野は稲子の盟友であり続けた。中野の逝去後に稲子が執筆した回想録が『夏の栞』である 1929年、雑誌『戦旗』での執筆が縁で、同誌に仕事を持っていた壺井繁治と、その妻栄の夫妻と親交を持つようになる。のちに栄は生活苦もあって雑誌社の懸賞に応募するようになっていくが、その折に彼女の作風を見た稲子は、その素質をプロレタリア文学ではなく娯楽小説、特に児童文学(童話)に向いたものであると気付き、栄に坪田譲治作品を読む事を勧めて童話や一般小説を執筆するように説いた。これによって壺井栄が執筆したのが、彼女の後の商業デビュー作となる「大根の葉」であり、以降、栄は稲子の予見した通り児童文学作家として活躍し、のちに映画化もされた『二十四の瞳』を執筆する。 1962年、『女の宿』により第2回女流文学賞受賞 1972年、『樹影』により第25回野間文芸賞受賞 1976年、『時に佇(た)つ(十一)』により第3回川端康成文学賞受賞 1983年、『夏の栞』により第25回毎日芸術賞受賞 1983年、長年の作家活動による現代文学への貢献により朝日賞受賞 1986年、『月の宴』により第37回読売文学賞(随筆・紀行賞)受賞 『くれなゐ』(中央公論社→新潮文庫、角川文庫、1938年)※窪川稲子名義 『女性の言葉』(高山書院、1940年)※窪川稲子名義 『素足の娘』(新潮社→角川文庫、新潮文庫、1940年)※窪川稲子名義 『女三人』(時代社、1940年)※窪川稲子名義 『美しい人たち』(金星堂、1940年)※窪川稲子名義 『樹々新緑』(新潮社→旺文社文庫、1940年) 『日々の伴侶』(時代社、1941年) 『季節の随筆』(万里閣、1941年) 『心通はむ』(学芸社、1941年) 『扉』(甲鳥書林、1941年) 『夢多き誇』(学芸社、1941年) 『香に匂ふ』(昭森社、1942年) 『女性と文学』(実業之日本社、1943年) 女流作家叢書『気づかざりき』(全国書房、1943年) 『若き妻たち』(葛城書店、1944年) 『牡丹のある家』(あづみ書房、1946年) 『キャラメル工場から』(新興出版社→角川文庫、1946年) 『たたずまひ』(万里閣、1946年) 『旅情』(飛鳥書店、1947年) 『私の長崎地図』(五月書房→講談社文芸文庫、1948年) 『四季の車』(労働文化社、1948年) 『私の東京地図』(新日本文学会→講談社文庫、講談社文芸文庫、1949年) 『開かれた扉』(八雲書店、1949年) 『黄色い煙』(筑摩書房、1954年) 『燃ゆる限り』(筑摩書房、1955年) 『子供の眼』(角川小説新書→角川文庫、1955年) 『夜の記憶』(河出新書、1955年) 『機械のなかの青春』(角川小説新書、1955年) 『みどりの並木路』(新評論社、1955年) 『燃ゆる限り』(筑摩書房、1955年) 『いとしい恋人たち』(文藝春秋新社→角川文庫、1956年) 『智恵の輪』(現代社、1956年) 『舵をわが手に』(東方社、1956年) 『夜を背に昼をおもてに』(東方社、1956年) 『風と青春』(角川小説新書、1956年) 『心の棚』(現代社、1956年) 『ある女の戸籍』(東方社、1956年) 『女の一生』(酒井書店、1956年) 『樹々のさやぎ』(東方社、1957年) 『罪つくり』(現代社、1957年) 『体の中を風が吹く』(大日本雄弁会講談社→角川文庫、新潮文庫、1957年) 『人形と笛』(パトリア→旺文社文庫、1957年) 『佐多稲子作品集』全15巻(筑摩書房、1958年 - 1959年) 『愛とおそれと』(大日本雄弁会講談社→講談社文庫、1958年) 『歯車』(筑摩書房→角川文庫、旺文社文庫、1959年) 『ばあんばあん』(新創社、1959年) 『働く女性の生きかた』(知性社、1959年) 『灰色の午後』(講談社→講談社文芸文庫、1960年) 『振りむいたあなた』(講談社→角川文庫、1961年) 『一つ屋根の下』(中央公論社、1962年) 『夜と昼と』(角川書店、1962年) 『女の宿』(講談社→旺文社文庫、講談社文芸文庫、1963年) 『あねといもうと』(東方社、1963年) 『女茶わん』(三月書房、1963年) 『渓流』(講談社→講談社文庫、1964年) 『生きるということ』(文藝春秋新社、1965年) 『女たち』(講談社、1965年) 『女の道づれ』(講談社、1966年) 『塑像』(講談社、1966年) 『風になじんだ歌』(新潮社、1967年) 『あとに生きる者へ わが心の祈りをこめて』(青春出版社、1969年) 『ひとり歩き』(三月書房、1969年) 『哀れ』(新潮社、1969年) 『重き流れに』(講談社→講談社文庫(2冊に分冊)、1970年) 『樹影』(講談社→講談社文庫、講談社文芸文庫、1972年) 『ひとり旅ふたり旅』(北洋社、1973年) 『ふと聞えた言葉』(講談社、1974年) 『時に佇つ』(河出書房新社→河出文庫、講談社文芸文庫、1976年) 『お水取り』(平凡社カラー新書、1977年)共著:清水公照 『佐多稲子全集』全18巻(講談社、1977年 - 1979年) 『由縁の子』(新潮社、1978年) 『きのうの虹』(毎日新聞社、1978年) 『ひとり旅ふたり旅』(北洋社、1978年) 『遠く近く』(筑摩書房、1979年) 『時と人と私のこと』(講談社、1979年) 『年々の手応え』(講談社、1981年) 『夏の栞 中野重治をおくる』(新潮社→新潮文庫、講談社文芸文庫、1983年) 『年譜の行間』(中央公論社→中公文庫、1983年) 『出会った縁』(講談社、1984年) 『月の宴』(講談社→講談社文芸文庫、1985年) 『小さい山と椿の花』(講談社、1987年) 『思うどち』(講談社、1989年) 『あとや先き』(中央公論社→中公文庫、1993年) 『白と紫 佐多稲子自選短篇集』(学芸書林、1994年) 『キャラメル工場から─佐多稲子傑作短篇集』(ちくま文庫、2024年) 佐久間文子 編 長谷川啓『佐多稲子論』(オリジン出版センター、1992年)ISBN 4-7564-0162-7 北川秋雄『佐多稲子研究』(双文社出版、1993年)ISBN 4-88164-348-7 小林裕子、長谷川啓編『佐多稲子と戦後日本』(七つ森書館、2005年) 杉山直樹『血をわたる』自由国民社、2011年発行、ISBN 978-4-426-10888-5 佐多稲子研究会 編『佐多稲子文学アルバム 凛として立つ』菁柿堂、2013年8月23日。ISBN 978-4434182747。 ^ (文学アルバム) 6 「『驢馬』同人との出会い」冒頭の「初婚から再婚まで」の章に詳しい。また、「別冊婦人公論」編集部の菱田順子とのインタビューをまとめるかたちでつくられた『年譜の行間』(1983年)の「四 結婚、心中未遂、破局」では夫の小堀が「長男が廃嫡、次男は他家へ養子に、そして三男のその人(夫)が当主にな」ったことで「俺は財産の番人にさせられた」と述べていたこと、心中未遂に至る経緯、その後父親のもとに連れられて戻り長女を出産したこと、小堀が迎えに来たが夫の態度が変わっていなかったため離婚を決意したことなどが語られている。 ^ カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「佐多稲子(「我が文学我が回想」1983年8月2日放送から) 」 ^ 佐多稲子「川端さんとの縁」(『近代作家追悼文集成 高橋和巳・志賀直哉・川端康成』)(ゆまに書房、1999年) ^ 川端康成「文芸時評 窪川氏の『レストラン・洛陽』」(文藝春秋 1929年10月号掲載) ^ Obituary: Ineko Sata by James Kirkup, The Independent(Great Britain), 29 October 1998 ^ 『戦後期左翼人士群像』増山太助、つげ書房新社、2000、p279-282 ^ “佐多稲子 | 兵庫ゆかりの作家”. 兵庫県立美術館. 2024年2月16日閲覧。 ^ 『航路二十年』 1967, pp. 11–14. ^ “ふぇみんとは”. ふぇみん婦人民主クラブ. 2024年2月20日閲覧。 ^ 『婦人民主クラブ』 - コトバンク ^ 『全国組織婦人団体名簿』 1981, pp. 2–3. ^ 『わが愛する東京―革新都政に期待する』財団法人社会新報、1967年3月10日。 ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)13頁 ^ 作家佐多稲子が見つめた長崎ナカジン、長崎市 ^ 美しい人佐多稲子の昭和 第2回「彼女の東京地図」①佐久間文子、ART ACCESS、芸術新聞社 ^ 美しい人佐多稲子の昭和 第23回「愛のない不幸な結婚」②佐久間文子、ART ACCESS、芸術新聞社 ^ 佐多稲子の恋愛観野本泰子、Comparatio. 4, pp.82-96, 2000-03-30. 九州大学大学院比較社会文化研究科比較文化研究会 ^ 『人事興信録 第14版 下』1943「保坂潤治」 ^ 『佐多稲子全集 18』96ページ ^ 『わが懐かしき文学者たち』中島和夫、文芸社, 2006 ^ 宇野浩二『文学の三十年』 (文芸選書)福武書店、1983 ^ 旺文社文庫『柿の木のある家』(壺井栄・著、初版1970年)著者年譜より ^ “朝日賞 1971-2000年度”. 朝日新聞社. 2022年9月2日閲覧。 『航路二十年―婦人民主クラブの記録』婦人民主クラブ、1967年11月1日。 婦選会館調査出版部 編『全国組織婦人団体名簿』財団法人婦選会館、1981年8月。 日本の小説家一覧 『佐多稲子』 - コトバンク 佐多稲子 - NHK人物録 表 話 編 歴 第1回
八代目松本幸四郎 間宮芳生 第2回
土門拳 第3回
小林正樹 安川加壽子 第4回
内村直也 八代目坂東三津五郎 第5回
新藤兼人 第6回
三島由紀夫 第7回
市川崑 第8回
滝沢修 岡田謙三 第9回
第10回
茂木草介 東山魁夷 岩田藤七 第11回
平野謙 棟方志功 第12回
山田洋次 第13回
白川義員 第14回
宇野重吉 第15回
第16回
山田五十鈴 第17回
倉本聰 第18回
森繁久彌 第19回
黒川紀章 第20回
飯沢匡 林忠彦 第21回
篠山紀信 前進座 第22回
篠田一士 若杉弘 越路吹雪 第23回
藤原新也 第24回
八代目松本幸四郎 林康子 第25回
朝比奈隆 三代目市川猿之助 磯崎新 第26回
佐々木昭一郎 山本安英 第27回
第28回
安藤忠雄 NHK交響楽団 第29回
深町幸男 第30回
吉田簑助 渥美清 第31回
木下順二 第32回
本多秋五 森光子 第33回
第34回
佐々木昭一郎 山田太一 第35回
松村禎三 橋田壽賀子 第36回
幸田弘子 横尾忠則 第37回
江成常夫 ひょうご舞台芸術「GHETTO」 第38回
小栗康平 黒柳徹子 馬場あき子 第39回
入沢康夫 五代目坂東玉三郎 宮崎駿 第40回
森澄雄 十三代目片岡仁左衛門 第41回
岡井隆 河野多惠子 高倉健 第42回
大島渚 吉永小百合 第43回
麻実れい 鷹羽狩行 第44回
小澤征爾 清岡卓行 第45回
七代目竹本住大夫 第46回
前登志夫 観世栄夫 沼尻竜典 第47回
三木卓 奈良岡朋子 西村朗 李禹煥 第48回
篠弘 司修 二代目中村吉右衛門 篠原有司男 第49回
野田秀樹 平岩弓枝 細江英公 森山良子 第50回
舟越桂 永井路子 七代目尾上菊五郎 石内都 第51回
隈研吾 関正人 辻原登 遠山慶子 金子兜太 第52回
大峯あきら 村上龍 森村泰昌 吉田都 加山雄三 第53回
菊畑茂久馬 津島佑子 豊竹咲大夫 坂茂 由紀さおり 第54回
辰野登恵子 谷村新司 テレビマンユニオン 十代目坂東三津五郎 荒木経惟 第55回
平幹二朗 青木野枝 佐伯一麦 永六輔 第56回
鍵和田秞子 隠崎隆一 船本芳雲 柳家小三治 松浦寿輝 第57回
桐竹勘十郎 庄司紗矢香 菅木志雄 宮城谷昌光 是枝裕和 第58回
河口龍夫 黒沢清 筒井康隆 堤剛 坂本冬美 第59回
遠藤利克 髙村薫 仲川恭司 山路和弘 熊川哲也 第60回
栗木京子 内藤礼 永井愛 宮本輝 大林宣彦 第61回
逢坂剛 草笛光子 佐藤俊介 塩田千春 今野勉 第62回
西澤徹夫 鵜山仁 鴻池朋子 高樹のぶ子 水原紫苑 「半沢直樹」 第63回
皆川博子 下谷洋子 高橋睦郎 三島喜美代 吉野直子 第64回
遠藤彰子 加藤健一 桐野夏生 永田和宏 FAST ISNI VIAF
WorldCat ノルウェー フランス BnF data ドイツ イスラエル アメリカ スウェーデン 日本 チェコ 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research IdRef 20世紀日本の女性著作家 20世紀日本の小説家 20世紀日本の女性ノンフィクション作家 日本の女性小説家 朝日賞受賞者 読売文学賞受賞者 川端康成文学賞受賞者 プロレタリア文学 日本共産党の人物 日本のフェミニスト マルクス主義フェミニスト 日本の社会主義フェミニスト フェミニスト・ライター 長崎県出身の人物 1904年生 1998年没 外部リンクがリンク切れになっている記事/2021年2月 2024/11/16 05:43更新
|
sata ineko
佐多稲子と同じ誕生日6月1日生まれ、同じ長崎出身の人
TOPニュース
佐多稲子と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「佐多稲子」を素材として二次利用しています。